Archives

You are currently viewing archive for October 2011
Category: 01-人物名鑑
Posted by: ryubun02
麦夢忌/田原煙波
1924年12月14日『沖縄タイムス』/田原煙波①「俳友麦門冬を痛む」
○今まで障子に明るかった冬の日陰に失 したように薄れ行くを見つめて滅入るような淋しさを覚えている矢先君の死を聞かされた私は、物語る人の顔と口元とを見比べて、ただボンヤリと耳を傾けるより外はなかった。気の毒な事をした、惜しい事をしたといふ思が、それからそれへとひっきりなしに胸に湧いて来る。●●れ、やがて君のありし日の面影や、どん底からの表情が私の印象に蘇生へって来るのであった。君と相知ったのはたしか、明治四十●年の夏の頃、紅梯梧君の宅で亡三念③君の紹介によってであったと覚えている。其の年の秋亡柴舟君の宅で沖縄で初めての子規忌句会を催した時に君は「糸瓜忌や叱咤に洩れし人ばかり」といふ句を吐いて、私をして君の俳想凡ならずと感せしめたのであった。これより先、紅梯梧、(山下)紫海、私とが相合して沖縄俳界の革命者として自認し、三念其他の同志を糾合して在来の月並派に反旗を翻したのであったが其後更に亡楽山④と共に蘇鉄吟社を結んで、月並派を駆逐したのであった。然し私等の進みは遅れた。
君はやがて第二の革命者として名乗りをあげたのである。それは私等が子規派の句にたるみを感じて、碧梧桐先生一派の新傾向の句を研究せむとする頃、たまたま碧梧桐先生が来県せられた時、君は「潮ガボと吸ふ磯田 蘭刈●す」といふ句を発表して先生の賛辞を得たので私等は茲に目醒めざるを得なかったのである。私等は覚めた、そして連夜新傾向の句を批評し、感味した、やがて今迄の日本派が去って新傾向派として立つようになったのは慥かに君によって啓発された或物を感じたからであったのである。其後三念去り、楽山逝き、同人相離れて、いつの間にか君も私も俳界を遠ざかる様になったが、最近君の研究は学者として史家として世の造詣を深くするに至り、詩才は更に延びて漢詩に及び 優に一家をなすまでに心境を見たのであったが、惜しい事をした、もうこの世の人ではない。手元に遺っている君の旧作を漁りつつあり●昔の追憶に耽る時、北荒れの強い風と浪の音にまじって千鳥が寂しげに啼いている。君の魂は定めて君自身の道に躍進しつつあるであらふ、嗚呼
悼句  「君逝くと聞く薄るる冬日」「独りはぐれて野冬行く人」「遺句拾ひ偲ぶ千鳥啼く夜なり」「寒さしみじみと浪の音荒れて」

①田原煙波
1882年8月5日~1934年11月7日 本名・法馨。俳人・星佛、白水居。真教寺住職。那覇西村生まれ。1906年(明治39)東京真宗大学卒業。翌年、西新町において真教寺幼稚園創設、初代園長となる。

那覇の眞教寺
③三念・髙江洲康健
null
『琉文手帖』「歌人 山城正忠」
null
□私が入営中に高輪中学に髙江洲康健という人がいて、今、球陽座の髙江洲紅矢君の父で俳号を三念と言っていた。(『琉球新報』1932年5月)
④楽山・薬師吾吉

» Read More

Category: 01-人物名鑑
Posted by: ryubun02
中学時代、大田朝敷、仲吉朝助とともに又吉全道に漢学を学ぶ。中学を中退し上京。慶応義塾で学ぶ。1887年旧藩王尚泰の長女と結婚。89年帰郷。93年5月『琉球新報』を義兄弟の尚順を発起人代表にし、奈良原県知事から「目付」として送りこまれた野間五造を主筆に発足。専従の編集人には護得久一門の大田朝敷をすえた。野間が退社すると自ら主筆となって経営し、公同会(愛国協会)運動を展開する。その挫折後は尚家の財政的支柱である丸一商店、広運会社の経営に専念。1914年衆議院議員。


Category: 01-人物名鑑
Posted by: ryubun02
琉球王府最後の三司官富川盛奎(1882年中国亡命し90年没す)の4男として首里儀保に生まれる。1886年17歳で慶応義塾に学び、帰郷して『琉球新報』記者。1911年に渡口政成、仲里朝敦らと共同経営する丸三活版所から『古今琉歌集』を再刊。12年ごろ琉球新報社を退社。41歳で妻と5人の子供を残して渡米。皿洗いなどで生活しながら毎月家族に送金。ロサンゼルスでは邦字新聞記者の仲吉良光に会い、ニューヨークでは小橋川朝重に写真を撮ってもらっている。アメリカで死去。

null

null

Category: 01-人物名鑑
Posted by: ryubun02
真和志村天久(現那覇市)で生まれる。金沢医学専門学校卒業。1908年那覇泊で医院開業。33年『沖縄日日新聞』を引き受け、『沖縄日報』と改題して発刊。社員や記者の中には、のちに東京で活躍した古波蔵保好、宮良高夫や『琉球新報』社長になった親泊政博、同じく社長になった池宮城秀意がいた。