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Category: 03-所感
Posted by: ryubun02
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彼岸明けで紙銭<ウチカビ>を焼く(先祖供養)ー古銭収集家の翁長良明さんによれば、ウチカビは鳩目銭50枚で寛永通宝1枚になるという。

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Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02

2018年2月 『俳句四季』3月号 東京四季出版 豊里友行「血潮のリレー」

2018年2月『オキナワグラフ』3月号 「豊里友行写真展 オキナワンブルー」

Foto Space Reago 2018.2.15-2.21「豊里友行写真展 オキナワンブルー」

豊里友行氏と写真家の土田若菜さん/豊里友行[辺野古]
Foto Space Reago 2018.2.15-2.21「豊里友行写真展 オキナワンブルー」

2018年2月19日ー豊里友行氏と写真家の山田勉氏/豊里友行[彫刻家・金城実]

2017年12月2日 ジュンク堂那覇店「トークイベント 豊里友行×仲里効『沖縄を撮る』ということ」

2017年10月 豊里友行写真集『南風の根 ふぇー 沖縄1995-2017』沖縄書房

仲里効氏(左)と豊里友行さん/仲里効氏(左)豊里友行さん

豊里友行さん(右)、森本浩平ジュンク堂那覇店長




Category: 03-所感
Posted by: ryubun02
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島袋全発は、1930年8月に世界社の饒平名智太郎や南島研究会同人の比嘉時君洞、渡口政興、原義人、金城朝永らの協力を得て『那覇変遷記』を刊行。全発は自序に「即、那覇はもと中山の真和志間切の一部落たる港畔の一寒村であったのが、長虹堤築かれ那覇どまりと呼ばれた。港湾の繁昌につれて、若狭町を凌ぎ漸次拡張して那覇四町となり、近世に至り、又その邑落の起源を異にする久米村、泊を併せ、牧志・垣の花を呑み、逆に昔の真和志一円を包含するの概があり、之を一面から日へば那覇発展記であり反面から観れば真和志縮小記となる」と記している。東恩納寛惇は戦後に発行した『南島風土記』で「ツジは方語頂上の義なりと云う事、既に島袋全発氏の提唱する所で、伊波普猷氏亦これに賛同している」と書いている。

 
左から初版、1966年4月ー琉球史料研究会、1998年4月ー沖縄タイムス社


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Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
詩人・薄田泣菫
1907年『明星』3月号「故末吉安持」
与謝野寛○余は佐々木秀道を亡くして一箇月の後に、また新詩社同人末吉安持をうしなった。秀道の死も意外であったが、安持の死は突然であると共に、まことに語るに忍びざる程悲惨であった。氏は二月の九日に藝苑社の講演を聴いて飯田町の下宿に帰ったが、翌十日の午前三時頃、どうしたはづみか、机上の洋燈が落ち掛かり、全身三分の二を火傷して人事不省となり、同家の友人に送られて神保院と云ふ病院に入院した。医師は種々の治術を施したが、立会った友人等は皆な目を掩うて之を見るに忍びなかった。三日の後、氏は仰臥の儘身じろぎの成らぬに拘わらず非常に元気を回復したが、併し医師は其れを却て危険なる兆候だと云った。果たして十六日の夜から昏睡にに陥り、十七日の午前五時終に不帰の人と成った。享年二十一.このうら若い、将来のある詩人を、突然と過失のために、斯かる悲惨な最期に終わらしめたのは、痛嘆至極、何と慰むる言葉も無い。
 氏は沖縄県首里区字儀保の素封家末吉安由氏の二男であった。中学にあった頃は常に優等の成績を示したと云ふ。父兄が文学の嗜好を以って居る所から、その感化を受けて文学を好むだが、父兄も氏が文学者となることを望み、氏も其積もりで三十七年の二月に出京し、爾来英語を国民英学会に学んで居た。初め長詩を前田林外氏等の雑誌『白百合』や『天鼓』に投じて居たが、三十八年の三月に新詩社に加わり、其後は専ら『明星』にのみ作物を載せた。氏は短歌を作らず、長詩のみの作者で、毎月必ず二三篇を余の手許に送った。十六歳から詩を作り始めたといふが、確かに詩人たる情熱と、独創の力と、物事に対して一種他人と異なった睨みかたとが有って、漫に先人の模倣を事とする無定見者流とは選を異にして居った。三十七年頃は児玉、平木二氏の詩風を慕ひ、三十八以後は薄田、蒲原二家の詩集を愛読し、殊に上田氏の『海潮音』に由って詩眼を開くことを得た一人であった。また能く余が厳格なる批判に聴いて『明星』に採録する氏の詩が、その所作の十が一にも過ぎざるに拘わらず、毫も不満に思ふ色なく、之に激励せられて益々慎重の心掛を加へ、精苦の作を試みた。その詩は昨年に入って頓に進境が見え出したが、本年三月の『明星』に載せた「ねたみ」一篇が、図らずも絶筆と成った。(以下略)
山城正忠○ああ、僕が詩歌の交際に於いて親しい友の一人なる詩華末吉安持君は、本年二月十七日二十一歳を一期に、燃ゆるやうな青春の希望を抱いて、空しく白玉楼中の人となってしまった。回顧すれば、僕が君を知ったのは、三十六年の夏の頃で、或友の紹介を得て、初めて君をその邸宅に訪ふたが、白百合を紫色した薬瓶に活けた氏の書斎に通され、親しくその風丰に接することを得た。『僕は山城といふものですが、以後どうぞ宜しく』と挨拶をすると、君は優しい眉根を、こころもち上げて『あ、さうですか・・・・・・』と云ったきり、何とも言って呉れぬ。そこで、僕は何だか気にくはなかった。少し横柄な人だなと、心中密かに氏の人格を疑った。併し、だんだん話して見ると、思ったよりはさばけた人で、僕の考は全く邪推に過ぎなかった。其日は面白く君の気焔にまかれて、帰ったが、それが縁となって、逢ふことが度かさなるにつれ、互いに胸襟を開いて話すやうになった。
 時には徹夜して酒を飲みながら詩を語り、或る時は深夜奥の山公園の松林で月を賞して、清興を共にした。又或時は、たわいもない事から口論をやることもあったが、それもほんの一時で、直ぐあとは光風雲月といふ塩梅に、一笑に附して了った。君は情の人で意志」の人ではなかった。その情の厚かったことは、友達が一度困厄して居るのを見ると、実に萬腔の同情を以って之を慰籍し、且つ救護したのである。それから酒を飲むとなかなか面白い男で、いつでも団十郎や菊五郎の假色をつかふのが十八番であったらしい。その頃から君は新詩社の詩風に私淑して居って、詩の話になると、すぐ『紫』や『みだれ髪』を持出し、言葉を極めて賞讃した。それに僕も与謝野氏の歌は『東西南北』『天地玄黄』時代から、ひそかに景仰して居ったのであるから、互いに負けぬ気になって、讃辞を交換すると云ふ風であった。それからもう一人君の敬慕して居た詩人は薄田泣菫氏で、その『行く春』『暮笛集』は、いつ行っても氏の机の上に飾られてあった。その為め僕も君に感化せられては又泣菫氏の詩を愛読するやうになり愈愈両人は趣味が一致した。
 これが僕等の交際をして益々親密ならしめた楔子である。泰国の詩人では、君はバイロンとダンテを称揚し、僕はアナクレオンを賛美した。今一人我国では、故人樗牛氏を崇拝して居たらしい。併し近頃は何う変わって居たか、琉球と東京と隔って居たから僕には分からない。なんでも夏目氏と上田敏氏とに大層私淑して居たといふことを外から聞いた。さうかうする内、君は突然上京して了ったので、僕は何だか離れ小島に独りとり残された思がした。爾来音信を絶つこと殆ど二年、時々友人からその消息の一端を聞くばかりで、氏からは端書一枚をも寄越してくれない。随って互いに疎遠に成って居た。然るに三十八年の四月、僕は補充兵で上京し、青山の第四聯隊に入営することになった。毎日練兵が忙しくって、つい君を尋ねることも出来ず、直ぐ近所の与謝野氏の御宅にさへ伺ふことが出来ぬと云ふ始末、それが殆ど七箇月に亘って、十月の中頃、病気に罹って召集解除となり、再び故山の人となった。
 兵営を出て明日帰郷すると云ふ晩、神田の或る本屋の店頭で『天鼓』といふ雑誌を見た。何心なく披いて見ると、末吉詩花として『平和の歌』(たしかさうであったとおもふ)といふ新體詩が出ているので急になつかしい思がした。併し尋ねるにも君の下宿が分からないから終に其儘逢はずに帰国して了ったのは、今から思ふと実に遺憾である。それから僕が琉球に帰って、初めて末吉君は近来『明星』に筆を執って居るといふことを聞いて、愈愈素志の如くやり出したなと、密かに氏の努力を羨んだ。昨年の夏君は帰省したので、久し振りに某酒亭に会して、親しく新詩社の現状を聞き且つ与謝野氏の御話なども受売して貰った。その時氏の語る所によると『与謝野氏は一見何だかコハイやうな方だが、詩に就いては至極親切に指導して下さるから有難い。君も新詩社の一人に加わって真面目に詩を作りたまへ』とのことであった。併し、僕はまだ早からうと述べた。その日は月の佳い夜であった。その月の光が、君と僕と此世で一緒に浴びる最終のものだとは、両人ともつゆ想ひ及ばなかった。ああその夜の光景と君が音容とは、今猶ありありと想ひ泛べ得るのに、君は既に世に居ないのであらうか。僕はまだ何うも君が死を信じ得られない

 1910年5月、伊波普猷の友人、八重山の岩崎卓爾が図書館に新渡戸稲造『英文武士道』など、漢那憲行が薄田泣菫『二十五弦』ほか、浦添朝忠は『資治通鑑』など700冊を寄贈。6月には末吉麦門冬が『俳句の研究』『蜀山人全集』などを寄贈している。かくして琉球学センターとも云うべき沖縄県立沖縄図書館は8月1日、那覇の南陽館で開館式を迎えた。折りしも8月22日は「日韓併合」があった。沖縄図書館の児童書は「中学世界、少女世界、少女之友、少年之友、日本少年、少年、少女、幼年之友、幼年画報」などがあった。

大阪市中央区上本町「東平公園」にある薄田泣菫の『金剛山の歌』の碑。詩は、作者が本長寺に仮住まいしていた頃、散歩の途中、朝日に輝く金剛山を見て、詠んだと言う。薄田泣菫(1877~1945)は岡山県生れ、24歳で大阪に出て文芸雑誌、詩集を刊し、象徴派詩人として名声を得た。(新城栄徳「関西日誌2011-10」 )

 泣菫は、明治27年、17歳で上京。漢学塾などに学びながら、上野図書館で和漢洋の書物を読破し、独学で学んだ。この時の素養が、後の泣菫の文学を決定することになる。明治30年20歳の時、文芸雑誌『新著月刊』に「花密蔵難見〈はなみつにしてみえがたし〉」と題して長短13編の詩を発表、高い評価を得た。この時、初めて泣菫の号を用いている。
 明治32年、22歳にして、最初の詩集『暮笛集』を出版して以来、明治34年『ゆく春』、明治38年には『志ら玉姫』をはじめ、「公孫樹下に立ちて」の詩篇を収めた『二十五絃』を刊行し、島崎藤村後の第一人者として、明治詩壇の頂点を極めた。明治38年の秋に発表した「ああ大和にしあらましかば」は、名詩中の名詩とされ、多くの若者に親しまれた。

 明治39年の詩集『白羊宮』は、円熟期を迎えた泣菫の総てを集成したもので、この後、徐々に活動の場を詩から散文へ移していったが、新体詩(文語定型詩)を発展させたことが泣菫の大きな業績である。
 大正元年8月、大阪毎日新聞社に入社。大正5年から毎日新聞に連載した随筆『茶話』が好評で、大正5年に随想集『茶話』、大正7年『後の茶話』、大正8年『新茶話』を出版。博識のうえ、話術も巧みだった泣菫の作品は、多くの読者を魅了した。→ネット「青空文庫」で読める。
 この当時、芥川龍之介、菊池寛などの新進作家を積極的に発掘し、文学界の発展にも貢献した。大正12年、身体の健康を害して毎日新聞社を事実上退社。その後も、難病(パーキンソン病)と闘いながら創作活動を続けるも、次第に症状が重くなり、昭和20年,68歳の生涯を閉じた。
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Posted by: ryubun02




2014年4月8日~13日 那覇市民ギャラリー「具志弘樹作品展」
具志弘樹氏とその作品


1968年8月『今日の琉球』具志弘樹「糸満の女」

オリオン興業(グランドオリオン)美術課長の頃の作品

2009年11月2日~27日 沖縄銀行西崎支店「具志弘樹個展(元沖展会員)」

2012年3月27日~4月1日 那覇市民ギャラリー「具志弘樹作品展ーいつまでも守り続けたい 沖縄の生き物と自然」


2016年10月24日ー写真左が具志弘樹氏、新城栄徳







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Posted by: ryubun02

1981年11月 『ダカーポ』創刊号○ダカーポは現代ジャーナリズムの索引の役目を果たします/専門誌、ミニコミ誌、PR誌などの中には、そのままにしておいては惜しい貴重な情報がたくさん含まれています。それらの情報を積極的に発掘、魅力を伝える。/夕刊フジ・日刊ゲンダイ、このようなメディアの個性の違いを楽しむ。


2004年6月 『ダカーポ』「いま、新聞がおもしろい!」
2007年12月『ダカーポ』「中国新世紀」/「このままじゃ、雑誌はダメになるー頑張れ!雑誌 頑張れ!『週刊現代』」○新聞は”社会の木鐸〟を忘れて、記者クラブ経由で官製情報の垂れ流し。広告収入に依存したテレビ局は、視聴率競争に明け暮れて週刊誌の後追い。(略)生々しさは週刊誌の現場が一番持っているかもしれない。かつて朝日新聞の深代惇郎さんや読売新聞の本田靖春さんがいた頃の、古き良き時代の社会部のようなDNAの尾っぽは、週刊誌に流れ込んでいるんじゃないかな。公権力の情報操作が巧みになったいまこそ、その公権力のウソを看破するのは週刊誌しかない。


1945年 - 凡人社創立、11月に雑誌「平凡」を創刊
1954年 - 「平凡出版株式会社」に組織変更
1955年 - 「平凡」発行部数140万部を突破
1959年 - 「週刊平凡」創刊。
1960年 - 「週刊平凡」100万部突破
1964年 - 「平凡パンチ」創刊。若者向けの雑誌として一世を風靡する。
1965年 - 「平凡パンチデラックス」(隔月刊)創刊。
1966年 - 「平凡パンチ」100万部突破。
1968年 - 「ポケットパンチOh!」(月刊)創刊。
1970年 - 「an・an」創刊。大型女性誌としてスタート。フランスの「エル ELLE」誌と提携した。集英社の「non-no」とともに人気雑誌となる。
1974年 - 「スタア」(月刊)創刊。
1976年 - 「ポパイ」創刊 "Magazine for City Boys"というサブタイトルでスタート。男性週刊誌のさきがけといわれる。
1977年 - 「クロワッサン」創刊。ニューファミリー生活誌として創刊。
1980年 - 「ブルータス」創刊。「男として生きる術を心得た、あらゆる男たちのために」が合言葉であった。



1981年 - 「ダカーポ」創刊。「現代」が3時間でわかる情報誌としてスタートした。
1982年 - 「エル・ジャポン」創刊。「Olive」創刊。"Magazine for Romantic Girls"というサブタイトルを使用した。
1983年 - 会社名を「株式会社マガジンハウス」(〒104-8003東京都中央区銀座3丁目13-10)に変更。ニュージャーナリズム誌「鳩よ!」創刊。→ウィキ

マスコミの怪物とも云われた週刊誌、ことに古本屋に並んでいる雑誌・週刊誌は安い。入手し、切り抜いて手帖にスクラップするのが唯一の娯楽であった。スポーツは見るのも好きではないが、古本屋に雑誌・週刊誌を求めて一日中歩き回るのは苦にならない。当時のスクラップは今は殆ど残っていないが三鬼陽之助の「スクラップ箱」の書斎の写真が載っているグラフ誌のスクラップなどはある。
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三鬼陽之助の書斎

週刊誌は個人で保存するには限界がある。後に雑誌図書館・大宅壮一文庫が開館したときは早速に訪ね整理法を学んだ。そのときは西沢昌司氏が応対してくれた。次に行くと、八重山出身の上江洲榕氏と出会った。『琉文手帖』2号の東京連絡所が大宅文庫(http://www.oya-bunko.or.jp/)となっているのは上江洲氏が引き受けたからである。

大宅壮一文庫
 1959年6月に来沖した毒舌評論家の大宅壮一は糸満摩文仁の南部戦跡で「動物的忠誠心」「家畜化された盲従」などの発言で物議を醸したが、その大宅は死して20万冊余の雑誌と、独特な分類整理法を遺した。大宅は「資料には、新聞、雑誌、単行本の3つがある。新聞は事件の起こった年月日、あるいはその背景をすばやく知るのに役立つ。したがってナマの資料として欠かすことができない。しかし、単行本は資料としてはあまり役に立たない。理由は、一人の著者が自分の観点から物を見、判断しているから、淘汰されすぎている。だから資料としての面白みがとぼしい。それにくらべると、雑誌は資料の宝庫だ。新聞にくらべ、事件、時代の背景が分量的にもたくさん盛り込まれている。それに1冊の雑誌の中には、多くの記事、つまりたくさんの事件、そして視点が詰まっている。ときには、正反対の意見が同時に掲載されているし、とくにインチキ雑誌、バクロ雑誌のたぐいにはときどき面白い記事がある。そういった意味で、雑誌は文字通り資料の宝庫だ」

 「本は読むものではなく、引くものだよ」。マスコミ生活50年、かたわら、資料の収集整理に力を尽した大宅壮一らしい言葉です。大宅壮一は、ことあるごとに古書市、古本屋通いを続け、およそ20万冊の蔵書を遺しました。生前その資料室は、“雑草文庫”と称され、蔵書のほとんどが雑誌、雑本で占められていました。没後の1971年、マスコミはじめ各界のご協力により財団法人大宅文庫(1978年大宅壮一文庫と改称)が設立されました。当初は1日平均2人に満たなかった利用者は、現在1年間でおよそ10万人です。(→大宅壮一文庫)


1960年1月1日『琉球新報』「沖縄を料理するー毒舌ことはじめ大宅壮一・岡本太郎」



1982年4月『図書館雑誌』上江洲儀正(大宅壮一文庫事務局次長)□大宅壮一文庫の方法・(略)資料を事典にかえる索引の役割ー去る1980年に『大宅壮一文庫索引目録』を刊行したとき、日本現代人物のなかで資料のもっとも多い人物を調べてみたら、田中角栄(1、017件) 長島茂雄(736件) 三島由紀夫(702件) 美空ひばり(702件) 福田赳夫(552件) 野坂昭如(547件) 江川卓(536件) 王貞治(531件) 石原慎太郎(518件) 山口百恵(513件)・・・・・・の順になった。最近は、田中のトップは断然揺るがないにしても、長島や王、江川のプロ野球勢と、引退した山口がずいぶん件数を稼いだようだ。文庫の資料のほとんどが雑誌、しかも索引化されているのがポピュラーな総合雑誌であってみれば、この資料件数は知名度のバロメーターである、といえないだろうか。いいほうの記事か、悪いほうのそれかは別にしても・・・・・。

 人名索引に比べると件名索引は分類がちょっと難しい。人名索引なら、例えば西田敏行の記事(その家族の記事もふくむ)は、その人物以外には分類されようもなく、それだけ間違いも少ないのだが、件名索引は内容や記事の扱われ方も考慮しなくてはいけないから少々面倒になる。時には、何のことを書いているのかさっぱりわからないようなコウショウな論文があったりして頭を抱えてしまうこともある。ともあれ、人名で分類されない記事は件名索引のどこかに分類しなくてはいけない。

 件名索引には「政治・その他」「経済」「世界」「天皇」「戦争」「公害」「犯罪・事件」「世相」「おんな」「サラリーマン」「趣味・レジャー」「スポーツ」「芸能・芸術」「マスコミ」「地方」・・・・・など33の大項目があり、それぞれの大項目はいくつかの中項目をもつというふうにたこ足配線のようになっていて、小項目は全部で約6千ある。大分類がNDCの10に比べて33と多いのは、NDCの「社会科学」に相当する分野がふくらんで、こんなふうにしないと不便になってしまうからだ。これもまた雑誌索引であってみれば当然といえるかもしれない。

 例えば、大項目「災害」には、地震、水害、台風、海の惨事、山の遭難、火災事故、飛行機事故、など13の中項目があり、その中の「地震」の項目を紹介すると、地震の歴史、地震一般、予知、防備・対策、川崎ガケ崩れ、実験事故、地震と鯰、地震学・学者、川崎直下型地震の予測、地震と火山の関係、関東大震災、新潟地震、松代地震、十勝沖地震、宮城県沖地震、その他の地震、というように区分されている。つまり地震に関する記事はこの15の項目のいずれかに分類される。世相を反映する大宅文庫の索引は可変的で、今後大きな地震が起こったらその地震についての項目が新たに設けられる。しかし、小さな地震のひとつひとつの項目はおこす必要はない。そのために「地震一般」や「その他の地震」の項目のように大きく括る、あるいは他のどこにも分類されないようなものを集めておく場所を、中項目に最低一カ所設けておくのだ。

 索引には最大公約数的な考え方が必要だ。あまり厳密にしすぎると逆に不便になってしまう場合が多い。ある程度不統一であっても、何がどこにあるかがすぐにわかるような実用的な索引づくりを今後も心がけていきたい。


上江洲儀正(上江洲榕)ー南山舎前史

1983年2月 なんりの会『じくうち』上江洲榕「ニーラン神の島」
1984年7月4日 『琉球新報』上江洲儀正(大宅壮一文庫事務局次長)「落ち穂ー追悼M君」
1989年1月20日 『沖縄タイムス』上江洲儀正(南山舎代表)「八重山手帳」

手元にある『大宅壮一文庫索引目録』の扉には彼に押して貰った文庫の印がある。そのときの名刺には「財団法人大宅壮一文庫事務局次長」とあった。彼は『じくうち』の同人で4号に東京とシマをテーマに小説「二ーラン神の島」を書いている。5号に「肝苦さんさあ」、6号に「義足」、7号「人形」であった。私は彼が文庫に居る時、松島記者担当の『琉球新報』落ち穂欄にエッセイを書いてもらったが今では良い記念となっている。その次に会ったときの名刺には「企画・出版・情報処理・南山舎」とあった。

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写真左から金城正篤氏、仲宗根将二氏、新城栄徳、上江洲儀正氏

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