Category: 02-関西の沖縄
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 2021年1月10日 昨日、パソコンに「内部サーバーエラー」が出て写真がアップできなくなったので、関西の息子(IT&メディア・コンサルティング)に連絡、情報が多く重たくなって遅いので気長に入力するように言われた。一時、写真がアップ出来なくなったら如何しようかと押入を漁ったら紙の「琉文21」、2,3のスクラップ袋が出て来た。ワープロは好きだったが今は生産もしてないそうだ。2008年6月の紙「琉文21」に、先日、『青い海』編集室があった新大阪駅前のチサンマンションに行った。かつては週に2回は通ったところであるがボケたのか3回ウロウロして辿り着いた。マンションのエレベーターでは津野創一さん兄弟、舞踊家の金城康子さん、知念政光氏などと居合わせたことがある。このころ私は『青い海』の一口株主で営業部の名刺を作ってもらい、県人会の宮城会長、民謡の大御所、普久原朝喜さんの所にお邪魔した。宮城さんのところでは丁度県人幹部が集まっていた。幹部のひとりが「こういことは都島の西平さんの所に行くといい」と言われた。普久原さんはエジソンの写真の前で「まず人から信用を得ることが大切」と助言してもらった。この新大阪の編集室で「今度入ってくる子」と永峰真名さんの履歴書を見せられた。
 スクラップ袋の一つに「上里賢一・上里和美」があった。今、和美さんとはフェイスブック友になっている。このスクラップ時は出会うことはまず無いなと思った。
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 「青い海出版社新事務所ー新大阪駅正面前」

1972年5月 青い海出版社『はだか沖縄 ジャンプ・イン<沖縄>青春広場』六月社書房/1975年9月14日「第1回 沖縄青年の祭り」ポスター


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1973年8月6日ー『沖縄タイムス』石原英夫「郷土史研究に没頭する新城栄徳さん」記事を書いてくれた沖縄タイムス関西支社の元記者・石原英夫さん(右)と新城栄徳。

「がじゅまるの会」「沖縄県大阪事務所」


「平山敏治郎」「井伊文子」「金城実」「儀間比呂志」
 

1974年5月ー『琉球の文化』第五号<沖縄戦と終戦直後の生活>
琉球文化社(編集発行人・大城精徳)本社〒那覇市牧志町1-944-6 編集局〒902那覇市安里425丸清ビル2階
関西連絡所ー大阪市東淀川区西中島町5-62青い海出版社内(新城栄徳)


1975年6月 『沖縄国際海洋博覧会公式ガイドブック』財団法人沖縄国際海洋博覧会協会(版画は『儀間比呂志の版画 沖縄』講談社刊より)
1975年9月14日ーパーランクーの音が大阪大正区に鳴り響く

1977年7月『青い海』65号 「大阪で二つの展覧会ー儀間比呂志版画自選展と大城一史・石田亮太郎二人展」「女人登場”世界の泡盛〟めざしてー照屋比呂子さん」

1977年9月『青い海』66号 「女人登場ー花織に想いを込めてー与那嶺貞さん」「沖縄女流美術家協会設立、会長・久場とよ、副会長」・山元文子、事務局長・宮良瑛子」

1977年10月『青い海』67号 「大阪の空にエイサーのリズムが響きわたるー第三回沖縄青年祭り。9月15日、尼埼市。18日、大正区千島グラウンドで山端立昌大阪沖縄連合会副会長挨拶、東京ゆうなの会、愛知沖縄青年会のあいさつ、彫刻家・金城実もあいさつ。見物の人も含めて約150人が参加」「儀間比呂志展、沖縄物産センターで開かる」 

1978年6月『青い海』74号 永峰真名「苦悩を乗り越える沖縄青年たちーIさん問題とがじゅまるの会ー」/儀間比呂志、安谷屋長也、金城順亮、浦添正光、島袋純子「<座談会>地域に根ざした児童文化を」

1978年10月『青い海』77号 「那覇市八汐荘ホール 賑わった出版祝賀会”鳥類館〟儀間比呂志『七がつ」エイサー』『りゅうとにわとり』、新川明『新南島風土記』、川満信一『沖縄・根からの問い』3氏を展示して大騒ぎ。豊川善一、北島角子、高江洲義寛、幸喜良秀、海勢頭豊、南条喜久子、森田吉子、玉城秀子、嶋袋浩(福木詮)ら参加」「パーランク高らかにー第四回沖縄青少年の祭り」


1973年12月 福木詮『沖縄のあしあと 1968-72年』岩波書店□あとがきー(前略)表紙・函に掲げた版画は、儀間比呂志氏が版画風土記『沖縄』に発表された作品であるが、同氏は快く掲載を許されたばかりでなく、とくに本書のために原画に筆を加えられた。心からお礼を申し上げたい。


1978年10月1日ーエイサー会場で走りまわるフトシ君とコウ君

1978年11月『青い海』78号 儀間比呂志「沖縄の子・大和の子たちへー絵本で伝えたい沖縄のこころー」/永峰真名「メヒカーノスになった沖縄人」
1979年5月『青い海』83号 「帰郷中の版画家・儀間比呂志氏の呼びかけで、4月の末に宮城美能留氏の宮城舞踊研究所(那覇・松尾)で、琉舞を鑑賞し、懇談する集いが開かれました」


1979年11月『青い海』88号 儀間比呂志「戦がやってきた」(沖縄三越ー沖縄戦版画集出版記念展)

1980年4月『青い海』92号 「新鮮なイメージ再びー儀間比呂志版画小品展ー3月27日から沖縄物産センター」「文化アラカルト/沖縄物産センター開設十周年」 
1980年6月『青い海』94号 「沖縄問題研究センター(上江洲久理事長)設立総会/宮本憲一大阪市大教授が記念特別公演『基地がある限り、自治はない』と語り、財政学の立場から、沖縄の現状を分析し

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Posted by: ryubun02
高野山
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2021-7-25 こうたろう、父母、祖母と高野山で遊ぶ

1975年10月26日ー親子で高野山参詣



写真ー高野山大門前のヨチヨチ歩きの息子

南方熊楠が土宜法竜高野山管長に再会するのも目的の一つで1920年8月23日に、粘菌研究家の小畔四郎、画家の川島草堂、坂口総一郎らと高野山に登った。熊楠と法竜との出会いは、1893年にさかのぼる。法竜が真言宗の代表としてシカゴの万国宗教大会に出席した。大会後、法竜はパリのギメー博物館の招きに応じ、同館の仏教資料調査にために渡仏の途中にロンドンで熊楠に会った。それ以来書簡の往復を重ねた。

南方熊楠が履歴書の中に法竜を「この法主は伊勢辺のよほどの貧人の子にて僧侶となりしのち、慶応義塾に入り、洋学をのぞき、僧中の改進派たりし。小生とロンドン正金銀行故中井芳楠氏の宅で初めて面会して、旧識のごとく一生文通を絶たざりし。弘法流の書をよくし、弘法以後の名筆といわれたり」と記した。熊楠の法竜宛の書簡でよく知られているのが次ぎの文言である。

南方熊楠「無尽無究の大宇宙のまだ大宇宙を包蔵する大宇宙を、たとえば顕微鏡一台買うてだに一生見て楽しむところ尽きず」「今日の科学、因果は分かるが(もしくは分かるべき見込みあるが)、縁が分からぬ。この縁を研究するがわれわれの任なり。しかして、縁は因果と因果の錯雑して生ずるものなれば、諸因果総体の一層上の因果を求むるがわれわれの任なり。ついでに申す。『傳子』という晋ごろの書に、宇は空間、宙は時間に恰当の解あり。わが邦の訳者、この二字を用いざりしは遺憾なり」

□平成17年12月『貝寄風』通巻258号
新城栄徳「琉球の風ー(略)私と熊野との関係を述べる。1964年4月、私は集団就職で白雲丸に乗船し那覇港から上京。途中、暴風で船は和歌山の串本に避難したのが熊野との出会いである。熊野そのものの熊楠、その熊楠が書いた文から私は麦門冬・末吉安恭を日比谷図書館で知ることになる。69年2月に南方熊楠記念館を訪ねる。この年の夏、京都の料理屋の慰安旅行で紀伊勝浦で遊び熊野那智大社を参拝。75年10月、満一歳の息子(江)を連れ高野山(金剛峰寺)に遊んだ。1993年9月、新宮市を訪ね、徐福の墓、神倉神社、佐藤春夫記念館は休館だった。熊野速玉大社を参拝。新宮図書館で熊野特集『熊野誌』37号を入手、中瀬喜陽さんは「南方熊楠・母すみの日記」を書かれていた。旧知の元沖縄都ホテル社長で熊野人の桑原守也さんが「私の熊野ショックー古道・熊楠・沖縄」と題し「南西諸島の島々に熊野分社が10社もあるのは潮流による文化の交流によるためであろうが、那智からの渡海上人といわれた日秀上人は琉球王朝の帰依をうけ又、京都三条駅前の法林寺の住職となった袋中上人は、有名な琉球神道記を残している。浄土宗の流布がこの地に熊野信仰を広めたものであろう」と書かれている。桑原さんとは近鉄資料室、袋中上人の墓、京都の古書展などに同行したが、今は亡い。
佐藤春夫記念館□佐藤春夫は、明治25年(1892年)、現在の新宮市に生まれました。代表作「殉情詩集」「秋刀魚の歌」はじめ、あらゆるジャンルにわたる著作を遺しています。熊野速玉大社境内にある記念館は、昭和2年(1927年)に西村伊作の弟、大石七分の設計で建てられた佐藤春夫の邸宅を移築したもので、自筆原稿や生活用具等が展示されています。

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中の橋ー橋畔に汗かき地蔵、姿見の井戸。橋を渡っていくと与謝野晶子歌碑「やわはだのあつき血潮にふれもみで さびしからずや道を説く君」、山口誓子句碑、芭蕉句碑「父母のしきりにこひし雉子の声」、高浜虚子句碑

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1983年、人類館事件の写真を見つけ、その背景を調べはじめて写真史に興味を持った

1983年5月に大阪で発見されて以来の2枚目の写真。出品者は仲里康秀氏(〒901-1117南風原町字津嘉山100電話090-3322-9908)
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1983年6月5日『琉球新報』新城栄徳「関西資料の散策・人類館事件の写真をめぐってーある日、京都河原町三条にある琉球料理店の新装開店に伊藤勝一さんと行った帰り、伊藤さん宅に泊まることになった。浦添出身の奥さんの料理をご馳走になって、隣のコレクションの部屋で、伊藤さんが『先日、この写真が手に入った。第五回内国勧業博覧会案内図と一緒のところを見ると人類館事件のものと思う』と写真を見せられた。(略)翌日、写真を借りて東大阪の自宅で複写し、電話で伊藤さんに『伊藤さんの名前は出さなくても良いから写真だけでも公開したい』と了解を強引に得たー」

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1972年10月『大林組八十年史』「第二節 第五回内国勧業博覧会 会場施設のほとんどを一手に建設」

1923年12月ー赤琉會(日本労働総同盟予備軍倶楽部)発足
1924年3月ー関西沖縄県人會機関誌『同胞』創刊


大阪人権歴史資料館の学芸員・仲間恵子が1994年6月『季刊・リバティ』に「関西沖縄県人会機関誌『同胞』創刊号ー関西に生きるウチナーンチュ(沖縄人)の第一歩ー」と題して『同胞』を翻刻、紹介している。2003年3月の『水平社博物館研究紀要』第五号にも仲間は「1920年代の在阪沖縄青年の運動」と題し『同胞』を紹介している。『同胞』は「沖縄県人同胞会」の機関誌として1924年3月に大阪市北区西野田吉野町で発行された。『同胞』は五号を数えると謄写版刷からタブロイド版印刷となった。


1924年5月ー真栄田三益らが中心となって日本労働総同盟予備軍倶楽部(赤琉会)を結成。大阪市電、私鉄の労働争議の応援などに旗を持って参加。大阪天王寺公園でー大阪のメーデーに参加した関西沖縄県人会の活動家。前列右から2人目が上里春生、4人目が眞榮田三益、その後が眞榮田之璞、後列右の旗手は宜保為貞

1925年  前列右から2人目が阿波連之智、4人目が眞榮田之璞、前列左から2人目が浦崎康壮、後列右端が浦崎康慶、3人目が眞榮田三益
真栄田一郎については安仁屋政昭氏が『沖縄大百科事典』に詳細に記しておられる。林世功の一族である。本名は之璞、写真はその墓の前で左から姪の上原美津子、池宮城秀意、瀬長亀次郎、城間得栄(国吉真哲撮影)。右は国家権力により弾圧された真栄田一郎の遺体写真(国吉真哲撮影)。真栄田家・8世は世佐、9世が傳詩、10世が正隆で一郎はその4男。兄に之琛(真栄田勝朗)、之璟、之か、姉の冬子(まかと)は伊波普猷の妻。関西沖縄県人会、沖縄人連盟を組織した真栄田(松本)三益は親戚である。
1933年5月ー『琉球新報』桑江常格□同志前田一郎を悼む/歴史上の一人物としてー(略)同志前田は理論家ではなかった。彼の長所は頭の中で理論をデッチ上げるのではなくして自身の信ずるところを行動において現すところにあった。(略)彼が16、7歳のころから沖縄のアナーキストたちと行動を共にし後にマルクス主義に転向して大正13年から14年にかけての関西沖縄県人会草創期を経て××党沖縄支部結成時代から死ぬまでの彼の行動の中によく現れている。彼がマルクス主義者としての活動は大正14年の春に当時関西沖縄県人会の仕事をしていた真栄田三益の紹介で県人会事務所に来たときから始まる」
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松本(真栄田)三益資料

1927年ー渡口精鴻『呼吸器病の知識ー付肺結核の臓器療法』南江堂
国民新聞 1921.11.17(大正10)「百日咳の世界的新療法」
○百日咳に対する世界的の新療法が警視庁細菌検査所の渡口精鴻氏に依って発見せられた始め動物試験に於て成功したる同氏はそれを自分から自分の家族に試み更に最近に至って済生会病院の豊福博士慶応病院の唐沢博士神田の藁科小児科病院等に於て患者に之を試みたが何れも大なる好成績を挙げていると云うことである新療法とは百日咳に対するアンタゴニスムス(拮抗菌)の発見である・・・・□→神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 衛生保健(3-182)

関西沖縄県人会初代会長・渡口精鴻


1933年5月5日ー大宜味朝徳主幹『南島』(郷友版)□「医学博士・渡口精鴻氏に物を訊く座談会」
渡口精鴻氏の経歴
記者・博士の出生地はどちらでありますかー渡口「那覇泊ですよ明治14年1月20日生まれです」。記者・沖縄県では矢張り県立医学校を御卒業になりましたかー渡口「そうです明治35年卒業と同時に熊本で開業医の試験を受けて医師の免許を受けたのです」。記者・上京しましたのはいつ頃でありましたー渡口「明治42年に上京して約一ヵ年間伝染病研究所と帝国大学の病理教室で実地の研究をしました」。記者・官途におつきになったのはー渡口「明治43年末より大正12年まで青森、香川、神奈川関東庁警視庁茨城において防疫官ならびに衛生技師として就任してきました、その間には赤十字病院の検査部長を兼任していたこともありました。愛国婦人会や看護婦養成所の講師に招聘されたこともあります」。記者・大阪で開業せられたのは何年でしたー渡口「官職をやめて大正12年に大阪で独立開業しましたが研究其の他の都合で大阪を引き揚げて東京に参りました。上京当時は一時青山北町に診療所を開設しましたが大正15年に現在の場所(蒲田区蒲田470)に新築移転してきました」。
大阪の県人会
記者・大阪の沖縄県人会長に就任せられたのは大阪で開業せられた時ですかー渡口「そうです。大阪の県人会は陣容はなかなか堂々たるものです。春秋の会合は一流の公会堂で開催しますが会員の熱心が東京とはちがいます」。記者・東京の県人会と大阪の県人会とどう違いますかー渡口「東京は学生が多いが大阪は勤労者が多い。従って東京は理論が多いが大阪はどっちかと云えば実際運動が多いようです」。記者・只今ほかに公職に御関係がありますかー渡口「出来るだけ御免を蒙りたいと存じますがそれでも医政調査会と日本医師刷新聯盟の委員になっています」。
博士になるまで
記者・あなたは県人中第一番目に博士になられたと記憶していますが学位はいつ得られましたー渡口「大正12年の4月9日東京帝国大学医学部教授会から医学博士の学位を授けられました、論文は『インフルエンザ菌および百日咳菌と他の細菌との関係ー共棲ならびに拮抗作用に就いて』でした」。記者・其の研究のために奨学資金を得られたんですかー渡口「そうです東京帝国大学と横浜医学会から2回受けました、百日咳薬と肺結核の新薬として僕の創製したハイルミンは昭和6年6月内務省国産奨励指定薬にされています」。記者・博士になるまでの苦心談を聞かしてくれませんかー渡口「僕のは苦心と云えば苦心もあったが、防疫官または衛生技師と云う仕事が自然研究せしめたようなもので仕事に一生懸命やったことが僕の研究を大成せしめたと云うのでしょう。伝染病または防疫上研究に都合のよい地位にいたことが主です。医学会には実験報告は47、8回だしました」。
(略)
沖縄救済問題
記者・沖縄救済運動に就いてどう考えますかー渡口「沖縄救済運動も大正10年ごろから叫ばれているが声の大きい割合に、成果は挙がらんようだネーもっと根強い根本的な運動が必要である。それにしても常に当局を鞭撻する政治家がなければならぬと思う、開会中だけj上京し或いは旅費を貰って陳情運動に出てくるようではカラ熱はない。代議士も知事の尻馬にばかり乗っていずにもっと自主的に自己の党を動員して仕事は出来ないもんかネー」。

東京沖縄県人会1933年春季大会ー中央右より渡口精鴻・東京沖縄県人会会長、長嶺大佐、上与那原大佐

1934年

1937年9月 『沖縄県人事録』沖縄朝日新聞社

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1980年6月 雑誌『青い海』94号 「広告ー岡本太郎の世界ー芸術は爆発だ。-」

1980年7月 沖縄山形屋設立30周年記念『芸術は爆発だー岡本太郎の世界』


宮﨑義敬『繚乱の人』展望社よりーサントリー美術館で中央に平良リヱ子、左に森政三、右に岡本太郎、鎌倉芳太郎,金井喜久子、矢野克子が並ぶ

『新沖縄文学』と岡本太郎
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超タイフー「タロウ」オキナワに上陸か


山田實撮影1963-浜田庄司と豊平良顕/1966-岡本太郎

2008年4月ー川崎市市民ミュージアム「オキナワ/カワサキー二つの地をつなぐ人と文化」展
□ごあいさつ・川崎市には戦前から多くの沖縄出身者が在住し、川崎市の産業発展の一翼を担われてきました。大正13(1924)年の発足から84年という長い歴史を有し、戦後すぐから沖縄芸能の保存にも大きく貢献してきました。

川崎市出身の陶芸家・濱田庄司や詩人・佐藤惣之助などは、沖縄の文化と深い関わりを持ったことが知られています。濱田庄司は、自身の作風を確立する上で、沖縄の壺屋の焼物だけでなく、沖縄の風土・生活様式から大きな影響を受けました。佐藤惣之助も沖縄に魅せられた一人で、「おもろさうし」などに刺激され、詩集を出版しています。戦後には、岡本太郎が占領下の沖縄を訪れ、その文化と伝統に触れて強い衝撃を受けています。このように、川崎と沖縄のつながりはきわめて深いものがあり、市民ミュージアムにも壺屋焼の陶器や琉球政府から贈られた石敢当などの沖縄関連資料が収蔵されています。 

そこで本展では、沖縄と川崎、この二つの地のつながりをテーマに、沖縄の伝統的な芸術文化を伝える資料と、それらに影響を受けて創造された美術工芸品などを紹介します。琉球文化の美と魅力に触れていただき、人々の手で長年にわたり築きあげられてきた沖縄と川崎の絆を感じ取っていただけば幸いです。  川崎市市民ミュージアム

□川崎市出身の芸術家と沖縄・佐藤惣之助と沖縄/濱田庄司と沖縄/岡田青慶と沖縄/岡信孝と沖縄/岡本太郎と沖縄
□川崎の工場と沖縄県出身労働者
1966年1月10日ー『琉球新報』「川崎市でビル火災ー沖縄出身者4人が焼死」
1968年1月5日ー『毎日グラフ』「本土の中の沖縄(南風サークル/大城真栄/普久原朝喜/金城良明)」「万国博へ全力投球(岡本太郎「抵抗あるものを」)」
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1969年12月30日ー『沖縄タイムス』真栄田義見「古江亮仁(川崎民家園長)氏と語る」
1983年2月10日ー『琉球新報』「川崎の沖縄県人 70年の歩みー2年がかりで完成」、11日ー『沖縄タイムス』「県人の苦難の歴史綴る『七十年の歩み』出版」
1983年8月1日ー『沖縄タイムス』「川崎沖縄青少年京浜会館」「川崎沖縄県人会」
1984年2月11日ー『琉球新報』福地嚝昭「女工哀史(関東大震災)ー富士瓦斯紡績川崎工場の名簿について」
1984年
10月19・20日ー川崎市立労働会館で川崎市制60周年記念「全国地名シンポジウム」開かれる。□谷川健一/仲松弥秀対談「沖縄地名の特色」、山下欣一「奄美のシャーマニズム」、宮田登「ミロク信仰と黒潮」
10月26日ー『琉球新報』「黒潮の流れに沿って 南島と本土の交流史探る」、『沖縄タイムス』「黒潮の流れに沿って沖縄・奄美と川崎結ぶ」「話題ー古江亮仁さんー1957年には県人の古波津英興氏とはかって沖縄文化同好会を作る。月一回、東恩納寛惇(歴史)、比嘉春潮(同)、仲原善忠(同)、芹沢圭介(紅型)、濱田庄司(陶芸)、柳悦孝(織物)等々多彩な沖縄研究者を講師に文化の灯をともした。土地問題で沖縄の大衆運動が燃えていた。」

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1971年9月 沖縄の雑誌『青い海』6号 国吉真哲「貘さんの<沖縄の青春>」 


写真下は1925年8月16日、貘2度目の上京前に後列左から又吉康和、国吉真哲、国吉真才、一人置いて貘
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写真ー1958年・前列左から末吉安久、不詳、国吉真哲、南風原朝光、不詳、山之口貘

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1956年7月
  『基地沖縄』編集発行人・中山盛徳・大阪市大正区北恩加島町108番地 電話泉尾(55)1584。記者に元『南西新報』(1947年)編集発行人だった富本(阿嘉)繁

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1956年8月11日
 『基地沖縄』第3号/社説「残忍な米軍」、「原水爆禁止世界大会(長崎)沖縄代表の報告」、奥里将建「三味線と蛇皮線」、井伊文子「望郷」
1956年8月21日
  『基地沖縄』第4号/社説「日ソ交渉と沖縄問題」、「原水爆禁止大阪大会」、島尾敏雄「奄美大島の闘牛」
  仲吉良光「富盛大主式のソ連海峡航行案を笑う」、「琉大学生を処分」
1956年9月1日
  『基地沖縄』第5号/社説「警戒せよダレス発言」、仲吉良光「沖縄問題も絡む日ソ交渉」、「沖縄土地取上反対ー尼崎市民大会」、奥里将建「四原則運動と廃藩置県」、「沖縄救援へ全国民的組織の確立ー社会党や労組で決定」
1956年9月11日
  『基地沖縄』第6号/社説「感情的な琉大処分」、「沖縄民主党分裂か」、「最後の勝利を信ずー瀬長亀次郎 沖縄人民党書記長」、石野径一郎「沖縄の木(ガジマル)」、「沖縄問題の解決を期し阪南地区大会ー綱引きの旗頭を持って入場」
1956年9月21日
  『基地沖縄』第7号/社説「米国製の土地問題予備会談」、「北友クラブの要求に比嘉主席屈服」、伊波南哲「おとなしい沖縄人」、憂郷塾「郷土の指導者に訴える」「12号台風襲来ー沖縄本島被害甚大」         
 矢野酉雄「『基地沖縄』紙の大乗的使命」、奥里将建「葱花輦上の尚真王の母后」
1956年10月1日
 『基地沖縄』第8号/社説「四原則運動に一大暗影」、「台風被害深刻」、豊川忠進大阪沖縄県人会連合会会長「会員に告ぐー来る10月6日、大手前会館で沖縄日本復帰大阪連絡協議会の結成大会が開かれます。会員多数参加されるよう御通知いたします」、「矢野克子詩集『梯梧』」、「南方同胞援護会長に澁澤敬三氏」、「米軍酔っ払い乗用車、女学生6人を轢殺」
1956年12月21日
 『基地沖縄』第16号/社説「生命は刻々おびやかされているー知念地区の三叉路の女学生轢殺」、「沖縄の良識をかけた那覇市長選ー繁栄か 永久占領か」、「沖縄総局・大山朝常」、「仲宗根源和の『手紙』一括払いの謀略」
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京都円山公園で中山盛徳(写真提供・仲間恵子)/『琉球新報』1954年8月4日

   
1958年3月13日
 『基地沖縄』第21号/ー沖縄を守る会中央機関紙(発行編集人・宮川寛雄)東京都浜松町3の1
 関西支局・大阪市大淀区浪花町2
 「沖縄を守る会発足ー会長・兼島景毅、副会長・上江洲久、同・玉城義三郎、事務局長・永山盛保」
1958年4月3日
 『基地沖縄』第23号ー沖縄を守る会中央機関紙(編集発行・真喜志康守)東京都港区浜松町3の1

 関西支局・大阪市大淀区浪花町2

1962年4月25日
大正区沖縄県人会機関紙『新沖縄』第1号(編集発行・伊豆味正浩)□「中山盛徳氏ー保険業、元大正区沖縄県人会長・中山盛徳氏は4月1日午後10時心臓麻痺で急逝した。氏は屋部村出身、日本復帰運動の熱心な協力者で故伊江朝助、仲吉良光、神山政良諸先輩に常に蔭の協力者として私財を出資し、昭和32年のプライス勧告反撃、四原則貫徹運動には独力で『基地沖縄』を一ヵ年にわたり発行し、県人を感激せしめた。葬儀は4月3日自宅(堺市南三国丘町3ノ110)で行われたが、悪天候にもかかわらず知名人多数参列、盛儀であった。」


沖縄見つめた亡父の新聞 息子ら5人が“再会”
「基地沖縄」 故中山さん創刊
父である中山盛徳さん発行の「基地沖縄」など関連資料を閲覧する、福永淑子さん(左端)ら5人のきょうだい=10日、那覇市・県立図書
 1950年代、大阪市の大正区沖縄県人会長を務め、沖縄問題を扱った新聞「基地沖縄」の編集発行人だった中山盛徳さん(故人)の長男ら5人が来県し、10日に県立図書館を訪れ、所蔵されていた同紙を閲覧した。長男の弘さん(69)らは、父の思いが込もった新聞を手に取り「これだけ残っているとは思わなかった。父を尊敬する気持ちが新たになった」と感慨深げに語った。(友利仁)

 「基地沖縄」は56年、中山さんが私財を投じて創刊された。全国の県関係者に向けて沖縄の復帰運動などを報じた。新聞紙サイズの表裏2ページで月3回の発行を続けたが、翌年には発行元が東京の「沖縄を守る会」に引き継がれている。

 県立図書館には、第3~25号が所蔵されている(うち9~20号が欠落)。第3号には「残忍な米軍」と題した社説を掲げ、長崎で開かれた原水爆禁止世界大会に沖縄代表として出席した瀬長亀次郎さん(元衆院議員)の発言について取り上げたほか、歌人の井伊文子さんや作家の島尾敏雄さんらが寄稿している。中山さんの長女の福永淑子さん(76)=大阪府高槻市=は「(父は)苦しんでいる人を助けなくてはいられない人だった。仕事も財産もこの運動につぎ込んでいた」と振り返り、配達や集金、全国の読者向けの郵便発送など手伝っていたという。

 弘さんは「創刊翌年の春には家を売り払い堺市に引っ越した。家族は苦労したが、父が情熱を傾けた新聞を目の前にすることができてうれしい」と話した。中山さんの手を離れた「基地沖縄」はその後、発行元と紙名を変えていき、最終的には沖縄返還同盟の機関誌「沖縄事情」へとつながる。

 今回、資料の所在を案内した那覇市の収集家、新城栄徳さん(61)は「政治とは無縁の大阪の地で、正義感を持ったウチナーンチュが個人で始めた新聞。中山氏は新聞から離れた後も、『復帰男』と呼ばれた仲吉良光氏と提携し、復帰運動を後押しし続けた。個人がともした火が組織的な運動へとつながりユニークだ」と話した。

 

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1980年5月15日『朝日新聞』(大阪版)「西平守晴ー琉歌でつづる沖縄戦後史」

1997年6月 大阪沖縄県人会連合会50周年記念誌『雄飛ー大阪の沖縄』西平守晴「就学前教育関係」「沖縄関係資料室」



1999年3月 『沖縄人国記』琉球新報
□歴史を確認する目ー戦後の大阪で、沖縄関係資料を買い集めて私設の「沖縄関係資料室」を開設した西平守晴(77)。沖縄返還運動が高揚した時期に学生やマスコミ関係者がよく利用した。西平は師範学校を卒業して海軍に入隊し、シンガポールで2年の捕虜生活を送っている。敗戦2年後の1947年6月、東京復員局の依頼で、沖縄出身戦死者の遺骨を携えて泡瀬に上陸。そのとき、かつて学んだ師範学校や首里城周辺の文化財が壊滅しているのを目の当たりにした。「この惨状を本土の人は知らない」。大阪に帰って、梅田の古本屋で見つけた「琉球建築」( 田邉泰、 巌谷不二雄著)を手にして以来、古本あさりが始まった。500冊ほど集め、1955(昭和30)年、都島区の自宅に「沖縄関係資料室」の看板を掲げて一般公開した。作家・司馬遼太郎が「街道を行く」執筆の資料を求めて訪ねてきたこともあった。資料室は現在も続いており、当初からの新聞切り抜きも200冊になっている。

□料理人の気概もてー明治以来の沖縄関係資料を収集している新城栄徳(49)。やはり父が料理人だった。自らも調理師の仕事の傍ら資料探しにのめり込んで、個人誌「琉文手帖」を発行するまでに。きっかけは大阪で「沖縄関係資料室」を主宰する西平守晴との出合いから。大阪市内の図書館で明治以来の本土新聞のマイクロ・フィルムを一本一本回しながら「沖縄」に関連する記事、広告を抜き出している。その手間暇のかかる作業から明治26年に沖縄芝居が本土で初めて公演されたときの記事を探しあて、明治
36年に大阪で開かれた勧業博覧会の「人類館」を報じる記事を発掘し、沖縄で写真館を開業した第一号を特定するなど成果を上げている。






2000年4月『中央公論』加藤秀俊「昭和・平成世相史(6)日本語の敗北」
○昭和初期、日本語を簡略化する必要性が説かれていた。しかし、平成の現在 漢語だらけの専門用語やカタカナ用語が滝のごとく流入し、日本語はますますむずかしくなった/(略)柳田国男の『国語の将来』もまた昭和14年に発表されたものだった。この書物のなかで柳田は「この日本語を以て、言ひたいことは何でも言ひ、書きたいことは何でも書け、しかも我心をはっきりと、少しの曇りも無く且つ感動深く、相手に知らしめ得るやうにすること」が「日本語の愛護」である、とのべた。とくにこの論文のなかで柳田が批判したことがらの第1は、言語が「文章語」本位になってしまったことである。言語生活の基本はどんな時代であろうと「はなしことば」であるはずなのに、現代社会では文字ことばが生活をつよく規制するようになってしまった、とかれは指摘する。
(略)
 このローマ字運動をさらに徹底したのが田中館愛橘である。物理学者の田中館はかねてから日常の文書をローマ字でしるしていたが、60歳で東京帝国大学教授の職を辞して、ローマ字運動に専念しはじめた。余談になるが、東大に「定年」という観念がもちこまれたのは田中館のこの自発的退職が契機になったともいう。かれはのち貴族院議員になるが、議会ではかならずローマ字普及のための演説をおこなった。かれの著作は当然のことながら、ことごとくローマ字。そしてかれはタイプライターを常用していた。
(略)
 日本語の敗北状態はこんにちもかわっていない。軍事的敗北は経済復興によってどうにか現在のようなすがたに変貌をとげたが、日本語は正式の「敗戦」以後半世紀をへた現在、復興どころかますます敗色の濃いものになっている。(略)これまでおおくの先人たちがあれだけ真剣にかんがえ、実行してきた日本語改革の理念はどこかに雲散霧消してしまったのである。それを加速したのは1980年代にはじまる電子工学技術、はっきりいうと日本語ワープロ・ソフトの登場である。

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新川嘉徳愛用の楽器/梅の香りレコード
慶良間

1975年8月 沖縄の雑誌『青い海』通巻46号 国吉源次「あららがまの歌」
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写真ー2001年、西原町の小那覇児童公園での新川嘉徳『梅の香り』歌碑除幕式で左から真喜屋清(新川嘉徳の長男、嘉手納町教育長)氏、國吉源次氏、新城栄徳、真喜屋夫人


資料・國吉源次

沖縄民謡 梅の香り - YouTube「よなは徹さん、さんさら(初代ネーネーズの古謝美佐子さん、宮里奈美子さん、比尾根幸乃さん)の演奏」
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1950年11月 仲井間宗裕『沖縄と人物』仝刊行会
山端立昌(大阪沖縄県人会連合会長/1996年2月死去・74歳)
山端立昌さんは、西平守晴沖縄関係資料室主宰の親友であった。ときおり資料室に見え、二人で『球陽新報』を配って歩いた話をしていた。また古書の高い沖縄本を資料室に寄贈してくれた。娘さんは琉舞の師匠であったが若くして亡くなった。

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1950年11月 仲井間宗裕『沖縄と人物』同刊行会「日吉松仁」
今帰仁・本部マーイ・『仲宗根家系譜ー安田・比嘉・日吉・三木』/『與那嶺家「カンター屋系譜」』

1997年12月『仲宗根家系譜ー安田・比嘉・日吉・三木』/1993年9月『與那嶺家「カンター屋系譜」』この家譜は大阪市生野区の日之出書房から2006年11月に入手した。仲宗根家は大阪沖縄県人会連合会第8代会長の日吉松仁(本部字浦崎出身)が発行したもので、監修は大阪府立大学講師・眞栄田義弘である。與那嶺家(與那嶺清吉・本部町字謝花出身)家譜を参考にしている。仲宗根家姻戚関係に長濱徳松沖縄ハム会長が居る。長濱会長は本部の字浦崎出身。大阪には沖ハムの営業所が東大阪市の自宅近くにあるので看板をよく見かける。先日の琉球新報賞会場で会長、社長と名刺交換をした際、沖ハム直営の販売を兼ねた複合施設をお願いしたが、採算的にどうだろうか?。ちなみに沖ハム八重山営業所は石垣市新川にある。

1985年1月『オキナワグラフ』「長寿沖縄一 本部町の長濱孫四郎さん(106歳)」


仲本幸智ハガキ/1950年11月 仲井間宗裕・伊佐栄二『沖縄と人物』/2012年8月13日『琉球新報』



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