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Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02

智積院ー高野山から根来山に、そして智積院へと脈々と伝えられる弘法大師の教え。智積院(ちしゃくいん)は全国三千の末寺を擁する真言宗智山派(しんごんしゅうちさんは)の総本山であり、檀信徒の皆さまの総菩提所(そうぼだいじょ)、総祈願所(そうきがんじょ)。


大原


三千院


金閣寺


大正7年製(1918年)で約90年経っています。製作時のままで、店名が打てレシートが出るのは日本中でも、おそらくこの1台だけではないかと思います。通称だるま(800型)といいます。重さは100kg以上あります。レシートの紙も特注品です。発売当時の\3,000は家が1軒買えたそうです。 (ケイズカフェオッジ)
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Posted by: ryubun02

1924年12月17日『沖縄タイムス』

渡口政興(1945年4月17日、奈良県で没)

1935年1月1日『沖縄日報』


左ー渡口政興/右ー政興の子息・慈啓氏(左)、渡口彦邦氏

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Posted by: ryubun02
豊里友行写真集『沖縄1999-2010 戦世・普天間・辺野古』沖縄書房(沖縄市照屋1の11の14 コザ銀天街内)

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発売元ー榕樹書林(〒901-2211宜野湾市宜野湾3-2-2電話098-893-4076)

豊里友行 携帯090-3418-0534

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中央ー彫刻家・金城実氏、左端ー詩人・高良勉氏

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50年余り国や県自治体の役人がやらない遺骨収集を続けた国吉勇氏。個人で「戦争資料館」も運営してきた。

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人間の鎖に参加する宜野湾市長の伊波洋一氏




2015年12月 『オキナワンブルー 豊里友行写真集』未来社


2014年3月ー左から豊里友行氏、山田實さん、金子隆一氏、仲嶺絵里奈さん

2015年5月5日~10日 那覇市民ギャラリー「豊里友行写真展 辺野古」





2014年11月 『豊里友行写真集 辺野古』(題字・伊江隆人)

ジュンク堂那覇店2015-6

2012年10月22日~31日 「豊里友行写真展・遺骨が呼んでいるー遺骨収集を続ける国吉勇さん」ちゃたん�

2012年10月22日~31日 「豊里友行写真展ー遺骨が呼んでいる・遺骨収集を続ける国吉勇さん」ちゃたんニライセンターギャラリー


2013年8月

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□1921年7月ー折口信夫、第1回沖縄採訪。折口はカメラを持参し写真を多く撮った。
折口信夫「組踊り以前」(青空文庫)
親友としての感情が、どうかすれば、先輩といふ敬意を凌ぎがちになつてゐる程睦しい、私の友伊波さんの「組み踊り」の研究に、口状役を勤めろ、勤めようと約束してから、やがて、足かけ三年になる。其間に、大分書き貯めた原稿すら、行き方知れずなる位、長い時の空費と、事の繁さが続いた。今日になつて、書きはじめる為のぷらんを立てゝ見ると、何もかも、他人の説でも受けつぐ様な気分がするばかり、興味の鈍つて了うてゐるのに気がついた。こんな無感興・認識未熟の文章が、友の本の情熱に水をさしはすまいか、と案じながら、ほんのぷらんを詞に綴つたと言ふだけの、組踊り成立案を書いて見る。さうせねば時間のない位、もう板行の時が迫つてゐるのを知り乍ら、うか/\してゐた事は、申し訣もない。
かうした解説文も、今六年以前なら、別に其仁があつたのである。亡くなつた麦門冬 末吉安恭さんである。大正十三年の末、那覇港大桟橋の下に吸ひつけられてゐた、なき骸を発見したとの知らせを聞いて、琉球芸能史を身を以て、実証研究する学者は、これで空に帰したのだ、と長大息した事であつた。此文章が、伊波さんの本の役に立つ傍、亡き南島第一の軟流文学・風俗史の組織者――たるべき――末吉さんの為の回向にもなれば、この上なく嬉しいと思ふ。

沖縄演劇史の探究の効果は、決して、東の海の波が西に越え、西の浪が東の磯にうち越える、と言つた孤島を出ないものではない。必、日本の歌舞妓芝居や、小唄類の発達過程を示すことになると言ふ自信だけは持つて居る。それでかうした文章も、この友の誂へをしほとして書いたのである。
南島における演劇関係の書物は、大抵、伊波館長時代の県立図書館の沖縄部屋とも称すべき室に、一週間籠つてゐる間に、そこに蒐められてゐたゞけの物は読んだ。だがもう、其記憶も薄れて来てゐる。それが、首里・那覇の学問の権威の、この本の為に、提供せられた資料の前には、星の光りにも値せぬ事を恥ぢるし、又沖縄人の嫌ふ、他府県人のいらざる世話やきにもなつて、島の彼方で苦笑する人々の、俤の浮ぶのも堪へられぬから、さうした引用や、伊波さんから貰うた、沢山の抜き書きなどは、勝手ながら下積みにさせて頂いて、今の場合、忙しい概念だけを綴る事にした。(以下略)



『折口信夫の世界ーその文学と学問』白根記念渋谷区郷土館・文学館、国学院大学学術フロンティア事業委員会・折口博士記念古代研究所
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1952年1月5日『琉球新報』釈迢空「千瀬の白波」


1957年10月 柳田國男編輯『民間傳承』<折口信夫博士還暦記念特輯>

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「千瀬の白波」原稿

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11/23: 林子平

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Posted by: ryubun02

林子平墓域(島袋和幸 撮影)

林子平
江戸後期の経世家。江戸生。幕臣岡村良通の次男。名は友直、号に六無斎。著書の『三国通覧図説』『海国兵談』が幕府の忌諱に触れ、板木を没収され、禁錮に処せられた。和歌〈親も無し妻無し子無し板木無し、金も無ければ死にたくも無し〉と詠んで、不遇のうちに歿した。寛政5年(1793)歿、56才。 →コトバンク

沖縄烽火のネットワーク連絡会/電話03-3695-9276「遠見台(火番盛)手帖」
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山田實・作「山田曼荼羅」


11月20日、仲里なぎさ文化の杜学芸員と

2014年11月26日『琉球新報』内山晴雄「声ー沖縄の聖母像」

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戦争と平和を考える詩の会□〒143-0016 東京都大田区大森北1-23-11 甲田方
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 堀場清子「祈り」
     (略)この美ら海に うらうらの浜に
      軍港と軍空港と核爆弾との
      巨大な米軍要塞の建設      
      強行する日本政府の悪政に 呪いあれ
      贋造のアセス調査書千々に裂き 捨てれ     


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2010年10月『いのちの籠』第16号□堀場清子「うらうらの 大村湾に」

2011年2月ー戦争と平和を考える詩の会『いのちの籠』第17号
千葉県の堀場清子さんから『いのちの籠』第17号(〒143-0016 大田区大森北1-23-11 甲田方 電03-3761-8454)が贈られてきた。

始めに、中村高春氏が「普天間基地問題を考える」と題し「マスコミの対応にも苦言を呈したい。彼等は深刻な基地問題を興味本位の政局問題に矮小化した。沖縄県民の側に立って発言する事もしなかった。元来、基地問題の本質が安保条約にあることを、マスコミは何故強調しないのか。この問題を、全国民的な課題にするためにはそれしかないのである。」と強調している。

堀場清子さんは「悲愁無限」と題し「昭和20年8月15日 すべてが終わった 『松代大本営』の工事も 七五パーセントまで進んでいて 放棄された  だが 消された労務者は 生き返らない 慰安婦にされた娘の純潔は 元に戻らない 敵艦に突っ込んだ特攻隊の命も 蘇らない 餓死した兵士らも 帰還しないー」と詠まれている。

堀場清子さんは「あとがき」で、「2010年11月の、沖縄知事選の結果には、深い失望を味わった。当選した現職の仲井真知事は、かつて”苦渋の選択”によって、普天間基地の辺野古への移設を容認した人であり、沖縄県民の反対意見の強さから、現在は『反対』の立場をとっているものの、幾つかのステップの後、またしても”苦渋の選択”に落ち着く可能性が考えうるー」と述べられている。

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Posted by: ryubun02
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□元和年中即ち今を去る三百年前江戸に七十許りになる風来僧がいたこの僧の懺悔物語が定西法師伝と云う一冊の書物になっている。史籍集覧などに載せてあるから大概の人は見た筈だと思うが余り云うた人もいないのを見ると注意されていなかったらろう余が特にこの物語に興味を覚えたのは外でもない。主人公の定西と云う人が嘗て我沖縄に来たと云うことであるこの物語の大半が沖縄に関した珍談奇聞を以て満たされている所である。・・・
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□慶長前の日本人
定西の話には随分誠とし兼ねる事が多いが彼が琉球に来たと云うことだけは疑うに及ばぬ慶長以前に琉球に来た日本人も記録の上に知られた者でも可なりあるが定西の大和かな染君は洩れている。先ず彼の先輩若しくは同時代の人として琉球に於いて名を知られた人々は英祖王の時文永年間(西暦126、45年より1274年頃迄)禅鑑と云う僧が渡来した球陽には・・・
2004年3月、奈良女子大学人間文化研究科「南方熊楠の学際的研究」プロジェクト」『南方熊楠に学ぶ』
大正7年5月27付の南方熊楠宛の末吉安恭書簡に「(略)この根抜けざることは、間々聞き候が、何に因し候や。右の袋中上人には、更に『琉球往来記』と申す書これあるやに承り候が、御存知なきや。若し御存知にて候はば、其の本の所在御示し下され度候。沖縄図書館にて琉球に関する書類を集め中に候が、加州金沢の俳人堀田麦水(天明3年63才没)の著書に『琉球属和録』『南島変』『慶長中外伝』(66巻)とあり。御存知なきや。「属和録」は写本にて(欠本)1部沖縄図書館にあれど他はこれなく候。加州金沢の俳人堀田麦水。屈麦水と称す。樗庵、暮柳舎と号、通称池田屋長佐衛門。」新城■麦水というのは角川『俳文学大辞典』に俳諧師・稗史実録作者とある。

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1909年4月『趣味』落紅「失ひし物得つと云ふよろこびに走りありきぬ園の芝逕/君がためわ手を貸しし春の川一人し渡れ寒き思ひに/われ笑めばともに笑まひてさりげなくよそほひ語る人名を知らず/梅の精すうととづべきけしきかな笛吹き廻る境内の月」
1909年6月『趣味』落紅「ともがらの憎みあざみに鍛へてしむかしながらの負けじ魂/ちちははに云はれぬことを子らはみなその日その日に神に申さく/怪しまずもとよりありし尾のごとく振りてよろこぶけだものの王」
1910年2月『スバル』落紅「南無阿弥陀南無阿弥陀仏あさましき獣の心とりしづめたまへ/半纏の男きたりぬ文をもて新片町にみぞ
れ降る日に/あやまちて湯をこぼしたる時よりも騒がず君を失ひし時」
1910年2月『趣味』落紅「豆ランプあるかなきかのうす明り物ぬふ妻のあるがわびしき/叔父上はおのが」若さに見たまひし女の名をばたたへますかな」
1910年3月『スバル』落紅「失ひし人をまた得しおもひしぬそのひらきたる眉目を見し時/石垣のふくれ出てたる下腹の危き下をつたひゆくかな/古き街欠びをなしぬ午後の四時乞食の嫗低くつぶやく/過ちも許さむといふ恋人阿にふたたびわれは過ちをしぬ」
1910年4月『スバル』落紅「親の親の遠つ親より伝へたるこの血冷すな阿摩彌久の裔」
1910年6月『スバル』落紅「石垣におしろいの花咲く夕べかなしく聞きぬとむらひの鉦/頣に毛ぬきをあててややしばしためらふ子等の答をぞ待つ/爪をもて梯梧の幹のやはらかき肌傷つけぬ歌をかくとて/汝が妻のいと新しき煙草盆まづ眼に入りておもしろきかな」
1910年7月『スバル』落紅「理髪店の鏡のなかに銅の湯気立つ額の映る日盛り/はてしなく君をおもへば大海をわたりし鳥の如くつかれぬ」
1910年8月『スバル』落紅「白蓮のはなびらのごとわが肩に落ちて来りし君が手のひら/ほととぎす藻草の如き夕雲のからみつきたる杉ばやし/南国の青葉の風は水のごと流れてゆきぬ君が肌に」

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1908年1月『文庫』麦門冬「垣越えて鶏逃ぐる木の芽かな/乳呑児の母の昼寝を這ひありく/旅旅籠の女幮吊る無口かな/短夜の酒の香臭き畳かな/奪はれて男にうたす砧かな/許されて山雀しばし庭ありき」
1908年4月『文庫』麦門冬「庭の隅古根の椿咲きにけり/院々の晝静かなり鳥交る/恋知らぬ子猫よ来たれ日向ほこ」
1908年6月『文庫』麦門冬「狛犬の眼鼻に梅の落花かな/病癒まし小姓召さるる梅の花/下張りの屏風乾きぬ小六月/葱畑に先生おはす懐手/甘蔗の干殻白き枯野かな/道草にちぎり馴れにし薄かな」
1908年9月13日□麦門冬「糸瓜忌や叱咤に漏れし人ばかり」
1908年9月『文庫』麦門冬「禅単をすべり出づれば夏の月/蝙蝠や傾城老いて里に住む/炎天や騎馬の法師が頬冠り/お給仕の振袖つづく夏座敷/物の怪の落ちて眠りぬ蚊帳の人/佛へは白き桔梗をまいらせん/南山を見る立膝の主人哉/月の方へ蔭の方へと踊りけり/恋さまざま古文殻の紙魚ぞ知る/かしましき傾城共や嘉定喰/面白うわらひ薬やけさの秋/松風の心動きぬ墓参/平新皇河鹿の歌を詠まれけり/蜻蛉飛んで辻説教の供赤し」
1908年8月『文庫』麦門冬「晒女の邊に泳ぐ家鴨かな/夏痩や柱鏡に向ひ立つ/膳椀の漆輝く暑さかな」
1908年11月『文庫』麦門冬「草紅葉蔵と蔵との間かな/力石夜毎に蚯蚓遶り啼く/芋の子の尻にしかれて鳴く蚯蚓/柳ちりて店鎖しけり姨が酒/花葱に八日の月や夕明り/草花を鉢に培ふ姉妹/立ちながら杯を重ぬる濁酒哉/猿酒を盗みに行くや雲深く」
1908年12月『文庫』麦門冬「まめまめしく硯洗ふや小傾城/魂のぬくもりを出る蒲団かな/頭巾脱いで故郷の山に別れけり/蛤になれず雀の飛びにけり/海に入る勧学院の雀かな/落人の跡かぐ犬や枯野原/傾城に物ねだれし夜長かな/うそつきの唇薄き寒さ哉/梅干を碓つく庭の小春かな」
1909年3月『ホトトギス』麦門冬「粥杖や人の妬みに打たれけり」
1909年2月『文庫』麦門冬「屁を放つて空々如たり冬籠/霜の夜を焼鳥すなる翁かな/寒月に着る火鼠の裘/汲みこぼす水一条や冬の月/寒月に身をすぼめ行く女かな/袋して髯を養ふ冬籠り/船に乗す贄の乙女や枯柳/冬木立祠あらはに石寒し」
1909年4月『文庫』麦門冬「松の内を灯しつづけて石燈籠/女郎衆の艶書合せや松の内/水視我が身の上の今年かな/菜畑水鳥のぼる朝かな」
1909年4月『文庫』麦門冬「粥杖のどつと笑ふや打たれけん/打笑ひて粥杖隠し待つ君よ/交りは手毬を替へてつきにけり」
1909年5月『現今俳家人名辞書』(紫芳社)麦門冬「院々の晝静かなり鳥交る/月の方へ蔭の方へと踊りけり」
1909年5月『文庫』麦門冬「湖近く住みて書楼の柳かな/鳳輦を拝する市の柳かな/木蓮に春の簾を半ば巻く/供養すんで撞き出す鐘や夕桜/さを鹿の八つの角振り落しけり/蛇穴を窈窕として出づる哉/小人も君子も春の日永かな/鶯に崖高うして噴井かな/鶯や天の岩戸に谺して/野遊や火縄に焦げる春の草/泥の香をほのかに嬉し田螺汁/打果てて我が畑廣く眺めけり/三畳に夕日さして梨の花」
1909年5月『趣味』麦門冬「春を惜む柱に屋根の重かつし」
1909年5月『ホトトギス』麦門冬「うららかや低き家並の田舎町」
1909年6月『ホトトギス』麦門冬「磯山を焼き下しけり波白し」
1909年7月『ホトトギス』麦門冬「夏百日梁の袋糧やある」
1909年8月『ホトトギス』麦門冬「翡翠や釣人去りし忘れ笠」
1909年8月『趣味』麦門冬「短夜のすさびにやあらん團扇の絵/傘たたむ雫に闇の蛍かな」
1909年9月『趣味』麦門冬「人訪へば留守とばかりや青簾/青簾湖紅いに旭の出づる/山眼前に聳えて暗し青簾」
1909年9月『文庫』麦門冬「摘み残す煙草畑の小雨かな/裏畑や枯木の枝も掛煙草/蝶々や梅に餘寒の羽づくろひ/南天の葉にさめざめと春の雨/春寒う人元服す神の前/御秘蔵の鶏抱き来る小姓哉/鶏の垂尾美し木の芽垣/山佛焼けてふすぶりおはしけり/山焼くる今朝や匂ひの一しきり/燃尽きて夕になりぬ山寒き」
1909年10月『ホトトギス』麦門冬「庫あけて人のあらざる日永かな/露の野に草刈りおはす王子かな」
1909年10月『文庫』麦門冬「釣床の揺るるに人は寝入りけり/碁敵を迎へて涼し箪/すいと立つ竹一本や露重し/露の野に草刈りたまふ王子かな/木犀に玄関先の月夜かな/風の葦物馴れ顔に行々子/風死して黒き林や三日の月/古雛の首ぐらぐらと動き給ふ/爐塞ぎて疎々しさや老夫婦/家康も組する蛙合戦かな/長閑さや大宮人の長尿/づかづかと小男出でて絵踏かな/狂女とて扶掖して来る絵踏かな/野遊や八重垣の妻見つけたり/城外にぬける泉や草萠ゆる/畑打の木に忘れたる茶瓶かな/山の人駕籠舁き馴れて霞かな/屋根草をしもべに取らす日永哉/摘み行けば摘み来る人や春の草/庫々の白きに柳青みけり/鶯の小さき枝をふみ馴れし/昼寝して彼岸の鐘や夢うつつ」
1909年11月『趣味』麦門冬「秋の蚊の溺れて乾く硯かな」
1909年12月『文庫』麦門冬「衝入の人驚きぬ大鏡/猪の子の眠れる穴や草暗し/鹽猪を苞にして山男かな/小夜更けて人のけはひや菊畑/旅にして扇を置けば淋しやな/帰んな里の妻々砧打つ/長き夜は又古き夜や思ひ事」
1909年12月『趣味』麦門冬「素車白馬粛々として露の中」
1910年2月『ホトトギス』麦門冬「魚蝦に富む家刀自艶に鴨の聲」
1910年4月『ホトトギス』麦門冬「薊喰はぬ馬のかぶりや牧の草」
1910年4月『趣味』麦門冬「春の水子別れ馬の顔洗へ/うつろ木の朽葉だまりや蛙なく」
1910年5月『趣味』麦門冬「椿落ちてまた廣がりし水輪かな」
1910年6月『文庫』麦門冬「親梅に子梅つれ咲く日和かな/朝寒の水にひらめく小鰕かな/鳥尽きて我武淋しき案山子かな」

1912年11月25日『沖縄毎日新聞』麦門冬「落葉ー斧研かん今朝砥水落葉上□澄めり/焚火に足がつき落葉林に捕つたり/鶏の掘る種子物に垣す落葉かな/山寒に焔□ると登山落葉□もなき/落葉火佛に茶湯す勘当の子を思ふ/貧の窃み捨て置けと曰や庭落葉/旅の女性湯参らそ落葉山冷えに/駿馬化石の口牌見ればげに落葉も/錠錆び祠落葉積むに人の詣つると」
1912年12月7日『沖縄毎日新聞』麦門冬「時雨雲水仙の魂も伴ふか/句黙録黙水仙に冬籠る」
1912年12月20日『沖縄毎日新聞』麦門冬「隼の啼けり末枯野の空晴れて/友と二た昔を語る岩姫隈柳未枯野を」

麦門冬「兎にも家してやらん冬近し/寒いぞや兎は籠に飢ふるぞや/筆持ちて物書く吾も海鼠ならん/一本の木橋渡らば枯野かな/天井に話の響く夜寒かな/冬構まづ障子より白うせり/冬も吊る蚊帳の煤けて哀れなり/掛取の来べき宵なり鎖ささん/貧厨の只打ち煙る年のくれ/角めだる妻を憎むや年の暮/親になき春省羨む年の暮/貧すれば悪の華咲く年の暮」
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3月21日『沖縄タイムス』末吉麦門冬「池宮城寂泡君の郷土文学叢書発行の序に代へて」
○池宮城君!君の郷土文学叢書発行の企ては誰も考えていて実行の機会を得なかったもので、至極賛成です。文学普及の為め其の効果頗る大なるものがあろうと思います。どうぞ根気よく続けて下さい。さてこれに序を書いて呉れとの御頼みですが、何を書いてよいものでしようか。此間御話したようなものを書きましょうか。私達の要求する所の郷土文学は一体どうあらねばならぬかと云うことは、私も考えないではありませんでした。一口に云うとそれは私達この郷土に生まれたのでなければ感じ得ない、把握し得ない、創造し得ない、表現し得ない内容でなければならぬと思います。本当の沖縄と本当の沖縄人が出て来なくてはなりません。而してこれを得るには、殊更に私達が郷土の色を深めよう濃くしようなどと意識的に努力しては駄目です。そうすると却って他国若しくは他県の者が、私達及び私達の環境を描いたものにあるような、●種の誇張され、歪曲されたものと似通ったものになります。それには私達の持とうと望んでいる或物が如実にあらわれません。似ても似つかぬものとなってしまう恐れがあります。殊更に他人に見せるようなものであってはならぬ、吹聴や宣伝では否ません、見せびらかしではない。・・・


3月23日『沖縄タイムス』伊波普猷「池宮城寂泡君の郷土文藝叢書発行に序す」
4月23日『沖縄タイムス』神田精輝「ペルリ提督 琉球訪問記 出版に就いて(上)」
4月24日『沖縄タイムス』神田精輝「ペルリ提督 琉球訪問記 出版に就いて(下)」
5月24日『沖縄タイムス』「琉球音楽界の長老 大田徳裕翁永眠 享年66歳」

6月 那覇の新天地でニコニコ大会メトロ社映画/バスターキートン主演「案山子・文化生活一週間」上映
○バスター・キートンは、アメリカの喜劇俳優、映画監督、脚本家。本名はジョセフ・フランク・キートン。チャーリー・チャップリンやハロルド・ロイドと並び、「世界の三大喜劇王」と呼ばれる。 ウィキペディア

◎1924年6月23日『沖縄朝日新聞』「歴史に現れた佛國と沖縄の交渉ー今を距る八十年前初めて佛船来たり泰平の夢を破る」

7月5日 佛艦アルゴール那覇港内桟橋に横着


1924年6月29日『沖縄朝日新聞』島袋源一郎「佛國宣教師渡琉史(1)」
1924年7月10日『沖縄朝日新聞』島袋源一郎「佛國宣教師渡琉史(10)」
◎1844年3月11日ー仏船アルクメーヌ号、那覇に寄港し、和親・交易等を要求、3月19日同船宣教師フォルカード①・清国人通事オーギュスタン=コウを残して那覇を離れる。  ①フォルカード Forcade, Théodore Augustin 1816-1885 フランスの宣教師。
1816年3月2日生まれ。パリ外国宣教会から派遣されて1844年(尚育王10)琉球の那覇に来航。布教には成功しなかったが,琉球語をまなび,「琉仏辞典」を執筆。日本代牧に任命され長崎にむかったが,鎖国のため上陸できず香港をへて帰国した。1885年9月12日死去。69歳。ベルサイユ出身。→コトバンク


1924年7月8日『沖縄タイムス』莫夢生「百日紅(1)ー仏蘭西と琉球ー唯一の外交史料」
  1924年7月25日『沖縄タイムス』莫夢生「百日紅(11)ー仏蘭西と琉球ー唯一の外交史料ー・・人類 もと一組より出て昔 遡れば皆同胞兄弟であるから、四海皆兄弟は人類の理想である。同胞兄弟おのおの父の家から分かれて 相拒み相絶つことを得ない。天下の兄弟も亦た然り 各々其の住むべき土地を分有しても、天下の大道は通行自由でなければならぬ・・・」



8月2日『沖縄タイムス』伊是名朝義「衆論・琉球人が答ふ 神村弔魚氏へ 」
8月6日『沖縄タイムス』伊是名朝義「衆論・正体を見よー排日法案」


8月12日『沖縄タイムス』「昨日女学校で伊東忠太博士の講演ー本県の建築に就て」


8月18日『沖縄タイムス』「伊東忠太博士の悦びー熱心な視察振に尚順男爵も感心」


8月19日『沖縄タイムス』「一昨夜、風月で昇曙夢 歓迎会」


8月26日『沖縄タイムス』「黒板勝美博士談ー首里城及び其の付近一帯を國寶として保存」

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Posted by: ryubun02
2月 関西沖縄県人会結成
2月 比嘉静観、ハワイで『赤い戀』(實業之世界社)発行
2月 伊佐早謙(米沢図書館長)、上杉茂憲の事跡調査のため来沖 


2月27日 『沖縄タイムス』莫夢生「サボテンー本県の姓名について」(エンゲルス「家族私有財産及国家の起源」)
2月29日 『沖縄タイムス』鎌倉芳太郎「八重山藝術の世界的価値ー近代藝術に於る新しき指針」
3月 沖縄県人同胞会(関西沖縄県人会)機関誌『同胞』(ガリ版)創刊

3月ー鎌倉芳太郎、伊東忠太との共同名義での琉球芸術調査が啓明会の補助を受ける。
1924-3
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原稿ー麦門冬が題字を揮毫したもの


4月 琉球歌人連盟発足(会長・山城正忠)
5月ー鎌倉芳太郎(東京美術学校助手)、沖縄出張し首里市役所内に「美術研究室」(写真暗室)を設ける。

5月 『科学画報』宮里良保「飛行機ものがたり」
6月23日 岸本賀昌、神村吉郎、宜保成晴、和歌山紡績会社で沖縄女工に対し講演
7月 田島利三郎『琉球文学研究』(伊波普猷・編)青山書店
7月1日 アメリカで日本人移民らを全面的に締め出す「排日移民法」実地
7月3日 『沖縄タイムス』莫夢生「地蔵漫筆ー水に住む蛙」
7月5日 フランス艦アルゴール号、那覇入港
7月8日 『沖縄タイムス』莫夢生「百日紅ー仏蘭西と琉球」
7月  山城正択、(財)生活改善同盟会から「時の功労者」の表彰状

7月25日ー伊東忠太、東京出発。7月29日ー開聞岳は古来海上交通の目標として薩摩半島の南端にそびえ、三角錐の美しい山容から「薩摩富士」の名を持ち、錦江湾の入口にあたる海門にあることから海門岳とも呼ばれ、舟人たちに大きな安堵感を与えていた。7月30日ー大島。8月1日ー那覇・首里「守礼門」「園比屋武御嶽石門」「歓會門」「「久慶門」「瑞泉門」「漏刻門」「百浦添御本殿」。8月2日ー「波上宮」「聖廟(浦添朝顕邸内)」「辧嶽」。8月10日ーデング①ーがやっと治ったばかりの身体で首里に赴き円覚寺、尚順邸、小禄御殿の石垣を見る。8月11日ー高等女学校で伊東忠太 講演「本県の建築に就いて」。8月14日ー暴風雨の中、鎌倉芳太郎と識名園、識名神宮を見る。中城城は中途で止める。
7月28日 関西沖縄県人会、那覇市公会堂で演説会
8月22日 第四回ふたば会絵画展覧会(那覇尋常高等小学校)
8月25日 黒板勝美、基隆丸で帰京


1924年8月26日ー第13回丹青協会絵画展覧会

1924年9月1日ー『日本及日本人』55号□末吉麦門冬「似せ涙」(南方熊楠と関連)
 2019年も後わずか。組踊上演300周年でもあったが、その舞台の首里城が焼けてしまった。首里城大火を暗示するかのように、今年の1月には国梓としひで『太陽を染める城』「(1)城が燃えている」、3月は与並岳生戯曲集2『火城』「首里城炎上、大飢饉・・・・・未曾有の国難を越えて、新生琉球の気概を示す国劇は、こうして誕生した!」が出されていた。なお、与並氏は琉球新報12月発行の『蘇れ!首里城』も編集している。

1929年10月に東京の春陽堂から発行された『校註琉球戯曲集』には末吉安恭(莫夢生)の「組踊談叢」「組踊小言」が収録されていることは夙に知られている。この組踊談の初出は1924年の11月3日『沖縄タイムス』からである。
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莫夢生「組踊談叢」「組踊小言」ー沖縄タイムス紙上では「組踊小言」は11月21日まで連載された。末吉は25日には水死している。おそらくまた題を変え組踊談を述べるつもりであっただろう。
〇1924年11月4日の「組踊談叢」に麦門冬は「今は故人となった書家の仲田朝棟」とあるが、これは朝株である。1907年4月の『琉球新報』に本県書家の1人として仲田朝株とある。仲田は首里区会議員(1896年~1910年)も務めた。1912年2月の新聞の死亡広告に友人として伊江朝助の名もある。朝助は戦後の1953年7月大阪『球陽新報』に七流老人名で「狂歌のやりとりー男色で有名な仲田朝株・・・」を書いている。


1924(大正13)年2月27日『沖縄タイムス』莫夢生(末吉安恭)「サボテンー本県の姓名について」
□そんなら母系家族制度とは、どんな社会であるかと云うに、これに対する答を得るにはモルガンの古代社会論を若しくはない。モルガンの「古代社会論」は今私も之を読んでいないが、エンゲルスの「家族私有財産及國家の起源」と云う書に引いた分だけでも母系時代が如何なる社会状態であったかと云う一般は知らるるのである。其の家族制度という章中に下の一節がある。(以下略)

2022-2-3沖縄県立博物館・美術館横の新城良一さんから1974年2月発行『銀座百点』№231を借りた。中に里見弴×渋沢秀夫「続・大正時代」で、渋沢が「私は一高寄宿舎にいた。新渡戸稲造先生が校長。あるとき徳富蘆花が来て『明治維新で封建諸侯が天皇のもとへ統一されたごとく、自分はクリスチャンだから、将来天の神様のもとに世界各国が統一されることを信じてる』『反逆者として井伊大老に処罰された吉田松陰が、現在は神社に祭られてる。だから幸徳秋水も遠い将来神社に祭られないとだれがいえるか』ということですよ。それをあんた、明治時代にいったんですからね。」
 幸徳秋水は末吉安恭がいつも気にしていた人物だ。1912年の「沖縄毎日新聞」元旦号に麦門冬は鑿(のみ)と題し「浦島太郎が龍宮へ行こうとすると声がするので振り返って『ヤア誰かと思ったら幸徳秋水君か君は又地獄の牢(ろう)破りをやったな』『急行列車で今着いたばかりさ』『君も浮かばれない亡者だナア』『ナアにこれから沈もうと思っている』」と書いているが本人も後年、那覇港で沈んでしまった。
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12月 『琉球と鹿児島』莫夢「薩摩関係の琉球五異人」

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1923年1月1日ー『日本及日本人』852号□末吉麦門冬「月徘徊」
3月 島倉龍治ら内務省より沖縄神社創立許可を得る
3月 嘉数南星『赤光』地響詩社(ホノルル市)
春  本部朝基、関西大学、警察などで空手を指導 
5月 高嶺朝光、沖縄朝日新聞社に記者として入社
6月 眞境名安興、島倉龍治『沖縄一千年史』日本大学
1923年6月15日ー『日本及日本人』864号□末吉麦門冬「黒坊ー近松門左衛門作、天鼓にー」「助兵衛(1)」(南方熊楠と関連)
1923年7月1日ー『日本及日本人』865号□末吉麦門冬「色情狂の所為」「遠目鏡(1)」(南方熊楠と関連)

1923年7月15日ー『日本及日本人』866号□末吉麦門冬「遠目鏡」「支那人と豚」(南方熊楠と関連)

7月 折口信夫、第二回沖縄採訪(~8月28日)
□沖縄採訪記ー末吉安恭「ふうる」「豚の化けた話」「赤身と白身との話」「かわかまぢぃ?」「火玉」「幽霊」「城人」「馬交を見せた話ー馬をつるませて、女たちに見せた話は、尚灝王にもある。」(●安恭の話は1918年5月の熊楠宛書簡でもふれている。)「うすぢ」「ならびち・くくんざけ」「蚤の船」「三比等のとんち」「<人の犯す事ある動物>儒艮を犯すれふしが時々ある。濱などにしんでいるのをさうするのである。又えいを犯す者も漁夫には多い。豚を犯して、豚が孕んで生んだ子を、人に悟られぬ様に埋めて了うたといふ話も聞く。」

1923年8月1日ー『日本及日本人』867号□末吉麦門冬「助兵衛(2)」(南方熊楠と関連)


8月11日『沖縄タイムス』莫夢生「老榕の鬚ー俳諧に現はれたあらぬ戀」

9月1日 関東大震災
    下地玄信、高安重正、普久原朝喜ら来阪



10月1日『沖縄タイムス』莫夢生「安楽椅子ー」
10月 又吉康和、『沖縄教育』編集専任幹事
10月 山城善三、大阪市堀江小学校教員
10月 岩元禧、沖縄県知事(1933年、鹿児島市長)
10月27日 柳田国男、ジュネーブのエスペラントの会で沖縄の話をする



11月15日『沖縄タイムス』莫夢生「おもろに現はれた中頭の四人衆(10)」

12月27日 摂政裕仁、難波大助に狙撃される
12月31日 下國良之助、来沖


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1940年12月6日『琉球新報』□共同声明ー光輝ある紀元二千六百年を迎へ大政翼賛運動の力強き発足に當り県下朝刊三新聞社は新体制に即応して来る12月15日より新たに沖縄新報を創刊し三新聞社は欣然その傘下に合同することになりました。新しい沖縄新報は組織ある統制と清新なる計画性を以って県民に対し豊富」なる報道と適切なる指導を以って、高度国防国家の建設へ微力を尽くし、併せて県勢の振興と文化の発展に貢献しやうとするものであります。県民各位もまた本県文化史上この画期的、新新聞の誕生を歓迎しこの快挙を絶対に支持して下さるものと信じて疑ひません 右声明致します 12月6日
                                   琉球新報社 沖縄朝日新聞社  沖縄日報社

1940年12月14日『琉球新報』本山裕児「美しき争ひー映画の魅力 上」15日 下
1940年12月16日『琉球新報』「母カメ 83歳で昨日死去 男 金城松 金城山吉(在南米) 孫 金城安太郎」



1945年4月
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1980年3月ー那覇市企画部市史編集室『写真集・那覇百年のあゆみ1879~1979年』
□琉球週報は米軍の前線部隊が捕虜となった日本人の協力をえながら発行した新聞である。創刊号が出た4月29日は奇しくも「沖縄新報」の終刊号が出た日であった。 参考ー2004年12月大田昌秀『沖縄戦下の米国心理作戦』岩波書店
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1945年7月26日『ウルマ新報』(ガリ版)創刊号
□第二号ー7月26日/第三号ー8月1日/第四号「原子爆弾太平洋戦線に現る」ー8月15日/第五号ー8月22日/第六号(この号から活字)8月22日=翁長良明氏所蔵□沖縄県立図書館は「大嶺薫資料」に入っている。

1945年9月ー外間政彰、ウルマ新報記者


石川時代の琉球新報本社社屋、2階が編集、階下が業務。右の平屋が工務。

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1946年ー前列中央・瀬長亀次郎社長、右が池宮城秀意編集長、2列中央・外間政彰

1948年7月ーうるま新報社、那覇市三区に新築移転

1950年  仲地米子、うるま新報記者
1951年3月 外間政彰、琉球契約学生として上智大学入学→4月 外間政彰、早稲田大学新聞学科転入
         この年、『琉球学生新聞』、日月社『祖国なき沖縄』に関わる
 
 

中央ー又吉康和
1951年9月8日 対日平和条約・日米安全保障条約調印→1952.4.28発効
『うるま新報』は講和会議の締結を機に9月10日『琉球新報』と改題した。


□1951年6月26日『うるま新報』國吉眞哲「声・新聞名改題について」
□琉球日報社は6月23日付の同紙紙上に社移転の社告を掲載しその中に「琉球日報」を「琉球新報」に改めて新発足すると述べ6月25日付のうるま新報、沖縄タイムス、沖縄新聞に掲載し同様「琉球新報」として新しく発足する旨述べている。琉球日報が何故「琉球新報」に改題するかの理由については何も述べていないのでその企図は不明である。
(略)
又吉康和、平尾喜一の両氏を始め当時の社員が20数名健在で新聞または他の職場に活動しているが何れも元「琉球新報社員」ということが経歴の重要部をなしまた社会信用の中心にもなっている。又吉康和先生その他旧社員に関係のない琉球日報が「琉球新報」を称することは快いものではない。新聞人の信頼に訴えて琉球日報社長及び同人に再考をお願いしたいと思う。(那覇市三原三区)
来る5月15日は「密約復帰の日」である。那覇市歴史博物館は4月21日から「あれから40年~Okinawaから沖縄へ~」、沖縄県立博物館は9月28日から「本土復帰40周年記念『Okinawaから沖縄へ(仮称)』」が開催される。何れも沖縄の現実を見れば祝賀とは縁遠い。それで、「あれから40年」とか、「Okinawaから沖縄へ」という表記になるのだろう。5月15日には野田首相も来沖するというが冗談としか思えない。
1951年6月28日 元琉球新報社員の沖縄群島知事平良辰雄への陳情書(解決したので使われなかった)

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『琉球新報』1953年1月ー中央・又吉康和社長、左・島袋全発主筆、又吉社長から右一人おいて國吉眞哲。

島袋全発筆跡




1972、73年局長団交メモ



1978年9月13日~18日 琉球新報社 東京大学・明治新聞雑誌文庫 主催「明治の新聞・雑誌展ー近代日本ジャーナリズムの源流ー」デバート・リウボウ

1986年8月13日ー『琉球新報』「『ウルマ新報』創刊号見つかるー故大嶺薫さんが保存。大嶺コレクションを整理していた富島壮英資料課長が発見」

1993年9月『琉球新報百年史』

新城栄徳作成「1893年9月『琉球新報』創刊から現在までの新聞・機関紙相関図」
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2012年1月3日ー『琉球新報』友寄貞丸「辰年に寄せてー『竜頭蛇尾』の民主党」

2012年1月4日ー『琉球新報』「対談 大城立裕さん×知念ウシさん」
2012年1月12日ー『琉球新報』矢部宏治「落ち穂ー米軍基地観光ガイド」
2012年3月4日ー『琉球新報』「新琉球考今沖縄を語るー古謝美佐子(民謡歌手)『母から沖縄戦のことをしょっちゅう聞かされていた。日本軍に対して、いいことは言ってなかった。目の前で見たみたいですよ、沖縄の人を銃剣で殺しているのを。・・・』(共同通信那覇支局)」

2012年3月6日ー『琉球新報』矢部宏治「落ち穂ー基地と原発④前回、米軍機は日本の航空法の適用除外になっているので、どんな『無法な』飛行もできる。(略)それと全く同じ。日本には汚染を阻止するための立派な法律があるのに、放射性物質はその適用除外となっているのだ!」

2012年3月13日『琉球新報』「社説ー公金返還知事謝罪ー不正の付け県民が払うのか」
2012年3月14日『琉球新報』「社説ー思いやり予算ー被災地の復興に充てよ」

2012年3月14日『琉球新報』「社説ー高江着陸帯訴訟ー沖縄に基地を押し付け続ける国の不正義と住民負担の深層に背を向けた、木を見て森を見ない判断と言えよう。(略)これ以上住民の声を封じる愚を重ねてはならない。」

2012年3月17日『琉球新報』「社説ー『捨て石』削除ー沖縄戦の本質から目を覆う暴挙だ」

2012年3月18日『琉球新報』「社説ー改正沖振法ー(略)1972年の日本復帰後、10兆1千億円を超える沖縄関係予算が投入され、道路や公共施設などの社会基盤が整備された。半面、投下された資金の多くは本土に還流した。沖縄関係予算が県内にとどまり地域の発展に直接結び付く仕組みをつくらねばならない。」/27面ー32軍壕・緊急学習会ー消される沖縄戦(上)山内栄さん「軍隊の本質考える場、捨て石は沖縄戦の肝」

2012年3月25日『琉球新報』1面「32軍司令部 説明板、沖縄県が設置」
所感→□誰に対してお調子者のカジノチジは受けを狙っているのだろうか知らないがこれでチジと「沖縄のこころ」は相いれないことが証明された。とにかくも沖縄電力時代の弱みを国に握られているのは間違いない。

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1945年7月26日『ウルマ新報』(ガリ版)創刊号


1948年6月29日『沖縄タイムス』創刊前に号外「通貨切り換え」


1958年4月『オキナワグラフ』創刊号

1958年8月21日『琉球新報』真喜志好一「キャンプ」

グラフ表紙左上が真喜志好一氏/2016年3月15日 山田写真機店で左から、新城栄徳、山田勉氏、真喜志好一氏



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