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Category: 04-書の森
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2018年5月18日 写真左から、前列ー佐喜眞道夫氏、新川明氏。後列ー池原盛浩氏、豊見山愛さん、新城栄徳、喜友名ひとみさん(渡邊愛依さん撮影)


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儀間比呂志「ソテツ」




1976年『儀間比呂志版画集・沖縄の女』岩崎書店


儀間比呂志、実家に帰省

1983年8月29日『読売新聞』「青春紀行ー儀間比呂志 南洋の果て・・・沖縄の心」



山田實さん所蔵の儀間比呂志作品「伊野波節より」

 儀間比呂志の絵がシャッターに描かれている久茂地・抱瓶店。ゆいレール・那覇空港駅には儀間比呂志の「万国津梁の民」(2003年8月)。


2006年6月 琉球大学文芸部『伝言』創刊号(表紙・儀間比呂志)

『戦争と平和の資料館ピースあいち』は、名古屋市名東区よもぎ台にある資料館。地下鉄東山線一社駅から北へ徒歩約13分。〒465-0091 名古屋市名東区よもぎ台2-820   TEL/FAX 052-602-4222


2018年6月3日 国立文楽劇場ー金城康子琉舞道場「開設50周年記念発表会/島々の踊り」


ギャラリー象 ☎098-867-7936 FAX098-862-8548

ギャラリー象で親族と、左端が儀間比呂志














儀間比呂志ポスター


1966年6月/1958年12月

1974年10月/1975年2月

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写真左から、石垣博孝氏、具志堅誓謹氏、谷口正人氏/新垣正一氏、与那嶺幸也氏


宮城重徳「粟国海岸」/国吉保武「マハナ岬」


石垣博孝「オオゴマダラ」

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2018年4月8日『沖縄タイムス』伊佐眞一「歴史を刻んだ沖縄人①謝花昇 自立自尊 敢為の精神」

2018年5月13日『沖縄タイムス』伊佐眞一「末吉麦門冬(新聞記者)博覧強記 大人の風格」

2018年3月3日 『沖縄の軌跡』「《川崎・沖縄民権の会》=謝花昇顕彰会から発展・内地での沖縄民権を鼓舞した歴史=」181号 編集発行人・島袋和幸(葛飾区四ツ木4-18-10 携帯090-4920-6952)

「謝花昇 賛歌」作詞・兼次佐一/作曲・大城政明/大城政明氏、伊佐眞一氏


1998年6月 伊佐眞一『謝花昇集』みすず書房

1980年8月20日ー『沖縄民権』表紙・儀間比呂志「皇軍は勇戦した」第14号

1980年8月20日ー『沖縄民権』表紙・儀間比呂志「皇軍は勇戦した」第14号(川崎市川崎区田町3-12-3 古波津英興方)□古波津英興「方言使用スパイ処分文書」



1983年9月23日ー『沖縄民権』表紙・儀間比呂志「菊と仏桑華」第20号(川崎市川崎区田町3-12-3 古波津英興方)

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2018年5月 上江洲均『おきなわの民俗探訪ー島と人と生活と』榕樹書林


2014年4月17日 上江洲均氏


1973年3月 上江洲均『沖縄の民具』慶友社
1982年12月 上江洲均『沖縄の暮らしと民具』慶友社
○沖縄民具概観ー沖縄の民具について・暮らしと民具/用法と技術ー沖縄・奄美の竹の民具について・女性の二つの運搬用具・ヘラとイモあさり・脱穀具・沖縄の叉鍬・粟国島のトゥージ・サバニについて/信仰・儀礼・行事の民具/墓と厨子甕/久米島の墓制に関する資料二題/厨子甕/コウまつり瞥見

1983年3月 上江洲均・神崎宣武・工藤員功『琉球諸島の民具』未来社
2005年11月 上江洲均『沖縄の民俗と生活』榕樹書林

写真左から村口一雄第一書房社長、新城栄徳、上江洲均氏、新城亘氏/粟国島で中央が上江洲均氏

本学名誉教授の上江洲均先生が、「民具を中心とした琉球諸島の民俗研究」で第29回東恩納寛惇賞(主催:琉球新報社)を受賞した。東恩納寛惇賞は、沖縄研究の先駆者である東恩納寛惇の学問的業績をたたえ、沖縄を対象とする研究に顕著な業績を挙げた研究者に対して贈られる。平成24年2月24日(金)には、琉球新報ホールにて贈呈式が開かれ、上江洲先生は「民具で研究する」という題目で、民俗・民具研究について記念講演を行った。【上江洲 均名誉教授の略歴】琉球大学文理学部国文学科卒業後、公立学校教諭を経て、琉球政府(現在・沖縄県立)博物館に学芸員として勤務(昭和62年には副館長を務める)。平成7年4月より名桜大学国際学部教授に就任。平成15年3月に定年退職後、同年9月に名桜大学名誉教授の称号授与。現在、久米島博物館名誉館長。(→名桜大学)


右から宮城篤正氏、上江洲均氏、粟国恭子さん

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2018年6月10日『沖縄タイムス』伊佐眞一「歴史を刻んだ沖縄人③親泊朝省(軍人) 日本従属の精神体現」

2003年11月8日 『沖縄タイムス』新城栄徳「うちなー 書の森 人の網⑩親泊朝擢」
戦後、一家心中した「親泊大佐」のことを大城立裕氏や豊川善一氏、井川良久氏、澤地久枝さんが書かれているので、私はその祖父と父について紹介する。『沖縄大百科事典』の親泊朝擢はかつて台湾に居た川平朝申氏が執筆している。1916年の『沖縄県人事録』に朝擢が北谷尋常高等小学校長として掲載され、1937年の『沖縄県人事録』には無く弟の朝輝が小樽市助役として掲載されている。

朝擢は1875年、父朝啓、母ウトの二男として首里大中に生まれる。父の朝啓は伊江朝助の随筆に「時の評定所は浦添朝昭の大虎の下に、虎小(グワー)と称する秀才があった。外間完薫、親泊朝啓、諸見里朝奇、比屋根安栄である」と出てくる。このうち浦添と朝啓は設置されたばかりの沖縄県庁に勤務。朝啓が丸岡莞爾知事死去に際しての追悼歌「月花につくす心はいく千代もふみのかかみに見ゆる君かな」。

笹森儀助『南島探検』に「1893年9月2日、県庁編纂主任掛親泊朝啓(琉球人)来訪ス、談、武器及其沿革ニ及フ」と朝啓のことだ出ている。ちなみに同書は琉球新報創刊にもふれている「9月23日、去ル15日ヨリ『琉球新報』ヲ発兌セリ、東京ヨリ記者2名来リ(略)開筵ノ式ニ招待状アルヲ以テ、本日答礼セリ」。

幣原坦は、1894年に来沖し、その著『南島沿革史論』の「南遊史話」に「沖縄県旧慣取調嘱託員親泊朝啓君には多く質問を試み」と出てくる。朝啓は旧慣に精通している。だから97年、佐々木笑受郎が公同会運動を復藩党として『大阪毎日新聞』に運動が成功したあかつきの「内閣名簿」に朝啓の役割を司法大臣に、内閣総理が尚順で太田朝敷を書記官長と準えて通信している。

朝擢は沖縄県師範学校を卒業後、仲吉ウシと結婚。北谷、首里の小学校の訓導を経て1901年、大宜味尋常高等小学校の校長となる。この年に朝啓が死去。2年後、長男の朝省(親泊大佐)が生まれている。11年、県学務課に勤務傍ら『沖縄教育』編輯主幹となる。このころから『沖縄毎日新聞』に蓬莱庵の名前で「人物月旦」を連載した。→『沖縄教育』誌上のペンネーム/素位学人、沖の島人、しののめ生、幻、編輯子

朝擢は『沖縄教育』編輯主幹を第60号(11年4月)から102号(15年7月)まで担当した。11年8月の64号は「偉人傳」で、巻頭には「汝の立つところを深く掘れ、そこには泉あり」と記され、岸本賀昌が「我琉球」とあいさつで始まり、当真嗣合の「琉球人の胸中に蘇生して・・・」で終わっている。

朝擢は『琉球見聞録』『沖縄県案内』『沖縄県写真帖』も刊行した。その功績は大宜味小学校の像とともに刻印され消えることはない。

1911年8月 親泊朝擢・編集発行『沖縄教育』第64号 本会創立二十五記念<偉人伝>
巻頭「汝の立つところを深く掘れ、そこには泉あり。ニーチェ」
○序・・・・・岸本賀昌・沖縄私立教育会長「我琉球廣袤小なりと・・・」 
○口絵「首里城趾」「中城趾」「護佐丸之墓」「大和御神」「蔡温筆跡」「宜湾朝保肖像及筆跡」「宜湾朝保筆跡」「程順則筆跡」「儀間真常之墓」「野國總管之墓」「總管野國由来記」「自了筆」「殷元良筆」
○沖縄の代表的政治家ー向象賢 蔡温 宜湾朝保・・・・・・・・・・・・・伊波普猷
○産業界の二大恩人ー儀間真常 野國總管・・・・・・・・・・・・・・・・・眞境名安興
○名護聖人程順則・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・當眞嗣合
○二大画伯-自了と殷元良・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・眞境名安興
○劇詩家玉城朝薫・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・眞境名安興
○三山統一の英主尚巴志王・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・親泊朝擢
○南島の忠臣護佐丸・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・當眞嗣合

○1917年8月 親泊朝擢『沖縄県写真貼』小沢書店
□名筆ー蔡温  程順則  宜湾朝保  尚温王  尚育王 
□名画ー自了 殷元良 小橋川朝安 筆山


1913年ー写真中央が横山健堂,、右より伊波普猷、当真嗣合、伊江朝助、親泊朝擢、太田朝敷、崎浜秀主

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前列右から、嵩原安冝、神山政良、漢那憲和、尚昌、太田朝敷。他に親泊朝擢、東恩納寛惇、上運天令儀、山田真山らが居る。1915年「尚昌侯爵帰朝祝賀会」東京沖縄県人会

1920年、親泊朝擢上京し、東京高等師範附属小学校書記。


1933年7月 仲宗根源和『沖縄縣人物風景寫眞』同刊行会〇写真左から親泊朝省陸軍騎兵中尉、漢那憲和海軍少将、長嶺亀助陸軍大佐

1934年、親擢の子が朝省である。第一子の長女ツルは、 テレビなどで活躍した料理研究家の岸朝子の母と書けば親泊家もその時代もすこし身近に感 じられるだろうか。朝省と朝子は叔父と姪の間柄になる。長女ツルが嫁いだ宮城新昌(しんしょう)は、国頭(くにがみ)農学校卒。移民を引率してアメ リカに渡り、カキの養殖を志しカナダで日英合弁の水産会社をおこして重役になるなど、事業 家肌の人であった。1913年に帰国し、カキの養殖で「世界のカキ王」とも呼ばれた。 垂下式カキ養殖法を考案し、宮城県石巻市で実用化に成功し、種ガキの生産と技術者の養 成につくした。宮城の産み出した垂下式は、縦に長く吊り下げる事により深海での養殖も可能 となり狭い海域でも大量の生産が出来る事から東北のリアス式海岸にマッチした養殖法は全 国にも広がった。沖縄の実業家、宮城仁四郎氏は新昌の従弟にあたる。

岸秋正と岸文庫(県公文書館)
20歳になったばかりの宮城朝子は、叔父朝省の肝いりで、朝省の香港攻略戦以来の仲で あった、岸秋正と見合いに続き朝省・英子が仲人をつとめ結婚した。(朝省はガダルカナルで の岸秋正の中隊長としての行為に感服・感動していた。) 岸秋正は愛知県出身、陸士51期。宮城朝子は東京高等師範附属小学校から府立第三高 女に進み、女子栄養学園で学んだ。 岸秋正は戦後、沖縄関係資料の収集家として知られ、1995年に没したが、1997年、妻の朝子により、蔵書11,000冊が沖縄県公文書館に寄贈された、岸文庫と命名された蔵書には『琉球神道記』や『中山伝信録』『沖縄法制史』など希書が多数含まれている。

みどり風通信「親泊朝省の生い立ち」「みどり印刷」←iここをクリック

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Posted by: ryubun02
 横浜・新聞博物館で開催されている「よみがえる沖縄1935 」の写真企画展に寄った。天気にも恵まれ周辺の横浜スタジアム、中華街から山下公園一帯はすごい人出の上にトライアスロンの世界大会当日で港周辺は過熱気味でした。新聞博物館玄関ホールの吹き抜けには巨大な新聞輪転機が設置されている。明治時代に使われていたイタリア製マリノニ型輪転機というすごい年代物印刷機だ。





よみがえる沖縄1935
2018 3.31(土)-7.1(日) ニュースパーク(日本新聞博物館)
朝日新聞記者が1935年に沖縄で撮影した写真の数々が展示されている。1935年、太平洋戦争末期の10年前だ。にぎわう那覇の市場、のどかな軌道馬車(那覇⇔糸満 約9キロ)、糸満の漁師たちーー。人工知能(AI)技術と住民の記憶をもとにカラー化した写真数点を含む約100点。「海洋ニッポン」は、糸満を7回、古謝(現在の沖縄市)、久高島、名護を1回ずつ計10回連載。「海洋ニッポン」というテーマのせいか取材地は糸満が多い。1935年という撮影年月日が判るというのは資料としてとても貴重だ。1935年は満州事変(1931年)後、日中戦争(1937年~)前で、沖縄も含めて日本が総力戦体制に向かう時代、沖縄がどんな状況下にあったかということも念頭に入れて観て欲しい。


2017年7月 朝日新聞社・沖縄タイムス社『沖縄1935』朝日新聞出版〇右写真ー右から朝日新聞社の守山義雄記者、「海洋ニッポン」にカットを描いた安仁屋政榮、玉城瑩、豊平良顕

1935年1月23日『大阪朝日新聞 九州朝日』「猫の手も欲しい黒糖の製造期 沖縄農村の初春風景」(写真ー改良型圧搾機)
1935年3月8日『大阪朝日新聞 九州朝日』「沖縄の模範部落②小湾 古謝」
1935年6月21日『大阪朝日新聞 九州朝日』「琉球商人の海外雄飛 那覇市の県立図書館で 文献”歴代寶案„発見さる」
1935年7月11日『大阪朝日新聞 九州朝日』「ブラジルの制限を尻目に新天地へ飛躍 南洋ペルー渡航は激増す さすが移民県”沖縄„」

1935年7月13日『大阪朝日新聞』守山義雄・記/藤本護・撮影「海洋ニッポン(1)裸一貫、度胸の塊り 海底に”ふか„と闘ふ 果敢無雙・琉球の糸満漁夫」
1935年7月14日『大阪朝日新聞』守山義雄・記/藤本護・撮影「海洋ニッポン(2)転覆するが、浮く 遠洋を”歩く„舟 原始的らしくてまさに流線型 糸満名物の”刳舟„」
1935年7月15日『大阪朝日新聞』守山義雄・記/藤本護・撮影「海洋ニッポン(3)透きとほる深海に 裸人群像の活躍 謎! 息もつかぬ追込み漁法 泡は悲壮のS O S」
1935年7月16日『大阪朝日新聞』守山義雄・記/藤本護・撮影「海洋ニッポン(4)女権の町・糸満の珍景 夫婦が濱で取引 亭主の漁獲を女房が買取る 露呈する個人主義経済」
1935年7月17日『大阪朝日新聞』守山義雄・記/藤本護・撮影「海洋ニッポン(5)荒海稼業の大声 舟唄も奪はれて 衣類を食べる危険線上の勇士 よく稼ぐ女性群」
1935年7月18日『大阪朝日新聞』守山義雄・記/藤本護・撮影「海洋ニッポン(6)糸満第二世達は 武勇伝の持ち主 我子に腰縄うって海に落す 峻烈な”獅子„」
1935年7月19日『大阪朝日新聞』守山義雄・記/藤本護・撮影「海洋ニッポン(7)碧眼漁夫が驚いた ”魚„か”人間„か ”一潜り百両„の沖縄漁夫 海外制覇の朗話」
1935年7月20日『大阪朝日新聞』守山義雄・記/藤本護・撮影「海洋ニッポン(8)深夜の共同耕作に 娘達は松明係り 蘇鉄地獄の汚名そそぐ”古謝„ ユートピア建設へ邁進」
1935年7月21日『大阪朝日新聞』守山義雄・記/藤本護・撮影「海洋ニッポン(9)女護ケ島に残る 奇習”貞操試験„ めづらしい共有地割 牛馬も犬もゐない 仙境・久高島」
1935年7月22日『大阪朝日新聞』守山義雄・記/藤本護・撮影「海洋ニッポン(10)人間群と巨獣群が 海上の大闘争 忽ち下る全町総動員令!? 名護湾の海豚狩」
1935年7月31日『大阪朝日新聞 九州朝日』「暴力団検挙続く すでに二百二十名に上る 那覇署の大活動」

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2018年5月27日ーなるみ堂のお客さん(ペンシルベニア州フィラデルフィア出身)/儀間比呂志絵付けヤチムン


2018年5月12日なるみ堂のお客さんーバージニア州から来沖の御夫婦(イギリス系男性、ドイツ系女性)とコインコレクターの男性/比嘉清敏氏(那覇大綱挽保存会)、翁長良明氏

2018年5月12日なるみ堂のお客さんー東京の大学で美術を専攻しているポルトガル人、翁長良明氏/2016-11-20なるみ堂のお客さん


2015年9月17日 なるみ堂で左が翁長良明氏、宮城篤正氏


2017年12月22日なるみ堂ー左が下地常雄氏、翁長良明氏/2015年『新政界往来』8月号 下地常雄「回想録ー身を助けた祖母の言葉」 2017年『現代公論』冬号 下地常雄「米国トランプ大統領を表敬訪問」


2017-8-27 なるみ堂で

なるみ堂の三本足のカエル 三脚蟾蜍(せんじょ). /2016-9-26 なるみ堂のお客さん

西村西望「作品」
北村西望ー彫刻家。長崎県生。東美校卒後、同校教授を務める。代表作に文展特選の「晩鐘」「長崎平和祈念像」等がある。芸術院第一部長・日展名誉会長・日本彫塑会名誉会長。文化功労者。文化勲章受章。昭和62年(1987)歿、102才。 →コトバンク

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2018年5月5日『沖縄の軌跡』第188号《静子さん・志多伯克進を語る》 編集発行人・島袋和幸(葛飾区四ツ木4-18-10 携帯090-4920-6952)

志多伯克進「酒禮門」新宿・歌舞伎町
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上ー志多伯克進(1908年2月~1979年3月14日)写真ウラに「1936年6月、ある同志のカメラに向いてー志賀進」と記されている。

□1960年10月『オキナワグラフ』ー新宿の人気男「志多伯のおやじ」新宿コマ劇場の横丁にある”コマ小路”というバー街に、この春から異様な門構えのアワモリ酒亭ができてなかなか繁昌している。
屋号は「酒礼門」。勿論”守礼之門”をモジッてつけたもので、故伊江朝助男爵が名付の親だということだが、ゲン語学者の石川正通先生にいわすと、その語イはー酒の友こそ真の友 礼を守りて盃酌めば 門は大道無門にてーだそうだ。
 店構えが異様なら、ここの主人もまた変わり種。志多伯克進という名前からしてコクのよい銘酒を思わせるが、無類の好々爺で、ジュクの酒徒からは”シタハクのオヤジ”と愛称されている。
目マユがこく長く、デップリ太って、みるからにアワモリ天国のエビス様とう感じ、いつあっても、赤ら顔に満面笑みをたたえてさも愉快そうに話し出す。どんな酒癖の悪いインマヤーでもすぐなついてくる。
しかし、このオヤジが庶民の街で名物オヤジとしたわれているのは、ただこの人がお人好しだということばかりではなさそうだ。この人には往年の社会運動の体験から得た”庶民哲学”とジュクのヨタ公共をまかす位の”度胸”が備わっている。愛すべき志士だ。このスジ金の入ったところがまた魅力となって学生や労働者たちに好かれるのだろう。
 この人の哲学というのは、先ず人間は平等だということ、第2に貧乏人を蔑まず金持を恐れないこと、第3に真心を以って事に当たること、だそうだが、これはやはり戦前の社会運動時代に豚バコにブチ込まれたり、法廷に立たされた苦闘の中から生まれたものに違いない。非常に正義感が強い人で、終戦直後、新宿のテキヤ安田組を向こうに廻して空手で打ち負かしたという武勇伝は有名だが、いまでもヨタ公同志の決闘に”流血を避けるため”顔をかすこともあるという。
 都内の泡盛屋は大小入れて40軒を数えるといわれるが、この総元締格が志多伯のオヤジさんである。泡盛屋の歴史は古く、昭和12年に若い奥さんと大塚駅前で「デーゴ」を開いたのが始り、それからまもなく本所深川の「泡泉」に移った。新宿駅西口に乗り込んだのは終戦直後。ヤミ屋の横行する焼跡で「志多伯」の赤チョウチンを下げ、カッポウ衣に前カケをしめてジュウジュウ鳥焼きとアワモリのサービスに励むかたわら、西口の開拓にも力を注いで今日の繁華街を築きあげた。独得な風貌と誰にも好かれる人柄と親身の世話焼きで忽ち西口の人気オヤジとなり、つい最近まで飲食組合の会長にまつりあげられていた。
 『オヤジもトウトウ成り上がったかー』東口に酒礼門を開いたとき西口店のナジミがこう歎いた。お座敷酒亭より西口の番台でバタバタニコニコしていた方がオヤジらしい、ということだろうが、しかしオヤジの庶民性はどこへ行っても消えうせない。むしろ新しい酒礼門こそ庶民の酒亭だ。そこには南の芸術がある。文化がある、ラフティを食べ、アワモリを酌みながら踊りをみる。<しかもフトコロの心配もない、なければオヤジに話せばわかるのだー。あなたふと讃酒之仁義ありという 酒礼門にて酔い泣かんかも(石川正通)




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与謝野晶子が山城正忠に贈った色紙


山城正忠自画像

1901年  沖縄県立病院及び医生教習所、産婆養成所を久茂地に移転
1902年  楊長積(永井長積)那覇に歯科医院開業
  
 山城正忠が那覇尋常高等小学校のとき、校長だった山城一は鹿児島県出身で慶応義塾に学び教員に。鶴のように瘠せて背は高かったと教え子はいう。山城一は頑固党の首魁・義村朝明から李鴻章の密使と称し、清国援兵の資金ということで大金を騙し取った男で、山城正忠はこの事件をモデルに「九年母」を書いているが、後に山城は、「私が東京にいる頃、小杉天外先生が経営されていた『無名通信社』の小使をやっている変わりものの老人があった。それを主人公にして、中村星湖氏がかいた『短刀と判取帳』という短篇小説があった。それが誰あろう。山之城先生のなれの果だということを、作者からきいて驚いたことがある。」と『那覇尋常高等小学校四十年記念誌』に書いている。


 1903年3月11日『琉球新報』小きん(山城正忠)「病詩人『ゴルギー』を思ふ」○花も咲かず緑もなきロシアの白雪曀々たる荒野に一時運命の寵児として世界の評壇に喧伝されたる詩人ゴルギー①
①マクシム・ゴーリキー(Максим Горький, 1868年3月28日(ユリウス暦3月16日) - 1936年6月18日)は、ロシアの作家。本名はアレクセイ・マクシーモヴィチ・ペシコフ(Алексей Максимович Пешков)。ペンネームのゴーリキーとはロシア語で「苦い」の意味。社会主義リアリズムの手法の創始者であり、社会活動家でもあった。→ウィキペディア

1904年  医生教習所の砂辺松勁出征で山城正忠が後任に任命される。
1905年  山城正忠、青山第四聯隊入隊。三念・高江洲康健と広津柳浪を訪問する。
 
1932年5月15日~ー『琉球新報』「あの頃を語る/山城正忠氏の思出ばなし」
山城正忠氏は今更言ふまでもなく本県文壇の大御所。自ら萬年文学青年と言ひ沖縄に文藝の芽が萌え出してから幾多の変遷多き文学思潮に染め上れて来た人。近く来県の噂ある与謝野晶子女史の愛弟子として歌才豊かに。同氏から明治時代における文学志願者の苦闘の思出を聴く。
  (略)石川啄木は痛快な男であった。何時も思索しているやうな瞳でものをみる。彼が私にくれた手紙がある。
  復啓、玉稿昨日早朝正に落手仕候。日毎に新聞の続き物に追はれ居候のと、雑誌昴「スバル」のため寸暇を得ず今朝までまだ拝見致しかね居候。今出かけるところ、帰ったらすぐ拝誦可仕候。外出不定なれど夜分は大抵在宅今日は夕刻より屹度居る筈に候へば若しお暇に候はば御散歩がてら御来遊如何。大学の正門(赤門ではなく)の前から西に入り映世神社の向かって左の横手を真直に一町半坂の上の右側がこの宿に候、電話は下谷乙867番。 四十一年十二月二十一日 石川啄木
      (以下略)

石川啄木と山城正忠
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1937年6月『月刊琉球』山城正忠「啄木と私」
○山里君の出題によって、斷れぎれに浮かんで来る記憶を、その場でその儘、まとまりのない覚書にして見たのがこれ。私がはじめて琢木に会ったのは、その頃千駄谷に有った、与謝野先生の家であった。明治何年であったかはっきりしないが、与謝野寛年譜に拠ると、明治38年、皇紀2565、西暦1905年に私は新詩社同人となっているから、少なくともその翌々年位であらう。私と一緒に同人になった連中には、吉井だの北原だの、長田兄弟だの、それから木下杢太郎で盛名を馳せた現在東北大学にいる太田正雄が帝大の金釦で時々顔を見せ、箱根の水難が奇縁となり、天下の名妓萬龍を射止めた恒川石村、今の岡本一平氏夫人かの子さんがまだ大貫姓を名乗っていた。石川は明治三十四年に社中同人となり、私などのはいった頃には、既に鬼才を認められて、可なりその名が喧伝されていた。何でも雨のひどく降りつづく日であった。皆が白地の浴衣着ていたから夏の眞盛りであったとおもふ与謝野先生の家の都合で、近所の生田長江先生の客間を拝借して連中が集まった事がある。とにかく十名内外だったと覚えている。一座の中に、どう見ても気に喰わない男がひとりいた。歳からいふと私より二三下だといふ見当だが、それを寛先生や周囲の人たちが、いやにちやほやしていた。それに関わらず、本人は口数少なく、絶えず天の一角を睨んでいるやうな態度を持していた。青ン張れた顔で、どこか漱石先生の「坊ちゃん」にでてくる「うらなり」といふ感じだったが、それでいて、何かしら、犯しがたい風格と、ただならぬ気魄のあるのを私も見のがさなかった。

その男が突然私に向かって「山城君。君のくにじゃ、今でも人が死んだら喰ふのかい」と、飛んでもない質問をされて、一時カッとなった私は「馬鹿言へ、そんな事があるか」とハネかえしたのを与謝野先生がうまく取りなされた事があった。その場ですぐわかったが、それが誰あらう、わが石川啄木の奴だった。以来私は急速に彼と親しくなり、おれは北だ、貴様は南だ。ひとつ、大ひに提携して、東京の奴等を押へつけてやらう。といふ、盟約まで申込ませる仲になった。ああ、それなのに。といふ慙愧に堪へない私である。しかしそんな事はどうでもよい。今慶大にいる文学博士茅野粛々が、京大に赴く送別歌会の日、「鉢」といふ題で喝采を博したのが、啄木の「怒る時必ず鉢を一つ割り」といふ歌であり、もう一つ、彼が、何かの興行のビラになぞらへ、、寛、晶子、を横綱格に、北原吉井を大関格にしやっと入幕といふ所に、富田碎花、北川英美子、長島豊太郎、山城正忠といふ戯書を認めたのも、その日の会合だったとおもふ。それが現在、新しき村の長島豊太郎が表装して珍蔵しているらしい。


降って明治四十五年頃だと思ふ。当時石川は、本郷の蓋平館別荘にいた。閑なら遊びに来ないかといふ端書に接し、どこかの宴会がへりのささ機嫌で行ったら、別荘とは言へ、実は高等下宿の別棟で、それも特別狭い部屋に屯していた。酔ふていたので、何を話したかよく覚えていないが、その頃彼のかいていた、東京日々かの連載小説、「島影」のモデルが中心となり、それが彼の初恋に及んでいた事は確かである。どういふわけか、厨川白村博士や平野萬里に対して心よからず思っているやうな話だった。それから後の記憶は朦朧としているが、何かの行違いで彼と私の口論となり、結局「貴様とは絶交だ」と私の方で席を蹴って起ち、玄関から出る処を「馬鹿、つまらん事で誤解するか」と、追ひすがってたしなめられた事をかすかに覚えている。かうして私は、天下の石川啄木と別れた。いくばくかもなく、おもひがけない訃報を、私は郷里に於いて受けたのである。大正15年の夏、函館郊外の立待岬にある彼の墓地を訪ふた私は、ただただ、人の世の辞句を忘れた感慨があった。

 1912年5月『沖縄教育』第七十三号(編輯兼発行者・親泊朝擢)山城正忠「琉球の二大彫刻家 梅帯華と梅宏昌」○緒言 近時最も喜ぶべき消息に接した、といふは別のことではない。我琉球の畫聖自了が、今度『大日本百科大辞書』といふ、浩瀚なる大著の中に載録されて、弘く世界に紹介されたことである。これより先、昨年の八月琉球教育会の事業として編纂された『偉人傳』中にも先進笑古眞境名安興氏の筆で『畫伯自了と殷元良』の傳記が併録された。そのなかに、首里龍潭池上に架せられた、世持矼の右欄畫は、口碑傳説に拠ると、彼の琉球丹青界の巨臂、自了の作だといはれている、といふことがあった。私は幼少の頃にも一度さういふことを聞いた記憶を持っているしかしそれも歳月と共に、漸次印象が朦朧となっていたが、同氏に依って再び鮮やかな印象の色彩を喚発したのである。而し未だ文献の徴するものがないので、その真偽の程は確証されない相だが、私はどういふものかそれを事実として見たい。そこで、依前は路傍の砂塵にまみれた、無名の作品として一瞥も与へなかった死畫の魚も、急に芸術的価値を論究されるに至った。若し果たしてそれが眞なりとしたら、轍鮒の水を得て再び泳ぎ出したやうな観がある。その後私は数々該橋を通って見たが、そのたんびに絵画の鑑識に乏しい愚眼にもあの彫刻魚の尾鰭が、藻草と小貝の間にからまって、溌剌として動くやうに思はれる。遡って畴昔、冠船渡来に際して池上に龍舟を浮かべ、当時恐ろしく権勢を張っていた冊封使を歓待したといふ、歴史を想像して見ると古式の衣冠帯束の色彩と、あの藻草に鯉魚の彫刻をして、模様画風の石欄画との調和がよほど風韻を帯びている。(華国翁は是を否定していられるらしい)又或人の話に依ると、嘗て岡倉覚三氏も、此両画伯の作品を激賞して『琉球特有の名画』といふ讃辞を吝まなかったといふ。自了は又唐人杜三策や、本邦狩野安信をも驚歎せしめた程の名人である。而しこんなことは人の皆能く知る処、敢えて説く必要もあるまい。

 私はこの彫刻の魚を見たり攷へたりする毎に、連続して近代の偉人、琉球彫刻界の二大明星田名宗經翁(梅帯華)並びに其息宗相翁(梅宏昌)の英姿を髣髴として思ひ浮かべずには居られない。故人は実に琉球王国最後の芸術家である。

 却説、近来漸く琉球史開拓の機熟し、先輩諸氏の薀蓄せる学識と彩筆を、これら郷土の偉人傳記に傾注されつつあるのは、民族教化、並びに社会教育上、実に慶ぶへき現象である。独りこれのみではない。祖先崇拝の徳を涵養するに就いても、亦多大の効果を奏するであらう。

 而し我が田名筑登之親子の事績に至っては、世に之れを伝ふるもの少なく、大分人々の記憶も薄らぎつつあるやうだから、私はその湮滅を恐れ、聯か禿筆を呵して伝記の概略を叙べて、見たいと思ふ。殊に故人はわが字の偉人で、若狭町の誇りである。その関係から言ふても、これは当然私共の義務であるかのやうに考へた。而し私は素より歴史家ではない。加之浅学菲才、此任に当る器ではないが、要はただ、今迄私の手で調査蒐集した零碎な材料を一纏めにして、識者の劉覧を煩し、併せて学者の御教示を須つのである。・・・・
1920年11月  東京歯科医師会、ライオン歯磨本舗と「虫歯デー」実施  柴田米三(東歯)、小那覇全孝(日歯)在学中で参加。   
      12月4日  沖縄県歯科医師会設立総会(於 天理教会)会長・佐々木義一、副会長・楊長積(永井長積) 

1923年3月28日 沖縄県歯科医師会 役員改選で会長・山城正忠、副会長・今井小四郎
1925年1月 『沖縄教育』144号(又吉康和 編) 山城正忠「絵を描くある男との話ー師走のある日、午後のことーそれに死んだ麦門冬のことを思ひ出して、さらでだに、心が晦くなっている矢先ですから、そういへば、末吉さんはほんとにお可哀想なことしましたね。 全くです。つまらんことをして呉れました。これからがほんとうに、彼の生命の、ぐんぐん延びるところでした、だが一面から考へて見ると、彼らしい最後を遂げたとも言へます。『ねがはくは花の下にてわれ死なん』といふ句を、套口のやうに讃仰していましたからね。・・・」

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○1994年12月季刊『地域雑誌 谷中・根津・千駄木』もり・まゆみ「郁文館訪問記」
1994年12月 地域雑誌『谷中・根津・千駄木』(この地域は江戸の頃から文人が住まい、後に鴎外や漱石などの文豪が居を構え、東大や芸大が近い関係上、多くの作家や芸術家が過ごした街である。)其の四十一 谷根千工房

ウィキで見ると、郁文館の著名な出身者として、石原純(物理学者)、今西龍(東洋史学者)、潮惠之助(内務次官、内務大臣、文部大臣)、押川清(東京六大学野球・早大投手、野球殿堂)、河合栄治郎(東大自由主義知識人。府立三中へ転校)、伊東優治 (早大卒。社会学者)、栗田貫一(お笑いタレント)、柴田常恵(考古学者)、杉浦茂(漫画家)、副島千八(農林大臣、商工省商務局長 / 佐賀中学から転校)、松岡映丘(日本画家)、宮城長五郎(司法大臣、長崎・札幌控訴院検事長 / 塩野季彦閥として司法相就任)、物集高量(国文学者)、泉二新熊(法学者)、柳田國男(民俗学者。共立学校から転校)、土山剛弘 (日本野球機構 審判員)、大久保雅史(プロボクサー、第38代東洋太平洋フライ級王者。日比谷高校定時制に転校)であるが、それ以外に職員として土井晩翠、中野好夫。生徒に平野萬里、宮良当壮などが居る。

物集高見/物集高量
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上は高見の短冊/昭和55年4月日本書房発行『続・百歳は折り返し点』、日本書房からは2010年10月に高橋淳子(沖縄料理店『抱瓶』会長)自伝『ただ、誠を尽くして浮世を渡る』が出ている。私は1974年頃、高円寺の球陽書房の西平守良さんに連れられて近くの「きよ香」に行ったことがある。
もずめたかみ【物集高見】
1847‐1928(弘化4‐昭和3)
国語学者,国文学者。豊後国(大分県)杵築(きつき)出身。国学者物集高世の長男。玉松操,平田銕胤(かねたね)に国学を学び,洋学,英語も修めた。明治維新後神祇官史生となるが,のち東京帝国大学文科大学,学習院などの教授を歴任。《言文一致》(1886),国語辞書《日本大辞林》(1894)をはじめ多くの編著書があるが,《広文庫》(20巻,1916)は30余年を費やし家産を傾けて完成したもの。五十音順の類書形式の百科辞書というべく,《群書索引》(3冊)とともに復刻版も出された。(→コトバンク)
物集高量 もずめ-たかかず
1879-1985 大正-昭和時代の国文学者。
明治12年4月3日生まれ。物集高見(たかみ)の長男。教員,新聞記者などをへて,父の「広文庫」編集(大正5年完成)に協力。同書は昭和51年に復刻され,高量の長寿とともに時の話題となった。昭和60年10月25日死去。106歳。東京出身。東京帝大卒。著作に「百歳は折り返し点」。(→コトバンク)


1997年 熊本県観光連盟『くまもとの旅』№93「特集・新『五足の靴』紀行ー白秋たちが歩いた天草から阿蘇を旅する。」

 5月9日ー午前、港町・新星出版、天久・琉球新報社新聞博物館の帰途、沖縄県立博物館・美術館。隣の新城良一氏に遊びに行く。良一氏から森まゆみの新刊『「五足の靴」をゆく ー明治の修学旅行』平凡社を読めと、貸してくれた。始めに「東京は渋谷の道玄坂に東京新詩社跡の碑がある。与謝野鉄幹の主宰した詩歌誌『明星』の発行所である」と記されている。

 1949年 平野萬里『晶子鑑賞』「正忠を恋の猛者ぞと友の云ふ戒むるごと そそのかすごと 正忠は山城正忠君の事で、琉球那覇の老歯科医である同君は年一度位上京され、その都度荻窪へも立ち寄られた。同君は古い明星の同人で、若い時東京に留学されその時先生の門を叩いたのであるから古い話だ。当時一しょに私の家などで運座をやった仲間の生き残っているのは吉井君であるが、大家を別とすれば今だに作歌を続けているのは同君位のものであらう。戦争で大分辺に逃げて来て故江南君によると単衣一枚で慄へて居られるから何か著物を送るようとの事であったが、その時は最早小包便など利かなくなっていたので如何とも致し様がなくその儘にしてしまったが今頃は如何して居られることだらうか。・・・・』と記されている。
平野萬里
ひらのばんり(1885-1947)
埼玉県遊馬村生まれ。本名久保(ひさよし)。 6歳で上京、東大工学部応用科学科卒。早くから文学に関心をもち、岡野知十主宰の俳句雑誌「半面」などへの投稿のかたわら、一高俳句会にも名を連ね、同時に与謝野鉄幹に師事して短歌に親しみ、「明星」の若手同人として活躍した。処女歌集『若き日』(1907)には、青春を歌った夢幻的な抒情が特色をなしている。「明星」終刊後はつめに新詩社系統の消長に身をゆだね、「ス バル」・第二次「明星」・「冬柏」・第三次「明星」の各創刊に参画、旺盛な活動を展開した。しかし新詩社の正統にこだわりすぎてついに生涯、その作風を大きく飛躍させることができなかった。遺稿集に『晶子鑑賞』(1949)がある。/「日本現代詩辞典」より


1961年2月 野田宇太郎『文学散歩』第2号 雪華社
1971年10月野田宇太郎『改稿東京文学散歩』山と渓谷社「ーわたくしは昭和38年7月に詩人の山之口貘が亡くなりその葬儀が雑司ヶ谷墓地の葬儀場で行われたのに参列し、帰りに漱石の墓に詣でたとき、たまたま夏目家にやとわれたという一人の植木職が、鏡子夫人の遺骨を納めるのに先の漱石やひな子の遺骨を捜すために、墓石の下を深く掘りひらいているところに出会わした。ー」

野田 宇太郎(のだ うたろう、1909年(明治42年)10月28日 - 1984年(昭和59年)7月20日)は、日本の詩人、文芸評論家、文芸誌編集長。福岡県三井郡立石村(現小郡市)出身。朝倉中学卒業後、第一早稲田高等学院英文科に入学するが、病気により中退。1940年(昭和15年)に上京し、小山書店に入社。その後第一書房、河出書房を経て、1944年(昭和19年)文芸誌『文藝』の編集長を務めた後、東京出版に入社。衆議院議員の羽田武嗣郎(羽田孜の父)と交友があり、彼が創業した羽田書店の顧問も務めた。1951年(昭和26年)、日本読書新聞に『新東京文学散歩』を連載。後は博物館明治村の常務理事を務める。出身地の小郡市には、野田宇太郎文学資料館がある(小郡市立図書館内)。1985年(昭和60年)、小郡市に野田宇太郎詩碑が建立された。ウィキ


1972年5月 太田臨一郎『古書展覚え書』(古通豆本・11)/1988年11月 弥吉光長『チェンバレンの交友』(こつう豆本・82)


1986年3月 八木福次郎『古本屋の手帖』東京堂出版〇古本屋という商売/古本屋とのつきあい/古書販売目録/古書即売展/古本屋巡りのガイドブック/容易になった複製出版/肉筆物の人気ー真物・偽物
ー/署名・書入れ本/カバー1枚が何万円/蔵書印と蔵書表/戦後書票集書目を作成して/原稿用紙と自筆原稿/蔵書の行くえ/明治本の夜明け/明治の個人全集/古書街と学生/図書館に思う/小説のなかの古本屋/百万塔/『自由詞林』の謎/奇蹟の出現『楚囚之詩』/複製と復刻/『鳳雛』を追って/新体詩集でなかった『魂迷月中刃』/幻の本『社会主義詩集』/埋もれていた『社会主義の詩』/北原白秋『邪宗門』の扉/青磁社版『古代感愛集』/明治本あれこれ/処女出版本のなかから/この人にこの本/ホクロにまつわる二つの話/豆本の話/こつう豆本七十一冊/明治大正の小型本/近代文学にちなんだ菓子/木村毅先生の思い出/少雨荘・斎藤昌三翁/柴田宵曲さん/森銑三先生/高橋邦太郎さんのこと/水曜荘・酒井徳男君/本のなかで五十年

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1971年4月 沖縄の雑誌『青い海』創刊号 大城立裕「復帰と青春」

最初に出会った人物伝
 大城立裕・新里金福著『沖縄の百年』第一巻の人物編を1970年に入手した。これは大城氏の芥川賞受賞の年に『琉球新報』に連載したものをまとめたものだ。連載のときから興味津津、面白く読んだが、筆不精の私はこのとき著者(作家)たちや新聞記者を別世界の人間だと思っていた。だから関心があった末吉麦門冬を大城氏が執筆されても会いに行こうとは夢にも考えなかった。救ライの青木恵哉などは「愛楽園文芸部」結成からのつきあいがある大城氏が選定したものであろう。

 大阪・沖縄関係資料室には、石野径一郎、霜多正次と並んで大城氏の著書が、それぞれ10冊以上はある。大城氏の場合はほとんどが氏の寄贈だ。大阪府立中之島図書館にも大城作品は揃っている。私は、資料室の西平守晴氏から寄贈の返礼も兼ねた「般若心経」の文字がある湯飲み茶わんを託され、首里の大城氏のご自宅を訪ねて以来面識を得た。

 新里氏は大城氏の芥川賞受賞の年の前年、未来社から『沖縄の思想』を出している。その中に「『沖縄からは偉い人物がでていない。特に文学者がいない』大宅壮一が沖縄でいったというこのことばが、ここで改めて思い出される。沖縄はいつまでも差別と貧困を売りものの退嬰的な即物主義でもなかろう」と書いている。

 新里氏とは大正区の会合で出会い、『青い海』編集室で関広延氏との対談をやってもらった。後、ホテルで私のホラ話を氏は我慢して聞いてくれた。後日「戦後の沖縄の若い世代それもとりわけ働く人々の間に先鋭な問題意識のたくましく育ちつつある事実を確認することができた」と書かれた氏からの手紙が届いた。手紙は今も手元にあるが氏はすでに亡い。

『沖縄の百年』の人物伝は関係者(証言者)が少なくなりつつある現在では貴重なものだ。今のレベルで疑問があったとしてもここから出発するしかない。最近、地域史の女性たちから、漢那憲和の母を調べている中野利子さんに協力してくれといわれた。憲和の伝記『天皇の艦長』には母と弟についての情報は少ない。

東恩納寛惇は憲和の追悼文で漢那の母のことを「漢那小の阿母」と親しく記している。寛惇は憲和の弟・憲英と1900年に沖縄中学を卒業した同窓だ。憲英は東京外国語学校に学び、教師として糸満小学校(当時の生徒・城間徳明が記念誌に思い出を書いている)、那覇小学校、甲辰小学校、那覇小学校を経て憲和が開館に尽力した開洋会館の沖縄県海外協会幹事を務めた。

  
1951年2月『文藝サロン』創刊号/1967年2月『新沖縄文学』大城立裕「創作カクテル・パーティー」


1967年10月『オキナワグラフ』「大城立裕さんに芥川賞」
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1973年4月 大城立裕『沖縄ー「風土とこころ」への旅』現代教養文庫782 儀間比呂志「表紙絵」/大城立裕氏、新城栄徳(大城宅で夫人撮影)
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コロンビア大学教授キャロル・グラックさんを囲んでーキャロルさんの隣り大城立裕氏、比屋根照夫氏、大城氏の左に新城栄徳、伊佐真一氏

  
写真左から大城立裕氏、新城栄徳、木崎甲子郎氏/大城立裕・美枝子御夫妻を囲んでー左から高良倉吉氏、新城栄徳、孫薇さん、三木健氏

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1929年8月16日『沖縄朝日新聞』知念武雄「タゴールの印象」

1936年11月『沖縄教育』243号 源武雄「記紀の神名、思金及麻良に就て」
〇はしがきー此の一篇の論旨から述べてみたい。南島の命名の民俗及び人名の原義を研究する為めに私は各地方各島々の人名、童名を出来るだけ採集した。それを採集しているうちに古事記及日本書紀、萬葉集、風土記を始め我国の古典に出て来る神名や人名の「名の本義」を独自の立場から研究してみることにした。その結果はどうであるか。先づ私を最も驚かしたことは吾々南島人の珍妙な童名は嘗て吾が日本民族が広く愛用したもので決して琉球人独特の珍名ではないことを看破したことである。何れこれに就ては稿を改めて報告したい。次に名の本義を研究していると、之迄発表されている古典研究者国文学者などの説に疑問を持つに至ったのである。そうして、之はどうしても吾々民俗学を研究しているものの仕遂げねばならぬ研究だと思い、ここに民俗学徒の立場から記紀の神名人名を考察することにした。先づその手始めに記紀の天岩戸の所に出て来る思金神及天津麻羅の名の本義を明らかにし世上流布されている古典研究者国文研究者の見解に再吟味を煩わしたいと思う。
 
(略)
以上記紀の神名、思金神及天津麻羅の名の本義に就て在来の学者の説を批判し検討した結果その誤なるを指摘し、南島民俗の資料を以て之が再吟味をなし、自己の新しき説を提示したのであるが、振り返って何故に之迄の国文研究者が之等神名の本義をつかむことが出来なかったかに就てよく考えてみる必要がある。私は在来の学者が記紀の物語を批判する心構えが不足している結果ではないかと思う。即ち記紀にある民俗をもっとも古いものとして、それ以前の考察を怠っている結果ではないか。記紀が決して古いものでない証拠には神名に沢山の民間語源説がつきまとうて、それで物語を構成している民間語源説話の出来る時代には既にそのものの原義が不明になっていた時代になっていたことを意味している。記紀の物語はそんな時代に生まれたものであって、決して原始的な本然の姿を吾々には伝えていない。故にこれら神名の原義を突き止めるには先づ記紀の物語に脚色を打破し、民間語源説話を全然離れて独自の自由な立場からその真相をつかむようにすべきであろう。

1942年5月『沖縄教育』309号 源武雄〇棺を蓋ふてその人を知るー(略)いつ会っても盛沢山の計画を胸中に描いて居られたことである。その計画を聞くことだけでも愉快であった。部落調査の話をよく聞かされたが、実はあの仕事は大変なものであった。私も二三ぺん実地指導らしいものを受けたがいや実に骨の折れる、そのうえ頭を使う仕事であった。之を一二箇所の部落でなしに全県下に及ぼそうといふ遠大な計画で実は命が一つ二つでは足りないと心配していた。しかし、之が出来上がれば沖縄の癌であるユタ、三世相は徹底的に沈黙させることが出来るのだといふのが、源一郎さんの悲壮な決意であった。ユタ、三世相を根本的に駆逐するには部落調査によって各氏族の系図を正さねばならぬ。といふのがその意図する所であった。部落調査をやっているうちに、沖縄歴史の記録に対しても意見があったらしく新しい沖縄歴史を書いてみたいと洩らしてゐられた。鬱勃たる念が胸中を去来していたのであった。こんな忍耐を要する、しかも金にならぬ仕事は源一郎さんの外にはちょっと手が出ない(以下略)


1958年3月 東恩納寛惇『沖縄今昔』南方同胞援護会「著者近影ー自宅にて郷土史研究家・源武雄君と」(外間正幸君撮影)


1965年2月 源武雄『琉球歴史夜話』月刊沖縄社□上の挿絵は金城安太郎/末吉安久(麦門冬弟)「表紙画」


1972年3月 『琉球の文化』創刊号 源武雄「結婚と貞操」


1972年3月 真栄田義見・三隅治雄・源武雄 編『沖縄文化史辞典』東京堂出版


1973年10月 『琉球の文化』第四号 源武雄「朝薫の人及び芸術についての覚書」


 1983-8-19『琉球新報』源武雄「鎌倉芳太郎先生と首里城復元」


1992年8月10日 『沖縄タイムス』湧上元雄「源武雄氏を悼む」

沖縄県立芸術大学でー湧上元雄氏(右)

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1922年4月17日『沖縄タイムス』莫夢生(末吉安恭)「陽春雑筆ー神遊は神舞」
○此の程私は上里春生君が書かれた希臘舞曲論を同君から見せて貰った・・・

1929年10月に東京の春陽堂から発行された『校註琉球戯曲集』には末吉安恭(莫夢生)の「組踊談叢」「組踊小言」が収録されていることは夙に知られている。この組踊談の初出は1924年の11月3日『沖縄タイムス』からである。

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莫夢生「組踊談叢」「組踊小言」ー沖縄タイムス紙上では「組踊小言」は11月21日まで連載された。末吉は25日には水死している。おそらくまた題を変え組踊談を述べるつもりであっただろう。

〇1924年11月4日の「組踊談叢」に麦門冬は「今は故人となった書家の仲田朝棟」とあるが、これは朝株である。1907年4月の『琉球新報』に本県書家の1人として仲田朝株とある。1912年2月の新聞の死亡広告に友人として伊江朝助の名もある。朝助は戦後の1953年7月大阪『球陽新報』に七流老人名で「狂歌のやりとりー男色で有名な仲田朝株・・・」を書いている。






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1951年7月 雑誌『おきなわ』<故人追憶特集>島袋盛敏「麦門冬を語る」
1951年7月 雑誌『おきなわ』<故人追憶特集>

大里康永「民族解放の戦士 謝花昇」/湧川清栄「先覚者 当山久三を偲ぶ」/上原仁太郎「ダバオ開拓の恩人 大城孝蔵氏を偲ぶ」/比嘉春潮「仲吉朝助氏」/仲吉良光「法曹界の恩人 麓純義氏」/平良徳助「宮城鉄夫氏の思い出」/東恩納寛惇「真境名笑古」/比嘉静観「伊波普猷先生と私」/伊波冬子「微風」/船越義英「漢那先生」/玉代勢法雲「田原法水師を語る」/比屋根安定「比嘉保彦と佐久原好傳」/島袋盛敏「麦門冬を語る」/仲原善忠「佐喜間興英の業績について」/親泊政博「新聞人、当眞嗣合」/当眞嗣弘「父、当眞嗣合」/山里将秀「八重山の生んだ音楽詩人 宮良長包先生」/新屋敷幸繁「世礼国男氏を想う」/島袋源七「故 島袋源一郎氏を懐う」/編集後記


○麦門冬を号とする末吉安恭氏は、沖縄奇人傳中の一人物たるを失わないであろう。氏は世間的な名士というのではなく、市井に隠れて読書を楽しむ風流人であった。首里、那覇の詩人墨客の間では、酒仙として親しまれていたが、一般には史家として重んぜられていた。「陋巷に在りて其の楽を改めず、賢なるかな回や」というべき類の人であった。文筆を通じて知己たることを許しあっていた東恩納文学士は、その著童景集の中に「野人麦門冬」なる一章を設けて「数年前の夏、自分が帰省した時に、物外、笑古、麦門冬を頭に描いて波止場に下りた」という追懐をのべていられる。もちろん物外と笑古は、麦門冬から見れば、はるかにシーザガタではあったが、物外、笑古の両大人は、麦門冬を決して後輩視せず、相当の敬意を払ってつきあいをしているようであった。麦門冬氏が図書館に姿を現すと、館長の伊波さんは「チャーガ、サイ」(ごきげん如何ですか)と、あいさつしておられた。山城正忠、比嘉賀秀氏等が見えると「チャーガ」といっておられた。仲吉良光氏の話によれば、伊波さんが「麦門冬は、沖縄史鑑賞家としては沖縄一である」といっていられたそうであるから、ある点では「末吉小恐るべし」という感想を持っておられたかも知れぬと、想像されるのである。
(略)
麦門冬氏の生家は、首里の由緒ある家柄で、末吉殿内といい、相当に裕福であったから、若い頃は随分トウイタカテーにされて育った身分である。父も祖父も学者で、家にはおびただしい蔵書があり、幼少の頃から色々の本に親しむことが出来、殊に歴史鑑賞の趣味は、家代々の所蔵本によって、養われたものと見ることが出来る。(略)麦門冬氏は弟安持氏と共に、兄弟詩人として有名であったが、殊に弟は兄まさりの麒麟児という名声が高く、詩華と号して、明星派(新詩社)に属し、平野万里氏等とともに明星をにぎわしていた。その頃萬朝報が、「靖国神社の桜」という題で都々逸を募集したことがあるが、この詩華氏の作が一等に選ばれて、沖縄の文学青年を、あっと驚かしたことがある。当時萬朝報の都々逸は有名なもので、これに選ばれるということは容易ならぬことであったから、詩華氏の作は、たちまちにして人口に膾炙したわけである。その都々逸というのは「心引かるる九段の桜、友の魂どの蕾」というのであった。私がこの句を忘れることが出来ないで、いつまでも覚えているのは、今から思えば何か因縁浅からぬものがあるような気がするのである。
(略)
一体に、首里の儀保の人は粋人が多く、「銭呉イヤーヤ亀川小、追ウテ喰エーヤ嘉数、暁戻ィヤ喜屋武ノ樽小」などというようなその道の代表的な人々も居り、また「儀保二才達ガ、三人揃リレバ尾類呼ビ話」というような俗謡もあるが、麦門冬氏はそういう所の人間とは思われぬ程の堅人で、絶対に女郎を買うということをせず、友人達は末吉寺ともじって「坊主」①とあだ名して言っている位であった。どことなく山寺の和尚といった風格があった。(略)上間正雄氏等と共に、タイムスの孤塁を守って、相変わらず息の長いいつまでも続く史的随筆で、紙面を飾っていたが、どこかで呑んで帰りに、ふらふらと通堂の桟橋あたりに出て、今度は海底の乙姫に招かれたらしく、遂に永遠に帰らなくなった。大正13年11月頃であった。弟は火に死し、兄は水に死ぬということは、何という不思議な運命であろう。弟が焼死したのは、東京の霜白き秋であったというが、兄が水死したのも、沖縄のミーニシ吹く冷い秋で、やはり何れも同じ秋であるのも奇しき因縁である。

①大正7年5月24日の熊楠宛書簡に莫門冬は「郷俗、男は145乃至る167才より娼妓を買ふて以て一人前の男子となりたりと誇る、而して初めて娼妓を買ふを初ズリ(娼妓をズリと称す)とし、其の先輩によりてこの洗礼を受くるを男子の職分でであるかのように如くす。小生などはツムヂ曲りにて、この洗礼を今に受くるの光栄を有せざるを以て、野暮視せられ、笑止に存じ候。」と記している。

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1971年 沖縄の雑誌『青い海』12月号 崎原恒新「文学作品にみる沖縄(2)屋良朝陳『巴旗乃曙』ー琉球の独立をめざした人びと」
 

写真左から、崎原恒新氏、新城栄徳、宮里一美さん(本部)、平良幸子さん(謝名城)、平良次子さんー南風原文化センター/崎原綾乃さん、崎原恒新氏、新城栄徳、崎原浩子さん


那覇市歴史博物館所蔵「巴旗」/左ー新城栄徳

1946年3月 屋良朝陳『巴旗乃旗』文化琉球人会(奈良市)/1971年9月 『石の声』№8

龍脈/屋良朝陳「文化琉球人会」奈良市
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文化琉球人会の刊行物
文化琉球人会(那覇聾話学校疎開・屋良学園内ー奈良市南城戸町29番地)
1946年3月 屋良朝陳『琉球秘史劇・巴旗の曙』(活版)
1946年6月22日 月刊雑誌『大琉球』6月号□樋川虔淵「國是として文化日本の建設」、「組踊・手水の縁」(朗読用)、屋良朝陳「巴党の動向」
1946年6月 屋良幾久枝『琉球史劇・長虹堤異聞』
1946年9月22日 月刊雑誌『大琉球』第三号□屋良朝陳「琉球民俗史」、樋川虔淵「日本國是として『美・仁・柔』を掲げよ」、平敷屋朝敏「若草物語」
1946年10月 月刊雑誌『大琉球』第四号□「組踊・護佐丸」
1947年7月22日 屋良朝陳・松村克彦『琉球夜話』
1947年7月29日 屋良朝陳・松村克彦『琉球年中儀令』
1947年7月22日 月刊雑誌『大琉球』第五号「組踊・國吉のひや」
1947年8月 月刊雑誌『大琉球』第一号「組踊・手水の縁」『琉球王代記・巻之一』

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題字揮毫・東大寺清水公俊師

○売笑の起源と遊女の変遷 娼婦の元祖は巫女である
○芸妓の揺籃とその成長 三味線伝来を画期として独立すー(略)茲に正親町院の文禄年間、琉球から蛇皮線が伝来し、それが堺の琵琶法師の工夫で本手、破手などの組歌が出来、次第にはやり出して小唄、地唄、長唄などが盛んに流行するようになると、従来ただ色だけを売っていた遊女の間にもこれを唄うものを生じ、又私娼の間にも堪能なるものが出来て、遂に三味線という芸だけで独立する女が出来ました。

○公娼制度の濫觴と遊廓の発達 豊太閤は遊廓開基の大恩人ーそれが一の営業として公認された形になったのは、鎌倉時代の『遊裙別當』(足利時代には『傾城局』)といふのが其の濫觴であり、更に一歩前進して公娼を保護し、且つこれを取締まるために遊廓を公許するようになったのは豊公の英断に出でたのであります。豊臣秀吉が天下を平定してから、京都に初めて柳町遊廓(後の島原遊廓)が新設されました。以後ー奈良・木辻、駿河府中、大阪瓢箪町(後の新町廓)などが出来た。・・・江戸吉原遊廓、大阪松島遊廓、大阪飛田遊廓、兵庫の遊廓

○遊里と社寺ー祭礼と遊女ー(略)琉球辻の遊廓の開祖は浦添王子の妃であると伝えられ、その命日である旧正月廿日には『廿日正月』又は『尾類馬ずりうま』と言って廓内の名妓が総出になり、花魁道中のような行列絵巻が繰りひろげられます。

平良盛吉(1890年8月28日~1977年6月28日)
羽地村に生まれる。沖縄県立一中を中退し沖縄毎日新聞記者。記者の傍ら、琉球史、琉球古典音楽を研究。羽衣、羽生、平氏、野の人というペンネームで論文、随筆を新聞、雑誌に発表。

平良盛吉・著作目録
1905年
3月ー『少年世界』第11巻第4号□平良盛吉「明けがた」/7月、平盛吉「朝顔」。
1906年
2月ー『少年世界』第12巻第2号□平良蘭月「梅花一枝」。□→斎木喜美子『近代沖縄における児童文化・児童文学の研究』風間書房。
1910年
2月4日ー『沖縄毎日新聞』平良盛吉(羽衣生)「小品・三味線」
3月14日~29日ー『琉球新報』平良盛吉「村の先生」□→1991年1月『沖縄近代文芸作品集』(新沖縄文学別冊)平良盛吉「村の先生」。

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05/05: 嘉陽安男

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写真左から星雅彦氏、嘉陽安男氏、新城栄徳

写真左から嘉陽安男氏、新城栄徳、亀島靖氏


1959年3月『船越義彰詩集』南陽印刷所

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1991年7月 船越義彰『スヤーサブロー 宮城嗣吉物語』沖縄タイムス社-右は青年時代の宮城嗣吉
□仲宗根源和の帰郷は沖縄の空手も、ぜひ「道」として高次元の探究をすべきであり、その運動が目的のひとつであった。仲宗根が三郎(宮城嗣吉)を訪ねて来た。協力をたのむと言うのである。三郎が承諾すると、仲宗根は、当時の沖縄の名ある武人訪問の案内を三郎に依頼した。三郎は屋部憲通、花城長茂、喜屋武朝徳、知花朝信、城間真繁の武人のもとへ仲宗根を案内した。→源和は1938年5月に『空手道大観』を沖縄師範学校の一期後輩の新田宗盛の東京図書から出版、1937年3月に沖縄県空手道振興協会(会長・知事、宣伝部長・島袋源一郎、指導部長・屋部憲通)が決定した空手道基本型制定も収録。ま1905年の花城長茂が書いた「空手組手」を紹介、すでに空手の名称が使われていたことを強調している。

2001年8月左から新城喜一氏、山里将人氏、船越義彰氏、新城栄徳

○屋嘉捕虜収容所。日本人、沖縄人、朝鮮人、将校の4部隊に分けられる。沖縄人部隊の本部付になる。スヤーサブローとよばれ後に沖映社長となった宮城嗣吉と同室になる。日本人部隊のやくざ崩れが沖縄人部隊をいじめたので、そのボスを宮城が組み伏せた。捕虜収容所長は旧日本軍の上等兵。米軍上陸後、いち早く捕虜になった米兵気に入りの兵隊たち。→2006年 外間守善著『私の沖縄戦記 前田高地・六十年目の証言』

宮城嗣吉と沖映演劇

前列左端が宮城嗣吉沖映本館社長と俳優たち


沖映演劇台本(翁長良明コレクション/古美術なるみ堂 ☏098-987-5530)



沖映演劇チラシ(翁長良明コレクション/古美術なるみ堂 ☏098-987-5530)


1974年6月 『沖映演劇』「第53回公演 恩納ナベ」□儀保正輝「いまはなき兄を偲んで」/宮城嗣吉□名優紹介 儀保松男の追憶ー私が大正劇場の楽屋に出入りしはじめた当時、伊良波尹吉優の一行が公演中、儀保がファンの望みで泊松茂良の「公相君(くーさんくー)」の演武を見る機会を得ましたが、筆者はいまだかって彼ほどの「公相君」の使い手を見たことがなく、今なお眼底に焼付く思いをいだいております。演武後、楽屋を訪れ教えを乞うたら「人それぞれに特意があるもの、その得意を生かす事だ」と微笑んだ千両役者の言葉に圧倒され、以来、儀保を先輩として礼をつくすようになったのです。儀保の舞踊の美しさ」、素晴らしさは、空手の鍛錬からきたものか又、儀保の固唾をのむ演武が舞踊の至芸からくるものか「演武」と「演舞」の鍛錬が一体であることは間違いないものと思われるのである。儀保15,6才の頃、同字の先輩「ジンメー小」こと比嘉仁明氏に空手の手解きを受け、首里派の使い手・新垣安吉氏と遊び、「チャンミー小」こと喜屋武朝徳翁や本部御殿の「サールー」こと本部朝基先生が一目おいておられた「板良敷のアカータンメー」こと板良敷朝郁翁に教えを乞い武の道に入らんと苦心したことなど、儀保の短い生涯に求めんとした芸道、武道への一途な姿が今でも髣髴として私の目に浮かぶのである。・・・
1974年8月 『沖映演劇』「第54回公演 逆立幽霊」□宮城嗣吉「名優紹介 眞境名由康の人と芸」

1975年2月 『沖映演劇』「第59回公演 真壁チャーンと糸満マギー/泊阿嘉」□宮城嗣吉「名優紹介 玉城盛儀」/船越義彰「『あかちら』幻想」/仲井真元楷「尾類馬の由来」/宮城嗣吉「空手雑感」

1922年2月22日  『沖縄タイムス』莫夢生「鶏聲犬語ー隈侯と山公(11)」
        側に「美しく有望な女形ー儀保松男君」記事


女形・儀保松男
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儀保松男(左)、親泊興照

大衆雑誌『芝居と映画』
1949年5月  沖縄劇場協会『芝居と映画』創刊号□編集兼発行人・高良一
山里永吉「雑談」/比嘉正義(松劇団)「劒戟役者放談」/親泊興照、儀保松男「儀保松男追憶談」/平良良勝(沖縄俳優協会長・竹劇団長)「芸道苦心談」/大見謝恒幸(梅劇団)「新俳優研究生時代の思い出」/「映画スター前身調べ 癖しらべ」/仲井眞元楷「演劇漫筆」/編集後記「沖縄で最初の娯楽雑誌としてデヴィウすることになりました。誌名に示すとうり”芝居と映画に関する一切の記 を集録して読者諸賢にまみえるつもりです」

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1976年12月 沖縄の雑誌『青い海』59号 平山敏治郎・大阪市立博物館長 「儀間比呂志さんの『沖縄』」

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1992年12月ー『新沖縄文学』新城栄徳「来訪者略年表ー1969年12月、平山敏治郎(大阪市立博物館長)来沖 」


1970年4月 『季刊人類学』1巻2号 馬場功「ひとー平山敏治郎氏」

平山敏治郎
歴史学(日本文化史)・民俗学者 (1913~)
**略歴
大正2年(1913)東京都生まれ。昭和6(1931)年、旧制成城高校において柳田国男の講演を聴く。昭和9(1934)年、京都帝国大学史学科入学。西田直二郎のもとで文化史学を学ぶ。また在学中、柳田のすすめで倉田一郎・大間知篤三・守随一らとともに山村生活調査に随行する。また澤田四郎作らによる「大阪民俗談話会」の発足に立ち会い、のちの「近畿民俗学会」において初期のメンバーとして活躍する。
昭和12(1937)年卒業(卒業論文「農民生活の歴史的展開」)、同大学院入学。同大学院終了後、同学の副手・助手・講師などを経て、大阪市立大学教授。その後、大阪市立博物館長・成城大学教授・成城大学民俗学研究所長を歴任。

**おもな著書
『日本中世家族の研究』(1980)
『民俗学の窓』(1981)
『歳時習俗考』(1984)
『大和国無足人日記―山本平左衛門日並記 (上・下)』(1988)

押入れの奥から1974年5月発行の『週刊FM西版』が出てきた。中に文・平山弓月、写真・東島安信「ヤング・スパーク’74 初の本土公演・・・琉球八重山芸能研究会」が載っている。当時、大阪市博物館長の平山敏治郎さんから「息子が琉球大学八重山芸能研究会を取材したいといっているので根回しをお願いしたい」と電話だったか忘れたが言ってこられた。すぐ沖縄関係資料室主宰の西平守晴さんに相談し琉大の学生たちに連絡が行き、音楽雑誌の記事になった。「会長の亀井保信クンは、さわやかに、こう言いきる。長い髪を指でかき上げる精悍な表情には、いささかの気負いもない。『八重山の民謡は、<節歌>と<労働歌>との二つに分けられると思うんです。<節歌>は、三味線(さんしん)や笛・太鼓の伴奏のつく歌で、これには首里の宮廷舞踊の影響がつよいようです。<労働歌>のほうは、これはもう純粋に八重山のものですね・・・』」(略)亀井クンはサンシンという。蛇皮線なんて言われると、いやな気がするそうだ。」(2011-10-2記)


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1913年
6月ー『琉球新報』大崎範一「琉球の陶器問題」連載

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昭和期ー沖縄県物産大連斡旋所主催「琉球古典焼漆器即売会」

1970年7月ー『ヤチムン研究会誌』創刊号□事務局・那覇市首里大中町1の1琉球政府立博物館内

1971年
8月ー『ヤチムン会誌』第2号□事務局・琉球政府立博物館内

1972年
3月ー『琉球の文化』<特集・琉球の焼物>創刊

8月ー『ヤチムン会誌』第3号□編集責任・宮城篤正(沖縄県立博物館)
10月ー大城精徳、宮城篤正『琉球の古陶ー古我知焼』琉球文化社


1973年
12月ー『やちむん』<特集・壺屋>□編集ヤチムン会(宮城篤正)発行・琉球文化社

1975年
4月ー『やちむん』第5号□編集責任・宮城篤正(沖縄県立博物館)
1977年
5月ー『やちむん』第6,7号<特集・沖永良部島>□沖縄県立博物館(宮城篤正)
1979年
10月ー『沖縄の名匠・金城次郎陶器作品集』沖縄タイムス社
10月ー『図録・沖縄の古窯』やちむん会□沖縄県立博物館内(宮城篤正)
1984年
10月ー『やちむん』<特集・浜比嘉島>第8号□事務局・琉球文化社内

1986年
7月ー『やちむん』第9号□事務局・琉球書院内
1987年
12月ー『企画展・現代沖縄の陶芸ー天野鉄夫コレクション』沖縄県立博物館
1989年
8月ー小渡清孝「沖縄の古窯」(第179回沖縄県立博物館文化講座)



1991年9月ー『企画展・壺屋陶工遺作展』沖縄県立博物館
1996年
11月ー『沖縄の古窯・古我知焼』名護博物館
1998年
2月ー『壺屋焼物博物館常設展ガイドブック』
2001年
1月ー『企画展・くらしの焼物』宜野湾市立博物館
2004年
9月ー宮城篤正監修『翁長良明コレクション・琉球の酒器』

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1956年9月1日『琉球新報』


大城精徳・表紙絵 1964年2月『今日の琉球』76号「赤えんどうの花」/1961年10月『今日の琉球』48号「真昼の屋良ムルチー」


『琉球の文化』1号~5号



1972年3月 『琉球の文化』創刊号<特集・琉球の焼物>琉球文化社
□大城精徳/小橋川秀義・図表「壷屋の村(1)」(原稿・翁長良明コレクション)

ネットで『琉球の文化』を検索すると読谷村立図書館蔵書で出てきた。『琉球の文化』は大城精徳元沖縄県立博物館副館長が1972年3月に創刊した。創刊号の特集は<琉球の焼物>、72年9月・第二号は<琉球の染織>、73年3月・第三号は<琉球の伝統玩具・琉球の塗物>、73年10月・第四号は<琉球の芸能・琉球の古武術>、74年5月・第五号は<沖縄戦と終戦直後の生活>であった。私と発行人の大城精徳琉球文化社社長とは、72年に又吉眞三氏の建築設計事務所に大阪の西平守晴沖縄関係資料室主宰と同行し訪ねた折、そこに大城精徳氏が出来たばかりの『琉球の文化』創刊号を持参したときに出会った。

翌日、安里の琉球文化社事務所を訪ねると意気投合し琉球文化社関西支局を引き受けることになった。このときは私はまだ筆不精で文章を書いたことがない。結局、『琉球の文化』には書く機会がないまま休刊を迎えた。その後、大城精徳も関わっていた『新生美術』には美術史らしきものを書くようになった。今、東京発の「沖縄文化論」がテレビ・雑誌などを通じて沖縄に侵蝕。それらが今、沖縄の新聞紙上を占めている。そういうことを予見し危機感を持っていた大城精徳は「日本人としての誇りを得るために、沖縄人としての誇りを捨ててはいけない」とし日本復帰前に『琉球の文化』を創刊した。その初心に立ちかえりネット上で『琉球の文化』活動を復活し新たに補足・改訂を加え立体的に「琉球の文化」を捉えなおしてみたい。(2010-7-8-15時記)



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1976年12月 沖縄の雑誌『青い海』59号 大城一史「儀間先輩とのめぐり逢い」


昭和49年9月 『詩と版画』詩通信社(堺市)板良敷朝貞「素朴な琉球壺の産地・海の中の沖縄にはどこにでもある風景・老婆の織る首里上布」/ 昭和51年11月 「大城一史第一回個展ーすいせんのことば 版画家・儀間比呂志/沖縄の郷土月刊誌『青い海』編集人・津野創一」/1981年2月 板良敷朝貞『抽斗』

□儀間比呂志「あいさつ」


板良敷朝貞

1980年8月に沖縄県大阪事務所で「第1回観光フェア」、『青い海』にカットなどを手がけていた大城一史の風景画展も開催された。

黒メガネが大城一史氏/大城一史作品を背景に新城さやか


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2018年5月4日『しんぶん赤旗』/5月5日『しんぶん赤旗』


岡崎 万寿「巨星・金子兜太と沖縄の野ざらし延男の詩魂ー時代と風土と俳句が生んだ俳人像ー<上>」
〇岡崎 万寿秀(おかざき ますひで、1930年1月1日 - )は日本の政治家、俳人。元衆議院議員(日本共産党公認、2期)。日本共産党名誉幹部会顧問を経て、現在は同党名誉役員。俳号は万寿(まんじゅ)。

2018年5月 俳句同人誌『天荒』60号 野ざらし延男 〒904-0105 北谷町字吉原726番地の11 電話・FAX098-936-2536

「くろねこの短語」2018年5月3日ー(前略)憲法施行から71年。まさか平和憲法の理念がこれほどまでに危機的状状況に陥るとは、当時は誰にも想像すらできなかったことだろう。森友・加計学園疑獄など一連のポンコツ不祥事で窮地に陥ったとはいえ、改憲を主導しているのはペテン総理という御輿を担ぐ日本会議ですからね。ペテン総理を厳しく批判するメタボ村上(誠一郎)君だってメンバーだってことを忘れてはいけない。
 ところで、国有地の異常な値引きの首謀者である元理財局長の迫田君が、大阪地検から任意で事情聴取を受けてたってね。告発されているわけだから事情聴取されるのは当たり前なんだが、どうも大阪地検のアリバイ作り臭いなあ。なんとなれば、事ここに至っても大阪地検は財務省にガサ入れしてないんだよね。本気で立件する気があるなら、まずは財務省を家宅捜索して関連書類を押えるのが普通だろう。
 いまだにその気配もないってことは、事情聴取なてのはカタチだけで、噂通りに年内にも立件は無理ってことで幕引きしようって腹なのだろう。事情聴取なんてのは名ばかりで、茶飲み話してるだけなんじゃないのか。


2018年4月 『月刊琉球』№55 与那嶺功「沖縄振興ー隠れた潮流 大東亜・植民政策・ナショナリズム①」/2018年4月 『月刊琉球』№56 与那嶺功「沖縄振興ー隠れた潮流 大東亜・植民政策・ナショナリズム②」


〇2002年2月27日『沖縄タイムス』与那嶺功「沖縄の『麦門冬』に光-南方熊楠と交流、刺激与える」

2013年8月30日ジュンク堂那覇店で与那嶺功氏

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1994年5月 『版画集 儀間比呂志の沖縄』海風社 高橋亨「自費出版にはげんだ初期から」〇大阪の心斎橋筋で似顔絵かきをしていた儀間比呂志に合ったときのことを、ぼんやりとだが、覚えている。新聞記者として美術を担当しはじめてまもない1955年頃だったと思う。そのころ似顔絵かきのアルバイトをする画家たちのことが話題になっていたのであろう。それで取材に訪れた私に、かれは新聞記者には話をしないことにしているが、あんたならええといいながら近くの喫茶店にさそってくれた。1人百円で1日5百円くらの稼ぎになればさっさと引き揚げることにしていたと『儀間比呂志が沖縄について彫って語る本』(1982年3月・みやざき書店刊ー本文は1980年の朝日新聞連載対談再録)で語っているが、そのときも確かそんなことをいいながら似顔絵かきの道具を片付けていたような記憶がある。

〇高橋 亨 Takahashi Toru
1927年神戸市生まれ。美術評論家、大阪芸術大学名誉教授。
東京大学文学部を卒業後、1952年に産経新聞大阪本社に入り、文化部記者として主に展覧会評など美術関係を担当して11年後に退社。具体美術協会の活動は結成直後から実見し、数多くの批評を発表。美術評論活動を続けながら1971年より26年間、大阪芸術大学教授を務める。兼務として大阪府民ギャラリー館長(1976―79)、大阪府立現代美術センター館長(1979―87)。大阪府民ギャラリーでは、具体解散後初の本格的な回顧展「具体美術の18年」(1976)開催と、詳細な記録集『具体美術の18年』の発行に尽力。その他、徳島県文化の森建設顧問として徳島県立近代美術館設立に参画し同館館長(1990―91)、滋賀県立近代美術館館長(2003―06)を歴任。
〇大江健三郎「真に沖縄的な画家ー儀間比呂志の仕事は、あえてこの言葉をもちいれば、いまやわれわれの南島の絵画の代表ということができるだろう。(略)いま本土日本からおしよせる沖縄の自然破壊、また人間のうちなる自然破壊について、もっとも暗くもっとも激しい怒りをあらわしているのを、僕は知らぬということはできない。」


1966年1月 儀間比呂志『版画風土記 沖縄』題字/榊莫山 編集/高橋亨

榊莫山ー三重師範学校在学中、学徒出陣で徴兵され、沖縄に派遣される予定だったが、艦船がなかったために鹿児島で足止めされ、そこで敗戦を迎える→ウィキ)


1969年7月 『儀間比呂志版画集 沖縄』題字/榊莫山〇高橋亨「儀間比呂志の具象画と沖縄」


1974年5月 儀間比呂志『儀間比呂志の版画』講談社□三味線ー朝日新聞のT記者が、新風土記の沖縄編を書くにあたって、視座をコザにすえたのは感心した。それほど、コザには沖縄の政治、経済、文化が集約されている。なかでも、まわりに巨大な基地群をもち、その米軍へのサービス業で栄えている町なのに、島の人たちにしか用のない土着の文化が目立ちすぎるほど、根づいているのには一驚させられる。〇高橋亨「沖縄とは何かをえがく版画ー最近では毎年のように沖縄へ飛び、老母や弟妹の住む那覇の家で何日かをすごしてくるが、それは帰るというより訪れるといったほうがふさわしい。いま作者の帰るところは大阪である。(略)沖縄のみ、土地と作家との全的なかかわりあいのなかから、こんにち儀間比呂志を育てた。ただ人間形成の土壌もしくは環境としてでなく、作者の表現の形式、内容その他あらゆる成長にたえず根源の息吹を与えつづける沖縄という南の世界はいったい何なのか。それは私がここで語りうることではない。それこそ作者が版画によってえがきだそうとするところのそのものなのである。」


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1975年11月 沖縄の雑誌『青い海』48号 渡嘉敷守良「ある俳優の記録ー芸談、組踊の型ー」



GHQのマッカーサー夫人招待で琉舞を披露ー後列左端が山入端つる、一人おいて児玉清子、右端は渡嘉敷守良


左から渡嘉敷守良、三笠宮・同妃、児玉清子、池宮喜輝



2005年5月 『沖縄演劇界の巨匠 渡嘉敷守良の世界』渡嘉敷守良記念誌編集委員会(代表・當間一郎)
1914年8月1日『琉球新報』「琉球歌壇ーらくこう」
球陽座を見て 
渡嘉敷の黒島王の怒りたる眉/ここちよき舞台のあかるさ/琴の手の指の白き鮮やかに/若き遊女のほれる仲井間/鉢嶺の白き額に宿りたる/恋と忠義の泣かまほしけれ/ヒステリーの遊女もそっと眼を拭ふ/心中劇の面白さかな/誰さんと共に来たのか三桝木の/四等美人のカマダ小がゐる/大見謝は悲しからずや道化たる/下男役して蹲踞ゐる/