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Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
 福岡在住の頃(1965年~69年)、太宰府の観世音寺にはよく出かけました。同寺は天台宗の寺院。山号は清水山。本尊は聖観音。開基は天智天皇である。九州西国三十三箇所第三十三番札所。 九州を代表する古寺。→ウィキ。有名な十一面観音や馬頭観音に惹かれていたからです。ともに5メートル余の巨体で、色彩が鮮やかに残っているのです。この仏像を見て思うことは、太宰府そのものと、その存在価値は私たちの評価以上の大きさをしめされるのです。
 当時、ライカとローライフレックスの二台を持っていた私、この二体の佛像は無二の被写体です。隠し撮りに最高のローライフレックスで撮影に成功したのですが、何時の間にか、この写真とネガを無くして仕舞いました。

城谷一草「春秋庵雑筆」⑩<小山冨士夫先生のこと >
 小山冨士夫先生は、九州の古陶に関心が高く、九州にはよく出かけてこられました。当時、私は福岡在住でしたので、小山先生にはよくお目にかかりました。当時、先生の作品を扱っていたのですが、不思議と売れませんでした。先生は講演会や食席、酒席をともにされると必ず茶碗やぐい呑みを「どうぞ」と与えるのが当然の如くでしたので、茶人の多くは茶碗を貰い、酒飲みはぐい呑みを頂いていたのです。唐津では必ず作陶されていましたので唐津焼の秀作が多く残りました。
 小山冨士夫展の話が決まりましたので、在庫分で宮崎の橘デパートで開催しました。完売したときに先生が急逝されましたので展示会は雲散霧消したのです。小山冨士夫先生は、加藤唐九郎さんの「永仁の壺事件」の被害者だと思っていますが、先生からこの事件の愚痴は一度も聞いたことがありませんでした。先生は陶磁研究の第一人者で、文部技官・文化財専門審議会委員であったが同事件で引責辞任。しかし結果的に先生は一人の陶芸家に転生されたことは非常に良かったのではないでしようか。

2016年11月 城谷一草「春秋庵雑筆⑪<廃仏毀釈の遺産をもう一度>
 宮崎県の法華嶽薬師寺は、越後の米山薬師(新潟県)、三河の鳳来寺(愛知県)と並び日本三薬師のひとつとして、また、平安時代の歌人、和泉式部が三年にわたって参籠し、病を治したという伝承があることでも有名です。50年位前、その伝承に惹かれて訪ねたことがあります。ですが、驚くべき奇観が展開して居りました。首が切り落とされた佛像が10体位でしょうか参道に並んでいたのです。これは一見して、廃仏毀釈の盛んな幕末から明治の初めに行われたものだと分かりました。
 廃仏毀釈で損傷した佛教の寺院、佛像は甚大なものだったそうですが、奇蹟的に命拾いした寺の建物に奈良興福寺の五重塔があります。今は国宝のこの塔が、なんと50圓とか200圓で競売に出されましたが、解体費が高く入札する者が居なかったそうです。木造の佛像など簡単に叩き壊されたものです。法華嶽薬師寺の首が切り落とされた佛像は、そんな歴史的遺産なのです。


2016年12月4日 写真左からー城谷陽くん、城谷一草さん、末吉安允氏

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Posted by: ryubun02
1966年2月7日『琉球新報』「現代大家沖縄写生会来沖画伯の顔ぶれ<1>ー有島生馬画伯①、東郷青児画伯②、中村琢二画伯」
有島生馬
洋画家・小説家。神奈川県生。小説家有島武郎の弟、里見弴の兄。名は壬生馬、別号に十月亭。東京外大卒。洋画を藤島武二に師事し、二科会を創立したが、抽象派に反発してのち一水会を創立した。「白樺」の創刊に加わり、小説には『蝙蝠の如く』『嘘の美』などがある。また翻訳・美術随筆にも腕をふるう。芸術院会員。文化功労者。昭和49年(1974)歿、91才。

1966年2月8日『琉球新報』「現代大家沖縄写生会来沖画伯の顔ぶれ<2>ー森田元子画伯、中村善策画伯、吉井淳二画伯③」

1966年2月、琉球新報の依頼で山田写真館の2階で、二科の東郷青児が琉装の宮平敏子さんをモデルにスケッチしているところを山田實さんが撮った。そのときの記念写真には、大城皓也、平良進、東郷青児、吉井淳二宮平敏子が写っている。お礼の東郷青児から山田さん宛のハガキがある。1986年1月24日『週刊レキオ』には東郷青児の絵、9月19日にはモデルの宮平さんの娘時代の写真が載っている。
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1966年2月16日、山田写真機店2階で山田實撮影。東郷青児を前に後右から宮平敏子、吉井淳二、平良進、大城皓也
②東郷青児
戦後のある日、有島生馬らと長野県に疎開していた東郷青児は列車で東京に向かった。戦前、軍部から「フランス文化の植民地」と云われて解散させられた二科会の再建を全国の有志に呼びかけるためだった。東郷は再建のためには、二科展覧会をお祭り騒ぎの見世物と、自らを風俗画の職人に堕落しているとの批判も無視。二科に写真、商業美術、マンガ部などを新設し二科を東郷調に近代化した。また日仏交流も促進した。東郷は「明治の藤島武二、大正の竹久夢二、この三代の三ジによって日本の洋画の人気は博している」と語り胸を張ったという。
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『吉井淳二自選展』1981年 毎日新聞社
③吉井淳二 よしい-じゅんじ
1904-2004 昭和-平成時代の洋画家。
明治37年3月6日生まれ。昭和元年「花と女」で二科展初入選,15年二科会会員となる。40年「水汲」などで芸術院賞。44年「浜辺の井戸」で二科展内閣総理大臣賞。51年芸術院会員。54年-平成10年二科会理事長。平成元年文化勲章。写実的な画風で,働く庶民の群像をえがいた作品で知られる。特別養護老人ホームを開園するなど社会福祉にもつくした。平成16年11月23日死去。100歳。鹿児島県出身。東京美術学校(現東京芸大)卒。(→コトバンク)


1966年2月9日『琉球新報』「現代大家沖縄写生会来沖画伯の顔ぶれ<3>ー水谷清画伯、島野重之画伯、田中繁吉画伯」
1966年2月10日『琉球新報』「現代大家沖縄写生会来沖画伯の顔ぶれ<4>ー荒谷直之介画伯、小堀進画伯、土田文雄画伯」

1966年2月11日『琉球新報』「現代大家沖縄写生会来沖画伯の顔ぶれ<5>ー楢原健三画伯、高野真実画伯、伊藤清永画伯④」
④伊藤清永は1911年(明治44)兵庫県下出石町下谷(しもたに)に生まれ、
日展と白日会を中心に活躍した文化勲章受章の洋画家です。 後年は、繊細な色線を無数に重ねて描き出される豊麗優美な裸婦像で知られています。 岡田三郎助の薫陶を受け、東京美術学校在学中の1933年第14回帝展に初出品、初入選。
1936年文展(文部省美術展)で選奨を受賞、白日会会員となり画家としての道を確立しました。
70年近い画業の中で、一貫して女性美の表現技法を追求し、温かみのある独自の画風を築いて見る人を魅了しています。2001年6月5日軽井沢のアトリエで制作後急逝し、製作中の「ばら」数点が絶筆作品となりました。→豊岡市立美術館-伊藤清永記念館



1966年2月12日『琉球新報』「現代大家沖縄写生会来沖画伯の顔ぶれ<6>ー藤本東一良画伯⑤,成井弘画伯、浦崎永錫画伯」
⑤藤本東一良 ふじもと-とういちりょう
1913-1998 昭和-平成時代の洋画家。
大正2年6月27日生まれ。昭和14年光風会でF氏賞を受賞し,21年会員。日展で21年,22年連続特選,56年「五月のコート・ダジュール」で文部大臣賞。平成5年「展望台のユーカリ」で芸術院恩賜賞,同年芸術院会員となる。明快な色調で海の風景をえがく。平成10年9月17日死去。85歳。静岡県出身。東京美術学校(現東京芸大)卒。→コトバンク

1966年2月16日『琉球新報』「有島生馬氏ら来沖 写生旅行の大家17人」
1966年2月17日『琉球新報』「いちばん”悲しい日〟現代大家沖縄写生会戦跡地で感無量」
1966年2月19日『琉球新報』「沖縄を描くー有島生馬、東郷青児」
1966年2月21日『琉球新報』「沖縄をとらえる 現代大家沖縄写生会(1)高野真実」
1966年2月22日『琉球新報』「沖縄をとらえる 現代大家沖縄写生会(2)森田元子」
1966年2月22日『琉球新報』「沖縄をとらえる 現代大家沖縄写生会(3)吉井淳二」

1966年2月24日『琉球新報』「沖縄をとらえる 現代大家沖縄写生会(4)有島生馬」
1966年2月25日『琉球新報』「沖縄をとらえる 現代大家沖縄写生会(5)荒谷直之介⑥」

1966年2月26日『琉球新報』「沖縄をとらえる 現代大家沖縄写生会(6)土田文雄」

1966年2月26日『琉球新報』「”いい仕事ができた〟沖縄写生会の画伯帰る」
1966年2月28日『琉球新報』「沖縄をとらえる 現代大家沖縄写生会(7)田中繁吉⑦」
⑦田中繁吉ー日本画家。明治31年(1898)福岡県生。東美校卒。藤島武二に師事する。創元会常任委員・日展参与。東京住。

1966年3月1日『琉球新報』「沖縄の風物 現代大家洋画展ー荒谷直之介⑧、森田元子⑨、有島生馬、楢原健三、中村琢二、土田文雄⑨、浦崎永錫、藤本東一」/沖縄をとらえる 現代大家沖縄写生会(8)小堀進」


荒谷直之介 あらたに-なおのすけ
1902-1994 大正-平成時代の洋画家。
明治35年5月11日生まれ。葵橋洋画研究所で黒田清輝らにまなぶ。光風会,日本水彩画会に出品。昭和15年昭和洋画奨励賞。同年水彩連盟を創立。18年みづゑ賞。21年一水会会員となる。日展評議員,参与をつとめる。平成6年2月18日死去。91歳。富山県出身。作品に「三人の像」「憩う裸婦」など。 →コトバンク

 ⑧土田文雄 つちだ-ふみお
1901-1973 大正-昭和時代の洋画家。
明治34年2月22日生まれ。大正7年川端画学校にはいり,藤島武二に師事する。10年院展に初入選。梅原竜三郎に傾倒して,15年から国画創作協会展に出品し,昭和18年国画会会員となる。29年武蔵野美大教授。昭和48年2月22日死去。72歳。山形県出身。米沢中学卒。作品に「海浜の朝」など。 →コトバンク

⑨森田元子ー昭和期の洋画家 女子美術大学教授。 生年明治36(1903)年2月11日 没年昭和44(1969)年8月12日 出生地東京・青山 学歴〔年〕女子美術専門学校洋画科〔大正13年〕卒 主な受賞名〔年〕岡田賞〔昭和21年〕「婦人像」 経歴岡田三郎助に師事して室内女性像を数多く描き、昭和2年に官展初入選後、官展系画家として地歩を固めた。女子美在学中に「主婦の友」の表紙懸賞に入賞、川端康成、大岡昇平、源氏鶏太らの現代もの新聞小説の挿絵も担当。また女子美大教授として後進の女性画家を育てた。→コトバンク

1966年3月3日『琉球新報』「沖縄をとらえる 現代大家沖縄写生会(9)成井弘」
1966年3月4日『琉球新報』「沖縄をとらえる 現代大家沖縄写生会 中村琢二」

1966年3月7日『琉球新報』「沖縄をとらえる 現代大家沖縄写生会(11)島野重之」
1966年3月8日『琉球新報』「沖縄をとらえる 現代大家沖縄写生会(12)楢原健三」
1966年3月9日『琉球新報』「沖縄をとらえる 現代大家沖縄写生会(13)藤本東一良」
1966年3月10日『琉球新報』「沖縄をとらえる 現代大家沖縄写生会(14)伊藤清永」

1966年3月11日『琉球新報』「沖縄をとらえる 現代大家沖縄写生会(15)水谷清」


1966年3月3日『琉球新報』現代大家沖縄写生会の産婆役ー浦崎永錫□複雑な人間関係の画壇事情にもくわしい。各美術団体の代表者格そろって、取材旅行ーという初の試みであった「現代大家沖縄写生会」も、浦崎氏の美術界での政治的力量のほどを示したものといえる。那覇市出身、六十五歳。

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Posted by: ryubun02
 先生との初めての出会いは、先生常宿のホテルの部屋でした。当時、既に陶芸界の重鎮でしたので、若造だった私は興奮気味でした。先生は開口一番「君は、今の陶芸家たちをどうして作家と呼ぶのか知ってるか」と聞かれましたが、分かりません、と答えると、「今の陶芸家は一寸売れ出すとすぐ、窯より先に家を作るだろう。だから作家と云うのだ」と破顔一笑された。なるほど、有田の陶工の家は皆、立派なものだ。先生は「俺は家がボロボロだからホテル住まいだよ。そのかわり窯は日本一だ」。この初対面で私は先生に惚れ込んで仕舞ったのです。

○加藤 唐九郎は陶芸家、また陶磁史研究家。愛知県東春日井郡水野村出身。桃山時代の陶芸の研究と再現に努めたが、永仁の壺事件で行った捏造により、無形文化財の資格を失った。事件後は作陶に専念した。建築物と陶磁器の組み合わせ陶壁を創出。陶壁は唐九郎による造語。 →ウィキペディア


2016年10月 城谷一草「春秋庵雑筆」③< 南大東島の石と黒木の勾玉>
 写真は勾玉です。この素材は、南大東島の石と三線の棹に使う黒木です。二つとも、沖縄特産で先述の石は模様がとても美しいのです。黒木は木材で最も堅く、勾玉には最適だと思います。この二つの素材にもっと注目してほしいものです。

○勾玉(まがたま、曲玉とも表記)は、先史・古代の日本における装身具の一つである。祭祀にも用いられたと言われるが、詳細は分からない。語の初出は『記紀』で、『古事記』には「曲玉」、『日本書紀』には「勾玉」の表記が見られる。語源は「曲っている玉」から来ているという説が有力である。日本本土では、現在まで神社等でお守りとして販売されているが、沖縄ではノロ(祝女)の祭具として使用され、現代もその伝統が受け継がれている。古琉球時代(14世紀 - 16世紀)の遺構からは、玉製以外にも金製や陶製の勾玉が出土している。→ウィキペディア

2016年10月 城谷一草「春秋庵雑筆」④< 夢二のキャラメル>
 明治の末から大正にかけて、叙情の世界を展開した”竹久夢二〟の女性は、明治末に発刊された平塚らいてうの雑誌『青踏』の新しい女と共に、新時代の夢を、そして憧れや哀愁が描かれた時代でした。夢二の代表作「黒船屋」は、現代人にも美しく映りますが、当時の日本は軍国主義に突き進んでいった情勢でしたが、大正ロマンという幕も張りだしていましたので今から思えば奇妙な時代だったと思います。
 
夢二がデザインしたキャラメルの箱が大阪のペンフレンドから送られてきました。
  
2016年10月 城谷一草「春秋庵雑筆」⑤< 陶印に思う>
 趣味の一つに、陶印作りがあります。粘土は腐るものではないから年中家に準備している。焼成は親しい窯に依頼し焼いて貰っている。陶印は手紙や日記などに捺して楽しむ印、遊印です。あくまでも趣味の世界のもので無趣味の人には無価値です。私は陶印クラブみたいなものを作りたいと思っています。


城谷一草「作品」


2016年11月14日 写真左からー城谷陽くん、城谷一草さん、新城栄徳

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1955年9月 雑誌『おきなわ』第46号 島袋全章「法窓思い出話 真夏に熱湯を浴びせられ」

1955年6月15日『琉球新報』島袋全章「原田館長と私」

1955年9月 島袋全章「沖縄法制史の権威ー奥野彦六郎を偲ぶー」→1994年3月『沖縄文化』通巻79・80号



奥野彦六郎から島袋全章宛ハガキ

奥野彦六郎(1895年9月12日~1955年8月30日)

1925年~1928年 那覇地方裁判所判事。
1937年~1941年 南洋庁法院長としてポナベ島に勤務。


玉城尚秀から奥野彦六郎宛ハガキ



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2000年4月23日『沖縄タイムス』新城栄徳(書評)ー松原一枝『改造社と山本実彦』南方新社

改造文庫

写真/山本実彦
生年: 明治18.1.5 (1885)
没年: 昭和27.7.1 (1952)
大正昭和期の出版経営者,政治家。鹿児島県川内に生まれる。日大卒業。『やまと新聞』ロンドン特派員,『門司新報』主筆などを経て,大正4(1915)年東京毎日新聞社主に就任。8年,改造社を創立,総合雑誌『改造』を創刊。当時の民主主義運動,社会運動の波に乗って,同誌を『中央公論』とならぶ有力雑誌に育てた。また,昭和初期には大規模な予約全集企画『現代日本文学全集』を成功させ,1冊1円のいわゆる円本ブームの先駆者となった。昭和5(1930)年衆院議員に当選。戦後,再び改造社を起こしたが,病没。時流に敏感な出版経営者であった。 →コトバンク


2003年 『林芙美子 生誕100年記念』「1929年10月『改造』林芙美子「九州炭坑街放浪記」/1930年7月 林芙美子『放浪記』 11月『続放浪記』」


2000年4月23日『沖縄タイムス』新城栄徳(書評)ー松原一枝『改造社と山本実彦』南方新社/改造社と言えば、私はすぐに布装の「改造文庫」を思い出すが、「改造社と山本実彦」は、実彦の生まれ故郷に「生誕の地」の表示と墓が在ることや、家族からの証言で新事実を気づかせてくれる。沖縄にゆかりがある日本の代表的出版人は講談社創立者の野間清治と実彦をまず数えるが、ここでは実彦と沖縄とのかかわりを補注して任をおえよう。

1916年の実彦著「我観南国」①に「国頭會遊の山河を遥望す、与那覇岳は比嘉賀栄、金城永寛、宮城久輝(聡)、比嘉蒲太郎、平良親一の徒と幾回か登擧(略)名護湾の思い出と共に故人平良保一を思わざるを得ざりき」と記され、続けて「黒岩先生は饒平名君と共に沖台砂糖会社の工場まで迎えに来られた」と、13,4年ぶりの沖縄で友人たちと会い、かつ亡くなった友人たちをしのんでいる。
①1916年7月 山本實彦『我観南國』東京堂書店



思わざるを得ざりき故人とは、放浪詩人で知られる池宮城積宝の「平良保一伝」(「うるま新報)には「保一氏はよく人を見るの明があり、後の改造社の山本実彦が越来村にいたのを見いだして大宜味村に迎え、いろいろ世話をしてやった。山本氏は出世して後、保一氏の恩愛を忘れずしきりに感謝渇仰の意を表し『随分沢山の人に逢ったが平良保一氏ほど立派」な人はいなかった』と話していた」とある。保一氏は謝花昇の意志を継いで民権伸長を推進したとも紹介している。

前出の宮城久輝は67年「新沖縄文学」第7号から「文学と私」を連載した。実彦の国頭尋常小学校代用教員時代の教え子であった関係で改造社に入社した経緯を記し、改造社前でのアインシュタイン博士の来日記念で博士のすぐ後ろに宮城が写っている写真が掲載されている。
最後に、沖縄の地名の誤記、初歩的な人名(菊池を菊地)の誤植があり、年譜を付けるなど、編集に配慮がほしかった。総じて分かりやすく山本実彦を知る最適の入門書ではある。

下左ー宮城聡/師範学校学生/ハワイ

上ーアインシュタインの右が山本実彦改造社社長、後ろに宮城聡

アインシュタインの来日は改造社という一出社の招聘によるものであった。改造社の社長山本実彦は、社の一大事業としてアインシュタイン招聘に奔走し大学関係者と帝国学士院を巻き込んで、来日を実現させたのである。アインシュタインは1922年(大正11年)10月8日にマルセーユを日本郵船「北野丸」で出港し、11月17日に神戸に入港した。途中12日夜、香港で「光量子仮説」に対して贈られたノーベル物理学賞受賞の電報を受け取っている。アインシュタインは、熱狂的な歓迎を各地で受ける。12月29日までの滞在の間に多数の講演を行い、また連日の歓迎会に出席してスピーチをした。→東大総合研究博物館

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1934年7月 金城朝永『異態習俗考』成光館書店
□琉球の遊女ー(略)琉球の遊女に関連しては尚多くの書くべき事柄が本稿には取り残されてている。その琉球史上に於ける詳細な文献學的考証と論究は前記の『沖縄女性史』の御一読を御勧めするとして、その外でも、琉球の農村と遊女との関係、今一つ廓内の「尾類馬行列」に就いては書いて見る積りであった。殊に後者は、遊廓の行事と云ふよりも那覇の町にとってもその年中行事の大きなものの一つに数えてもよい位で是は旧正月廿日に挙行されるので、土地では「廿日正月」と云へば「尾類馬行列」を意味している程有名なものであるが、その詳細に就いて述べるには、本文と等しい紙数を要さねばならないから止むなく割愛することにした。それから本稿に於いては平易なものの外は引用文献の再録を避けて単に摘意に止めたり、又はその書名をも二三除いては省略して置いたが、之は故意に先人の功を閑却した訳ではなく、可なり型ぐるしい記述を採用しなかった為めであるから、切に読者諸賢の寛怒を請ふ次第である。


1932年1月 『犯罪科学』金城朝永「頭蓋骨崇拝」
1931年2月 『デカメロン』創刊号 金城朝永「琉球の遊女」
□裏表紙に原浩三『ポムペイの美術』風俗資料刊行会の広告。「ポムペイ!この名に籠っている響の強さはどうだ。其処は2千年の長い間 地下に葬られていた都市であり、特別な女郎屋とか淫祠でなく普通の家庭の寝間に春画が飾られ、妙な彫刻が置かれてあった処である」と刊行の辞がある。
□戦後の1969年10月発行『愛苑』は髙橋鐵監修だが巻頭にカラーで「古代人の愛 ポンベイ壁画集」が載っている。
1933年1月 『人情地理』創刊号 金城朝永「迷信のろーかる・からー」
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金城朝永の手紙

金城朝永の本
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金城芳子の本

1996年10月 阿部達彦『沖縄の遊女についてー宗教社会学ー』近代文芸社
○沖縄の遊女についてー沖縄の遊女/旅行者(渡辺重剛、バジル・ホール・チェンバレン、笹森儀助、加藤三吾、リヒャルト・ゴールドシュミット)の見た遊女たち/信心と生きるための智慧
○浩々洞と精神主義運動ー清沢満之を中心にー

2014・8/不二出版「『犯罪科學』解説・総目次・索引」
 



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「『犯罪科學』解説・総目次・索引」の執筆者索引を見て、沖縄に関わりのある人物を紹介する。

安藤盛は戦前、来沖した人物で、ジュンク堂那覇店で青木澄夫『放浪の作家ー安藤盛と「からゆきさん」』(風媒社)を入手した。私の知らない安藤の沖縄関連の著作もその目録にあった。本誌に収録されてない琉球新報の1938年6月の記事を紹介する「南洋及び支那通として知られていた著述家安藤盛氏は21日東京の自宅において逝去した。氏は昭和11年、同12年の2回に亘り本県に来遊し週刊朝日其他の雑誌で紀行文を発表、本県紹介に努め県人から親しまれていた。なほ生前本社へ長編小説(琉球新報に連載「紅雀」絵・西銘生一)を寄せたが未発表のうちに急逝し遂に遺稿となった享年41」とある。

関連資料ー2001年9月『けーし風』第32号「特集 旧南洋群島のウチナーンチュ」

伊東忠太、伊波普猷、岩田準一(琉球の男色を調査)、巌谷小波、大宅壮一、喜田貞吉(1933年1月 『沖縄教育』第百九十八号<昭和会館落成記念>□喜田貞吉「琉球民族の研究に就いて」)金城朝永、東郷青児、西村眞次、宮尾しげを、①饒平名紀芳らが居る。

1938年4月19日『琉球新報』「饒平名紀芳氏 7年振に帰る」

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2016年(平成28)は「なは教育の日」が制定されてから10年になります。
歴史博物館では、「なは教育の日」制定10年を記念して、「琉球・沖縄 学問のすすめ ~なは 教育のあけぼの~」と題し、企画展を開催。

久茂地小学校の鐘


那覇市初の学校統合


2016年11月10日の久茂地小学校。何やら工事中である。

2013年6月8日~7月3日 那覇市歴史博物館「企画展ー沖縄戦~そして学校がなくなった~
 

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Posted by: ryubun02

2017年9月9日 とまりん地下「島尾敏雄 生誕100年 シンポジウム<ヤポネシア論>を問う」


新川明「主催者あいさつ」写真左から司会の岡本由希子さん、パネリストの仲程昌徳氏、西蔵盛史子さん、仲里効氏、川満信一氏


2009年6月 川満信一 個人誌『カオスの貌』<特集・追悼>六号


目次 学恩逸脱の徒ーさようなら仲宗根政善先生/世紀末/島尾ミホさん追悼/逝く友/岡本恵徳についての断片的記憶/大きな跡ー岡本恵徳追悼/別れの窓辺ー嶺井政和君へ/また一人ーいれい・たかしへ/戦後・沖縄思想の鋭鋒ーいれい・たかし/秋の日暮れ/弔辞ー早世の洲鎌朝夫へ/放浪(ユラリ)節/先取りの思想ー追悼金城朝夫/路傍ー玉城秀治への弔詞/遺恨的発条ー台湾白色テロ犠牲者墳墓にて/墓碑銘を前にー勝連敏男追悼/秘め事ー水納あきらの記憶

島尾敏雄略年譜⇒ウィキペディア
1950年(昭和25年) 33歳
2月 - 「出孤島記」により月曜書房主宰の第1回戦後文学賞受賞。
4月 - 長女・マヤが誕生。
5月 - 「ちっぽけなアヴァンチュール」を『新日本文学』に発表。この作品の評価を巡って、日本共産党内部の対立を背景にした論争が起きる。
9月 - 神戸市外国語大学の助教授となる。
12月 - 河出書房より書き下ろし長編『贋学生』を刊行。
1951年(昭和26年) 34歳
12月 - 「いながぶり」を『近代文学』に発表。
1952年(昭和27年) 35歳
3月 - 神戸市外国語大学を辞し、妻子とともに上京。東京都江戸川区小岩町に居を構える。東京都立向丘高等学校定時制の非常勤講師となる。
7月 - 「兆」を『新日本文学』に発表。この年、安部公房、真鍋呉夫らの「現在の会」に参加。庄野潤三、吉行淳之介、安岡章太郎、小島信夫、奥野健男らの「一二会」を結成。この頃、庄野の紹介で大阪ABC放送のラジオ番組用に「硝子障子のシルエット」などの短篇(のちに「葉篇小説」と称される)を書く。
1953年(昭和28年) 36歳
10月 - 「子之吉の舌」を『文學界』に発表。「一二会」解散後、庄野潤三、吉行淳之介、安岡章太郎らと「構想の会」を結成。家庭をかえりみず家に帰らないことが多くなる。
1954年(昭和29年) 37歳
6月 - 奥野健男、吉本隆明らと雑誌『現代評論』を創刊。
4月 - 「帰巣者の憂鬱」を『文學界』に発表。
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1954年10月 『おきなわ』№40 島尾敏雄(江戸川区小岩4ノ1819)「『沖縄』の意味するもの」
10月 - 島尾の浮気による激しい嫉妬が原因で妻・ミホが心因性反応を発病。

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1972年3月 『青い海』11号 「琉球弧が歩みだすために 島尾敏雄」
 ◇1975年4月 『新沖縄文学』28号 島尾敏雄、大城立裕、牧港篤三「鼎談・沖縄で何を書くかー『新沖縄文学賞』設定にあたって」

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10月31日『琉球新報』豊岡こずえ「沖縄の心刻む那覇市民会館ー建物の再活用を期待」


 上野の国立西洋美術館のコルビュジエ(スイスで生まれ、フランスで主に活躍した建築家)設計の建築物が、7カ国、17施設と共に「世界文化遺産」に登録され、外国人のものでも、東京の地元が喜んでいることをテレビで見たように思う。世界文化遺産になったら地震で倒壊や崩壊する危険性があっても保存しないといけないだろう。京都の図書館や、大阪の日銀のように外観を保存するとか色んな手立てがあると思う。那覇市内に復元の歴史的建造物や、ヤマトゥがつくった沖縄県庁(若尾 文子の旦那・黒川紀章。今何かと話題の大阪府警庁舎も黒川紀章、2007年竣工、建設費617億円))や沖縄県立博物館・美術館だけでは寂しい。別にヤマトンチュが作ったのが悪いとは言っていない。戦前の武徳殿、戦後の立法院棟、那覇のテンブスが今、写真でしか確認できないが、立法院棟は設計図があるので復元可能ではある。

 しかし復元で形ばかりで如何しようもない、中身が伴ってこそ文化である。ウチナーンチュがウチナーのチムグクルで造ったものを一つぐらいは戦後沖縄文化のシンボルとして残せということである。で、使い道はいくらでもある。隣の県立図書館は移転するので、比嘉春潮文庫など特殊文庫の貴重なものの収蔵施設、隣の那覇市中央図書館、公民館の施設、世界にウチナーぬチムグクル発信の情報機器を備えた那覇総合資料館などである。目の前に警察署や消防署もあるので天災、人災の備えがある。大ホールは奥武山に武道館やスタジアムもあるし、国立劇場もある。だが、大ホールは、国連平和維持活動(PKO)に自衛隊を送っているからテロも頻発する。久茂地界隈ならタイムス、新報のホールで十分だ。久茂地の会館予定地は過密の原因になるから止めて世界の蘇鉄などを集め研究所を付設した植物園とかが良い。私個人でもこれくらい発想できるので検討委員会の専門家は最善のアイディアで、身の丈にあった未来に向けた発想をすると思う。暴言多謝。


京都府立図書館→京都の近代洋風建築/日本銀行大阪支店旧館+新館(竣工年:明治36年 (1903) ベルギー国立銀行をモデルに設計:辰野金吾・葛西万司・長野宇平冶/長崎・島原藩蔵屋敷跡地に建つ)→大阪建築

 那覇市民会館の場合は検討委員会が作られるらしいが、何かの誤魔化しでなければ、私らと(屋嘉比収も居た)立法院棟保存運動をした琉球国建設親方の真喜志好一氏や、近現代史研究家の伊佐眞一氏もぜひ委員に加えてほしいものだ。この問題は翁長市長の自民党時代に発想した経緯もあるのでそこら辺は十分見極めたい。


2007年2月 那覇市歴史博物館『戦後をたどるー「アメリカ世」から「ヤマトの世」へ』ー『那覇市史 通史篇第3巻(現代史)改題ー』琉球新報社□新垣安子「那覇市民会館 芸能・音楽の発展に貢献」

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谷内六郎氏は「週刊新潮」の表紙を25年間飾り、国民に親しまれている美術家です。横須賀美術館が所蔵する作品コレクションから約50点をご紹介します。また、戦後沖縄の子どもたちの記録写真で名高い山田實氏の写真作品40点をご本人と沖縄県公文書館から借用し、展示します。

 
 2016年11月9日、浦添市美術館に「なつかしき昭和の想い出展」を見に行く。途次、又吉ケンタロウの旗があったので覗いたら又吉ケンタロウ氏本人が居たので挨拶をした。浦添市長予定候補と名刺にはあったが、折しもアメリカでは異端児トランプ氏が大統領になった。安全保障を日米同盟によって担保して来た日本敗戦後の昭和レジーム(ヤルタ・ポツダム体制)が崩れようとしている。ケンタロウ氏には既存の手法ではない大胆な発想が求められる。


浦添美術館で、館長の宮里正子さん(左)、学芸員の岡本亜紀さん

写真/2016年10月の山田實さん

写真左が浦添市美術館長・宮里正子さん、山田實さん
○谷内六郎は「週刊新潮」の表紙を25年間飾り、国民に親しまれている美術家だが、最近の「週刊新潮」はネット時代の煽りを受けてか、経営上か知らないがオキナワの市民運動を批判している。アベ週刊誌に成り下がっているようだ。


浦添市内 右はピンク色の花を咲かすトックリキワタ

写真/2016年11月の山田實さん

2016年3月『視覚』中信出版社(北京市)山田實「壺屋」


2016年11月『ニッコールクラブ会報 242号』「沖縄支部」

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 いったいこの日本という国はどうなって行くのでしょう
マイナス金利でのデフレ脱出は先送りして しゃーしゃーと居直る
年金切り下げ、TPPで国民皆保険も破壊 金持ち優先税制、一層の貧困 
一方、海保や軍備防衛、治安は増大し 外国には金をばらまく
いくら植民地にできなかった中国への嫉妬とはいえ 憲法まで変えて軍事力で対抗しよというのか
このアナクロ政権 アベノミクスは破たんした 政治の劣化も極まれり 安倍一強という驕りはあまりにひどいではないか 目をさまそうよ、この国の皆さん!(T)

東京新聞 2016年11月3日【社説】 憲法公布70年 感激を忘れぬために
○七十年前のきょう、日本国憲法が公布された。戦争犠牲者を思い、国内外に不戦と平和を宣言したのだ。その感激を忘れぬよう努めたいと思う。
 「今日は何といふ素晴らしい日であつたか」
 元首相の芦田均は憲法が公布された三日の夜、日記の冒頭にそう記した。「生(うま)れて今日位感激にひたつた日はない」と続く。その日は午後二時から東京の皇居前広場で祝賀大会が開かれていた。日記に(略)

 芦田は憲法原案を審議した衆院小委員会の委員長であり、その年の八月二十四日には衆院本会議で次のように語っている。「戦争放棄の宣言は、数千万の犠牲を出した大戦争の体験から人々の望むところであり、世界平和への大道である」この憲法は多くの戦争犠牲者の上に成り立っていると同時に、当時の人々が強く平和を望んだ上に立ってもいる。それを忘却してはならない。
 ひるがえってコンパスを四五年から二〇一六年の今日まで回してみれば、この七十一年間は「無血の歴史」である。根幹に平和主義の憲法があったのは疑いがない。「憲法の番人」たる内閣法制局、日銀、公共放送たるNHKの人事…。民主制度に仕組まれたさまざまな歯止めを次々とつぶしてから進んできた。いくら党是といえど、戦後でこれほど憲法を敵視する政権はなかった。
 明治時代には自由民権運動があり、さまざまな民間の憲法私案がつくられた。その中に植木枝盛(えもり)という人物がいた。思想家であり、第一回衆院選挙で当選した政治家でもあった。「東洋大日本国国憲按(あん)」という憲法案を書いた。
◆世に良い政府はない
 人民主権や自由権、抵抗権などを求めた先進的な案である。彼には「世に良政府なる者なきの説」という演説原稿がある。
 人民が政府を信ずれば、政府はそれに付け込んで、何をするかわからない。世に良い政府などないと説いた。一八七七(明治十)年の言説として驚く。こんな一句で締めくくられる。
 「唯一の望みあり、あえて抵抗せざれども、疑の一字を胸間に存し、全く政府を信ずることなきのみ」

 「疑」の文字を胸に刻んで、今の政治を見つめよう。


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Posted by: ryubun02
○最近、テレビのクイズ番組が面白いです。東大出のIQ150とか160の人達が出ているのを見ていると、私など十分の一の正解しか出来ず、東大の偉大さを見せつけられている。そこで思うのだが、日本には、これほど頭の良い連中が居るのに如何して伏魔殿が存在するのか不思議でならない。しかし同じ人間です。昔の詩を思い出しました。「佛も昔は人だった。吾も終わりは佛なり」。
 IQの高い人も歳を取るのです。高齢者になってから多少は呆けるでしょう。認知症になるでしょうが、ここまで来ると楽しくなります。脳みそが詰まってない私の脳には隙間があるので、今からでも詰め足すことが出来ますが、脳満杯の人のIQは減少していく筈です。人生は高齢者になってからが面白い。

2016年11月 城谷一草「春秋庵雑筆」⑦< 丁字風炉の源慶さん>
○物を作るより、家造りが上手になっている作家が多くなった陶芸界だが、金城次郎さんは読谷に立派な窯を造った。当時は次郎さんの次男夫婦が大変だった。でもその甲斐あって沖縄で初めての人間国宝と謂う栄冠を得られたのです。


金城次郎パネル写真(古美術なるみ堂 ☏098-987-5530)

 焼物造りが至福の業と励む人がもう一人居た。小橋川源慶さんです。口数の少ない小柄だが、自分と同じ位の大物を作っていた。丁字風炉の名人で、何か丁字風炉に拘りがあったのでないかと思う。大和の陶工たちが丁字風炉を無視した観があったので、源慶さんは格別に拘ったかなと思うのです。私も大好きでたくさん扱いました。
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写真左から小橋川源慶氏、小橋川秀義氏、新城栄徳

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