Category: 02-関西の沖縄
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1971年4月 あすの沖縄をつくる若い広場『青い海』創刊
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写真の『青い海』は沖縄県立図書館所蔵/私のは合本しているので表紙は広げられない。

私の1969年は、京都近鉄駅名店街で調理師見習として住み込みで働いていた。70年の大阪万博が終わったころ、大阪の沖青友の会に参加した。その事務局で大阪都島の沖縄関係資料室を知る。その資料室に出入り始めたころ、元琉球新報記者の津野創一氏が資料室主宰の西平守晴氏を訪ねた。用件は沖縄の雑誌『青い海』を出すということだった。津野氏も西平氏も共に八重山の出身であった。私もその雑誌の創刊にたちあうことになる。

『青い海』1971年11月号で「もう一つの沖縄・離島」の特集をやることになって、津野編集長が筆不精の私に粟国島のことを書けと注文。断るとメモ書きでも良い、こっちで文章にするからということなので書いたのが「ふるさと粟国を思う」である。初めにヤガンウユミ、グーシー、河村只雄の『南芳文化の探究』、『沖縄の犯科帳』、『球陽』などを引用している。これらは沖縄関係資料室蔵書から得たものである。これが『青い海』に書いた唯一のモノである。


2003年2月 『沖縄を深く知る事典』新城栄徳「沖縄の雑誌に見る『自己意識』ー『青い海』を通して」

新城□2010年12月28日ー妻の実家の読谷楚辺へ行った。父を見舞った帰途、赤犬子宮を訪ねると管理されていないのか入口を車が塞いでいた。釈渚善さんの言うていた大湾の真常寺を思い出し訪ねた。そこで京都全体マップで親鸞聖人ゆかりの地が載っている近畿日本ツーリスト発行の「親鸞聖人ーお念仏の道をたずねて」「大谷光真パンフ」を貰った。(去年暮れに書いたものを移動)

2011年10月12日午後ーJR永和から大阪駅、駅舎もだいぶイメージが変わった。新快速で京都駅。途中、茨城と高槻でイオンの看板を見かける。かつてこの路線から「今日も元気だ煙草か(ママ)うまい」の大きな広告が見えていた。そう、濁点が剥げ落ちていた。京都タワー (「お東さんのろうそく」とも呼ばれているが、本来は灯台をモチーフにしたもの)が見えた。帰ってきたという気分だ。私の22,3歳は京都駅八条口近鉄名店街の「紅屋」で働いていた。東寺などはよく遊びにいったが、西本願寺や東本願寺もよく遊びにいってはいるがこれといった印象は少ない。どちらの寺も雰囲気も同じだから名前も西、東取り違えて記憶していた。東、西の違いは、「南無阿弥陀仏」をお東は「なむあみだぶつ」、お西は「なもあみだぶつ」と称えるという話はよく聞く。

京都駅烏丸中央口を出て左の方に歩いて、しばらくすると、元植柳小学校に「ご縁まちマルシェ」会場があった。入ると色々な売店があり、京の銘品、仏具の店が並んでいた。地方の特産品の店には、沖縄からも首里の「美南島マーケット」が出店していた。会場で出て伊東忠太設計の伝道院(テーマ館)を見る。『本願寺新報』を貰う。宗祖親鸞聖人七百五十回忌ということで通りは大勢の人たちで混みあっていた。ほとんど地方からの団体だ。西本願寺の甍が見えてきた。中に入るとやはり混雑していた。売店で「安穏」という水を買った。混雑を避け国宝の書院を見る。襖絵や柱は黒光りし年月を感じさせ、庭はソテツが主役だ。次の国宝飛雲閣は銀閣寺の雰囲気である。国宝の唐門は唐破風で豪華な装飾彫刻が施されている。西本願寺を出るとすぐ隣りの興正寺による。

大谷光真門主は、新宗教(右翼)の指導者を除けば、歴史ある巨大宗教教団「浄土真宗本願寺派」の最高指導者としては例外的に社会問題に積極的な発言をしてきたことで知られているが、『本願寺新報』10月特集号の発言に「人間の欲望と知恵のバランスが崩れてしまい、人間に扱えないようなものによって欲望を満たしてきました。恐ろしいものには恐れをもって対処するというようなことが欠け、傲慢になっていたと思います。(略)今のままでは原発との共存は難しいと思います。現状は、薄い氷の上に乗っているような感じですね」と口先社会科学者顔負けの発言である。すべからく指導者はこうあらねば。虚言妄言ウスノロ内閣(→10-12『日刊ゲンダイ』命名)に爪の垢でも煎じて呑ませたい。またそんなノロノロ内閣でも国民をバカにした悪政(増税、年金改悪、政党助成金)だけは得意とみえる)それを一緒にやっているのが労働貴族の連合である。古賀会長のごときは「私は原発『脱依存』とは言ってない」とは、コロコロ総理と同じだ。

浄上真宗本願寺派の沖縄開教は、1879年大河内正念師(宮崎県、願心寺)の来島に始まる。98年より亀井慈雲師(鹿児島県、善行寺)の13年に亘る開教の跡を受けて、1910年鹿児島県川内市光永寺の菅深明師が大谷光端宗主の特命を受けて大島郡徳之島説教所より転任来島し、那覇市上之蔵に湖城宅を借りて那覇説教所を設置して布教伝道を始めた。翌年の11年7月には、同説教所を松下町1丁目71番地(現在地)に移して、寄留商人や官吏を中心に布教を行い、漸次地元の沖縄の人々へも教化の手を進めていった。1916年5月、大正天皇即位の御大典を記念して、本堂及び庫裡を建立し「聖徳山大典寺」と寺号を公称して、開基の菅深明師が初代住職となった。爾来、与那原、嘉手納、西表、八重山、渡久地と布教所を開設、各方面へ教線を拡げると共に、非行少年の更生保護のため、沖縄少年感化院(後に球陽学園と改称)を設置する。更に子女教育のため沖縄家政女学校(後に積徳高等女学校と改称)を創設して、活発な教化伝道を展開していたが、去る沖縄戦でこれらすべてを焼失した。(□→「聖徳山大典寺HP」)□大谷光端「食を精ならしめんと欲せば,先ず材料を撰(えら)ばざるべからず」

東本願寺は行事でないせいか、西本願寺に比べたらだいぶ人出が少ない。入り口にハトが多い。最近は糞害のためハトに餌をやらないようにと、表示されている公園が多い中、ここでは餌を売っている。御影堂にのぼると20人の人が座っていた。瞑想。御影堂は世界最大の木造建築。親鸞聖人の御真影が安置されているところから御影堂と呼ぶ。出るとき正面に見えるのが御影門で京都三大門の一つである。ちなみに三大門とは、洛西の仁和寺二王門、洛東の南禅寺三門、洛東の知恩院三門を指す。また、仁和寺二王門の代わりに洛中の東本願寺御影堂門を数える。沖縄那覇市西町にある真教寺は浄土真宗東本願寺派の寺。1876年、田原法水により布教が開始され、84年創建。はじめは東本願寺講義所と称したが、大谷派琉球別院と改称、92年に真教寺に改めた。

大谷本廟に向かう。途次、あちこちで観光土産なのかシーサーをよく目にする。文子天満宮、塩竈山上徳寺、仏性山本覚寺による。本覚寺境内には江戸中期、浮世草子の版元・八文字屋自笑の墓がある。ソテツもある。六波羅蜜寺は今までに何回もよっている。951年、醍醐天皇第二皇子光勝空也上人により開創された西国第17番の札所である。現存する空也上人の祈願文によると、963年、諸方の名僧600名を請じ、金字大般若経を浄写、転読し、夜には五大文字を灯じ大萬灯会を行って諸堂の落慶供養を盛大に営んだ。これが当寺の起こりである。上人没後、高弟の中信上人によりその規模増大し、荘厳華麗な天台別院として栄えた。平安後期、平忠盛が当寺内の塔頭に軍勢を止めてより、清盛・重盛に至り、広大な境域内には権勢を誇る平家一門の邸館が栄え、その数5200余りに及んだ。1183年、平家没落の時兵火を受け、諸堂は類焼し、独り本堂のみ焼失を免れた。源平両氏の興亡、北条・足利と続く時代の兵火の中心ともなった当寺はその変遷も甚だしいが、源頼朝、足利義詮による再興修復をはじめ火災に遭うたびに修復され、豊臣秀吉もまた大仏建立の際、本堂を補修し現在の向拝を附設、寺領70石を安堵した。徳川代々将軍も朱印を加えられた。(□→「六波羅蜜寺HP」)

五条坂の大谷本廟手前の円通橋(通称「めがね橋」橋脚、敷石板、欄干など総て花崗岩の切り石を用いている)を渡ると右側にソテツが見え、左側には親鸞聖人像が見える。仏殿を参拝。かつて本廟に、親鸞聖人の木像を安置するようになったのは、1295年頃からといわれている。大谷本廟は、親鸞聖人の末娘である覚信尼と、東国門弟の協力によって建てられたものだが、敷地は覚信尼の所有。覚信尼は、敷地を廟堂に寄進し、廟堂守護の役目(留守職)を、みずから引き受け、以後尼の子孫の中の適任者が門弟の承認を得て、就任することになった。これが後年の本願寺の血統相続の基となりました。大谷の廟堂が、親鸞聖人の墓塔を覆う屋舎から、聖人の彫像を安置する影堂へと移行したのも1295年頃。そして、三代目覚如上人によって、本尊阿弥陀如来を安置する寺院へと移行した。五条坂近くに河井寛次郎記念館があるが5時なので閉館していた。

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 1969年2月に沖縄から南方熊楠記念館を訪ねる。同年夏、京都の職場「紅屋」の慰安旅行で紀伊勝浦で遊び(ここで初めてストリップショーを見る)熊野那智大社を参拝。1975年10月、満一歳の息子を連れ高野山(金剛峰寺)に遊んだ。


1971年末、京都丸太町の古書店で『立替え立直し』を買った。梅棹忠夫・上田正昭の対談「出口王仁三郎における変革の思想」が載っていた。発行は亀岡の大本本部天恩郷で、ちょうどそこには沖縄から金城ひろこさんが奉仕活動に来ていることを大城敬人氏の紹介で訪ねた。都沖青の沖縄青年運動の一環で亀岡の渡文や大本亀岡本部はよく訪ねた。本部から離れたところに王仁三郎の生地瑞泉郷がある。大本本部の大本資料室で王仁三郎扮する七福神や神々の写真パネルが展示されていた。王仁三郎手製の楽焼の茶碗も見た。本部で茶道、八雲琴の演奏も聴いた。



近鉄京都駅の近鉄名店街京風喫茶「紅屋」が職場 /右ー寮は南区

寮近くの通り、正面に見えるのが新幹線京都駅

新城栄徳ら京都沖縄青年グループ(都沖青)、京都三条河原町「守禮」に連絡所を置く / 京都河原町三条にあった琉球料理「守禮」/私達の「都沖青」の連絡所であった。 名簿も作ってもらった。



コザ騒動ーその日の前後、私は京都鳴滝にある沖縄学生たち(同志社大・立命館大)の借家のひとつ、山口さんの部屋に居た。沖縄から帰ったばかりの山口さんの婚約者が興奮さめやらぬ口振で語る「コザ騒動」の話を学生たちと聞いていた。

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1992年12月ー『新沖縄文学』新城栄徳「来訪者略年表ー1969年12月、平山敏治郎(大阪市立博物館長)来沖 」


1970年4月 『季刊人類学』1巻2号 馬場功「ひとー平山敏治郎氏」

平山敏治郎
歴史学(日本文化史)・民俗学者 (1913~)
**略歴
大正2年(1913)東京都生まれ。昭和6(1931)年、旧制成城高校において柳田国男の講演を聴く。昭和9(1934)年、京都帝国大学史学科入学。西田直二郎のもとで文化史学を学ぶ。また在学中、柳田のすすめで倉田一郎・大間知篤三・守随一らとともに山村生活調査に随行する。また澤田四郎作らによる「大阪民俗談話会」の発足に立ち会い、のちの「近畿民俗学会」において初期のメンバーとして活躍する。
昭和12(1937)年卒業(卒業論文「農民生活の歴史的展開」)、同大学院入学。同大学院終了後、同学の副手・助手・講師などを経て、大阪市立大学教授。その後、大阪市立博物館長・成城大学教授・成城大学民俗学研究所長を歴任。

**おもな著書
『日本中世家族の研究』(1980)
『民俗学の窓』(1981)
『歳時習俗考』(1984)
『大和国無足人日記―山本平左衛門日並記 (上・下)』(1988)

押入れの奥から1974年5月発行の『週刊FM西版』が出てきた。中に文・平山弓月、写真・東島安信「ヤング・スパーク’74 初の本土公演・・・琉球八重山芸能研究会」が載っている。当時、大阪市博物館長の平山敏治郎さんから「息子が琉球大学八重山芸能研究会を取材したいといっているので根回しをお願いしたい」と電話だったか忘れたが言ってこられた。すぐ沖縄関係資料室主宰の西平守晴さんに相談し琉大の学生たちに連絡が行き、音楽雑誌の記事になった。「会長の亀井保信クンは、さわやかに、こう言いきる。長い髪を指でかき上げる精悍な表情には、いささかの気負いもない。『八重山の民謡は、<節歌>と<労働歌>との二つに分けられると思うんです。<節歌>は、三味線(さんしん)や笛・太鼓の伴奏のつく歌で、これには首里の宮廷舞踊の影響がつよいようです。<労働歌>のほうは、これはもう純粋に八重山のものですね・・・』」(略)亀井クンはサンシンという。蛇皮線なんて言われると、いやな気がするそうだ。」(2011-10-2記)


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松山伝十郎(1866年10月~1935年2月7日)
1889年11月ー松山傳十郎『琉球浄瑠璃』いろは家


松山傳十郎 資料
□1937年10月 『書物展望』石井研堂「琉球浄瑠璃ー前号の、『琉球もの雑本』の記事につれて思い出した[琉球浄瑠璃]の一本を紹介する。[琉球浄瑠璃」は、友人松山いろは氏の著作で、明治22年の発行、四六版92頁、山田美妙序、市川團洲題詞、獨幹放史(大森惟中)跋、その凡例に、『琉球國に、組躍と名づくる歌舞伎狂言あり、其の種類三百以上に達す。而して、其の最著名なるもの五つあり、村原と云ひ、八重瀬と云ひ、忠心身代巻と云ひ、姉妹讐討と云ひ、久志の若按司と云ふ、本書は、則此五大書の一なる久志の若按司を評釈せしものなり』とあり、内容から言えばただ[琉球浄瑠璃」ではなく評釈の二字を冠するのが妥当なようだ。・・・」

1893年、寺内某が来沖し、料理屋「東家」の協力を得て沖縄芝居の俳優らを雇い関西興行をなす(7月・大阪角座、8月・京都祇園座、9月・名古屋千歳座)。俳優のひとり真栄平房春は病没し大阪上町の了性寺に葬られた。9月15日に『琉球新報』が創刊された。発起人代表が尚順で、護得久朝惟、高嶺朝教、豊見城盛和、芝原佐一(京都出身、京都名産会社経営)、野間五造(岡山県出身、後に衆議院議員)は主筆、宮井悦之輔(元京都養蚕会社支配人、後に大阪の興信社に勤める)、大田朝敷、伊奈訓(新潟出身、県庁役人)、諸見里朝鴻の以上のメンバーで発足した。

□琉球新報創刊を報じたヤマトの新聞を見ることにする。9月15日の『東京朝日新聞』に「琉球新報の発刊-琉球新報は日刊として沖縄県那覇より本日十五日初号を発刊することとなり主任は同地名族護得久朝惟、高嶺朝教両氏(共に久しく慶応義塾に留学せし人)又東京にても岸本賀昌、今西恒太郎の両氏は同社の成立に尽力せりと」。同日に『時事新報』『郵便報知新聞』『毎日新聞』も同じように報じた。

1893年、京都で平安神宮の地鎮祭が行われ西村捨三が記念祭協賛会を代表し会員への挨拶の中で尚泰侯爵の金毘羅宮参詣時の和歌「海山の広き景色を占め置いて神の心や楽しかるらん」を紹介し、平安神宮建設に尚家から五百圓の寄附があったことも報告された。ちなみにこの時の平安神宮建築技師が伊東忠太であった。同年12月に平尾喜一が父喜三郎と母ハルエの間に生まれた。喜一は後に琉球新報社長となる。

1893(明治26)年ー大阪道頓堀角座で琉球太鼓踊り
□1893年7月『歌舞伎新報』「琉球芝居ー沖縄県琉球には昔より音楽師と称えて一種の歌舞を演奏するもの士族の間に伝えられ居たるところ去る明治22年中いづれも俳優の鑑札を受けて我が役者の如きものとなり其の組5組もあるよしにてこのたび其の一組が大阪角の芝居へ乗り込むことに決定し既に去る2日を以って那覇港を解覧し本日ごろは遅くも到着したる手筈なるがー」

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「琉球国演劇」の横断幕があるのが角座。下が角座で配られたもの nullnull
□沖縄芝居ー明治26年に大阪・京都・名古屋で公演
1991年1月、池宮正治琉大教授と電話での話で大阪の新聞で沖縄関係を調べているとの話をすると、それなら芸能、特に渡嘉敷守良の芝居も心がけて見てくれと示唆された。それで見当をつけて中之島図書館で大阪朝日新聞、大阪毎日新聞を、京都府総合資料館で日出新聞、名古屋では扶桑新聞をめくると次々と沖縄芝居の記事が出てきた。国会図書館にも行き雑誌も見た。

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1991年3月23日『沖縄タイムス』「沖縄芝居・明治26年に本土初公演」
私は学者でもないので、紀要代わりに同年3月の沖縄タイムスに「沖縄芝居ー明治26年に本土初公演」を発表した。池宮教授は琉球新報に「沖縄芝居参上ー明治26年/京阪・名古屋公演」を書き92年12月発行の『新琉球史』に収録された。沖縄芝居の大阪公演で販売した『琉球踊狂言』は三重新聞社(津市大門町56番屋敷)から出ている。話は例の如く横道に逸れるが津市から南の方へ行くと玉城町がある。『朝日新聞』を大新聞に育て上げた村山龍平の生まれたところである。後に龍平が亡くなり、村山家は莫大な相続税問題が持ち上がる。それを解決したのが宮古島出身の下地玄信。下地は一軒の豪邸と高級車が贈られた。


□1894年11月15日『日出新聞』「大温習会の下温習ー祇園座の琉球芝居の役者から習った琉球舞を入れー」(太鼓踊り)→1919年3月13日『日出新聞』に記念写真あり。

1900年3月13日『琉球新報』垣花山人□「矯風会の演劇を見るー(略)その幕の長きは夜の長きより長く欠伸数回これを会員に尋ぬるに道具すなわち飾り付けその他都て演題に付添う座敷なり庭園なりの趣きを飾り付ける是を道具方と言う。その幕に従って刀剣なり烟艸入なり下駄なり掛物なり都て携帯品を調度する者を小道具方と言う。矯風会員は此の二役を兼ね演芸をなるには只驚くの外なし故に幕の長引くは当然・・・・・・・」

1902年3月 上の芝居で東洋活動写真會「北清事件、米西戦争実記 その他」上映
1902年4月 上の芝居で「活動大写真會」


1903年3月ー「学術人類館」開館
□伊佐眞一〇過ぎ去った歴史上の事蹟や問題は、それらが過去の時点で完結することなく、つねに現在のありようとの因果関係において考察されていく。使い古されたフレーズでいえば、琉球・沖縄史は伊波にとってたえず現代史との往復作用の対象になったわけである。(略)大阪朝日新聞がはしなくも本音を正直に吐露して報じた人類館陳列の記事ー「内地に近き異人種」との文言を伊波が目にしたかどうかはわからぬが、そうしたヤマトに広く流通する沖縄観は、彼の頭からかたときも離れることはなかった。」
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1903年の大阪ー天王寺・第五回内国勧業博覧会会場付近
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第五回内国勧業博覧会会場
□1903年3月ー山本桃洲(朝日新聞記者)『第五回内国勧業博覧会場内案内記』駸々堂「大阪の西田正俊氏が設置された人類館」
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1903年の大阪ー梅田・中之島付近
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1903年の大阪ー大正区付近

1906年3月『琉球新報』



1906年4月『琉球新報』
      6月 上の芝居・球陽座で「紺屋之染經」上演

1906年4月 上の芝居・球陽座渡嘉敷一派「都踊旭乃影」上演/下の芝居・沖縄座「黒金座主の魔術と北谷王子の傳話」上演


1907年6月 『琉球新報』「尚家会計課ー最新式活動写真売却広告」□浜離宮ニ於ケル東郷大将「ムーア」中将歓迎会実況/宮島の絶景/アルプス山デ汽車ニテ通行中の絶景/日光の建物及瀧/岩崎邸ニ於ケル聨合艦隊歓迎園遊会ノ実況/近衛師団ノ仮装行列/トランプノ奇術/芸者ト鳩・・・

1907年9月 下の芝居・沖縄座で「京阿波根由来記」上演/球陽座で「大新城忠勇噺」上演


1911年11月『琉球新報』□「蔡氏九世忠義録ー尚豊王御即位マデ七場ニ仕組ミ大道具仕掛ニテ開演可仕候ー」


1912年5月『沖縄毎日新聞』「中座 琉球史劇 楚辺暗川ー琉球音楽ノ祖先 赤犬子」


1912年5月20日『琉球新報』

1913年4月25日~11月22日『大阪毎日新聞』菊池幽芳「百合子」


1913年10月6日ー大阪道頓堀浪花座で「百合子」劇が開演、百合子役に川上貞奴。来阪中の眞境名安規(桂月)が琉球踊りアヤグを指導。

1913年10月6日ー大阪道頓堀浪花座で「百合子」劇が開演、百合子役に川上貞奴。来阪中の眞境名安規(桂月)が琉球踊りアヤグを指導。


1913年10月15日ー那覇の香靄座、大阪杉本商会特約で活動写真常設館「パリー館」開設


パリー館「アルジェリア カンタラの風景」



1914年3月1日ー那覇区字東仲毛で「常設活動写真帝国館」開館

1914年3月 那覇の常設活動写真帝国館で「百合子」上映


1914年4月 「米国海軍水雷演習」


1914年6月『琉球新報』



1914年10月『琉球新報』


1916年6月16日『琉球新報』

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1919年ー京都都踊りで琉球太鼓踊りー1995年1月19日『琉球新報』「人気あった琉球の太鼓踊りー大正8年 京都の都おどりで」/下はその時の絵葉書、左が巴紋の幕の前で万国旗をかざす踊子たち。右が太鼓踊り
□1919年3月12日『日出新聞』「都踊ー『今紫四季栄』平和踊・御越わん、里前御扶齎したぼれエイヤヨヌ平和の日(ひゃるがひー)ー」

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 □又吉栄義
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1951年5月16日未明、又吉栄義、大阪市大正区泉尾浜通り4丁目42番地で急逝(享年67歳)

1952年9月21日『球陽新報』「20日、21日に境川の大交会館で琉球芸能鑑賞会、東京の児玉清子らが仲里節、布晒し、もうあしび、伊野波節、作田節、関西芸能会の又吉秀子が諸屯、沖縄芸能保存会関西本部が三味線・琴」


〇2007年9月 東京・沖縄芸能保存会 編『躍 うどぅいー児玉清子と沖縄芸能』新星出版

1953年3月21日『球陽新報』「関西芸能界の一異彩たる川田礼子姉妹は先般の日劇”日本民謡集”で東都にデビューすることになった」



2003年3月28日『沖縄タイムス』


1953年6月11日『球陽新報』「東京日本橋芳町に開店挨拶ー琉球料亭なは・上江州文子」

1953年12月21日『球陽新報』「大阪市梅田桜橋の琉球料理屋・ゆんたで沖縄民芸品展示会」

1954年2月21日『球陽新報』「芸能保存会関西本部役員ー顧問・豊川忠進、山川宗信、下地玄信、幸地長堅、翁長良孝、宮城清市/相談役・又吉嘉昭、宮平守松/会長・宮里政男/副会長・金城徳次郎、比嘉良助、外間宏裕/監査・宮城政栄、具志堅興盛、西銘春雄/書記・永山盛保」
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1955年1月21日『球陽新報』「摩文仁賢栄氏、東区北久太郎町に糸東流新道場開き」

1955年4月1日『球陽新報』「新川嘉徳氏の公演会」

1955年4月21日『球陽新報』「明治座上演・矢田彌八作・琉球の簪」連載

1955年10月21日『球陽新報』「親泊興照氏、大阪でも沖縄舞踊をひろめる」

1969年1月『沖縄の芸能』邦楽と舞踊社□3、流派と現状 
仲井真元楷「現地における」
石野朝季「本土におけるー『沖縄の伝統芸能は、日本本土で命脈を保っている芸能家の手で保存しないかぎり消えてゆくしかない。さいわい鹿児島には舞踊界の渡嘉敷守良、熊本には野村流音楽の池宮喜輝両師匠(共に故人)が疎開で健在であり、二人を東京に招いて弟子を養成、沖縄に再び平和が甦えるときまで、郷土にかわって伝統保存の担い手になろう』と、1947年春、東京沖縄芸能保存会が伊江朝助、比嘉良篤、戦前沖縄で新聞経営、安富祖流音楽の有数な弾き手でもあった武元朝朗(1953年10月6日没)らの手で結成された。結成翌年の1948年11月には、有楽町の読売ホールで第一回公演。」

1972年2月『青い海』』№10<復帰不安の沖縄>□「優れた沖縄を語りたいのですー若者が集う『沖縄関係資料室』の西平守晴氏宅」、嘉手川重喜「沖縄の歌劇(4)辺土名ハンドーグヮー」


1972年3月 『青い海』春季号 「青い海芸能ー情熱と美の琉舞を大阪の地に  金城康子」
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那覇大綱引きで子息の衣装を整える金城康子さん

1974年6月『青い海』№33<本土の中の沖縄>□霜多正次「ウチナーとヤマトゥ」、津嘉山政栄「大阪・教育の現場から」、高良重一「夜間中学の中の沖縄」、山城昌成「第二の故郷、和歌山で」、金城朝夫「沖縄の東京難民」「大阪沖縄会館ー盛大に竣工祝賀会」「沖縄青年 山口重光君を支援する全国連絡会議ー平尾町46末広荘・山城三郎」「本土在県人会・公共団体・企業一覧」

1975年12月『青い海』№48<沖縄の芸能ー舞踊と音楽>□宮城能造「よもやま芸談」、関西版『仲村米子舞踊研究所第一回発表会、松葉舞踊研究所が五周年記念公演、川田琉球舞踊団として初の関西公演、儀間比呂志新作版画展開かれる」、仲村喬次「武下和平ー島人の心意気を唄う(略)初心が忘れられていくのはテレビの流行歌手たちを見るまでもない。人の心を打たなくなった民謡は、もはや(しまうた)の生命を絶ったもひとしい。」、知念正光(琉装史研究者)「ルポ・東京周辺の沖縄芸能」、崎山任「三味線音楽とアカインコの業績」、「渡嘉敷守良・ある俳優の記録ー芸談、組踊の型」、伊礼正栄「関西の中の沖縄芸能ー悲愴な使命感で、”失われた沖縄”にかわって、ふるさとの伝統と文化を守ろうとした本土の県人たち」

1976年8月『青い海』№55<奄美の民話と伝説を訪ねて>□となきあきら「喜劇の王様・小那覇舞天を偲ぶ」「郷友会めぐり・その2 大阪羽地郷友会」「東京、神奈川で第二回エイサーの夕べーゆうなの会が企画挙行」「大阪の松葉舞踊研究所の大城奈津子ちゃん(小1)と我喜屋みゆきちゃん(中1)が琉球新報主催・第12回琉舞子ども大会で受賞」


1981年12月 沖縄の雑誌『青い海』1月号 上原直彦「昭和にフクバル節あり」
1994年1月 『脈』第48号「普久原朝喜 特集」/1993年10月 『普久原朝喜顕彰碑建立記念誌チコンキーふくばる』同実行委員会(中根章)


1982年6月ー沖縄県人会兵庫県本部(編集委員長・上江洲久)『ここに榕樹ありー沖縄県人会兵庫県本部35年史』□元『青い海』編集長の津野創一が執筆、津野さんは後に県人会機関紙『榕樹』の編集にも携わる。私(新城栄徳)も資料収集に協力した。
□第五回勧業博覧会といえば、沖縄にとっては忘れることのできない人類館事件に結びつく。のちのちの久志芙沙子の筆禍事件や、解放教育読本『にんげん』問題にもつながる。
□1945年11月3日ー尼崎沖縄人連盟結成大会が尼崎中学校で開かれる。会長・大城盛通、副会長・大山朝繁、砂川恵哲、幹事長・赤嶺嘉栄
□兵庫の中の沖縄芸能ー出稼ぎ労働者の中に、琉球民謡界の大御所的存在だった普久原朝喜もいた。いま、関西には古典音楽で野村流古典音楽保存会関西支部と野村流音楽協会関西支部がある。いずれも又吉嘉昭、又吉栄義の指導と努力によるものであり、歴史も古い。民謡の方では琉球民謡協会関西本部がある。(略)県人会活動と文化運動が新たな接点をつくり出していく時期に来たようである。

1985年2月『青い海』№140<21世紀への要石・国際センター>□「新刊案内ー『沖縄の遊廓ー新聞資料集成』、『文人・末吉麦門冬』」



大城豊子師匠
1997年10月 大正区役所ホール「雅びの舞い/八重山民謡・沖縄民謡の集い」大城豊子琉舞研究所
2000年3月12日ーアゼリア大正ホール「第七回 琉球古典舞踊の夕べ」(主催・大城豊子琉舞研究所)

 

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2016年9月9日『琉球新報』「あしゃぎ 沖縄資料の奥は深い」

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1963年6月30日『沖縄タイムス』「座談会・関西の住人 大いに語る」

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 1971年9月のある日、私たち「沖青友の会」会員は女性3人、男性4人で機関誌『石の声』八号のガリを徹夜で切っていた。変色した1963年6月3.0日の『沖縄タイムス』3面にわたっての特集「関西の郷土地図」を転載し、主張に「沖縄の禁断の書『さまよへる琉球人』の封を自ら、はがしたように、われわれは自らの心のヤミを見据えよう」と記した。そして偶然のことだが、ガリ切り作業をやっていた嘉陽宗博(沖青友の会会長)の間借り先の、その小さな部屋の番地は、大阪市港区市岡元町で、戦前の関西沖縄県人会本部の近くの番地であった。

 私は『石の声』八号への提言として「僕らは、今の県人会には、大いに不満の点がある。そこで僕らはユニークな機関を創造して行きたい。現時点で実用的なものは、関西沖縄ミニ・シンクタンクであろう」としていて消化不良的な用語を使っているが、要は各種の問題解決のための資料(経験)を蓄積し、すぐ活用できる沖縄青年の「資料センター」を創造していこうということである。 この「資料センター」の考え方が、この「琉文21」の出発点でありプロトタイプといえる。

 『石の声』九号に「沖青年譜」があるので沖青友の会の歩みを紹介する。1969年4月20日に大阪城公園にて50名参加して発足、会長・宮城晃で11月には『石の声』一号を出している。「沖縄子供の国」資金カンパや、女子高生刺傷事件の署名カンパ、1970年6月は仲宗根正順(マンガ家)さん捜しに取り組む。兄弟団体の三和同郷青友会(尼崎)、南風サークル(大正区)との六甲山登山やソフトボール大会で交流。また、映画「水俣病」、「沖縄列島」上映会にも参加した。

 1971年12月11日、沖青友の会会員9名が初めてのテレビカメラのライトを浴び、あがってしまいながらの「関西テレビ土曜イブニングショウ」の沖縄討論に参加。司会は、栗原玲児、上原「最近よく沖縄について語られているけれども、安易な気持ちで語ってもらいたくないですね」、喜納「沖縄が返還されても我々は沖縄解放の闘いを続ける」、三郎「沖縄人としての自立を踏まえて沖縄人としての思想を構築していく」、新城栄徳「沖縄は経済的に自立できるかということを考えた上でなければ沖縄を語る資格はないですね」というと、司会者が「語る資格はあるかないか別として、自分の話で恐縮だけれども沖縄に関する司会をするのは十三回目です」、紀美枝「自らのことも出来へん状態で沖縄に連帯、連帯とそんな簡単に言えるべきもんではない」、比嘉「私達は皆さんが沖縄のことに口に出す場合、日本の歴史の中から、どうして現在の沖縄ができたんか考えてから」などと発言した。


西平守晴/阿氏南山の末裔。『青い海』津野創一編集長は同郷(八重山)。南西印刷の西平守栄は従兄弟。久子夫人の母と川平朝申の母は姉妹。

1972年
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<b>上左・1972年11月ー『青い海』18号所載の『琉球の文化』広告/『琉球の文化』編集発行人の大城精徳は、首里高教師時代に『青い海』津野創一編集長を教えている。
右・1972年11月発行の沖青友の会機関誌『石の声』所載の『琉球の文化』と『青い海』の紹介。


1972年1月ー『青い海』10号□若者が集う「沖縄関係資料室」の西平守晴氏宅ー西平沖縄関係資料室主宰「柳宗悦という人を皆さんもよく知っていると思う。沖縄の民芸を高く評価した人だが、その人が昭和14年に書いた『琉球の富』の序に次のような言葉がある。<人々は今まで余りにも暗い沖縄を語り過ぎていたのです。私たちは優れた沖縄を語りたいのです。それは私達を明るくし島の人々を明るくさせるでしよう。私達は実に多くの富に就いて語り合いたいのです。沖縄に就いて歎く人々のために、又この島に就いて誤った考えを抱く人々のために、又自国を余りにも卑下して考える土地の人々のために、そうして真理を愛する凡ての人々のために、この一文が役立つことを望んで止まないのです。> この30年も前の文章が、私の今の気持ちを言い当てています。-」

1973年3月 『琉球の文化』第三号<特集Ⅰ 琉球の伝統玩具> 琉球文化社

1974年5月ー『琉球の文化』第五号<沖縄戦と終戦直後の生活>
琉球文化社(編集発行人・大城精徳)本社〒那覇市牧志町1-944-6 編集局〒902那覇市安里425丸清ビル2階/関西連絡所ー大阪市東淀川区西中島町5-62青い海出版社内(新城栄徳)


1984年4月 『琉文手帖』創刊
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  わが国に航海術や造船術を伝えた英国人ウィリアム・アダムズ(三浦按針)や、平戸のイギリス商館長を勤めた リチャード・コックスも努力した人たちである。アダムズはオランダ船リーフデ号の水先案内人として当時の豊後(大分県)に 漂着した人物である。その後、平戸のイギリス商館長リチャード・コックスの命を受け、シー・アドヴェンチャー号の船長として、 タイへ向かう途中乗組員の不穏な動きを察知して、五島に引き返しているが、その際沖縄から持ち帰った一袋のサツマイモをコックスに 送っている。時に1615年6月2日のことで、コックスはその日の日記に「大御所が大阪の城を取り、フィディア(秀頼)様の軍を 滅ぼした」報せを受けたとも記している。6月19日になって、コックスは、「庭を手に入れて、リケア(琉球)から将来された藷を そこに植え」、1年当たり10匁(英貨5シリング)を支払うと記している。すなわち、平戸に菜園を借り栽培を試みたわけである。 しかし、その後の実績は記されていない。現在平戸の川内浦の鳶の巣に「コックス甘藷畑跡」が残っており、この地域ではサツマイモを 「琉球イモ」または単にイモと呼んでいたといわれるが、そうであるとすると、何らかの実績が見られたのではないかと想像される。→鈴木俊(東京農大国際食料情報学部教授)

1796年 英船プロビデンス号虻田に来航。翌年室蘭に来航
1798年 近藤重蔵、択捉を調査。帰途ルベシベツ山道を開く

1811年 国後でロシア艦ディアナ号艦長ゴローニンが幕府の警備隊に捕らえられる

 バジルホールの現在の認知度を画像検索すると「バジルホール(@ashurnasirpal2)」が出て満島ひかりちゃんが出てきた。「満島ひかり」を検索すると、女優の黒柳徹子の自伝的エッセイ『トットひとり』『トットチャンネル』を原作にしたNHKドラマ『トットてれび』で、満島ひかりが黒柳役を務めているが、映画「夏の終り」では若き日の瀬戸内寂聴を艶っぽく演じている。さらに検索すると沖縄県沖縄市出身。ユマニテ所属。弟は俳優の満島真之介、妹はモデルの満島みなみ、となっていて、初めて沖縄出身だとわかった。話が本題から逸れてしまったが、この偶然も必然として見逃してもらいたい。正確にバジル・ホールでウィキペディアを見ると「19世紀のイギリスの海軍将校、旅行家、作家。インド洋、中国、琉球、中南米各地を航海したことで知られる。ベイジル・ホールと記述されることも多い。 ナポレオン1世に『琉球では武器を用いず、貨幣を知らない』と伝えた」とある。また 「Facebook/バジル・ホール研究会」も参考になる。
 
1816年(文化13)7月25日、イギリス軍艦アルセスト号(艦長マレー・マクスウェル)・ライラ号(艦長バジル・ホール)、那覇に投錨/9月6日、首里王府、マクスウェル館長の国王への謁見要請を謝絶。/7日、両船、那覇を離れる。後にライラ号の乗組員だった退役軍人ハーバード・J・クリフォードが中心となり、琉球海軍伝道会を創設、ベッテルハイムを派遣することになる。→2014年2月 生田澄江『幕末、フランス艦隊の琉球来航ーその時琉球・薩摩・幕府はどう動いたかー』近代文藝社

Basil Hallは1788年12月31日、スコットランド エディンバラで生まれて、1844年9月11日ポーツマス王立ハスラー病院で死去(55歳)。
「経済学の父」ことアダム・スミス、詩人のキーツ、ウォルター・スコット、シャーロック・ホームズの生みの親コナン・ドイル、『宝島』や『ジキル博士とハイド氏』の作家ロバート・ルイス・スティーヴンソン、ジェームズ・ボズウェル、トマス・カーライル、俳優のショーン・コネリー、ユアン・マクレガー、ジェラルド・バトラーなどはスコットランドの生まれである。
スコットランドは、産業革命以前より、科学・技術の中心地であったため、多くの科学者・技術者を輩出している。その発見・発明は、現代社会にはなくてはならないものが多い。電話を発明したグレアム・ベル、ペニシリンを発見したアレクサンダー・フレミング、蒸気機関を発明したジェームズ・ワット、ファックスを発明したアレクサンダー・ベイン、テレビを発明したジョン・ロジー・ベアード、空気入りタイヤを発明したジョン・ボイド・ダンロップ、道路のアスファルト舗装(マカダム舗装)を発明したジョン・ロウドン・マカダム、消毒による無菌手術を開発したジョゼフ・リスターなどはスコットランドの生まれである。
羊の内臓を羊の胃袋に詰めて茹でたハギスが有名。また、スコッチ・ウイスキーは定義上スコットランド産でなければならない。スコットランドには、100以上もの蒸留所があり、世界的にも愛好家が多い。
コリン・ジョイス(『驚きの英国史』NHK出版新書 2012年pp.79-83)ではイギリス人の生活を皮肉って次の物がすべてスコットランド人によるものだとしている。マーマレード、レインコート、自転車、タイヤ、乾留液(タールマック舗装)、蒸気エンジン、イングランド銀行、糊つき切手、タバコ、電話、ローストビーフ、アメリカ海軍、麻酔薬などである。『聖書』にもスコットランド人が最初に出てくるが、これはジェームズ6世が英訳を進めたからである。→ウィキ


『バジル・ホール琉球航海記』最も大きいのが初版(1818年)で、小さいのが3版(1826年)
2005年5月 新城良一・編『ビジュアル版 日本・琉球の文明開化ー異国船来航の系譜』天久海洋文学散歩会

1818年1月 バージル・ホール『大琉球 韓国 西海岸航海記』ロンドン(再版2010年 ジェネラルブック テネシー州メンフィス)

那覇市歴史博物館で「バジル・ホール来琉200周年記念/ウランダーがやってきた!」の図録を見せてもらった。上の地図に書き込みがある地図も掲載されていた。担当の鈴木学芸員がネット「ヨーロピアナ」①で収集したフランス国立図書館蔵のものだ。(2016ー8ー4)

①欧州委員会は、EU加盟国の図書館や博物館が所蔵する書籍、文献、映像、絵画などを検索・閲覧できる「ヨーロピアナ」という電子図書館を開設した。インターネットを通じて、400万件以上のデータに無料でアクセスすることができる。ヨーロピアナは、2008年11月20日に公式オープン。ところが、初日の1時間で1000万件を超えるアクセスがあり、サーバーが停止してしまった。モナリザの絵やベートーベンの楽譜といった有名なアイテムも閲覧することができ、大変な人気となったためだ。オープン早々「一時休館」となったヨーロピアナは、その後、コンピューターの処理能力を上げて、12月24日に再オープンした。ヨーロピアナは、EU加盟国の公用語である23言語で利用可能であり、欧州市民の誰もが身近に利用できるよう配慮されている。もちろん、日本からもアクセスできる。欧州の図書館や博物館が所有する日本関連のアイテムも閲覧することできる。


「ベッテルハイム」2005年5月 新城良一・編『ビジュアル版 日本・琉球の文明開化ー異国船来航の系譜』天久海洋文学散歩会

1844年4月28日 フランス人ジャン・バチスト・セーシユ提督率いる5隻の東洋艦隊麾下のフォルニェル・デュプラン大佐の軍艦アルクメーヌ号を琉球へ分遣。宣教師テオドール・オーギュスト・フォルカードと清国人伝道師オーギュスタン・高を那覇に残して5月6日に出帆。→2014年2月 生田澄江『幕末、フランス艦隊の琉球来航ーその時琉球・薩摩・幕府はどう動いたかー』近代文藝社

1853年6月ーペルリ、首里城訪問□→1926年10月ー神田精輝『ペルリ提督琉球訪問記』/1935年3月ー土屋喬雄『ペルリ提督日本遠征記』弘文荘(沖縄県立図書館所蔵本は国吉真哲寄贈)/1947年2月ー大羽綾子『ペルリ提督遠征記』酣燈社/1962年6月ー外間政章『対訳ペリー提督沖縄訪問記』研究社/1985年10月ー金井圓『ペリー日本遠征日記』雄松堂/1994年4月ー大江志乃夫『ペリー艦隊大航海記』立風書房
1909年11月、アメリカ人・ウォーナー来沖。

1991年5月30日『琉球新報』松島弘明「文化ノート/ウォーナー資料を追え」
1996年5月17日『沖縄タイムス』「ワーナー資料沖縄の民芸品 米博物館が保存」
 ラングドン・ウォーナー(Langdon Warner、1881年8月1日 - 1955年6月9日)は、アメリカの美術史家。ランドン・ウォーナーとも表記される。太平洋戦争中に日本の文化財を空襲の対象から外すよう進言した人物とされるが異論も多い。マサチューセッツ州エセックス生まれ。1903年ハーバード大学卒業。卒業後ボストン美術館で岡倉天心の助手を務め、1907年に同美術館の研修候補生として日本に派遣された。1910年にロンドンで開催される日本古代美術展の準備をしていた岡倉らを手伝い、3冊の詳細な出品カタログ『日本の寺とその宝物』の英訳に協力した。帰国後東洋美術史を講義、ハーバード大学付属フォッグ美術館東洋部長を務めるなど、東洋美術の研究をした。1946年、米軍司令部の古美術管理の顧問として来日。朝河貫一とは親交が深く、数々の書簡を交わしたりウォーナーの著書に朝河が序文を寄せたりした。→ウィキペディア○日本各地にはウォナー記念碑が6か所もある。最初の法隆寺の碑から、最後はJR鎌倉駅前の碑。

 1856年、チェンバレンは母親エライザ・ジェインの死によって母方の祖母とともにヴェルサイユに移住した。それ以前から英語とフランス語の両方で教育を受けていた。またフランスではドイツ語も学んだ。帰国し、オックスフォード大学への進学を望んだがかなわず、チェンバレンはベアリングス銀行へ就職した。彼はここでの仕事に慣れずノイローゼとなり、その治療のためイギリスから特に目的地なく出航した。1873年5月29日にお雇い外国人として来日したチェンバレンは、翌1874年から1882年まで東京の海軍兵学寮(後の海軍兵学校)で英語を教えた。1882年には古事記を完訳している(以下略)。前出の『チェンバレンの交友』には「日本を広く世界に紹介した人というと、ハーンをあげるものが多い。少し前ならシーボルト。ところが西洋ではシーボルトの次はチェンバレンである。」とし、友人としてサトウ公使、アストン、小泉八雲、門弟の和田万吉、岡倉由三郎(註)らとの交友を紹介している。

岡倉由三郎 生年慶応4年2月22日(1868年) 没年昭和11(1936)年10月31日 英語学者。天心の弟
出生地神奈川・横浜 学歴〔年〕東京帝大文科選科
経歴東大選科でチェンバレンに言語学を学ぶ。東京府立一中教諭、七高教授を経て明治29年嘉納治五郎校長の招きで東京高師教授。新村出らと「言語学雑誌」を発刊、35年から独、英に留学。大正15年に東京高師を退官するまで英語科の主任を務めた。その後、立教大学に奉職。開始当時のNHKラジオの英語講座では巧みな話し方で人気を集め、外国語教育、基礎英語の普及に大きな功績を残した。ヘボン式ローマ字の採用を主張したほか、昭和8年出版された「新英和大辞典」は岡倉辞典といわれ、一般に広く用いられた。→コトバンク

岡倉天心の長男の岡倉一雄は朝日新聞記者で、岡倉覚三の伝記をまとめた。孫(一雄の子)の岡倉古志郎は非同盟運動にも関わった国際政治学者、曾孫(古志郎の子)長男の岡倉徹志は中東研究者、玄孫(徹志の子)長男の岡倉禎志は写真家、玄孫(徹志の子)次男の岡倉宏志は人材開発コンサルタント、西洋史学者の岡倉登志は天心の曾孫にあたる。→ウィキペディア/ラングドン・ウォーナー(一八八一〜一九五五)は、ハーバード大学で考古学を専攻。卒業後、五浦で岡倉天心の薫陶を受け日本美術を研究。

 異国船研究も、やはり沖縄学(伊波の学問を沖縄学と称したのは折口信夫)の礎を築いた伊波普猷に立ち戻らないといけない。『東恩納寛惇全集』「伊波君の想出」に寛惇は「日清役の頃か、伊波君が在京沖縄青年会雑誌に『爛額雑記』とか云った表題の随筆で、ヴィクトリヤの僧正の琉球訪問記を紹介した。(略)伊波君が『ヴィクトリヤの僧正』を取上げたのは、琉球語聖書の著者ベッテルハイムや、通事板良敷等に興味を有ったからであったらしい」と記している。1904年6月、伊波は鳥居龍蔵の沖縄調査に同行し横浜から尚家の汽船で帰省。鳥居は伊波宅に投宿。伊波は鳥居を沖縄各地に案内、記念にチェンバレンの『琉球文典』を鳥居より贈られる。

1910(明治43)年9月15日、冨山房①発行『學生』第一巻第六号 中村清二「琉球とナポレオン
中村清二(女優の中村メイコは兄の孫にあたる)「チェンバレン氏は英国の使節を廣東に上陸させて待っている間に朝鮮と琉球を見物し、帰国の途次セントヘレナ島を訪れてナポレオンに会見し琉球の物語をしたとある。」と記している。
□東京大学明治文庫の原本で、1910(明治43)年9月15日、冨山房発行『學生』第一巻第六号:ナポレオン号に「琉球とナポレオン」中村清二(7頁)が掲載されていることが確認出来ました。 その記事の挿絵にはバジル・ホールの著作と同じ挿絵が使用されています。冒頭でバジル・ホール・チェンバレンの祖父としてバジル・ホールが紹介され、はじめの小見出しは「セントヘレナ上陸」。途中の小見出しに「武器なき国」とありました。(7月28日 不二出版 小林淳子)

ふざんぼう【冨山房[株]】1886年坂本嘉治馬(土佐国(高知県)宿毛村出身)によって東京神田神保町に創業された出版社。当初から質の高い大出版で知られ,大型の辞典で一時代を画した。古書の売買と洋書の取次販売から始めたが,そのかたわら天野為之《経済原論》(1886)を出版,読みやすさで好評を博した。ついで天野為之《万国歴史》,前橋孝義《日本地理》などを続刊,中等教科書に採用され,この分野の先駆となる。他方,吉田東伍《大日本地名辞書》全7巻(1900‐07),芳賀矢一・下田次郎編《日本家庭百科事彙》全2巻(1906)などをはじめとする辞典類に力を注ぎ,上田万年・松井簡治共著《大日本国語辞典》全5巻(1915‐28),大槻文彦著《大言海》全5巻(1932‐37),《国民百科大辞典》全12巻(1934‐37)などで成功をおさめて辞典出版社としての名声を不動のものとした。 →コトバンク

1912年 バージル・ホール・チェンバレン「ある新しい宗教の発明」(神道の資源を引き継ぎながら新たに作り上げられた天皇崇拝のシステム)→タカシ・フジタニ『天皇のページェントー近代日本の歴史民族誌から』(1994年 日本放送出版協会)/2016年10月『春秋』島薗進「明治天皇崩御と国家神道」

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10・10那覇大空襲の日である。1944年7月のサイパン陥落。10月、アメリカ軍はフィリピンへの進攻作戦を準備。これに先立って、後方の南西諸島から台湾方面に散在する日本軍の拠点を、空母艦載機をもって攻撃した。10日の沖縄の大空襲はこの一環として行われたものとされている。このとき那覇市内の9割が消失して壊滅した。死者は255人以上にのぼった。大阪は翌年45年3月13日から深夜から翌日未明にかけてに最初の大阪空襲が行なわれた。同年3月23日には粟国島空襲、26日には慶良間諸島にアメリカ軍が上陸し沖縄戦が始まった。大阪ではその後、6月から8月にかけて空襲が行なわれた。これらの空襲で一般市民 10,000人以上が死亡したと言われる。それから60数年。未だにアメリカ軍は「トモダチ」としてオキナワ・日本に居座っている。何ら疑問も感じない日米両政府。それを容認する国民の感覚も分からない。今日まで核の傘、原発も容認してきた国民。これからも<しょうがないにゃあ>。

午後から大阪市天王寺区生玉町界隈を見学。法音寺は天王寺区の北部、建物は南面している。新しい本堂だが、古い屋根瓦がよく目立っている。1612年創建。1945年ー大阪大空襲により焼失。戦後再建された。画家上田公長の墓所でソテツもある。浄土宗圓通寺には俳匠の大江丸墓所。ソテツもある。大江は大坂出身。飛脚問屋・嶋屋の主人で、家業上諸国を旅したので、交際がきわめて広く、またたいへん筆まめで、そのうえ長寿でもあったので、残した紀行文や随筆、そして発句などは莫大な数にのぼる。作風としては京都の蕪村派の影響を受けているが、西山宗因や上島鬼貫の模倣をした作品もある。のちに江戸の大島蓼太に私淑し、著書においても蓼太を師として敬っている。

生魂山齢延寺には幕末に私塾・泊園書院を興して活躍した儒者の藤澤東咳・南岳父子や、画家の鍋井克之、名刀鍛冶師の左行秀の墓がある。また、緒方洪庵、斉藤方策と並ぶなにわの3名医のひとり・原老柳ゆかりの老柳観音がある。やがて「いくたまさん」と呼ばれる難波大社 生國魂神社北門入り口に着く。鳥居をくぐって生玉北門坂をのぼる。神社本殿の脇には11社の境内社がある。一番右側の鳥居は「浄瑠璃神社」で、近松門左衛門や竹本義太夫など人形浄瑠璃(文楽)に成立に功のあった『浄瑠璃七功神』をはじめ文楽および女義太夫の物故者を祭神として祀られている。

境内社の1つ「鴫野神社」。大坂城外鴫野弁天島にあった「弁天社」は淀君の崇敬が厚く、後に「淀姫神社」として祀られるようになったが、1877年に現在地に移転された。家造祖神社は、家造の祖神を祀り、建築関係者の崇敬が篤い。鞴神社は、鞴(ふいご)の神・鍛治の神を祀り、製鉄などの金物業界の崇敬が篤い。

境内に井原西鶴像がある。西鶴は1680年、「生玉神社南坊」で一昼夜独吟四千句を興行した。後ろの碑は「南坊」の所在跡を示す石碑、「南坊」は明治初期の神仏分離の折、現在の中央区島之内に移転した法案寺の前身である。「米澤彦八の碑」に京都で露五郎兵衛によって始められた上方落語は、大阪では当社境内を舞台に米澤彦八が広めたとある。「八雲琴の碑」には「二つ緒の八雲の琴に神の世の しらべを移し伝え来にけり」と記され中山琴主(愛媛の人、文政年間出雲大社に参拝し神事を得て完成したと伝えられる、琴は二弦で「八雲琴」)を顕彰。

1496年、本願寺八世蓮如上人が生國魂神社に接して『石山御坊(後の石山本願寺)』を建立したが、1580年、織田信長に屈し灰燼に帰した。1583年、豊臣秀吉が石山本願寺(現在の大阪城の二の丸周辺にあった)跡に大阪城を築城。そのため、神社に社領を寄進し社殿を造営。1585年に現在の鎮座地に遷されたと伝えられている。明治維新の廃仏毀釈によって境内にあった神宮寺が境外へ分散するなど境内は著しく変化したが、1871年、官幣大社に加列された。社殿は(明治45年)『南の大火』、1945年の戦災による消失、1950年の『ジェ―ン台風』による倒壊など幾度も被災と造営を繰り返し、現在の社殿は1956年(昭和31年)に建立されたものである。10月22日から神社参集殿で「出口王仁三郎耀琓展」が開かれるという。

近松門左衛門の墓は菩提寺、尼崎・広済寺と、妻側の菩提寺の大阪・法妙寺に建てられ、共に夫婦の戒名が刻まれた比翼墓である。法妙寺は大空襲で焼失し大東市に再建され、後に墓だけが元の場所に戻された。近松の墓を見て、西鶴の墓がある誓願寺を訪ねる。戦災で本堂も繰りも焼けたため、一時途絶えた時期もあったが、毎年9月には「西鶴忌」が行われる。西鶴の墓は1887年を前後する頃、誓願寺境内の無縁墓に押し込められていたのが発見された。境内には、大坂に於ける私立学問所「懐徳堂」を140年余にわたり経営し、江戸時代大坂の文教の発展に貢献した、中井一族の墓がある。→稲垣國三郎にも『中井竹山と草茅危言』(大正洋行1943)の著がある。

誓願寺門前にプロレタリア文学を経て、転向。西鶴の浮世草子の作風に学んだ「市井事もの」を著し、時代の庶民風俗の中に新しいリアリズムを追求する独自の作風を確立した 武田麟太郎文学碑がある。この文学碑は武田の小説『井原西鶴』の一節が刻まれている。大阪市中央区上本町「東平公園」にある薄田泣菫の『金剛山の歌』の碑。詩は、作者が本長寺に仮住まいしていた頃、散歩の途中、朝日に輝く金剛山を見て、詠んだと言う。薄田泣菫(1877~1945)は岡山県生れ、24歳で大阪に出て文芸雑誌、詩集を刊し、象徴派詩人として名声を得た。 午後ー近鉄布施駅から鶴橋。近鉄駅改札のまん前にある「高坂書店」では数多くの在日コリアン関連の書籍が売られている。いわゆる「嫌韓本」も意外に数多く揃えてあり「マンガ嫌韓流」といった山野某の本もある。私はブックオフで買った山野の本「在日の地図」で、日本の中の在日社会を見つめなおしている。鶴橋商店街はいつも見慣れているが、面白いのは、ガード下にも広がる市場の存在。闇市の世界をそのままに、という風景で八百屋、魚屋、肉屋、乾物屋、そしてキムチ屋、ありとあらゆる韓国食材が揃う、まさに日本の中の朝鮮。大阪の東の玄関口として戦前から発展してきた下町、鶴橋。大阪府は全国で最も在日韓国・朝鮮人が多く、人口は15万人。その多くが大阪市東部の生野区を中心としたエリアに住んでいる。生野区の人口14万人の4分の1に当たる、3万人程度が住んでいると言われる。

明治、大正時代の大阪は、日本の急激な工業化に伴い大量の労働者が必要となり受け入れた。大阪は大大阪となる。現在の生野区や東大阪市、八尾市あたりには、朝鮮半島から出稼ぎをした人間が大勢住む事となった。終戦直後には210万人程度居たと言われている。その多くが京阪神に住んでいた。現在も在日韓国・朝鮮人の人口は60万人程度居るが、今では在日二世・三世がほとんどで、中には帰化をして日本人になっているものも多く、その実態を掴むのは不可能だ。

鶴橋商店街を通っていつもは通らない反対の方向に行く。やがて大阪市生野区弥栄神社に出る。秋祭りの地車(ダンジリ)の手入れの最中であった。傍で子どもらが鐘と太鼓の練習をしていた(→「秋祭り」画像検索)。彌栄神社とはバス道ひとつ隔てて鎮座しているのが御幸森天神宮。仁徳天皇を主祭神とし、昔の東成郡猪飼野村の氏神、天皇崩御の後、この森に社殿を建立し、天皇の御神霊を奉祀して、御幸森と称したという。このバス道がかっては百済川だった。猪飼野は猪甘津と呼ばれ、 百済川には日本最初の橋が架けられたと言う。天神宮に沿って御幸通商店街がある。反対側に韓国式の立派な門、沖縄の守礼門と似かよっている。商店街は東西で3つの区画に分かれており、コリアタウン色が強いのが御幸通中央商店街。ほとんどの店舗がキムチ屋や肉屋、韓国料理店や屋台料理、民族衣装、それに韓国の音楽CDやDVDを売る店舗となっている。この商店街は大阪に永いこと住んでいるが初めて来た。
井原西鶴
西鶴は本名は平山藤五。大阪生まれ。貞門派の俳諧師としてはじめ鶴永と名乗る。『生玉万句』(1673)を契機に談林派に転じ、西鶴と号す。オランダ流と評された前衛精神で1日に2万3500句もの独吟(矢数俳諧)を成功させる一方、浮世草子の処女作『好色一代男』(1682)が評判をよんだこともあり、発展途上の大坂の出版界と並走して二十数編の浮世草子を手掛けた。好色や金銭という装置を通して巧みに世の人心を汲み上げる才能は抜群で、八文字屋本などの後続作に多大な影響を与えた。代表作は『好色五人女』『好色一代女』『本朝二十不孝』『日本永代蔵』『世間胸算用』などがある。
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□西鶴の墓は誓願寺にある。(大阪市中央区上本町西4-1-21)/1979年11月 桝井寿郎『井原西鶴』カラーブックス保育社


□井原西鶴像(大阪市天王寺区・生國魂神社)

末吉麦門冬の甥・佐渡山安治と文通で親交があった森銑三によると、西鶴作であることが明記されているのは『好色一代男』のみであること、また『一代男』とそれ以外の浮世草子の文体の違いなどから、西鶴自身が執筆したのは『一代男』ただ一作のみであり、他は監修であると唱えた。森説は近世文学研究者の間ではほとんど無視されており(後に中村幸彦らによって再評価されたが)、『新編 西鶴全集』(勉誠出版、2000-2007年)『決定版対訳西鶴全集』(明治書院、1992-2007年)でも採用されていない。(→ウィキペディア参照)、また、1910年、沖縄県立沖縄図書館開館にあたって麦門冬は『西鶴全集』『蜀山人全集』などを寄贈した。

□大田 南畝(1749年4月19日~ 1823年5月16日)は、天明期を代表する文人・狂歌師。漢詩文、洒落本、狂詩、狂歌などをよくし、膨大な量の随筆を残した。勘定所幕吏として支配勘定にまで上り詰めたが、一方、余技で狂歌集や洒落本などを著した。唐衣橘洲(からころもきっしゅう)・朱楽菅江(あけらかんこう)と共に狂歌三大家と言われる。南畝を中心にした狂歌師グループを、山手連(四方側)と称した。名は覃(ふかし)。通称、直次郎、七左衛門。別号、蜀山人、玉川漁翁、石楠齋、杏花園。狂名、四方赤良。また狂詩には寝惚先生と称した。1801年(寛政13年)、大坂銅座に赴任し、大坂在住時から「蜀山人」の号を使い始めた。号の由来は、銅の異名を「蜀山居士」と言ったことから。大坂滞在中、物産学者・木村蒹葭堂や国学者・上田秋成らと交流する。(→ウィキペディア参照)

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Category: 02-関西の沖縄
Posted by: ryubun02
 2008年5月4日 午前9時半、あけみと散歩に出かける。司馬遼太郎記念館をのぞくと、竹富島などの映像が放映されていた。近鉄八戸ノ里駅から乗車し東花園駅で下車。12時半に元長栄氏宅に着く。前からお願いしておいた元長氏の「履歴書」をいただいた。氏は1969年8月、沖縄と本土を結ぶ月刊誌『沖縄ジャーナル』を大阪で創刊している。この雑誌は70年に『沖縄ポスト』と改題、10号で休刊。70年9月には元『沖縄ポスト』編集人の座喜味康夫が京都長岡町で『沖縄群像』を出している。偶然なことだが元長氏宅の近くには『青い海』編集デスクであった小渡照生①氏も住んでいる。ちなみに『青い海』社長の山城賢孝氏は元長氏の沖縄教員時代の教え子であった。


2016年5月10日 写真-沖縄県立博物館・美術館ー左が小渡照生氏、田名真之氏

2016年5月10日 写真-沖縄県立博物館・美術館ー小渡照生氏

①小渡有得の二男/2008年9月 小渡有得『小石のつぶやき 或るクニンダンチュ(久米村人)の95年、心の軌跡』琉球新報社○小渡有得略歴ー1913年9月16日、那覇松山町に父邦光、母マカトの3男として生まれる。生家は萬履物小渡商店、道向かいに日秀上人が建てた地蔵堂があったので「ドゥヌメーヌーウドゥグヮー」と呼ばれた。1928年、『日本少年』11月号に「綴方/健ちゃん」を投稿し銀メダル。1931年3月、沖縄県立第一中学校修業。一家をあげて台湾台北千歳町に居住。1937年、基隆市義重町に転居、台湾総督府交通局基隆築港出張所に臨時夜警兼務。1939年、台北市御成町に転居。台湾総督府交通局逓信部工務課・台北電信電話技術官駐在所勤務。6月、臨時招集により台湾第一連隊補充隊に輜重兵二等兵として入隊。(1940年、南寧作戦に参加、欽寧公路警備に就く。1941年、台湾第一連隊補充隊に転属、海南島を経て基隆に帰還。)1943年、台湾総督府交通局逓信部工務課に復職、台中電信電話技術官駐在所勤務、台中市老松町に転居。1943年9月、玉城オトと結婚。1946年11月、具志川村高江洲区に居住。

5月12日 3時ナンバの大阪府立上方演芸資料館に行く。この資料館も大阪のタレント知事のリストラの一つにあげられている。この知事は職員に「一緒に死んでくれ」と相変わらずのパフォーマンスで宮崎県の知事同様テレビにもよくとりあげられその経済効果は十分期待されている。それはさておきこの資料館で私の好きな浪曲「紺屋高尾」を篠田実、富士実、浮世亭雲心坊、東家燕左衛門の節で聞いた。芝居のビデオでは松竹新喜劇の藤山寛美の「紺屋と高尾」を見た。沖縄の歌劇の「染屋の恋唄」も紺屋高尾をアレンジしたものだ。私が沖縄近現代芸能史の源流というノンキなことを調べている最中に中国では大震災が起きていた。

5月14日 ナンバの日本工芸館に行く。沖縄の漆器展が開かれていた。数十年前になるが同館での沖縄展のおり、三宅忠一館長と儀間比呂志さんが会話しているのを間近で聞いたことがある。この時は、儀間さんとは面識はなかった。

5月15日 沖縄が密約復帰をした日で、戦前の1932年のこの日は犬養首相が海軍将校らによって射殺された国家改造クーデターテロ事件が起きている。同日、京都では葵祭がある。葵祭は何回か見ているから二千円札にちなんで宇治を散策。平等院に寄り「鳳翔館」ができていたので観覧、コンピューターグラフィックスによる彩色復元の平等院の映写はコンピュータ技術を駆使したものだ。また売店で絵ハガキを買い求めた際に、お釣りを二千円札でくれと注文したら二千円札は用意して無いとのことだった。鳳凰堂は何回も見ているので丁度修学旅行生とはちあわせしたので周辺(大書院、浄土院、羅漢堂、頼政の墓、不動堂)、宇治市源氏物語ミュージアムを見た。帰途、萬福寺を見学。

2012年5月 コルシカ島生まれのナポレオンは、新聞一紙は5千の兵に匹敵するとし新聞統制を計り活用した。駅逓頭・前島密が指導した『郵便報知新聞』が創刊された1872年、川崎正蔵は大蔵省の命で琉球物産調査に赴き「経済交流で琉球を日本に依存させよ」と主張して前島に認められて日本政府郵便蒸気船会社の副頭取に就任し、琉球との郵便航路を開設。73年には海軍大佐柳楢悦らが測量で来琉した。川崎は後に川崎造船所を興し神戸又新日報社、神戸新聞社にかかわる。郵便報知は後に報知新聞となり読売新聞と合併する。
□1918年9月 山本實彦『川崎正蔵』 
□1928年10月 『目録』(神戸 川崎男爵家蔵品入札目録)
□1936年2月 『神戸 川崎男爵家蔵品入札目録』
「支那宋、元古画の蒐儲に於いて、世界にその名を知られている川崎美術館は、神戸川崎男爵家の先々代・故川崎正蔵翁が明治23年神戸布引の邸内に建設されたもので、一に長春閣と呼ばれている。これは其当時翁と親交のあった伊藤博文公が命名されたのである。→当社(川崎重工業)の創立は1896(明治29)年10月のことですが、造船業の歴史としては、それより18年前から始まっています。創業者の川崎正蔵が1878(明治11)年に東京・築地に川崎築地造船所を開設したのが、当社の起源です。川崎正蔵は1837(天保8)年、鹿児島の呉服商人の子として生まれました。17歳(嘉永6年)で当時唯一の西洋文明への窓口であった長崎に出て貿易商の修行を積み、27歳(文久3年)のとき大阪に移って海運業を始めましたが、このときは、持船が暴風雨で遭難して積荷とともに海没したため失敗しました。その後1869(明治2)年に、薩摩藩士が設立した琉球糖を扱う会社に就職、1873(明治6)年には、大蔵省から委嘱されて琉球糖や琉球航路の調査を行いました。翌年には日本国郵便蒸汽船会社の副頭取に就任し、琉球航路を開設、砂糖の内地輸送を成功させました。この間に自分の運命を左右するような海難事故に何度も遭遇した正蔵は、自らの苦い体験を通して江戸時代の大和型船に比べて船内スペースが広く、速度も速く、安定性のある西洋型船への信頼を深めると同時に、近代的造船業に強い関心を抱くようになりました。1878(明治11)年、時の大蔵大輔(現在の次官)であり同郷の先輩でもあった松方正義などの援助があって、東京・築地南飯田町(現在の中央区築地7丁目)の隅田川沿いの官有地を借りて川崎築地造船所を開設、造船業への第一歩を踏み出しました。(→川崎重工業ウェブサイト)

□2005年5月2日ー自宅で去年上六の天地で買った『沖縄アーカイブス写真』(生活情報センター)を見る。関連して、沖縄タイムス出版部が編集し琉球銀行が発行した『あんやたん-沖縄、写真が語る50年』(1995年9月)、『時の謡人の譜・街の紋-山田實写真50年』(2003年1月)を見る。

平凡社の1963年3月の『月刊百科』は「『PR誌』-機能・沿革と現状」、1968年3月の『月刊百科』には勝連哲治「沖縄の経済」が載っている。1970年から日本メール・オーダー社から出はじめた『アルファ大世界百科』と、1972年版の平凡社『世界大百科事典』が手元にある。南方熊楠や末吉麦門冬を単に博覧強記の人として片付ける嫌いがあるが、今はネットの時代である。熊楠や麦門冬が人を喜ばせるために書いた情熱はネット空間でますます輝くであろう。

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Category: 02-関西の沖縄
Posted by: ryubun02
  9月21日付けの『日刊ゲンダイ』にウィキリークスが暴露と題し「2010年に前原誠司(1962年4月生まれ、京都市出身)国交相(兼沖縄担当相)がキャンベル国務次官補と会合したとき、『普天間移設問題で鍵を握るのは北沢防衛大臣だ。なぜなら、普天間の安保上の重要性を判断できる専門知識は防衛省だけが持っている』と話し、当事者だった鳩山首相をタナ上げして、外交交渉の相手に手の内をさらしているのだから世話はない。また『小沢氏は相手によって発言を変えるから気を付ける必要がある』などと注意を促していたという」、その記事のタイトルは、「前原!お前はアメリカの工作員か、やっぱり米国のイヌだった」。

前原誠司の選挙地盤である京都で琉球民謡を聞く
9月25日13時00分の京都教育文化センターで「琉球民謡伝統協会京都支部三周年芸能発表会」に新城あけみが舞踊で参加するというので、お供で同行する。7時前に自宅を出る。JR河内永和駅から京橋。京阪で三条駅に8時15分着。駅を出て直ぐの檀王法林寺の前で新城あけみを立たせて写真を撮る。この寺はエイサーの元祖といわれる袋中上人によって開かれた400年の歴史を誇る浄土宗の寺。
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会場に9時着。新城あけみは準備のため会場に残る。私は午後1時まで会場周辺を散策。大文字山を眺めながら歩くと山伏の総本山、聖護院門跡がある。交通神社、泉徳寺、錦林小学校の塀にゴーヤーがあったが実は破裂し赤くなっていた。平安神宮の前を通って京都府立図書館に寄る。入口に二宮金次郎胸像がある。図書館ではチラシの「府立図書館『岡崎』百年の歩みー湯浅館長編」「府立図書館が所蔵している まるごと一冊、竹久夢二の本」「府立図書館『岡崎』百年の歩みからー岡崎公園編」「当館の所蔵資料から 京都に関する本~通史編」「当館の所蔵資料から 京都に関する本~入門編」「当館の所蔵資料から 京都に関する本~年表・史資料編」などを入手する。

□1910年7月、伊波普猷は関西において比較的規模の狭小なる奈良県立図書館を視察し、湯浅京都図書館長のアドバイスを受けて沖縄県立沖縄図書館の図案を調製し其の筋へ提出したと、新聞に報じられた。私は、2008年5月8日に奈良県立図書情報館を初めて訪ねた。2Fで「Yahoo!」と「Google」の日本、アメリカでのサービス開始時期をみる。いずれも1990年代である。3Fで司書の人をわずらわして同図書情報館の前身で1909年に開館した奈良県立図書館の建物の写真を調べた。建物は戦後も図書館として使われたが、奈良県文化会館・図書館建設にともない。大和郡山城内に移築された。図書情報館の帰途、郡山城を訪ね、旧図書館の建物が今も健在で教育施設になっている。初期のころの奈良県立図書館長は奈良県内務部長が兼任していて、初代館長が小原新三、2代目が川越壮介であった。川越はのちに沖縄県知事となる。伊波普猷がアドバイスを受けた湯浅京都図書館長は湯浅吉郎(半月)といい明治・大正期の一流の文化人であったことは、1998年10月発行の京都府立『総合資料館だより』に詳しい。1909年4月に京都府立図書館の新館が岡崎に開館した。設計者は武田五一で湯浅館長は早くから児童閲覧室を設けていた。

知恩院の国宝の山門(高さ24メートル、幅50メートル、木造の門としては日本最大)が見えるので立ち寄る。知恩院は、全国に7000余の寺院を擁する浄土宗の総本山。法然上人が晩年住まわれ、念仏の教えを説かれた寺という。江戸時代、元和7年(1621)、二代将軍徳川家忠が三門を建立、また寛永16年(1639)に徳川家光公が御影堂を建立するなどし、現在の寺が形づくられている。

午後1時開演。1番目に琉球民謡伝統協会参加者全員の「いちんかりゆし」「鷲ぬ鳥」合奏、2番が京都支部メンバーが「安里屋ユンタ」「安波節」、3番が新城あけみなどの柳豊会・大城奈津子琉舞太鼓研究所の舞踊「いちんかりゆし」。4番が大阪支部による「流れ雲」「ハワイ節」合奏。6番が上間順子琉舞研究所の琉舞「上り口説」などが第一部であった。第二部は大城奈津子琉舞太鼓研究所の舞踊「安里屋ユンタ」「繁盛節」で新城あけみの出番が終わったので4時まで二条通りの古本屋に行き『聖徳太子と四天王寺』(1971年)、1961年の『昴宿』俳句会記録を購入。会場に新城あけみを迎える途中、天理教川原町大教会の大ソテツを撮る。

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右ー新城あけみ

 今日29日は日中国交正常化の日、1972(昭和47)年、日本と中華人民共和国との間の国交正常化共同声明(日中共同声明)の調印式が北京で行われ、田中角栄、周恩来両首相が署名した。靱公園に行くと右翼団体が日の丸を持ち、乳母車の女性で子連れも居て全く緊張感が無い。先頭には大きな日の丸。女性3人を含む50人ぐらいで中国総領事館に行くのであろう。警官が10名余公園入り口に立っていた。右翼団体の活動は実話雑誌などでヤクザ団体(とにかく大阪は彼方此方にヤクザ事務所がある)と共によく紹介されている。日の丸集団と言えば1週間前も中之島公園で百人ぐらいが夫々日の丸の小旗を持ち「花王に対し不買運動を行いましょう」「フジテレビ偏向」を叫んでいた。二つの団体が共通しているのは嫌中、嫌韓だろう。自分の嫌米を棚にあげ言うのもなんだが、反核・反原発という未来志向の運動のほうが健康的である。

ユリ科のヤブランやフイリヤブラン(斑入り薮蘭) の紫色の花が穂状に咲き乱れている靱公園の一角の(財)大阪科技術センター(五代友厚屋敷跡)をのぞいた。入ってすぐのところに原発の宣伝コーナーがまだある。関西原子力懇談会が編集発行している「ルミナス」には小浜市に伝わる伝統工芸とか、若狭のならわし、大半は教えて原子力、エネルギーセミナー、低レベル放射能廃棄物を安全に埋設し、長期にわたって管理することで、人と環境を守り続けます!(最近このテレビ宣伝はやってないな)、先進的な研究に取り組む京都大学原子炉実験所、20億年前にも原子炉があった!などが記されている。ほかに若狭越前マップ、越前若狭、美浜町、おおい町の観光パンフがあった。原発展示場には今も続いている東日本原発大事故 には触れていないが、関西電力の「東京電力福島第一原子力発電所事故等を踏まえた更なる安全性向上対策について」のチラシがある。まあ、とにかくその優秀な科学技術を駆使し一日も早く今だに行方不明の人の捜索が続く東北の原発事故を終息させ、原発や節電の無い明るい未来を作ってほしいものだ。
 

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