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Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
1907年・第19回卒業ー安次嶺松蔵(在フィリッピン太田興業株式会社)、有留隆雄、安里積禎(後備歩兵少尉 在八重山)、安次嶺長徳(八重山登記所在勤)、新垣良盛(南風原小学校)、伊藤祐介(熊本九州鉄道管理局)、石川徳助(明大卒 西平織工場)、翁長良保(法学士 福岡県大里旭ガラス会社)、大宜味朝明、大村寛、金城慎義(神戸高商卒 在ブラジル)、金城順裕、金城肇、我那覇生茂(新聞取次業)、片山利久一(早稲田大)、兼島政忠(東洋協会出 在大阪)、垣花恵寛(那覇税務署)、嘉手川重利(那覇市役所)、嘉数良睦、川平恵守(明大卒 東京神田西小川町松濱旅館開業)、神山盛亮(在東京)、岸本将秀(泊小学校教員)、久場眞長(千葉医専卒 今帰仁開業)、桑江夢熊(沖縄銀行本店 那覇市議員)、小橋川照慶(典獄)、税所篤雄(五高卒)、崎山嗣朝(京大法学士 弁護士 県議 那覇市議)、島袋秀清(熊本商工卒 在満州)、柴田朝雄(熊本医専卒 八重山開業)、勢理客智勇(那覇区役所書記)、祖慶實徳(長崎医専卒)、玉城松助(大阪高医卒 在大阪)、玉那覇有宏、田中胖(工学士 大阪市北区上福島北1-160-1)、高嶺朝公(千葉医専卒 在東京)、高嶺朝保(千葉医専卒 千葉町開業)、平良加(法学士 在東京)、高橋武松(早稲田大)、照屋孚次郎(琉球酒造組合理事)、當間英憲(司法代理人)、友寄英偉(那覇市会議員 市役所)、永田榮蔵(東京高商)、永田長松、仲吉朝太(熊本医専卒 本県技手・保安課)、仲松彌仁(長崎医専卒 宮古開業)、名城嗣貞(県属・産業課)、仲村渠嘉貞(在米)、仲本正秀(外語卒 大連市南満州鉄道会社四洮鉄道計画課長)、仲田朝義(高等女学校教諭)、新田元孝、新田元隆(鹿児島高等農林卒 本県産業課)、饒平名紀明(在東京)、野原幸輝、平安山長義(医学士 福岡病院)、比嘉江長、東恩納寛仁(県属)、譜久村安建(在米)、宮良當智(八重山郵便局)、森安薫、山内國太郎(商船会社 在大島)、山田有慶(小学教員)、屋部憲傳(在米)、山城興昌(在米)、山城端典、山田有幹(那覇市議)、読谷山朝宣(千葉医専卒 在北海道)

1908年・第20回卒業ー新垣朝光(県属)、上原章、上間長八(今帰仁今泊)、奥島憲慶(読谷山小学校長)、大嶺眞和、大湾政順(那覇市役所)、大見謝恒英(百四十七銀行那覇支店)、大湾喜福、嘉手川重輪(大阪税務監督局)、垣花恵祥(県庁)、我部政仁(東京小学教員)、嘉手川重位(那覇松山小学訓導)、川津博(早稲田文科卒)、神里常吉、金城嘉輔、嘉手納順範(在東京)、金城蒲戸(安里小学校訓導)、我謝秀輝、金城至蒲、許田重発(那覇尋常高等小訓導)、岸本幸厚(沖縄タイムス理事)、宜名眞邑挙(真和志小学校訓導)、久高将吉(工学士 京都市上市区田中町字大溝6)、城間垣貴(東京小学教員)、國吉良實(明大卒 泉崎)、小波津保光 、小橋川照顕(那覇市議)、小湾喜長(私立農業大学卒 中頭郡 技手)、佐久川恵柔(台南製糖会社嘉手納工場)、佐多忠三(台南製糖宜野湾工場)、島袋賀麻、謝花寛廉(在東京)、鹽谷亥之助、垂野光久、玉城友善(早稲田卒 本校在勤)、大工廻盛敏(沖縄県物産検査所産業主事補)、高志武盛蔚(津波小学校訓導)、照屋寛純(首里男子校訓導)、渡久地政佑(台南製糖会社高嶺工場)、東郷實(鹿児島県)、長友一郎(東京高商卒 郵船会社孟買支店)、名城嗣敏(在東京)、仲尾次政潤、名城嗣頼(南米ペルー)、今帰仁朝興(中頭郡書記)、仲吉良光(早稲田文科卒 在米)、今帰仁朝規(早稲田文科卒 糖商組合)、長嶺精一(佐敷小学校)、饒平名智太郎(在東京 改造社)、西平守由(広島高等師範卒 本校教諭)、新名栄蔵(那覇区旭町)、樋口敏彦(東京高工教員養成所卒 東京市役所建築課都市計画部)、比嘉賀秀(牧師)、弘中一郎、外間善助(国頭郡屁辺野喜小学校長)、外間誠昌(師二卒)、真境名安行(熊本医専卒 中頭郡勝連村医)、眞玉橋朝信(南風原小学校訓導)、又吉康和(名護)、松村嘉實(師二卒)、宮城普本(熊本医専卒 在大阪)、森田孟睦(高工卒 東京警視庁)、飛岡太郎(基隆台湾倉庫株式会社)、屋我宗恭(沖縄朝日新聞社)、山口房良(首里女子小学校長)、屋部憲重(泊小學訓導)、山城次郎(在南米)、吉嶺伊津(神戸山中廻送店)

1909年・第21回卒業ー安谷屋音房(川田小学訓導)、石川善盛(法学士 弁護士 代議士)、池畑浦悦(熊本医専卒 大島開業)、糸満盛重(那覇尋常高等小学訓導)、石原世昌(県属)、石原守規(屋良小学訓導)、浦崎朝臣(県属)、上原與吉(慈恵院卒 在布哇)、江藤盛一(東京東洋拓殖株式会社)、翁長林立(在台湾)、具志川朝宣(垣花小学訓導)、垣花恵常(東亜同文書院卒 奉天税関)、川崎良三(長崎高商卒 大連油脂工業株式会社)、川崎誠治(台湾新竹税務署)、神里多盛(高嶺小学校長)、兼島景範(那覇軽鉄 嘉手納駅長)、國吉眞現、國吉眞俊(東京府下豊多摩郡代々幡笹塚41號)、桑江常通、後藤怒(鹿児島電気会社)、佐村鉄也(在熊本)、崎山朝盛(早稲田卒 大阪湯浅商店員)、謝花寛済(法学士 北海道地方裁判所検事)、祝嶺春榮(久志村)、島袋永幸、玉城現(屋良小学訓導)、知念朝太郎(医学士 高知市武田病院)、照屋興善(那覇尋常高等小学訓導)、宮原守勝(首里尋常小学校訓導)、渡口眞正康、名嘉原知祥(在東京 会計検査院)、仲本兼亮(在大阪)、羽地朝敏(早大卒 首里市書記)、鉢嶺清眞(早大卒 那覇税務署)、羽地朝松、比嘉榮眞(医学士 那覇久米通開業)、堀江吉成(岡山医専卒)、眞榮田之璟(同志社卒 大阪高田商会)、前田達男(慶應義塾 在神戸)、溝口敏麿(長崎高商卒 横浜日本製糸株式会社)、森安勇(徳島県立商業学校)、山田有實(工学士 造兵将校)、與那原良輔(首里女子小学在勤)

1910年・第22回卒業ー赤池稔(旧姓税所 東大医科卒)、池間恵長(旧姓天久 長崎高商卒 支那厦門台湾銀行支店)、新嘉喜倫元(慈恵医専卒 久米島開業 仲里村医)、安里積一(在メキシコ)、家長寛(旧姓田中 法学士 大阪商船会社)、伊豆見元永(東亜同文書院卒 上海三井支店)、石原笑吉(鹿児島測候所)、宇堅源太郎(中頭郡具志川村役場)、浦崎永慎(那覇東町 材木商)、浦添朝功、大田朝重、大城朝英(那覇市議 大城無尽商会)、兼島由明(本校在勤)、我謝昌饒(大阪市堀川小学在勤)、川崎淳治(台湾 倉庫会社基隆支店)、嘉手刈貞徳(県属)、兼本盛仁(垣花小学訓導)、我喜屋宗信(早稲田卒 大阪市西区長堀北通5湯浅パイプ店)、桑江夢鯉(那覇市役所)、城間康信(上海三井物産支店)、慶田城用伯(高工卒)、護得久朝章()首里市議)、古波鮫唯功(泊小学校訓導)、相良彦威智(東北帝大在学中死亡)、座間味瑩(鹿児島高農卒 越来村長)、柴田米三(東京歯科医専卒 東京千駄ヶ谷889)、筱原三男(農学士)、新里與長(第一大里小学校訓導)、瀬長良直(慶應大卒 三越呉服店)、玉城寛(糸満町役場)、高里盛華、玉城武太(在比島)、知花加那一(在台湾)、千葉文亮(那覇市役所)、天願篤貞(在米)、渡嘉敷眞睦(美東尋常高小学訓導)、當間九思(仙台高工卒 在阪)、渡慶次全義(在京)、富村一郎、富原守貞(く久米島仲里小学校)、當間文雄(勧銀書記)、渡嘉敷唯義(在阪)、徳田安貞(東京本郷区梅園町64山田方)、長嶺但敏(東京小石川高等小学校)、仲座里喬、仲本吉正(兼次小学校)、玻名城政睦(在阪)、橋口達雄(在京)、比嘉安昌(在京)、樋口謙二(南風原小学校)、福地徳、又吉全興(熊本医専卒 在米)、松元維繁(那覇尋常小学訓導)、前田榮造(商業 那覇大門前通)、宮城源清(米国ローサンゼルス)、宮里朝鳳(宜野湾小学校)、屋比久政文、山田有功(滋賀県膳所中学校教諭)、與那原良剛(千葉医専薬学部卒 正文洋行那覇支配人)、與座嘉剛(在阪)、和田秀夫
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那覇グランドオリオン通りの「しんあい でんき」(携帯090-3322-9908)店主・仲里康秀□ジュークボックス 蓄音器 SPレコード








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戦後の軽便汽車 仲里康秀・所蔵

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2013年2月 戦争と平和を考える詩の会(〒143-0016 大田区大森北1-23-11 甲田方)『いのちの籠』第23号
○総選挙が終わってー(略)3、(ああ、おいしかった)この話は2,3年前の8月、NHKの特別番組で放映されたテニアン島での悲劇である。ご覧になった方も多くいると思う。テニアン島は1944年夏、米軍の上陸によって全員玉砕し、その後ヒロシマ・ナガサキに投下された原爆搭載機の発信基地となった。戦後私は現地を訪れた事があるだけに感慨は深いものがある。その話の内容というのは現地召集の一青年が米軍に追いつめられて両親と家族3人を銃殺した話である。その事を一番強く望んだのは彼の母親であった。米軍の手に掛る前に、息子のお前の手で死なせてくれと哀願されたのである。母と父を銃殺し、次は妹の蕃になった時、突然妹が「お兄ちゃん待って。お水が飲みたい。」と叫んだ。不憫に思った彼は一緒に水のある場所を探し当てた。水を飲み終えると妹は、「ああ、おいしかった。」と微笑むとさっさと父母の倒れた場所に戻って、兄の銃口の前で目をつぶったのである。引き金を引いてしまった彼に対して狂気の沙汰と言うのは簡単である。人間を狂気にしてしまう戦争は残酷である。私はこの情景を想像する度に年甲斐もなく涙が溢れてしまう。この兵士は後追い自決をする寸前に米兵の捕虜となり戦後を生き延びた。重い口を開いた放映3カ月後に彼は亡くなったとの事であるが、彼の生涯にについて私には語る言葉はないのである。私達の世代は戦争犠牲者の死を語る事が出来ない。その死を無駄・無益・無意味・非業・不条理と知る事になっても、そう言ってしまっては、死者が救われないという思いにどうしても囚われてしまうからである。(中村高春)

○あとがきー「自民」「民主」「維新」の「三極」は、「国防軍創設」「軍隊明記」「核兵器万歳」であった。改憲の輪の中の人々である。三極しか選択肢がないかのように連日テレビ新聞が煽った。不景気に殺気立つ様相は、やはり深刻な不況であった侵略戦争直前と似ている。滑稽なのはこのシステムを作ったのは自民党や民主党自身だということだ。同じ輪の中でアメリカ二大政党のように責任転嫁し合っているのである。ナチスそっくりに台頭した「維新」もあり、「大政翼賛会近し」だろうか。売れない、買えないのこんな時に消費税を増税したらどうなるか。格差社会ますますけっこうというのだろうか。ごく一部のトップ企業が潤ったら「経済は回復した」と言う連中だ。(略)

日本の一番の自慢は、平和を愛しどの国の人々とも文化交流し、世界政治の場で平和世論のイニシアチブをとるところ、となることを願っている。若い人たちに戦争の歴史を伝える良識教師が処分されているいま、いよいよ平和憲法にとって戦後最大の試練の時である。戦争と平和の問題は、私たちの詩文学の根幹である問題だ。(佐相憲一)

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兼次一正「東道盆(とぅんだーぶん)」原画ー新城栄徳所蔵

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2013年3月10日沖縄県立博物館・美術館エントランスホール「宮廷舞踊オールドタイムダンス」日本ボールルームダンス連盟東部総局沖縄県支局


ジュンク堂那覇店「フランス史」のマリー・アントワネット関連本

マリー・アントワネット展 展示準備がピークに/ペンライトを使って肖像がに傷などが付いていないかチェックするパリ市立カルナヴァレ博物館のシルヴィー・ロビン学芸員(右)と金城美奈子学芸員=5日、県立博物館・美術館
 18歳でフランス王妃となり、革命の波にのまれて37歳の短い生涯を終えたマリー・アントワネットの素顔に迫る「マリー・アントワネット物語展」が8日、那覇市の県立博物館・美術館で開幕する。展示会を目前に5日、同館では、空輸された絵画やアントワネットが使った身の回りの品など約120点を運び込んだり、傷がついていないかチェックするなど準備に追われる学芸員の姿が見られた。(沖縄タイムス)

フランス革命ー王政からギロチン恐怖政治へ
フランス革命とは、極右学者で何かと物議を醸している中川八洋筑波大教授『正統の哲学・異端の思想ー「人権」「平等」「民主」の禍毒』(徳間書店1996)によると、「フランス革命という歴史(歴史上の行動)がなければ、マルクス・レーニン主義を構築する狂った発想も勇気ももちえなかったそのことにおいて、フランス革命とは、この『悪魔の宗教』創造における役割はとてつもなく大きいというより、フランス革命こそその原点であり源流の礎である。」と言い切っている。マリー・アントワネットフアンの私としてはこの意見だけには同調する。

 本城靖久・渡部雄吉『紀行フランス革命200年』(新潮社1989年5月)に「1792年の対オーストリア宣戦布告に始まり1815年のワーテルローの敗北で終る戦争と革命の時代に、200万人のフランス人が生命を失った。1789年当時のフランスの総人口が二千六百万だから、大変な損失である。おかげでそれまで覇権国であったフランスは、イギリスにとって換られてしまった。」「1793年、革命裁判所は93年3月に国民公会によって創設された。93年10月3日、国民公会はマリー‐アントワネット 王妃の裁判の開始を決定した。そして16日の朝4時、外国と共謀して共和国に反逆を企てたとして死刑(ギロチン)の判決が下された。この裁判を指揮したのは冷血漢といわれた検事のフーキエ・タンヴィル。(略)この検事は政変から」5日目に逮捕、大虐殺の責任を問われて死刑の判決。裁判官6人のうち3人と出廷した証人のうちの14人はギロチンにかけられている。そして3人の証人は横死しており、陪審員12人のうち革命を生きのびたのはたったの3人である。」とある。

関連し連想するのがアメリカの南北戦争である。1852年、黒人奴隷の惨状をストウ夫人が『アンクル・トムの小屋』で描いた。聖書に次ぐベストセラーになり南北戦争の発端をつくった。戦争は、お互いにあらゆる国力を投入したことから、南北戦争は世界で最初の総力戦のひとつだった。最終的な動員兵力は北軍が156万人、南軍が90万人に達した。両軍合わせて62万人(北軍36万人、南軍26万人)もの死者を出し、これはアメリカがこれ以降、今日まで体験している戦役史上、最悪の死者数である。(ウィキペディア)
アメリカ兵士の主な戦死者 独立戦争・・・・・・・1万2千人 第一次世界大戦・・11万2千人 第二次世界大戦・・32万2千人 朝鮮戦争・・・・・・・・5万4千人
ヴェトナム戦争・・・・5万8千人

マリー‐アントワネット 【Marie-Antoinette】
[1755~1793]フランス王ルイ16世の妃。マリア=テレジアの四女。浪費癖と無思慮な行動で民衆の反感を買い、フランス革命の際、国外逃亡を企てたが失敗し、革命の敵として処刑された。(→コトバンク)
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