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Category: 01-人物名鑑
Posted by: ryubun02
与世山彦士、漢那憲和らの世話で13歳年下の島晴美と結婚
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右の色紙は山城正忠に贈ったもの。
与世山彦士(1868年8月28日ー1986年)那覇久米町に生まれる。祖父・振升、父・大成で久米毛氏。小学校は大阪、中学は東京海城の出身。
1920年5月ー『彦士歌集』雑草詩社/このころロシア出身のエリアナ・パヴロワ①に入門、洋舞を研究する。

①1899年(明治32年)3月22日、ロシア・サンクトペテルブルクの貴族の家庭に生まれる。
母・妹とともにロシア革命から逃れ、ヘルシンキ、ハルビン、上海を経て、1920年(大正9年)に日本に入国する。翌1921年(大正10年)、小山内薫が所長を務める東京市本郷区(現在の文京区本郷)の「松竹キネマ研究所」が製作したサイレント映画『君よ知らずや』の主演に抜擢される。1927年(昭和2年)、神奈川県鎌倉郡腰越津村七里ヶ浜(現在の鎌倉市七里ガ浜東)に日本初のバレエの稽古場を開設、東勇作、橘秋子、貝谷八百子、近藤玲子、大滝愛子、島田廣、服部智恵子らを育てた。1937年(昭和12年)、日本に帰化した。→ウィキペディア

1940年12月ー東京から大阪へ「のぼる喫茶店」開業
1958年ー『詩集やどかり』与世山彦士バレエ研究所/1959年ー『童謡集 尾鷲鳶』与世山彦士バレエ研究所
1963年ー『短歌集 母神』

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1987年8月ー9月『沖縄タイムス』幸地建一「ヤマトに生きるー関西沖縄人国記」/幸地記者がこの連載企画を話したとき真っ先に紹介したのが比嘉正子さんと島晴美さんであった。

1987年5月21日『沖縄タイムス』幸地建一「ヤマトに生きるー関西沖縄人国記/人類館事件


1988年3月4日『沖縄タイムス』幸地建一「ヤマトに生きるー関西沖縄人国記/大阪粟国村人会」

2014年8月29日 現在の幸地建一記者
Category: 01-人物名鑑
Posted by: ryubun02
ブログ「石垣島の石碑・説明看板(市街地)」に「八重山キリシタン事件殉教の地」の碑がある。説明文に□一六二四年に石垣島冨崎の沖に漂着した宣教師ファン・デ・ロス・アンヘレス・ルエダ神父によって八重山にキリスト教がもたらされ嘉善姓一門を中心にひろまったが国禁であるキリスト教を信仰したとして「八重山キリシタン事件」と呼ばれるキリシタン弾圧事件がおこった。一六二四年、宮良親雲上永将は首謀者として当地(オンナー)において焚刑に処せられ、財産は没収。子孫は波照間島や与那国島、宮古島に流された。ルエダ神父は、琉球王国に連行されたのち粟国島へ流刑となり、そこで殺害された。
 
一六二九年にはトマス・デ・サン・ハシン西六左衛門神父が日本への密航の途中に石垣島に立ち寄り、永将の弟宮良頭の永弘や大城与人安師と接触したとして翌年ふたりは琉球王国へ連行された。永弘は渡名喜島へ流刑となり、一六三五年に焚刑に処せられるが、安師は慶良間島へ流刑となった後に赦されて帰島する(一六四二年)。さらに、一六三八年には宗門改めの踏み絵により永将の弟の宮良与人永定がキリシタンとして永将同様当地(オンナー)で焚刑に処せられた。この一連の事件は薩摩侵入(一六〇九年)後の琉球唯一のキリシタン弾圧による殉教事件である。

                                     二〇〇四(平成一六)年十月二二日(旧九月九日)  嘉善姓一門会
                                       □この碑は桃林寺の西方(79線沿い(新川54番地)にあります。

ルエダ神父の殺害場所については異説もあるが、其れはさて置き「ルエダ神父殉教碑」というのは沖縄には無い。粟国教育委員会が事実関係や、神父の故郷を調査して粟国の海岸、渡名喜島が見える場所に殉教碑を建立すべきと思う。石垣永将については、『沖縄大百科事典』に高良倉吉氏が書いている。それによると永将の屋敷跡はのちに蔵元となり、現在は沖縄県八重山支庁・石垣市立八重山博物館が建っているという。1997年2月、カトリック神言修道会司祭の青山玄氏が『石垣永将の殉教ー琉球最初のキリシタン』(聖母文庫)を出され、ルエダ神父について詳しく紹介されている。

□フアン・デ・ロス・アンヘレス(天使たちのヨハネの意)・ルエダ神父は1578年頃スペイン北部のブルゴス県ヴィリャサンディノ村に生まれる。両親の名前は不詳。1590年9月にはドミニコ会のカエタノ学院生徒。1603年、ドミニコ会司祭となってヴィリャドリドのサン・バブロ修道院にいた時「ロザリオの聖母管区」のための宣教師募集でメキシコのサント・ドミンゴ修道院に落ち着いた。メキシコに5カ月滞在した後、1604年、マニラに到着。同地で開催された管区会議で日本に任命され、7月に甑島の長浜村に着く。1606年2月、川内町の京泊村に移る。1607年、肥前国浜町の教会に任命された。そして迫害下の潜伏活動を経て、1620年12月に長崎を出発、マニラのサント・ドミンゴ修道院病室に落ち着く。

ルエダ神父がいつ処刑されたのかは不明だが、前述した西神父の追記には、粟国島でmuchos meses(多くの月)滞在していたように書かれており、この漠然としたスペイン語の表現は、日本語の「数か月」と「二、三年」乃至「数年」との間の期間を差すと受け止めて良いと思われるから、少なくとも1624にではなく、その翌年か翌々年頃と考えてよいであろう。
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Posted by: ryubun02

歌誌『冬柏』(1930年3月~1941年11月)と山城正忠
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1936年11月『冬柏』山城正忠「旅に籠りて」
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1935年5月『冬柏』久地楽軌「与謝野両先生」

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1941年2月『冬柏』田中悌六「山城正忠像」

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Category: 01-人物名鑑
Posted by: ryubun02

蜂須賀正氏 はちすか-まさうじ
1903-1953 昭和時代の動物学者。
明治36年2月15日生まれ。もと阿波(あわ)徳島藩主の蜂須賀家18代。フィリピンなど海外の鳥類や絶滅鳥ドードーを研究。日本生物地理学会会頭,日本鳥類保護連盟会長などをつとめた。昭和28年5月14日死去。50歳。東京出身。ケンブリッジ大卒。著作に「世界の涯(はて)」など。→コトバンク ○戦争末期には自家用機で日本脱出を計画して問題となったり、子爵高辻正長と共謀して白金の密輸に関与した廉で検察の取調べを受けたりするなど醜聞にまみれ、「醜類有爵者」と嘲笑された。密輸の件では1945年5月10日に国家総動員法違反容疑で起訴。1945年7月28日、敗戦直前に爵位を返上して平民となる。戦後は、在米中に結婚した智恵子夫人との壮絶な離婚訴訟や、遺産相続の揉め事、財宝の行方不明事件、横井英樹への貸し金をめぐる訴訟などで週刊誌に数多くのゴシップを提供した。昭和14年(1939年)3月10日、永峰智恵子(日系アメリカ人永峰治之長女、明治42年(1909年)1月20日生 - 平成8年(1996年)5月27日没)と入籍、長女正子(蜂須賀家17代当主、昭和16年(1941年)1月7日生)が入る。○事件の顛末ー1958年(昭和33年)6月、安藤組安藤昇組長は、三栄物産代表取締役・元山富雄から、「昭和25年(1950年)に蜂須賀元侯爵が、年2割金利で東洋郵船社長・横井英樹に3000万円を貸し付けた。3000万円のうち2000万円が未払いになっている。蜂須賀元侯爵夫人が訴訟を起こして最高裁で勝訴したが、1年を過ぎても横井英樹からの支払いがない。横井英樹から2000万円を取り立ててほしい」との依頼を受けた。1958年6月11日午後3時、安藤昇(当時32歳)は、元山富雄とともに、銀座8丁目の第2千成ビル8階にあった東洋郵船本社を訪れ、横井と交渉したが、横井は支払いを拒否した。同日午後7時10分、安藤組赤坂支部・千葉一弘(後の住吉会住吉一家石井会相談役 当時25歳)が、東洋郵船本社の社長室に押し入り、横井をブローニング32口径の拳銃で1発銃撃した。横井は右腕から左肺と肝臓右を貫通し右わき腹に達する銃弾を受け、意識不明の重体に陥った。千葉一弘は逃走した。→ウィキペディア
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Posted by: ryubun02
1940年5月29日『琉球新報』「虚子氏御曹子 年尾氏近く来県」
1940年6月3日『琉球新報』「琉球の梅雨に來りぬ、それは夏 高濱年尾氏早速一句」




昭和54年3月 高濱年尾『病間日誌』五月書房(東京都千代田区)

高浜年尾 たかはま-としお
1900-1979 大正-昭和時代の俳人。
明治33年12月16日生まれ。高浜虚子(きょし)の長男。中学時代から父の手ほどきをうけ,一時会社につとめたのち俳句に専念。昭和13年から「俳諧(はいかい)」を主宰。26年父より「ホトトギス」をひきついだ。昭和54年10月26日死去。78歳。東京出身。小樽高商(現小樽商大)卒。著作に「俳諧手引」,句集に「年尾句集」。【格言など】暮れる前からのかゞやき寒の月(「句日記三」)→コトバンク