Category: 02-関西の沖縄
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近鉄○2015年(平成27年)4月1日に、これまでの(旧)近畿日本鉄道を近鉄グループホールディングスに社名変更した上で、会社分割により鉄軌道事業を近畿日本鉄道分割準備(2014年4月20日設立)に、不動産事業を近鉄不動産に、ホテル・旅館事業を近鉄ホテルシステムズ、流通事業を近鉄リテールサービスにそれぞれ継承させ、持株会社制に移行した。鉄軌道事業を継承した近畿日本鉄道分割準備は(新)近畿日本鉄道に社名変更し、近鉄グループホールディングス傘下の事業会社となった。


1991年12月 季刊『食・№42』桑原守也「近畿文化会と近鉄資料室」

近鉄資料室


京都駅八条口近鉄名店街/紅屋

寮は南区/近鉄京都駅の近鉄名店街京風喫茶「紅屋」が職場 寮近くの通り、正面に見えるのが新幹線京都駅
  
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1973年、上の沖縄タイムスの記事をみて、京都駅近鉄名店街の「紅屋」に石川氏が訪ねてきた。後日、一燈園に石川氏を訪ねて歓談した。


左が石川洋氏、新城榮徳

○1993年9月、新宮市を訪ね、徐福の墓、神倉神社、熊野速玉大社を参拝。新宮図書館で熊野特修『熊野誌』37号を入手、中瀬さんは「南方熊楠・母すみの日記」を書かれていた。旧知の元沖縄都ホテル社長で熊野人の桑原守也さんが「私の熊野ショックー古道・熊楠・沖縄」と題し「南西諸島の島々に熊野分社が十社もあるのは潮流による文化の交流によるためであろうが、那智からの渡海上人といわれた日秀上人は琉球王朝の帰依をうけ又、京都三条駅前の法林寺の住職となった袋中上人は、有名な琉球神道記を残している。浄土宗の流布がこの地に熊野信仰を広めたものであろう」と書かれている。桑原さんとは私の息子の自宅から二駅先の駅がご自宅なので、大阪に行くと、いつも近鉄資料室、袋中上人のゆかりの地、京都の古書展などに同行している。

沖縄都ホテルで新城栄徳と桑原守也氏

龍脈/生駒山・宝山寺

宝山寺と新城あけみ

宝山寺(ほうざんじ)は、奈良県生駒市門前町にある真言律宗大本山の寺院。生駒聖天(いこましょうてん)とも呼ばれる。山号は生駒山(いこまさん)。1678年に湛海律師によって開かれた。本尊は不動明王。鎮守神として歓喜天(聖天)を天堂(聖天堂)に祀っている。仏塔古寺十八尊第十五番。(→ウィキペディア)

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1980年6月 雑誌『青い海』94号 「広告ー岡本太郎の世界ー芸術は爆発だ。-」

1980年7月 沖縄山形屋設立30周年記念『芸術は爆発だー岡本太郎の世界』


宮﨑義敬『繚乱の人』展望社よりーサントリー美術館で中央に平良リヱ子、左に森政三、右に岡本太郎、鎌倉芳太郎,金井喜久子、矢野克子が並ぶ

『新沖縄文学』と岡本太郎
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超タイフー「タロウ」オキナワに上陸か


山田實撮影1963-浜田庄司と豊平良顕/1966-岡本太郎

2008年4月ー川崎市市民ミュージアム「オキナワ/カワサキー二つの地をつなぐ人と文化」展
□ごあいさつ・川崎市には戦前から多くの沖縄出身者が在住し、川崎市の産業発展の一翼を担われてきました。大正13(1924)年の発足から84年という長い歴史を有し、戦後すぐから沖縄芸能の保存にも大きく貢献してきました。

川崎市出身の陶芸家・濱田庄司や詩人・佐藤惣之助などは、沖縄の文化と深い関わりを持ったことが知られています。濱田庄司は、自身の作風を確立する上で、沖縄の壺屋の焼物だけでなく、沖縄の風土・生活様式から大きな影響を受けました。佐藤惣之助も沖縄に魅せられた一人で、「おもろさうし」などに刺激され、詩集を出版しています。戦後には、岡本太郎が占領下の沖縄を訪れ、その文化と伝統に触れて強い衝撃を受けています。このように、川崎と沖縄のつながりはきわめて深いものがあり、市民ミュージアムにも壺屋焼の陶器や琉球政府から贈られた石敢当などの沖縄関連資料が収蔵されています。 

そこで本展では、沖縄と川崎、この二つの地のつながりをテーマに、沖縄の伝統的な芸術文化を伝える資料と、それらに影響を受けて創造された美術工芸品などを紹介します。琉球文化の美と魅力に触れていただき、人々の手で長年にわたり築きあげられてきた沖縄と川崎の絆を感じ取っていただけば幸いです。  川崎市市民ミュージアム

□川崎市出身の芸術家と沖縄・佐藤惣之助と沖縄/濱田庄司と沖縄/岡田青慶と沖縄/岡信孝と沖縄/岡本太郎と沖縄
□川崎の工場と沖縄県出身労働者
1966年1月10日ー『琉球新報』「川崎市でビル火災ー沖縄出身者4人が焼死」
1968年1月5日ー『毎日グラフ』「本土の中の沖縄(南風サークル/大城真栄/普久原朝喜/金城良明)」「万国博へ全力投球(岡本太郎「抵抗あるものを」)」
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1969年12月30日ー『沖縄タイムス』真栄田義見「古江亮仁(川崎民家園長)氏と語る」
1983年2月10日ー『琉球新報』「川崎の沖縄県人 70年の歩みー2年がかりで完成」、11日ー『沖縄タイムス』「県人の苦難の歴史綴る『七十年の歩み』出版」
1983年8月1日ー『沖縄タイムス』「川崎沖縄青少年京浜会館」「川崎沖縄県人会」
1984年2月11日ー『琉球新報』福地嚝昭「女工哀史(関東大震災)ー富士瓦斯紡績川崎工場の名簿について」
1984年
10月19・20日ー川崎市立労働会館で川崎市制60周年記念「全国地名シンポジウム」開かれる。□谷川健一/仲松弥秀対談「沖縄地名の特色」、山下欣一「奄美のシャーマニズム」、宮田登「ミロク信仰と黒潮」
10月26日ー『琉球新報』「黒潮の流れに沿って 南島と本土の交流史探る」、『沖縄タイムス』「黒潮の流れに沿って沖縄・奄美と川崎結ぶ」「話題ー古江亮仁さんー1957年には県人の古波津英興氏とはかって沖縄文化同好会を作る。月一回、東恩納寛惇(歴史)、比嘉春潮(同)、仲原善忠(同)、芹沢圭介(紅型)、濱田庄司(陶芸)、柳悦孝(織物)等々多彩な沖縄研究者を講師に文化の灯をともした。土地問題で沖縄の大衆運動が燃えていた。」

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 1972年11月、沖青友の会機関誌『石の声』10号を出して休刊した。この頃から、それぞれが結婚し、子育てに忙しく沖青友の会も役目を終える。1975年1月26日に、新たな関西沖縄青少年の集い「がじゅまるの会」(会長・玉城利則)発足。大阪沖縄会館での発会式には、青年会のOBということで私も参加した。9月には機関誌『がじゅまる』が創刊された。歴史はくりかえすという事であろうか。
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写真左上ー1969年4月20日ー大阪城公園で「沖青友の会」発足。機関誌『石の声』
写真左下ー1975年1月26日ー大阪沖縄会館で、がじゅまるの会発足。左端、新城栄徳(元沖青友の会)。
写真右上ー1996年12月7日/大阪・大正駅前「居酒屋ゆんた」で、左から金城勇(演劇「人類館」上演を実現させたい会)、息子、諸見里芳美(演劇「人類館」上演を実現させたい会)、仲間恵子(大阪人権博物館学芸員)、崎浜盛喜(奈良沖縄県人会副会長)、右端がゆんた主人の玉城利則(関西沖縄青少年の集い「がじゅまるの会」初代会長。1981年、『ハイサイおきなわ』編集人、発行人は嘉手川重義(現大阪沖縄県人会連合会長)と夫人、真ん中の女性はお客さん。撮影・新城栄徳/(下)1996年12月8日/大阪港区・池島保育園(近鉄の野茂英雄投手も同園出身)階上で、左より西平久子、西平守晴夫妻、娘、後に息子。撮影・新城栄徳



1975年9月ー関西沖縄青少年の集い・がじゅまるの会機関誌『がじゅまる』創刊号
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1971年9月 沖縄の雑誌『青い海』6号 国吉真哲「貘さんの<沖縄の青春>」 


写真下は1925年8月16日、貘2度目の上京前に後列左から又吉康和、国吉真哲、国吉真才、一人置いて貘
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写真ー1958年・前列左から末吉安久、不詳、国吉真哲、南風原朝光、不詳、山之口貘

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1911年11月『琉球新報』□「蔡氏九世忠義録ー尚豊王御即位マデ七場ニ仕組ミ大道具仕掛ニテ開演可仕候ー」


1912年5月『沖縄毎日新聞』「中座 琉球史劇 楚辺暗川ー琉球音楽ノ祖先 赤犬子」


1912年5月20日『琉球新報』

1913年10月6日ー大阪道頓堀浪花座で「百合子」劇が開演、百合子役に川上貞奴。来阪中の眞境名安規(桂月)が琉球踊りアヤグを指導。


1913年10月15日ー那覇の香靄座、大阪杉本商会特約で活動写真常設館「パリー館」開設
1917年4月『琉球新報』□沖縄師範旅行たよりー午前8時、軽装して比叡山登りの道すがら、本能寺の信長墓を弔った。五尺ばかりの石塔で手向ける人とてもなくあはれ物寂しい。御所を拝して大学の裏道より、田圃の間にいで右に吉田の山を見つつ銀閣寺にいった。庭園の美、泉石の趣、形容も及び難いが義政将軍風流三昧をつくしたところかと思うと折角の美景も興がさめてしまう。狩野元信の筆や、弘法大師の書などは珍しいものである。ここから大文字山の森の下道を通ってその名もゆかしい大原白河口に出た。比叡山の登り口である。流汗淋満として瀧なす泉に咽喉を濕し息もたえだえに登ると境は益々幽邃である。ラスキンが山を讃美して、宗教家には聖光を付与す・・・。



1914年3月1日ー那覇区字東仲毛で「常設活動写真帝国館」開館

1914年3月 那覇の常設活動写真帝国館で「百合子」上映


1914年4月 「米国海軍水雷演習」


1914年6月『琉球新報』



1914年10月『琉球新報』


1916年6月16日『琉球新報』

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1919年ー京都都踊りで琉球太鼓踊りー1995年1月19日『琉球新報』「人気あった琉球の太鼓踊りー大正8年 京都の都おどりで」/下はその時の絵葉書、左が巴紋の幕の前で万国旗をかざす踊子たち。右が太鼓踊り
□1919年3月12日『日出新聞』「都踊ー『今紫四季栄』平和踊・御越わん、里前御扶齎したぼれエイヤヨヌ平和の日(ひゃるがひー)ー」


1923年12月ー赤琉會(日本労働総同盟予備軍倶楽部)発足
1924年3月ー関西沖縄県人會機関誌『同胞』創刊


大阪人権歴史資料館の学芸員・仲間恵子が1994年6月『季刊・リバティ』に「関西沖縄県人会機関誌『同胞』創刊号ー関西に生きるウチナーンチュ(沖縄人)の第一歩ー」と題して『同胞』を翻刻、紹介している。2003年3月の『水平社博物館研究紀要』第五号にも仲間は「1920年代の在阪沖縄青年の運動」と題し『同胞』を紹介している。『同胞』は「沖縄県人同胞会」の機関誌として1924年3月に大阪市北区西野田吉野町で発行された。『同胞』は五号を数えると謄写版刷からタブロイド版印刷となった。


1924年5月ー真栄田三益らが中心となって日本労働総同盟予備軍倶楽部(赤琉会)を結成。大阪市電、私鉄の労働争議の応援などに旗を持って参加。大阪天王寺公園でー大阪のメーデーに参加した関西沖縄県人会の活動家。前列右から2人目が上里春生、4人目が眞榮田三益、その後が眞榮田之璞、後列右の旗手は宜保為貞


1925年  前列右から2人目が阿波連之智、4人目が眞榮田之璞、前列左から2人目が浦崎康壮、後列右端が浦崎康慶、3人目が眞榮田三益


写真右・松本(真栄田)三益さん、新城榮徳
真栄田一郎については安仁屋政昭氏が『沖縄大百科事典』に詳細に記しておられる。林世功の一族である。本名は之璞、写真はその墓の前で左から姪の上原美津子、池宮城秀意、瀬長亀次郎、城間得栄(国吉真哲撮影)。右は国家権力により弾圧された真栄田一郎の遺体写真(国吉真哲撮影)。真栄田家・8世は世佐、9世が傳詩、10世が正隆で一郎はその4男。兄に之琛(真栄田勝朗)、之璟、之か、姉の冬子(まかと)は伊波普猷の妻。関西沖縄県人会、沖縄人連盟を組織した真栄田(松本)三益は親戚である。

1933年5月ー『琉球新報』桑江常格□同志前田一郎を悼む/歴史上の一人物としてー(略)同志前田は理論家ではなかった。彼の長所は頭の中で理論をデッチ上げるのではなくして自身の信ずるところを行動において現すところにあった。(略)彼が16、7歳のころから沖縄のアナーキストたちと行動を共にし後にマルクス主義に転向して大正13年から14年にかけての関西沖縄県人会草創期を経て××党沖縄支部結成時代から死ぬまでの彼の行動の中によく現れている。彼がマルクス主義者としての活動は大正14年の春に当時関西沖縄県人会の仕事をしていた真栄田三益の紹介で県人会事務所に来たときから始まる」

nullnull写真ー左・松本(真栄田)三益さん、右・新城栄徳と真栄田三益さん

浦崎康華『逆流の中でー近代沖縄社会運動史』(沖縄タイムス社1977年11月)
『同胞』を詳細に紹介した最初の本は、浦崎康華『逆流の中でー近代沖縄社会運動史』(沖縄タイムス社1977年11月)である。浦崎翁は関西沖縄県人会の創立メンバーで当時を知る有力な人物である。私は1982年5月に浦崎翁を那覇市泊に訪ねて、関西沖縄青年の運動のことを聞いた。浦崎翁は社会運動だけでなく文化全般に通じている。前出の著は国吉真哲翁の序文がある。偶然なことに私は浦崎翁から国吉翁も紹介されることになる。


浦崎康華『逆流の中でー近代沖縄社会運動史』(沖縄タイムス社1977年11月)
〇国吉真哲□序ー沖縄は慶長年間のの薩摩の武力侵入にはじまり、明治政府の琉球処分、それに第二次世界大戦によるアメリカの軍事占領と大きな惨禍と犠牲を強いられてきた。明治政府の沖縄に対する植民地政策により明治、大正をつうじて沖縄のこうむった打撃は大きく、明治末年には首里、那覇の中産階級はほとんど凋落し、地方農村も荒廃し沖縄人の生活は窮乏のどん底になげこまれた。ことに明治政府は日清、日露と二度にもわたって戦争を強行し大正に入ってからは第一次世界大戦が1914年(大正3年)8には米騒動が起こって全国的に波及し社会不安が高まって行った。浦崎氏の思想運動・社会運動への出発もこのあたりから始まっている。(略)
沖縄の第一回メーデーは1921年(大正10年)5月1日に行われている。中央メーデーに、わずか1年おくれて行われていることは沖縄の置かれている地位が中央の政治的、社会的諸条件に類似するためであろう。メーデーは無政府主義者の城田徳隆らと社会主義者の山田有幹らの共催によるものであるが、このころはまだアナーキズムとボルシェヴィーズムの対立は生じてなかったようだ。

〇浦崎康華□うるわしい同志愛ー沖縄の初期社会運動家はみんな童名をもっていた。特に首里、那覇出身は本名(名乗)はあまり用いないで、泉正重はカマデー、伊是名朝義はヤマー、座安盛徳はカミジュー、辺野喜英長はマツー、城間康昌はジルー、渡久地政憑はサンルー、東恩納寛敷はタルー、宜保為貞はサンルー、阿波連之智はカミー、松本三益はタルー、比嘉良児はサンルーといった。相手が年長であればヤッチー(兄)をつけてマツー・ヤッチー(マツー兄)と呼んでいたので、非常になごやかで同志愛で結ばれていた。ときにはアナ・ボル論争もあることはあったが目くじらを立てて口論することはなかったし、みんな生存中の友好関係は変わらなかった。われわれからいえばソ連や中国などで、ときどき起こる指導権争いや権力闘争に類したようなことは全くなかった。これは社会運動の分野ばかりでなく新聞人同志もそうであった。
1923年9月1日 関東大震災
この年 普久原朝喜、来阪
1926年10月 沖縄県大阪物産斡旋所設置
1927年3月 宮城清市、来阪
1929年4月4日 照屋林助、大阪で生まれる

1935年5月 大正区沖縄県人会結成(宮城清市会長)
この頃、嘉手苅林昌来阪
1935年8月 『関西沖縄興信名鑑』刊
1937年 大里喜誠、彦根高等商業学校(現滋賀大学)卒業
1937年7月25日 『大阪球陽新報』創刊/8月 親泊康永、大阪球陽新報東京支局長
この頃 知名定繁、来阪し普久原朝喜に民謡、又吉栄義に古典音楽を学ぶ
1938年3月 大阪球陽新報主催「書画展覧会」都島幼稚園。山城正忠来阪
1939年  比嘉恒敏、大阪の「大阪発動機」に単身で就職。1944年、父恒徳、母ジル、長男恒啓を対馬丸で亡くす。1945年、妻光子、次男恒次を大阪大空襲で亡くす→2015年10月10日 仲松昌次『「艦砲ぬ喰ぇー残さー」物語ー「でいご娘」と父・比嘉恒敏が歩んだ沖縄』ボーダーインク

1939年5月30日 大阪港区市岡会館で
1939年12月1日『大阪球陽新報』「14日・市岡会館で本社主催ー演劇と舞踊の夕ー組踊・執心鐘入」

1940年2月1日『大阪球陽新報』「2月10日より戎座ー戎座扇子家玉四郎一座・伊集、野村、良順、蘭繁合同ー日支風雲録、八重山アカハチ、上リ口説、花風、仲里節、鳩間節、下リ口説、萬歳、下千鳥節、いりしな節、天川、戻リ駕、その他数番」

1940年3月1日『大阪球陽新報』「2月15日から梅田映画劇場で日劇ダンシング・チームによる”楽しき日劇”上演、琉球おどり」

1940年4月1日『大阪球陽新報』「伊波南哲原作・八重山レビウ、3月に横浜宝塚劇場で上演、4月1日から20日間丸の内日本劇場で上演」

1940年6月1日『大阪球陽新報』「戎座の陣容強化ー5月1日旗上興行以来、比嘉正義、多嘉良朝成・カナ子夫妻、我如古彌栄・やす子親子等16名の一座」

1940年10月15日『大阪球陽新報』緑葉生「日劇に於ける新垣澄子の踊り」「24日・西区岡島会館ー関西球陽会後援ー島晴美舞踊公演ー琉球民謡に新しく振付けした花笠踊、美しき風景、ふるさとの唄3種は鳩間節、ションガネ、瓦屋節、浜千鳥節を取材新作したもの」「戎座の郷土芝居に仲井間盛良加入」

1940年11月8日『沖縄日報』

1941年5月7日ー舞踊家・玉城節子、那覇辻町で生まれる。3ヶ月目に父・友盛の仕事で大阪へ。(1946年、帰沖し石川市に住む) 

パリー館「アルジェリア カンタラの風景」


 

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  9月21日付けの『日刊ゲンダイ』にウィキリークスが暴露と題し「2010年に前原誠司(1962年4月生まれ、京都市出身)国交相(兼沖縄担当相)がキャンベル国務次官補と会合したとき、『普天間移設問題で鍵を握るのは北沢防衛大臣だ。なぜなら、普天間の安保上の重要性を判断できる専門知識は防衛省だけが持っている』と話し、当事者だった鳩山首相をタナ上げして、外交交渉の相手に手の内をさらしているのだから世話はない。また『小沢氏は相手によって発言を変えるから気を付ける必要がある』などと注意を促していたという」、その記事のタイトルは、「前原!お前はアメリカの工作員か、やっぱり米国のイヌだった」。

前原誠司の選挙地盤である京都で琉球民謡を聞く
9月25日13時00分の京都教育文化センターで「琉球民謡伝統協会京都支部三周年芸能発表会」に新城あけみが舞踊で参加するというので、お供で同行する。7時前に自宅を出る。JR河内永和駅から京橋。京阪で三条駅に8時15分着。駅を出て直ぐの檀王法林寺の前で新城あけみを立たせて写真を撮る。この寺はエイサーの元祖といわれる袋中上人によって開かれた400年の歴史を誇る浄土宗の寺。
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会場に9時着。新城あけみは準備のため会場に残る。私は午後1時まで会場周辺を散策。大文字山を眺めながら歩くと山伏の総本山、聖護院門跡がある。交通神社、泉徳寺、錦林小学校の塀にゴーヤーがあったが実は破裂し赤くなっていた。平安神宮の前を通って京都府立図書館に寄る。入口に二宮金次郎胸像がある。図書館ではチラシの「府立図書館『岡崎』百年の歩みー湯浅館長編」「府立図書館が所蔵している まるごと一冊、竹久夢二の本」「府立図書館『岡崎』百年の歩みからー岡崎公園編」「当館の所蔵資料から 京都に関する本~通史編」「当館の所蔵資料から 京都に関する本~入門編」「当館の所蔵資料から 京都に関する本~年表・史資料編」などを入手する。

□1910年7月、伊波普猷は関西において比較的規模の狭小なる奈良県立図書館を視察し、湯浅京都図書館長のアドバイスを受けて沖縄県立沖縄図書館の図案を調製し其の筋へ提出したと、新聞に報じられた。私は、2008年5月8日に奈良県立図書情報館を初めて訪ねた。2Fで「Yahoo!」と「Google」の日本、アメリカでのサービス開始時期をみる。いずれも1990年代である。3Fで司書の人をわずらわして同図書情報館の前身で1909年に開館した奈良県立図書館の建物の写真を調べた。建物は戦後も図書館として使われたが、奈良県文化会館・図書館建設にともない。大和郡山城内に移築された。図書情報館の帰途、郡山城を訪ね、旧図書館の建物が今も健在で教育施設になっている。初期のころの奈良県立図書館長は奈良県内務部長が兼任していて、初代館長が小原新三、2代目が川越壮介であった。川越はのちに沖縄県知事となる。伊波普猷がアドバイスを受けた湯浅京都図書館長は湯浅吉郎(半月)といい明治・大正期の一流の文化人であったことは、1998年10月発行の京都府立『総合資料館だより』に詳しい。1909年4月に京都府立図書館の新館が岡崎に開館した。設計者は武田五一で湯浅館長は早くから児童閲覧室を設けていた。

知恩院の国宝の山門(高さ24メートル、幅50メートル、木造の門としては日本最大)が見えるので立ち寄る。知恩院は、全国に7000余の寺院を擁する浄土宗の総本山。法然上人が晩年住まわれ、念仏の教えを説かれた寺という。江戸時代、元和7年(1621)、二代将軍徳川家忠が三門を建立、また寛永16年(1639)に徳川家光公が御影堂を建立するなどし、現在の寺が形づくられている。

午後1時開演。1番目に琉球民謡伝統協会参加者全員の「いちんかりゆし」「鷲ぬ鳥」合奏、2番が京都支部メンバーが「安里屋ユンタ」「安波節」、3番が新城あけみなどの柳豊会・大城奈津子琉舞太鼓研究所の舞踊「いちんかりゆし」。4番が大阪支部による「流れ雲」「ハワイ節」合奏。6番が上間順子琉舞研究所の琉舞「上り口説」などが第一部であった。第二部は大城奈津子琉舞太鼓研究所の舞踊「安里屋ユンタ」「繁盛節」で新城あけみの出番が終わったので4時まで二条通りの古本屋に行き『聖徳太子と四天王寺』(1971年)、1961年の『昴宿』俳句会記録を購入。会場に新城あけみを迎える途中、天理教川原町大教会の大ソテツを撮る。

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右ー新城あけみ

 今日29日は日中国交正常化の日、1972(昭和47)年、日本と中華人民共和国との間の国交正常化共同声明(日中共同声明)の調印式が北京で行われ、田中角栄、周恩来両首相が署名した。靱公園に行くと右翼団体が日の丸を持ち、乳母車の女性で子連れも居て全く緊張感が無い。先頭には大きな日の丸。女性3人を含む50人ぐらいで中国総領事館に行くのであろう。警官が10名余公園入り口に立っていた。右翼団体の活動は実話雑誌などでヤクザ団体(とにかく大阪は彼方此方にヤクザ事務所がある)と共によく紹介されている。日の丸集団と言えば1週間前も中之島公園で百人ぐらいが夫々日の丸の小旗を持ち「花王に対し不買運動を行いましょう」「フジテレビ偏向」を叫んでいた。二つの団体が共通しているのは嫌中、嫌韓だろう。自分の嫌米を棚にあげ言うのもなんだが、反核・反原発という未来志向の運動のほうが健康的である。

ユリ科のヤブランやフイリヤブラン(斑入り薮蘭) の紫色の花が穂状に咲き乱れている靱公園の一角の(財)大阪科技術センター(五代友厚屋敷跡)をのぞいた。入ってすぐのところに原発の宣伝コーナーがまだある。関西原子力懇談会が編集発行している「ルミナス」には小浜市に伝わる伝統工芸とか、若狭のならわし、大半は教えて原子力、エネルギーセミナー、低レベル放射能廃棄物を安全に埋設し、長期にわたって管理することで、人と環境を守り続けます!(最近このテレビ宣伝はやってないな)、先進的な研究に取り組む京都大学原子炉実験所、20億年前にも原子炉があった!などが記されている。ほかに若狭越前マップ、越前若狭、美浜町、おおい町の観光パンフがあった。原発展示場には今も続いている東日本原発大事故 には触れていないが、関西電力の「東京電力福島第一原子力発電所事故等を踏まえた更なる安全性向上対策について」のチラシがある。まあ、とにかくその優秀な科学技術を駆使し一日も早く今だに行方不明の人の捜索が続く東北の原発事故を終息させ、原発や節電の無い明るい未来を作ってほしいものだ。
 

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 御堂筋の南御堂(真宗大谷派 難波別院)前にはソテツ。御堂筋道路の石碑に刻まれている文字は『此附近芭蕉翁終焉ノ地』とあり、松尾芭蕉の終焉の地と言われている。人生の多くの時間を、旅と、紀行文や俳句の執筆に費やした芭蕉は九州へと向かう旅の途中に立ち寄った大阪で病に伏し、51歳の生涯を閉じたとされている。そして、松尾芭蕉の有名な句「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」が刻まれた石碑は難波別院境内の中にある。松尾芭蕉辞世の句を刻む石碑には芭蕉(バナナ)の木が傍に立っている。本堂で阿弥陀如来佛を前にして瞑想したつもりが気持ちが良く、つい、うたた寝をしてしまった。別院でパンフ「南御堂と芭蕉」をもらった。善導大師「信心の人はすでに浄土に居(こ)す」。「関西日誌2011-9」

 1914年11月 同人誌『五人』末吉麦門冬「芭蕉の恋ー(略)彼等二人の間に男色の関係のあったといふことは今日から見る程不自然なものではない。鎌倉以来我国には衆道といふことが武家間には非常に盛んであった。足利義政公は  常盤山とはにはさかずいはいはつつじ/春の日数をたづねてもとへ  云々と云はれた。南浦文集に昔々物語を引いて曰く  昔は衆道といふ事有て一四五六、七八の男に生まれ付よきは勿論大躰の生付にても念者といふもの持たぬ若衆は一人もなし。云々(以下略)」

 南方熊楠は麦門冬・末吉安恭からも琉球の男色の情報を得ている。ネットで一々紹介するのは憚れるので割愛する。麦門冬は早婚なのでいわゆる淡いプラトニックで終わってしまった。その分、妻に愛を注ぐことになるが、男色については折々書いている。たとえば1911年1月『沖縄毎日新聞』に書いた東京時代の古手帖には「沖縄の組躍に男色をほのめかしたのに執心鐘入と二童敵討」「伊藤銀月の男色観」、14年11月ー同人雑誌『五人』の「芭蕉の恋」などがそうである。

近松門左衛門
井原西鶴(浮世草子)、松尾芭蕉(俳諧)とともに元禄三大文豪として名高い浄瑠璃・歌舞伎作者の近松門左衛門の墓は尼崎の広済寺(→HP)と、地下鉄谷町線「谷町6丁目」下車、谷町筋を南へ 谷町7丁目交差点南へすぐ、ガソリンスタンド手前の狭い道の奥にある。墓は、当初近くの法妙寺境内にあったが、同寺は大東市へ移転し、墓だけは現在地におかれ、押し込まれたようにして残っていた。1980年に整備が図られ、国の指定史跡となった。【広済寺】尼崎市にある日蓮宗の寺(ソテツもある)。957年(天徳1)多田満仲が妙見菩薩を勧請して創建したと伝え、のち荒廃。1714年(正徳四)日昌が堂宇を建立。近松門左衛門の墓がある。俗称、近松寺。(広辞苑第四版)帰途、浄土真宗本願寺派西正寺のソテツを見る。□→「HP・近松のまち・あまがさき」
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近松門左衛門は1653年(承応2年)の生まれで(出生地については諸説あり)、本名は杉森信盛、幼名は次郎吉といい、越前・吉江藩士杉森市左衛門信義の次男として誕生する、。元禄年間を中心として、貞享~享保と約40年間にわたり劇作家として活躍し、1724年(享保9年)に72歳で没した。

京都に移った近松は公家に仕え、その間、浄瑠璃の語り宇治嘉太夫と出会い、彼のもとで浄瑠璃作家の修行を始めます。天和3年(1683)、嘉太夫に書いた「世継曾我」が世評を得、嘉太夫の門下にあった竹本義太夫とも提携するようになりました。貞享元年(1684)、大坂に竹本座を創設した義太夫を祝って書いた「出世景清」を契機として、現実的、個性的描写による浄瑠璃の新生面を開き深化を遂げました。

元禄期後半の約10年間は、上方の名歌舞伎俳優坂田藤十郎との緊密な提携のもと、歌舞伎制作に主たる情熱を注ぎました。代表作として「傾城仏の原」があります。坂田藤十郎のために20数作の歌舞伎狂言を著している。「曽根崎心中」「心中天網島」「女殺油地獄」などの世話物に代表される作品に描かれる人間の姿は今日に通ずる所も多く、伝統芸能や演劇、映画などの中で再創造され、たくさんの人に感動を与え続けている。

藤十郎が都万太夫座(京都)の座元を引退すると大坂に移住し、義太夫の竹本座専属となって浄瑠璃の創作に専念しました。元禄16年(1703)「曾根崎心中」で大当たりをとって以降、次々と傑作を生み出していきました。「曾根崎心中」については、麦門冬・末吉安恭が組踊談叢で「近松門左衛門が心中の『死ににゆく身をたとふればあだしが原の道の霜一足づつに消えてゆく・・・』まで書いて後をつづけ得ないで困っていると際、来訪した伊勢の俳人涼菟に助言を求めて、『夢の夢こそはかなけれ』とつけて貰った話と似て居る」と書いている。

□岩田涼菟
岩田涼菟(いわたりょうと)1659~1717 本名は岩田正致。通称は又二郎。初号は団友、のち団友斉、元禄十三年頃涼菟と改号した。後、神風館(じんぷうかん)をついでその三世を名乗る。本職は伊勢山の神職。俳諧は芭蕉門下、後世この軽妙な俳風を伊勢派と呼んだ。江戸の其角とは同門の親友。 著書に『皮籠摺』『山中集』『砂つばめ』などがある。享保二年(一七一七年)四月二十八日没。享年五十九歳 (→三重県ゆかりの俳人たち )

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Category: 02-関西の沖縄
Posted by: ryubun02
 1894年2月、那覇の南陽館で第8回九州沖縄八県連合共進会が開催された。5月、沖縄尋常中学校生徒(伊波普猷、真境名安興、渡久地政瑚ら)が下国良之助教頭の引率で関西に修学旅行。下国は20歳のとき滋賀の学校に勤めていて中井弘①の薫陶も受けているので関西には知人が多く、どこでも歓迎された。京都滞在中に学生数人は六孫王神社②を訪ねて、天保三年の江戸上りの時に正使が奉納した額を書き写している。

1894年5月20日『日出新聞』

②六孫王神社
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大城弘明氏撮影

□六孫王は、清和天皇の六男を父として生まれ、経基と名づけられたが、皇室では六男の六と天皇の孫ということで六孫王と呼ばれていた。十五才にて元服、源の姓を賜わり、先例に従い臣籍に加えられたとある。承平・天慶の乱に東国・西国の追討使を承り、現地に赴き凱旋の後、鎮守府将軍に任じられた。王は現在の社地に住居を構え、臨終に臨み「霊魂滅するとも龍(神)となり西八条の池に住みて子孫の繁栄を祈るゆえにこの地に葬れ」と遺言された。王の長子満仲公は遺骸を当地に埋葬され(本殿後方に石積の神廟がある)その前に社殿を築いたのが、六孫王神社の始まりである。(平安時代中期)
 境内中央の池を神龍池といい、その側に満仲誕生のおり井戸上に琵琶湖の竹生島より弁財天を勧請し、安産を祈願し産湯に使ったと云う、誕生水弁財天社がある。(6月13日弁財天御開帳祭)
 江戸時代五代将軍綱吉の時代に現在の本殿・拝殿等建物が再建された。毎年十月体育の日に例祭(再興が元禄より始まり宝永年間に完成したゆえ別名“宝永祭”とも謂われる)が行われる。
 王の後裔には源義家・頼光・頼政・木曽義仲・頼朝等、また足利・新田・細川・島津・山名・今川・明智・小笠原・徳川等の武将が多数輩出され、それぞれ子孫繁栄されている。
 昔は、六ノ宮権現とも呼ばれ、今昔物語に「六の宮」それを基に芥川龍之介が「六の宮の姫君」にも載せている。小泉八雲著の「怪談」には、「弁天の同情」と題して不思議な夫婦の出会いの話が紹介されている。

「小泉八雲」2005年5月 新城良一・編『ビジュアル版 日本・琉球の文明開化ー異国船来航の系譜』天久海洋文学散歩会



1909年4月『琉球新報』□師範中学旅行生の消息ー4月6日、火曜日、神戸、京都 午前9時半汽車にて神戸駅を発し12時京都に着。直ちに東本願寺に参詣致し建築の壮大な に驚き入り候。これより途中耳塚を右に見立て豊国神社に詣で旧伏見桃山殿の唐門大仏殿、国家安康の大鐘を見て博物館に入り歴史美術上の珍品に知囊を養い三十三間堂を経て桃山御殿に詣で血天井を見。妙法院西大谷を過ぎて清水寺に詣で候・・・。

1917年4月『琉球新報』□沖縄師範旅行たよりー午前8時、軽装して比叡山登りの道すがら、本能寺の信長墓を弔った。五尺ばかりの石塔で手向ける人とてもなくあはれ物寂しい。御所を拝して大学の裏道より、田圃の間にいで右に吉田の山を見つつ銀閣寺にいった。庭園の美、泉石の趣、形容も及び難いが義政将軍風流三昧をつくしたところかと思うと折角の美景も興がさめてしまう。狩野元信の筆や、弘法大師の書などは珍しいものである。ここから大文字山の森の下道を通ってその名もゆかしい大原白河口に出た。比叡山の登り口である。流汗淋満として瀧なす泉に咽喉を濕し息もたえだえに登ると境は益々幽邃である。ラスキンが山を讃美して、宗教家には聖光を付与す・・・。


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Category: 02-関西の沖縄
Posted by: ryubun02
袋中上人
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1938年3月ー檀王法林寺『袋中上人餘光』/寧王院袋中寺、念仏者
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1936年3月ー檀王法林寺『琉球と袋中上人』/1936年3月ー写真上・正面・信ヶ原良哉僧正、写真下・正面・尚順男爵(1958年再版)
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1988年4月ー京都国立博物館『袋中上人と檀王法林寺』/『琉球神道記』、袋中上人像

袋中上人の資料

1918年5月27付の南方熊楠宛の末吉安恭書簡に「(略)この根抜けざることは、間々聞き候が、何に因し候や。右の袋中上人には、更に『琉球往来記』と申す書これあるやに承り候が、御存知なきや。若し御存知にて候はば、其の本の所在御示し下され度候。沖縄図書館にて琉球に関する書類を集め中に候が、加州金沢の俳人堀田麦水(天明3年63才没)の著書に『琉球属和録』『南島変』『慶長中外伝』(66巻)とあり。御存知なきや。「属和録」は写本にて(欠本)1部沖縄図書館にあれど他はこれなく候。加州金沢の俳人堀田麦水。屈麦水と称す。樗庵、暮柳舎と号、通称池田屋長佐衛門。」新城■麦水というのは角川『俳文学大辞典』に俳諧師・稗史実録作者とある。

1922年4月22日『沖縄タイムス』に莫夢生(末吉安恭)が「詫遊は神舞」と題し次のように書いている。□私は宮古の神舞は(沖縄)本島の上代にあった詫遊の神舞と同じものであると云った。即ち神舞に出づる女人達の扮装の異形なるは袋中のいわゆる龍宮様ではないか。龍宮との関係も宮古の伝説にはよく現れている。あるいはまた宮古の「あやぐ」もこれから出たものであろうとも思う。(沖縄)本島内にある「しのぐ」も、その由来するところはここにあるのではないかと思うのである。

1966年12月10日『琉球新報』大島彦信(浄土宗名越大本山円通寺住職)「大沢文庫と沖縄<7>」□袋中上人は、当時伏見で掛川の城主松平隠岐守定勝の特別の帰依をうけて師権の契約を結んでいるが、その嫡子越中守定綱は後の松平定信であるが、将軍秀忠に随従して特別の信頼を受けて名声がたかかった。時の京都所司代板倉重宗を上人に紹介して特信者としたのもこの定綱である。京都所司代の権威は、当時京都御所ににらみをきかせて他に並ぶものがなかったのである。(略)夢にも考えていなかった上人との対面の機会を与えられて、尚寧王はこれが現実かとばかり感涙し歓喜したことであろう。・・・

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元沖縄都ホテル社長の桑原守也さん、京都西方寺の袋中上人(エイサーの祖)手植えの蘇鉄を前に(新城栄徳撮影) 1994年7月21日、桑原守也さんと連れ立って京都西方寺を訪ねる。住職の北村有信師としばし歓談。頂いた名刺には「うずまさ悟真寺、山城田辺・西方寺、自然幼稚園」とあった。

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京都で琉球民謡を聞く
2011年9月25日13時00分の京都教育文化センターで「琉球民謡伝統協会京都支部三周年芸能発表会」に新城あけみが舞踊で参加するというので、お供で同行する。7時前に自宅を出る。JR河内永和駅から京橋。京阪で三条駅に8時15分着。駅を出て直ぐの檀王法林寺の前で新城あけみを立たせて写真を撮る。この寺はエイサーの元祖といわれる袋中上人によって開かれた400年の歴史を誇る浄土宗の寺。

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