04/13: 龍脈/1934年12月 山城正忠、鞍馬寺参詣
貴船神社は京都の水源とされ、古来より雨乞いや止雨の祈りが神社で行われてきた。→貴船神社で祀られている神様は本宮:高龗神(たかおかみのかみ) 奥宮:高龗神(たかおかみのかみ)、もしくは闇龗神(くらおかみのかみ)・結社(中宮):磐長姫命(いわながひめのみこと)。高龗神①と闇龗神は一対の神様とも言われ両方共「龍神様」で水を司っています。そのため日照りや長雨の年は、天皇が生きている馬を捧げて雨乞い・雨止めを祈願しました。事実、奥宮には「龍穴」もある。貴船神社は鞍馬寺とともに「京都の奥座敷」と謂われている。①たか‐おかみ【高龗】記紀神話で、闇龗(くらおかみ)とともに水をつかさどる竜神。京都の貴船神社の祭神。 →コトバンク
右より内野辨子、丹羽安喜子、信楽眞純、山城正忠
1935年1月『冬柏』第6巻第2号 山城正忠「旅塵抄」
1935年1月『冬柏』第6巻第2号 内野辨子「小鳥の巣」
1935年1月『冬柏』第6巻第2号 丹羽安喜子「蘆屋より」
1935年1月『冬柏』第6巻第2号 信楽眞純「一行荘雑詠」
鞍馬寺 冬柏亭(とうはくてい) 与謝野晶子先生書斎)
与謝野家は、昭和2年に、当時の東京市外荻窪村(杉並区荻窪2の119)へその居を移した。 広い屋敷の中には「釆花荘」と呼ぶ日本屋と、「遙青書屋」という大きな洋館があった。この二つの建物の間に、「冬柏亭」と呼ばれる書斎が、晶子先生の五十の賀のお祝い(昭和4年12月)に、お弟子さんたちから贈られた。それが完成したのは昭和5年3月である。 晶子先生の没後、昭和18年10月に、冬柏亭は、門下生の岩野喜久代氏によって、大磯にある氏の住居へ移された。それが岩野氏のご好意から、さらに鞍馬山に移築されたのは昭和51年4月のことで、同門の信楽香雲先代管長とのご縁によるものである。 寄贈された関係資料は、霊宝殿に収納展示されている。
与謝野鉄幹・晶子の弟子に、末吉麦門冬の弟・末吉安持や、摩文仁朝信、山城正忠らが居た。山城は石川啄木とも交流が深かった。
山城正忠は与謝野鉄幹・晶子の弟子であった。上は山城正忠に贈られた色紙ー左は与謝野晶子、右は与謝野鉄幹
与謝野鉄幹「正忠は目出度く那覇に帰りけり今は酔ふとも泣かずやあるらん」「正忠は昔の癖をあらためず酔えば泣きつついきどほりつつ」
与謝野晶子「正忠を恋の猛者ぞと友の云ふ戒むるごとそそのかすごと」「正忠が宿酔を得し酒の名も忘るる友となりにけるかな」
与謝野鉄幹・晶子の墓(多磨墓地)島袋和幸撮影
山城正忠自筆「歩行記」「歩行襍記」