11/18: 関西のなかの粟国
天神橋筋商店街(てんじんばしすじしょうてんがい)は、大阪市北区にあるアーケード商店街。 南北2.6キロメートル、600店の日本一長い商店街である。天六(天神橋筋六丁目)の阪急の元ターミナルビルが2010年に解体され、その跡地にマンション「ジオタワー天六」が2013年に竣工するという。□→ブログ「十三のいま昔を歩こうーさよなら天六阪急ビル」
大阪環状線都島駅手前の風景
1975年ー粟国小学校から大阪の粟国出身者の子弟が学んだ大阪市立豊崎本庄小学校にソテツ植樹
大阪の天六と言えば今でも粟国島出身者が多い。1988年3月4日の『沖縄タイムス』「ヤマトに生きるー関西沖縄人国記(34)『大阪粟国村人会』」□建設業が多い/小さな島の大きな村人会がある。大阪市大淀区の『大阪粟国村人会』ー。粟国島から上阪した人たちの90%が大阪市大淀区に住んでいるという。会長の新垣重雄(62)はこう語る。『自分たちの住んでいる本庄や長柄に大正の初めごろ、最初に上原仁王が上阪したと聞いている』。大淀の「本庄」は大阪駅・梅田にも近い。交通の便利さがある。島チャビを背負った人たちが大阪へ。粟国島出身者は那覇では調理師が多いが、大阪では目立たなかった。島の人たちは、知人を頼りに、また、呼び寄せの方法で紡績、染工場のあった本庄(ほんじょう)地域に集まったようである。現在は土木工事者が多数いる。会長の新垣も新垣組の代表者である。新垣は昭和17年、徴用で佐世保、博多などに行っている。昭和20年、召集で軍隊へ。終戦は戸畑市で迎えた。兄を頼り、九州から大阪に向っている。
活発な組織運営/粟国出身者らは戦後、組織づくりに情熱を燃やしながら、親睦団体をつくっては自然消滅を繰り返してきたという。年配者の苦悩がうかがえる。粟国小学校の60周年を記念し、青年たちが協力、母校にピアノ、書籍、テレビなどを贈っている。この募金活動をきっかけに組織化がすすみ、在阪粟国青年会が結成された(昭和37年)。初代会長に上原芳一(建設業代表者)、副会長・新垣重雄らを選んでいる。同会は数年後に「大阪粟国村人会」へと発展している。初代会長は仲間正直(故人)だった。大阪と粟国村人との結束も強い。総会、敬老会には新城実村長、末吉信輝議会議長らが出席する。粟国村出身の新城彪(38)は昨年大淀区から立候補し、三百六十四票差で次点に泣いた。新城(民社)は村人会の力が強すぎると地元の人から”よそ者に投票するよりは”といわれるのがこたえると語った。4月から大淀区の一部が北区に変更される。新城の父永秀は浦添市に住んでいる。
姉妹校の縁結び/同会副会長の新里利雄(新里組社長)、テニアンからの引き揚げ者。泡瀬に上陸、糸満のサンテン森の下でテント小屋生活をした。敗戦になると「中国、朝鮮の人がいばりましたわ」沖縄の人は最後に送還されたという。1955年、上阪。事業は数回も失敗したが、今は大成功。親の墓は大阪に造るという。同会に青年部ができた。民謡研究所の糸洲広志が部長。勝子夫人は琉舞の師匠である。糸洲は大正区から名護へ帰郷した富村一文に師事。民謡の大御所。普久原朝喜にも師事した。反物を買いに大阪へ行き、定住するようになった。婦人部は新里芳子(58)らがきり回す。積み立てで温泉旅行を楽しんでいる。
豊崎本庄小学校には粟国村の子弟が約15%、毎年入学するという。同校内には粟国島から運んだソテツがある。先人たちならソテツ地獄を思い出すだろう。同校の教頭、PTA会長が粟国村を訪れたことがある。また同校の百周年(1975年)を記念し、粟国小中学校は姉妹校を結んでいる。「二世たちは琉球だろう」といわれ、友達には「九州や」といい、隠して遊んでいたともいわれる。村人会は約二百世帯。未組織世帯を入れると六百世帯になりそうだという。過疎化の進む島を在阪の村関係者は心配する。粟国空港はどうなっているか。島への関心はつきないようである。大阪の県人会連合会の下部組織「大淀沖縄県人会」は粟国出身の友利仁三郎、大城栄三郎、伊佐栄元らが会長を務め活躍してきた。
粟国「ふるさと資料館」
関連写真
「民家」
「葬具」
琉球政府の博物館に神里金達(ガイヤー)伯父が1968年にタカヤーマ(釣り用おもり)、ウーチバーイ(烏賊針)、ナーマチ(縄巻き)、海フジョウ(煙草入)、クルバシャー(畑砕土具)、ターラ(俵)、ユクティ(槌)2個、タンナーワヤー(蘇鉄実割台)、フタディル(蓋かご)、ムンジャラサバチ(麦わら櫛)を寄贈している。今も沖縄県立博物館・美術館にある。
大阪環状線都島駅手前の風景
1975年ー粟国小学校から大阪の粟国出身者の子弟が学んだ大阪市立豊崎本庄小学校にソテツ植樹
大阪の天六と言えば今でも粟国島出身者が多い。1988年3月4日の『沖縄タイムス』「ヤマトに生きるー関西沖縄人国記(34)『大阪粟国村人会』」□建設業が多い/小さな島の大きな村人会がある。大阪市大淀区の『大阪粟国村人会』ー。粟国島から上阪した人たちの90%が大阪市大淀区に住んでいるという。会長の新垣重雄(62)はこう語る。『自分たちの住んでいる本庄や長柄に大正の初めごろ、最初に上原仁王が上阪したと聞いている』。大淀の「本庄」は大阪駅・梅田にも近い。交通の便利さがある。島チャビを背負った人たちが大阪へ。粟国島出身者は那覇では調理師が多いが、大阪では目立たなかった。島の人たちは、知人を頼りに、また、呼び寄せの方法で紡績、染工場のあった本庄(ほんじょう)地域に集まったようである。現在は土木工事者が多数いる。会長の新垣も新垣組の代表者である。新垣は昭和17年、徴用で佐世保、博多などに行っている。昭和20年、召集で軍隊へ。終戦は戸畑市で迎えた。兄を頼り、九州から大阪に向っている。
活発な組織運営/粟国出身者らは戦後、組織づくりに情熱を燃やしながら、親睦団体をつくっては自然消滅を繰り返してきたという。年配者の苦悩がうかがえる。粟国小学校の60周年を記念し、青年たちが協力、母校にピアノ、書籍、テレビなどを贈っている。この募金活動をきっかけに組織化がすすみ、在阪粟国青年会が結成された(昭和37年)。初代会長に上原芳一(建設業代表者)、副会長・新垣重雄らを選んでいる。同会は数年後に「大阪粟国村人会」へと発展している。初代会長は仲間正直(故人)だった。大阪と粟国村人との結束も強い。総会、敬老会には新城実村長、末吉信輝議会議長らが出席する。粟国村出身の新城彪(38)は昨年大淀区から立候補し、三百六十四票差で次点に泣いた。新城(民社)は村人会の力が強すぎると地元の人から”よそ者に投票するよりは”といわれるのがこたえると語った。4月から大淀区の一部が北区に変更される。新城の父永秀は浦添市に住んでいる。
姉妹校の縁結び/同会副会長の新里利雄(新里組社長)、テニアンからの引き揚げ者。泡瀬に上陸、糸満のサンテン森の下でテント小屋生活をした。敗戦になると「中国、朝鮮の人がいばりましたわ」沖縄の人は最後に送還されたという。1955年、上阪。事業は数回も失敗したが、今は大成功。親の墓は大阪に造るという。同会に青年部ができた。民謡研究所の糸洲広志が部長。勝子夫人は琉舞の師匠である。糸洲は大正区から名護へ帰郷した富村一文に師事。民謡の大御所。普久原朝喜にも師事した。反物を買いに大阪へ行き、定住するようになった。婦人部は新里芳子(58)らがきり回す。積み立てで温泉旅行を楽しんでいる。
豊崎本庄小学校には粟国村の子弟が約15%、毎年入学するという。同校内には粟国島から運んだソテツがある。先人たちならソテツ地獄を思い出すだろう。同校の教頭、PTA会長が粟国村を訪れたことがある。また同校の百周年(1975年)を記念し、粟国小中学校は姉妹校を結んでいる。「二世たちは琉球だろう」といわれ、友達には「九州や」といい、隠して遊んでいたともいわれる。村人会は約二百世帯。未組織世帯を入れると六百世帯になりそうだという。過疎化の進む島を在阪の村関係者は心配する。粟国空港はどうなっているか。島への関心はつきないようである。大阪の県人会連合会の下部組織「大淀沖縄県人会」は粟国出身の友利仁三郎、大城栄三郎、伊佐栄元らが会長を務め活躍してきた。
粟国「ふるさと資料館」
関連写真
「民家」
「葬具」
琉球政府の博物館に神里金達(ガイヤー)伯父が1968年にタカヤーマ(釣り用おもり)、ウーチバーイ(烏賊針)、ナーマチ(縄巻き)、海フジョウ(煙草入)、クルバシャー(畑砕土具)、ターラ(俵)、ユクティ(槌)2個、タンナーワヤー(蘇鉄実割台)、フタディル(蓋かご)、ムンジャラサバチ(麦わら櫛)を寄贈している。今も沖縄県立博物館・美術館にある。