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Category: 04-書の森
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1960年1月『オキナワグラフ』


1972年11月 沖縄の雑誌『青い海』比嘉正子「わたしの″女の闘い〟」

比嘉正子・関西主婦連会長
 2011年 10月9日、午後ーあけみとJR永和駅から天満宮に出かける。帰途「天六」に寄る。新京阪ビルの向いにあった北市民館、かつてツタ(淀川善燐館の館長S・F・モランから贈られたツタ、だれからともなく「愛のツタ」と呼ばれた)で覆われていたのが目に浮かぶが、今は建て替えられて大きなビルとなり「大阪くらしの今昔館」などが出来ている。ブログ「十三のいま昔を歩こう」に市民館と梅田周辺の古い写真が載っている。粟国村人会の新里利雄夫妻にも会った。

堀川監獄は1920年に堺に大阪刑務所として移転し、跡地は23年に扇町公園となった。しかし天六・長柄近辺は、短期間に急速に発展したため住宅が密集し、明治末から大正年間当時ともなれば、市南部の長町などとともに長柄・本庄が生活困窮者の居住地域として知られるようになっており、都市の貧困問題が集約的に生起していたのである。
 
市民館の計画は、当初は島村育人(羽衣学園創設者)が、その後は志賀志那人が中心になって進めたが、初代館長には志賀が部長待遇で就任した。当時まだ29歳という年齢からすれば、破格の待遇といえるだろう。この後1935年5月まで北市民館々長として在職した後、社会部長となったが、1938年4月に46歳で現職のまま逝去した。館長在職中は、たとえば銭湯で近隣住民と親しく世間話をしながらニーズ調査をしたことを指して「風呂屋社会事業」と伝えられるように、地域の福祉問題を積極的に把握し、その改善方法を模索し続けていた。市社会事業行政の闊達な雰囲気と志賀館長の人柄は、市民館の事業にも反映し、身上・法律・職業相談、講演会・講習会・図書貸出・娯楽会、町内会・クラブ・諸集会、託児・保育組合、一般診療・歯科診療、授産・信用組合・生業資金融通などの多岐にわたるばかりではなく、実に自由な運営がなされていたようだ。館閉鎖まで14代にわたる歴代館長には、「志賀イズム」としてその伝統が受け継がれたという。(→「月刊ボランティア」ー大阪市立北市民館と志賀志那人)

新城栄徳「比嘉正子」(→1997年1月ー『近代日本社会運動史人物大事典』日外アソシエーツ)
沖縄首里の造り酒屋の渡嘉敷宗重の4女に生まれる(実家跡の都島友の会・渡保育園に渡嘉敷胸像)。女子工芸学校在学中は裁縫が嫌いで、さぼってトルストイを呼んだり、沖縄県立一中の野球の応援に行ったという。同校卒業後、1年間、宮古島の西辺小学校で教壇に立ち、大阪東淀川区十三にあるミード社会館のバプテスト女子神学校に入学。週2回講師としてバイブル社会学を講義に来た河上丈太郎(関西学院教授)に感化され、自由、平等、平和の社会改革思想を持つようになる。

1924「関西沖縄県人会」結成に参加し、そこで比嘉賀盛を知る。賀盛は沖縄県立一中の卒業生。クリスチャンで日曜日は教会へ行き、牧師の比嘉賀秀、伊波普猷らに学んだ。家が貧しいため進学をあきらめ、十五銀行に就職が決まって19年、18歳で上阪。関西沖縄県人会では会計をつとめている。

1924年7月に県人会基金募集のため正子、賀盛、真栄田三益、志多伯克進、上原永盛が代表となって沖縄に帰郷。7月28日に沖縄県民に対し関西沖縄県人会の主旨を知らせるために演説会を開いた。正子は「同胞愛の立場から」、賀盛は「創業時代の県人会」と題し演説した。10月31日には北市民館で関西沖縄県人会臨時大会を開いている。志賀支那人北市民館長、斎藤弔花(1877.年大阪生まれ。謙蔵・謙作、別号に潮居士。国木田独歩と親交があった。1950没、73才)関西日報主筆が講演している。1931年、正子は志賀志那人に誘われて、北市民館で青空保育などを行なった。




志賀志那人 しが-しなと
1892-1938 大正-昭和時代前期の社会事業家。
明治25年9月7日生まれ。大阪基督(キリスト)教青年会主事などをへて,大正9年大阪市主事。市民館(のち北市民館)開設につくし,初代館長。館内に診療室,図書室をもうけ,また金融,保育制度をつくり,近隣の貧困者の生活向上につくした。のち大阪市社会部長。昭和13年4月8日死去。47歳。熊本県出身。東京帝大卒。→コトバンク

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1971年9月 沖縄の雑誌『青い海』<特集・山之口貘の詩と青春>

画家 山口三路(山之口貘)
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久米町バプテスト教会「自由絵画展覧会」
写真前列右から山口重三郎(貘)、秋山、鉢嶺、伊佐成功、真栄平錦雪、鉢嶺、喜名セイトン、古謝景明。中列が米須秀亀。後列右から浦崎永錫、饒平名文喬、知念積吉、矢野彩仙、新崎新太郎、山里永吉、野津久保、饒平名知安、前中留吉、渡嘉敷唯選、兼島のスター。
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昭和53年9月『別冊太陽』「近代詩人百人」平凡社(左下に大正11年の作品がある)

1973年5月『サンデー沖縄』山里永吉「壺中の日月」
○当時、沖縄には丹青協会という画家の集団があった。会長格は沖縄師範学校の図画教師西銘生楽で、日本画家の比嘉華山もまだ元気であった。その他に渡嘉敷衣川、金城南海、親泊英繁、野津久保といった人たちで、いずれも那覇若狭町の出身であった。18世紀のころ、彫刻家として著名であった田名宗経も若狭町の出身であったことから考えると、那覇の若狭町はまったく美術家の温床といってもよかった。もともと若狭町の住民は漆芸を家業としている者が多く、職業がらその子弟から多くの画家が輩出したのではないだろうか。私が丹青協会にはじめて絵を出品したのは、中学3年のときであったが、同時に出品したのが浦崎永錫(現・大潮会会長)であった。浦崎と私は同級生で、教室で机を並べていた友人だが、これまた若狭町の出身である。

 その翌年、丹青協会から分離して『ふたば会』という団体ができた。前記の渡嘉敷衣川、野津久保兄弟のほかに島田寛平や知念積吉が参加した。知念積吉はその後夭折したが、当時の沖縄では異彩を放った画家で、琉球音楽史に巨匠としてその名をのこした知念積高(知念ミーハギ)直系の子孫ということであった。その他、山之口貘や新崎新太郎もやはり展覧会仲間であったように覚えているが、後になって貘が詩に転じ、新太郎が書家になったことはご存知のとおりである。展覧会は毎年夏休暇に開催されたから、東京で勉強している先輩たちも、帰郷していたし、そういった人たちからとうぜん新知識が披露された。前に述べた野津久保(渡嘉敷唯尹)は当時、美術学校の日本画専科の学生であったが、私はこの人から歌舞伎の話や寄席などという、つまり江戸趣味といった、当時の田舎中学生にとってはいかにも都会的な、魅力ある話をたっぷり聞かしてもらったものである。

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山口三路「自画像」が見える。

1997年7月ー『貘のいる風景ー山之口貘賞20周年記念ー』山之口貘記念会編集委員会□「編集後記ー新城栄徳氏からは『沖縄教育』に掲載された青年時代の作品をはじめ絵画の資料も提供いただいたが、紙幅や日程の都合で割愛せざるを得なかったことは残念なことであった。」

1990年2月ー『彷書月刊』54号□新城栄徳「沖縄に来た画家たち」弘隆社
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歌誌『梯梧の花』

2016年10月 梯梧の花短歌会『合同歌集ⅤⅢ 梯梧の花』発行所 〒902-0061 那覇市古島2-18-12 島袋盛慎方



仲里正雄・撮影「デイゴ」
原産をインドとする沖縄が北限のマメ科喬木落葉樹。3〜5月に独特の枝ぶりに、深紅色の燃え立つような花を咲かせる。南国沖縄を象徴し、観光資源として大きな効果があること、また幹は漆器の材料として用いられ経済的価値も高いという理由で、昭和47年に県の花として制定された。(→沖縄大百科)


2011年9月18日『琉球新報』喜納勝代(すみれ歌会主宰)『合同歌集VII 梯梧の花』 強く生きた足跡を描写
 海底プレートの揺らぎで思わぬ東日本大震災が起こった。映像を見る限り焦土と化した沖縄戦がよみがえった。東北の人々は勇気を持って立ち上がってほしい。『合同歌集VII 梯梧(でいご)の花』が通巻80号記念号として発刊された。出詠者は21人、1人30首で630首を収めている。表紙は紺碧の空に映える真っ赤なデイゴの花である。沖縄のナイーブな詩歌がデイゴの花のように命あふれている歌群である。
 「梯梧の花」の創刊は昭和3(1928)年。今から83年前に結成された、沖縄では最も長い歴史のある短歌結社である。それは会員の質の高い知性とたゆまぬ努力の賜物であろう。会員の吉川安一は「はじめに」の一文で「短歌は、多くの人に愛され詠まれ、短歌人口を形成する。歌人は、人生の季節を重ね、歌歴を積んで、短歌創造の喜びを味わう」と説いている。「梯梧の花」の先輩歌人たちがほとんど逝去した今日、今の歌人たちがしっかりと受け継いでほしい。昭和50年代に私も時々同会に参加させていただいたが男性が多かった。現在は女性が多く、頼もしく思う。
 多くの会員が歌集を出すベテラン歌人たちである。長い年月を経て詠まれた歌作には優しさと厳しさを感じさせる。沖縄の厳しい現実と相対しながら自然や家族、戦争、基地、生活諸般を詠む。時にせつなく、またたくましく生きてきた足跡が細やかに短歌に描写される。本書は沖縄のソフト面を知る手近な手引書になるのではないだろうか。
 サイパンの戦場は仲村繁一の作品で学び、沖縄戦は長田紀春の歌を読むとつらくなる。私も幼いころに南部を逃げ回った記憶があるので身につまされる。沖縄戦がもたらした基地の問題は未解決のまま宙ぶらりんになっている。人間の鎖に参加したそれらの短歌にも共感したが、一番つらかったのはサイパンや地上戦の悲痛な叫びである。沖縄の自然詠や家族の歌には心が和んだ。それぞれ個性が磨かれていて粒ぞろいである。より一層の努力で先輩歌人たちを乗り越えてほしい。


1926年1月『沖縄教育』第150号 新島政之助(新垣清輝)「短歌/季節の抒情 旅にての歌」
新島政之助は戦前ガリ切の達人で知られていた。
新島政之助が編集した本

1932年1月21日『沖縄朝日新聞』新島政之助「長編敘事詩 季節の処女」
1956年5月2日ー新島政之助宅「真和志市誌出版紀念短歌会」参加者は泉國夕照、原神青酔、上里堅蒲、宮里ひろし、石川正秋、比嘉俊成、國吉灰雨、邦吉之輔。



1963年12月 津島寿一『芳塘随想 第11集 先輩・友人・人あれこれ 巻三<森賢吾さんのこと>』

津島 寿一ツシマ ジュイチ
大正・昭和期の政治家 蔵相;防衛庁長官;参院議員(自民党)。
生年明治21(1888)年1月1日 没年昭和42(1967)年2月7日
出生地香川県坂出市
学歴〔年〕東京帝大法科大学政治学科〔明治45年〕卒
経歴大蔵省に入り、昭和2年には欧米駐在の財務官となって金解禁に伴うクレジット設定の衝にあたる。9年に帰国後は理財局長を経て岡田内閣の大蔵次官、日銀副総裁、北支開発会社総裁を歴任。太平洋戦争の終戦前後に蔵相を務め公職追放となったが、解除後は外務・大蔵両省顧問となり、26年日比賠償全権委員、27年外債会議日本首席代表としてフィリピン、インドネシアとの賠償交渉や米英との外債処理協定をまとめた。また28年には参院選全国区に当選、岸内閣の防衛庁長官を務めている。一方、多芸多才で知られ、日本棋院総裁、日本庭球協会会長、日本オリンピック委員会委員長、日本体育協会会長なども歴任し、著書に「閑適生活(全3巻)」がある。→コトバンク

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1977年3月 沖縄の雑誌『青い海』№61号 照屋照和「自然界の大主・園原タンメー」


1992年9月4日『琉球新報』「帰郷するのに苦労/」長野県引き揚げ者資料/資料を見る前国頭村教育長の園原繁さん」


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天野鉄夫氏の著作/下中央に『新聞から見た園原咲也先生の横顔』



1935年5月 『沖縄県山林会報』沖縄県山林会 園原咲也「琉球樹木の比重調査」


1952年6月 園原咲也『琉球有用樹木誌』(琉球林業試験場集報№2)

2001年2月 『ウォーカー博士の見た沖縄の原風景~米国植物学者の偉業と写真で蘇る1950年代の沖縄~』ウォーカー博士展実行委員会


左上ー園原咲也、下が天野鉄夫

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沖縄の雑誌『青い海』98号 太田良博「ジョン万次郎外伝ー摩文仁からはじまった開国の曙光」

写真左から嘉陽安男氏、新城栄徳、太田良博氏


1986年9月 井伏鱒二『さざなみ軍記・ジョン万次郎漂流記』新潮文庫(万次郎漂流記の初出は1937年で、木村毅の蒐集したジョン万資料に拠る/1938年(昭和13年)、「ジョン萬次郎漂流記」で第6回直木賞受賞、『文学界』誌の同人となる。)〇・・・そこで短艇に積んでいた台所道具を運んで来て、牛豚の肉を料理して前夜以来の空腹を充たし、コーヒーも飲んだ。そうして食後の休息をしていると、そこへ土人が来て手真似で3人を案内しながら番所のような仮小屋に連れて行った。土人等は彼等3人を外国の漂流人と思っていた。この島(沖縄島マブニマギリ)の土人等は漂流人の取扱い方が上手であった。親切に飲水を汲んで来てくれるものもあるし、甘藷を持って来てくれるものもあった。米を持って来てくれるものもあった。・・・


2016年1月12日-新年の挨拶がてら金城先生を訪ねた。-写真左から、音楽家の大城政明氏、歯科医の金城竹治氏、和田達雄氏(NPО法人ジョン万次郎上陸之地記念碑建立期成会広報部長/携帯 090-2143-6306)

2016年12月16日 バジル・ホール来琉200周年記念碑除幕式での大城政明氏

写真左から大城政明氏、渡口彦邦氏

2017年1月8日『琉球新報』渡口彦邦「声ー沖縄の『独立』は当然」


写真左から大城政明氏、安仁屋眞昭氏


「中濱萬次郎 家系図」(部分)NPО法人ジョン万次郎上陸之地記念碑建立期成会広報/和田ジョンたつお

2001年7月発行の川澄 哲夫 (著), 小沢 一郎 (監修), 阿川 尚之『ジョン万次郎とその時代』:廣済堂出版を見た。和田さんに聞くと、政治家の小沢氏と同一人物という。また沖縄のジョン万次郎団体と小沢氏の関わりを話してくれた。


1851年2月2日 ジョン万次郎、琉球(大度浜)上陸/具志弘輝「ジョン万次郎、琉球(大度浜)上陸」


2017年1月10日 ジョン万次郎、琉球上陸の地を訪ねる。そこで、雑草を刈っていた和田達雄氏(NPО法人ジョン万次郎上陸之地記念碑建立期成会広報部長)に遭遇。 写真ー新城栄徳、右が和田達雄氏(高知県吾川郡いの町越裏門出身)。下記は和田氏のジョン万次郎資料


2018年2月20日『琉球新報』「ジョン万次郎碑 建立」

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 2000年8月21日『沖縄タイムス』「知られざる歴史上の写真ー軍医・渡辺重鋼、教育者・豊川善曄」(島袋和幸)/5月27日『沖縄タイムス』「明治の貴重な写真発掘ー山田実さん保管、新城栄徳さん調査」/10月2日『琉球新報』新城栄徳「近代沖縄観光文化史ノートー沖縄に来た画家たち」/12月3日『琉球新報』新城栄徳「書評ー野々村孝男『写真集・懐かしき沖縄』/2001年10月9日『おきなわ写真の歩み』新城栄徳「沖縄写真史散歩」

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沖縄県立第三中学校 第一回卒業式/前列右から4人目が豊川善曄
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1933年6月 『南燈』豊川善曄「日本文化に對する沖縄人の貢献」
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1998年1月 島袋和幸『沖縄の軌跡』17号 「放浪の教育者 豊川善曄について」
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1998年8月 城間有「勉強会レジュメー豊川善曄論」

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2001年10月ー沖縄県写真協会『おきなわ写真の歩み』新城栄徳「沖縄写真史散歩」
1609年、フィリピン臨時総督ドン・ロドリゴを乗せたサン・フランシスコ号が千葉の御宿沖で座礁、上総国岩和田の村人によって317名が救助されたという。その千葉県御宿には鹿野政直氏が住んでおられる。氏の著『近代日本の民間学』(岩波新書1983年)、『近代日本思想案内』(岩波文庫1999年)がある。何れの本にも私が関心をもっている柳田国男、折口信夫、南方熊楠、柳宗悦、伊波普猷が登場する。2008年2月に岩波書店から『鹿野政直思想史論集』第4巻が刊行された。沖縄特集ということで私も著者から贈られた。中の追記に「末吉麦門冬については、のちに新城栄徳氏から、同氏編・刊『文人・末吉麦門冬』(『琉文手帖』2号、1984年12月)の出ていることを教えられた。小冊ながら、彼の写真・筆蹟・随筆選に、伊佐眞一編の「末吉麦門冬と新聞」「著作目録(抄)」などを収めており、麦門冬研究の基礎文献をなす」と書かれている。また沖縄学について私が提供した新聞にもふれている。

2001年10月ー沖縄県公文書館『写真にみる近代の沖縄』

2006年6月 『山田實クロニカルー沖縄と写真と私』□仲里効「はじめに」、東松照明「戦後写真史の幕開けに立ち会う」、洲鎌朝夫「写真機を操る人。操られる人」
2008年9月 朝日新聞社『アジアとヨーロッパの肖像』(9月11日~国立民族学博物館/国立国際美術館)

2009年1月 沖縄県立博物館・美術館『移動と表現ー変容する身体・言語・文化』

2010年3月 壷屋町民自治会『なつかしの壷屋』(山田實/森幸次郎)
今、『琉球新報』に「山田實が見た戦後沖縄」が連載されている。それを見て思うのは、10・10空襲を得て沖縄戦で灰燼と帰した那覇での写真を始め幼馴染の伊波國男(伊波普猷の次男)の写真と卒業証書や辞令書などが残っていることに驚く。これなどは肉親が県外に住んでいた結果であろう。山田さん本人もシベリア抑留から生還し健在だからこそ、これらの写真、資料が活きている。(2010-3-30)
同年に岩宮武二が『日本の工芸』別巻・琉球の取材で来沖。琉球新報の依頼で山田さんが案内をつとめた。別巻・琉球は外間正幸文で淡交社から刊行された。同著には岩宮のサインがある。69年2月に那覇栄町の栄亭でニッコールクラブの沖縄有志による東松照明歓迎の集合写真もある。74年11月の八汐荘での「沖縄写真学校」は山田さんの写真館が窓口であった。そのときのポースタが山田さんのところにあるが講師の荒木経惟、東松照明森山大道、深瀬昌久細江英公の全員のサインがある。

2010年11月 沖縄県立博物館・美術館『母たちの神ー比嘉康雄展』(1968年11月19日未明のB52爆撃機が嘉手納空軍基地で墜落炎上。この事件を転機に嘉手納警察署を退職し、東京写真専門学院報道写真科入学。)

2011年1月 沖縄県立博物館・美術館『安谷屋正義展ーモダニズムのゆくえ』山田實「エッセイ・沖縄美術界の逸材、早い別れ」
2001年3月ー那覇市歴史博物館『????宮城昇の写した世界ー埋もれていた昭和モダン』

2010年3月6日午後1時にパレットくもじ前で「豊前海一粒かき」の試食があった。リウボウ6階では「第12回青森県物産と観光展」が開かれていた。アップルジュースを飲み会場を見る。梅干しもある。梅干は和歌山県というイメージが覆された。和歌山県には秦の徐福の墓があるが、青森県の小泊には徐福の里公園があり徐福像もある。いま巷では坂本龍馬がブームである。その出生地の土佐は南国とも云われている。青森などは北国である。
午後2時、那覇市歴史博物館で「本土人が見た1950年代の沖縄」の撮影者・小野田正欣氏ご本人による当時の状況解説の講演を聞く。展示写真の中に、1953年完成したばかりのペルリ記念館(戦前の首里城北殿に似ている)や、沖縄民政府立首里博物館、東恩納博物館の写真もある。私は沖縄滞在のときの小野田氏の写真と、話をされている小野田氏を比べていた。その当時、私は5,6歳であった。

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 1931年、瀬長亀次郎は神奈川で井之口政雄宅に下宿をしていた。井之口夫人は日本赤色救援神奈川地区の活動家で瀬長は大分お世話になった。飯場生活の瀬長は「全協日本土建神奈川支部」を朝鮮人の金一声らと結成、京浜地区の責任者になった。そして横須賀町久里浜の平作川改修工事に従事していた朝鮮人労働者350人と労働条件改善、全員に仕事をよこせの要求をかかげてストライキに突入、瀬長も、金一声も検挙され一ヶ月投獄された。


 瀬長亀次郎は戦後も沖縄人民党行事としてこの碑(人民解放戦士真栄田一郎君に捧ぐ)の前に集い団結を誓った。瀬長亀次郎「弾圧は抵抗を呼ぶ 抵抗は友を呼ぶ」→1991年8月『瀬長亀次郎回想録』新日本出版社
 
1954年6月 沖縄県学生会編『祖國なき沖縄』日月社
ーなちかしや沖縄戦さ場になとて 世間おまん人(ちゅ)ぬ流す泪ー この本を祖国日本と沖縄の同胞に捧ぐ
写真ー米軍家族住宅(ずけらん)/日本復帰活動の帰省学生の宣伝隊/これが今なお各地にある小学校校舎である。/第一号線軍用道路/平和を訴える琉球大学生、これがいわゆる琉大事件の発端となった/踏みにじられた稲田に乱立する鉄塔、農民達の訴えをよそに/琉球列島米国民政府長官オグデン少将と握手する琉球政府比嘉任命主席/見るかげもなく破壊された首里高校(旧沖縄一中)/無残にも破壊されたままになっている旧那覇市の廃墟。前方に見える鳥居は波の上神社跡。
悲憤の島オキナワの記録・・・・中野好夫
○あらゆる意味において、オキナワは日本の縮図だとは、オキナワから帰ったすべての人の口から、わたしの直接聞いた言葉である。物質的生活の極度の困難から、やむなく精神的荒廃にまで追い込まれてゆく大多数の庶民、それらの犠牲の上にのっかって私腹を肥やす一部少数の追随的権力盲者、利権屋、享楽業者、そしてまた火事場稼ぎ組の渡来日本人、-まさしくこれは日本の縮図でなければならぬ。(略)わたしは本書にあって、一人でも多くの日本人が、悲しみの島オキナワの実情と、その県民の熱望とを、自分たちの問題として知ってくれることを、もう一度あらためて心から祈る。
郷土愛の結晶・・・・・・・神山政良・沖縄諸島祖国復帰促進協議会会長
善意の記録として・・・・沖縄県学生会
○またこの書の刊行に多大な支援を寄せられた宮城聰、神山政良、比嘉春潮、金城朝永の諸先生に感謝いたします。殊に金城先生には玉稿をいただいてお礼申し上げます。なお、この書の監修に当たられた新日本文学会員の霜多正次兄、同じく当間嗣光兄、それに城間得栄兄に感謝します。殊に当間兄には終始御尽力を煩わしました。
第一部
拳銃におののく村/百鬼夜行/琉球王国を夢みる人たち/ひき殺された二少年/琉球古文化財の行方/帰省学生の日記/沖縄の子供たち/売春の町/沖縄基地図/海なき海人
第二部
土地なき民/労働者と労働組合/ドルとB円経済のからくり/琉球大学事件/日本復帰への道
島の歩み(琉球の歴史と文化)・・・・・・金城朝永
あとがき・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・当間嗣光
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1959年3月『琉球新報』写真と文・石野朝季、スケッチ・儀間比呂志「大阪と那覇 あまくま」
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1959年10月ー東京沖縄県人会会場の廊下で、貘、伊波南哲、霜多正次、当間嗣光、平良真英、新崎盛敏(東京沖縄県人会3代会長)、金城唯温、「志多伯」「おもろ」「紅型」など泡盛屋のオヤジ、紅一点の山口一子
 
『沖縄年鑑』「文化・絵画ー儀間比呂志 第三回個展は5月16日から三日間タイムスホールでひらかれた」/1961年8月『琉球のあゆみ』 

1963年
      
7月15日『人民』 「核戦争をひき起こす原子力潜水艦 みんなで力を合わせ反対しよう」

1965年12月『沖縄春秋』「去る22日正午、 カメラマン岡村昭彦氏が本社を訪れ、およそ1時間にわたって(大城宗憲と)懇談した。」
1968年11月 東京沖縄県学生会『祖国なき沖縄』太平出版社
○沖縄百万同胞の苦悩の歴史を知るためにー『祖国なき沖縄』の再刊にあたって・・・・・・・中野好夫
○悲憤の島オキナワの記録ー初版序文・・・・・・・・・中野好夫
○売春の街ー女中からパンパンへ/悪魔のような仲介人/借金のある女が使いやすい/収入は半分わけ/妻はパンパン/夫は居候/パンパン街を育てるもの
○解題『祖国なき沖縄』以後の14年…・・・新里恵二
○『祖国なき沖縄』の再刊にあたってー初版の監修者として…・・・・当間嗣光
○即時祖国復帰をたたかいとるためにーあとがきに代えて・・・東京沖縄県学生会

1967年1月1日「『人民』「わらび座で勉強中の瀬長千尋さんの便り」
      1月14日 『人民』「宮里政秋「入党のころー南灯寮で民謡サークル結成」
      2月『月刊タウン』「岡村昭彦ヒューマン報告 №2ハワイ 観光地の裏側」
      7月8日  『人民』 「神山孝標「党史を語る」(1) 
      7月15日 『人民』「沖縄で生まれた解放の闘士ー井之口政雄」
      9月9日 『人民』「基地経済の実態ーその内幕をのぞく 米兵相手に売春」 
      
       1967年11月 『物語青年運動史ー戦前編ー』日本青年出版社


      12月・3日『毎日グラフ』笠原友和「東京から飛んで3時間だが遠のく島」
    1968年
      6月22日『人民』 瀬長亀次郎「12年ぶりの本土ー売国奴 吉田茂を英雄に、国葬に怒り」

1969年4月 『文化評論』№91<特集・沖縄の歴史・教育・文化>安仁屋政昭「沖縄の近代をささえた人びと」/1970年11月 『文化評論』№110<特集・日本文化における沖縄> 新里恵二「沖縄学の伝統と展望」
1970年1月1日『人民』 伊波広定「わが映画物語」(1)

伊波廣定氏と新城栄徳

1970年4月 霜多正次『虜囚の哭』新日本出版社(儀間比呂志・装幀)
     4月4日 『人民』「渡嘉敷島自決の責任者 赤松の来県」
5月2日 『人民』「タクシー乗っ取りにやっきになる右翼『東声会』ー公共企業であるタクシーが行動右翼『東声会』(宜保俊夫支部長)の手につぎつぎ渡るという事態がおき問題になっています。・・・」「謀略基地をあばくー4-」      
 
1970年7月『アサヒグラフ』「被爆直後の広島・長崎」(山端庸介撮影)山端庸介 1936年 - 法政大学中退。父が経営するジーチーサン商会(サン商会を改称)にカメラマンとして就職。ジーチーサン商会は戦時中に山端写真科学研究所(□1943年ー????宮城昇も勤めた)と改称。1943年に東京有楽町の日劇および大阪高島屋の正面に掲げられた100畳敷写真大壁画「撃ちてし止まむ」の撮影・制作に関わったことで知られる。その後敗戦にともない解散。(→ウィキペディア)
     8月8日 『人民』「東京都の美濃部亮吉①知事は7月29日来沖、4日間にわたって沖縄各地を視察し8月1日帰京ー基地・公害で多くの示唆」
①美濃部亮吉 【みのべ りょうきち】1904〜1984(明治37年〜昭和59年)【政治家】「都政の主人は都民」。 美濃部スマイルで親しまれた、革新都知事。昭和期の経済学者・政治家。東京都出身。父は天皇機関説で知られる美濃辺達吉派。東大卒。1932年法政大学教授となるが、1938年人民戦線事件で解雇。第二次大戦後は、東京教育大学教授から統計委員会事務局長などを務めた。1967年(昭和42)東京都知事に当選、以後住民との対話路線と高福祉政策で革新都政を3期12年務めた。1980年衆議院議(コトバンク)   
9月ー『国政参加選挙の争点と沖縄人民党の四大基本政策』
□重大な意義をもつ国政参加選挙/沖縄県の無条件全面返還のために-核も毒ガスも基地もない沖縄を/平和で豊かな沖縄の復興と民主的な県づくりのために-基地も公害もない豊かな経済復興を/国政にたいする人民党の態度と政策ー独立、民主、平和、中立の日本を実現するために/新米・反動の自由民主党をうちやぶり、人民党をはじめとする祖国復帰統一戦線勢力の勝利をかちとるために 


 1970年5月8日 写真家・杉山吉良来沖/1977年 杉山吉良『讃歌Ⅱ』
1971年

1971年1月 霜多正次『明けもどろ』新日本出版社(儀間比呂志・装幀)
     1月1日 『人民』小渡清孝「随想ー伊良部の心」/「金武湾を守る婦人たち」
     1月9日『人民』 「米軍演習阻止に決起する国頭村民」
      1月16日『人民』「毒ガス移送ー不安と恐怖になかで」/「反復帰の迷走ー新沖縄文学の特集にみる」
      1月23日『人民』「敗北の思想『反復帰論』」
      1月30日『人民』徳吉裕「前原穂積『戦後沖縄の労働運動』を読んで」
      2月6日『人民』 仲松庸全「公害調査旅行を終って」/「新里恵二『沖縄史を考える』」
      2月13日『人民』「政党否定と『反復帰論』」
      4月17日『人民』「軍事占領支配下26年 沖縄の請求書 その1」「米軍”特殊基地”の実            態」/「『四月の炎』創刊を祝す」
      5月1日 『人民』宮城倉啓「ストでかちとった労働三法」
      5月8日 『人民』松村拳「沖縄の放送ーフジ系『沖縄TV』の開局」④
      5月22日 『人民』「沖縄の放送 言論統制しくむOHKの設立」
      6月5日 『人民』 外間政彰「歴史民俗資料展の成果ー那覇市民の力の結実」
      6月19日 『人民』伊波広定「新里惠二氏に聞く」
      7月10日 『人民』「沖縄防衛とりきめによる自衛隊配備計画ー自衛隊はくるな、高まり広がる             反対運動」
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1971年9月『文化評論』№121<特集・沖縄論の思想>仲地哲夫「第三の琉球処分ということ」、西里喜行「近代沖縄の課題と差別問題」、安仁屋政昭「沖縄戦の記録とその思想」、津田孝「沖縄問題と現代の作家」、嶋津与志「沖縄協定調印前後」/写真・左から来間泰男氏、伊波広定氏、謝名元慶福氏、新城栄徳

       10月2日 『人民』砂川栄「謝花昇と自由民権運動」、大里康永「伝記を書いた動機」 
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       10月23日『人民』 「沖縄基地はアジア侵略の跳躍台ー協定発効後も変わらぬ核戦争基地」        10月30日 『人民』山田有幹「社会主義運動―沖縄青年同盟の結成 『無産者新聞』がパイプ」「特修ー戦前沖縄の社会運動 関係各氏に聞く(平文吉/兼城賢松/島袋良繁/比嘉光成/久高将憲)」
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写真、山田有幹夫妻を囲んで左から浦崎康華、松本三益/浦崎康華、松本三益
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      12月11日 『人民』 松本三益「戦前沖縄社会運動の思い出」
      12月18日 『人民』 幸喜達道「戦前の社会運動ー印刷職工組合の結成と無産者のたたか                い」

1971年12月 『文化評論』№124 北川民次「表紙絵」、伊藤嘉昭「侵略戦争と自然科学者の責任ーベトナムの枯葉作戦に反対する日米科学者の運動」、新里恵二「沖縄近代史の諸問題」、河邑重光「トロツキストの沖縄論」、鹿地亘「キャノンの横顔」、仲地哲夫「読書ノート 儀部景俊・安仁屋政昭・来間泰男『戦後沖縄の歴史』日本青年出版社」
1972年1月 『前衛』<核と謀略の基地沖縄>

◇沖縄における核部隊の配備ー日米協定のもっとも重大な問題点の一つが「核」の問題にあることは、いうまでもないことである。調査団もこの問題の追及に大きな力をそそいだが、今回の調査の結果、日米沖縄協定発効後も沖縄に配備を予定されている。一連の部隊と基地ー第三海兵水陸両用部隊(海兵隊)、第一八戦術戦闘航空団および第400弾薬整備隊(空軍)、第二兵站軍団(陸軍)、第七艦隊第七二機動部隊(海軍)ーいずれも核攻撃機能を持ち、あるいは核兵器の貯蔵・管理にあたっている核戦争兵力であることが、調査団の入手した米軍資料および独自の現地調査によって、あきらかにされた。◇「核」の疑惑につつまれる辺野古弾薬庫


 
1972年 1月1日 『人民』 沖縄県民のみなさん 1972年 あけましておめでとうございますー蜷川虎三京都府知事・黒田了一①大阪府知事・美濃部亮吉東京都知事」  
      1月22日『人民』 山田英盛「戦前の社会運動ー本のなかに『赤旗』が」
      2月5日 『人民』 国吉真哲「戦前の社会運動」
 
1972年5月 『歴史地理教育』№196<特集・沖縄県に学ぶ>儀部景俊「これからの沖縄問題」、金城正篤「沖縄史のとらえ方」、田港朝昭「沖縄学習の意味」、金城弘子「沖縄の子どもたち」、西里喜行「近代沖縄の歴史と差別問題」、来間泰男「沖縄に関する文献案内」/早乙女勝元「東京大空襲と紀元節」

1072年7月 日本民主青年同盟『青いしぶき』小渡清孝「発刊にあたって」

写真ー中列左から小渡清孝氏、→阿里山森林鉄道/沖縄人民党中央委員会書記局『沖縄基地の実態と機能』
1973
       1月27日 『人民』「話題の人ー竹田秀輝さん」
       4月7日 『人民』 「沖縄人民党第17回党大会の成功に期待する」

1973年6月 永田久光『赤旗戦略』講談社

右ー1973年10月 国際ショッピングセンター4階「儀間比呂志木版画展」主催・球陽堂書房

1973年12月 福木詮『沖縄のあしあと1968-72年』岩波書店、福木が、あとがきで表紙・函に掲げた版画は、儀間比呂志氏が版画風土記『沖縄』に発表された作品であるが、同氏は快く掲載を許されたばかりでなく、とくに本書のために原画に筆を加えられた。心からお礼を申し上げたい。


『人民』1973年4月7日「科学的社会主義の党への発展をめざす」/『人民』1974年1月1日「炎の街」(題字・仲松庸全)作・源河朝良 さし絵・青山恵昭


1974年1月 『沖縄思潮』創刊号  島袋光裕「題字」 宮良瑛子「表紙絵」 城間喜宏「目次カット」 安次嶺金正「とびらカット」
☆私が写真機を手にするようになったのは息子が誕生(1974年)したときで、成長ぶりを記録しょうと住吉大社近くのカメラ屋さんで中古のオリンパス一眼レフカメラを購入したのが最初である。
1974年11月20日~25日 那覇・八汐荘「写真学校WORKSHOPin沖縄」 

1976年『中央公論』12月号 濱谷浩「昭和女人集ー玉城美千代(大城政子琉舞道場)/大宜味静子(小太郎夫人)/糸数カメと愛弟子の仲宗根玲子/島袋光史と高良ベテイ/久高恵子(民謡クラブ)/エイサー謝苅青年会/カチャシーの与那城カナ(82)/藤村玲子紅型工房での玉那覇弘美、伊佐静子、堀川文子/宮平初子染織工房の具志堅清子/新垣栄三郎の妹・菊/吹硝子の宮城嗣俊夫人・静子/菓子天ぷら揚げの照屋林徳夫人・千代/市場の女性たち/市場の一角の化粧品店/守礼門前の宜保清美/東京コンパの武美、アキ/コンパバブロの絹江/那覇まつり・第一回ミス那覇選出大会/国際通りを口笛を吹いて歩く老女/斎場御嶽の中村美津」(敬称略)同誌には上原栄子「辻(くるわ)の女たち」も載っている。」

1978年6月『オキナワグラフ』「6月1日・写真の日/7人のカメラマン」

1978年10月 『たげぇに ちばやびら』瀬長亀次郎後援会



1979年3月『沖縄戦後史 アメリカ世の10年』月刊沖縄社/1979年2月 『戦後沖縄写真集 0ゼロからの時代』那覇出版社

☆1983年、人類館事件の写真を見つけ、その背景を調べはじめて写真史に興味を持った

1983年5月に大阪で発見されて以来の2枚目の写真。出品者は仲里康秀氏(〒901-1117南風原町字津嘉山100電話090-3322-9908)
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1983年6月5日『琉球新報』新城栄徳「関西資料の散策・人類館事件の写真をめぐってーある日、京都河原町三条にある琉球料理店の新装開店に伊藤勝一さんと行った帰り、伊藤さん宅に泊まることになった。浦添出身の奥さんの料理をご馳走になって、隣のコレクションの部屋で、伊藤さんが『先日、この写真が手に入った。第五回内国勧業博覧会案内図と一緒のところを見ると人類館事件のものと思う』と写真を見せられた。(略)翌日、写真を借りて東大阪の自宅で複写し、電話で伊藤さんに『伊藤さんの名前は出さなくても良いから写真だけでも公開したい』と了解を強引に得たー」


1983年10月 『坂本万七遺作写真集 沖縄・昭和10年代』新星図書

1983年10月 『こんにちはセナガ亀次郎です』瀬長亀次郎事務所

1984年8月『島空間からー1984年・沖縄・反核・反戦文学アンソロジー』沖縄・文学を通して反核反戦を考える集い(編集委員・あしみねえいいち,大湾雅常,国吉真哲,新城太石,芝憲子,瀬底月城,知念清栄,知念光男,仲松庸全,牧港篤三,安嶋涼人/編集委員会事務局・加勢俊夫,来間富男,芝憲子,富山嘉泰,宮城義弘)
〇私たちの、日常の営為は、それは本来的に単なる日常でしかありません。しかし、今や私たちは核時代に生きています。「破滅か、救済か、何とも知れぬ未来に向かって人類は邁進して行く」(峠三吉)こうした日常は、解き放つことのできない矛盾と無力感に掩われています。
 いまから40年前、沖縄であった戦争の影を背負っている者にとってはなおさらのことです。
 文学をする私たちにとって本来的には、もはやこうした虚構の中では、文学行為を半ば喪っているかも知れません。なぜ考え且つ書き、創るのか、誰に向かって何を伝え、そして言おうとしているのか。私たちの自由を奪い、個人の死をも無意味にする突然の大量死、ぢりぢりと用意されていく戦争をフィクションの世界に押し込めてよいものでしょうか。
 米ソの核軍拡競争の谷間で、核攻撃指令機能をもつ米軍基地をかかえる沖縄は、日本でもっとも危険な地域だといってもよいと思います。自衛隊の演習もエスカレートしています。沖縄戦の苦い体験をもち、今もこのような現状の地で、文学にたずさわる私たちは、私たちの仕事を通じて、平和へのねがいを訴えたいと思います。芸術家だからといって、目をつぶってはいられない危機的な時期にきていると思います。過去の15年戦争時代、多くの詩人、歌人、俳人、作家らは、時代に流され、戦争を讃美するような戦争協力の作品を書きました。私たちは、あの過ちをくり返したくはありません。「殺されるときはいっしょ」という、戦争のような強大な動きに対しては、芸術分野でも、個々人の力を合わせないと対抗できないと思います。個々人がテーマも題材も全く自由に創作し、それらを「反核反戦」のタイトルのもとに、ここにアンソロジー『島空間から』を出版致しました。                   1984年8月15日


『コミックおきなわ』1987年に創刊された沖縄初の月刊まんが雑誌。B5判、約200ページ。第23号より隔月刊。90年の第30号の後休刊。新里堅進、田名俊信、大城ゆか等、県内20人余のまんが家の作品を掲載する他、新人も発掘した。

1980年3月 那覇市企画部市史編集室『写真集・那覇百年のあゆみ』


那覇出版社1990年3月 『写真集 沖縄戦』/1984年9月『写真集 沖縄●失われた文化財と風俗』 /1986年5月『写真集 沖縄戦後史』


1985年1月21日『沖縄タイムス』
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1985年ー那覇市役所にて写真中央・親泊那覇市長、その右・秋山庄太郎、新垣典子、右端・山田實
1985年5月 『政界往来』小板橋二郎「激写で勝負する『フォーカス』と『フライデー』の完全比較」

1985年11月 『沖縄人民党の歴史』日本共産党沖縄県委員会

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2013年3月 前泊博盛・編『本当は憲法より大切な「日米地位協定入門」』創元社

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〇秋道 智彌(あきみち ともや、1946年 - )は、日本の人類学者。総合地球環境学研究所名誉教授、国立民族学博物館名誉教授。総合研究大学院大学名誉教授。専攻は生態人類学、海洋民族学、民族生物学(英語版)。→ウィキ


2016年12月22日『琉球新報』「あしゃぎー大城和喜さん『伊佐や武士』とたたえる」

2016年12月17日 南風原文化センター「伊佐眞一『沖縄と日本の間で 伊波普猷・帝大卒論への道』タンカー祝えー」

右が南風原文化センター/南風原町立図書館
  
2016年3月 伊佐眞一『沖縄と日本の間で 伊波普猷・帝大卒論への道』上/2016年6月 伊佐眞一『沖縄と日本の間で 伊波普猷・帝大卒論への道』中/琉球新報社 2016年9月 伊佐眞一『沖縄と日本の間で 伊波普猷・帝大卒論への道』下 琉球新報社

上原誠勇氏(画廊沖縄)「かりー ちきやびら」〇ふぇーばるぬ 神里んちゅ 上原誠勇さん。そー うちなーんちゅぬ うちなーぐち し、うちなーんちゅや なまから ちゃーさんねー ならんでぃち いい話 そーいびーん。


山里勝己氏(名桜大学)「したいひゃー ゆーちばたん」〇山里さんのー やんばるぬ むぅとぅぶんちゅ。大学ぬ 学長やしが、からじん まっ黒ぅーるし 若さいびーんやー。


写真左からー新城栄徳、赤嶺政信氏(琉球大学)、高良勉氏(詩人)、新川明氏(ジャーナリスト)〇粟国ぬ 新城、ふぇーばる ちゃん(喜屋武)ぬ 赤嶺さん、たまぐすくぬ 勉さん、にしばるぬ 新川さん。んな じゅんに うちなーじら やいびーんやー たい。

2017年1月 『月刊琉球』12・1月合併号 高良勉「琉球差別と植民地主義」

粟国恭子さん、與那嶺義雄氏(西原町議会議員)〇みゃーくぬ粟国さんとぅ、にしばる 幸知ぬ 與那嶺さん。ぬーぬ 話どぅ さが わからんしが、笑らてぃ いりきさる ふーじ。

2017年1月 『月刊琉球』12・1月合併号 与那嶺義雄「琉球の自己決定権ー歴史認識とアイデンティティの観点から」

〇新報開発ぬ 社長 上間さん、記 者ぬ 米倉さんとぅ 伊佐さん。


写真右からー高良憲義氏、西村貞雄氏〇ひじゃいや よしかずさん。まんなかや 西村さん。首里城 むんだすいぬ 龍柱や めぇー 向からんねー ないびらんでぃち、じこー ちゅーじゅーく うぬ はなし さびとーたしが、ひゃくなー 直ぉーさんねー ふーじんねーんやー たい。たーが なまぬぐとぅ さるばーが?


〇右んかい うしぇー 石田さん。うんちょー ハワイ大学から うちなーんかい ち、なま 玉城ぬ 屋嘉部 うてぃ やーにんじゅ みっちゃい 暮らちょーいびーん。ひじゃいや 伊佐さんぬ とぅじぬ しーじゃぬ 池原さん みーとぅんだ。


〇司会そーたる うふぐしくぬ 和喜さん とぅじ 友子さん、うふぐしくぬ おさむさん、画廊沖縄ぬ うぃーばるさん、画家ぬ あらかち 安雄さん、公文書館ぬ 豊見山和美さん。うんちゅたーや んかしからぬ どぅしんちゃー。


山城みどりさん(左)、平良次子さん〇やまぐすく みどりさん、ふぇーばる 文化センターぬ 平良次子さん。豆腐、くぅーぶ、三枚肉、にぎり、ちゅふぁーら かでぃ、うっさそーん!?

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1965年5月 沖縄興信所(代表・大宜味朝徳)『琉球紳士録』「本土在住琉球紳士録」

写真左から外間盛安、仲嶺真助、安里貞雄/知念精吉、具志保男、天願保永/津嘉山朝吉、儀間真福、新里与旌
1965年12月 『守礼の光』「実現間近い家庭用原子力発電」
1966年5月ー『オキナワグラフ』「ハワイだよりー髙江洲敏子さん」
1966年10月 『守礼の光』坂本万七「写真・伊藤若冲」
1967年3月  『守礼の光』せそこ・ちずえ「琉球昔話 空を飛ぼうとした男(安里周当)」、比屋根忠彦「久高島のイザイホー」

1967年12月  『守礼の光』「5年後に110階建て 世界貿易センター出現」
1968年2月  『守礼の光』「現代にも呼びかけるエイブラハム・リンカーンのことば」「アジア地区米陸軍特殊活動隊 粟国・渡名喜両島で奉仕活動」「原子力科学者が語る未来の原子力『食品工場』」
1968年4月  『守礼の光』ジョン・A・バーンズ(ハワイ知事)「琉球の文化的姉妹島ハワイ」
1969年5月  『守礼の光』宮国信栄」「放射能はどこまで人体に安全か」

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1969年10月3日『毎日新聞』「本土のなかの沖縄ー私設沖縄文庫」

1969年7月 『今日の琉球』亀川正東「アメリカ文学の話(107)死んだアプトン・シンクレアのこと」

1969年9月 チェンバレン著/高梨健吉訳『日本事物誌』(東洋文庫)平凡社
○日本語(Language)琉球列島で話されている姉妹語を除けば、日本語には同族語はない。/琉球(Luchu)土地の人はドゥーチューと発音し、日本人はリューキューと呼ぶ。琉球人は、民族と言語の点で日本人と密接に結びついている。しかし多くの世紀のあいだ両民族はお互いに交渉がなかったように思われる。

1972年2月号『青い海』10号 「若者が集う『沖縄関係資料室』の西平守晴氏宅」

□ここで資料の内容の一部を紹介しよう。開設当時200冊足らずだった書籍・雑誌は、現在約3200冊。新聞や週刊誌などのスクラップが300冊。沖縄に関する資料については、関西隋一と言われる。▽人物関係ー「謝花昇伝」「平良辰雄回顧録」「伊波普猷選集」などの伝記、回顧録、全集もの。▽市町村関係ー「北谷村誌」「南大東村誌」 比嘉景常「久米島紀行」など。▽歴史関係ー「沖縄県史」(直接主席から贈呈される。関西では天理図書館と資料室ぐらいだろうとの話) 「琉球建築」 田代安定「沖縄結縄考」 金城朝永「異態習俗考」や戦史・戦記もの。▽文芸関係ー「山之口貘詩集」「新沖縄文学」や大城立裕、石野径一郎、霜田正次、石川文一などの諸作品。▽芸能関係ー「組踊大観」「工工四」など。▽政府刊行物ー「立法院議事録」 白書類。▽ミニコミー「沖縄差別」「石の声」「沖縄月報」「寮友」「琉大文学」や本土各大学の県学生会の機関誌・パンフなど。▽地図ー「首里古地図」その他。これらの資料を整理したり、購入したり目録をつくるなど、一人でするにはたいへんな仕事である。西平守晴さんは保育園の仕事もあり忙しいので、現在もっぱら新城栄徳君(23)が動きまわっている。
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1972年6月の『豊川忠進先生の長寿を祝う会』では、沖縄の又吉真三氏から文化財の碑文の拓本を借りて展示して参加者を感動させ、平良盛吉翁らを豊川氏の隣りに座らせて感激させた。」

平良盛吉□→1991年1月『沖縄近代文芸作品集』(新沖縄文学別冊)平良盛吉「村の先生」/平良盛吉(1890年8月28日~1977年6月28日)1912年、沖縄ではじめての総合文化誌『新沖縄』を創刊。琉球音楽研究家。『関西沖縄開発史』の著がある。□→2009年5月『うるまネシア』第10号/新城栄徳「失われた時を求めてー近鉄奈良線永和駅近くに平良盛吉氏が住んでおられた。息子が1歳のとき遊びに行ったら誕生祝をいただいた。袋は今もある」
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1975年2月16日『沖縄タイムス』石原英夫「話題の広場/西平守晴ー離島の子供たちに文化の灯を」/6月23日石原英夫「がじゅまるの会」

1976年1月10日『サンデー沖縄』「沖縄資料室を開放ー西平守晴」

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写真ー左・息子と西平守晴さん
1978年4月 友寄英一郎『西洋史稿』琉球大学史学会○異国船琉球来航史ノート

1980年5月15日『朝日新聞』(大阪版)「西平守晴ー琉歌でつづる沖縄戦後史」

1982年6月、沖縄県人会兵庫県本部『ここに榕樹ありー沖縄県人会兵庫県本部35年史』(新城栄徳資料提供)

1980年11月『南島史学』第一六号
○室町幕府と琉球との関係の一考察・・・・・・・・・・・・・・・・田中健夫

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1980年11月24日ー豊中市立婦人会館で開かれた南島史学会第9回研究大会。右手前2人目が安良城盛昭氏と牧野清氏、左端が喜舎場一隆氏同日、受付の永峰眞名さんに安良城盛昭氏を確認してもらう。大会終了後、安良城氏を都島の沖縄関係資料室まで案内。色々と歓談する。資料室で自著を見つけた安良城氏が本代を払いそれに署名献本した。このとき以来、理論嫌いな私でも沖縄出身の理論家については、これ傾聴に努めることにした。


1981年ー第17回 沖縄県印刷人大会で、左端が西平守晴の従兄弟、西平守栄会長。隣が後の仲井眞知事

1982年2月『南島史学』第一九号
○原琉球語をたどるー鍬・蜻蛉・蚊などー・・・・・・・・・・・・・・・・・・中本正智
○奄美の民族に関する既刊文献の状況・・・・・・・・・・・・・・・・・・・山下欣一

1982年9月『南島史学』第20号
○江戸時代の「琉球」認識ー新井白石・白尾国柱・伴信友ー・・・・・横山學
○ハワイ沖縄県人の団結力・・・・・・・・・・・・・・・・・・崎原貢



1984年9月『南島史学』第24号
○琉球の稀書について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・岸秋正


1986年7月 ベイジル・ホール著/春名徹 訳『朝鮮・琉球航海記』岩波文庫


沖縄都ホテルで新城栄徳と元沖縄都ホテル社長・桑原守也氏

1987年4月『南島史学』第29号
○続・琉球の稀書について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・岸秋正


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1966年 沖縄タイムス社『現代沖縄人物3千人』



1963年1月 『月刊沖縄』「はだかのインタビュー①比嘉良篤」
○・・・月刊沖縄の、西平守晴関西支局長がきた。大阪の県人有志が、集団就職できている若い人たちを、夜学にでも行かせようと、今、基金を作っているから、アドバイスしてくれーという西平氏の話には一も二もなく賛成した・・・。

1964年3月『オキナワグラフ』「座談会ー沖縄娘は働き者」(西平守晴・雇用主協会事務局長)


1964年7月『オキナワグラフ』「大阪沖縄県人連合会主催/第二回関西沖縄芸能祭(企画編成・西平守晴)」

1965年11月『オキナワグラフ』「大浜先生の栄誉を讃えてー勲一等を祝う大阪の会」

1966年 左側手前から喜納政泰、安里嗣副、比屋根有信、西平守晴、山端立昌、名嘉正成、翁長良孝

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1966年2月 『オキナワグラフ』(表紙・翁長千鶴子)「翁長千鶴子×西平守晴沖縄グラフ大阪支局長」「希望訪問・知ってもらいたい大阪の愛郷心ー翁長良孝氏」


○1969年11 『オキナワグラフ』「大阪のリーダー翁長良孝さん逝く」




1966年5月『今日の琉球』外間政章「ぺルリ提督の首里城訪問」

1966年6月『オキナワグラフ』「共感を呼んだ松岡構想」(大阪松友会事務局長)


1966年7月『今日の琉球』「ぺルリ提督の首里城訪問を再現」

1967年3月19日『サンケイスポーツ』「座談会ー働く沖縄青少年のために」(司会・西平守晴)
1967年




5月26日『琉球新報』「私費で『沖縄関係資料室』つくる大阪・西平守晴さん」/5月、沖縄八重山芸能公演会(西平守晴企画構成)

1968年6月『今日の琉球』「那覇商工祭を飾るぺルリ仮装行列」


1968年10月9日『沖縄時報』「大阪に沖縄関係資料室を開設」

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