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Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02


2017年は、1957年12月17日に真和志市と那覇市が合併してから60年目の節目にあたります。節目の年を記念して、真和志地域の成り立ち・変遷、歴史・文化等について紹介します。現在の那覇市域は、かつては、那覇市、首里市、小禄村、真和志市の3市1村の行政地域に分かれていました。これらの地域が、1954年9月に首里市・小禄村が那覇市に編入合併をして、「新那覇市」となりました。この時、真和志市は那覇市との合併を見送ったので、「真和志は後回し(まわし)」といわれたものでした。今回の企画展では、当時、沖縄県第二の都市であり、現在では数多くの那覇市民が暮らしているかつての真和志地域の歴史を紹介します。(那覇市歴史博物館)


1904年2月6日、南風原朝光、父朝佐(球陽丸船員) 母(屋我)オトの次男として真和志村字安里に生れる。兄に南風原朝保。南風原家は元は首里大中で、本籍は那覇市松山町2丁目3番地。
1911年4月、南風原朝光、安里尋常高等小学校入学
1915年、南風原朝光、那覇市高橋町2丁目の国吉の貸家に転居。この時の友人に儀保松男がいた。
1917年春、南風原朝光、、崇元寺町1丁目名渡山方に転居。冬、崇元寺町2丁目山里方に転居。
1918年 南風原朝光、嘉手納の沖縄県立第二中学校に入学(1919年4月 退学)台北の兄朝保のところに引取られる。
1919年4月、南風原朝光、県立第二中学校退学。台北で医院を開業せる兄朝保のところへ引き取らる
この頃、南風原一家は真和志村字天久の母オトの弟屋我良行所有の家に転居。
1920年  春、兄の知人で彫刻家の横江嘉純宅に寄寓
1922年  小石川の明正塾に有銘興昭、大嶺詮雄が居たのでよく訪問する。
1923年  5月、有銘興昭の紹介で、青山学院近くの桑田医院に薬局生として住み込む。9月、関東大震災に会う
1924年  夏、有銘興昭、阿波根朝松らと築地小劇場、歌舞伎座などを見てあるく
1926年  日本美術学校入学
1929年  日本美術学校卒業。夏帰省し東京美術学校在学の名度山愛順と、那覇の円山号で「二人展」。東中野の大城皓也の下宿を訪ね、宿泊す。

1940年  豊島区椎名町に居住。


新城栄徳宛の古波蔵さん書簡
1990年、私は沖縄県立図書館で新聞を見ていた。1921年6月の『沖縄日日新聞』でそこに池味幸一という教師が「最後に綴方の自由選題に付いて白楊君に与ふ」を書き児童の成績として尋常6年の古波蔵氏の綴方が取り上げられていた。早速その新聞コピーを古波蔵氏におくった。氏の来信に「ご厚意のおかげで、小生が安里尋常高等小学校(当時は女子師範学校附属小学校)の尋常6年だったころの綴方に出会うことができて、なんとも懐かしい気持ちになっております」と記され末尾で「めったに手紙を書かず、不義理をしてしまうこともよくあるような小生が手紙としては比較的長い文章をさしあげるのは小学校6年だったころの自分に合わせて下さった貴殿への感謝と受取って下さると、幸せです」とある。古波蔵氏の手紙は、他に国吉真哲翁の遺族にあてた手紙のコピーもあるが、これは古波蔵氏の青春時代をよく表している。


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Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02


2017年11月1日~12月23日 立命館大学国際平和ミュージアム1階 中野記念ホール「儀間比呂志版画展ー沖縄への思いー」

2017年11月 立命館大学国際平和ミュージアム 図録『儀間比呂志版画展』新城栄徳「儀間比呂志と関西」

2017年11月 立命館大学国際平和ミュージアム 図録『儀間比呂志版画展』豊見山愛「いま、儀間比呂志の絵と向き合うことの意味」

立命館大学は西園寺公望を「学祖」としている。

1936年12月19日「秘蔵珍品 骨董品物語」〇西園寺公書小幅ー漁家在江口 潮水入柴扉/行客欲投宿 主人猶未歸/竹深村路遠 月出釣船稀/遥見尋砂岸 春風動草衣


2013年11月 金子豊・編『松山王子 尚順 全文集』榕樹書林
 1935年12月『琉球新報』ー「尚順男爵は貴族院時代、西園寺公望公の書を得たいと切望し公の甥高千穂男爵を介して公に申し出たが容易に望みを達しなかった。丁度其の頃大正4年、公が須磨に隠れて居られたことがあった。公は儒者の書が好きで京都の鳩居堂主人、熊谷氏が公の処に出入りしていたが、尚順男爵はこの鳩居堂と懇意であったので、或る時、尚順男爵は詩を鳩居堂に託し折があったら公へ御覧に入れるよう依頼しておいた。公は此の詩を御覧になりそれ程熱心かと云われて小幅を書いてくださった」。尚順と西園寺公との縁はこれで終わらない。尚順の次男尚誠の長女悦子(白光真宏会第二代会長、ワールドピースプレヤーソサエティ代表、公益財団法人五井平和財団会長)は1974年(昭和49年)10月18日、西園寺不二男次男の西園寺裕夫との結婚に伴い、西園寺昌美となる。


新川明氏、儀間さん/福地さん、墨絵画家の金城美智子さん、儀間さん


儀間さん、平良次子さん/儀間さん、新垣安雄氏





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儀間さんと、野原さん/新川明氏、石野朝季氏(右)

1960年1月『オキナワグラフ』「僕は特派員ー石野朝季(琉球新報東京総局記者)、植木清直(琉球放送東京支社)、宮城直温(沖縄テレビ放送東京支社編成部)、遠山一平(琉球新報関西支局記者)、新川明(沖縄タイムス関西支社記者)、島袋俊一(沖縄タイムス鹿児島支局記者)、新田卓磨(琉球新報福岡支局記者)

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Category: 02-関西の沖縄
Posted by: ryubun02
 1158年 太宰大弐に任ぜられた平清盛は、太宰府に赴任することはなかったが、宋商船が運んでくる唐物に強い興味を抱き、やがて宋人を太宰府から瀬戸内海へと招いた。
☆神戸の灘の薬師さんの傍らで長年「国語」の研究に専念していた奥里将建翁、最後のまとめとして1964年「沖縄に君臨した平家」を沖縄タイムスに連載(10-8~12-11)した。□10月11日ー『沖縄タイムス』奥里将建「沖縄に君臨した平家」(4)怪傑・平清盛をして天寿を全うさせ、彼が抱いていた南宋貿易の夢を実現させ、中世日本の様相はすっかり一変していたかも知れない。(略)戦後のわが歴史学界において、清盛に対する評価が大分改まって来たのも、彼の経綸と人間的魅力を高く買って来たために外ならない」→「琉文21」雑誌『おきなわ』/1926年4月ー奥里将建『琉球人の見た古事記と萬葉』青山書店

1167年 平清盛、太政大臣となる

写真ー重要文化財本堂 昭和大修営落慶記念  昭和四十四年五月十八日 六波羅蜜寺
六波羅蜜寺は、天暦5年(951)醍醐天皇第二皇子光勝空也上人により開創された西国第17番の札所である。当時京都に流行した悪疫退散のため、上人自ら十一面観音像を刻み、御仏を車に安置して市中を曵き回り、青竹を八葉の蓮片の如く割り茶を立て、中へ小梅干と結昆布を入れ仏前に献じた茶を病者に授け、歓喜踊躍しつつ念仏を唱えてついに病魔を鎮められたという。(現在も皇服茶として伝わり、正月三日間授与している)
 現存する空也上人の祈願文によると、応和3年8月(963)諸方の名僧600名を請じ、金字大般若経を浄写、転読し、夜には五大文字を灯じ大萬灯会を行って諸堂の落慶供養を盛大に営んだ。これが当寺の起こりである。上人没後、高弟の中信上人によりその規模増大し、荘厳華麗な天台別院として栄えた。平安後期、平忠盛が当寺内の塔頭に軍勢を止めてより、清盛・重盛に至り、広大な境域内には権勢を誇る平家一門の邸館が栄え、その数5200余りに及んだ。寿永2年(1183)平家没落の時兵火を受け、諸堂は類焼し、独り本堂のみ焼失を免れた。
 源平両氏の興亡、北条・足利と続く時代の兵火の中心ともなった当寺はその変遷も甚だしいが、源頼朝、足利義詮による再興修復をはじめ火災に遭うたびに修復され、豊臣秀吉もまた大仏建立の際、本堂を補修し現在の向拝を附設、寺領70石を安堵した。徳川代々将軍も朱印を加えられた。現本堂は貞治2年(1363)の修営であり、明治以降荒廃していたが、昭和44年(1969)開創1,000年を記念して解体修理が行われ、丹の色も鮮やかに絢爛と当時の姿をしのばせている。なお、解体修理の際、創建当時のものと思われる梵字、三鈷、独鈷模様の瓦をはじめ、今昔物語、山槐記等に記載されている泥塔8,000基が出土した。重要文化財の質、量において文字どおり藤原、鎌倉期の宝庫と謂われる所以である。

1260年 英祖王、即位
      ☆麦門冬・末吉安恭は「琉球画人伝」の中で、この時代を「仏教の起源と芸術の揺籃」と称す       補陀落僧禅鑑、葦軽船で琉球に漂着、英祖王保護のもと極楽寺(のち龍福寺)を創建
1281年 島津長久ら薩摩国の兵を率いて壱岐にて元軍を攻める。
1372年 1月、楊載、来琉
1377年 琉球国王察度、南山王承察度ら明に使者を遣わし馬、方物を貢す。北山王帕尼芝、明に使         者、方物を貢す。頼重法印(真言宗)、薩摩坊津から来琉。
1402年 足利義満、島津伊久に明を侵す鎮西海賊の取締を命ず。
       明使が北山第に足利義満を訪ね国書・大統暦、賜物を伝える。
1404年  時中、来琉し武寧に皮弁冠服が頒賜される。
1406年 武寧、寨官の子石達魯ら6人を明に遣わし国子監に学ばせる。
1410年 琉球国官生模都古ら2人、明の国子監に入り学を受ける。
1413年 中山王思紹、太勃奇を明に遣わし馬を貢し、寨官の子ウ同志久・周魯毎らを送り国子監で学ばせる
1415年 琉球国山南王汪応祖の世子他魯らを明朝に遣わす。足利義持、琉球国思紹に「りうきう国よ        のぬし」で書簡を送る。
1418年 琉球国中山王思紹、長史の懐機らを明に遣わす
1425年 柴山(中官)来琉、勅を齎らし巴志に中山王を嗣がせる。「中山門」扁額を掲げる。

1427年 安国山樹華木之記碑

右ー沖縄県公文書館玄関にある安国山樹華木之記□首里王城の威容を増し、合わせて遊息の地とするため、王城の外の安国山に池(龍潭)を掘り、台を築き、松柏・花木を植え、太平の世のシンボルとして永遠の記念とする。

1429年 巴志、三山統一 
1430年 巴志、明帝から尚姓を授けられる
1443年 朝鮮通信使の書状官として申叔舟が来日
1453年 朝鮮国、琉球国使者道安の齎らした日本琉球地図表装
1456年 尚泰久王、梵鐘を鋳造し大聖寺、天尊殿、相国寺、普門寺、建善寺、長寿寺、天竜寺、広厳        寺、報恩寺、大安寺に寄進
1457年 尚泰久王、梵鐘を鋳造し霊応寺、永福寺、大禅寺、上天妃宮、天妃宮、竜翔寺、潮音寺、万       寿寺、魏古(越来)に寄進
1458年 尚泰久王、万国津梁の鐘を正殿にかける。
  
  万国津梁の鐘(沖縄県立博物館・美術館)

1466年 琉球国王尚徳の使者芥隠承琥、足利義政に拝謁、方物を献ず。
       □7月28日ー琉球の使者一行が将軍・足利義政に謁見、方物も献上する。
        8月1日ー琉球正使・芥隠西堂から蔭涼軒(季瓊)真蘂に大軸(中国から琉球国王に贈られ        たもの)、南蛮酒を贈る。(義政時代6度目の琉球人参洛)。
    
1480年 足利幕府、応仁・文明の乱が終わったので琉球に朝貢船を送るよう島津忠昌に催促させる。
→足利将軍家の菩提寺「等持院」には歴代足利将軍の木像(肖像彫刻)がある。

1467年 雪舟、応仁元年に遣明船で明へ渡航。各地を廻り、約2年間本格的な水墨画に触れ、研究し       た。天童山景徳禅寺では「四明天童山第一座」の称号を得る。→ウィキ

雪舟が描いた琉球人

『自治おきなわ』1996年7月号に私(新城栄徳)は「京都の博物館で『国々人物図巻』を見たことがある。明に渡った雪舟が北京の街で見かけた珍しい人びとを写生したものを弟子が模写したもので、その中に世界の海を駆け回ったイメージに重なる琉球人像がある。」と書いた。明代の類書『万金不求人』に和寇図と共に大琉球國人も載っている。長崎県立美術博物館の正保版『万国人物図』にも琉球人が登場している。多くの絵師たちが好んで万国人物図を画題にしていたようだ。私は雪舟の弟子の絵の写真(琉球人)を琉球新報の岡田輝雄記者に提供。これは1991年9月発行の『新琉球史』(古琉球編)に載った。同様に佐久田繁月刊沖縄社長に提供したものは99年9月発行の『琉球王国の歴史』に載った。

「大沢文庫と沖縄<7>」□袋中上人は、当時伏見で掛川の城主松平隠岐守定勝の特別の帰依をうけて師権の契約を結んでいるが、その嫡子越中守定綱は後の松平定信であるが、将軍秀忠に随従して特別の信頼を受けて名声がたかかった。時の京都所司代板倉重宗を上人に紹介して特信者としたのもこの定綱である。京都所司代の権威は、当時京都御所ににらみをきかせて他に並ぶものがなかったのである。(略)夢にも考えていなかった上人との対面の機会を与えられて、尚寧王はこれが現実かとばかり感涙し歓喜したことであろう。→1966年12月10日『琉球新報』大島彦信(浄土宗名越大本山円通寺住職)「
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元沖縄都ホテル社長の桑原守也さん、京都西方寺の袋中上人(エイサーの祖)手植えの蘇鉄を前に(新城栄徳撮影) 1994年7月21日、桑原守也さんと連れ立って京都西方寺を訪ねる。住職の北村有信師としばし歓談。頂いた名刺には「うずまさ悟真寺、山城田辺・西方寺、自然幼稚園」とあった。


沖縄県立博物館・美術館 会場:企画展示室(3階)平成24年1月25日(水)~2月19日(日)
京都・檀王法林寺開創400年記念 琉球と袋中上人展―エイサーの起源をたどる―」
袋中上人(1552~1639)が京都に檀王法林寺を開創したのは、琉球から帰国後5年を経た慶長16年(1611)のことでした。本年で同寺は開創400年にあたります。袋中上人は仏教研究のため中国・明に渡ろうと試みましたが、豊臣秀吉の朝鮮侵略後間もない時期であったため、これを果たせませんでした。そこで、上人はルソンを経て琉球に上陸し、3年間の月日をこの琉球の地で過ごしました。その間、上人は琉球で浄土念仏の教化につとめ、尚寧王の帰依を受け、帰国後は『琉球神道記』『琉球往来』などを著しました。今日その著作は、古琉球の宗教世界や当時の風俗習慣などの文化を知る上で貴重になっています。本展覧会では、檀王法林寺開創400年を記念し、琉球に浄土念仏を広め、エイサーを伝えたといわれる袋中上人の事蹟を現存する文化財資料などを通して紹介します。

1634年 佐敷(王子)朝益、金武王子朝貞、玉城らを上洛させ、閏7月9日京都二条城で3代将軍徳川家光に謁見、代替りを祝賀させたのが始まり(次回から江戸参府)。→江戸上りは第1回目の1634年から最後の1850年まで、200年あまりの間に18回実施されている。琉球と江戸の往復には、およそ1年前後を要した。一行は琉球から薩摩を経て伏見までを船で、伏見からは美濃路(第7回までは鈴鹿路)・東海道を経由して江戸までを徒歩で移動した。季節風を考慮して初夏に琉球を出発、準備を整えて秋に薩摩を出て、江戸で冬を過ごしたのち、翌春にようやく琉球へ戻るという旅程であった。江戸上りの一行や琉球そのものを紹介するいろいろな出版物が広く世間に出回るようになり、行列の構成・服装等が描かれた墨摺りの瓦版や多色刷りの錦絵は、行列を見物する際のパンフレットの役割を果たした。また一方で、当時の知識人が琉球の地誌・風俗を詳しく記した書物も刊行された。→琉球大学

1870年、回漕会社が東京-大阪間に定期航路を開設し、赤龍丸、貫効丸などが就航した。翌年の7月、廃藩置県が断行され琉球は鹿児島県の管轄となった。この年、のちの琉球処分官・松田道之は滋賀県令に就任。1872年9月に琉球藩が設置されると川崎正蔵も戸籍寮の根本茂樹らと来琉し沖縄物産調査を行った。川崎は「日琉間に郵便定期航路を開き、武断政策よりも経済交流で琉球を日本に依存させよ」と主張して前島密に認められた。

1870年□名妓小三-鳥取藩士松田道之と祇園下河原の大和屋お里との間に、ぎん(鈴木小三)が生まれる。

写真ー名妓小三
1872年、川崎正蔵は大蔵省の命で琉球物産調査に赴き「経済交流で琉球を日本に依存させよ」と主張して前島に認められて日本政府郵便蒸気船会社の副頭取に就任し、琉球との郵便航路を開設。73年には海軍大佐柳楢悦らが測量で来琉した。川崎は後に川崎造船所を興し神戸又新日報社、神戸新聞社に関わる。郵便報知は後に報知新聞となり読売新聞と合併する。 

1875年9月、日本国郵便蒸気汽船会社解散にともない明治政府は大有丸を琉球藩に下付。11月、郵便汽船三菱会社が琉球航路を開始した。

1876年8月27日の『朝野新聞』に「沖縄は他県からの商人50人、陸軍省派遣の職工138人、女性1人」と報じられた。同年、『球陽』の書き継ぎが終わっている。

1879年3月、松田道之琉球処分官が、後藤敬臣ら内務官僚42人、警部巡査160人余(中に天王寺公園に銅像がある後の大阪市長・池上四郎も居た)、熊本鎮台分遣隊400人をともない来琉し琉球藩を解体、沖縄県を設置した。この時、内務省で琉球処分事務を担当したのが西村捨三であった


1879年5月4日 京都『西京新聞』「琉球ばなし」

1879-5-27 藩王尚泰、東海丸で東京向け那覇港出帆(6-4神戸で2泊)

1880年6月に、郵便汽船三菱会社の貫効丸が琉球、鹿児島・大島、神戸間を運航をはじめた。翌1881年3月に東京上野で開催の第二回内国勧業博覧会に沖縄からも織物、陶器、漆器が出品された。

1881年5月18日に上杉茂憲が沖縄県令として赴任してきた。7月の大阪『朝日新聞』に「沖縄県泡盛酒」の広告が載った。翌1882年の『朝日新聞』の3月「首里城が陸軍省所轄永世保存城と定まる」の記事、6月には「琉球カスリ-西平筑登之」の広告も載った。


1882年11月16日、第1回沖縄県費留学生の大田朝敷、謝花昇、岸本賀昌、高嶺朝教、今帰仁朝蕃が那覇港から平安丸で上京、29日には神戸に寄っている。
1883年4月に岩村通俊が沖縄県令として赴任した。12月には西村捨三が沖縄県令となる。

1884年2月6日、大阪中之島の自由亭で尚典新婚帰郷の饗応に岩村通俊、西村捨三、建野郷三らが参加した。3月12日に大阪西区立売堀に鹿児島沖縄産糖売捌所が設立された。5月12日には大阪北区富島町で大阪商船会社が開業。8月、尚泰侯爵、西村捨三と同行し大有丸で那覇港に着く。→1996年6月『大阪春秋』堀田暁生「自由亭ホテルの創業ー大阪最初のホテルー」

1885年2月、尚泰侯爵、西村捨三と同行し金毘羅宮①参詣。西村は中井弘(櫻洲山人)滋賀県令と計り尚泰に近江八景遊覧にさそう。8月には元彦根藩士で西村と同士であった横内扶が沖縄県七等属として赴任する。9月、郵便汽船三菱会社、共同運輸会社と合併し日本郵船会社となる。1886年3月、山県有朋内務大臣、益田孝、西村捨三らと同行し来沖。


写真ー西村捨三
生年: 天保14.7.29 (1843.8.24) 没年: 明治41.1.14 (1908)
明治期の官僚。父は彦根藩(滋賀県)作事奉行西村又治郎,母は貞。幼君井伊愛麿(直憲)に仕え,藩校弘道館に学んだのち同館国学方教授長野義言(主膳)の推薦を得て藩命により江戸に留学,塩谷宕陰に学んだ。この留学中の放蕩に対し,父が幼名の得三郎を捨三に改めると訓戒したのが名の由来。のち一代限騎馬徒士,藩校教授となる。その間京都周旋方として情報収集に当たり,大政奉還後は朝旨遵奉という藩の方針の下で東山道征討に参加した。明治5(1872)年旧藩主直憲に従い欧米を視察,10年内務省に出仕し,警保局長,土木局長などを歴任した。22年大阪府知事に転じ淀川改修,上水道整備に尽力し,次いで農商務次官のとき平安神宮創建に参画。大阪築港にも貢献した。
(コトバンク・長井純市)


①ことひら‐ぐう 【金刀比羅宮】
香川県仲多度(なかたど)郡琴平(ことひら)町にある神社。祭神は大物主神を主神とし、崇徳天皇を配祀(はいし)。海上安全の守護神として信仰される。明治初頭までは神仏習合で、象頭山(ぞうずさん)金毘羅(こんぴら)大権現と称した。琴平神社。こんぴらさん。→コトバンク


写真ー尚泰

1887年2月、森有礼文部大臣が来沖した。6月、尚家資本の広運社が設立され球陽丸を那覇-神戸間に運航させる。11月に伊藤博文総理大臣、大山巌陸軍大臣が軍艦で画家の山本芳翠、漢詩人の森槐南を同行して来沖した。1888年4月に大阪西区立売堀南通5丁目に琉球物産会社「丸一大阪支店」を設置する。9月18日に丸岡莞爾が沖縄県知事として赴任。10月には塙忠雄(塙保己一曾孫)が沖縄県属として赴任した。

1887年6月、尚家資本の広運社が設立され球陽丸を那覇-神戸間に運航させる。1888年4月に大阪西区立売堀南通5丁目に琉球物産会社「丸一大阪支店」を設置する。9月18日に丸岡莞爾が沖縄県知事として赴任。10月には塙忠雄(塙保己一曾孫)が沖縄県属として赴任した。


1889年12月11日『大阪朝日新聞』「琉球の和歌」

1893年、寺内某が来沖し、料理屋「東家」の協力を得て沖縄芝居の俳優らを雇い関西興行をなす(7月・大阪角座、8月・京都祇園座、9月・名古屋千歳座)。俳優のひとり真栄平房春は病没し大阪上町の了性寺に葬られた。9月15日に『琉球新報』が創刊された。発起人代表が尚順で、護得久朝惟、高嶺朝教、豊見城盛和、芝原佐一(京都出身、京都名産会社経営)、野間五造(岡山県出身、後に衆議院議員)は主筆、宮井悦之輔(元京都養蚕会社支配人、後に大阪の興信社に勤める)、大田朝敷、伊奈訓(新潟出身、県庁役人)、諸見里朝鴻の以上のメンバーで発足した。

京都『日出新聞』は「琉球新報-混沌たる暗黒の幕を破りて五百余万の王民に対し閃山一道光燈来の光景を与へんと期する琉球新報は本月十五日を以って第一号を発刊せり紙幅体裁固より内地の発達したる諸新聞紙に比すべくもあらざれど邦人をして琉球に於ける政治社会経済上の事実を知らしめ沖縄県民をして旧慣陋習を破り文明の空気に触れしむるの機関として裨益する処少なからざるべし発行所は那覇西村百二十三番地にして隔日刊行する由」と報じた。

1893年9月22日『日出新聞』           


芝原佐一資料

□琉球新報創刊を報じたヤマトの新聞を見ることにする。9月15日の『東京朝日新聞』に「琉球新報の発刊-琉球新報は日刊として沖縄県那覇より本日十五日初号を発刊することとなり主任は同地名族護得久朝惟、高嶺朝教両氏(共に久しく慶応義塾に留学せし人)又東京にても岸本賀昌、今西恒太郎の両氏は同社の成立に尽力せりと」。同日に『時事新報』『郵便報知新聞』『毎日新聞』も同じように報じた。

1893年、京都で平安神宮の地鎮祭が行われ西村捨三が記念祭協賛会を代表し会員への挨拶の中で尚泰侯爵の金毘羅宮参詣時の和歌「海山の広き景色を占め置いて神の心や楽しかるらん」を紹介し、平安神宮建設に尚家から五百圓の寄附があったことも報告された。ちなみにこの時の平安神宮建築技師が伊東忠太であった。同年12月に平尾喜一が父喜三郎と母ハルエの間に生まれた。喜一は後に琉球新報社長となる。

1893(明治26)年ー大阪道頓堀角座で琉球太鼓踊り
□1893年7月『歌舞伎新報』「琉球芝居ー沖縄県琉球には昔より音楽師と称えて一種の歌舞を演奏するもの士族の間に伝えられ居たるところ去る明治22年中いづれも俳優の鑑札を受けて我が役者の如きものとなり其の組5組もあるよしにてこのたび其の一組が大阪角の芝居へ乗り込むことに決定し既に去る2日を以って那覇港を解覧し本日ごろは遅くも到着したる手筈なるがー」


「琉球国演劇」の横断幕があるのが角座。下が角座で配られたもの nullnull
□沖縄芝居ー明治26年に大阪・京都・名古屋で公演
1991年1月、池宮正治琉大教授と電話での話で大阪の新聞で沖縄関係を調べているとの話をすると、それなら芸能、特に渡嘉敷守良の芝居も心がけて見てくれと示唆された。それで見当をつけて中之島図書館で大阪朝日新聞、大阪毎日新聞を、京都府総合資料館で日出新聞、名古屋では扶桑新聞をめくると次々と沖縄芝居の記事が出てきた。国会図書館にも行き雑誌も見た。

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Posted by: ryubun02


「沖縄文庫」/ 左が新城栄徳、平良幸春氏(日展会友)
会場内の沖縄文庫で沖縄本を販売する新城栄徳。いつも岡本太郎の太陽の塔を見ながら、民博はまだできていない。/このときの陶器コーナーではシーサー造りの名人・島常賀翁と、陶芸家で駆け出しの平良幸春氏とは一緒に陶芸の用具や釉薬などの材料の店、常賀翁のシーサー造りを2カ月以上観てきた。常賀翁の三線模合仲間の宮城美能留(宮城 稔)沖縄歌舞団団長の宿泊先のホテルに、一緒に見舞いに行った。



『青い海』1974年5月号「大沖縄展3/23~6/2」

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1952年7月21日『球陽新報』「1周年記念祝賀行事ー第三部 島晴美先生」/1974年ーエキスポランド「大沖縄展」案内パンフ(表紙の踊りは島晴美さんの娘)


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Category: 02-関西の沖縄
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1980年6月 雑誌『青い海』94号 「広告ー岡本太郎の世界ー芸術は爆発だ。-」

1980年7月 沖縄山形屋設立30周年記念『芸術は爆発だー岡本太郎の世界』


宮﨑義敬『繚乱の人』展望社よりーサントリー美術館で中央に平良リヱ子、左に森政三、右に岡本太郎、鎌倉芳太郎,金井喜久子、矢野克子が並ぶ

『新沖縄文学』と岡本太郎
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超タイフー「タロウ」オキナワに上陸か


山田實撮影1963-浜田庄司と豊平良顕/1966-岡本太郎

2008年4月ー川崎市市民ミュージアム「オキナワ/カワサキー二つの地をつなぐ人と文化」展
□ごあいさつ・川崎市には戦前から多くの沖縄出身者が在住し、川崎市の産業発展の一翼を担われてきました。大正13(1924)年の発足から84年という長い歴史を有し、戦後すぐから沖縄芸能の保存にも大きく貢献してきました。

川崎市出身の陶芸家・濱田庄司や詩人・佐藤惣之助などは、沖縄の文化と深い関わりを持ったことが知られています。濱田庄司は、自身の作風を確立する上で、沖縄の壺屋の焼物だけでなく、沖縄の風土・生活様式から大きな影響を受けました。佐藤惣之助も沖縄に魅せられた一人で、「おもろさうし」などに刺激され、詩集を出版しています。戦後には、岡本太郎が占領下の沖縄を訪れ、その文化と伝統に触れて強い衝撃を受けています。このように、川崎と沖縄のつながりはきわめて深いものがあり、市民ミュージアムにも壺屋焼の陶器や琉球政府から贈られた石敢当などの沖縄関連資料が収蔵されています。 

そこで本展では、沖縄と川崎、この二つの地のつながりをテーマに、沖縄の伝統的な芸術文化を伝える資料と、それらに影響を受けて創造された美術工芸品などを紹介します。琉球文化の美と魅力に触れていただき、人々の手で長年にわたり築きあげられてきた沖縄と川崎の絆を感じ取っていただけば幸いです。  川崎市市民ミュージアム

□川崎市出身の芸術家と沖縄・佐藤惣之助と沖縄/濱田庄司と沖縄/岡田青慶と沖縄/岡信孝と沖縄/岡本太郎と沖縄
□川崎の工場と沖縄県出身労働者
1966年1月10日ー『琉球新報』「川崎市でビル火災ー沖縄出身者4人が焼死」
1968年1月5日ー『毎日グラフ』「本土の中の沖縄(南風サークル/大城真栄/普久原朝喜/金城良明)」「万国博へ全力投球(岡本太郎「抵抗あるものを」)」
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1969年12月30日ー『沖縄タイムス』真栄田義見「古江亮仁(川崎民家園長)氏と語る」
1983年2月10日ー『琉球新報』「川崎の沖縄県人 70年の歩みー2年がかりで完成」、11日ー『沖縄タイムス』「県人の苦難の歴史綴る『七十年の歩み』出版」
1983年8月1日ー『沖縄タイムス』「川崎沖縄青少年京浜会館」「川崎沖縄県人会」
1984年2月11日ー『琉球新報』福地嚝昭「女工哀史(関東大震災)ー富士瓦斯紡績川崎工場の名簿について」
1984年
10月19・20日ー川崎市立労働会館で川崎市制60周年記念「全国地名シンポジウム」開かれる。□谷川健一/仲松弥秀対談「沖縄地名の特色」、山下欣一「奄美のシャーマニズム」、宮田登「ミロク信仰と黒潮」
10月26日ー『琉球新報』「黒潮の流れに沿って 南島と本土の交流史探る」、『沖縄タイムス』「黒潮の流れに沿って沖縄・奄美と川崎結ぶ」「話題ー古江亮仁さんー1957年には県人の古波津英興氏とはかって沖縄文化同好会を作る。月一回、東恩納寛惇(歴史)、比嘉春潮(同)、仲原善忠(同)、芹沢圭介(紅型)、濱田庄司(陶芸)、柳悦孝(織物)等々多彩な沖縄研究者を講師に文化の灯をともした。土地問題で沖縄の大衆運動が燃えていた。」

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Category: 04-書の森
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2013年11月2日~12月8日 沖縄県立博物館・美術館「京都 清水寺展」

平良知二文化の杜代表挨拶/安里進3代目館長挨拶


右から安里進館長、宮城竹寅氏、森清範貫主、根立研介氏、町田宗浩氏、平良知二文化の杜代表/右から宮城篤正氏、上江洲均氏、粟国恭子さん


清水寺貫主・森清範師によるご揮毫

右ー2013年11月3日ー末吉麦門冬の孫。石垣米子さん

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Category: 04-書の森
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→「京都古書研究会ブログ・京都古書研究会には、「京古本や往来」という機関誌がありました。
100号持ちまして、休刊となっております。現在は2008年より、新機関紙「出帆」がでております。」

京都の「古書展」

 『文藝春秋』1988年6月 多田道太郎「猛獣使い・桑原武夫の死 『蒼白きインテリ』が大嫌いだった先生」

 桑原武夫文庫/郷里敦賀市の敦賀市立図書館の館内には、桑原の胸像が建てられている。京都市右京中央図書館には「桑原武夫コーナー」が設けられ、生前に使用していた机や椅子、直筆のノートが展示されている。旧蔵書のうち、特に学術的価値の高いものは生前に京都大学に寄贈され、人文科学研究所図書室に「桑原武夫文庫」(1047冊)が設けられている。没後、京都市国際交流会館開設(1989年)に合わせ、1988年に蔵書約1万冊(古典名著の全集類、フランス語の哲学書籍などを含む)が京都市に寄贈された。国際交流会館には生前の書斎を再現した記念室が設けられ、旧蔵書は一般公開されていた。2008年、右京中央図書館の開設に伴い、桑原の記念室は同館に移されることとなったが、旧蔵書は京都市図書館全体の蔵書との重複が多いとして正式な登録がなされず、また保管スペースがないとして別の図書館の倉庫に移された上、2015年に廃棄処分された(遺族にも相談はなかった)。2017年にこのことが判明、廃棄を承認した担当部長の処分とともに公表された。→ウィキ

 桑原武夫1904-1988 昭和時代のフランス文学者,評論家。明治37年5月10日生まれ。桑原隲蔵(じつぞう)の次男。アランやスタンダールの研究・翻訳,俳句第二芸術論で知られる。昭和23年京大人文科学研究所教授。のち所長として「ルソー研究」「フランス革命の研究」などの共同研究を推進。33年チョゴリザ遠征隊長をつとめるなど,多方面で活躍。54年文化功労者。62年文化勲章。昭和63年4月10日死去。83歳。福井県出身。京都帝大卒。著作に「文学入門」「人間素描」など。【格言など】私は「これ一筋」というのが嫌い →コトバンク

 「くろねこの短語」2017年4月28日ー北朝鮮危機ほったらかしでGWは外遊三昧の政治屋集団&共謀罪でジャーナリスト・メディア関係者が記者会見。後は行動あるのみ。街に出ろ、ジャーナリスト諸君!仏文学者の桑原武夫の遺族が京都市に寄贈した蔵書1万冊が、なんとまあ廃棄されていたってね。廃棄に至った過程で、誰も止めなかったってのは、いかにこの国が文化財に対して無頓着かってことだ。おそらく、蔵書の中には書き込みなんかもあっただろうし、それこそ文化遺産として貴重なもんだったろうになあ。古書にちょいと携わる身としては、やんぬるかなな悲報ではある。

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Category: 99-未分類
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2004年5月1日『沖縄タイムス』新城栄徳「書評/原田禹雄『琉球を守護する神』榕樹書林


原田禹雄氏と筆跡


山下欣一氏宛の原田禹雄氏ハガキ

平成23年3月 ノートルダム清心女子大学生活文化研究所(岡山市)『生活文化研究所年報』第24輯 松本祐子編「原田禹雄文庫目録(詩歌関係)」
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平成25年3月 ノートルダム清心女子大学生活文化研究所(岡山市)『生活文化研究所年報』第26輯 松本祐子編「原田禹雄文庫目録(詩歌関係)Ⅱ」


2017年 原田禹雄『歌集・沙羅雙樹』南島社


沖縄「説法獅子吼・兵戈無用 Tシャツ」□「天下和順(てんげわじゅん) 日月清明(にちがつしょうみょう) 風雨以時(ふううにじ) 災厲不起(さいれいふき)  国豊民安(こくふみんあん) 兵戈無用(ひょうがむよう)」(『仏説無量寿経(ぶっせつ むりょうじゅきょう)』)(天下和順し日月清明なり。風雨ときをもってし、災厲起こらず、国豊かに民安くして兵戈用いることなし。)


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1982年5月 沖縄の雑誌『青い海』113号 末次智「おもろさうしを読む㊶『あきみよのとまり』考」


2017年3月 末次智『世礼国男と沖縄学の時代ー琉球古典の探究者たち』森話社/1922年2月 世礼国男詩集『阿旦のかげ』曙光詩社

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末次 智資料(左に見えるのが世禮國男著作リスト)
SUETSUGU Satoshi
京都精華大学人文学部教授。 総合人文学科 日本・アジア文化コース 専門分野 琉球国文化 経歴・業績
立命館大学大学院文学研究科日本文学専攻博士後期課程単位取得。奄美・沖縄の文化、とくに琉球王国の文化専攻。著書に『琉球の王権と神話』、『琉球宮廷歌謡論』、論文に「Cocco論序説、あるいは、ウタの始まり」、「身体の楽譜」等。最近は、ヒトの「身体」と世界観に関心がある。

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2017年11月10日『沖縄の軌跡』第174号 編集発行人・島袋和幸(葛飾区四ツ木4-18-10 携帯090-4920-6952)


2017年11月4日ー『琉球新報』『沖縄タイムス』

島袋和幸氏〔検見川事件現場〕/安田浩一氏〔虐殺事件の今日的問題〕

写真左よりー安田浩一氏、平良肇氏、島袋和幸氏、長嶺福信氏
2017年11月3日13:00 なは市民活動支援センター第三会議室「〔検見川事件を語る会〕学習会」


『サンデー毎日』2017ー9-24 安田浩一「小池都知事は虐殺の事実を否定するのか!」

2017年10月 朝日新聞出版『一冊の本』安田浩一「沖縄の右派と〔プロ市民〕7 人々を虐殺に向かわた回路」
安田 浩一(やすだ こういち、1964年(昭和39年)9月28日 - )は日本のジャーナリスト。日本労働組合総評議会(総評)系の機関誌『労働情報』編集委員。静岡県出身。千葉県在住。慶應義塾大学経済学部卒業。伊豆半島の温泉地帯に生まれた。日本経済新聞など様々な新聞社、出版社の記者を経て『週刊宝石』の記者だった1999年(平成11年)前後に、同誌にて創価学会の批判記事を書いていた。『サンデー毎日』時代は名誉毀損で訴えられ、証言台に立った。→ウィキ
2014年9月 佐野眞一『あんぽん 孫正義伝』小学館文庫 解説・安田浩一


 1959年6月30日午前10時40分頃に、アメリカ空軍のノースアメリカンF100Dジェット戦闘機が操縦不能となり、パイロットのジョンシュミット大尉は空中で脱出、機体は民家35棟をなぎ倒した後、石川市にある宮森小学校(現うるま市立宮森小学校)のトタン屋根校舎に衝突、さらに隣のコンクリート校舎を直撃し、炎上した。事故による火災は1時間後に鎮火したが、死者17人(小学生11人、一般住民6人)、重軽傷者210人、校舎3棟を始め民家27棟、公民館1棟が全焼、校舎2棟と民家8棟が半焼する大惨事となった。→ウィキ

宮森小学校の中庭には、犠牲となった児童らを慰霊する「仲良し地蔵」が設置されており、毎年6月30日に児童らによる追悼式が行われている。


11-5 名嘉幸照氏と金城実氏(後ろ向き)/名嘉幸照氏と金城実氏
【琉球新報電子版】2016-1-14
沖縄の魅力を県内外にPRする県の「美ら島沖縄大使」に、原発メンテナンス業者、東北エンタープライズ会長の名嘉幸照さん(74)が就任した。安慶田光男副知事が14日、県庁で認証状を交付した。
 名嘉さんは伊是名村出身で、福島県いわき市に在住している。原発技術者として、福島第1原発の運転開始直後から業務に携わってきた。福島沖縄県人会の前会長(現在顧問)、WUB東京会員として、福島と沖縄をつなぐ交流事業に関わり、東日本大震災後には福島から沖縄に避難した人たちとの交流や情報交換を行っている。名嘉さんは「基地問題などで苦しむ沖縄と原発問題を抱える福島には多くの共通点と共感がある。両県がこれまで以上に交流を深められるよう尽力したい」と抱負を語った。


残波岬公園にある残波大獅子(金城実作)の前で/11-6 出版舎 Muɡenで、島袋和幸氏と上間常道氏

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左ー写真、左が佐々木公子さん、名嘉幸照氏

2017年10月28日 『沖縄の軌跡』173号 編集発行人・島袋和幸(葛飾区四ツ木4-18-10 携帯090-4920-6952


2017年9月10日 『沖縄の軌跡』172号 編集発行人・島袋和幸(葛飾区四ツ木4-18-10 携帯090-4920-6952)


2016年7月21日『沖縄タイムス』島袋和幸「検見川事件の真相 関東大震災~沖縄県民の虐殺」

東京/島袋和幸(葛飾区四ツ木4-18-10 携帯090-4920-6952)

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 『琉球新報』11月2日ー沖縄県の那覇市おもろまちに開館して10周年を迎えた沖縄県立博物館・美術館(田名真之館長)の記念イベントが1日、同館で開催された。特別展「海の沖縄」「彷徨の海」の開会式が開かれたほか、記念式典では同館の愛称「OkiMu(おきみゅー)」と、マスコットキャラクター「おきみゅーちゃん」が公表された。関係者らは文化や芸術の振興をけん引してきた功績を振り返り、今後の発展を誓った。(略)同館によると10年間の総来館者数は約450万人。田名館長は「アジアへ広く目を向けた展示会を展開したい」と語った。