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Category: 01-人物名鑑
Posted by: ryubun02
1937年4月ー『沖縄教育』東恩納寛文「那覇・東京・名古屋」
 私は明治26年3月に卒業して直ぐ那覇高等尋常小学校訓導となり、仝女子部に赴任した。当時の那覇は西・東・若狭町・泉崎・久米・久茂地・泊の7字に分かれて、垣花・牧志は未だ編入されなかった。今の新薬会社の所を大門毛小といって道より海に半円形に出て居た、ここを埋め増やして那覇役所と各村役場すなわち字役場が建てられた。
役場には主取というのが居て字の事務を司っていた。丁度東は私の父が主取の時であった。其上に那覇役所があって役所長は太田祥介さんであった。暫らくして護得久朝常さんが代わった。県庁は見世前で、裁判所は今の興業銀行の辺りで、郵便局の所が県病院で、市役所の所が郵便局であった。
 人口は2万8千人位で、学校は那覇高等尋常学校男子部、女子部各1校と泊分校だけであった。男子部は現在の所で高等4年、尋常も4年までで18学級約千人位居た。女子部は久茂地の技芸学校のあった所で高等3年以下尋常1学年迄6教室で150人位別に幼稚園が30人位居た。(略)
 丁度此時名古屋に県視学の橘量先生が居られた。先生は私の小学校時代の校長で教生時代の主事であられた。先生に手紙を出すと直ぐ来いとの事で取るものも取り敢えず12月の中旬夜汽車で行った。幸い屋比久孟昌君が少尉で居たので手紙を出しておいた。汽車は寒風烈しき中を真夜中名古屋に着いた。改札口に寒風に震え乍一枚の白紙に東恩納と書いたのを広げて立つ一兵卒があった。直感した私は「私です」と飛びついた。彼も亦あなたですかと抱きついて直ぐ屋比久君の知人の家に行った。兵は屋比久君の従卒の松浦君であった。屋比久君はまだ外泊は出来なかった。
 翌日橘先生の御世話で第四高等小学校の代用教員を拝命して女子高等3年を受け持つこととなった。此時名古屋人士の琉球観は二通りあった。私等の師範学校時代の先生園田定太郎先生が先に愛知師範に転ぜられて、香ばしからぬ琉球談は同僚の連中には能く知れて居たので少なからぬ迷惑を感じたことがあった。古老は琉球人といえば、江戸上りの行列則明の服装で、薩摩の武士に護られて堂々と数百人が東海道を練り歩いて、名古屋の万松寺が定宿であった時の考え方である。若い連中は反対に乞食みたように考えて居た。これは沖縄の旅役者が大阪より流れ流れて遂に名古屋の大須で小屋掛けをして殆ど乞食みたような芝居を演じた事があったとかでコレを見たからである。
 私が赴任するや、校長は今日は父兄会だから話をせよ、明日は同窓会だから話せ、と月に2、3回は話に引き出された。後校長が笑いながらこれは言葉の試験であったといういった。幸沖縄の名誉もけがさずに明治42年に帰郷して甲辰小学校長となった。惟えば当時の名古屋は人口38万人位で、県人として屋比久君が居たが間もなく死去した。暫くして饒平名紀腆、賀数仁王君、髙江洲康亨君が医專に、小嶺幸輝君が商工に入学して段々名古屋に県人が来る様になった。
 名古屋市の学校は専門学校以上には只医専のみで、電車は東京よりも先に20町位あった。然し水道も電燈もなかった。素人宿が5圓位で18圓の代用は20余名の職員の4席位であった。当地で教えた生徒の中では博士や技師、高等学校の教授、会社重役等数人あった。今に互いに音信を通じて居る。
 名古屋は私の第二の故郷で親戚知人も多く長男はここに一家を構えて会社に通勤し子供等は皆此地の小学校に通学して居る。私は男子7人女子4人の子沢山であるが既に東京、名古屋、福岡、仙台の方に延びて居る。私は吾々の二世が日ならずして各府県に延長して國の為め、家の為めに奮闘することは頓て、沖縄県の為めにもなることであって、吾々老生が尽くす奉公の1であると確信して専ら子供等の発展を期待して居るのである。

八世 寛文/寛惇共編『万水一源ー慎氏東恩納家譜ー』
□吾等の門葉は慎氏である。慎氏を称する家には、寛・政・崇等の名乗頭を有するものがあるが吾等の血統は寛を号ずるのである。又姚・喩・豊・金等の諸氏何れも寛を名乗頭に使用しているが、吾等の一党ではない。氏が慎であり、名乗頭が寛であれば、吾等の門中である。首里の泉川(絵師の慎思九・泉川寛英)、那覇の謝花(謝花雲石)・運天等には、同門がある。明治期、空手家として那覇東の東恩納寛裕(寛文、寛惇の父)、西町の東恩納寛量は著名である。

渡久地政司
● 沖縄と愛知を結ぶ会(1968年8月25日)
中日劇場―愛知県知事、名古屋市長、名古屋商工会議所会頭らが挨拶。沖縄県から復帰協会長喜屋武真栄が来名し、琉球古武術を披露、普久原舞踊団、嘉手納清美らが琉球舞踊を演じた。この集いは3回ほどおこなわれた。
● 愛知沖縄県人会休眠状態に。沖縄が本土 復帰した1973年以降、全体としての役員構成ができなくなり、実質的に休眠状態となり、屋嘉比紫盛(愛知県との窓口)が会長職と名称を維持した。この間も緑沖縄県人会は運動会、豊田沖縄県人会はエイサー大会と親睦会、守山沖縄県人会(不明)、愛知沖縄青年会は芸能祭・キャンプなどを行っていた。
● 沖縄県名古屋事務所―県事務所設置運動は1960年初頭からおこなわれていた。昭和40(1965)年、琉球政府東京事務所名古屋支所設置。昭和45(1970)年、琉球政府名古屋事務所開設(名古屋市中村区笹島)。昭和47(1972)年沖縄県大阪事務所名古屋分所開設、同分所 昭和49(1974)年、中村区広小路ガーデンビルに移転。昭和54(1979)年沖縄県商工労働部沖縄県名古屋事務所開設。
昭和59(1984)年沖縄県大阪事務所名古屋支所。平成5(1993)年、(株)沖縄県物産公社大阪営業所名古屋支所を所内に開設。平成6(1994)年7月、名古屋わしたショップを中区錦3丁目に開設。平成6(1994)年11月、名古屋支所を中区錦3丁目に移転。平成7(1995)年4月、沖縄県名古屋事務所へ改組。沖縄県名古屋事務所のエリアは、愛知県、三重県、岐阜県、福井県、石川県、富山県。
● 沖縄の芸能―1945年から1973年までの
間、愛知県内の沖縄芸能団体の存在を証明する印刷物は見つかっていない。琉球民謡、唄三糸、舞踊などは、私的におこなわれていた。
 昭和40年ころ、名古屋市内の野外で嘉手苅林昌が唄三糸を披露した(渡久地の記憶)。
 昭和50年代、豊田民踊同好会が豊田沖縄県人会と会計を同じくして存在し、毎年エイサー大会を開催するようになった。
 昭和60(1985)年7月、名古屋市民会館で組踊「執念鐘入」公演、金城美枝子・玉城節子・島袋光晴・安富祖竹久・島袋正雄・島袋光史ら。(「沖縄年鑑」1986年版)  
 平成17(2005)年、県内の「琉球舞踊、唄三糸、エイサー」団体は、舞踊○、唄三糸○、エイサー○、劇団1、の盛況となっている。
 プロの沖縄・琉球芸能―アーチスト公演は、毎月のごとくおこなわれている。
● 愛知沖縄県人会連合会として再発足―昭和60年前後、上原勘松郎、比嘉照康、山城一男、前原信政、濱盛重則らが愛知沖縄県人会を連合会方式で再発足することに尽力した。昭和○○年、
● 上原勘松郎が初代連合会会長に就任。 (   )、連合会の基礎を固め、発展の基礎をつくった。2代目会長に比嘉照康(  )、3代目渡久地政司(  )、4代目前原信政(現)。

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Category: 01-人物名鑑
Posted by: ryubun02
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作家名 梶原緋佐子
作家名(ヨミ) カジワラヒサコ
作家名(英字) KAJIWARA HISAKO
出身地 京都府京都市
生没年月日 1896年~1988年
略歴 1896年京都府に生まれる。1988年没する。京都府立第二高等女学校で千種掃雲に学ぶ。卒業後、菊池契月に師事。1918年第1回国画創作協会展に〈暮れゆく停留所〉を出品し、選外佳作となる。翌年、第2回帝展に出品し入選。以後、帝展、新文展に出品し活躍。戦後は日展で特選や白寿賞を受賞し、審査員も度々務めた。また、京展に出品し審査員を務めるなど、戦後の京都画壇において重要な位置についた。1976年京都市文化功労賞を受賞した。
作品情報 所蔵品あり (→徳島県立近代美術館)