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写真・1978年8月ー那覇市一銀通りの琉球書院(琉球文化社)と青い海出版社の看板が見える。

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1974年5月ー『琉球の文化』第五号 星雅彦「安次嶺金正の芸術とその背景」


1974年5月ー『琉球の文化』第五号<沖縄戦と終戦直後の生活>
琉球文化社(編集発行人・大城精徳)本社〒那覇市牧志町1-944-6 編集局〒902那覇市安里425丸清ビル2階
関西連絡所ー大阪市東淀川区西中島町5-62青い海出版社内(新城栄徳)
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1974年3月23日~6月2日 大阪万博記念公園エキスポランド「大沖縄展」


「沖縄文庫」/ 左が新城栄徳、平良幸春氏(日展会友)
会場内の沖縄文庫で沖縄本を販売する新城栄徳。いつも岡本太郎の太陽の塔を見ながら、民博はまだできていない。/このときの陶器コーナーではシーサー造りの名人・島常賀翁と、陶芸家で駆け出しの平良幸春氏とは一緒に陶芸の用具や釉薬などの材料の店、常賀翁のシーサー造りを2カ月以上観てきた。常賀翁の三線模合仲間の宮城美能留(宮城 稔)沖縄歌舞団団長の宿泊先のホテルに、一緒に見舞いに行ったこともある。



『青い海』1974年5月号「大沖縄展3/23~6/2」





1982年3月 『安次嶺金正・画集』/図録『緑の抒情 安次嶺金正展』



1996年3月 『新生美術』11号<特集・安次嶺金正の画業を偲ぶ>


1996年3月 『新生美術』11号 星雅彦「安次嶺金正試論」

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コメントはメールにお願いします→shinjo8109@gmail.com
  
2019年5月24日 沖縄県立博物館・美術館

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1953年1月、源和は東京の雑誌『おきなわ』に「ウチナー・ヌ・ハナシ」を書いた。同年3月に琉球評論社(平山源宝)から『政党を裁く』を発行。55年、源和は評論社を設け1月に『評論集・政界診断書』、4月に『沖縄から琉球へ』を刊行した。6月『話題』を創刊、創刊号の表紙は屋嘉澄子(琉舞の山田貞子門下)、源和は「空手雑話」、友を語るとして「桑江朝幸君」を書いている。同年8月、2号を発行。表紙は琉舞の上津真紀子。平みさを「南方おけ対策」、自己を語るとして比嘉秀平が「辞書をマル暗記」を書いている。話題アルバムには1898年の久孔子廟那覇尋常小学校分教場の写真、池宮城積宝や上原恵里が居るという。

『話題』3号の表紙は根路銘房子、上間朝久の「舞姫・根路銘房子嬢」、幸地亀千代「三味線と伴に五十年間」。4号は1956年4月発行で、表紙は安元啓子。話題アルバムには首里城正殿などの建物が爆撃直前に撮られた写真が載っている。永田芳子「女の幸福」、大城朝亮「辻ものがたり」、島袋光裕芸談、安里永太郎「金城珍善」、荻堂盛進「ヌード喫茶」、船越義彰「男・女・裸体」、赤嶺親助「戦塵訓」が載っている。5号は56年8月発行で、表紙は伊礼公子。玉城盛義芸談などがある。
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源和は1956年3月には『手紙』を創刊した。内容は手紙形式で質問、呉我春信、護得久朝章が答えている。教科書が手に渡るまでを当銘由金が答えて「戦前の教科書はご存知のように国定で全国一律。そのために新学期の4月には桜の未だ咲かない北海道の生徒達も、既に桜は散ってしまった沖縄の生徒達も口を揃えて『サイタ、サイタ、サクラガサイタ』を学ぶという変則的な教育を強いられて来ました。こうした教育法によって国民を戦争にかりたてた」とあり今の教科書検定問題の問題はこのときから準備されていた。戦争への反省どころか戦争準備の教育に余念がない文部省ではある。永田芳子「アメリカ便り」も載っている


1956年10月発行の『手紙』は軍用地問題特集で、「干拓事業は大資源の発掘である」、「セメント製造を急げ」の記事が載っている。今では温暖化問題もあり到底受け入れることの出来ない提案である。源和は1957年3月に『事業と人物』を創刊、宮城嗣吉邸宅、沖映本館を設計した宮平久米男の紹介、「1956年主要年誌」が付いている。58年4月、『オキナワグラフ』が創刊。同年、源和は琉球果樹園株式会社を創立し社長となる。

1960年10月、『琉球画報』が創刊。61年9月、琉球画報の編集長だった佐久田繁が玉城盛英を発行人とし『月刊沖縄』を創刊した。この年は他にも金城五郎の『沖縄公論』、金城宏幸『沖縄マガジン』の雑誌が創刊されている。62年11月の『月刊沖縄』に源和は「長老会議崩壊の底辺」、12月には「稲嶺一郎伝」を書いている。63年2月は月刊沖縄のインタビューに応じ「パクリ屋といわばいえ!」、5月の『月刊沖縄』に「瀬長亀次郎伝」を書いている。1968年、源和は本部開発株式会社を創立し会長となる。

1973年5月、源和は月刊沖縄社から『琉球から沖縄へ』を再版する。75年4月の『新沖縄文学』のインタビューに応じ「仲宗根源和氏に聞くー大正期沖縄青年の軌跡」として掲載された。

□仲宗根源和は1895年、本部間切渡久地で父源一郎、母うしの長男として生まれた。手元の「仲宗根門中世系図」に大宗が仲宗根親雲上で源和はその8世、妻のところには錦子、後妻ミサヲ、子はないとある。仲宗根源和は1938年9月に東京図書から『武道極意物語』を、43年11月、萬里閣から『武道物語』を出版した。

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写真左が山城善光氏、新城栄徳
1930年 県立二中『みどり』山城善光「思ひ出の帰省」「太郎」
1938年6月 山城善光『球陽ー百人百言集』大阪球陽新報社
1975年10月 山城善光『山原の火ー昭和初期農民闘争の記録』沖縄タイムス社
1978年12月 山城善光『火の葬送曲ー続・山原の火』

山城善光氏が死去/「山原の火」著す( 2000年4月1日 『琉球新報』 )

戦前の民主化や財政経費節減などを求めた大宜味村政革新農民運動でリーダーとして活躍し、同運動を記録した著書「山原の火」で知られる元立法院議員の山城善光(やましろ・ぜんこう)氏が31日午前3時20分、肺がんのため、浦添市の病院で死去、89歳。大宜味村出身。自宅は那覇市首里寒川町一ノ23。告別式は1日午後3時から4時、那覇市首里寒川町一ノ二、安国寺で。喪主は妻初枝(はつえ)さん。

大宜味村喜如嘉出身。県立第二中学校を卒業後、大阪球陽新報記者などを経て、沖縄協会職員、沖縄人連盟東京総本部事務局次長を務めて帰省した。政治運動に身を投じ、農民運動のリーダーの一人。その後、沖縄民主同盟・沖縄社会大衆党の創設に尽力した。1958年立法院議員に初当選、一期務めた。復帰後は出身の大宜味村の地域活性化に貢献。立法院議員を経て、レストラン経営に転じ、村に古くから伝わる精霊ブナガヤ(キジムナー)に熱中し、「ブナガヤ実在証言集」を82年に出版した。

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沖縄民主同盟機関紙『自由沖縄』(編集発行人・山城善光)山城は東京の沖縄人聯盟の機関紙『自由沖縄』の元編集発行人。


2003年3月5日 『沖縄タイムス』「魚眼レンズー同名でも違った機関紙」
1945年、仲宗根源和は米国海軍及び政府諮詢会委員社会事業部長を経て47年6月、沖縄最初の政党「沖縄民主同盟」を石川市宮森小学校で旗揚げした。委員長に源和、総務部長が桑江朝幸、組織部長が山城善光、青年部長・上原信夫であった。ほかに同志として平良辰夫、桃原茂太、當間重剛などがいた。48年4月、東京から持ち帰った謄写版印刷で機関紙「自由沖縄」を発行。6月、「自由沖縄」が布令違反だとし編集発行人の山城善光や桑江朝幸が逮捕され23日間も知念署留置場に入れられた。沖縄民主同盟は弾圧され、野に下った源和は高良一の『琉球新聞』、仲宗根仙三郎の『沖縄日報』の相談役として政治評論を書いている。





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1926年5月ー『沖縄及沖縄人』<沖縄救済問題号>創刊号□埼玉公論社・埼玉県所沢町
□「沖縄及沖縄人の使命」・・・・・・・・・2-3
「より良き沖縄を建設せよ」・・伊波学人・13
○斯ふ云ふ見地からして、相互ひに同じ風俗習慣、生活を持っている人々が、それ自身の生活拡充のためにモンロー主義を主張すると共に各個人にあっては、自我の権威を飽迄認識すると共に、之が拡充せんことを乞ひ願ふのは自然である。人類がモンロー主義、自我への自覚のプロセスを辿り然してより自然な、より真実なる競争闘争する所謂生存競争が生ずることに依って不自然なものが倒れ、よりよい意味のものが創造され、成長するのである。人類の進歩向上は自覚するに 上の事実を要約したものを称するのである。
沖縄モンロー主義、沖縄スピリットの依って立つ処の基調なり概念は沖縄県人が、排他的、偏狭な立場を固執せんとするのでなくして、全日本をよりよくする前提として、先づ沖縄県に生まれたものは先づ、よりよき沖縄を作り、延て其気運を普遍化し他に及ぼさんとするに他ならぬのである。
「沖縄及沖縄人の発刊を祝す」・・渡口精鴻・・13-14
「貴族院議員・伊江男爵訪問記」、「京浜学生会近況」、「沖縄県の新聞界」、「郷土通信ー名護公園計画、警部合格者、海外発展の県人、矢作博士講演、阪神那覇直航、憲政支部活動、東宮記念碑、沖縄青年同盟」、「在京県人動静」、「発刊に至る迄」、「京浜沖縄県人名簿」、「読者の叫び」、「編集後記」
○同誌は沖縄朝日新聞東京支局長の小那覇三郎も事業部主任として参加。同年6月号には山田真山の弟子真帆による「山田真山画伯出世物語」、「東京美術骨董界の重鎮」として三槐堂上運天令儀が紹介されている。のちにハワイ・ホノルルに在住する幸地朝則は一時、母の妹の夫が経営する三槐堂につとめていて、この頃のことを崎原貢『がじまるの集いー沖縄系ハワイ移民先達の話集』で述べている。

1926年
『沖縄及沖縄人』7月号

『沖縄及沖縄人』9月号
沖縄救済より新郷土文化の建設へ・・・・・・・・3
十人十色・・・・・・・・・・・・渡口精鴻・・・・・・4-5
沖縄救済問題概論・・・・伊元富爾・・・・19-23
早老亡国論・・・・・・・・・・徳山浩一・・・・6-8
関西に於ける県人と事業へ・・・・・・・・・・12-13
琉球史概観・・・・・・・・東恩納寛惇・・・・・・・9-11
野島
郷土思慕と先輩に就て・・・宮里定顕・・・・・5-6
東京球陽倶楽部生る・・・・・・・・・・23-24
県内外事情・・・・・・・・・・・・・・・・・・・16-18
他府県事情・・・・・・・・・・・・・・・・・15-16
在京県人名簿(二)・・・・・・・・・・・・・28-29


『沖縄及沖縄人』12月号

1927年
『沖縄及沖縄人』1月号

1932年1月ー大宜味朝徳『最近の秘露事情』東京・海外研究所
1933年
『南島』(第一号、2,3,4,6,7,8号)
1934年
『南島』(第9号、10,11,13,14号)  
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8月ー大宜味朝徳『我が統治地南洋群島案内』東京・海外研究所

1937年
11月ー大宜味朝徳『現代沖縄県人名鑑』東京・海外研究所

12月ー大宜味朝徳『海外人事録』東京・海外研究所
1938年
8月ー大宜味朝徳『沖縄振興と精神作興』南島社


左から 仲宗根源和、大宜味朝徳、兼次佐一、瀬長亀次郎

1954年
4月ー大宜味朝徳『琉球案内』沖縄興信所
1963年
7月ー大宜味朝徳『目で見る琉球写真案内』沖縄興信所

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(株)三人社 〒606-8316 京都市左京区吉田二本松町4 白亜荘 FAX075-762-0369
6月22日、福岡の松下博文氏(右/筑紫女学園大学文学部教授)が京都・三人社の越水治氏(左)、山本捷馬氏(中)と来宅された。




京都絵葉書ー戦前

淡交社ー茶道裏千家十四世淡々斎家元の次男、納屋嘉治が同志社大学卒業の翌年、裏千家の機関誌「淡交」を刊行する出版社として設立した。現在は長男、納屋嘉人が経営にあたっている。社名は荘子の「君子之交淡若水」(学徳のある立派な人同士の交わりは、水のように淡々とした、清い関係である。私心のない交わりは壊れることがない)に由来している。 法然院での修行歴のある僧侶で、弘文堂などに勤務していた編集者でもあった臼井史朗(のちに副社長)を引き入れてから、茶道を軸とした伝統文化など様々な分野の書籍、雑誌を刊行。とりわけ京都の観光と文化に関するものが多い。茶道の家元、裏千家と繋がりが深い出版社であり、創立以来裏千家の機関誌である『淡交』を刊行しており、主要株主かつ役員とし千玄室が加わっている。この他、『なごみ』『淡交テキスト』の両誌を刊行している。茶道書以外の分野では、美術工芸、歴史文化、旅ガイド、料理、趣味生活や『京都大事典』、『京都検定公式テキストブック』を始めとする京都関連書籍などの書籍を発行している。日本語以外の言語による書籍も扱っている。 出版以外にも、茶室等の建築、茶道具などの販売も手がけている。京都本社の一階は書籍を販売しているフロアと茶道具関係を販売しているフロアがある。→ウィキ

白川書院『京都』/淡交社『なごみ』 

京都を楽しむ大人マガジン『月刊京都』。京都の出版社・白川書院から1950年に創刊され、京都ファンに広く親しまれている月刊誌です。古くて新しい京都の魅力は何か。マチ、モノ、コトを深く掘り下げて丁寧に取材、魅力の本質を伝えます。→白川書院ブログ
『なごみ 茶のあるくらし』淡交社〇1980年グラフィック茶道誌『なごみ(和)』創刊。なごみとは、心を和して「あい和む」の意。今日ほど、この和の心が渇望されている時代はありません。日々のくらしのなかで、和を尊ぶ心を形にしてきた総合文化茶の湯に範をとり、現代の「茶のあるくらし」すなわち「和のあるくらし」を小誌はヴィジュアルに提案します。→淡交社ブログ

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  「くろねこの短語」2019年6月24日-沖縄全戦没者追悼式における初老の小学生・ペテン総理の挨拶ってのは、性懲りもなく過去3年の原稿の焼き直し。そんなんだもの、「帰れ」「嘘をつけ」「「辞めろ」の野次が飛ぶのももっともなことなのだ。心にもない言葉の羅列ほど、ひとを傷つけるものはない。沖縄全戦没者追悼式の安倍さんの今日、今年(2019年)分を含めて、過去三年の原稿(2017・2018・2019年)。表現の多少のいじりはあるものの、基本的なパーツや順番は同じ。
 それもこれも、ペテン政権を取り巻く政治家や官僚どもが、国民を舐めているからなんだね。ペテン政権になってからというもの、あからさまにその意思表示をこやつらはするようになった。たとえば、ひょっとこ麻生の国会におけるふんぞり返った居住まいなんか、その典型だ。また、野党の質問に対する官僚の答弁も、パブリックサーバントとしての自覚のカケラもない不遜な態度が目に余る。共産党のとっちゃん坊や・小池君の質問にニヤケながら「算数に弱いもので」なんて与太飛ばした金融庁の審議官もいたくらいだ。議員の裏には国民がいるってことを忘れているんだね。
 それは、顔も頭も貧相な官房長官・ガースによる東京新聞・望月記者に対する嫌がらせも同じことで、つまりはガースは国民に嫌がらせしてるってことだ。だからこそ、沖縄全戦没者追悼式でも毎年のように心にもない言葉を羅列した原稿を読むだけで事足れりってなるわけだ。そりゃあ、厳しい言葉の礫も投げつけられようというものだ。そんな薄汚い大人に比べて、「平和の詩」を朗読する少女のなんと美しいことか。こうした若い光が輝き続ける限り、まだこの国の未来も捨てたものではない・・・のかもしれない!!
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 2月10日は、1963年(S.38)年、アジアアフリカ連帯会義で4・28沖縄デーが決議された記念日。27度線での海上大会もスタート。以来、57年。変わらぬ軍事基地の島。戦後70年を経て、そのリニューアル再編整備が強行され永久基地化が図られている。その4・28を日本独立の日として祝ったのが歴史オンチのアベだった。
しかし、世界は忘れてはないし、見ている。アメリカンファーストのトランプ、日米安保第一のアベ立憲主義、人権を知らない、金権第一の最悪コンビ会談次第で、日本は世界の笑いものになる。(T)

1944年10月10日「十・十空襲ー那覇の崩壊」アメリカ軍は、南西諸島全域に大空襲を敢行した。10・10空襲と呼ばれるこの空襲によって那覇市は一挙に炎上し壊滅した。空襲は10日の午前7時の第一次から午後3時45分までの第五次まで延べ9百機におよぶ大規模なものであった。第二次の那覇港攻撃に続いて正午をはさんでの第三次攻撃で垣花町が炎上し、第四次攻撃は那覇市街地に集中し、第五次は全機をあげて那覇攻撃に終始した。低空銃爆撃とともに、多数の焼夷弾を投下したため、市内各所に火災が生じ、それが翌朝まで燃えつづけ、全市域の90%が消失した。

罹災戸数は、15、648戸中11、440戸に及んだ。とくに西本町592戸、貸座敷689戸で、上之蔵町602戸、東町552戸、旭町275戸、久茂地町903戸で全焼、西新町は1、146戸のうち1,130戸が焼失、天妃町は371戸のうち370戸が焼失した。また軍民あわせて150隻の船舶が沈み、また交通機関の破壊をはじめ軍需物資、民需物資の被害は大きかった。住民の死傷者は、死者330、負傷者455であった。この空襲によって那覇市庁舎は焼失し、重要書類もことごとく灰となった。→『写真集・那覇百年のあゆみ』

2014年9月6日~10月29日 那覇市歴史博物館「那覇のまつりと10・10空襲」

「10・10空襲罹災地図」 赤色が被災した範囲

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屋良朝信 2019-6-8、ようやく「関西沖縄文庫」を訪ねる機会に恵まれました。新大阪駅近くの宿泊先を少し早めに出て大正駅周辺を歩きました.。金城馨さん、諸見里さんにも会うことができました。蔵書の数量にも圧倒されましたが分野別に整理/分類されているのがすばらしいです。関西沖縄文庫は私設で、すべてスタッフメンバーの私費で運営されているとのこと、ありきたりの芸能の場や会員間の交流にとどまらず自由な視点で情報発信しているのが印象的でした。金城さんもその日の午後は沖縄に行かれるとのことでした。精力的ですね。小一時間ほどしか滞在できませんでしたが、皆さまの意気盛んなスピリッツに触れて勇気をもらいました。


写真左から屋良朝信、諸見里宗博さん

 1971年5月、沖縄の雑誌『青い海』2号に「あるグループ 沖青友の会(写真中央ー諸見里宗博)」が紹介されている。末尾に、大阪には沖青友の会のようなグループが四つある。おそらく10余のグループがあるのではないか、という。諸見里君らは、思想、信条の違いはあってもいいから、それらのグループとヨコのつながりだけでも持って、共通の悩みを解決し合いたいと思っている。と結んでいる。当時、関西には、京都の都沖青、港区の沖青友の会、大正区のサークル南風、枚方市の守礼の会、尼埼の三和同郷青友会があった。それらと連絡雑誌を作ろうと沖青友の会が動きはじめた最中であったから、『青い海』創刊は渡りに船であった。私より沖青友の会の諸見里宗博会長の方が積極的で機関誌『石の声』で宣伝にこれ努めた。



左が金城馨さん


1972年4月 雑誌『青い海』12号 「屋良朝信くん・ギター一丁かかえ世界一周旅行〝貧乏旅行″」/『青い海』13号①~22号⑧ 屋良朝信「旅行記でない旅行記」
屋良朝信 やら・とものぶ 川崎沖縄県人会会員。1949年川崎市川崎区生まれ。両親に連れられ幼い頃から沖縄を訪れる。学生運動が盛んだった10代の終わり頃、在籍した都内の明治大では休講が続いた。作家・小田実さんの著書の影響を受けて休学、「何でも見てやろう」とバックパッカーの旅に出た。北欧や英国の街角で、ギターを抱えて日本の歌を歌った。1年間で復学。卒業後、沖縄や欧州、アジアの安宿を泊まり歩く旅を30歳近くまで続けた。旅の途中、親交を深めた日本人の尺八奏者とも楽曲を制作した。その後、出版社や電子部品メーカー勤務などを経験。退職後は沖縄出身者やその子孫を応援する。

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〇當原昌松/略歴→沖縄県立博物館・美術館
1903年 11月2日、具志川村字山里生まれ
1923年 沖縄県師範学校卒業
1926年 東京美術学校図画師範科卒業
1926年 鹿児島県立指宿中学校教授嘱託
1927年 大分県立杵築高等女学校教授嘱託
1928年 沖縄県師範学校教諭兼訓導
1931年 横須賀市立実科高等女学校教授嘱託
1931年 東京美術学校研究科修業
1931年 横須賀市立実科高等女学校教諭
1932年 「第1回沖縄美術協会展」(神田三省堂画廊)出品
1934年 「二人展」(さいか屋/横須賀市)
1936年 「国画会(国展)」『このしろ舟』入選。12月29日、逝去(享年33歳)

沖縄県立博物館・美術館収蔵品「當原昌松作品8点」


1931年6月『沖縄県師範学校創立五十周年記念誌』當原昌松「亡師(西銘生楽先生)と亡友(竹島景明兄)と」


1937年6月28日『沖縄日報』海音寺潮五郎「當原昌松君の圭角」/當原晟麿「父 當原昌松と久米島と私」〇父の友人は皆良い人ばかりで、皆故人ですが、鹿児島の島袋盛範さん、歴史小説で有名な海音寺潮五郎さん、熊本高校校長をされた仲村昌信さん、画家の天井陸三さん、千葉の山昌里英さん等がおります。みな父を知らない私達兄弟を暖かく接して下さり、海音寺さんからは私が給料取りになってからもお小遣いを頂きました。

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