Category: 02-関西の沖縄
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近鉄○2015年(平成27年)4月1日に、これまでの(旧)近畿日本鉄道を近鉄グループホールディングスに社名変更した上で、会社分割により鉄軌道事業を近畿日本鉄道分割準備(2014年4月20日設立)に、不動産事業を近鉄不動産に、ホテル・旅館事業を近鉄ホテルシステムズ、流通事業を近鉄リテールサービスにそれぞれ継承させ、持株会社制に移行した。鉄軌道事業を継承した近畿日本鉄道分割準備は(新)近畿日本鉄道に社名変更し、近鉄グループホールディングス傘下の事業会社となった。


1991年12月 季刊『食・№42』桑原守也「近畿文化会と近鉄資料室」

近鉄資料室


京都駅八条口近鉄名店街/紅屋

寮は南区/近鉄京都駅の近鉄名店街京風喫茶「紅屋」が職場 寮近くの通り、正面に見えるのが新幹線京都駅
  
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1973年、上の沖縄タイムスの記事をみて、京都駅近鉄名店街の「紅屋」に石川氏が訪ねてきた。後日、一燈園に石川氏を訪ねて歓談した。


左が石川洋氏、新城榮徳

○1993年9月、新宮市を訪ね、徐福の墓、神倉神社、熊野速玉大社を参拝。新宮図書館で熊野特修『熊野誌』37号を入手、中瀬さんは「南方熊楠・母すみの日記」を書かれていた。旧知の元沖縄都ホテル社長で熊野人の桑原守也さんが「私の熊野ショックー古道・熊楠・沖縄」と題し「南西諸島の島々に熊野分社が十社もあるのは潮流による文化の交流によるためであろうが、那智からの渡海上人といわれた日秀上人は琉球王朝の帰依をうけ又、京都三条駅前の法林寺の住職となった袋中上人は、有名な琉球神道記を残している。浄土宗の流布がこの地に熊野信仰を広めたものであろう」と書かれている。桑原さんとは私の息子の自宅から二駅先の駅がご自宅なので、大阪に行くと、いつも近鉄資料室、袋中上人のゆかりの地、京都の古書展などに同行している。

沖縄都ホテルで新城栄徳と桑原守也氏

 

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1980年6月 雑誌『青い海』94号 「広告ー岡本太郎の世界ー芸術は爆発だ。-」

1980年7月 沖縄山形屋設立30周年記念『芸術は爆発だー岡本太郎の世界』


宮﨑義敬『繚乱の人』展望社よりーサントリー美術館で中央に平良リヱ子、左に森政三、右に岡本太郎、鎌倉芳太郎,金井喜久子、矢野克子が並ぶ

『新沖縄文学』と岡本太郎
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超タイフー「タロウ」オキナワに上陸か


山田實撮影1963-浜田庄司と豊平良顕/1966-岡本太郎

2008年4月ー川崎市市民ミュージアム「オキナワ/カワサキー二つの地をつなぐ人と文化」展
□ごあいさつ・川崎市には戦前から多くの沖縄出身者が在住し、川崎市の産業発展の一翼を担われてきました。大正13(1924)年の発足から84年という長い歴史を有し、戦後すぐから沖縄芸能の保存にも大きく貢献してきました。

川崎市出身の陶芸家・濱田庄司や詩人・佐藤惣之助などは、沖縄の文化と深い関わりを持ったことが知られています。濱田庄司は、自身の作風を確立する上で、沖縄の壺屋の焼物だけでなく、沖縄の風土・生活様式から大きな影響を受けました。佐藤惣之助も沖縄に魅せられた一人で、「おもろさうし」などに刺激され、詩集を出版しています。戦後には、岡本太郎が占領下の沖縄を訪れ、その文化と伝統に触れて強い衝撃を受けています。このように、川崎と沖縄のつながりはきわめて深いものがあり、市民ミュージアムにも壺屋焼の陶器や琉球政府から贈られた石敢当などの沖縄関連資料が収蔵されています。 

そこで本展では、沖縄と川崎、この二つの地のつながりをテーマに、沖縄の伝統的な芸術文化を伝える資料と、それらに影響を受けて創造された美術工芸品などを紹介します。琉球文化の美と魅力に触れていただき、人々の手で長年にわたり築きあげられてきた沖縄と川崎の絆を感じ取っていただけば幸いです。  川崎市市民ミュージアム

□川崎市出身の芸術家と沖縄・佐藤惣之助と沖縄/濱田庄司と沖縄/岡田青慶と沖縄/岡信孝と沖縄/岡本太郎と沖縄
□川崎の工場と沖縄県出身労働者
1966年1月10日ー『琉球新報』「川崎市でビル火災ー沖縄出身者4人が焼死」
1968年1月5日ー『毎日グラフ』「本土の中の沖縄(南風サークル/大城真栄/普久原朝喜/金城良明)」「万国博へ全力投球(岡本太郎「抵抗あるものを」)」
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1969年12月30日ー『沖縄タイムス』真栄田義見「古江亮仁(川崎民家園長)氏と語る」
1983年2月10日ー『琉球新報』「川崎の沖縄県人 70年の歩みー2年がかりで完成」、11日ー『沖縄タイムス』「県人の苦難の歴史綴る『七十年の歩み』出版」
1983年8月1日ー『沖縄タイムス』「川崎沖縄青少年京浜会館」「川崎沖縄県人会」
1984年2月11日ー『琉球新報』福地嚝昭「女工哀史(関東大震災)ー富士瓦斯紡績川崎工場の名簿について」
1984年
10月19・20日ー川崎市立労働会館で川崎市制60周年記念「全国地名シンポジウム」開かれる。□谷川健一/仲松弥秀対談「沖縄地名の特色」、山下欣一「奄美のシャーマニズム」、宮田登「ミロク信仰と黒潮」
10月26日ー『琉球新報』「黒潮の流れに沿って 南島と本土の交流史探る」、『沖縄タイムス』「黒潮の流れに沿って沖縄・奄美と川崎結ぶ」「話題ー古江亮仁さんー1957年には県人の古波津英興氏とはかって沖縄文化同好会を作る。月一回、東恩納寛惇(歴史)、比嘉春潮(同)、仲原善忠(同)、芹沢圭介(紅型)、濱田庄司(陶芸)、柳悦孝(織物)等々多彩な沖縄研究者を講師に文化の灯をともした。土地問題で沖縄の大衆運動が燃えていた。」

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 1972年11月、沖青友の会機関誌『石の声』10号を出して休刊した。この頃から、それぞれが結婚し、子育てに忙しく沖青友の会も役目を終える。1975年1月26日に、新たな関西沖縄青少年の集い「がじゅまるの会」(会長・玉城利則)発足。大阪沖縄会館での発会式には、青年会のOBということで私も参加した。9月には機関誌『がじゅまる』が創刊された。歴史はくりかえすという事であろうか。
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写真左上ー1969年4月20日ー大阪城公園で「沖青友の会」発足。機関誌『石の声』
写真左下ー1975年1月26日ー大阪沖縄会館で、がじゅまるの会発足。左端、新城栄徳(元沖青友の会)。
写真右上ー1996年12月7日/大阪・大正駅前「居酒屋ゆんた」で、左から金城勇(演劇「人類館」上演を実現させたい会)、息子、諸見里芳美(演劇「人類館」上演を実現させたい会)、仲間恵子(大阪人権博物館学芸員)、崎浜盛喜(奈良沖縄県人会副会長)、右端がゆんた主人の玉城利則(関西沖縄青少年の集い「がじゅまるの会」初代会長。1981年、『ハイサイおきなわ』編集人、発行人は嘉手川重義(現大阪沖縄県人会連合会長)と夫人、真ん中の女性はお客さん。撮影・新城栄徳/(下)1996年12月8日/大阪港区・池島保育園(近鉄の野茂英雄投手も同園出身)階上で、左より西平久子、西平守晴夫妻、娘、後に息子。撮影・新城栄徳



1975年9月ー関西沖縄青少年の集い・がじゅまるの会機関誌『がじゅまる』創刊号
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1971年9月 沖縄の雑誌『青い海』6号 国吉真哲「貘さんの<沖縄の青春>」 


写真下は1925年8月16日、貘2度目の上京前に後列左から又吉康和、国吉真哲、国吉真才、一人置いて貘
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写真ー1958年・前列左から末吉安久、不詳、国吉真哲、南風原朝光、不詳、山之口貘

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1911年11月『琉球新報』□「蔡氏九世忠義録ー尚豊王御即位マデ七場ニ仕組ミ大道具仕掛ニテ開演可仕候ー」


1912年5月『沖縄毎日新聞』「中座 琉球史劇 楚辺暗川ー琉球音楽ノ祖先 赤犬子」


1912年5月20日『琉球新報』

1913年10月6日ー大阪道頓堀浪花座で「百合子」劇が開演、百合子役に川上貞奴。来阪中の眞境名安規(桂月)が琉球踊りアヤグを指導。


1913年10月15日ー那覇の香靄座、大阪杉本商会特約で活動写真常設館「パリー館」開設
1917年4月『琉球新報』□沖縄師範旅行たよりー午前8時、軽装して比叡山登りの道すがら、本能寺の信長墓を弔った。五尺ばかりの石塔で手向ける人とてもなくあはれ物寂しい。御所を拝して大学の裏道より、田圃の間にいで右に吉田の山を見つつ銀閣寺にいった。庭園の美、泉石の趣、形容も及び難いが義政将軍風流三昧をつくしたところかと思うと折角の美景も興がさめてしまう。狩野元信の筆や、弘法大師の書などは珍しいものである。ここから大文字山の森の下道を通ってその名もゆかしい大原白河口に出た。比叡山の登り口である。流汗淋満として瀧なす泉に咽喉を濕し息もたえだえに登ると境は益々幽邃である。ラスキンが山を讃美して、宗教家には聖光を付与す・・・。



1914年3月1日ー那覇区字東仲毛で「常設活動写真帝国館」開館

1914年3月 那覇の常設活動写真帝国館で「百合子」上映


1914年4月 「米国海軍水雷演習」


1914年6月『琉球新報』



1914年10月『琉球新報』


1916年6月16日『琉球新報』

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1919年ー京都都踊りで琉球太鼓踊りー1995年1月19日『琉球新報』「人気あった琉球の太鼓踊りー大正8年 京都の都おどりで」/下はその時の絵葉書、左が巴紋の幕の前で万国旗をかざす踊子たち。右が太鼓踊り
□1919年3月12日『日出新聞』「都踊ー『今紫四季栄』平和踊・御越わん、里前御扶齎したぼれエイヤヨヌ平和の日(ひゃるがひー)ー」


1923年12月ー赤琉會(日本労働総同盟予備軍倶楽部)発足
1924年3月ー関西沖縄県人會機関誌『同胞』創刊


大阪人権歴史資料館の学芸員・仲間恵子が1994年6月『季刊・リバティ』に「関西沖縄県人会機関誌『同胞』創刊号ー関西に生きるウチナーンチュ(沖縄人)の第一歩ー」と題して『同胞』を翻刻、紹介している。2003年3月の『水平社博物館研究紀要』第五号にも仲間は「1920年代の在阪沖縄青年の運動」と題し『同胞』を紹介している。『同胞』は「沖縄県人同胞会」の機関誌として1924年3月に大阪市北区西野田吉野町で発行された。『同胞』は五号を数えると謄写版刷からタブロイド版印刷となった。


1924年5月ー真栄田三益らが中心となって日本労働総同盟予備軍倶楽部(赤琉会)を結成。大阪市電、私鉄の労働争議の応援などに旗を持って参加。大阪天王寺公園でー大阪のメーデーに参加した関西沖縄県人会の活動家。前列右から2人目が上里春生、4人目が眞榮田三益、その後が眞榮田之璞、後列右の旗手は宜保為貞


1925年  前列右から2人目が阿波連之智、4人目が眞榮田之璞、前列左から2人目が浦崎康壮、後列右端が浦崎康慶、3人目が眞榮田三益


写真右・松本(真栄田)三益さん、新城榮徳
真栄田一郎については安仁屋政昭氏が『沖縄大百科事典』に詳細に記しておられる。林世功の一族である。本名は之璞、写真はその墓の前で左から姪の上原美津子、池宮城秀意、瀬長亀次郎、城間得栄(国吉真哲撮影)。右は国家権力により弾圧された真栄田一郎の遺体写真(国吉真哲撮影)。真栄田家・8世は世佐、9世が傳詩、10世が正隆で一郎はその4男。兄に之琛(真栄田勝朗)、之璟、之か、姉の冬子(まかと)は伊波普猷の妻。関西沖縄県人会、沖縄人連盟を組織した真栄田(松本)三益は親戚である。

1933年5月ー『琉球新報』桑江常格□同志前田一郎を悼む/歴史上の一人物としてー(略)同志前田は理論家ではなかった。彼の長所は頭の中で理論をデッチ上げるのではなくして自身の信ずるところを行動において現すところにあった。(略)彼が16、7歳のころから沖縄のアナーキストたちと行動を共にし後にマルクス主義に転向して大正13年から14年にかけての関西沖縄県人会草創期を経て××党沖縄支部結成時代から死ぬまでの彼の行動の中によく現れている。彼がマルクス主義者としての活動は大正14年の春に当時関西沖縄県人会の仕事をしていた真栄田三益の紹介で県人会事務所に来たときから始まる」

nullnull写真ー左・松本(真栄田)三益さん、右・新城栄徳と真栄田三益さん

浦崎康華『逆流の中でー近代沖縄社会運動史』(沖縄タイムス社1977年11月)
『同胞』を詳細に紹介した最初の本は、浦崎康華『逆流の中でー近代沖縄社会運動史』(沖縄タイムス社1977年11月)である。浦崎翁は関西沖縄県人会の創立メンバーで当時を知る有力な人物である。私は1982年5月に浦崎翁を那覇市泊に訪ねて、関西沖縄青年の運動のことを聞いた。浦崎翁は社会運動だけでなく文化全般に通じている。前出の著は国吉真哲翁の序文がある。偶然なことに私は浦崎翁から国吉翁も紹介されることになる。


浦崎康華『逆流の中でー近代沖縄社会運動史』(沖縄タイムス社1977年11月)
〇国吉真哲□序ー沖縄は慶長年間のの薩摩の武力侵入にはじまり、明治政府の琉球処分、それに第二次世界大戦によるアメリカの軍事占領と大きな惨禍と犠牲を強いられてきた。明治政府の沖縄に対する植民地政策により明治、大正をつうじて沖縄のこうむった打撃は大きく、明治末年には首里、那覇の中産階級はほとんど凋落し、地方農村も荒廃し沖縄人の生活は窮乏のどん底になげこまれた。ことに明治政府は日清、日露と二度にもわたって戦争を強行し大正に入ってからは第一次世界大戦が1914年(大正3年)8には米騒動が起こって全国的に波及し社会不安が高まって行った。浦崎氏の思想運動・社会運動への出発もこのあたりから始まっている。(略)
沖縄の第一回メーデーは1921年(大正10年)5月1日に行われている。中央メーデーに、わずか1年おくれて行われていることは沖縄の置かれている地位が中央の政治的、社会的諸条件に類似するためであろう。メーデーは無政府主義者の城田徳隆らと社会主義者の山田有幹らの共催によるものであるが、このころはまだアナーキズムとボルシェヴィーズムの対立は生じてなかったようだ。

〇浦崎康華□うるわしい同志愛ー沖縄の初期社会運動家はみんな童名をもっていた。特に首里、那覇出身は本名(名乗)はあまり用いないで、泉正重はカマデー、伊是名朝義はヤマー、座安盛徳はカミジュー、辺野喜英長はマツー、城間康昌はジルー、渡久地政憑はサンルー、東恩納寛敷はタルー、宜保為貞はサンルー、阿波連之智はカミー、松本三益はタルー、比嘉良児はサンルーといった。相手が年長であればヤッチー(兄)をつけてマツー・ヤッチー(マツー兄)と呼んでいたので、非常になごやかで同志愛で結ばれていた。ときにはアナ・ボル論争もあることはあったが目くじらを立てて口論することはなかったし、みんな生存中の友好関係は変わらなかった。われわれからいえばソ連や中国などで、ときどき起こる指導権争いや権力闘争に類したようなことは全くなかった。これは社会運動の分野ばかりでなく新聞人同志もそうであった。
1923年9月1日 関東大震災
この年 普久原朝喜、来阪
1926年10月 沖縄県大阪物産斡旋所設置
1927年3月 宮城清市、来阪
1929年4月4日 照屋林助、大阪で生まれる

1935年5月 大正区沖縄県人会結成(宮城清市会長)
この頃、嘉手苅林昌来阪
1935年8月 『関西沖縄興信名鑑』刊
1937年 大里喜誠、彦根高等商業学校(現滋賀大学)卒業
1937年7月25日 『大阪球陽新報』創刊/8月 親泊康永、大阪球陽新報東京支局長
この頃 知名定繁、来阪し普久原朝喜に民謡、又吉栄義に古典音楽を学ぶ
1938年3月 大阪球陽新報主催「書画展覧会」都島幼稚園。山城正忠来阪
1939年  比嘉恒敏、大阪の「大阪発動機」に単身で就職。1944年、父恒徳、母ジル、長男恒啓を対馬丸で亡くす。1945年、妻光子、次男恒次を大阪大空襲で亡くす→2015年10月10日 仲松昌次『「艦砲ぬ喰ぇー残さー」物語ー「でいご娘」と父・比嘉恒敏が歩んだ沖縄』ボーダーインク

1939年5月30日 大阪港区市岡会館で
1939年12月1日『大阪球陽新報』「14日・市岡会館で本社主催ー演劇と舞踊の夕ー組踊・執心鐘入」

1940年2月1日『大阪球陽新報』「2月10日より戎座ー戎座扇子家玉四郎一座・伊集、野村、良順、蘭繁合同ー日支風雲録、八重山アカハチ、上リ口説、花風、仲里節、鳩間節、下リ口説、萬歳、下千鳥節、いりしな節、天川、戻リ駕、その他数番」

1940年3月1日『大阪球陽新報』「2月15日から梅田映画劇場で日劇ダンシング・チームによる”楽しき日劇”上演、琉球おどり」

1940年4月1日『大阪球陽新報』「伊波南哲原作・八重山レビウ、3月に横浜宝塚劇場で上演、4月1日から20日間丸の内日本劇場で上演」

1940年6月1日『大阪球陽新報』「戎座の陣容強化ー5月1日旗上興行以来、比嘉正義、多嘉良朝成・カナ子夫妻、我如古彌栄・やす子親子等16名の一座」

1940年10月15日『大阪球陽新報』緑葉生「日劇に於ける新垣澄子の踊り」「24日・西区岡島会館ー関西球陽会後援ー島晴美舞踊公演ー琉球民謡に新しく振付けした花笠踊、美しき風景、ふるさとの唄3種は鳩間節、ションガネ、瓦屋節、浜千鳥節を取材新作したもの」「戎座の郷土芝居に仲井間盛良加入」

1940年11月8日『沖縄日報』

1941年5月7日ー舞踊家・玉城節子、那覇辻町で生まれる。3ヶ月目に父・友盛の仕事で大阪へ。(1946年、帰沖し石川市に住む) 

パリー館「アルジェリア カンタラの風景」


 

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  9月21日付けの『日刊ゲンダイ』にウィキリークスが暴露と題し「2010年に前原誠司(1962年4月生まれ、京都市出身)国交相(兼沖縄担当相)がキャンベル国務次官補と会合したとき、『普天間移設問題で鍵を握るのは北沢防衛大臣だ。なぜなら、普天間の安保上の重要性を判断できる専門知識は防衛省だけが持っている』と話し、当事者だった鳩山首相をタナ上げして、外交交渉の相手に手の内をさらしているのだから世話はない。また『小沢氏は相手によって発言を変えるから気を付ける必要がある』などと注意を促していたという」、その記事のタイトルは、「前原!お前はアメリカの工作員か、やっぱり米国のイヌだった」。

前原誠司の選挙地盤である京都で琉球民謡を聞く
9月25日13時00分の京都教育文化センターで「琉球民謡伝統協会京都支部三周年芸能発表会」に新城あけみが舞踊で参加するというので、お供で同行する。7時前に自宅を出る。JR河内永和駅から京橋。京阪で三条駅に8時15分着。駅を出て直ぐの檀王法林寺の前で新城あけみを立たせて写真を撮る。この寺はエイサーの元祖といわれる袋中上人によって開かれた400年の歴史を誇る浄土宗の寺。
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会場に9時着。新城あけみは準備のため会場に残る。私は午後1時まで会場周辺を散策。大文字山を眺めながら歩くと山伏の総本山、聖護院門跡がある。交通神社、泉徳寺、錦林小学校の塀にゴーヤーがあったが実は破裂し赤くなっていた。平安神宮の前を通って京都府立図書館に寄る。入口に二宮金次郎胸像がある。図書館ではチラシの「府立図書館『岡崎』百年の歩みー湯浅館長編」「府立図書館が所蔵している まるごと一冊、竹久夢二の本」「府立図書館『岡崎』百年の歩みからー岡崎公園編」「当館の所蔵資料から 京都に関する本~通史編」「当館の所蔵資料から 京都に関する本~入門編」「当館の所蔵資料から 京都に関する本~年表・史資料編」などを入手する。  

知恩院の国宝の山門(高さ24メートル、幅50メートル、木造の門としては日本最大)が見えるので立ち寄る。知恩院は、全国に7000余の寺院を擁する浄土宗の総本山。法然上人が晩年住まわれ、念仏の教えを説かれた寺という。江戸時代、元和7年(1621)、二代将軍徳川家忠が三門を建立、また寛永16年(1639)に徳川家光公が御影堂を建立するなどし、現在の寺が形づくられている。

午後1時開演。1番目に琉球民謡伝統協会参加者全員の「いちんかりゆし」「鷲ぬ鳥」合奏、2番が京都支部メンバーが「安里屋ユンタ」「安波節」、3番が新城あけみなどの柳豊会・大城奈津子琉舞太鼓研究所の舞踊「いちんかりゆし」。4番が大阪支部による「流れ雲」「ハワイ節」合奏。6番が上間順子琉舞研究所の琉舞「上り口説」などが第一部であった。第二部は大城奈津子琉舞太鼓研究所の舞踊「安里屋ユンタ」「繁盛節」で新城あけみの出番が終わったので4時まで二条通りの古本屋に行き『聖徳太子と四天王寺』(1971年)、1961年の『昴宿』俳句会記録を購入。会場に新城あけみを迎える途中、天理教川原町大教会の大ソテツを撮る。

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右ー新城あけみ

 今日29日は日中国交正常化の日、1972(昭和47)年、日本と中華人民共和国との間の国交正常化共同声明(日中共同声明)の調印式が北京で行われ、田中角栄、周恩来両首相が署名した。靱公園に行くと右翼団体が日の丸を持ち、乳母車の女性で子連れも居て全く緊張感が無い。先頭には大きな日の丸。女性3人を含む50人ぐらいで中国総領事館に行くのであろう。警官が10名余公園入り口に立っていた。右翼団体の活動は実話雑誌などでヤクザ団体(とにかく大阪は彼方此方にヤクザ事務所がある)と共によく紹介されている。日の丸集団と言えば1週間前も中之島公園で百人ぐらいが夫々日の丸の小旗を持ち「花王に対し不買運動を行いましょう」「フジテレビ偏向」を叫んでいた。二つの団体が共通しているのは嫌中、嫌韓だろう。自分の嫌米を棚にあげ言うのもなんだが、反核・反原発という未来志向の運動のほうが健康的である。

ユリ科のヤブランやフイリヤブラン(斑入り薮蘭) の紫色の花が穂状に咲き乱れている靱公園の一角の(財)大阪科技術センター(五代友厚屋敷跡)をのぞいた。入ってすぐのところに原発の宣伝コーナーがまだある。関西原子力懇談会が編集発行している「ルミナス」には小浜市に伝わる伝統工芸とか、若狭のならわし、大半は教えて原子力、エネルギーセミナー、低レベル放射能廃棄物を安全に埋設し、長期にわたって管理することで、人と環境を守り続けます!(最近このテレビ宣伝はやってないな)、先進的な研究に取り組む京都大学原子炉実験所、20億年前にも原子炉があった!などが記されている。ほかに若狭越前マップ、越前若狭、美浜町、おおい町の観光パンフがあった。原発展示場には今も続いている東日本原発大事故 には触れていないが、関西電力の「東京電力福島第一原子力発電所事故等を踏まえた更なる安全性向上対策について」のチラシがある。まあ、とにかくその優秀な科学技術を駆使し一日も早く今だに行方不明の人の捜索が続く東北の原発事故を終息させ、原発や節電の無い明るい未来を作ってほしいものだ。
 

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 1894年2月、那覇の南陽館で第8回九州沖縄八県連合共進会が開催された。5月、沖縄尋常中学校生徒(伊波普猷、真境名安興、渡久地政瑚ら)が下国良之助教頭の引率で関西に修学旅行。下国は20歳のとき滋賀の学校に勤めていて中井弘①の薫陶も受けているので関西には知人が多く、どこでも歓迎された。京都滞在中に学生数人は六孫王神社②を訪ねて、天保三年の江戸上りの時に正使が奉納した額を書き写している。

1894年5月20日『日出新聞』

②六孫王神社
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大城弘明氏撮影

□六孫王は、清和天皇の六男を父として生まれ、経基と名づけられたが、皇室では六男の六と天皇の孫ということで六孫王と呼ばれていた。十五才にて元服、源の姓を賜わり、先例に従い臣籍に加えられたとある。承平・天慶の乱に東国・西国の追討使を承り、現地に赴き凱旋の後、鎮守府将軍に任じられた。王は現在の社地に住居を構え、臨終に臨み「霊魂滅するとも龍(神)となり西八条の池に住みて子孫の繁栄を祈るゆえにこの地に葬れ」と遺言された。王の長子満仲公は遺骸を当地に埋葬され(本殿後方に石積の神廟がある)その前に社殿を築いたのが、六孫王神社の始まりである。(平安時代中期)
 境内中央の池を神龍池といい、その側に満仲誕生のおり井戸上に琵琶湖の竹生島より弁財天を勧請し、安産を祈願し産湯に使ったと云う、誕生水弁財天社がある。(6月13日弁財天御開帳祭)
 江戸時代五代将軍綱吉の時代に現在の本殿・拝殿等建物が再建された。毎年十月体育の日に例祭(再興が元禄より始まり宝永年間に完成したゆえ別名“宝永祭”とも謂われる)が行われる。
 王の後裔には源義家・頼光・頼政・木曽義仲・頼朝等、また足利・新田・細川・島津・山名・今川・明智・小笠原・徳川等の武将が多数輩出され、それぞれ子孫繁栄されている。
 昔は、六ノ宮権現とも呼ばれ、今昔物語に「六の宮」それを基に芥川龍之介が「六の宮の姫君」にも載せている。小泉八雲著の「怪談」には、「弁天の同情」と題して不思議な夫婦の出会いの話が紹介されている。

「小泉八雲」2005年5月 新城良一・編『ビジュアル版 日本・琉球の文明開化ー異国船来航の系譜』天久海洋文学散歩会



1909年4月『琉球新報』□師範中学旅行生の消息ー4月6日、火曜日、神戸、京都 午前9時半汽車にて神戸駅を発し12時京都に着。直ちに東本願寺に参詣致し建築の壮大な に驚き入り候。これより途中耳塚を右に見立て豊国神社に詣で旧伏見桃山殿の唐門大仏殿、国家安康の大鐘を見て博物館に入り歴史美術上の珍品に知囊を養い三十三間堂を経て桃山御殿に詣で血天井を見。妙法院西大谷を過ぎて清水寺に詣で候・・・。

1917年4月『琉球新報』□沖縄師範旅行たよりー午前8時、軽装して比叡山登りの道すがら、本能寺の信長墓を弔った。五尺ばかりの石塔で手向ける人とてもなくあはれ物寂しい。御所を拝して大学の裏道より、田圃の間にいで右に吉田の山を見つつ銀閣寺にいった。庭園の美、泉石の趣、形容も及び難いが義政将軍風流三昧をつくしたところかと思うと折角の美景も興がさめてしまう。狩野元信の筆や、弘法大師の書などは珍しいものである。ここから大文字山の森の下道を通ってその名もゆかしい大原白河口に出た。比叡山の登り口である。流汗淋満として瀧なす泉に咽喉を濕し息もたえだえに登ると境は益々幽邃である。ラスキンが山を讃美して、宗教家には聖光を付与す・・・。


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Category: 02-関西の沖縄
Posted by: ryubun02
袋中上人
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1938年3月ー檀王法林寺『袋中上人餘光』/寧王院袋中寺、念仏者
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1936年3月ー檀王法林寺『琉球と袋中上人』/1936年3月ー写真上・正面・信ヶ原良哉僧正、写真下・正面・尚順男爵(1958年再版)
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1988年4月ー京都国立博物館『袋中上人と檀王法林寺』/『琉球神道記』、袋中上人像

袋中上人の資料

1918年5月27付の南方熊楠宛の末吉安恭書簡に「(略)この根抜けざることは、間々聞き候が、何に因し候や。右の袋中上人には、更に『琉球往来記』と申す書これあるやに承り候が、御存知なきや。若し御存知にて候はば、其の本の所在御示し下され度候。沖縄図書館にて琉球に関する書類を集め中に候が、加州金沢の俳人堀田麦水(天明3年63才没)の著書に『琉球属和録』『南島変』『慶長中外伝』(66巻)とあり。御存知なきや。「属和録」は写本にて(欠本)1部沖縄図書館にあれど他はこれなく候。加州金沢の俳人堀田麦水。屈麦水と称す。樗庵、暮柳舎と号、通称池田屋長佐衛門。」新城■麦水というのは角川『俳文学大辞典』に俳諧師・稗史実録作者とある。

1922年4月22日『沖縄タイムス』に莫夢生(末吉安恭)が「詫遊は神舞」と題し次のように書いている。□私は宮古の神舞は(沖縄)本島の上代にあった詫遊の神舞と同じものであると云った。即ち神舞に出づる女人達の扮装の異形なるは袋中のいわゆる龍宮様ではないか。龍宮との関係も宮古の伝説にはよく現れている。あるいはまた宮古の「あやぐ」もこれから出たものであろうとも思う。(沖縄)本島内にある「しのぐ」も、その由来するところはここにあるのではないかと思うのである。

1966年12月10日『琉球新報』大島彦信(浄土宗名越大本山円通寺住職)「大沢文庫と沖縄<7>」□袋中上人は、当時伏見で掛川の城主松平隠岐守定勝の特別の帰依をうけて師権の契約を結んでいるが、その嫡子越中守定綱は後の松平定信であるが、将軍秀忠に随従して特別の信頼を受けて名声がたかかった。時の京都所司代板倉重宗を上人に紹介して特信者としたのもこの定綱である。京都所司代の権威は、当時京都御所ににらみをきかせて他に並ぶものがなかったのである。(略)夢にも考えていなかった上人との対面の機会を与えられて、尚寧王はこれが現実かとばかり感涙し歓喜したことであろう。・・・

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元沖縄都ホテル社長の桑原守也さん、京都西方寺の袋中上人(エイサーの祖)手植えの蘇鉄を前に(新城栄徳撮影) 1994年7月21日、桑原守也さんと連れ立って京都西方寺を訪ねる。住職の北村有信師としばし歓談。頂いた名刺には「うずまさ悟真寺、山城田辺・西方寺、自然幼稚園」とあった。

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京都で琉球民謡を聞く
2011年9月25日13時00分の京都教育文化センターで「琉球民謡伝統協会京都支部三周年芸能発表会」に新城あけみが舞踊で参加するというので、お供で同行する。7時前に自宅を出る。JR河内永和駅から京橋。京阪で三条駅に8時15分着。駅を出て直ぐの檀王法林寺の前で新城あけみを立たせて写真を撮る。この寺はエイサーの元祖といわれる袋中上人によって開かれた400年の歴史を誇る浄土宗の寺。

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Posted by: ryubun02
1956年7月
  『基地沖縄』編集発行人・中山盛徳・大阪市大正区北恩加島町108番地 電話泉尾(55)1584。記者に元『南西新報』(1947年)編集発行人だった富本(阿嘉)繁

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1956年8月11日
 『基地沖縄』第3号/社説「残忍な米軍」、「原水爆禁止世界大会(長崎)沖縄代表の報告」、奥里将建「三味線と蛇皮線」、井伊文子「望郷」
1956年8月21日
  『基地沖縄』第4号/社説「日ソ交渉と沖縄問題」、「原水爆禁止大阪大会」、島尾敏雄「奄美大島の闘牛」
  仲吉良光「富盛大主式のソ連海峡航行案を笑う」、「琉大学生を処分」
1956年9月1日
  『基地沖縄』第5号/社説「警戒せよダレス発言」、仲吉良光「沖縄問題も絡む日ソ交渉」、「沖縄土地取上反対ー尼崎市民大会」、奥里将建「四原則運動と廃藩置県」、「沖縄救援へ全国民的組織の確立ー社会党や労組で決定」
1956年9月11日
  『基地沖縄』第6号/社説「感情的な琉大処分」、「沖縄民主党分裂か」、「最後の勝利を信ずー瀬長亀次郎 沖縄人民党書記長」、石野径一郎「沖縄の木(ガジマル)」、「沖縄問題の解決を期し阪南地区大会ー綱引きの旗頭を持って入場」
1956年9月21日
  『基地沖縄』第7号/社説「米国製の土地問題予備会談」、「北友クラブの要求に比嘉主席屈服」、伊波南哲「おとなしい沖縄人」、憂郷塾「郷土の指導者に訴える」「12号台風襲来ー沖縄本島被害甚大」         
 矢野酉雄「『基地沖縄』紙の大乗的使命」、奥里将建「葱花輦上の尚真王の母后」
1956年10月1日
 『基地沖縄』第8号/社説「四原則運動に一大暗影」、「台風被害深刻」、豊川忠進大阪沖縄県人会連合会会長「会員に告ぐー来る10月6日、大手前会館で沖縄日本復帰大阪連絡協議会の結成大会が開かれます。会員多数参加されるよう御通知いたします」、「矢野克子詩集『梯梧』」、「南方同胞援護会長に澁澤敬三氏」、「米軍酔っ払い乗用車、女学生6人を轢殺」
1956年12月21日
 『基地沖縄』第16号/社説「生命は刻々おびやかされているー知念地区の三叉路の女学生轢殺」、「沖縄の良識をかけた那覇市長選ー繁栄か 永久占領か」、「沖縄総局・大山朝常」、「仲宗根源和の『手紙』一括払いの謀略」
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京都円山公園で中山盛徳(写真提供・仲間恵子)/『琉球新報』1954年8月4日

   
1958年3月13日
 『基地沖縄』第21号/ー沖縄を守る会中央機関紙(発行編集人・宮川寛雄)東京都浜松町3の1
 関西支局・大阪市大淀区浪花町2
 「沖縄を守る会発足ー会長・兼島景毅、副会長・上江洲久、同・玉城義三郎、事務局長・永山盛保」
1958年4月3日
 『基地沖縄』第23号ー沖縄を守る会中央機関紙(編集発行・真喜志康守)東京都港区浜松町3の1

 関西支局・大阪市大淀区浪花町2

1962年4月25日
大正区沖縄県人会機関紙『新沖縄』第1号(編集発行・伊豆味正浩)□「中山盛徳氏ー保険業、元大正区沖縄県人会長・中山盛徳氏は4月1日午後10時心臓麻痺で急逝した。氏は屋部村出身、日本復帰運動の熱心な協力者で故伊江朝助、仲吉良光、神山政良諸先輩に常に蔭の協力者として私財を出資し、昭和32年のプライス勧告反撃、四原則貫徹運動には独力で『基地沖縄』を一ヵ年にわたり発行し、県人を感激せしめた。葬儀は4月3日自宅(堺市南三国丘町3ノ110)で行われたが、悪天候にもかかわらず知名人多数参列、盛儀であった。」


沖縄見つめた亡父の新聞 息子ら5人が“再会”
「基地沖縄」 故中山さん創刊
父である中山盛徳さん発行の「基地沖縄」など関連資料を閲覧する、福永淑子さん(左端)ら5人のきょうだい=10日、那覇市・県立図書
 1950年代、大阪市の大正区沖縄県人会長を務め、沖縄問題を扱った新聞「基地沖縄」の編集発行人だった中山盛徳さん(故人)の長男ら5人が来県し、10日に県立図書館を訪れ、所蔵されていた同紙を閲覧した。長男の弘さん(69)らは、父の思いが込もった新聞を手に取り「これだけ残っているとは思わなかった。父を尊敬する気持ちが新たになった」と感慨深げに語った。(友利仁)

 「基地沖縄」は56年、中山さんが私財を投じて創刊された。全国の県関係者に向けて沖縄の復帰運動などを報じた。新聞紙サイズの表裏2ページで月3回の発行を続けたが、翌年には発行元が東京の「沖縄を守る会」に引き継がれている。

 県立図書館には、第3~25号が所蔵されている(うち9~20号が欠落)。第3号には「残忍な米軍」と題した社説を掲げ、長崎で開かれた原水爆禁止世界大会に沖縄代表として出席した瀬長亀次郎さん(元衆院議員)の発言について取り上げたほか、歌人の井伊文子さんや作家の島尾敏雄さんらが寄稿している。中山さんの長女の福永淑子さん(76)=大阪府高槻市=は「(父は)苦しんでいる人を助けなくてはいられない人だった。仕事も財産もこの運動につぎ込んでいた」と振り返り、配達や集金、全国の読者向けの郵便発送など手伝っていたという。

 弘さんは「創刊翌年の春には家を売り払い堺市に引っ越した。家族は苦労したが、父が情熱を傾けた新聞を目の前にすることができてうれしい」と話した。中山さんの手を離れた「基地沖縄」はその後、発行元と紙名を変えていき、最終的には沖縄返還同盟の機関誌「沖縄事情」へとつながる。

 今回、資料の所在を案内した那覇市の収集家、新城栄徳さん(61)は「政治とは無縁の大阪の地で、正義感を持ったウチナーンチュが個人で始めた新聞。中山氏は新聞から離れた後も、『復帰男』と呼ばれた仲吉良光氏と提携し、復帰運動を後押しし続けた。個人がともした火が組織的な運動へとつながりユニークだ」と話した。

 

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