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Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02

写真右から糸数兼治氏、當眞嗣一氏ー2016年2月26日 沖縄かりゆしアーバンリゾート・ナハ「第33回 東恩納寛惇賞 贈呈式」祝賀会


 2014年6月3日~8日 西村貞雄主催「復元のあゆみー琉球王朝造形文化の独自性を求めてー」 沖縄県立博物館・美術館
写真左が當眞嗣一氏(『沖縄のグスクめぐり』監修、2001年、むぎ社)と西村貞雄氏

右が當眞嗣一氏と西村貞雄氏

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4月20日~5月20日 ジュンク堂書店那覇店「榕樹書林創業40周年記念・古書展」


榕樹イベント2019年4月29日13時~田里修(『土地に見る琉球・沖縄の歴史』著者)×豊見山和行(琉球大学教授)
 2019年3月 田里修『土地に見る琉球・沖縄の歴史 田里修教授 講義録』榕樹書林〇今日まで司令部は東京から神奈川県にまたがって、横田基地がありますけども。それから空軍基地としては青森県の三沢基地がありますし、海軍については、横須賀基地、厚木基地、佐世保基地があります。海兵隊は岩国に残ったようですけども。厚木を省きますと、沖縄と何が違うかと言いますと、例えば三沢基地にしろ、横田基地にしろ、あるいは横須賀とか、佐世保にしろ、基本的に民有地はありません。基本的には国有地、昔から日本軍の基地があったようなところ。1972年から今日までアメリカ軍基地というのは日本本土にあるのは、基本的には国有地です。/私(田里修)が早稲田大学に入学したのは、1969年4月である。この年、沖縄問題研究会に入ったが、夏休み前に、顧問の岸本建男(後の名護市長)に連れられて行ったのが沖縄タイムス東京支局で、新崎盛暉氏の『ドキュメント沖縄闘争』の手伝いであった。仕事はタイムス紙の読者投書欄から、興味深い投書を選ぶ作業であったと記憶している。しかし、その際、我部政男氏や比屋根照夫氏(両氏とも、後の琉大教授)渡名喜明氏(当時、東大生)そしてタイムスの由井晶子氏と面識を得ることが出来た。2年生の頃、荻窪に玉城信光氏(医師)と松島朝義氏(陶芸家)のマンションで勉強会(離島社)を始めたが、3年生の頃、由井氏から渡名喜氏に『比嘉春潮全集』の索引作りの依頼があり、その手伝いをすることになった。これが沖縄についての勉強になった気がする。



2016年2月26日 沖縄かりゆしアーバンリゾート・ナハ「第33回 東恩納寛惇賞 贈呈式」祝賀会

写真左から村口彌生第一書房社長、富田詢一琉球新報社長、田里修沖縄大学教授「選考経過」、糸数兼治・貞子御夫妻

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1992年6月 『新生美術』10号<追慕・山元恵一・山田昌弘・浦崎永錫>
         □新城栄徳「浦崎永錫ー美を追求する人」

 1921年、浦崎永錫は上京し、川端画学校で藤島武二につき油絵を学びながら、検定で小学校教師の資格を取り、後に夜間の工業学校の美術教師となった。昼はヒマがあるので画学校や美術館に出入りした(田中穣『日本洋画の人脈』)。1931年、浦崎永錫は美術誌『美術界』を創刊する。これは後に大著『日本近代美術発達史ー明治編』として結実される。やがて図画教師を中心とする全国組織の美術団体「大潮会」を結成するなど、その一生は美を追求することに終始した。

 同号には古きよき美術放談として山里永吉と浦崎永錫の対談も転載されている。□浦崎永錫「ぼくが絵が好きになったのは、小さいころ若狭町の漆器屋の大見謝さんという人が、ランだとかタケだとかを実に美しく、どんどん描いているのをうっとり見とれていたもので、それが一つの刺戟になったのだと思うネ」、山里永吉「若狭町といえばそのころ沖縄の芸術家の出身地が実に多いんだ。比嘉華山、金城南海、親泊英繁、西銘生楽、渡嘉敷衣川、野津久保、渡嘉敷唯仁、それに浦崎永錫がそうだろう。古くは有名な彫刻家・田名宗経もそうだし、これは若狭町、漆器の影響だと思うな」、浦崎永錫「そうか、田名宗経も若狭町出身か、初耳だ。漆器の刺戟と、それに景色がいいことだろう。夕方になると、おとなも子供もいっぱい若狭町湾小に出て夕日に見とれていたものだ。ああいうことは若狭町以外にはあまりないヨ。西海岸だから夕日がことに美しい。-」



1987年4月 浦崎永錫 自宅書斎で

1975年ー「奥入瀬阿修羅の流れ」油絵40号

1983年ー「夢遊苑(山梨県牧丘町)」


1976年ー「花菖蒲」油絵100号



山岡萬之助監修『宇宙』4月号 浦島久(浦崎永錫)「奇蹟」□大正拾年三月。今上陛下が皇太子殿下の御時欧州御巡遊の砌り、南の孤島うるまの島にも其の御印跡を残された。丁度其の当時の出来事である。全島全県上へ下への大騒ぎで街道街道は修理せられ見苦しき建物は取り壊され、御巡道には綺麗な砂利が敷き積められた。要監視狂人には保護を加え、穏やかならざる思想の持主には相当の注意をすることを当局者は忘れなかった。狂犬は撲殺された。

(略)
その頃、私は組合教会に席を置いてあった。組合教会は県の思想界の権威であり、県立図書館長であった。文学士も居た。文学士の夢の研究を知って居たS医師は私に『文学士からそれを聞いたら姉の病気にも何か参考になるだろう』とのことだった。私には参考と言う言葉が直感的に姉の病をいやしてくれるものだとしか聞き取れなかった。夢の話は重に潜在意識に対する研究だった様に記憶して居る。

日本大学第3代総長
山岡 萬之助 (やまおか まんのすけ)1933.8〜46.1
明治9年(1876)長野県に生まれる。
明治32年(1899)日本法律学校を卒業し、判事検事登用試験に合格。
東京区裁判所判事などを経て、明治39年ドイツに留学。司法省行刑局長、内務省警保局長、
関東庁長官等を歴任。
昭和6年(1931)には東京弁護士会会長就任。
明治43年本学教授となり、その後、学監、理事、法文学部長、学長を経て昭和8年第3代総長、
12年には総裁就任。
大正から昭和への激動する時代の中で、社会の要請に対応して、人文・社会・芸術・工学・医学
・農学の多分野にわたる総合大学の基礎を確立した。
貴族院議員、法学博士。
昭和43年(1968)死去、92歳。

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画家の山元文子さんと新城栄徳


2016-11-29 山元文子さん、あけみ

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「南風原朝保」関連記事
1938年
12月1日ー『大阪球陽新報』「台北沖縄県人会(会長・名嘉山安忠医師)の伊禮参与官歓迎会/台北蓬莱閣で」(写真)
1939年
4月1日ー『大阪球陽新報』「南風原朝保氏/医学博士に/血液型に関する研究」
8月20日ー『大阪球陽新報』南風原朝保「素晴らしい琉球の芸術と誇るべき人情美/18年振りに帰省した郷里の印象」
11月1日ー『大阪球陽新報』南風原朝保「医者と絵画」/「台北沖縄県人会の新陣容/会長に南風原博士、幹事に川平朝申」
1940年
1月15日ー『大阪球陽新報』南風原朝保「台北だより」
2月1日ー『大阪球陽新報』南風原朝保「余は沖縄人を誇りとする」
12月1日ー『大阪球陽新報』南風原朝保「沖縄風俗画に就いてー今年の総督府展よりー」






南風原朝保の娘りり


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1990年5月16日『沖縄タイムス』

1995年

写真左から新城栄徳、糸数兼治・沖縄県立博物館館長
2016年2月26日 沖縄かりゆしアーバンリゾート・ナハ「第33回 東恩納寛惇賞 贈呈式」祝賀会


富田詢一琉球新報社長から賞状を受け取る糸数兼治氏(右)


糸数兼治氏「記念講演」

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写真左から豊見山和行氏、田名真之氏、當眞嗣一氏

写真左から安里進沖縄県立博物館・美術館館長、金城功氏(第22回東恩納寛惇賞)、糸数兼治氏


玉城流翔節会の平良恵子さん、安里タマ子さん

写真右から嵩元政秀氏(第32回東恩納寛惇賞)、新城栄徳、照屋善彦氏(第24回東恩納寛惇賞)

写真左から玉木園子さん、漢那敬子さん、石垣繁氏、糸数兼治氏


写真左から金城正篤氏(第30回東恩納寛惇賞)、松島弘明氏、上里賢一氏

写真左から金城正篤氏、當眞嗣一氏、松島弘明氏、武石和美氏(榕樹書林)




写真左から野村直美さん、漢那敬子さん、豊見山和行氏

写真左から野村直美さん、糸数兼治氏、松島弘明氏、糸数貞子さん


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Posted by: ryubun02
  2月1日の地元2紙はアメリカ作家ジョージ・ファイファー山口栄鉄訳「これがわが米国の沖縄への対し方か」を連載している。これらの良識派と連携するのは「オール沖縄」が急務で早急に着手すべきものだ。「オール沖縄」の保守派も革新票をあてにせず自分の人脈を本気で駆使すべきだろう。あるルポライターは「今回の現職勝利の背景には、若い保守系政治家の活発な組織化活動の成功もあったのではないか、逆にいえばそれに匹敵する若年層の活発な運動をオール沖縄側が構築できなかったのではないか」、と書く。1月30日の新報の友寄貞丸「かちゃいほーちゃい 週刊誌時評」に、1月12日の衆院予算委員会でアベ総理が「アサコール」を3錠飲んでいるところをカメラがとらえた。この薬は脳がストレスを受けて神経質になったり、鬱になることもある、と記す。同日のタイムス大弦小弦はSTAP細胞の論文著者だった小保方晴子の著書にふれている。同日、沖縄県立博物館・美術館で島尻科学技術政策担当も参加して「理工系女子の未来を考えようin沖縄」があった。これなどは保守系政治家の活発な組織化の一環だろう。

 宜野湾市長選挙が終わり、全国の新聞社説は宜野湾市長選挙についてアベ派読売の「普天間固定を避ける一歩に」、アベ派産経は「基地移設を着実に進めよう」とアベ政治讃美派だが、沖縄に理解が深い東京、朝日は「辺野古容認ではない」、と明言。毎日も「アベ政権が総力戦を展開する中で志村氏が一定の票を得たのは、市民の間に、普天間の返還自体は、当然としながらも、同じ沖縄に基地を移転することへの抵抗感があったことを物語っている。」と見る。選挙が終わった途端、那覇空港過密化となる航空自衛隊員が300人増えるという(1月27日 『琉球新報』)。地元商業2紙が肝心のアメリカの暗躍は無視し「伊波さんの責任」とオール沖縄の保守派の企業人に言わしめている。今度の志村氏の票は前回の伊波洋一さんの得た票なみで保守票が全く取れなかった。逆にアメリカの指示によるアベ政権の総力戦で保守票がきり崩された結果であろう。伊波さんは真面目すぎるイメージがあるので保守派からは頼りないと見られているのだろう。現在は「ちょい悪」の石原元東京知事やハシシタ元大阪市長みたいのが人気があるので保守票向けに「野蛮人」イメージも必要かと思われる。しかしアメリカ・アベ国家権力を相手によくやったという感じだ。この選挙で学習したことはアメリカの平和団体や環境保護団体と強力に連携することだろう。


写真左から新城栄徳、伊波洋一氏①
①沖縄県宜野湾市生まれ。沖縄県立普天間高等学校、琉球大学理工学部物理学科卒業。1974年、宜野湾市役所に就職。在任中、当時全国でもまれであった自治体業務の電算化を手がけた。1996年、宜野湾市役所を退職して沖縄県議会議員選挙に出馬し、初当選。2000年に再選。2003年、2期目の任期途中で辞職し、宜野湾市長選挙に出馬して当選する。2007年、宜野湾市長再選。市長在職中、沖縄県内の地方自治体で初めて中学生までの病院への入院費の無料化を実現した。→Wikipedia


地元紙の『琉球新報』「天下り14社 辺野古受注」と中谷元・防衛相の答弁を報じている。同紙と『沖縄タイムス』は甘利明経済再生担当相の金銭授受疑惑も報じている。何に使ったか分からないが、政党助成金では足らないのか。(2016年1月22日『琉球新報』「天下り14社 辺野古受注」)

遣等を含む日米間調整の検討」を挙げた。 自衛隊は、いつ「軍」になったのだろうか。国会では度々、自衛隊が「軍」ではないと確認されてきた。 安倍晋三首相は3月の衆院予算委員会で、その自衛隊を「わが軍」と呼んだ。野党の追及を受け「(今後は)使わない」(首相)とした。その後作成された資料に軍と記された事実は、自衛隊を「軍」であると認めないことで専守防衛に徹してきた歯止めが、法案が成立すれば取り除かれることを表している。三つ目、法案の性質を最も端的に示したのが資料冒頭で詳細に記述された日米ガイドラインだ。県選出の国会議員・赤嶺政賢氏(共産党)は「法案はガイドラインを実行するための手段」とみる。 安倍首相が今春、国会で審議を尽くすより先に、米議会で法案成立を約束したのもうなずけよう。 法案によって日米の軍事一体化は進み、自衛隊は米軍の「下請け」機関となる。減少傾向とはいえ国防費年60兆円、世界の軍事費の3分の1を占める巨大な軍の前に、文民統制が揺らいでいる。


2014年12月12日ー国場候補の応援に甘利経済再生担当相が来ているが周辺は閑散としている。甘利 明は、日本の政治家。自由民主党所属の衆議院議員、内閣府特命担当大臣、さいこう日本代表。 自由民主党政務調査会長、労働大臣、経済産業大臣、内閣府特命担当大臣等を歴任した。 戦国時代の武田氏の重臣で知られる甘利虎泰の子孫である。元衆議院議員の甘利正は父。 ウィキペディア

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