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10/23: 三宅鳳白

Category: 01-人物名鑑
Posted by: ryubun02

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三宅鳳白 
(1893年5月2日~1957年2月26日)

京都市に生まれる。父は三宅呉暁。京都市立絵画専門学校卒業。山本春挙に師事。帝展、文展、日展で活躍。京都市立絵画専門学校助教授,光華女子短期大学教授をつとめた。

三宅呉暁
(みやけ・ごぎょう)
1864~1919 元治元年3月1日、京都生。
名守広、通称清三郎、別号水月庵・心遠斎など。
森川曽文に師事し四條派を学ぶ。
各種展覧会などで受賞多数。
明治30~40年まで京都市立美術工芸学校教諭。
大正8年8月26日歿。享年55。

Category: 01-人物名鑑
Posted by: ryubun02

2013年11月22日『琉球新報』仲村顕「眠れる先人たちー宮城新昌/宮城昌康」


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牡蠣王・宮城新昌

1963年9月ー『琉球のあゆみ』志良堂清英「この人と一時間ー国造り60年のあゆみ セオドル・ルーズベルト大統領と会見 カキ養殖王 宮城新昌翁と語る」
□アメリカのピユーリタンに根ざすところの、ハリマンの開拓精神も、陽明学に出発した日本の武士道精神も、蔡温の治山治水の経世思想も帰するところ、国威を発揚する基本的な考え方においては、私はおなじだと思うね。アメリカという国は、建国の初めに先ずインディアンと戦い、次に猛獣と闘い、西へ西へと進んで遂に太平洋沿岸に達した。

先進国が未開の民を手なずけて鉄道を敷き、その周辺の民衆を啓蒙し、文明の恵沢に浴せしめる。ハリマンはこの手段によって、五大鉄道を成し遂げ、太平洋沿岸に到達した。パナマ運河は開通し、大西洋の水は太平洋に注ぎ込もうとしていた。当時ハリマンはこの五ツの鉄道をまとめて、ドイツの3B(ベルリン、バグダッド、バンコック)、イギリスの3C(ケープタウンその他)に匹敵する3A(アメリカ、アラスカ、アジア)を結ぶ線を計画し、満鉄に手を出そうとしたけれど、これは失敗に終わった。

アメリカのニューフロントニアにしても、開拓精神にしろ、今日と雖も厳固として変わることはあるまい。根本的精神は西へ進んで太平洋を越えてアジアと提携し、共存共栄を目的として太平洋上に共同の平和文化国家を打ち樹てようというのが、基本的な考え方である。寧ろこれが極く自然な順路で、アメリカ人の考え方は、これがアメリカに課せられた使命であるとすら信じている。(以下略)

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Posted by: ryubun02
白保台一 沖縄県立博物館・美術館2代目館長

私は現役の国会議員は会わないことにしているが、引退後の伊江朝雄氏などには川平朝申の縁もあり会った。私の蔵書に現役時代の白保台一『琉球のロマンを今にー大航海時代再現へ向けての「私の提言」』がある。中に「時代は大きく変わりました。世界的流れとして人間社会は『ハード・パワー』(富・権力・軍事等の外発性の力)の時代から『ソフト・パワー』(文化・芸術・精神等の内発性の力)の時代へと静かな転換を見せています。」とある。土門拳展で白保館長とちょっと話したとき同書の話をした。5月17日、館長室で同書にサインをお願いし琉球のロマンを念頭に「西のミラノ 東の琉球」と書いてもらった。

ミラノ□2大産業がやっぱり「ファッション」と「デザイン」。世界中から新鋭クリエータが集まる街として知られるミラノでは音楽や絵画などのアーティストに留まらず、あらゆる「ファッション」や「デザイン」を学ぶ若い学生が世界中から集まる芸術学校が多数存在する学園都市としても有名である。1978年から始まった「ミラノ・コレクション」はパリ、ニューヨークと並ぶ世界3大ファッションショーであるが、これはまさにミラノを象徴しているとも言えるだろう。(→アーモイタリア旅行ガイド)
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写真ー前列左から渡口彦邦氏、山田實さん、白保台一沖縄県立博物館・美術館館長/後列左から宮城修氏、高良由加利さん、新城栄徳

『琉球新報』2013年2月19日
白保台一氏が死去 元衆院議員、沖縄振興に尽力
白保台一氏
 沖縄開発総括政務次官として沖縄振興に尽力した、元衆議院議員で県立博物館・美術館長の白保台一(たいいち)氏が18日午後7時20分、療養していた宜野湾市の国立病院機構沖縄病院で肺炎のため死去した。70歳。仮通夜は19日、本通夜は20日、いずれも午後7時から8時まで、那覇市天久1192の1、那覇葬祭会館第3で執り行われる。告別式は21日の予定。喪主は妻・寿(とし)子さん。白保氏は、八重山郡竹富町出身。日本大学卒。県議を3期9年間務めた後、96年の衆院選で新進党から出馬して初当選。公明党再結成に参加して2000年、03年に再選した。党副幹事長を務め、05年には党農水部会長として食育基本法を自民党と共同提案した。05年の衆院選で落選し、07年に勇退。11年4月から県立博物館・美術館長を務めていた。

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Category: 01-人物名鑑
Posted by: ryubun02
1885-1934 明治-昭和時代前期の日本画家。
明治18年8月生まれ。円山派の今尾景年にまなび,京都市立絵画専門学校(現京都市立芸大)を卒業。文展でたびたび褒状をうける。のち日本自由画壇の同人。昭和9年3月2日死去。50歳。京都出身。本名は仁一郎。作品に「画室の花」など。(コトバンク)

□1910年8月9日ー馬山丸で第2観光団(70人余)の一人、松村梅叟(京都市立絵画専門学校生徒)来沖
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Category: 01-人物名鑑
Posted by: ryubun02
司馬遼太郎 しば-りょうたろう
1923-1996 昭和後期-平成時代の小説家。
大正12年8月7日生まれ。産業経済新聞社勤務中の昭和35年「梟(ふくろう)の城」で直木賞。36年作家生活にはいり,変革期の人物を題材に,「竜馬がゆく」「坂の上の雲」「翔(と)ぶが如く」などの歴史小説を多数発表した。紀行「街道をゆく」のほか,司馬史観とよばれる日本論,日本人論もおおい。平成5年文化勲章。芸術院会員。平成8年2月12日死去。72歳。大阪出身。大阪外国語学校(現大阪外大)卒。本名は福田定一。 【格言など】智はときに深く秘せられねばならない(「新史太閤記」)→コトバンク

〇1972年2月、『青い海』「優れた沖縄を語りたいのですー若者がつどう沖縄関係資料室」/2月5日『サンデー沖縄』「カメラルポー賑わう沖縄関係資料室」/5月9日『読売新聞』「町の学会ー沖縄関係資料室」/5月11日『神戸新聞』「訴える沖縄の心ー西平守晴さん」/5月14日『朝日放送』新城栄徳「沖縄差別?無知による偏見ですね」/9月、『琉球の文化』第1号□「琉球文化社関西支局(沖縄関係資料室内)・新城栄徳」/12月、『青い海』第19号□西平守晴「混迷する県人会」□新城栄徳、新里金福と関広延対談をセットする


1974年4月、司馬遼太郎が沖縄関係資料室に来室、西平守晴と対談司馬遼太郎『街道をゆく6』朝日新聞社
○大阪の都島本通で、篤志でもって「沖縄関係資料室」をひらいていおられる西平守晴氏にもきいてたしかめることができた。西平氏は、「そうです、そんな話があります」といって、南波照間の「南」を、パイと発音した。ついでながら本土語の南風(はえ)は沖縄でも「南」の意味につかう。本土語の古い発音では、こんにちのH音が古くはF音になり、さらに古くはP音になる。つまり花はパナである。八重山諸島の言葉はP音の古発音を残していて、南(ハエ)が南(パイ)になるらしい。西平氏はこのまぼろしの島を、「パイ・ハテルマ」と、いかにもその島にふさわしい発音で言った。


5月、『琉球の文化』第5号□琉球文化社関西連絡所(青い海出版社内・新城栄徳)


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Category: 01-人物名鑑
Posted by: ryubun02


1997年8月、沖縄県公文書館で「岸秋正文庫の世界」展が開かれるにあたって比嘉晴二郎氏に新城栄徳を介して展評を依頼した。沖縄タイムス8月5日に掲載された。

比嘉晴二郎(梯梧の花短歌会会長)「沖縄文献を長年研究ー岸秋正氏と収集品」

 岸秋正という人は、その没後のことし1月、朝子夫人が夫の長い年月をかけて収集した貴重な沖縄関係の古文書を含む文献資料のすべてを沖縄県公文書館へ寄贈して話題になった人である。もっとも自分自身で多少とも沖縄関係の古文書に関心のある人、あるいは図書館、公文書館の職員ならいざ知らず、普通の人は新聞紙上で岸秋正氏を知るくらいであろう。
数ヶ月前に朝子夫人から、秋正氏の遺稿集『わが青春の思い出』という本が贈られてきた。第1章は、わが青春の思い出、陸軍士官学校(予科)を経て、同学校を卒業、終戦までという副題がついている。第2章は、第2の人生ー。この章は朝子さんの筆になるものである。第3章は、研究発表一覧ー。琉球関係古文文書収集の楽しみ(岸秋正)となっており、北斎の「琉球八景について」「琉球の希書について」「続・琉球の希書について」等となって本編には琉球の希書に対する秋正氏の独自の書誌的な研究が載っている。
ここで秋正氏の夫人朝子さんの父・宮城新昌さんのことを書いておきたい。沖縄の農林学校を卒業してアメリカの西海岸の高等園芸学校に入学、カキの養殖を学んだ。西海岸のオリンピアやカナダに養殖場を持ったりしたが、帰国後は、宮城県下で養蠣(れい)業をおこし、アメリカに種カキ輸出の道を開いたり、垂下式養れい法を考案した。岸氏も宮城県で養れい業に従事。昭和27年秋、長男を一夜にして失ったので養れい業を宮城県の人に譲り、岸一家は東京の麹町に移った。それは昭和28年のことだった。
 沖縄の実業家、宮城仁四郎氏は新昌さんのいとこである。仁四郎氏は、灰燼と化した沖縄で、機械製塩、製糖業と生産業を通じて、また、タバコ、パイン、セメント等の製造で沖縄復興に貢献した人である。仁四郎氏の経営する大東糖業株式会社が東京に出張所をつくることになり、秋正氏に責任者になってほしいという話があり、日本橋の小さな事務所を借り、女性一人を入れた二人だけでささやかなスタートであった。
 さて、秋正氏が、沖縄関係の古文書を収集する動機についてふれたい。大東糖業の専務・大嶺薫氏が、ときどき上京し、骨董趣味のある同氏は、岸氏を同道して、骨董商や古書店をよく回ったらしい。これが秋正氏の沖縄関係古文書収集の発端になったようだ。
沖縄県内にも沖縄関係古文書の収集家がいて、秋正氏も多くの知己を得たらしい。故人となった天野鉄夫さん、私もその小さい収集家の一人であった。私も秋正氏と数回会い、私の乏しい蔵書も一回は見てもらったことがあった。秋正氏は軍人上がりだが、会って話した感じでは誠実な感じのする人であった。

1999年5月『琉文手帖』「沖縄近代文化年表」
○附録Ⅰ、わが琉球学の先達たちー岸秋正氏
岸氏の名前を最初に見たのは1977年の「末吉麦門冬の資料提供申し出る」と言う新聞記事であった。1988年4月、東京古書会館の城北展で、根元書房の佐藤善五郎さんに岸氏を紹介してもらった。この時の事を氏は「沖縄から上京中の新城栄徳氏に会いコーヒーをのみながら種々懇談す。新城氏は『琉球の文化』編集にたづさわっていた人で琉球資料をよく調べられており且つ比嘉晴二郎氏や天野鉄夫氏等よく知っておられる方だ」と記しておられる。お会いしたのはこの時が最初で最後、この時に戴いた氏の名刺が今もある。

岸氏は1917年10月、愛知県一宮市で生まれて、1935年一宮中学校を卒業し陸軍士官学校に入学。この頃、東京の山田真山が名古屋に移り住んで、一宮市公園に9メートルの阿弥陀仏や勢至観音、観世音菩薩を制作(岸文庫に1918年刊の山田真山作品図録がある)。岸氏は1941年9月に陸軍砲工学校卒業、12月の香港攻略戦に参加し、その武功が朝日新聞、満州日日新聞、読売報知など全国の新聞で報道され話題となる。1942年、ガダルカナル島攻略戦に参加。

1943年12月に宮城新昌の次女・朝子と結婚。1946年6月、義父宮城新昌の勧めで宮城県萩の浜にて養蛎業を学ぶ。1947年、千葉県五井町にて養蛎業を始める。1955年5月に大東糖業株式会社東京連絡事務所長となり、本社の大嶺薫専務の骨董屋廻りに同道するうちに琉球関係古文献蒐集に興味をもった。1979年8月、神山政良蔵書の沖縄史料編集所への寄贈に立ち会い、9月の『南島史学』に「琉球の稀書について」と題し発表。

岸氏は1995年12月8日に逝去、78歳であった。その膨大なコレクションは、夫人の朝子さんにより沖縄県公文書館に寄贈された。1977年8月に主な文献を展示した特別展「沖縄へのまなざしー岸秋正文庫の世界ー」が開催された。その図録に展示の資料評価・選定の協力者として私の名前も記されている。

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