Archives

You are currently viewing archive for January 2013
Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
 1909年3月19日ー『沖縄毎日新聞』伊波月城「誓閑寺時代の回顧」(以って入社の辞に代ふ)9年前のことである。家兄が京都に行った後で、迷子同様になった自分は、当時國光社に居られた恩師田島隋々庵氏の京橋南小田原町の僑居に這入り込むことになった所が、元来閑静な所が好きな自分は、間もなく牛込は喜久井なる誓閑寺に、今の甲辰の校長東恩納氏と同居して自炊することになった。お寺に引越したのは8月の上旬である。日はよくは覚えていないが、恰度同郷の友人を誓閑寺の隣なる大龍寺の墓地に葬ってから2日目の夕暮れであった。お寺は浄土宗で、住職の外に、小学校に通う子供と仙台辺の田舎者だと云う婆さんがいた。その婆さんが住職の梵妻なので、住職より10歳も老けて見えた。自分は三畳の室をあてがわれた。室は南向きで風通しはよかったが、戸端から一間先に、墳墓が並んでいたのには、聊か閉口した。併し後では墳墓と親しむようになった。自分が今日墓畔を逍遥するを一種の快楽とするようになったのは詩人イプセンの感化ばかりでもないのである。10日位たつと当間浮鷗氏が其の親戚の外間氏と共に引越して来て仲間になった。それから間もなく諸見里南香氏が上京された。沖縄時論が解散したので、この10年間は郷里には帰れないといって居られた。南香氏は10日ばかりすると日本新聞の記者となられた。誓閑時は俄かに賑わったのである。
 8月中は、学校が休みなので、何れものんきに法螺を吹いて暮らしていた。朝は木魚の音と読経の声に目が覚める。総がかりで朝飯の支度をする。朝飯がすむと銘々で散歩に出かける。散歩から帰って来ると昼飯の用意に取りかかる。昼飯がすむと、下町の方に出かけるものもあれば、華胥の國に遊ぶのもいた。共同生活の快楽は一つ釜から飯を食べるということである。併し社会主義というものが、到底地上で行われるべきでないと思ったのはこの時である。一番戦闘力が強かったのは東恩納氏で、一番戦闘力が弱かったのは外間氏であった。外間氏は列強の略奪に遭って泣き出したこともある。浮鷗氏は此頃からの潔癖家である。東恩納氏は有名な無精者で、自分が座っていた2尺平方の掃除も碌にしなかった位である。南香氏は郷里で奮闘した結果、意気消沈してしまって、何らの特色も発揮しなかった。自分は其時からの酔漢で、5名のうちで酒屋の信用が一番重かった方である。
 木魚の音と読経の声は聞きなれると心持のよいものである。浮鷗氏が禅味を帯び始めたのもこの頃からであろう。自分が耶蘇に帰依したのも此頃である。誓閑寺時代は自分に取っては忘れることの出来ない時代である。今から考えて見ると誓閑寺の一隅は沖縄の社会の或る一部の縮図であった。9月になって皆下町の方に引越した。思えば昨今のことのようであるが、足かけた年になる。自分は依然たる呉下の旧阿の蒙である。
 毎日紙の発刊当時、自分は社友となって、いかがわしい翻訳物を出して世の物笑となって居る所に、去る15日の朝、當間氏から来て呉れとの手紙を受けて、早速いって見ると記者にするつもりであるが如何かとのことであった。自分は一人で決定が出来ないので、帰ってきて家兄と相談した後で承諾と云う意味の手紙を出した。所が文章一つ書けけない自分がどうして記者などになれる。家兄に聞くと君が平常使用している普通語で、君の思想感情を飾りなく、、偽りなくせんじつめて吐き出せ。形容詞も知らなければ知らないでいい。漢字も知らなければ知らなくてもいい。只だ耳障りにならないように書け、10年も書いたらいくらか物になるとのことである。自分は此教訓に遵って書くつもりである。
 新聞を起こして見ようということは誓閑寺時代から先輩諸氏が口ぐせのようにいっていたことであるが、10年後の今日この小理想は漸く実現せられて、自分までが編集室の一椅子を占めるようになった。さアこれから自分は、どういう方面に、どう働いたらよかろう?心配でたまらない。(をはり)
 ◇新宿区喜久井町61 亀鶴山易行院誓閑寺 深川靈嚴寺末
寛永七年靈岸嶋に起立、明暦大火後宗参寺領の内庚申塚に借地移轉。寛文六年七月喜久井町に移る。開山重蓮社本譽上人誓閑和尚、寛永二年五月十五日卒。舊境内借地二千百八十一坪、古跡年貢地済松寺領百三十三坪。境内に直径二尺六寸の大鐘があり、元和二年二月藤原兼長の作で、鐘銘に『荏原郡』と記入してあるので、史家の間に注意されたものである。書上に『境内小川あり、荏原郡と豊島郡との境なり、本堂のある方を荏原と云』とある。(「牛込區史」より)/夏目漱石は自宅すぐ近くの誓閑寺の鉦の音について、随筆「硝子戸の中」でふれている。今は近くに漱石山房記念館、草間彌生美術館。

1900年4月8日「東京・沖縄青年会ー平良保一君卒業記念」
null
null
 〇伊江朝助、伊波普猷、伊波普成、當間重慎、渡久地政瑚、東恩納寛文ら後に沖縄の新聞界で活躍する面々が居並ぶ。ちなみに外間現徳は前列左端、この写真は沖縄県立図書館の東恩納洋資料にあるもの。この写真の時代背景は伊波普成が1909年3月19日『沖縄毎日新聞』に書いた入社の辞「誓閑寺時代の回顧」でよく分かる。私が最初にこの写真を紹介したのは1994年『沖縄タイムス』粟国恭子「末吉麦門冬」の8月8日。次いで1997年、那覇市文化局資料室の『おもろと沖縄学の父・伊波普猷ー没後50年』に収録した。


» Read More

Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02



Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
null
英国人宣教師・医師ベッテルハイムの来琉を記念して居住地跡に建てられた記念碑。
キリスト教の布教のため来日した英国人宣教師・医師ベッテルハイムは、1846年に琉球に訪れ、家族とともに那覇市波の上(なみのうえ)の護国寺(ごこくじ)に滞在していました。滞在期間の8年間、本来の目的である布教活動を含め、英語講師、聖書の琉球語訳「流訳聖書」の発行、泊の仲地紀仁(なかち・きじん)医師にイギリスで発見されたジェンナーの牛痘接種法と西洋医学の伝授に努めました。記念碑は居住地跡である護国寺境内にあります。(→おきなわ物語)

null
□新聞週間(15-21日)期間中の18日、戦没新聞人慰霊の集いが那覇市若狭の旭ケ丘公園内に建てられた「戦没新聞人の碑」前で行われた。県内の新聞人ら約20人が出席、碑に花をささげ、平和への誓いを新たにした。 琉球新報社の野里洋取締役が「戦時中、壕の中で新聞を発行し、多くの先輩が犠牲になった。沖縄の記者としてこの事実を心に刻み、住みよい沖縄をつくるために力を入れていきたい」とあいさつ。沖縄タイムスの真久田巧(さとし)中部支社編集部長が戦没新聞人の碑が建立されたいきさつなどを説明した。建立にかかわった共同通信初代那覇支局長の横田球生さんからメッセージが寄せられ、藤塚正道共同通信那覇支局長が「ただ先人たちの霊を慰めるだけでなく、先人たちの前に反戦平和を誓う場所がこの碑ではないか」と読み上げた。集いは県内の新聞社、全国紙の那覇支局長らが呼び掛けた。碑には沖縄戦で亡くなった沖縄新報、同盟通信、毎日新聞、朝日新聞の14人がまつられている。今年は碑建立から40年になる。(『琉球新報』2001年10月19日)

Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02

とまり会館前
1872年「9月10日午前11時に三使(伊江王子・宜野湾親方・喜屋武親雲上)並びに安田親雲上、浅草内田九一宅へ行き像影を写す。堀江弘貞少録同伴」とある。内田は明治天皇の肖像写真で知られている。三使に隋行し上京したのは山里親雲上(長賢)、翁長親雲上、與世田親雲上、上江洲親雲上、伊波親雲上、仲嶺親雲上、安田親雲上、比嘉親雲上、喜舎場筑登之、花城里之子、親泊里之子、真壁里之子、豊村里之子、當真筑登之、仲村渠筑登之、屋嘉比筑登之、松嶋子、仲宗根子、東恩納子、仲山子、東江、宮城、島袋、仲本、備瀬、嶋袋、金城、又吉、新垣、國吉、與那嶺、知念、宮城、仲宗根と記されている。

nullnull

山里長賢翁頌徳碑の前でーひより


ソテツを持つひより




2013年8月25日


2013年6月9日のひより

» Read More

Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02


null
1984年3月17日『琉球新報』松島弘明「さし絵人生40年・・・画家・金城安太郎さん」

» Read More

Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
 『沖縄タイムス』2018年1月5日ー戦前の那覇市内に約1500平方メートルの墓地を所有していたが戦後の混乱で所有権を失ったなどとして、琉球王朝の国王の子孫を始祖とする門中会が、代替地を管理する県と那覇市に所有権の確認を求める訴訟を4日までに、那覇地裁に起こした。同会は当時の住民の証言を頼りに所有を立証する予定で、代表の高安繁彦さん(68)=大阪府=は「証拠収集に6年かかった。先祖の誇りにかけて取り戻す」と訴えている。
 訴状などによると、原告の狄氏(てきうじ)高安門中会の始祖は第二尚氏王朝の4代尚清王の八男で、先祖が17世紀、琉球王府に多大な貢献をしたことから、王府から墓地と「御拝領墓」が与えられた。墓は戦前の同市住吉町にあり、同会は毎年墓地で清明祭を開いたとされる。

2012年9月、関西沖縄文庫の金城馨氏から「住吉神社北側(那覇港が見渡せる高台)に拝領墓を頂いた山城尓也(ヤマグスク ニヤ)の背景にあるもの」を貰った。河内長野市の子孫・高安繁彦氏が作成した先祖についての考察であった。氏集にも新参狄氏と載っていて、大宗は狄懋芳・高安筑登之高吉とある。子孫によれば、この系図は太平洋戦争で行方不明となったようである。


2013年3月2日午後2時ー沖縄県立博物館・美術館で、右が高安繁彦氏( 090-6550-3643)、新城栄徳

琉球王府を救った若者たち
薩摩の侵略後、薩摩役人(警備担当等大和衆と呼ばれた足軽)が那覇等で徘徊していた。質の悪い役人は琉球王府にとって治安の上で目にあまるものがあり、また経済的にも大きな負担であった。そこで、異国船が先島沖に来たことを理由に彼らを先島に派遣する。しかし、洋上で船もろとも沈没させ、薩摩役人を処分した。いわゆる事故に見せかけた事件である。事故を装うため2名の琉球役人と共に船頭が犠牲になった。

先祖 山城(ヤマグシク)尓也は腕の良い船大工であった。ある日 琉球王府から薩摩役人を船ごと沈めるよう命を受け、先島へ向かう船を操船し出航したが帰らぬ人となった。代償は子孫を士族として取り上げ生活を保障するとともに本人には御拝領墓を与える条件であった。彼の墓の前で太平洋戦争直前まで清明祭が執り行われ、この出来事は子孫の口伝として今日まで語り伝えられている。墓はアメリカ軍によって削りとられ現在は海中に沈められている。


» Read More

Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02


下は島袋氏が送ってくれた『東京新聞』切抜き

□東京新聞はよく「沖縄問題」を取り上げる。地元紙『琉球新報』8日に「空自が下地島活用ー防衛省は米軍普天間飛行場に配備されている垂直離陸輸送機オスプレイ導入の調査費800万円も要求する。」と報じている。9日の地元紙には「嘉手納にもオスプレイ配備」とある。私自身は自衛隊は国土を災害などから守る為に必要と感じている。現状の自衛隊はかつてのロッキード事件や思いやり予算でも分かるように日米防衛利権が入り混じっている。だから、国土保全のための自衛隊に替える必要がある。


□外国資本の森林買収に危機感が高まる中、水資源保護を目的に土地買収の監視を強める条例を4道県が制定し、9県が検討していることが分かった。尖閣問題で政府はやれ領土を守れとか、言うてる傍ら中国・韓国マネーが東京のマンションやら土地を買いあさっている。最近では東京の銀行まで台湾業者に売っているという。尖閣問題は如何にアメリカ基地の抑止力が無いということに尽きる。だから敗戦国・日本も自前で国を守る気概を持つと同時に「思いやり予算」を直ちに止め、独自に防衛力を強化す必要がある。日米軍需産業の利権漁りには十分に警戒することも肝要である。

□『東京新聞』中日新聞社東京本社発行の一般紙。”首都圏の主読紙”と銘打つ。1884年、「今日新聞」として創刊。都新聞に改題。国民新聞と合併し「東京新聞」となる。1967年、旧・東京新聞社が中日新聞社に経営権を譲渡。


「原爆の図 丸木美術館」



» Read More

Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
山田真山(本名・渡嘉敷兼慎、童名・真山戸)は 1885年(明治18)、壺屋村(現那覇市壺屋)に生まれました。父は儒学者でしたが、世替わりの時代に一家で八重山に移住し、苦しい生活を送りました。真山は幼少時から手先が器用なことで知られ、その才に着目した大工に引き取られて十代前半に東京に移り住みました。大工仕事を通じてしだいに造形に目覚めた真山は、苦労の末、東京美術学校(現東京芸術大学)に入学し、彫刻と日本画を学びました。山田泰雲、小堀鞆音ら高名な芸術家たちに師事した真山は才能を開花させ、1914年(大正3)に文展に入賞したことを皮切りに数々の絵画・彫刻作品が入選を果たしました。芸術家として地位を築いた真山は、昭和初期には明治神宮聖徳記念絵画館の「琉球藩設置」(首里市奉納)描きました。

本企画展では、山田真山の絵画・彫刻とともに、関連資料を展示し、その足跡と作品世界を紹介します。

null
「詳細はこちら」ここをクリック



1926年6月『沖縄及沖縄人』眞帆「山田眞山画伯出世物語」
山田真山表紙絵




2013年1月16日 RBCiラジオ「民謡で今日拝なびら」で上原直彦氏が東恩納の文化部の絵の技官の話で山田真山、金城安太郎らにふれ、沖縄美術家協会から首里のニシムイ美術村、沖展まで話が展開していた。民謡は「梅の香り」を聴いた。→「梅の香り」

null
2013年1月19日ー写真左から山田昇作氏、波照間三蔵氏(金城安太郎弟子/全九州水墨画協間会常任理事・審査員)

» Read More

Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02

ブータンブータン王国(ブータンおうこく、ゾンカ語: འབྲུགཡུལ་་)、通称ブータンは、南アジアの国家。北は中国、東西南はインドと国境を接する。国教は仏教(ドゥク・カギュ派)。民族はチベット系8割、ネパール系2割。公用語はゾンカ語。首都はティンプー。国旗はその模様が複雑で、竜のうろこが細かく描かれている。国花はメコノプシス=ホリドゥラ、国樹はイトスギ、国獣はターキン、国鳥はワタリガラス、国蝶はブータンシボリアゲハ。長年鎖国政策をとっていたが、1971年に国際連合加盟。翌年に国民総幸福量という功利主義を採用した。→ウィキ


琉球

01/04: 阿氏門中

Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02

元祖の守忠は、南山王汪応祖の二男で、尚巴志に滅ぼされた他魯毎王の弟。南山城が攻撃されたとき城から脱出して具志頭間切の安里大親に助けられ、のちに大親の嗣子になったことが家譜にある。二世守知(守忠の長男)は首里に上り、偶然に世子尚真の養父を命ぜられる。長女真嘉戸樽は知念間切謝氏知名親雲上成良に嫁した。その女子がのちに尚真王夫人となった華后。三世守庸(守知の二男)。四世守良(守庸の長男)は柳姓元祖・摩文仁掟親雲上康長の父。下の「王位継承」陰謀には南山王統系阿氏一門が関わっているのは間違いない。→「柳姓・真喜志」

2012年の12月発行の『週刊新潮』に岸朝子さんが「私は来年で90歳。祖先のルーツを探ってみたくなりました。大宜味尋常小学校校長で教育者だった私の母方の祖父、親泊朝擢は琉球王国第二尚氏3代尚真王の長男・尚維衡(浦添王子朝満)の後裔にあたります。」と情報を提供してほしいと書いている。与並岳生氏は『新 琉球王統史⑦尚寧王』などに、「おそらく、尚維衡の”追放”が、明らかに誤りであったことが、”陰謀”によって生まれた尚清王系尚永王の死去、そして嗣子がなかったことにより、公然と主張され、この機会にその”復権”をはかり、かつ正統に戻そうと至った」と書いている。続けて「つまり、尚元王の妃(尚永王の母)真和志聞得大君加那志(号・梅岳)は、尚維衡の長男、尚弘業(広徳寺浦添親方ともいった)の娘であり、尚弘業の息子尚懿の妻は尚元王の長女・首里大君加那志(尚永王の姉で、真和志聞得大君加那志の子)で、つまりいとこ同士で結婚したわけであり、その子が尚寧です。」と記す。

» Read More

Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02

「富士山」撮影・山田勉氏□(社)日本写真家協会会員 〒900-0033 沖縄県那覇市久米1-1-14 電話098-868-3841

宜野湾朝保「富士」
大空のものとや空も思ふらん 雲ゐにたてるふじのしば山
ふじのねをふりさけ見れば白雲の 上にも雪は積る也けり
国といふ国の空まで高き名は あらはれわたるふじの芝山