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Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02

1976年7月 沖縄の雑誌『青い海』通巻55号 榮喜久元「蛇身の美しい男と女の恋」

蘇鉄/榮喜久元『蘇鉄のすべて』
2004年1月31日『沖縄タイムス』新城栄徳(書評)ー榮喜久元『蘇鉄のすべて』南方新社/琉球学の巨人・東恩納寛惇の史料ノート(1926年)に蘇鉄極楽と題し「昔は『蘇鉄世』と云う語があった。金はあっても食いものがなかったのである」「蘇鉄地獄と云うのは食いものはあっても金のない事を意味する」と記されている。題からして寛惇は蘇鉄地獄の名称がお気に召さなかったようである。

『鹿児島大百科事典』で「蘇鉄(奄美)」を見ると榮喜久元氏が書いている。私は1970年前後に収集し今でも手元にある『与論島の民謡と生活』『奄美大島与論島の民俗』の著者として榮氏の名前は知っていた。

本書は『南海日日新聞』に連載したもので前記の著書でも蘇鉄については触れられている。榮氏は与論島で生まれている。そして「蘇鉄は島の生活のなかで大切なものです。いつしか(略)蘇鉄が地球上にあらわれた時代はいつであるか、ということも知りたいと思うようになりました」と本書を書き出している。国内の蘇鉄の巨木、蘇鉄の名前の語源、方言や、蘇鉄を素材にした文芸から民謡、蘇鉄の精虫、蘇鉄葉の輸出、「ソテツ地獄」などを面白く紹介している。

□栄喜久元
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1960年10月ー『与論島の民謡と生活』/1964年12月ー『奄美大島 与論島の民俗』

2012年3月30日ー沖縄県立博物館・美術館「田中一村展ー琉球弧で開花した美の世界」
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田中一村の絵によく蘇鉄が描き込まれている。一村の蘇鉄の絵は幻想的というか神秘的でもある。

私の故郷・粟国島は「ソテツの島」とも言われている。『奄美郷土研究会会報』第34号の徳冨重成論文には蘇鉄が「与論島には粟国島から、多良間島には慶良間から移植されたという伝承がある」と紹介されている。那覇市久茂地で「居酒屋ひさみ」の経営かたわら「世界のソテツを守る会」を主宰する玉寄貞夫さんは粟国島の先輩でもある。その居酒屋で佐竹利子さんを紹介された。
佐竹さんは精米機・製粉機メーカー「サタケ」の代表者。父君の佐竹利彦は『植物研究雑誌』に「ソテツの変異株」などを発表するソテツ博士である。


2017年5月4日『沖縄タイムス』「ソテツ新たな活用に光」

那覇市資料館の川満洋子さんに「蘇鉄」を検索してもらうと「ソテツ」「そてつ」を合わせて1万5百件もある。本書はその大量の蘇鉄情報への案内書、または埋め立てなどの環境破壊の波が押し寄せている「琉球弧」への過去からの問いにもなっている。

1914年1月ー横山健堂『薩摩と琉球』中央書院

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新聞屋(出版屋、雑誌屋、通信社など)
 総会屋とブラックジャーナリストの中間に位置し、内容の無い新聞や雑誌を発行して、購読料・広告代の名目で利益を得ようとする者。このため総会に出席しない者も多い。ただ新聞ダイジェストだけの季刊雑誌が多い中、『現代の眼』(木島力也)、『創』(小早川茂)、『流動』(倉林公夫)、『日本読書新聞』(末期、上野国雄)、『新雑誌X』(丸山実)など、月刊誌や業界紙として比較的知名度が高く、一般書店で扱われたものも存在し、『イエローペーパー』と総称された。これらの雑誌では、編集内容と総会屋活動とを別個としていた場合もあり、今日のジャーナリズムや文壇で活躍する人間でも、若い頃はこの手の雑誌で働き糊口をしのいでいた人間も少なくない。(→ウィキペディア)
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左下に森脇将光のサイン入りの本がある。その側・久保祐三郎『総会屋五十年』評論新聞社,

森脇将光 もりわき-まさみつ
1900-1991 昭和時代の金融業者。
明治33年1月17日生まれ。10日に1割(トイチ)の高利金融で,昭和23年度長者番付1位。田中彰治議員とともに政財界の裏面で暗躍し,「森脇メモ」で29年の造船疑獄事件に火をつけた。40年の吹原産業事件により恐喝未遂,脱税などで懲役5年。平成3年6月2日死去。91歳。島根県出身。慶大中退。(→コトバンク)

ぞうせん-ぎごく ざう― 【造船疑獄】
1953年(昭和28)から翌年にかけて起こった、海運・造船会社と政府・与党との間の贈収賄をめぐる疑獄事件。多数の自由党政治家が取り調べを受けたが、犬養健法相の指揮権発動により幹事長佐藤栄作に対する逮捕要求が阻まれ、事件は核心に触れずに終わった。これにより第五次吉田内閣は崩壊した。(三省堂大辞林)

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1984年6月『新沖縄文学』60号 上里賢一「現実を直視する文学ー黄春明『さようなら・再見』の背景」


1985年6月 沖縄の雑誌『青い海』142号 上里賢一「中国の旅ー沖縄から見る中国」/143号「香港ー東西の接点」/144号「中華料理はなぜうまいか」/145号「中国の酒の味と色」

2018年2月23日ー左より山里純一氏、上里賢一氏、宮城修氏/2015年ー左から真栄里泰山氏、上里賢一氏(日中友好協会沖縄県支部長)、岡本厚氏(岩波書店社長)、仲本和彦氏


上里賢一の本

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1981年9月 沖縄の雑誌『青い海』106号 西里喜行「琉中友好を考えるー沖縄・中国交流史をふまえて」

2018年2月23日 沖縄かりゆしアーバンリゾート・ナハ「第35回東恩納寛惇賞 西里喜行氏 贈呈式 祝賀会」

富田琉球新報社社長から賞を贈呈される西里喜行氏/西里喜行氏記念講演「歴代法案と向き合って五十年」

真栄里泰山氏(全国竹富島文化協会副理事長)乾杯の音頭/玉城流煌扇会 舞踊「加那よー天川」

富田詢一氏、伊佐眞一氏/左から外間政明氏、上原善氏、田里修氏

八重山舞踊勤王流あやねの会 舞踊「鷲ぬ鳥節」 / 左より山里純一氏、上里賢一氏、宮城修氏

池宮正治氏・勝子夫人 大城将保氏、大城学氏、真栄里泰山氏/池宮正治氏・勝子夫人 大城学氏、真栄里泰山氏、新城栄徳


新城栄徳、西里喜行氏/左から久部良和子さん、高良由加利さん、伊佐眞一氏、宮城修氏

右から西里喜行氏、小野まさ子さん、前田舟子さん/右から大浜郁子さん、西里喜行氏、真栄里泰山氏


来間泰男氏、普久原均氏
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土田杏村 つちだ-きょうそん
1891-1934 大正-昭和時代前期の思想家,評論家。佐渡郡新穂村(現佐渡市新穂)に生まれる。
明治24年1月15日生まれ。土田麦僊(ばくせん)の弟。田中王堂,西田幾多郎(きたろう)にまなぶ。日本文化学院をつくり,長野,新潟の自由大学運動を援助する。マルクス主義批判の立場をとり河上肇(はじめ)と論争した。昭和9年4月25日死去。44歳。新潟県出身。京都帝大卒。本名は茂(つとむ)。著作に「文明思潮と新哲学」など。
【格言など】歴史の進展は自由でもあれば,また必然でもある(「人間論」)→コトバンク



1921年7月22日ー土田杏村、バートランド・ラッセルと都ホテルで会談。22日ー杏村、ラッセルを知恩院などを案内。24日、杏村、東上するラッセルを京都駅で見送る。

1925年5月ー土田杏村『自由教育論』内外出版。6月ー『自由大学雑誌』土田杏村「社会史学の方法論に於ける二大先覚者」


1929年10月ー土田杏村『草煙心境』第一書房
豚の膀胱
私の前に一つの幻想が浮かぶ。一年のどん詰りだ。内地なら寒くって仕方のない時だが、ここは琉球だから寒さで不自由をする必要はない。お正月の餅を搗く音がどの家からも聞こえて来る、-というと大変都合はよいけれども、琉球では肉を吉事に使い、餅を凶事に使うから、餅搗きの音などはどこからも聞こえはしない。

子供が数人駆けてきた。見ると銘々が同じ恰好の空気袋を持っている。提灯のようにも見えるが、その作りは断じて紙ではない。が、またゴム毬にしては、少しぢぢむさいところのその色を怪しむ。
  「俺いらの家のはこれだよ。
  「俺いらのはこれさ。
  「やい俺いらのが一番でっかいや。
なるほどその子供の持っている袋は、おそらくは乳なしで育ったこの子の不自然にでっかい頭よりも、もっと大きい恰好をしている。そこで子供は余程ご機嫌で、袋の首のところをしっかり握り、刀のような具合に身構えてほかの子供の袋とポンポン打ち合い、更に高く頭の上へそれをさし上げては、「萬歳!」と叫んだのである。ほかの子供は見るからに打ち萎れ、またその空気袋の空気もいつの間にかだいぶ漏れたと見えて、袋は皺だらけになり拳の上へ倒れかけた。

この空気袋は一体なにか。ここまでしゃべってさて話を落とすとしたら余っぽど間が抜ける。標題にちゃんと「豚の膀胱」と書いて置いた。それにしても子供が、豚の膀胱のような詰まらないものを誇り合う心理だけは、文明人の我々にちょっと解せない。が、古琉球では豚を飼養したからとてそれを皆んな食うわけではない。豚は他へ売る商品であって、自家で食う食料ではないのだ。ただ一年に僅か一度の例外、それがこの大晦日の豚屠りだ。屠られた豚の肉の大部分は鹽漬けにされ、その大事な「予算」の中から次年度の体力が小出しに生み出される。大きい豚を惜しげもなく屠る家が富んだ家なのはいうまでもない。


1931年11月ー土田杏村『道徳改造論』第一書房null

1932年7月ー土田杏村『文学理論』第一書房

1949年5月ー土田杏村『唯物史観の根本批判』富士書店

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1982年10月 宮城栄昌『琉球使者の江戸上り』第一書房○琉球王国で江戸上りまたは江戸立ちというのは、将軍の襲職時(代替わり時)に慶賀使(賀慶使)を、国王の襲職時(即位時)に謝恩使(恩謝使)を江戸に派遣することであった。1609年(慶長14)薩摩の侵略を受けて敗北した結果強要されたもので、襲職・襲封時に「城下之盟」を新たにする儀礼であった。その点では中国への慶賀使・進貢使、薩摩への上国使とならんで、琉球王国の独立維持にかかわる重大な外交事項であった。


宮城栄昌の本


1987年2月 横山學『琉球国使節渡来の研究』吉川弘文館


1996年6月3日『沖縄タイムス』「江戸上り・史跡探索の旅」



2006年10月  福山市鞆の浦歴史民俗資料館『知られざる琉球使節~国際都市・鞆の浦~』

2009年10月 沖縄県立博物館・美術館『薩摩の琉球侵攻四〇〇年 琉球使節、江戸へ行く!~琉球慶賀使・謝恩使一行2、000キロの旅絵巻~』
●展示構成
 プロローグ 琉球使節のすがた~ガイドブックに描かれた使節たち
今回の展示の主役となる、琉球から江戸へ派遣された琉球使節のようすについて、大和で出版されたガイドブックに描かれた使節たちの絵を展示します。

第1章 琉球使節の旅
1609年の薩摩による琉球侵攻以降、薩摩の支配下に置かれた琉球は、薩摩藩主に伴われて徳川将軍への使節派遣を行いました。使節の目的は、徳川将軍や琉球国王の代替わりに対するあいさつを行うことでした。琉球から約2,000!)にわたる江戸への長旅では、宿や馬の提供や見物人など使節を迎える様々な人々がいました。一方、使節の中には長旅の途中で亡くなる者もいました。ここでは、琉球使節たちの旅をたどり、それに関わる各地のすがたを紹介します。

第2章 琉球使節、将軍と会う
江戸に到着した後、琉球使節たちは旅の最大の目的である徳川将軍への謁見に臨みました。江戸城には演奏隊による路次楽を奏でながら行列を組んで登城し、将軍へのあいさつを行います。また使節は江戸滞在中、当初は日光東照宮、のちには上野東照宮への参拝を行っていました。
    
第3章 「江戸上り」へのまなざし
約1年にわたる琉球使節たちの旅では、琉球から将軍や大和の各地に贈答品を贈り、文化的な交流や情報交換を行いながら、「異国」・「文化的に優れた」琉球の存在をアピールしていました。一方、大和の各地では琉球使節たちへの関心は高く、そのことは使節に関する様々な書物の出版や、知識人たちの琉球や中国に関する情報収集などに如実に現れています。ここでは、琉球使節の江戸参府をめぐって、琉球側と大和側の視点を紹介します。


第4章 小国家・琉球王国の戦略~自立を模索して~
江戸へ派遣した琉球使節を送り出した琉球王国は、薩摩や幕府および中国との関係を保ちつつ、自らの立場の維持を図る一方、大和や中国の文化情報を受容しながら、独自の琉球文化を形成していきました。ここでは、大国にとりまかれながらも、政治的・文化的な戦略から自国の生き残りを図った琉球のすがたを紹介します。


鄭元偉(鄭嘉訓次子/1842年の儀衛正・伊計親雲上)

向邦棟(真壁里之子朝賀/1842年の楽童子)

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 「くろねこの短語」2018年4月9日ー(前略)ところで、昨日の京都府知事選挙は、自民、立憲、希望、公明、民進の5党相乗りの候補が当選。立憲民主も何やってんだか。こんなんだから投票率も35%という惨めなものになっちゃうんだよね。にしても、この低投票率にあって共産党の候補が前回比で10万票も票を伸ばしたのはとても大きな意味がある。立憲民主もこうした有権者の動向をしっかり分析して対処していかないと、民進党の二の舞になますよ。

 「くろねこの短語」2018年4月8日ー(前略)そもそも、市長の挨拶中にトイレに行ってたなんて、それだけで無礼なことなんだね。それが、実は嘘だったってバレちゃったんだから、こりゃあ謝罪だけじゃすまんだろう。そもそも、この親方の居丈高で傲慢な立ち居振る舞いとヤクザまがいの風貌は、それこそが相撲協会の体質そのものなんだね。ま、何があっても相撲協会は変わりようがないことだけは確かだ。
 そんなことより、シュレッダー佐川君に責任おっかぶせることに奔走している理財局長の茶坊主・太田君だ。なんとまあ、森友文書改竄を「官邸に報告したり了承を受けることはない」って官邸の関与を全否定していたはずなのに、実は去年の2月22日に「菅義偉官房長官に官邸に呼ばれ、国有地売却の経緯などについて説明していたことがバレちゃいました。
 バレちゃったきっかけというのが自らがした「財務省で説明を主としてやったのは(佐川)理財局長だが、随行として当時の理財局総務課長、当時大臣官房総括審議官も同席している。官房長官側は官房長官と担当の秘書官」という答弁で、なんと大臣官房総括審議官ってのは自分のことだったというから大笑いなのだ。

  「くろねこの短語」2018年3月28日「安倍総理からの指示はありませんでしたね」ルーピー丸川君の語尾を「ね」で念押しする誘導尋問で始まった昨日の証人喚問。それを聞いた瞬間、もう結果は見えていたんだね。ようするに、ペテン総理と私人の嫁、ひょっとこ麻生たちの関与を否定すること。そして、それ以外はすべて「刑事訴追の恐れがある」で逃げ切りを図るってのが、ペテン政権のストーリーだったんだね。
 「自身が捜査対象であることなどを理由に改ざんの動機を語ることは拒否するも、安倍首相、昭恵夫人、麻生財務相らの関与だけは完全否定している」ってロイターのグローバル版が伝えている通りってわけだ。とは言え、ペテン総理以下の関与を否定すればすれば、その他のディテールについては齟齬も出てくるんだね。たとえば、国有地売却時の理財局長でもないのに、ペテン総理や私人の嫁の関与はないって言い切っちゃってることだ。そのくせ、当時の理財局長である迫田君から売却についてヒアリングしていないとさ。だったらなんでペテン総理と私人の嫁の関与はないって言い切れるのってなると、「刑事訴追の恐れ」って黄門の印籠でかわそうとするんだね。
 証人喚問の一字一句をじっくり読み解くと、けっこう破綻しているところがあって、考えようによっては国会を愚弄している発言が多々あることがわかる。国会を愚弄するってことは、一般大衆労働者諸君を馬鹿にしているっとことで、文書改竄とあわせてこれはもう国家公務員としてサイテーの野郎だってことがわかろうというものだ。ていうか、こういうモラルの欠如は「人」としてもどうなのよってレベルなんだね。
 土建政治の自民党幹事長・二階君は「首相をはじめ、政治家の関わりが焦点だったが、幸いにしてなかったことが明白になった」なんて寝ぼけたこと言ってるようだが、これって何の証拠も示してないよね。確か、「100万円貰った」って籠池前理事長が証言した時には「証拠出せ」って言ってなかったか? つまりはそういうことだ。
 とにもかくにも、いますべきことは一般大衆労働者諸君のひとりひとりが、自らの頭で証人喚問の仔細をじっくりと読み解くこと。メディアの報道、特にTVはどうしたってバイアスかかってますからね。何事も新聞・TVまかせにせずに、自らの頭で考える。その絶好の機会と思えば、昨日の証人喚問は大きな意味があるというものだ。最後に、シュレッダー佐川君の補佐人を務めた弁護士は、過去にドリル小渕君の政治資金規正法違反や布袋頭・甘利君のあっせん法違反を担当したヤメ検だそうで、なんだペテン総理とズブズブか。

「くろねこの短語」2018年3月27日-答えに窮して肩落とす太田理財局長の絶体絶命&今井秘書官の名前に動揺するペテン総理&「妻がどう答えたのか、どう考えたかについては全て私が答えている。総理大臣の責任として極めて重い答弁をさせていただいている」(安倍晋三)
 シュレッダー佐川君の証人喚問を前に、昨日の国会はなかなか香ばしい答弁があったようで、なかでも核心を突く質問で理財局長の茶坊主・太田君を追い詰めた立憲民主のカリアゲ福山君はお見事。シュレッダー佐川君の答弁との整合性をとるために文書改竄したという財務省の主張がグラリと崩れたんですからね。去年の3月2日のシュレッダー佐川君は改竄前の文書がありながら嘘の答弁したんじゃないかと迫られて、「分からないので明確にお答えするのは避けます」とガックリ肩を落としちまいました。
 これはとても重要な視点で、いつから改竄が始まったのかってことを詰めていくと、結局はペテン総理の「関与してたら総理も議員も辞めます」発言がきさかけだったってことに行き着くんだね。これは証人喚問の大きな焦点であることは間違いない。
 さらに、ペテン総理の狼狽振りもなかなか注目に値するものだった。森友学園疑獄の影の主役とも噂されている今井とかいう首相秘書官の名前が出た時に、かなりシビアな反応しちゃいました。この秘書官はペテン総理の大阪行きに同行して、その後に近畿財務局と会ってるんだね。そこで国有地払い下げについて話し合われたんじゃないかと以前から囁かれていた。この時には、公明党幹部の冬柴君の店で食事もしている。で、冬柴君の息子は当時某金融機関に勤めていて、なぜかその金融機関から森友学園への融資が決まったりしてるんだね。公明党が森友学園疑獄と距離を置こうとしているのは、こんな噂話を聞くとなるほどなあと納得したくもなろうというものだ。
・森友疑惑の本丸はやっぱり“影の総理”か! 安倍首相が今井尚哉・首相秘書官の大阪での行動を追及されて異常な狼狽
 でもって、ペテン総理は私人の嫁の国会招致を質されて、「妻がどう答えたのか、どう考えたかについては全て私が答えている。総理大臣の責任として極めて重い答弁をさせていただいている」ってほざいちゃいました。いつまでこんなふざけた答弁させとくのかねえ。「妻がこう言ってました」なんてのは何の証拠能力もないんだからさあ。ペテン総理の答弁聞いてると「総理大臣が言うことは正しい」って言ってるようなもんなんだね。こんな答弁には「ふざんけんじゃねえ」と一喝してやれ!
 もうひとつ、ペテン総理はこんな答弁もしている。なんと私人の嫁が名誉校長に就任したのは「学園の信頼性を高める。妻もそのように理解していた」からなんだと。これって「昭恵氏が首相夫人の立場や影響力を意識して、学園側に協力したことを認める内容」だよね。なんだ関与を認めちゃってるじゃないか。

「くろねこの短語」2018年3月17日ー(前略)なかでも、悲惨なのはひょっとこ麻生で、何も考えずに好き勝手言い放題だったツケが回ってきちまって、過去の発言をあげつらって追求されるもんだから、答えに窮したあげくに、切れちまいました。なんとまあ、「やかましいなあ」「聞きたい? 答弁」だとさ。その時の目つきの悪いこと。ほとんどヤクザです。ていうか、こやつの場合、そもそもヤクザが政治家やってるようなものだから、ついつい地が出ちゃったってことなのだろう。
 さらに、記者会見では、シュレッダー佐川君への聞き取りは行われているのかと質問されて、「知らねえなあ」ときたもんだ。もうねえ、呆れ果てて、こちらが言葉を失います。こなんでどうやって職務を全うするってんだろう。舐めるのもいいかげにしやがれ!!

  「くろねこの短語」2018年3月16日ー改竄前の文書が残っているのを知ったのは11日だってペテンもひょっとこもぬかしてたんだが、なんのことはない6日には報告を受けていたのがバレちゃいました。それでも、顔も頭も貧相な官房長官・菅君は「そういう可能性があるということだから問題ない」ってほざいとまりす。ふざけんじゃないよね。問題があるかないかは主権者たる一般大衆労働者諸君が決めることだ。
 誰がどう考えたって、文書改竄はペテン夫婦を守るための仕業なんであって、状況証拠は真っ黒けのけなんだね。政治家ってのは法に触れなければ何やってもいいってことはなくて、極めて高度な社会性、倫理観、道徳観ってのを要求されるものなのだ。だから、森友学園疑獄を振り返れば、そもそもペテン総理の私人の嫁が教育勅語を信奉する小学校の名誉校長だったという1点でアウトってことだ。土地の取引には関わっていないから問題はないなんてのは、それこそ盗人猛々しい言い訳に過ぎない。
 なんてったって、担当職員が死んでるんだからね。そして、遺書には「書き換えさせられた」「自分ひとりの責任にされる」と記されていたんだからね。さらに、もうひとり自殺した職員がいることもわかっている。文書改竄との因果関係はさだかではないとは言うものの、このタイミングでの自殺ですからね。まったくモーマンタイなんてことはあるわきゃない。
 昨日のエントリーに書いた行方不明の官房長はどうやら無事だったようだが、「風邪をひいていた」って言い訳はどうも怪しい。ひょっとしたら、因果含めるために軟禁されていたんじゃないの・・・妄想だけど。それにしても、職員の死だけでも、内閣辞職ものってことを、この際、しっかりと認識した方がいい。
財務省2人目の死者 安倍首相、佐川局長の答弁書作成係長
 ところで、前文部次官の前川氏が名古屋市内の中学校で講師として授業をしたことに、文科省が圧力かけてきたってね。どんな内容の授業だったのか根掘り葉掘り問い合せたあげく、天下り問題で引責辞任しただの、出会い系バーに出入りしていただの、人格批判までしたそうだ。録音テープの提供まで要求したってんだが、拒否した中学はアッパレです。
 これって、教育基本法の「不当な支配」に当たるのは明らかだろう。ペテン政権になってからというもの、財務省しかり、文部省しかりで、官僚はどんどん政権の手先になっているってことだ。
 最後に、加計学園でも文書改竄があったそうで、それも含めてここまで書き連ねてきたニュースは、すべてNHKが民放に先駆けて報道している。かなり風向きが変わってきたってことか。ここはちょいと押えておきたい。


3月16日『しんぶん赤旗』「こんなに ある『森友』&昭恵氏 深い関係」/「『東京⇆沖縄 池袋モンパルナスとニシムイ美術村』展」

 「くろねこの短語」2018年3月15日ー(前略)でもって、シュレッダー佐川君を晒し者にするために、自民党は渋々ながら証人喚問を認めたってね。おそらく、「訴追の恐れがあるので喋れません」を連発するんだろうね。そう言い含められてるに決まってます。少しでも公僕としての良心が残っていれば、国会で洗いざらいぶちまけるってこともあるだろうが、ま、期待するだけ無駄ってものか。
 それでも、「訴追の恐れがあるので喋れません」って言い募れば言い募るほど、今度は「昭恵を出せ!」って世論が高まってくることは間違いない。新聞・TVも、このところ「昭恵」の名前を連呼してますからね。イタリアに栄転した私人の嫁付きだった職員による財務省への働きかけを記録した文書なんてのが出てきたら、シュレッダー佐川君ひとりの仕業なんてシナリオはすぐ崩れるわけで、財務省からいつリークがあるか興味津々なのだ。


2018年3月14日『しんぶん赤旗』「森友疑惑ー発端は維新の松井大阪府政の認可適当」

  「くろねこの短語」2018年3月12日ー(前略)「麻生財務相の会見をテレビで見てて本当に腹が立ちました。このままでは、死人に口なしで一人だけが悪者にされてしまう。洗いざらい全部、真相を明らかにしてほしい」
 ってコメントしてるほどですからね。遺書はいくつかの新聞や週刊紙にも郵送されていたなんて噂話もあるようだし、かなり具体的な改竄の経緯が記されているとされる遺書が明らかになったら、その時こそペテン総理とその私人の嫁の一巻の終わりってことになるのかもしれない。いや、そうなってほしいと思う今日この頃なのだ。

2018年3月10日ー佐川国税庁昇進の時から織り込まれていた引責辞任劇 昇進して処分減給 辞任でも退職金、年金は十分で、収支はとんとん 再就職はほとぼりが冷めてからということ。 安倍昭恵のやらかした不始末を隠しで 籠池夫妻の長期拘留し、言われて処理した担当職員は自殺という痛ましさ エリート財務省公務員もこれでは安倍政権のポチ、やりきれないはず 
誰がそういうシナリオを立案し実行しているのか 内閣官房の薄気味悪さが募る安倍政権 成長戦略、異次元の金融緩和、働かせ改革などなどのアベノミクスはすべてが破綻する中で 国難を言い募り、軍事大国化をめざして憲法改正に狂奔する やっちまえー というクーデターの長州史観を信条とする安倍晋三 そのハチャメチャ政権の失敗の尻拭いが国民に迫る

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Posted by: ryubun02

板橋区立美術館「東京⇆沖縄 池袋モンパルナスとニシムイ美術村」を報じた新聞、『芸術新潮』(弘中智子さん提供)


撮影・屋良朝信氏

2018年2月24日(土)~4月15日(日) 20世紀検証シリーズ No.6 東京⇆沖縄 池袋


図録『東京⇆沖縄 池袋モンパルナスとニシムイ美術村』共同通信社

1931年  山元恵一、沖縄県立第二中学校卒業 同期生ー西村菊雄、八木明徳、山田有勝、又吉康哉、南風原英佳、与那原良規
 1986年8月7日『沖縄タイムス』〇本土通信/文化人のたまり場ー東京・いけぶくろの「みやらび」再開発でビル取り壊し。池袋西口・北口で知られる沖縄飲み屋は初代店主が文化人だったのが特徴。焼け跡から出発して最も古い「おもろ」の故南風原英佳さんは早稲田大学を出た日本経済新聞社記者上がり。つづく「さんご」は川端画学校出身の崎原当保さん。やや遅れて1953年開店の「みやらび」はやはり早稲田大学出身、戦前沖縄毎日新聞役員もした音楽家の故川田松夫さん。舞踊家で沖縄芝居に新劇を取り入れる試みもした人。三店とも初期は詩人山之口貘、伊波南哲、画家南風原朝光、末吉安久さんら今は故人の名物男を中心に、大正リベラリズムの申し子のような草野心平、金子光晴、喜多村知、内堀勉、小館善四郎ら、詩人、国画・春陽会など在野展の画家や知識人が米支配下の沖縄をしのぶたまり場だった。

池袋モンパルナスとニシムイ美術村
戦前の池袋と落合、戦後の沖縄・首里のニシムイに「アトリエ村」がありました。それら画家たちのコミュニティは、戦争や占領による抑圧の下にあった彼らの拠り所であり、世代や地域、思想を超えた交流によって多様な傾向の作品が生み出されます。
1930年代の池袋周辺には、アトリエ付き住宅が立ち並び、その様子はパリの芸術家街になぞらえ「池袋モンパルナス」と呼ばれました。そこには北海道から沖縄まで各地から上京した芸術家の卵が集い、切磋琢磨しながら新たな表現を模索します。隣接する落合にも佐伯祐三、松本竣介や沖縄出身の名渡山愛順らの画家、文学者、音楽家たちが居を構えており、戦前の池袋、落合一帯は様々な分野の芸術家が集う文化醸成の場となっていました。しかし、1941(昭和16)年に始まる太平洋戦争は、こうした営みを一変させ、自由な作品発表の場は失われます。
戦後「池袋モンパルナス」は再建され、次世代の画家が集まり、新たな美術運動の発信の場となりました。地上戦で壊滅状態にあった沖縄でも、学生時代を池袋や落合で過ごした名渡山らを中心に、1948(昭和23)年「ニシムイ美術村」が首里に建設されました。画家や彫刻家に加え、文化人もここに集い、戦後沖縄の美術と文化の展開に主導的な役割を果たすことになります。
本展では、池袋、落合、ニシムイに集った芸術家の作品約90点を初めて一堂に会し、3つのアトリエ村の概要と意義を明らかにすると共に、戦前から1971(昭和46)年の沖縄返還協定調印の頃までの東京と沖縄の文化交流の一断面を紹介。

 『沖縄タイムス』4月15日ー皇后さまは14日、東京都板橋区の区立美術館を訪れ、開催中の絵画展「東京・沖縄 池袋モンパルナスとニシムイ美術村」(主催・共同通信社、同美術館)を鑑賞し、沖縄県出身の画家の絵画に触れられた。 皇后さまは興味深そうに熱心に見て回り、戦後すぐの沖縄の画家たちが地元の石灰岩で絵の具を作り、沖縄らしさを追求していたとの説明を聞き、「きれいな白ね」と感心していた。

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1911年7月27日『沖縄毎日新聞』麦門冬「忘られぬ華國會」
「華國翁は本県が琉球王国であった時代に生んだ最後の丹青家の一人である。即ち琉球王国が生んだ画家の一番末の子である、そして日本帝国の一部たる沖縄県が旧琉球から引継に譲り渡された一の誇りたるべき美術家の一人である。これだけでも私は華國會に臨んで私に希望と自信とを感せしむるに充分であるが、その上に私は華國翁と同じ字に生まれ幼年時代から其顔を知っていて華國翁というえらい画家は私の頭に古い印象を留めていると云ふ関係もあるから今度の華國會の席上に於いて私の肩身に猶更に広くならざるを得ない。私は南香主筆から今日華國會が若狭町の山城(正忠)医院で開かれるそうだから君行って見ないかと云はれた時にも私は疾うに行くと云ふことを極めてる様な気分で社を出てた。(略)私は小さい時から絵が大好きであった、探幽とか雪舟とか趙子昂とか自了とか云ふ名は私の耳には音楽のような囁きとなりそれからこれ等の名家に対する憧憬の念は私の頭に生長して段々大きく拡がっていって私自身が遂に雪舟になりたい探幽になりたいと云ふような空想をなした時代」もあったと安恭は記しているが、この美術家の夢は弟の安久によって実現された。

また大正末期、沖縄県立沖縄図書館長の伊波普猷がスキャンダルの最中、麦門冬の友人たちは後継館長に麦門冬と運動していた。山里永吉の叔父・比嘉朝健は最も熱心で、父の友人で沖縄政財界に隠然たる影響を持つ尚順男爵邸宅に麦門冬を連れていった。かつて麦門冬が閥族と新聞で攻撃した当人である。しかし麦門冬の語る郷土研究の情熱を尚順も理解を示し料理で歓待し長男・尚謙に酌をさせるなど好意を示した。それらは麦門冬の不慮の死で無に帰した。これも弟・安久が戦後、沖縄県立図書館の歴代図書館長に名を連ねている。

麦門冬・末吉安恭の弟/末吉安久(1904年4月26日~1981年3月31日)


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1935年4月「第一回沖縄洋画協会展」①大嶺政寛 ②大嶺政敏 ③大城皓也 ④大城皓也夫人 ⑤末吉安久 ⑥具志堅以徳 ⑦桃原思石 ⑧山田有昂 ⑨西銘生一 ⑩國吉眞喜 ⑪宮平清一⑫許田重勲 ⑬渡嘉敷唯盛 ⑭安仁屋政栄

写真左から末吉安久、桃原思石、許田重勲

1944年ー夏  学童疎開の引率で宮崎に

1946年ー秋  首里高校美術科教官に就任するや沖縄民政府文教局にデザイン科の設置を要請し首里に伝わる紅型の復活を図りたい」と嘆願し実現に導いた。

1949年3月  『月刊タイムス』№2□末吉安久「表紙・カット」
1949年4月  『月刊タイムス』№2□末吉安久「表紙・カット」
1949年5月  『月刊タイムス』№4□末吉安久「表紙・カット」

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末吉安久「閑日月」
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末吉安久「子供達」


1950年8月  朝日新聞社『鉄の暴風』末吉安久「装幀」/牧港篤三「挿絵」
1950年9月  末吉安久、首里図書館長就任(1957-4)
1951年11月 琉米文化会館「第3回沖縄美術展覧会」末吉安久「子供達」/金城安太郎「楽屋裏」

1952年1月1日『沖縄タイムス』末吉安久「思うたまで」

1952年1月1日『琉球新報』末吉安久(Q)「漫画漫詩」

1953年1月1日『沖縄タイムス』「漫画アンデパンダン展」末吉安久「乾かすのか掲げるのか」



1954年12月に写真集『基地沖縄』が東京新宿市ヶ谷加賀町の大日本印刷で印刷され沖縄タイムス社から発行された。編集は豊平良顕、上間正諭、牧港篤三、金城久重で、装幀が南風原朝光、末吉安久であった。零よりの出発と題して農夫の写真が掲載されていて、説明文に「戦争の破壊は、とにかく地上の人間の営みを根こそぎ奪い去った。戦後の復興はすべて零よりの出発と云ってよい。この老農夫の姿そのままが、零のスタート・ラインに立った終戦直後のオキナワを象徴している」とある。

1955年3月  第7回沖展に末吉安久「花」「サバニ」「静物」「金魚」
1956年3月  第8回沖展に末吉安久「黄色の部屋」「魚」「静物」
1956年8月15日 『沖縄タイムス』末ひさし「居タ居タ鳩ダ」

1956年8月19日 『沖縄タイムス』末ひさし(Q)「静かなデモ」


左から真境名安興、伊波普猷、末吉麦門冬(末吉安久画)
1956年11月 『沖縄タイムス』島袋盛敏「新遺老説傳 沖縄むかしばなし」末吉安久(Q)・絵
1957年3月  第9回沖展に末吉安久「静物」

1958年3月  第10回沖展に末吉安久「黒い月」「漁師たち」
1959年3月  第11回沖展に末吉安久「魚」「月」「大学の丘」「死せる生物」
1960年3月  第12回沖展に末吉安久「石」「根」「花」「珊瑚礁」
1961年3月  第13回沖展に末吉安久「作品」「墓場」
1961年3月  『養秀』養秀同窓会□養秀「表紙装丁カット」「金城紀光氏に聞くー聞き手/末吉安久」

1962年3月  第14回沖展に末吉安久「墓地A」「墓地B」「墓地C」



末吉安久/表紙絵 1962年8月『今日の琉球』58号「琉球の玩具」

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写真ー末吉安久氏と大城皓也画伯

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沖縄県立図書館の左側には「安冨祖流楽祖之碑」がある。安冨祖流絃聲会が1964年1月18日に建立しものだが、設計は末吉安久である。ちなみに、揮毫は島袋光裕、刻字が安里清謙、施行が安里清福である。沖縄県立図書館の館長室には歴代図書館長の一人として末吉安久の写真も飾られている。

1969年2月 『新沖縄文学』第12号 末吉安久「貘さんに る幻想」
1975年1月28日 山之口貘詩碑建立期成会発足(宮里栄輝会長、末吉安久副会長)
1975年7月23日 与儀公園で山之口貘詩碑除幕式
1975年9月7日 那覇文化センターで山之口貘記念会発足
1976年12月 『沖縄風俗絵図』月刊沖縄社□末吉安久「ケンケンパー」「足相撲」「ビー玉」「イットゥガヨー」「ジュークーティ」「クールーミグラセー」「クールーオーラセー」□末吉安久紅型「醜童舞い」「浜千鳥」「馬」「桃売りアングヮー」「カンドーフ売り」 

1977年11月29日『沖縄タイムス』「佐渡山安健『名馬・仲田青毛』末吉安久宅に」

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1978年8月 『季刊 南風』№2 末吉安久・絵と文「続・無題」

2015年10月16日『沖縄タイムス』大城冝武「沖縄マンガ史34(末ひさし)末吉安久/大嶺信一」


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02/09: 伊波南哲

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伊波南哲の著作
1936年9月ー伊波南哲『長編叙事詩オヤケ・アカハチ』東京図書株式会社
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1959年11月『オキナワグラフ』「ふるさとは・・・遠きにありてー東京で八重山を語る夕ー」
右から一人おいて宮良高夫、伊波南哲、宮良当壮、小浜高要、宮川寛雄
1932年12月ー『現代詩の新研究』東北書院□伊波南哲「詩人と『個性』の問題」
1933年11月ー『詩の國』伊波南哲「詩壇時評」
1936年9月ー『大法輪』伊波南哲「交番に映った世相」
1937年2月ー伊波南哲『長篇叙亊詩オヤケ・アカハチ』東京図書(初版1936年6月)
1937年11月ー『日本詩壇』伊波南哲「詩人的自覚に就て」
1937年12月ー『むらさき』伊波南哲「平家敗るるの日」
1937年12月ー『日本詩壇』伊波南哲「日本詩壇の動向」
1938年9月ー『日本詩壇』伊波南哲「詩人と環境の問題」
1938年11月ー『日本詩壇』伊波南哲「真の戦争詩に就て」
1939年7月ー『大法輪』伊波南哲「真夏の夜の海」
1939年8月ー『大法輪』伊波南哲「兵営の異変」
1939年9月ー『大法輪』伊波南哲「八重山風物詩集」
1939年10月ー『大法輪』伊波南哲「詩と生活の交流」
1939年11月ー『大法輪』伊波南哲「秋、旅する心」
1939年11月ー『旅』伊波南哲「孤島漂流記」
1939年12月ー『大法輪』伊波南哲「花ある風景」
1940年1月ー『詩人界』伊波南哲「詩のコンクールに就て」
1940年3月ー『大法輪』伊波南哲「詩魂の発見」
1940年8月ー『旅』伊波南哲「放浪の旅」
1940年10月ー『旅』伊波南哲「南進の先駆・琉球の糸満漁夫」
1941年5月ー『旅』伊波南哲「爬龍船物語」
1942年4月ー『旅』伊波南哲「琉球と八重山への旅」
1942年5月ー『旅』伊波南哲「南海の漁夫・鱶と格闘する糸満人」
1942年6月ー『旅』伊波南哲「敵艦見ゆ」
1942年8月ー『旅』伊波南哲「女護ヶ島物語」
1942年11月ー『日本詩壇』伊波南哲「時局と聯盟」
1943年1月ー『むらさき』伊波南哲「郷土行事への断想」
1943年2月ー『むらさき』伊波南哲「九年母」「琉球風土記・情熱の愛国詩人恩納ナビ女」
1943年3月ー『むらさき』伊波南哲「鷲を歌う女詩人」
1943年5月ー『むらさき』伊波南哲「人魚の話」
1943年6月ー『むらさき』伊波南哲「瓦焼く煙」
1943年8月ー『むらさき』伊波南哲「綱引」
1943年9月ー『むらさき』伊波南哲「颱風の眼、与那国島」
1943年10月ー『むらさき』伊波南哲「君南風ー海洋遠征の先駆者」
1943年12月ー『むらさき』伊波南哲「琉球と龍宮」
1944年1月ー『むらさき』伊波南哲「八重山郡島の民謡」
1944年11月ー伊波南哲『琉球風土記』泰光堂(装幀挿絵・竹谷富士雄)
1945年5月ー『週刊少国民』伊波南哲「伊舎堂大尉と通信筒のお話」


伊波南哲 いば-なんてつ
1902-1976 昭和時代の詩人,作家。
明治35年9月8日生まれ。東京の丸の内警察署に勤務しながら,佐藤惣之助に師事。昭和11年の長編叙事詩「オヤケ・アカハチ」が代表作で映画化もされた。晩年は詩誌「虹」を主宰。昭和51年12月28日死去。74歳。沖縄県出身。本名は興英。著作に「交番日記」,詩集に「銅鑼(どら)の憂鬱(ゆううつ)」など。(コトバンク)


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佐藤惣之助詩碑。1959年五月、惣之助の出身地である川崎市民の厚意によって建立されたものである。当初、首里当之蔵町、旧琉球大学構内(現首里城公園)にあったものを、公園の整備に伴い、当地へ移築したものである。建立に際しては、同じ神奈川県出身の陶芸家浜田庄司の手による陶板が用いられている。碑の文言は「宵夏」。

1974年6月 沖縄の雑誌『青い海』34号「詩碑を訪ねてー佐藤惣之助」

 1921年3月ー鎌倉芳太郎、東京美術学校図画師範科を卒業。奈良古美術見学。唐招提寺で開山鑑真和上が「阿児奈波」に漂着したことを知る。4月、文部省より沖縄県に出向を命ぜられ、沖縄県女子師範学校教諭兼沖縄県立高等女学校教諭に任ぜられる。/東京美術学校同期には米須秀亀(西洋画科)、野津唯尹(日本画科)が居た。翌年には我部政達、嘉数能愛、平田善吉、古謝景明が居た。

佐藤惣之助
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佐藤惣之助 さとう-そうのすけ
1890-1942 大正-昭和時代前期の詩人。
明治23年12月3日生まれ。佐藤紅緑(こうろく)に俳句をまなぶ。千家元麿(せんげ-もとまろ)らとまじわり,詩作に転じ,第1詩集「正義の兜(かぶと)」などを刊行。大正14年詩誌「詩之家」を創刊。また随筆,釣りの本をかき,歌謡曲「赤城(あかぎ)の子守唄(うた)」「人生劇場」などを作詞した。昭和17年5月15日死去。53歳。神奈川県出身。(→コトバンク)

佐藤惣之助年譜
1922年
3月ー詩誌『嵐』を千家元麿、陶山篤太郎、後藤大治らと創刊。
5月31日ー横浜より大洋丸で出帆、沖縄、台湾への旅にたつ。
6月1日ー神戸上陸、芦屋の富田砕花(不在)宅で百田宗治と会う。
6月3日ー長崎に下船、崇福寺、木蓮寺、丸山見物。
6月5日ー三角、熊本、鹿児島泊。
6月7日ー正吉丸、天候不良で出航延期。
6月8日ー鹿児島出帆。
6月9日ー奄美大島名瀬に上陸、夜、暴風をついて那覇へ向かう。那覇で3週間。その間、慶良間、石垣島へ渡る。帰路は基隆へ渡る。□1959年5月1日ー『琉球新報』山里永吉「沖縄の佐藤さんー古い風物につながる思い出ー佐藤惣之助さんが沖縄入りしたのは大正11年、たしか若夏の候だったと憶えている。当時佐藤さんは詩誌『嵐』を主宰し、詩集も矢つぎばや・・・と云っていいくらい出版されて、名声トミにあがっていたが、沖縄にはこれといった知人がなく、『嵐』の愛読者で、私の親しい友だった伊波普哲君(伊波普猷先生の甥)に連絡をとっての、未知の島訪問だった。


伊波普哲のハガキ
それで、その頃、中学を出るか出ないくらいのニキビ少年だった私と普哲君は、つれだって那覇の港に出迎えに出かけたわけだが、このヤマトの詩人先生には、のっけから度肝をぬかされたことだった。まずそのイデタチ。当時は珍しいヘルメットに半ズボン、それにストッキング・・・という扮装は、まるでアフリカ探検にでも出陣してきたようで、おかしいよりも少年たちの目をびっくりさせる方がつよかった。

そして第二のびっくりは、それから何日かしてきた、その頃県立図書館館長だった伊波普猷先生らの取計らいで、辻町の音羽楼で「佐藤惣之助先生歓迎会」が催されることになった。参席者は山城正忠、渡口政興さんら当時の文学青年が主で7,8人も集まったろうか。とにかくそのときの会では古波鮫漂雁さんが出した名刺に(略)。

先夜、せっかくの辻にのぼりながら、あっさり散会となった後味の物足らなさに、一旦旅館にかえった佐藤さんは再び人力車を駆って辻入城・・・といったいきさつ。しかも『けさ目をさましてみるとだね、色の黒い脛をドタンとぼくの腹にのっけて、グウグウ寝ているんだ。何て愉快じゃないかキミ!』(略)その辻の女性と共に波之上通り裏のゴミゴミしたところに住居をみつけて、沖縄の生活にひたっている風だった。
1922年10月ー『日本詩人』佐藤惣之助「八重山情詞」
□1 楽聖アカイヌコ 琉歌・・・歌の蛇皮線のむかしはじまりやいんこねあがりの神のみさく(作田ふし)

」船子よ、娘らよ今宵こそ/むかしうつくしき若者アカイヌコを/星座の篝火きよけき空や/蒲葵の扇の下風に捕えてよ/蛇皮線かたげ、島々よ流れありき/われらの神ようたい、航海ようたい/王と英雄と娘らとをうたひへし/島の聖歌の月夜たまこがねや捕へてよ/今宵若夏の祭踊りつ皆そろて/むかしからのおもろのふしや唄ひ盛り

(略)

1925年7月ー『詩之家』創刊(詩及詩歌研究誌)
1926年11月 『沖縄教育』□新屋敷幸繁「人生詞花集(その1)」 池宮城美登子「母となれば」 國吉眞哲「久米島日記抄」宮里静湖「校長の印象(2)」 桃原思石「秋の感覚」 糸数三武郎「手紙の一節」 神山康一郎「石工」 夕雁庵「雑詠」 新島政之助「鷹渡る日に」 牛島軍平①「一筋の道」 川俣和②「平原の」

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写真右上ー左端が川平朝清さん(元東京沖縄県人会会長)

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 1974年発行の『琉球の文化』第5号の特集は<沖縄戦と終戦直後の生活>であった。掲載の戦後沖縄の写真はハンナ少佐が撮ったもので、少佐の友人ジョージ・H・ケアから博物館研修で渡米中の大城精徳に譲られ沖縄の博物館に収蔵されたものである。同誌には画家・大嶺信一の戦後回顧が載って「終戦後の行政の中心地は石川市であったが、当時沖縄最大の人口密集地帯で、バラックやテントの人家がまるでカスパの街のようにひしめきあっていた」と記し続けて「諮詢委員会が東恩納に軍政府の下に設立され、志喜屋孝信氏を長として多くの部が作られ、その中に文化部があって故当山正堅を部長として、官費の芸能団が組織され、官費の画家が誕生して、荒んだ戦後の人心に慰安を与えた。軍政府の文化部担当将校がハンナ少佐で、理解の深い人であったらしく、大城皓也、山元恵一、金城安太郎の3氏が毎日出勤して絵画に専念」と記した。

 安太郎さんは、終戦後の捕虜時代には、小禄村や金武村の収容所で米軍将校らの肖像画を描いた。屋嘉捕虜収容所から石川をへて東恩納博物館へ。1945年8月、沖縄諮詢会文化部芸術課技官。慰問用の芝居の舞台絵や小道具なども作った。
 2009年5月15日、沖縄県立博物館・美術館で「豊潤の美を求めてー金城安太郎と高畠華宵」が開かれた。企画したのは金城美奈子さん、別府大学美術史学で学び1994年の春、挿絵画家として一世を風靡した高畠華宵の大正ロマン館(1990年開館)学芸員となり、そこでは華宵らを通じて大正文化を考え、調査研究だけでなくミュージアム・ショップの商品や喫茶室のメニューのアイディアも提案。沖縄で高校教諭を経て沖縄文化の杜企画部員。成り行きとして、沖縄の挿絵画家は?となり金城安太郎に注目する。その図録は沖縄タイムス社から発行されたが、「日本近代 表紙絵・挿絵略年表」「沖縄近現代 表紙絵・挿絵略年表」「金城安太郎の表紙絵・挿絵」は貴重な資料だ。

6月13日には沖縄県立博物館・美術館で「ニシムイ」展が開かれる。ヤマトの研究者に画家の作品だけ見て「ニシムイの画家に歴史に残る画家は居ない」とのたまう評論家も居る。しかしニシムイの画家たちは壺屋のデザインにも協力し、自ら紅型を復興をなしている。また沖展発展のためにはチンドン屋の役回りも買って出ている。いずれにしても歴史に残る残らないは、美術館の学芸員たちの光の当て方というか創造力が試される。私は『沖縄タイムス』の安太郎さんの追悼文の末尾に「最後の琉球絵師・安太郎さんは一昨年までは獅子加那志とミロク仏を黙々とつくり、今、これに打ち乗り同行、異次元の世界へと旅立たれた。-合掌ー」と記した。

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○ジュンク堂で守屋武昌『「普天間」交渉秘録』新潮文庫2012年9月を買った。帯に小泉純一郎「一気に読んだ」と絶賛している。だから本書の中の2004年9月のところで、小泉総理「岩国は基地を受け入れるのか」「(神奈川県)座間の反対はないのか」「普天間は転換出来るのか」発言に対し、私(守屋武昌)は「総理のリーダーシップがあれば出来ます」と即答した。また総理が「本当に日本の戦後を終わらせることが出来るんだな」に対し、私は「はい」と答えたという。大田知事「沖縄が求めていたのは単独返還だ。新たな代替施設の建設が付いてくるのは承諾できない」や、「稲嶺知事には、普天間問題をどうしても解決しなければならないという意気込みがないのではないか」と疑念を持ったという。最近も麻生太郎財務相が21日の社会保障制度改革国民会議で、終末期医療について「私は少なくともそういう必要はないと遺書を書いているが、いいかげんに死にたいと思っても『生きられますから』と生かされたらかなわない。さっさと死ねるようにしてもらわないと」などと発言。同書には麻生大臣の発言「沖縄の五ノ日の会(仲村正治、嘉数知賢、西銘恒三郎、安次冨修、西銘順志郎)が俺の所に来た時に、事務方を引かせてから、オメーラ、まさか(辺野古移設の)梯子はずすことはしないだろうなといったら、アイツら皆下を向いて、うつむいているの」も紹介されていた。「ゴルゴ13」を愛読しているからか沖縄選出議員を見下し土人扱いしている。コイツがまた安倍内閣の副総理となった。沖縄選出の自民党国会議員がどう出るか見ものではある。→やはり負け犬になった。

 2013年11月4日『沖縄タイムス』時事漫評「すでに特定秘密・・・?」は秘密保護法を的確に表現している。11月5日の地元2紙は福島県議会の同法に対する意見書を可決した。意見書を書いた県議は「今の法案のままでは、さまざまな理由付けで、原発の廃炉に関する情報まで隠蔽される可能性」と決めつけている。尤もな発言である。翻って沖縄県議会はどうだろうか。日米安保体制持続の側面もある法案にどう対処するのか。法案が通れば、雑誌・週刊誌は気の抜けたものとなるのは間違いないし、政府発行の刊行物(アベチャンネル)は信頼性を失い誰も買わなくなるだろう。情報は暗号化されヤミからヤミへと流れてヤミ社会が商売にし活気づく。

2005年12月『昭和史の地図』
〇第1章・昭和の始まりと戦争
戦前の経済/領土の拡大/陸軍と海軍/2.26事件/政治家の系図ー近衛文麿とその時代/中国との戦争/太平洋戦争/空襲と疎開/沖縄の戦いと占領/広島と長崎/降伏・終戦
〇第2章・新生日本の歩み
本土占領とGHQ/財閥解体/農地改革/引揚げと復員/戦後の暮らし/朝鮮戦争/平和条約/政治家の系図ー吉田茂とその時代
〇第3章・高度成長の時代
所得倍増計画/労働と暮らし/株式・地価・為替/災害列島/国際社会への復帰/東京オリンピック/交通網の整備ー鉄道・道路・航空路/大阪万博/戦後の保守政治

吉田茂をめぐる人々
父親は土佐民権派の長老、妻の父は薩摩出身で明治維新の功労者・大久保利通の次男、牧野伸顕。吉田の子息から政治家は現れなかったが、外孫、縁戚には政財界の多彩な人脈が広がる。→岸信介、佐藤栄作、安倍晋三、麻生太郎



1954年10月 内政問題研究会編『官僚の系譜ー権力の座に居る人たち』厚文社
〇最近の目立った現象の一つは選挙のたびに官僚出身者が進出していることであろう。しかも政党にあっては、佐藤栄作(運輸系)池田勇人(大蔵系)と二代ににわたって与党幹事長をつとめるなど党人としての活躍ぶりもなかなかあなどれないようだ。官僚といえば、戦前内務省華やかしころは、何といっても内務官僚をもって筆頭とした。」軍閥と並んだ内務省が全国知事を握り、網の目のように警察を配置していたのだから無理もない。(略)ーすなわち内務省的な存在ーの確保に狂奔するのも彼らとしては無理からぬことかも知れない。「逆コースの最たるもの」との折紙をつけられながら、いま着々と名称を内政省と変えながらその準備は強引におし進めているのである。右手に警察をもち、左手に自衛隊という軍隊を握る時代もそれほど遠いことではないようだ。