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2015年4月28日 沖縄県立博物館・美術館「戦後沖縄のはじまりのトライアングル・コンタクトーいくつもの<沖縄>をつなぐものー<沖縄・日本・米国の1945~1955年>」



講師を紹介する粟国恭子さん。左から松下博文氏、大城冝武氏、仲程昌徳氏



2015年4月 仲程昌徳『雑誌とその時代ー沖縄の声 戦前・戦中期編』ボーダーインク

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来賓祝辞ー新城靜喜・粟国村長

あいさつー伊良皆賢哲・粟国村教育長



写真左から新里有四郎オキジム会長、新城喜一氏、新城靜喜・粟国村長


新里有四郎オキジム会長(左)、新城栄徳氏








写真左が与那城昭広・粟国郷友会会長



閉会のことばー玉寄貞一郎
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1971年10月 沖縄の雑誌/『沖縄世論』創刊



沖縄県立博物館・美術館屋外展示場「民家」

2014年4月10日 神山吉光氏(閣文社社長☎098-885-4625)


2014年8月20日、左が神山吉光氏、新城栄徳
○神山氏は名護高校で山城賢孝氏に国語を教えられ、新聞部での指導を受けた。一期先輩に比嘉康文氏が居た。康文氏は山城氏の弟・末光氏と同級生。


 浦和市ー1995年以降は川口市を抜いて埼玉県内最大の人口を擁している。旧浦和市は埼玉県の県政、文化の中心都市であり、高級住宅地として知られていることから県内最大の市民所得(総市民所得、1人あたり市民所得ともに)を有するとともに、商業においても県内最大の売上となっている伊勢丹浦和店があり、さいたま市発足前の時点で旧大宮市に次ぐ県内第2位の商品販売額を誇っている。さいたま市発足以降はさいたま市役所が旧浦和市役所を利用して設けられ、旧市内でも浦和駅周辺地区はさいたま市の都市計画における都心地区の一つとして再開発が進められている。2007年には浦和パルコや市立中央図書館を含む再開発ビルが浦和駅東口に完成した。 →ウィキ
1986年6月6日『琉球新報』「われらウチナーンチュ 埼玉県⑦神山吉光さん」

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1945年4月
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『沖縄新報』
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『琉球週報』

1980年3月ー那覇市企画部市史編集室『写真集・那覇百年のあゆみ1879~1979年』
□琉球週報は米軍の前線部隊が捕虜となった日本人の協力をえながら発行した新聞である。創刊号が出た4月29日は奇しくも「沖縄新報」の終刊号が出た日であった。参考ー2004年12月大田昌秀『沖縄戦下の米国心理作戦』岩波書店

1945年5月7日 石川に城前初等学校開校 

1945年5月20日 『週刊朝日』親泊朝省「敵の恐怖、わが沖縄特攻隊」
1945年5月26日 南風原の野戦病院、真壁村に移動
1945年5月27日 第三十二軍司令部、首里から津嘉山へ、ついで摩文仁に移動(~30)/『週刊朝日』土屋文明「琉球阿嘉島国民学校生徒の勇戦を讃ふ」

1945年6月23日 沖縄戦終結ー戦没者 一般住民9万4000人、日本軍将兵9万4136人、アメリカ軍将兵1万2281人 計20万417人

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1945年7月26日『ウルマ新報』(ガリ版)創刊号
□第二号ー7月26日/第三号ー8月1日/第四号「原子爆弾太平洋戦線に現る」ー8月15日/第五号ー8月22日/第六号(この号から活字)8月22日=翁長良明氏所蔵□沖縄県立図書館は「大嶺薫資料」に入っている。




1945年9月5日『ウルマ新報』(活字)「ミズリー号で歴史的署名式、劇的に終了」「日本に於いては闇取引が盛ん」」「軍政府に於いては本島民待望の通信事務開始」
1945年9月26日『ウルマ新報』「マッカサー元帥の語る日本の現在と将来」「アメリカ国務長官代理アチソン氏『マッカーサーは単なる管理者で政策決定の権限なし』」「各地区市会議員当選者」
1945年11月11日 東京丸ビルの沖縄県事務所で沖縄人連盟発足
1945年11月21日『ウルマ新報』「米英加の三国首脳 原子エネルギー会談」
1945年12月6日 沖縄人連盟機関紙『自由沖縄』創刊(編集発行・比嘉春潮)
1945年12月19日『ウルマ新報』「山下泰文大将 死刑の宣告」「糸満市建設着々」
1945年12月26日『ウルマ新報』アメリカ合衆国マリン軍大佐・軍政府副長シー・アイ・マレー「年末の挨拶」

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1948年1月2日『うるま新報』「米下院小委員会の太平洋現地視察報告書ー沖縄に大空軍基地を!」「国頭の林道愈々着工」
1948年1月9日『うるま新報』「新春に寄するマ元帥の声明ー建設の決意持ちて」「郷土芸術の誇りー向井文忠氏が沖縄博物館に寄託、自了、田名の逸品帰る」「心音ー太田良博」「横光利一氏死去」
1948年1月30日『うるま新報』「マ司令部声明ー旧勢力を倒せ、持て!自由への情熱」「頑張れ故郷の青年よ、嬉しい心の贈り物 在京学生から図書四百余冊」」「心音ー名嘉元浪村」「ガンヂー翁断食を中止」「南東亜細亜の人民ー経済と政治 苦難に挑む」
1948年2月6日『うるま新報』「ガンジイ翁暗殺さる」
1948年2月27日『うるま新報』「東京裁判/極刑を検事長論告」「映画常設館(アーニーパイル国際劇場)、那覇に出現」「東洋のバルカンー北朝鮮に独立政府」
1948年5月21日『うるま新報』「イーグルス少将ー琉球新軍政長官着任」
1948年6月25日『うるま新報』「沖縄郷土史由緒の地、中城城跡を公園化¥米人遊覧者殺到、村民が美化作業」

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1948年6月29日『沖縄タイムス』号外/1948年7月1日『沖縄タイムス』第1号
1948年7月2日『うるま新報』「新装なる姫百合塔」
1948年7月23日『うるま新報』「南鮮大統領に李博士」
1948年7月26日 崇元寺でリウボウの前身、琉球貿易商事が設立される。
1948年7月30日『うるま新報』「美術の講習ー従来石川市東恩納に設立されていた美術家協会は古都首里市西端風光明媚 西森に去月移転を完了」
1948年8月10日『沖縄タイムス』「弾薬整理船の大爆発 伊江島沖の惨事・死者百二十名」

1948年8月27日『うるま新報』「ビ軍票の効用」
1948年9月3日『うるま新報』「美術協会、研究所開く」
1948年10月1日『沖縄タイムス』「ハワイよりの豚・恙なく上陸」
1948年10月8日『うるま新報』「昭和電工 疑獄拡大す」
1948年11月17日『沖縄タイムス』「極東軍事裁判・歴史的幕を閉すー抉り出された侵略戦争策謀の跡/東条被告ら7名絞首刑言渡し」
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1950年1月1日『沖縄タイムス』「シーツ長官年頭の辞ー繁栄と平和」「終戦直後約32万といわれ、49年末までの4ヵ年に約24万の驚くべき増加」
1950年1月1日『沖縄タイムス』「日米防衛同盟協議かー講和締結後・考慮される在日兵力の沖縄移動」
1950年1月7日『沖縄タイムス』仲宗根源和「軍政下の政党活動(1)」
1950年1月11日『沖縄タイムス』「シ長官政党代表会見内容詳報(1)軍の施策を充分に理解せよ」
1950年1月11日『うるま新報』「政党との会談内容(1)ーシーツ少将」
1950年1月12日『うるま新報』「政党との会談内容(2)ーシーツ少将」
1950年1月13日『うるま新報』「政党との会談内容(3)ーシーツ少将」

1950年1月14日『うるま新報』「シーツ長官 農民に告ぐ 肥料の大幅値下げ・卸値発表さる」、せきほう「心音ー風雨やみ」』「政党との会談内容(4)ーシーツ少将」
1950年1月15日『うるま新報』「政党との会談内容5)ーシーツ少将」「原子力軍艦数年内に実現か」
1950年1月17日『うるま新報』大宜味朝徳「沖縄と観光施設(1)」
1950年1月18日『うるま新報』「シーツ長官談/住民よ元気出せ、待望の食糧値下げ実現!」
1950年1月19日『うるま新報』大宜味朝徳「沖縄と観光施設(2)」「シ政策はこうして生まれる」
1950年1月20日午後2時 安里・沖縄劇場で沖縄興行連盟主催/沖縄タイムス後援「シーツ長官に贈る興連芸能大会」
1950年1月21日『沖縄タイムス』「水素爆弾ートルーマン大統領製造に同意か」「沖縄反共同盟設立準備会(島袋紀成)ー反共宣言」

1950年1月21日『うるま新報』「今度は商業面の本格的復興へ=シ政策・矢つぎ早に朗報=写真「シーツ軍政長官」

1950年1月22日『沖縄タイムス』「シ長官ステージより・住民へ・・皆の力でよい島に、自立を助けるのが私の使命」
1950年1月25日『沖縄タイムス』「亡夫の遺志つぎ大海にいどむ沖縄女性・照屋敏子」
1950年1月25日『うるま新報』「水素爆弾 ソ連も作るか」
1950年1月27日『沖縄タイムス』「全島の名所案内、ハワイの『お客』を迎える観光コース案決る」
1950年1月28日『沖縄タイムス』「盛り場を荒らすチンピラ組/全島各地で百余名も」

1950年2月1日『うるま新報』「シ長官、市町村長代表と初会見ー農は国の本」
1950年2月1日『沖縄タイムス』「シ長官・村長代表へ語るー篤農家育て新しい農法をひろめよ」


写真左がシーツ軍政長官、志喜屋孝信


写真左から2人目がシーツ軍政長官
1950年2月8日『うるま新報』「嘉手納さん母娘へーシ長官から伝達 愛情こもるケア小包授与式」

1950年2月9日『うるま新報』「シーツ長官談話ー那覇旧市内その他開放」


2月12日『琉球日報』第一号

1950年2月19日『うるま新報』「シ長官が奮起を要望『海運こそ全琉復興の基礎』」
1950年2月21日『沖縄タイムス』「ハワイの郷土訪問、シ長官も自ら乗り出す。二世会の厚生園慰問、シ長官も踊る」
1950年2月23日『沖縄タイムス』「米、ブルガリアと断交、外交官を引揚げる。ハンガリーとも断絶」
1950年3月5日午後1時 中城公園開き、シーツさんが感慨の挨拶、5年前の暗い丘に今訪れる復興のあけぼの」


1950年3月14日『うるま新報』「ハワイ訪問団第一陣きのう上陸/シーツ長官挨拶『意義深き訪問』」
1950年3月19日『うるま新報』「いすゞバス5台、消防車6台引渡式、シ長官から知事へ」
1950年3月21日『うるま新報』「沖縄の軍工事 第一期建設を指令」「沖縄基地(1)ー港湾改修、兵舎建築など」
1950年3月22日『うるま新報』「沖縄基地(下)ー工事の早期着手は重要」
1950年4月1日『うるま新報』「ハワイ訪問団、姫百合塔に感無量ー死を賛美する教育追放せねばならぬ」
1950年4月13日『うるま新報』「シーツ長官、待望の為替比率を改定 B円120対1弗」
1950年4月14日『うるま新報』「那覇都計案、シーツ長官も承認」「読谷高校独立」
1950年4月18日『うるま新報』「アニーパイル慰霊祭、きよう伊江島で」
1950年4月20日『うるま新報』「所有権の認定布告きのう発布式、軍政府からシーツ長官、ハインズ副長官らが列席」
1950年4月28日『沖縄タイムス』「AP記者トム・ラムバート『シーツ治下の沖縄(1)』」
1950年4月29日『うるま新報』「AP記者の眼に映じた沖縄ーシーツ少将の下に復興進捗」
1950年5月3日『沖縄タイムス』「原子力時代、米海軍近代化」「米琉親善日、三ヶ所で式典挙行」」
1950年5月6日『沖縄タイムス』「本社座安専務マ元帥と会見ーシ政策に協力せよ」

1950年5月11日『うるま新報』「援助を惜しまない胡差の商店街(ビジネスセンター)シ長官が城間村長を激励」
1950年5月12日『うるま新報』「シ長官が説く 琉球経済の復興に鍵を握るは農民だ」
1950年5月16日『うるま新報』「琉球文化研究会、ゆうどれ陵調査」
1950年5月20日『沖縄タイムス』「わが生涯最良の日、中城公園内記念碑除幕式に参列するシーツ長官」『鉄の暴風』ちかく朝日社より出版」
1950年5月26日『沖縄タイムス』「きよう初の米琉親善日ーシーツ少将挨拶『相互の友愛と理解で築く復興の礎』」
1950年5月26日『うるま新報』「きよう意義深き米琉親善日ー相互に深き理解こそ琉球復興への道!シーツ長官住民へ協力要望」
1950年6月7日『うるま新報』「徳田氏等中央委員24名マ元帥の指令に基づき政治活動一切を禁止」
1950年6月23日『うるま新報』「ジョンソン国防長官、プラトレー統合参謀本部議長きのう沖縄を視察ー沖縄を難攻不落の要塞化、米軍は長期駐屯。一切の攻撃に堪える施設建設」
1950年6月23日『沖縄タイムス』「天久、上之屋一帯軍用地で立退き」
1950年6月27日『沖縄タイムス』「北鮮、南鮮に宣戦布告、三八度線を越境し全線に亘って進撃」
1950年6月29日『沖縄タイムス』「米軍遂に出動ー空・海軍韓国を支援」
1950年6月30日『沖縄タイムス』「マ元帥韓国前線へ」
1950年7月1日『うるま新報』「マ元帥遂に三八度線以北の北鮮基地攻撃命令を発す」「アーモンド総司令部参謀長声明/平壤に爆弾の雨」
1950年7月4日『沖縄タイムス』「シ長官ー琉球は平常な状態=不当な憂慮に警告」
1950年7月28日『沖縄タイムス』「シーツ長官去るーマ指令に沿い親しく住民と復興へ」
1950年7月28日『うるま新報』「シ長官病気で離任、後任はマクローア少将」
1950年7月30日『うるま新報』「シーツ少将 新長官を讃う」 各団体代表者別れの辞」
1950年8月1日『うるま新報』屋宜憲三「戦後の沖縄経済に就いて(上)」「漢那憲和氏29日死去」、山里永吉「法隆寺と金閣寺」
1950年8月2日『うるま新報』南風原朝保「医療制度についてーアメリカの医療制度の紹介かねての感想」
1950年8月4日『うるま新報』「英国 原子計画進む」「水爆生産に着手」米原子委、デュポン会社と契約」
1950年8月25日 沖縄タイムス社『鉄の暴風』(装丁・末吉安久 挿絵・牧港篤三)朝日新聞社

1950年11月15日『沖縄新民報』「10月31日、首里市西森で沖縄美術連盟総会。沖縄美術家協会(屋部憲会長)沖縄美術連盟(山田眞山会長)の両団体を発展的に解消、新たに沖縄美術協会を結成した。」

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Posted by: ryubun02
那覇区泉崎の士族・久場政敦(漢学者)の長男として首里区桃原町で生まれる。弟に政盛、政和が居る。
1896年 沖縄県師範学校卒業。台湾で小学校訓導として8カ年勤務、上京
1909年 朝鮮に渡り、学校教育に専念する一方、金石文の拓本の研究を積む。

1923年
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植村正久を囲んで/上の木の枝間から見える左が久場政用。前列右2人目ー新垣信一牧師(子供二人の後)、3列目右から4人目ー大城カメ姉(元玉城ノロ職)

植村正久【うえむら・まさひさ】.
生年: 安政4.12.1 (1858.1.15)
没年: 大正14.1.8 (1925)
明治大正期のキリスト教思想家,牧師。幼名道太郎。謙堂,桔梗生などと号した。家禄1500石の旗本の長男として上総国山辺郡武射田村(千葉県東金市)に生まれる(一説に江戸芝露月町)。大政奉還により生家が窮し,貧困の中で幼年期を過ごす。明治1(1868)年,一家で横浜に移った。この地で宣教師J.H.バラの私塾などに学ぶうちキリスト教にふれ,同6年,日本最初のプロテスタント教会横浜公会で受洗。伝道を志して東京一致神学校(明治学院)に学び,按手礼を受け,同13年に下谷一致(日本基督教団豊島岡)教会の牧師となる。同20年,番町一致(日本基督教団富士見町)教会を設立,終生その牧師を務めた。関東大震災(1923)で被災した教会や神学校の復旧に奔走する中で健康を害し,東京柏木の自宅で急逝した。 植村の事績は以下の3点にまとめられよう。①日本におけるプロテスタント・キリスト教の草創期にあって教会の育成に尽力し,特に日本基督教会と称する主要教派の形成発展に指導的役割を果たした。②日本における正統的プロテスタント信仰の神学的基礎を固め,神学校の東京神学社を創設(明治37年)して自ら神学校育と伝道者の養成に当たった。③『日本評論』,『福音週報』(のち『福音新報』と改題)などの定期刊行物を発刊し,キリスト教のみならず国家社会の諸問題をめぐって幅広い評論活動を行った。また,聖書の翻訳や讃美歌の編纂事業にもかかわり,旧約聖書の詩篇などに名訳を残した。島崎藤村の詩「逃げ水」(『若菜集』)は植村の訳した讃美歌の書き替えであることは名高い。また文学評論や英文学紹介の業績も評価されている。 植村はキリスト教の根本義を,罪ある人間がイエス・キリストの十字架の死と復活に贖われ神との和を回復することにあるとした。その罪意識の背後には,志を天の高みに向ける武士の克己の精神をみることができる。『植村正久著作集』全7巻がある。<参考文献>藤田治芽『植村正久の福音理解』,京極純一『植村正久』 (鵜沼裕子)→コトバンク


1926年5月23日『沖縄タイムス』


1932年8月31日 久場政用『琉球金石総覧』(鹿児島県立図書館所蔵)
□近頃郷土研究熱の勃興と相俟って金石文及其の拓本の蒐集に努力する人々が多くなりました。東京に於いては早稲田大学生の一団が展覧会を開いて金石文の拓本趣味を盛んに宣伝しております。関西では京都大学生が目覚ましい働きをしているようです。


久場政用 1934年調査『琉球列島之文化史料と博物資料』

1935年4月 『沖縄教育』第224号 島袋源一郎「蓬莱島琉球と黄金の島大琉球ー(略)偖て之が裏書をなすべき郷土の文献とは過般久場政用氏に依嘱して県下に於ける金石文の拓本をとって貰ったら、『中山國王殿前に懸けし巨鐘の銘』に、琉球國者南海勝地(略)」


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沖縄県 至聖廟拝覧紀念

中村不折「猗器の誡(ききのいましめ)」 昭和16年(1941)
水を満たすと覆る猗器(画面左)を人間の高慢な心にたとえた、中国春秋時代の故事を題材とした作品。画面中央の人物は孔子である。[


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2012年3月19日14時ー久米至聖廟建設工事安全祈願祭



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新城喜一画
1933年4月7日ー久米孔子廟

(社)久米崇聖会 1914年(大正3年5月)、孔子廟・明倫堂を組織的に管理運営するため久米村の有志により社団法人として設立されました。太平洋戦争で一時中断しましたが戦後復活し、2014年(平成26年)には100周年を迎える歴史の古い団体です。戦後は那覇市若狭の天尊廟地内に構え、道徳の高揚を図り久米至聖廟(久米孔子廟)、天尊廟、天妃宮、明倫堂などの維持管理と釋奠祭禮の祭祀、人材の育成、もって地域社会への貢献、広く国際平和のために寄与することを目的として活動しています。□→「久米至聖廟」

2013年2月4日記ー那覇市 福州園
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福州園に隣接の久米至聖廟が建設工事中

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李白像
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04/10: 中国①

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1936年 『琉球新報』「『黄尾嶼』の所有権 古賀記者の厳父が開墾 猟奇の島を語る古賀氏」

1972年4月~5月 「沖縄青年訪華団」
「沖縄青年訪華団」団長・友寄英正、副団長・田島一夫、秘書長・仲里効、顧問・新川明、大浜敏夫、上原勇、池原盛治、上原俊夫、島袋温子、仲村渠由美子、祝嶺定夫、随員・松尾藤男

1973年1月 沖縄の雑誌『青い海』<特集 中国と沖縄をつなぐ>


金城朝夫「”唐旅”印象記」、島袋温子「見たまま、感じたまま『中国の婦人』」


1974年7月、大阪で「中華人民共和国展覧会」があった。元沖青友の会のメンバーが中国関係の売店で働いていた.そのとき買ったものに『人民中国』、『毛主席語録』と大中国地図などがある。
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『毛主席語録』/中国地図は沖縄関係資料室の右の壁に貼った。


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1982年北京『辭源』/1982年上海『中國歴史地圖集』

2009年10月 荘魯迅『一冊でつかめる!中国近現代史』講談社□2011年9月 荘魯迅・著/劉宗徳・訳『台灣不教的中國近代史』大是文化有限公司

1992年6月 「中国大陸3000キロ踏査行連続講座」浦添市立図書館視聴覚ホール

1993年3月 『道を拓くー甦る進貢使路 中国大陸3000キロ踏査行』同実行委員会
□名誉会長・太田昌秀沖縄県知事、名誉副会長・比嘉敬沖縄タイムス社社長、会長・新川明沖縄タイムス社専務、副会長・大城進一沖縄県知事公室長、同・比嘉昇沖縄県市長会会長、同・山城時正沖縄県町村会会長、同・親泊康晴那覇市長(福州友好都市)

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2000年北京『清代中琉関係档案』

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2001年 紫禁城出版社『清史図典』

2004年8月20日~9月30日 那覇市民ギャラリー「中国・北京故宮博物院蔵 帰ってきた琉球王朝の秘宝展」主催ー那覇市、(財)海洋博覧会記念公園管理財団、沖縄テレビ放送、琉球新報社、沖縄産業企画

2008年11月1日~12月21日 沖縄県立博物館・美術館「中国・北京故宮博物院秘蔵 甦る琉球王国の輝き」(沖縄県立博物館・美術館一周年記念博物館特別展)主催ー沖縄県立博物館・美術館、沖縄県教育委員会

2012年11月23日『沖縄タイムス』新川明「尖閣を沖縄帰属へー(略)さいわい、次の中国国家主席になる習近平氏は福建省長だった2001年に来沖、翌年の友好省県締結5周年記念イベントを提案、成功させるなど親密な関係にあった。当時の県知事稲嶺恵一氏は『琉球の歴史に詳しい。一種の身内意識のようなものを抱いていたのではないかと思う』とその印象を書きとめている。沖縄を日中のかけ橋とする好機にすべきである。」

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2009年6月『いのちの籠』12号 三井庄二「『反戦反核映画』考(5)ー『卵を割る壁』の側にならない」
2010年2月『いのちの籠』14号 三井庄二「『反戦反核映画』考(6)ー木下恵介作品に見る母親像(上)」
2011年6月ー『いのちの籠』第18号ー戦争と平和を考える詩の会(〒143-0016 大田区大森北1-23-11 甲田方)
堀場清子□いのち
(略)安全より利潤をむさぼる電力会社と
癒着する経済産業省 文部科学省
それにぶらさがる原子力安全・保安院は
まさに監督すべき危機に瀕し
真っ先に逃げ出した
役立たずでいながら高給を食む
原子力安全委員会委員長
族議員たち 御用学者たち
欠陥原子炉と 欠陥発電所の設計者 建設業者
電気機器等いっさいの設備製造会社と その施行業者
地元の誘致派に至るまで
儲けた人は数多く
利権の金の水脈 たふたふと流れ ゆきわたり(略)

2011年10月『いのちの籠』19号 三井庄二「『反戦反核映画』考(8)ー1950・60年代の『反原水爆』」
2012年2月『いのちの籠』20号 三井庄二「『反戦反核映画』考(9)ー70年代末以降の『反原発』『反核』」
2012年6月『いのちの籠』21号 三井庄二「『反戦反核映画』考(10)ー『劇映画』2000年以降と『記録・アニメ映画』」
2013年6月『いのちの籠』24号 三井庄二「『反戦反核映画』考(11)ー映画界・映画人の戦争責任」
2013年10月『いのちの籠』25号 三井庄二「『反戦反核映画』考(12)映画界・映画人の戦争責任」
2014年10月『いのちの籠』28号 三井庄二「キジバトになった少年の話」

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ジミー創業者の稲嶺盛保氏宅の大嶺政寛の作品、新城栄徳、稲嶺盛保氏
□2007年7月『オキナワグラフ』「私の宝ものー稲嶺盛保」
稲嶺盛保さんと翁長良明(沖縄コレクター友の会副会長)とは、長年にわたる大家と店子の関係で親しい。
□2008年2月『オキナワグラフ』「私の宝ものー翁長良明」


□戦後まもない1947年、沖縄の人びとも、ようやく雨露をしのげる家を持ち、ほっと一息ついていたそんな頃、創業者の稲嶺盛保は米軍基地内で働いていました。基地の外の食糧配給売店では、米・小麦粉・トウモロコシ・缶詰などが政府の統制下で売られていた時代です。それとは対照的に、基地の中では豊かな物資であふれた別世界が広がっていました。
基地内で働くうち、アメリカ人の友人も出来、稲嶺はジミーというニックネームで呼ばれるようになりました。そんなある日、基地内のベーカリーで働く友人に声をかけられ、香ばしいパンが出来上がるのを見て、基地の外でのパンづくりを思い立ったのです。それから、鍋などの道具は何でも手作りし、パン焼きに必要な機械を揃え、1956年ついに宜野湾市大山にて店舗をオープンさせました。店の名前は、ニックネーム「ジミー」より、「ジミーグロセリー」に決めました。基地からベーカリー専門の技術者を招き、おいしいパン作りを探究しながら、製品の流通・販売なども手がけていくうちに、地道なパンづくりと商いが実を結び、事業は順調に伸びていきました。

そんな矢先、沖縄復帰が決まり、基地雇用者の大量解雇や物価の高騰、ドルショックやオイルショックなどの経済変動に直面し、一時経営不振に陥ります。稲嶺は、その打開策として、スーパー、レストラン、ベーカリーの3本柱にしぼるという経営転換策を打ち出しました。そして、1976年有限会社ジミーベーカリーに組織を変更、同年12月ジミー大山店新店舗完成。日本国内だけでなく、ヨーロッパ、ハワイ等世界各国のベーカリーや流通産業を巡り、その優れた技術やシステムを導入。さらに、那覇店、室川店、ダイナハ店と確実な拠点づくりを行い、技術の習得や品質の向上など食に対する様々な研究を重ね、1984年7月には「株式会社ジミー」を設立しました。 1989年、宜野湾市大山に最新設備と規模を誇る本社・工場が完成し、常に安全で美味しい食品づくりを目指す食の総合企業として今日に至っています。→JIMMY's INFORMATION

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Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
筈見有弘(1937年~1997年6月14日) 父は筈見恒夫。慶應義塾大学文学部卒。イタリフィルム(のちの東京第一フィルム)、日本ヘラルド映画宣伝部を経て、映画評論家。妻も映画評論家の渡辺祥子(共立女子大学文芸学部 映画専攻。卒業後、雄鶏社「映画ストーリー」編集部入社。PR誌編集長を経てフリーのライターになり、今日に至る)。

筈見恒夫(はずみ つねお、1908年12月18日 - 1958年6月6日)は、日本の映画評論家である。映画の宣伝マンの傍ら、批評活動をつづけ、途中、映画プロデューサーをつとめたことがある。23歳のときに脚本家としてもデビューしている。本名は松本 英一(まつもと えいいち)、サイレント映画の時代に活躍した映画監督の松本英一とは別人である。満49歳没。一周忌を迎える1959年(昭和34年)6月、岸松雄、長男筈見有弘らの手で『筈見恒夫』(筈見恒夫刊行会)が刊行された。→ウィキペディア








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