Archives

You are currently viewing archive for July 2014
Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02






1995年3月 金城棟永『私の歩んだ写真の記録』


2006年12月 山田實・金城棟永『沖縄の記憶ーオキナワ記録写真集1953-1972』生活情報センター

金城棟永ー1930年、那覇市生まれ。沖縄郵政庁、琉球国際電気通信局を経て国際電信電話株式会社(KDD)に転入。1992年から那覇市文化協会写真部長(~1998年7月)。1996年、第30回沖縄タイムス芸術選賞、写真部門奨励賞、1998年、第50回沖展、写真の部奨励賞、1999年、第51回沖展、沖展賞。写真の部準会員推挙。2000年、沖縄県立平和祈念資料館に写真展示。山田實と共に『沖縄の記憶ーオキナワ記録写真集1953-1972』(生活情報センター2006)を出版。

写真左から金城棟永氏、山田有昴氏、新城栄徳



1997年9月『林氏・金城家家譜』

坂本冬美①が金城棟永氏と那覇市歴史博物館に贈った「色紙」
要があります。(2015年2月)
①坂本 冬美(さかもと ふゆみ、本名同じ、1967年3月30日 - )は、和歌山県西牟婁郡上富田町出身の演歌歌手、女優。血液型O型。
Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02


















2014年7月26日ー沖縄県立博物館・美術館で遊ぶひより
名和靖

» Read More

Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
詳しくは「みどり印刷」ここをクリック

台風8号が沖縄を襲った7月8日(火)に7月の中扉の絵を描き終えた。続いて、翌水曜日も、幼、小、中、高校は臨時休校となった。2月から7月まで6枚の作品(?)が出来たので今日は『③連絡帳ギャラリー』の製作作業を行った。ドラマチックな事件・事故の多い6月だった・・・・・・・。 15センチ×11.5センチの空間に、その時々の想いを水彩画と短歌(供に我流)を作成する事は、僕の生活の中の良いアクセントになっている。「連絡帳」とは供に暮す奏(かなで、3歳7ヶ月)の首里大名町の若杉保育園の連絡帳で,それへの毎日の記入は僕の役目である。

僕は毎日、平良真地(テーラマージ・大名馬場通り)を朝夕と通るのだが、その中央辺りに台座だけの石碑が在るのは知っていた。石碑は古い物で7~8年前から在り、新設も含め首里の街のあちこちに30~ 40基ほども在ろうかと思われるが、この平良真地の石碑はその設置位置からして、馬場(ンマハラセー)の事が将来は記録されるのだろうと思って見ていたが、梅崎さんの受賞から1ヶ月程経った2月の後半あたりか、車で通りかかると、件(くだん)の石碑に真新しいビニールシートが掛けられていたのである。「アーッ!」と事の成り行きを直感して停車、確認すると真新しい文字版が取り付けられていた、とって返してカメラを持参その日のうちに梅崎さんに「吉報メール」を送信した。  設置主体は那覇市市民文化部歴史博物館とあった。  〈尚、沖縄タイムス出版文化賞も併せて受賞された。琉球新報からも受賞があった記憶があるが、この記事作成に確認が間に合わなかった事も記しておく。〉

 ローソクもヒラヤーチーもソーミンタシヤーも無い台風でしたが、これを機会に一つ一つの雑事を丁寧にこなし、大好きな夏のスタートを切りたいと思っています。この半年を振り返り、第15号をお届けできそうなので気分のケリがつきホッとしている処です。約20年前に(40歳前後の頃)首里の東にある運玉森が山火事で焼けてしまいました。消火作業を見つめ「かわいそうにな~」と思い、次に「不憫に思うぐらいなら木を植えればいいじゃーないか!」と自分の心に逆に『火』をつけ、友人達に呼びかけて「運玉クラブ」というものを皆でつくり、5年計画で焼けた森に1200本の木の苗を植えました。次号では20年振りに運玉森を訪ね写真を撮り、当時の記録写真と併せて、自分の20年も振り返ってみたいと思います。運玉クラブOB2人と供に「運玉再訪」が楽しみです。
 あの頃、一緒に森を駆けていた少年野球の男の子や、ガールスカウトの少女達もいまでは陽気なパパやママになっていることでしょう・・・・・。
  [運玉森=ウンタマモリ=沖縄語でウンタマムイ、160M程の美しい独立丘、西原富士とも呼ばれる〕

» Read More

Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02

1955年11月 琉球史料研究会第一回総会
1955年12月 琉球史料研究会『琉球』1号□表紙題字・謝花雲石/表紙絵・大城皓也/東恩納寛惇「海表恭藩について」/稲村賢敷「宮古の家系考証」/喜捨場永珣「日琉古語辞集」/「琉球氏姓集」/城間朝教「琉球松の話」/外間正幸「玉陵庭出土品発掘記」/平敷屋朝敏「苔の下」/「自了絵・東恩納先生書簡より」/

1956年1月  『王代記』発刊

1956年4月 『琉球』第2号□島袋全発「行政区画と官衙」/奥里将建「円覚寺文化再認識(上)」/新屋敷幸繁「日本小歌史上の薩摩と琉球」/「琉球氏姓集」/仲吉朝敏「拾い集められた雑品(上)」/仲吉朝睦「のろこもいのマガタマ」/「混効験集」/通信抄ー金関丈夫・東恩納寛惇・比嘉春潮・鳥越憲三郎・仲吉朝睦(世田谷区玉川奥沢町)・桜田勝徳・島袋盛敏・宮良当壮・酒井卯作・三島格・吉田嗣延

1957年10月 『琉球』第6号□東恩納寛惇□『琉球』を読むー本誌も創刊以来足かけ三年、五巻重ねて、どうやら三号雑誌の危険区域を脱したもののようである。比嘉寿助君が、各家系譜の覆刻以来、採算のむずかしい仕事を引き受けて、郷土文献の研究保存に、全力を傾倒していられる事に対し、まことに感謝に耐えないものがある。私がここに若干苦言を呈せんとするのは本誌の健全なる成長を希い、比嘉君の事業をして有終の美をなさしめんとするの老婆深切からである。私は比嘉君を始め同人諸君が私の真意を汲み、これを認容する雅量を有せられる事を信ぜんと欲するのである。 

本誌には、毎号同人の研究発表の外、古典の覆刻版を附録にしてあるが、有り難い事に思っている。但し同じ事なら、その古典の選択に、今一段の考慮をし、今一段の研究的態度を示してほしいものである。吾々が古典文献の覆刻を希求するのは、一には保存の意味からで、かけがえのないものは、少しでも多く印行して残さない事には亡んで了う。現に郷土図書館に架蔵されていた、親見世日記や久米村日記の如き、極めて貴重な文献であったのに、戦災にあって滅んで了った。尚家の諸氏系譜もそうである。王代記やその類似の本は、古典覆刻とさえ云えば誰もが最初に手がけるものであるから類本が少なくない。和学と云えば平敷屋が持ち出される。才人には相違なく、又あの時代にあれだけの和文和歌を作った事も、多とするに足るものがあり又その数奇な運命も同情を買った所以であろうが、どちらかと云えば、一介の文学青年でその作品も、芸術的史料的価値は、それほど高くない。これに比べると、識名親方の思出草や、久志親雲上の雨の夜物語が、はるかに優れて居り、又その頃の沖縄の芸文全体をうかがう作品としては、浮縄雅文集がある。これ等をさしおいて、お座なりの『苔の下』など持ち出すにも及ばない事である。

喜安日記を出したのはよいとして、それならば異本を校合して、しっかりしたテキストを作ってほしかった。個人が校訂の任に当たったかは知らないが、まちがいだらけで、私も最初の間は、少し朱を入れて見たが、終いに腹立たしくなって、やめて了った。校訂者自身によく読めていなかったと見えて、なまじいよみがなをつけたものに、読みちがいが少なくない。苟も研究会と銘打ってある以上、権威ある研究の結果を示して欲しいものである。

琉歌集にしても、琉球新報社の富川本の覆刻では意味をなさない。この歌集には近代人雑歌なども多く取入れてあるから、それ等は削除すべきである。琉歌の「かなづかい」でも、おもろの本体にかえすべきであろう。山田有幹氏の正誤文には卓見が多い。しかし吾々が不満に思うのは、それほどの見識があり用意があるならば、何故に出す前に、自ら厳密な校訂を加え、動かないテキストを作らなかったかと云う事である。

混効験集にしても、流布本に誤りの多い事は吾々が已に指摘した。出す位ならば、博物館架蔵の評定所本を出してほしかった。坊間流布の活字本などを無批判に出して見たところで仕方がないではないか。要するに、ただ、出すと云うのではない。研究を発表し、権威あるものを出してもらい度いものである。

これまで私が読んだ中では林清国の天女伝説の研究が出色である。特に天女伝説が、王都の周辺に分布していると云う発見は、天女即王女説に有力な示唆を与える卓見である。同君は又丹念に、研究資料を採集されたようであるが、この種の努力に対しては、深く敬意を表せざるを得ない。ただしかし、その引用の系図は、いかなる性質のもので、何程の信ぴょう性のあるものかを、つきとめていただき度いものである。(忘言多罪)7月3日


『向姓金武家家譜』琉球史料研究会

» Read More

Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
null
2014年7月15日~8月31日 沖縄県立博物館・美術館「20世紀フランス絵画展ー山形美術館 服部コレクション」
【内  容】
 印象派の誕生以降、さまざまなモダンアートが展開したフランス、パリ。20世紀前半には、キュビスムやフォーヴィスム、シュルレアリスムなどが生まれ、芸術の一大中心地となりました。近代的な精神で造形の問題に取り組んだ前衛芸術がある一方で、身近な情景を個性豊かに描いたエコール・ド・パリの芸術家たちもいました。叙情的でどこか哀愁ただよう彼らの作品は、現在に至るまで多くの人々に愛されています。
 本展覧会では、フランス絵画を系統的に収集展示している山形美術館の服部コレクションより、20世紀前半を代表する画家ルオー、ヴラマンク、ピカソ、シャガール、ユトリロ、ローランサン、キスリングなどのほか、フランス絵画の伝統と受け継ぐ荻須高徳、ブラジリエ、カシニョールなど、戦後のフランス画壇を彩る作家58人の60作品を紹介します。

【出品作家】
ルオー、ボーシャン、ヴラマンク、ピカソ、ローランサン、ユトリロ、シャガール、キスリング、アイズピリ、アンビーユ、バブレーヌ、ボラン、ブラジリエ、ブレイエル、ブリアンション、ビュッフェ、カイヨー、キャロン、カルズー、カシニョール、カトラン、シャプラン=ミディ、クラーヴェ、コメール、コタヴォ、クトー、デイエス、デスピエール、ディーテール、フサロ、ザリュー、ガントネル、ガルシア=フォン、ジェニ、ギアマン、イスカン、ジャンセム、クーパー、ラビス、ラピック、ルシュール、ロルジュ、ミノー、ミュール、オギス、ウドー、ピガ、ルベイロル、ロッド、ロネール、タル=コア、テレスコヴィッチ、ティフー、ヴェリコヴィック、ヴナール、ワイズバッシュ、ヤンケル
以上、58作家、60作品。


写真左からー上原徹氏、岩崎セツ子さん、寒河江努氏、シャルアンリ・ブロソー氏、安里進氏




2014年8月22日 来場者1万人達成セレモニー
Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02



沖縄新報文庫の印が捺されている。

1943年  □仲本政基「私が沖縄新報の記者になったのは、昭和18年の10月であった。当時、沖縄は一県一紙になっており、琉球新報、沖縄朝日新聞、沖縄日報の3社が合併(昭和15年12月)してできたのが沖縄新報である。当時の社長は伊江朝助男爵で、専務が当真嗣合、常務が平尾喜一、総務局長兼編集局長が高嶺朝光、営業局長は親泊政博の各氏であった。工務局長はおらず、阿加嶺のターリーが工場長だったとおぼえている。編集局の陣容は、高嶺朝光氏の下に、外電関係整理が國吉眞哲氏、政経部に上地一史、仲泊良夫、与儀清三、座喜味盛良、勝連勇の諸氏、社会部は福地友珍、大城徳三(現在の牧港篤三)、友寄喜光、大山一夫の各氏が健筆をふるっていた。(以下略)」→1975年9月『那覇市史 戦時記録 資料篇第2巻中の6』

null
新城栄徳宛、仲本政基ハガキ「先日はさっそくコピーを送っていただき誠に有難うございます。大変なつかしく拝見いたしました。また記事の中に昭和俳壇の選者比嘉時君洞さんの名前が出ており、これもなつかしく拝見いたしました。(略)」
□1928年9月9日『沖縄昭和新聞』


『沖縄タイムス』写真1951年ー一人おいて比嘉秀平琉球臨時中央政府主席、ビートラー軍政副長官、ザルツバーグ・ニューヨーク・タイムズ社長、高嶺朝光、上地一史、座安盛徳、豊平良顕、ディフェンダーファー米民政府情報教育部長


1951年10月22日、米民政府情報教育部で開かれ「琉球の声・AKAR」から放送された第一回新聞週間・各新聞編集長座談会。向かって右から司会・川平朝申(放送部長)、ハードウィック(新聞部長)、國吉眞哲(琉球新報)、金城直吉(琉球新聞)、豊平良顕(沖縄タイムス)、比嘉憲蔵(沖縄朝日新聞)、宮城鷹夫(琉球弘報)、外間征四郎(琉球弘報)
null
1956年
1966年4月『新沖縄文学』創刊
null
null


2017年9月2日 那覇市歴史博物館ー左から外間政明氏、屋冨祖仲啓氏、新城栄徳

1993年5月『新沖縄文学』95号 屋冨祖仲啓「本誌歴代編集長インタビュー/」重要な節目ごとに、考える作業をしてきたことは大きい」

2003年2月 『沖縄を深く知る事典』屋嘉比収「沖縄の雑誌に見る『自己意識』ー『新沖縄文学』を通して」


上里佑子さん、銘苅氏、川満信一氏、新川明氏、



1999年10月 真久田巧『戦後沖縄の新聞人』沖縄タイムス社



左から豊平良一氏、新城栄徳



左からー新城栄徳、諸見里道浩氏、平良知二氏

» Read More

Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02

2015年10月10日 松島弘明『遥かなる「満州」~父と母たちの昭和~』新星出版


松島 弘明 2019年6月21日ー親父が満百歳の生涯を閉じました。子、孫、ひ孫らに声を掛けられながらの大往生でした。2ヶ月前に誕生日祝いをしたばかりでした。天寿全うです。大正、昭和、平成、令和の四つの元号を生き抜きました。3カ年のシベリア抑留を体験しました。20日初七日を終えました。

沖縄満洲会

2004年1月24日ー『沖縄タイムス』新城栄徳「うちなー書の森・人の網ー『沖縄満州会』の周辺」

2010年8月11日、パレット市民劇場で沖縄満州会主催の「嗚呼 満蒙開拓団」(羽田澄子演出)を観た。ミニ講話として山田實、新城勝両氏の話があった。会場には琉球新報の宮城修、高良由加利の両記者や、玉城朋彦、松島弘明の諸氏も居た。映画は1931年の満州事変以後、日本政府の国策によって、中国大陸の旧満州、内蒙古に入植させられた日本人移民の開拓団約27万人、そのうち約8万数千人が、ソ連参戦、日本の敗戦によって、帰国できずに亡くなった。そこから「残留孤児」などの問題が生まれた。中国人の養父母らが孤児を育て、その後に帰国した孤児と養父母との交流ー。日中友好が如何に大事かを考えさせられる映画であった。

終わると名城政次郎氏が居られたので「先日の新聞記事は届いてますか」と聞くと届いていたと返事と同時に、劇場入口でパンフを配っている女性を「家内です」と紹介してくださった。名城氏の郁子夫人で尚学院事務部長、沖縄満州会事務局を見ておられる。


パレット市民劇場で、左・名城政次郎氏、新城栄徳(撮影・松島弘明氏)



1998年3月 比嘉政夫『沖縄を識るー琉球列島の神話と祭りー』財団法人・歴史民俗博物館振興会

写真右から上間常道氏、松島弘明氏、比嘉政夫氏、伊佐眞一氏

null null

null
写真左から比嘉政夫氏、新城栄徳

null


2000年11月『宮良當壯記念論集』宮良當壯生誕百年記念事業期成会(石垣繁)比嘉政夫「八重山川平の親族と祭団の構造」


『琉球新報』2009年4月14日
比嘉政夫氏が死去 08年に東恩納寛惇賞         
 門中研究や村落祭祀(さいし)など沖縄・アジアの社会人類学的研究に取り組み、2008年2月に琉球新報社主催の第25回東恩納寛惇賞を受賞した比嘉政夫氏が13日深夜、入院先の病院で死去した。72歳。告別式の日程などは未定。
 比嘉氏は門中と親族に関する研究をはじめ、村落祭祀の研究や、信仰体系の研究など多岐にわたる沖縄研究の成果を蓄積した。沖縄各地にある綱引きや沖縄島北部のウンジャミなどの調査研究を基に、神観念や世界観、他界観について独自の見解を提示した。調査対象は沖縄、中国、タイ、韓国など広く、沖縄とアジアとの「比較民俗学」の方法論については、先駆的役割を果たした。沖縄大学地域研究所長などを務めた。



» Read More