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Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
1996年12月10日『琉球新報』女流作家の新垣美登子さん死去
沖縄の女流作家、自立する職業女性のさきがけだった新垣美登子(あらかき・みとこ)さんが9日午後4時19分、老衰のため入院先の那覇市首里石嶺のオリブ山病院で死去した。96歳だった。 自宅は那覇市久茂地3ノ2ノ12。告別式は12日午後3時から4時、那覇市楚辺292、那覇バプテスト教会で。喪主は妹の大城藤子(おおしろふじこ)さん。 新垣さんは1901年、那覇市生まれ。県立第一高女卒、日本女子大国文科中退。放浪詩人といわれた池宮城積宝と結婚するが、3カ月で別居。帰郷して県庁に勤める。30年、「うるま美粧院」を開業。35年小説「花園地獄」を琉球新報に連載。 戦後、「みと美粧院」を開業し、54歳で文筆活動を再開するが、66年眼底出血で失明。79年、手術で奇跡の開眼、新聞紙上で話題となった。82年、琉球新報に自伝小説「哀愁の旅」を連載。84年には83歳記念誌「那覇女の軌跡」を刊行した。



1924年12月19日『沖縄タイムス』池宮城美登子「落紅さん」

1924年12月 『沖縄教育』□池宮城美登子「寮舎の秋」


1926年1月 『沖縄教育』□池宮城美登子「新北風吹く頃(A)」


1926年11月 『沖縄教育』□新屋敷康繁「人生詞花集(その1)」 池宮城美登子「母となれば」 國吉眞哲「久米島日記抄」

末吉麦門冬と池宮城積宝
1924年3月21日 『沖縄タイムス』末吉麦門冬「序に代へて」

○私達の要求する所の郷土文学は一体どうあらねばならぬのかと云ふことは、私も考へないではありませんでした。一口に云ふとそれは私達この郷土に生まれたのでなければ感じ得ない、把握し得ない、創造し得ない、表現し得ない内容でなければならぬと思ひます。本當の沖縄と本當の沖縄人が出て来なくてはなりません。(略)鏡に向かって多くの人々は不満を抱きます。憤ほろしくなります。美しいと見惚れることはありません。私達の創造しやうとする郷土文学もこの厭やな思ひのする鏡裏の映像ではありませんか。けれどこの厭であっても、自分達の姿には、私達はどうしても逃げもかくれも出来ぬものがあります。・・・・

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1924年12月17日『沖縄タイムス』寂泡生「末吉安恭君を悼む」

池宮城積宝
1910年3月19日、沖縄県立第一中学校で卒業生送別会が行われ池宮城積宝が送別の詞を読みあげた。主な卒業生は、兼島由明、護得久朝章、柴田米三、山田有功、新嘉喜倫篤であった。5月14日には河東碧梧洞、岡本月村ら大阪、鹿児島の新聞記者団が平壌丸で来沖。

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写真左から二人目の立っているのが山城正忠、その下が上間正雄、4人目の立っているのが末吉麦門冬、その下の真ん中が渡嘉敷唯選。庭で左端に立っているのが池宮城積宝


左から中島イソ子さん、中島アリサさん、久子さん、竹治氏/1982年『青い海7月号』中島イソ子「青い海ギャラリー/自画像のある風景」

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2018年4月14日 那覇市民ギャラリー「中島イソ子展ーふりかえるー」


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1902年1月 丸善株式会社『學燈』「十九世紀に於ける欧米の大著述」
1945年12月 木村毅『甘藷傳來記』開成館

1938年9月 木村毅『小説研究十二講』新潮文庫/1945年12月 木村毅『甘藷傳來記』開成館〇甘藷傳來記・・・ところで種子島は琉球に近い。その頃の琉球は、まだ日本の領土ではなく日清両属と申して、支那を父とし、日本を母とすと云って両方についていた國であります。幕府は鎖国して、外国とは往来せぬ建て前になっていますから、琉球の監理は鹿児島の島津家に任せた。種子島弾正久基は先に申す通り、島津家の家老職をつとめている上に、距離が近いから、琉球とはゆき來がある。その中に、甘藷が大変に結構なものだといふことを聞いて、琉球の王様に願はくばその種子を少々贈って頂きたいと云って無心をしてやりますと、竹籠に入れて贈ってきました。これが元禄11年3月でありました。これを種子島久基は西村権右衛門といふ者に云ひつけて、植えてみよと命じた。この西村権右衛門は、明治時代の儒者として聞え、又大阪朝日新聞の主筆をしてをられた西村天囚博士の遠い先祖であります。/鎮西八郎為朝ー南海の琉球列島、その中心をなす沖縄!これを思ふて血の湧き立たぬ者が、皇国一億同胞の中に、只の一人でもあるでありましょうか。戦争中沖縄県民の奮戦ぶりを讃えて、先頃徳富蘇峰先生が『さすがに源為朝の子孫だけの事がある。鎮西八郎の血に耻じないものだ』といふ事を書いてをられた。・・・

1948年7月 木村毅『小説の創作と鑑賞』暁書房
1955年3月『明治文化全集 月報№3』日本評論新社 木村毅「未開拓の新聞史源」
1955年3月『明治文化全集 月報№3』日本評論新社 木村毅「未開拓の新聞史源」
○日本の新聞史の材料も、国内にあるかぎりは、小野秀雄氏を主軸として何十年にわたる努力の累積で、九分九厘までほり出されたといってよかろう。オランダ関係の史源は板沢博士によって、かなり明かにされてきている。これに反しアメリカは、英語だから、着手できる人が多いにかかわらず、その史源がほとんど処女地のままで、うっちゃらかしになっているように思う。 
日本の新聞の元祖は、ジョゼフ彦である。彦は自伝があり、さらに故人の石井研堂翁や小野氏によって、まだ生存していたころ、未亡人までたずねて、埋もれた資料が開発せられたので、あそこまで探索されておれば、吾々はその努力と成果に一おう満足せねばならぬ。(略)明治維新や、さらに咸臨丸の太平洋横断よりも、更にさかのぼって、ペリイの黒船来航以前のジョン・万次郎やジョゼフ・彦時代から、新聞記事をあさってくれば、今まで不明だった国史の陰影が多少ともうかび出てくるであろうし、ことに彦は、その後ワシントンにいってからも、社交界の寵児としてひどく新聞でさわがれているのだから、これらの記事だけは、誰かによって、コピイされて、日本におくられることを希望してやまない。
1955年6月『明治文化全集 月報№5』木村毅「櫻洲山人をめぐりて」
○本全集の読者は、だいたいアカデミックな学風を愛する人が多いと思う。そういう人は正史にこだわって、小説や、巷説や、伝聞を無視するうれいがある。しかし、それにも時代の雰囲気としての正しさは含蓄されている筈だから、これを参考にしないでいい理由はない。中井桜洲山人などは、ことに、その方面の材料の多い人物だ。(略)あの頃の風流人のならいで、桜洲の家庭は吾々の模範になるようなものではなかったと思うが、私は、この人の風格は非常にすきで、いつか一度小説にかいてみたいと思って、前に、いろいろ材料をあつめたことがあったが、今は多く散逸してしまった。
1982年6月 木村毅『日米文学交流史の研究』恒文社「第25章 アプトン・シンクレェアの『ジャングル』」

きむらき【木村毅】
1894‐1979(明治27‐昭和54)
大正・昭和期の小説家,評論家。明治文学研究の先駆者。岡山県に生まれる。1917年早稲田大学英文科を卒業し,隆文館,のち春秋社で編集者として活躍するかたわら評論活動をする。23年退社し,近代小説の理論的研究を行う(《小説の創作と鑑賞》1923,《小説研究十六講》1925)。一方,24年には日本フェビアン協会の創設に参加し,日本労農党の出版部長を務める。また明治文化研究会に入り,第3代会長となる(1948)。(→コトバンク)


1969年2月 木村毅『丸善外史』丸善社史編纂委員会 「内田魯庵」

『丸善ライブラリーニュース』

 70年代、大阪で「沖縄関係資料室」を手伝っていたので、何故か手元に『丸善ライブラリーニュース』がある。№100に甲斐清通「ライブラリーニュース思い出の記ー100号を記念して」が掲載□おわりにーライブラリーニュースの生い立ちは、前述のように学校図書館を背景に育ったものであるが、ニュース100号の編年史のうち、日本の図書館や産業界、ビジネスの社会、個人の書斎と毎号趣向を替えて特集を組むうちに、すっかり読者の層も幅が広くなり、特に73号の個人情報整理の特集号あたりから、自他ともに許す「情報誌」に変身し、個人はもとより、ジャーナリズムやマスコミの脚光をあびるまで成長したことである。世はまさに情報化時代、公共、大学、専門、学校、その他、すべての図書館や文化施設がお互いにネットワークを組み、情報や資料の交換をやり、市民にサービスする時代である。

 1958年に創刊した丸善刊行の図書館に関する総合情報誌『丸善ライブラリーニュース』が、1989年の休刊から18年ぶりに、2008年に復刊する。

現在の発行は丸善雄松堂株式会社(まるぜん ゆうしょうどう。英: MARUZEN-YUSHODO Company, Limited)は、日本の大手書店、出版社、専門商社である。文化施設の建築・内装、図書館業務のアウトソーシング等も行い、幅広い業務を手がけている。大日本印刷の子会社である、丸善CHIホールディングスの完全子会社である。(ウィキ)

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1923年8月 『思想』「ケーベル先生追悼号」岩波書店


新城良一氏の手にしているのは紀田順一郎『日本博覧人物史』(左)に載っている1928年6月再版発行の齋藤秀三郎『齋藤和英大辞典』東勇治
斎藤秀三郎○1880年(14歳) 工部大学校(現在の東京大学工学部)入学。純粋化学、造船を専攻。後に夏目漱石の師となるスコットランド人教師ディクソン (James Main Dixon) に英語を学ぶ。後々までイディオムの研究を続けたのは彼の影響だったと後年述べている。また、図書館の英書は全て読み、大英百科事典は2度読んだ、という逸話が残っている。/1883年(17歳) 工部大学校退学。/1884年(18歳) 『スウヰントン式英語学新式直訳』(十字屋・日進堂)を翻訳出版。その後、仙台に戻り、英語塾を開設(一番弟子は、伝法久太郎である。また、学生の中に土井晩翠がいる)。1885年に来日したアメリカ人宣教師W・E・ホーイの通訳を務める。その後、1887年9月第二高等学校助教授(1888年9月教授)、1889年11月岐阜中学校(この時代、、濃尾地震に遭遇。この体験は、その後、地震嫌いとして斎藤の生活に影響を及ぼすことになる)、1892年4月長崎鎮西学院、9月名古屋第一中学校を経て、1893年7月第一高等学校教授。1888年5月とら子と結婚。/1896年10月神田錦町に正則英語学校(現在の正則学園高等学校)を創立して校長。以後、死亡するまで、(一時期、第一高等学校に出講したが)、ここを本拠として教育・研究に生涯を尽くした。→ウィキ

1916年  石川正通、一中退学、私立麻布中学校へ転校。3月29日、真玉橋朝起、武元朝朗、竹内弘道たちに見送られて沖縄丸で上京、甲板上で明大受験の城間恒昌、杉浦重剛校長の日本中学に転校する我部政達と3人で雑談に耽る。4月3日東京駅に着く。翌日、比屋根安定が大八車で荷物を一緒に運んでくれる。斎藤秀三郎校長の抜擢で正則英語学校講師となる。後に比嘉春潮(荻窪)、島袋盛敏(成城)、比屋根安定(青山学院構内)、仲吉良光(鶴見)、八幡一郎(東中野)、金城朝永(大塚)、石川正通(本郷)の7人で七星会結成する。


1970年3月 昭和女子大学近代文学研究室『近代文学研究叢書 31』「齋藤秀三郎」


2005年5月 新城良一・編『ビジュアル版 日本・琉球の文明開化ー異国船来航の系譜』天久海洋文学散歩会

2014年1月21日『琉球新報』ピアニスト長堂奈津子のリサイタル「ピアノ協奏曲とケーベル歌曲の夕べ」が17日、南城市文化センター・シュガーホールであった。明治期、日本のピアノ界に大きな影響を与えたロシア出身の哲学者ラファエル・フォン・ケーベルの歌曲「9つの歌」を沖縄初演したほか、バッハ、シューマンのピアノ協奏曲をカンマーゾリステン21(指揮・庭野隆之、コンサートマスター・屋比久潤子)と共に演奏した。長堂はケーベル研究に没頭し、2011年に他界した父・島尻政長(ケーベル会初代会長)への追悼の思いを、厳かな演奏に重ね描いた。

ラファエル・フォン・ケーベル(ドイツ語: Raphael von Koeber, 1848年1月15日 - 1923年6月14日)は、ロシア出身(ドイツ系ロシア人)の哲学者、音楽家。明治政府のお雇い外国人として東京帝国大学で哲学、西洋古典学を講じた。友人のエドゥアルト・フォン・ハルトマンの勧めに従って1893年(明治26年)6月に日本へ渡り、同年から1914年(大正3年)まで21年間東京帝国大学に在職し、イマヌエル・カントなどのドイツ哲学を中心に、哲学史、ギリシア哲学など西洋古典学も教えた。美学・美術史も、ケーベルが初めて講義を行った。学生たちからは「ケーベル先生」と呼ばれ敬愛された。夏目漱石も講義を受けており、後年に随筆『ケーベル先生』を著している。他の教え子には安倍能成、岩波茂雄、阿部次郎、小山鞆絵、九鬼周造、和辻哲郎、 深田康算、大西克礼、波多野精一、田中秀央など多数がいる。和辻の著書に回想記『ケーベル先生』がある。また漱石も寺田寅彦も、ケーベル邸に行くと深田がいたと記されている。→ウィキ


『本の街』1986年~87年の「ケーベル」を改めて見る。泊の島尻政長のケーベル会の「ケーベル会誌」はネットでも紹介されている。

本の街編集室『月刊文化情報誌 神田 御茶の水 九段 本の街』
 2011年12月『本の街』第34巻1号〇村上泰賢(東善寺住職)「小栗上野介の日本改造」65/秋山岩夫「フォト・ージャーナリスト 林忠彦」⓺/山川正光「総和の旅人44 みどりの窓口/自動券売機」/世田谷文学館・世田谷美術館共同企画展「都市から郊外へ 1930年代の東京」/酒部一太郎「勝海舟追慕・首都圏散策17」/銭谷功「神田ディスカバリー 神田淡路っ子の小宇宙38 ボクは見た10秒間のマッカーサー/ボクら中学生は、世界の新知識を吸収しようと夢中になった。一番素晴らしかったにはリーダース・ダイジェスト日本版発行と、輸入映画の解禁だった。」/「古くて、一寸心に残るもの・・・・・176 辰年ですから龍の話です」/永井英夫「南米の旅 ペルー編・下」/井東冨二子「レコード屋のおかみさん65年」/朝山邦夫「♪神田の東工か♪東工の神田かー実学の達人 中尾哲二郎」/「アート情報」/戸田慎一「ジャズの周辺④ジャズ出版の全体像(前期)」 
2012年1月『本の街』第34巻2号〇酒部一太郎「勝海舟追慕・首都圏散策18」/秋山岩夫「フォト・ージャーナリスト 林忠彦ー銀座・酒場『ルパン』を概説する」⑦/戸田慎一「ジャズの周辺⑤ジャズ出版の全体像(中期)」 
2015年10月『本の街』第37巻11号〇酒部一太郎「樋口一葉②」
2016年1月『本の街』第38巻2号〇藤田瑞穂「ぼくの庭86 絵は究極のミニマリズム-人間の外付けハードディスクがすべてをまかなうといったところか。なにを今更という思いがする。古来日本には、最小限主義が伝統的にある。茶の湯、能や禅、短歌や俳句、方寸の庵での黙考、等等。」/酒部一太郎「樋口一葉④」

青空文庫ー夏目漱石「ケーベル先生」
 木この葉はの間から高い窓が見えて、その窓の隅すみからケーベル先生の頭が見えた。傍わきから濃い藍色あいいろの煙が立った。先生は煙草たばこを呑のんでいるなと余は安倍あべ君に云った。
 この前ここを通ったのはいつだか忘れてしまったが、今日見るとわずかの間まにもうだいぶ様子が違っている。甲武線の崖上がけうえは角並かどなみ新らしい立派な家に建て易かえられていずれも現代的日本の産み出した富の威力と切り放す事のできない門構もんがまえばかりである。その中に先生の住居すまいだけが過去の記念かたみのごとくたった一軒古ぼけたなりで残っている。先生はこの燻くすぶり返った家の書斎に這入はいったなり滅多めったに外へ出た事がない。その書斎はとりもなおさず先生の頭が見えた木の葉の間の高い所であった。
 余と安倍君とは先生に導びかれて、敷物も何も足に触れない素裸すはだかのままの高い階子段はしごだんを薄暗がりにがたがた云わせながら上のぼって、階上の右手にある書斎に入った。そうして先生の今まで腰をおろして窓から頭だけを出していた一番光に近い椅子に余は坐すわった。そこで外面そとから射さす夕暮に近い明りを受けて始めて先生の顔を熟視した。先生の顔は昔とさまで違っていなかった。先生は自分で六十三だと云われた。余が先生の美学の講義を聴きに出たのは、余が大学院に這入った年で、たしか先生が日本へ来て始めての講義だと思っているが、先生はその時からすでにこう云う顔であった。先生に日本へ来てもう二十年になりますかと聞いたら、そうはならない、たしか十八年目だと答えられた。先生の髪も髯ひげも英語で云うとオーバーンとか形容すべき、ごく薄い麻あさのような色をしている上に、普通の西洋人の通り非常に細くって柔かいから、少しの白髪しらがが生えてもまるで目立たないのだろう。それにしても血色が元の通りである。十八年を日本で住み古した人とは思えない。(以下略)

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2016年7月30日 写真左が新城良一氏、山田勉氏


2016年7月30日 左から玉城よし子さん、呉屋周子さん、新城良一氏、輝広志氏


2016年7月24日 末吉家にて左が末吉安允氏、新城良一氏

2016年9月2日『琉球新報』新城良一「ティータイム/200年前の英語学者」
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1915年4月9日『琉球新報』麦門冬「眞栄平房昭ー百年前の語学者」


 1928年ー市河三喜編輯『岡倉先生記念論文集』に豊田實が「沖縄英学史稿」を寄せている。豊田は沖縄県の依頼で1928年3月22日から28日まで英語講習のため那覇に滞在した。そこで沖縄県立沖縄図書館長の真境名安興などの協力を得て沖縄英学史を調べたのが前出の沖縄英学史稿として結実した。中に末吉麦門冬の「百年前の英語通」も引用し真栄平房昭の家譜を書いている。(2011年11月)


2016年7月24日 屋部家にて右が屋部憲次郎氏(夢華書道・琉訳聖書教室主宰)、新城良一氏

○1996年5月11日 リウボウ「おきなわ聖書展」ミニ講演会/屋部憲次郎
ベッテルハイム「琉訳聖書」と琉球語ー沖縄の伝統文化の一つである組踊の中に、キリスト教あるいは聖書と何らかの意味でひじょうに関係のある作品が一編ありまして、ここでご紹介したいと思います。『大川敵討』(忠孝婦人またはムラバルーとも称する)と題する組踊(戯曲)でありますが、これから興味深い台詞を二つ引用します。まず満納という悪役の台詞「はあ、面付もかはて悪魔やな女、夫喰ゆる悪生切支丹。鬼見ちやる人の此の世界にをゆめ。是ど鬼やゆる。・・・」(読み方「ハー、ツィラツィチンカワティ アクマ ヤナイナグ、ウトゥクヮユル アクショー キリシタ。ウニンーチャルフィトゥヌ クヌシケーニ ウユミ。クリドゥウニヤユル」)でして、キリシタン、悪魔、鬼などの語に注目されます。この組踊は1838年、尚育王冊封の重陽の宴で演じられましたが、当時の異国船がひんぱんに渡来したいわば不安な世相をよく反映しているといえましょう。ベッテルハイムが来沖したのは実にその十年後でした。・・・


1969年3月 昭和女子大学近代文学研究室『増訂 近代文学叢書』「B・J・ベッテルハイム」第一巻 昭和女子大学

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  グイド・ヘルマン・フリドリン・フェルベック(Guido Herman Fridolin Verbeck、あるいはVerbeek、1830年1月23日 - 1898年3月10日)は、オランダ出身で、アメリカ合衆国に移民し、日本に宣教師として派遣され活躍した法学者・神学者、宣教師。→ウィキ
1830年 オランダ生まれ。モラヴィア兄弟団の教会で洗礼を受ける。
1852年 渡米、ニューヨーク移住。コレラに罹ったが命を取りとめ、献身を決意する。
1855年 ニューヨーク州オーバン神学校入学。
1859年 上海からの海路、サミュエル・ブラウンと共に長崎に来日。
1864年 済美館教師。
1866年 村田政矩が尋ねて来て聖書の教えを請う。
1868年 致遠館(佐賀藩が長崎に建てた英学校)で教鞭をとる。
伊藤博文、大久保利通、大隈重信らが集まって英語や西洋の学問を学ぶ。

上京前のフルベッキと致遠館の学生
1869年 上京。大学南校(後年開成学校に改称)教師
フルベッキ、大隈重信に、これからの日本は西洋から学ばなければいけない、そのためには欧米へ使節団を派遣する必要があると説き、具体的な計画書も提出→岩倉使節団
1871年 語学・学術においての功績が喜賞され 明治天皇から勅語を賜る。
1873年 大学南校を辞職、政府左院翻訳顧問となる。
1878年 元老院に在職。旧約聖書翻訳委員。
1886年 明治学院理事。
1887年 明治学院神学部教授。
1898年 赤坂葵町で没。68歳。青山霊園に埋葬された。
高谷道男編訳『フルベッキ書簡集』新教出版社、1978年

フルベッキ資料(私設 文学資料室所蔵)



右ーヘボン資料
1998年5月 保険医療研究所『いつでも元気』№79「ぶらり探訪 横浜 宣教医ヘボン(上)」
1998年6月 保険医療研究所『いつでも元気』№80「ぶらり探訪 横浜 宣教医ヘボン(中)」
1998年7月 保険医療研究所『いつでも元気』№81「ぶらり探訪 横浜 宣教医ヘボン(下)」

ジェームス・カーティス・ヘボン(英語: James Curtis Hepburn、1815年3月13日 - 1911年9月21日)は、米国長老派教会の医療伝道宣教師であり、医師。聖書の日本語訳にたずさわり、また初の和英辞典である『和英語林集成』を編纂した。 ヘボン式ローマ字は『和英語林集成』中での日本語の表記法が元になっている。ペンシルベニア州ミルトン出身。姓の「ヘボン」は原語の発音を重視した仮名表記で、ヘボン自身もこれを用いたことで一般に定着したものだが、まれに綴りを重視してヘプバーン、ヘップバーンなどの表記が行われることもある。幕末に訪日し、横浜で医療活動を行った。宣教師デュアン・シモンズと共に、横浜の近代医学の基礎を築いたといわれる。その功績を称えて、横浜市立大学医学部にはヘボンの名を冠した講堂「ヘボンホール」がある。また、東京で明治学院(現在の明治学院高等学校・明治学院大学)を創設し、初代総理に就任。日本の教育にも貢献した。→ウィキ

 2016年7月20日昼 おもろまちの「私設 文学資料館」で新城良一さんの話を聞く。県民大会に参加はしたが足が少しフラフラして若い女性看護師から熱中症扱いされて辟易したという。良一さんの数奇極まる来し方は小説より面白い。文学散歩の言葉を定着させた野田宇太郎や夏目漱石の話などなど良一さんと文学談義。

 1938年8月から須藤利一は『沖縄教育』に「ベージル・ホール大琉球航海記」を1939年まで連載。1938年12月には台湾愛書会の『愛書』に須藤利一は「琉球の算法書」を発表。1940年1月、須藤利一は野田書房から『大琉球島探検航海記』を出した。発売所は東京は日本古書通信社代理部、那覇は沖縄書籍となっている。この本は天野文庫と比嘉文庫にあるが口絵に「バジル・ホール肖像」が付いていないが、戦後復刻本には付いている。また川平装幀も微妙に違う。

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 選挙が終わってすぐに高江、辺野古の新基地工事を再開しようと企むヤマトのアベ厚顔無恥政権。その手先の警官・海上保安庁員らが地球破壊阻止の市民運動に弾圧を加える。アベ政治が最も潰したい沖縄の地元紙は当然ながらそれを大きく報じる。その最中、琉球新報本社の出版祝賀パーティには『醜い日本人』の著がある大田昌秀さんや、かつてヤマト政治家の狡猾さを見抜き沖縄独立論を展開した新川明氏、川満信一氏や,沖縄タイムスの代表も参加し、さながらにマスコミの「オール沖縄」を想わされる。このアベ政治の沖縄を舐めてかかる事態を招いた「沖縄の弱さ」は「日琉同祖論」を説いた沖縄学の先駆者・伊波普猷にも思想的に大きな責任があるとする伊佐眞一『沖縄と日本の間で』(全3巻)の本である。


琉球新報本社入口
    
会場入口の儀間比呂志作品


益々元気な大田昌秀さん挨拶

左から松島弘明氏、久場政一氏、大濱聡氏、長元朝浩氏


左から大濱聡氏、上里佑子さん、海勢頭豊氏、我部政男氏


嘉数昇明氏、伊佐眞一氏、安仁屋眞昭氏

2016年11月17日 沖縄県立博物館・美術館ー嘉数昇明氏


田場由美雄氏、,松田賀孝氏、伊佐眞一氏


左から仲程昌徳氏、我部政男氏、玉木園子さん


挨拶する主人公


右から我部政明氏、田場由美雄氏、與儀喜邦氏
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左から比嘉康文氏、川満信一氏、新城栄徳


左から新城栄徳、比嘉豊光氏、伊佐眞一氏


左から新城栄徳、長元朝浩氏、真喜屋美樹名桜大学准教授(リベラルアーツ機構)、仲程昌徳氏


左から三木健氏、伊佐眞一氏、金城善氏、佐喜真道夫氏、上里佑子さん


写真左から 仲程昌徳氏、伊佐眞一氏 真喜屋美樹名桜大学准教授(リベラルアーツ機構)、上間了氏、三木健氏、我部政男氏、ローゼル川田氏、


チニンウシィさん、波平恒男氏

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研究会と交流。
2005年5月 新城良一・編『ビジュアル版 日本・琉球の文明開化ー異国船来航の系譜』天久海洋文学散歩会

2005年8月 那覇市立壺屋焼物博物館 「日本・琉球の文化資料展ー鎖国から文明開化へー」主催/天久海洋文学散歩会(新城良一)

左が喜納勝代さん




渡口万年筆の渡口彦邦氏と新城良一氏(右) 


2012年5月ミズリー州ブルックフィールド(ローズヒル墓地) ベッテルハイム墓碑で新城良一氏








2012年9月 那覇市ぶんかテンブス館3Fギャラリー「写真資料展・『琉球王国』と『宣教師ベッテルハイム』その時代」主催/新城良一「私設・文学資料館」



2013年9月 バジル・ホール研究会『琉球王国の栄光』第2号□写真/バジルホールとその自筆署名(新城良一所蔵)






通航一覧つうこういちらんー江戸時代の外交関係史料集。本文 350巻,付録 23巻,凡例総目2巻。幕府の命を受けて,大学頭林あきら (復斎) が史料を収集整理して嘉永3 (1850) 年に完成したもの。琉球,朝鮮,中国をはじめ,東南アジア,欧米諸国の国号の起源,統治者の世系,日本との交通などを,いくつかの項目に分けて書いてある。コトバンク


1938年8月から須藤利一は『沖縄教育』に「ベージル・ホール大琉球航海記」を1939年まで連載。(抜き刷りを新城良一氏所蔵)1940年1月、須藤利一は野田書房から『大琉球島探検航海記』を出した。発売所は東京は日本古書通信社代理部、那覇は沖縄書籍となっている。



1969年3月 昭和女子大学近代文学研究室『近代文学研究叢書1』「B・J・ベッテルハイム」「八田知紀」「中村正直」

昭和女子大学「近代文化研究所」の中心事業であった『近代文学研究叢書』の刊行は、創立者人見円吉の企画・立案によるもので、大学が誇る図書館(近代文庫)の充実した蔵書を生かして調査研究が開始。38巻は「江見水蔭 B・H・チェンバレン 坪内逍遙」である


新城良一氏が手にしているのは神田 精輝 訳『ペルリ提督琉球訪問記 』の初版本


吉井勇の作「かにかくに 祇園はこひし寝(ぬ)るときも 枕のしたを水のながるる」

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宮良瑛子さんと作品「エーゼェント・オレンジ(枯葉剤)」

右ー久場トヨ「平和なれど舞姫」 左が山元文子「みどり色の少女」「ホルン君」


右ー安里盛昭氏 作品「琉球国 粟国島 魂の旧正月」







仲程作品「開けない夜はない(辺野古)」

辺野古新基地NO

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 2012年7月ー本日の地元紙を見ると、粟国村長選挙で新城静喜氏が309票で再選されている。対抗馬の與那城弘明氏は275票。34票差で健闘していた。『サンデー毎日』7.22号にヤガン折目を取材した「沖縄県 粟国島 女が守る島の祭」(写真・文 裵昭)が載っている。同誌には写真家・山田實氏の姪・山田美保子も「ワイドショーの恋人」を連載。また佐野眞一「新 忘れられた日本人ー村岡伊平治」も連載されている。


2016年7月9日 那覇市の一角で右が裵昭さん、新城栄徳


2004年11月 梁石日『魂の流れゆく果て』(写真/裵昭)光文社/2005年9月 裵昭『不滅の「役人天国」』光文社
裵昭ペ・ソ
1956年福岡県生まれ。父が1世、母が2世。フォトジャーナリストとして「朝日新聞」「東京人」「週刊文春」「週刊新潮」などに、ラジオやテレビのドキュメンタリーにも参画している。日本の国際化をテーマとした作品を発表。『鎖国ニッポンが多民族国家になる日』で第28回平凡社準太陽賞を受賞。『段ボールハウスで見る夢』(中村智志 文)で第20回講談社ノンフィクション賞受賞。著書に『となりの神さま ニッポンにやってきた異国の神々の宗教現場』(扶桑社)など。福音館書店「母の友」で、職人と工房のシリーズを掲載。日本生まれ日本育ちの在日コリアン。『写真報告 関東大震災朝鮮人虐殺』(影書房)、共著に『魂の流れゆく果て』(文・梁石日、写真・ペ・ソ、光文社文庫)など多数。

2016年7月8日 那覇市の一角で

 「論座」2018-12-14 翁長雄治 那覇市議ー元ネトウヨ、故翁長知事の息子が語る沖縄の保守亡き父の後を追い政治家になった次男・雄治氏が発する沖縄保守から本土への異議/翁長 真実はネットにあり、マスコミにはないと信じてました。ところが、次第にネトウヨに疑問を抱くようになった。最大の転機は父がネットで叩(たた)かれたことです。
――いつごろですか?
翁長 2012年末に民主党政権から自民党の安倍晋三政権に代わった後、那覇市長だった父が東京で「普天間基地の県外移設、オスプレイ配備反対」の行動をしたのを境に、ネット上に「翁長の長女は中国の外交官と結婚」「次女は北京大学に入学」なんてデマがあふれました。あまりにアホっぽい作り話に、姉たちと笑っていましたけど。


『週刊新社会』
 三上 智恵2019-10-9 加害性に向き合わずそこはスルーして 被害者という特別枠に収まって何か声高に言っても それは人に届く力を持たないこのことをずっとずっと考えています 辛淑玉さんのようにパサリ、と蜘蛛の巣を切り落とすような優れた文章が書けるようになりたい

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オープニング(琉球舞踊)仲嶺絵里奈・仲嶺麗子(阿波連本流師範)

あいさつ 城間幹子那覇市長 右は解説の山田葉子さん

あいさつ 金城徹市議会議長 中央が司会の鈴木悠学芸員

あいさつ 祝嶺恭子伝来品修理等審議会委員

テープカット

金城美奈子さん仲嶺絵里奈さん

仲嶺麗子さん、祝嶺恭子さん、仲嶺絵里奈さん

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1974年9月『青い海』<特集・伝統染織の明日をつむぐ>№36 祝嶺恭子「古来の魂を深く手繰るー伝統織物が立派すぎるあまり、古き良き時代の織物に執着して、新しい物を育てることを怠ってはいけない。」

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1954年9月 喜舎場永珣(編集主任)『八重山歴史』


 1968年2月 神田精輝『沖縄郷土歴史読本』琉球文教図書
○大浜信泉「序ー筆者は本書の著者と同じ石垣島の出身である上に、沖縄師範学校における同窓でもある。・・・」/喜舎場永珣「序ー神田君も童名のままの赤多那になっていたが師範学校入学を機会に私が「精輝」と名をつけてやったら喜び勇んで(略)広島高等師範では史学と英語を専攻し卒業と同時に母校沖縄師範の教諭という破天荒の椅子を勝ち取ることができた。(略)この珍本こそは、嘉永6年(1853)今から百十五年前に米国の水師提督ぺルリの「琉球訪問記」であった。この本が師範学校の図書室に蔵せられたのは、琉球の碩学伊波普猷氏から時の師範学校長西村光弥氏に嘆願し同校長の辣腕によって師範学校に備えつけられたものであった。神田君は其の本に吸いつくように読みふけって翻訳に筆を染め始めた。(略)君が琉球新報紙上に発表せる昭和7年6月約二百十枚に渉る切抜帖は大東亜戦争の戦火の中肌身離さず所持して歩いた。漸く今回、広田夫婦・古屋夫婦ならびに君の遺児全員の協力で父の形見として原稿に認められた上、斯界の権威者である宮城栄昌博士の御指導により上梓されるはこびとなった。」

1997年7月 神田精輝『ぺルリ提督 琉球訪問記』国書刊行会(1926年の復刻)1853年浦賀に来航したアメリカの東インド艦隊司令長官ペリー提督の「日本遠征記」より、琉球に関する記事、写真、図版を訳出したもの。当時の日米関係史や琉球を知る上で貴重な資料。

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中里介山
小説家。東京羽村生。名は弥之助、号は羽村子。はじめ社会主義に傾倒し、日露戦争下には「平民新聞」に反戦詩を発表する。明治39年都新聞社に入社、『氷の花』『島原城』などの連載小説を手がけ、代表作『大菩薩峠』はのちの大衆文学に大きな影響を与える。のち郷里羽村に西隣塾を開き、文壇から離れて超然とした生活を送った。昭和19年(1944)歿、60才.→コトバンク

『大菩薩峠』(だいぼさつとうげ)は、中里介山作の長編時代小説。1913年~1941年に都新聞・毎日新聞・読売新聞などに連載された41巻にのぼる未完の一大巨編。→ウィキ



矢野橋村
日本画家。愛媛県生。名は一智、別号に知道人。永松春洋に師事する。日本南画院の結成に参加、また福岡青嵐や洋画家斎藤与里らと私立の大阪美術学校を設立。南画界の重鎮として活躍し、また大阪の美術振興に貢献した。日展審査員。芸術院賞受賞。大阪府芸術賞・大阪市民文化賞受賞。日本南画院会長。昭和40年(1965)歿、74才。 →コトバンク



中里介山 大菩薩峠 恐山の巻 - 青空文庫
「オ嬢サン、コレカラ日本ノモノヤルデス、マズ南ノ方カラヤリマショ、八重山ヲヤリマショ」
「八重山って何です」
「八重山ハ薩摩ノ国ノ南ノ方ニアル島デス、ソノ島ノ娘、タイヘン声ヨイデス、世界デモ一番デス」
と、マドロスが風琴を膝へ置いて答えました。
「え?」
と女が少し聞き耳を立て、
「何ですって、世界で一番? 言うことが大きいわ」
「ウソデナイデス、タナベ先生モホメマシタ、八重山ノ唄ト踊リ、素晴ラシイモノデス、ワタシ、日本デハアンナスバラシイモノ聞イタコトナイデス、ソレヲ一ツ、ココデ真似テ見ルデス」
「まあ、ちょっとお待ちなさい、マドロスさんの言うことは大きいからね、日本の国の薩摩の国の中に世界一番なんて、それは掛値があるんでしょうけれど、かりに割引して聞いても、そんなに素晴らしい唄だの踊りだのが、日本の中にあるんですか、そのことをもう少し説明してから、唄って聞かせて頂戴」
「八重山ノ娘サンタチノ声ハ五町モ六町モトオルデス、ソウシテ声ガヨク練レテイルデス、ワタシ聞イタ、世界ニモ珍シイデス、日本ノ国ニアンナトコロハ二ツトナイデス、ワタシ、一生懸命ニ三日習イマシタ、ユンタ、ジラバヲヤッテオ聞カセスルデス」
「では、ともかくやってみて下さいな」
「八重山ノユンタ、ジラバ……」
 そこで、またマドロスが実演にかかりました。
 果して八重山という日本の国の辺鄙へんぴの島の中に、そんな音楽の天国があるものか、マドロスの受売りだけでは信じられないが、女はその予備宣伝に相当引きつけられているらしい。
 そこで声高こわだかにマドロスが手風琴をあやなしながら唄い出したが、歌句は一向何だかわからない。本来、今までのマドロス芸術について、歌詞そのものは一向にわからないで、そのメロデーについて感心して聴いていたのが、これから日本のものを相はじめますということになってみると、その八重山とか、八重山節とかいうものが、歌詞はむろん相当にわかって、一層の興味があるだろうと予想したが、わからない。本来演奏者自身がわかってやっているのではないから、これは詮索せんさくしても駄目――ただ、盛んに唄い出すマドロスの咽喉のどを見て、八重山の女の世界的だという咽喉を想像するよりほかはないのですが、想像してみたところで、以前わからない異国情調を聞かされたほどの感興は、どうしても起らないらしい。
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情報センターでは、沖縄の自然・歴史・美術・文化等に関する情報、および図書資料等をゆっくり閲覧できるスペースとなっています。レファレンスとして、当館のお問い合わせ窓口となっており、展示室での疑問・質問、収蔵品の検索など専門の学芸員に対する質問や団体見学の受け付けをおこなっています。
 また5ヶ国語を備えた、博物館常設展・美術館コレクション展の音声ガイダンスの貸し出しも行っております。

サービスの内容
(1) パソコンおよびAVの利用
  ○博物館・美術館収蔵品データベースを利用した資料検索
(2) ソフトの視聴
  ○博物館・美術館で作製した沖縄の自然・歴史・文化・美術等に関する映像資料
  ○沖縄に関する映像・音声ソフト、その他生涯学習に資する映像・音声ソフト
(3) 関係図書の閲覧
  ○沖縄の自然・歴史・文化に関する図書
  ○博物館・美術館所蔵の専門図書
  ○博物館・美術館刊行の図録
  ○博物館・美術館刊行の研究紀要や報告書等
  ○美術全集、図鑑
2015年10月 沖縄県立博物館・美術館 情報センター





情報センターで学習、ひより


2016年7月 写真左から比嘉恵子さん、仲里渚善さん、島袋百恵さん


2017年1月2日 新城栄徳、島袋百恵さん


2017年3月10日  写真左から比嘉恵子さん、渡部さん、新城栄徳、仲村紗希さん、保久村智恵さん

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挨拶する奥田末吉沖縄奄美連合会会長・沖縄名瀬会会長

左から写真家の松村久美さん、仲里氏、栄征三氏(元大栄食堂店主/沖永良部出身)、玉寄氏



奥田会長と窪田めぐみさん(沖永良部出身)


2016年11月10日『沖縄タイムス』「沖縄に生きた証残すー奥田末吉さん(73)」

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1909年5月17日『琉球新報』渡嘉敷生「パレット日記」
○「麦門冬を叩こう?」と切り出すと「そうだ名案だ」と一同ひょろつく足を踏みしめて社壇を下ったが彼是午後の3時ごろ酔眼朦朧の連中は早速 麦門冬の玄関に立った幸?在宅で書斎に導かるる書斎は下宿屋風の室に小説や脚本や雑誌や新聞はては金ぴかの洋本から虫だらけの玉篇らしい本やら何やらを処せきまでしかもいくらか秩序的に飾られて居て壁にはカーライル①の肖像が掲げられて居る・・・

①トーマス・カーライル(Thomas Carlyle, 1795年12月4日 - 1881年2月5日)は、19世紀イギリス(大英帝国)の歴史家・評論家で、スコットランド出身。スコットランドのダンフリーズ・アンド・ガロウェイ(Ecclefechan)出身。大英帝国(ヴィクトリア朝)時代を代表する言論人であった。代表作に、『英雄崇拝論』、『フランス革命史』、『オリバー・クロムウェル』、『衣装哲学』、『過去と現在』などがある。ドイツ文学を研究したことでも著名で、ゲーテとの往復書簡がある。〈全集 The works of Thomas Carlyle〉は30巻に達している。1865年、エディンバラ大学の学長に任命された(1865年-1868年)。『英雄崇拝論』に代表されるように、「世界の歴史は英雄によって作られる」と主張したことで知られるが、彼の言う「英雄」とは歴史に影響を与えた神、預言者、詩人、僧侶、文人、帝王などを指す。
→ウィキペディア

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1920年2月『沖縄毎日新報』発行兼編集人・渡嘉敷唯錦/左から、渡嘉敷唯錦、渡嘉敷唯選、野津唯尹(久保)、その妻たち

新聞記者も勤めていたので文章はのこっている。末吉麦門冬とも親しいので俳句作品もある。1906年11月の『琉球新報』に俳句「酒飲まぬ我も佳き日は小酒盛」「長閑さや旗ひるがえる磯の村」、琉歌もある「長閑なるみ代や波風も立たぬ、誠ゆかる日のうれしさや」。11年8月『沖縄毎日新聞』の展評では上間正雄との論争に応じながら「パレット日記」も書く。13年、玉城小学校で教諭を務めながら、『琉球新報』に「昨年の美術界」を連載、14年は「美術館より」「大正博と本県」を連載した。1921年から亡くなるまで名護の第三高等女学校の美術教師。娘に画家の山元文子がいる
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野津久保の作品(息子に画家の野津唯市がいる)

渡嘉敷唯選の弟に渡嘉敷唯錦が居る。『琉球辻情話』の著者で知られている。その著の口絵写真には「辻原の丘に集う芸妓」の絵葉書が使われている。また沖縄ソバの由来を「福永義一と云う写真師が居たが、この人が何時の間にか支那料理屋を開業して、でっぷり肥った弁髪の支那人を料理人として大阪から呼び寄せ正真正銘の支那そばを食わした」と記している。
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 「マカオ新聞」2020-3-8 マカオ政府新型コロナウイルス感染症対策センターは3月7日午後7時(現地時間、以下同)からマカオ国際空港で記者会見を開催。同センターによれば、直近24時間以内に新たな新型コロナウイルス感染確認例はなかったとのこと。マカオにおける直近の新規感染確認は2月4日のことで、32日連続で新規感染確認ゼロとなった。

 「デイリー新潮」2020-3-4 フェリーでマカオを訪れた萩生田大臣を出迎えたのは、ギャラクシーが用意した黒塗りのワゴン車で、ギャラクシーが運営するホテル「バンヤンツリーマカオ」へ移動。このときは、ギャラクシーの日本法人の総支配人がわざわざ萩生田大臣を出迎え、同乗している。そして着いた先のホテル入口では、これまた「ギャラクシー・エンターテインメント・ジャパン」の最高執行責任者(COO)が、萩生田大臣を出迎えている。全室スイート仕様のこのホテルに、大臣は1泊した。“カジノ議連の活動に絡めた視察”という言い訳は通用しない。先に説明したように、すでに法案成立後の旅行であり、なによりこの場には、萩生田大臣の妻と、大臣の後援会で事務局長も務める有力支援者・不動産会社「エイト」の白柳雅文会長、そして白柳会長の妻が同伴していたのだ。

 2016年7月2日、平和通りのなるみ堂でマカオの時期不詳の観光絵葉書を貰ってきた。ネット検索して情報を貼りつけてみた。□中華人民共和国マカオ特別行政区、通称マカオは、中華人民共和国の特別行政区の一つ。中国大陸南岸の珠江河口に位置する旧ポルトガル植民地で、現在はカジノや世界遺産を中心とした世界的観光地としても知られる。 ウィキ


聖ポール天主堂跡は、イエスの使徒である聖パウロに捧げられた、マカオにあるポルトガルの17世紀の大聖堂の遺跡であり、マカオの最も有名な歴史的建築物の一つである。大三巴牌坊、または単に大三巴、牌坊として広く知られている。 ウィキ


マカオという名称の由来はマカオ半島にある道教の廟、媽閣廟に由来する説が有名である。ポルトガルの船員がマカオの媽閣の前から上陸するときに地名を聞いたら、廟の名前を聞かれたと思って「媽閣」(広東語:Ma1gok3)と答えたからと伝えられている。媽閣廟は、1448年に媽祖を奉るために建設されたもので、現存し、海運、漁業の神として崇拝されている。


寛音堂ー慈母観音を祀った仏教寺院は13世紀に創設され、現在の建物は1627年まで遡ります。大きな門と屋根に陶製の動物や人の飾りを施した寺院は、マカオの寺院の中で最も壮大かつ豪華な寺院の一つです。小さな三層の中庭によって区分され、ふんだんに装飾された堂は、仏陀と観音に捧げられています。観音は、毎年変えられる絹の刺繍を施した衣服に縁毛の冠を被っており、祭壇の両側に18体の羅漢を従えています。隣接する部屋は霊安室であり、絵画や書など観音を称えた巻物が置かれています。寺院の後ろにはひな段式庭園があります。その中には、1844年6月3日に広東総督耆英とアメリカの公使ケイレブ・クッシングとの間で締結された、初の米清間条約・望廈条約締結の際に使用された石のテーブルが存在します。付近の別棟の中には大理石で造られた僧侶像が立ち、また古くからそびえ立つ四本の菩提樹の絡み合った枝は恋人の木として知られ、結婚の忠誠のシンボルであるとされています。→マカオ観光局



1622年に船乗りの聖母ノートルダム・ド・フランスに捧げられ建立されたペンニャ教会は1935年に現在のゴシック様式で再建されました。シンプルで美しい教会前の広場から階段を下りると、フランス聖地のルルドを模した洞窟とルルドの聖母像があります。→マカオナビ/□ルルド(Lourdes) は、フランスとスペインの国境になっているピレネー山脈のふもと、フランスの南西部のオート=ピレネー県の人口15000人ほどの小さな町。聖母マリアの出現と「ルルドの泉」で知られ、カトリック教会の巡礼地ともなっている。ウィキ


マカオと対岸のタイパ島をつなげるマカオ・タイパ大橋の夜景。タイパ島とコロアネ島は橋ではなく盛り土のコーズウェイとなっているが、マカオとタイパ島は船の往来も考えて、2本ある橋ともに中央部分が高くなっている。


アマラン総督の銅像。殉職の日1849年8月22日□1846年、フェレイラ・アマラル総督が就任すると、駐マカオ清朝税関や官庁を強制閉鎖し、その官吏らを捕縛・追放するなど、マカオ政庁の権益強化を図っていく。さらに、マカオ市街区に馬車が走れる馳道(街道)の整備を進め、度々、清側の珠海地区へ踏み込んでは、前山地区の田畑や墳墓などを破壊して回り、清軍とのいざこざを煽ったという。これに激怒した望厦村(コタイ半島の中心部)出身の農民・沈志亮によって、1849年、アマラル総督が刺殺される。

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