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Category: 04-書の森
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1984年6月『新沖縄文学』60号 上里賢一「現実を直視する文学ー黄春明『さようなら・再見』の背景」


1985年6月 沖縄の雑誌『青い海』142号 上里賢一「中国の旅ー沖縄から見る中国」/143号「香港ー東西の接点」/144号「中華料理はなぜうまいか」/145号「中国の酒の味と色」

2018年2月23日ー左より山里純一氏、上里賢一氏、宮城修氏/2015年ー左から真栄里泰山氏、上里賢一氏(日中友好協会沖縄県支部長)、岡本厚氏(岩波書店社長)、仲本和彦氏


上里賢一の本


1981年9月 沖縄の雑誌『青い海』106号 西里喜行「琉中友好を考えるー沖縄・中国交流史をふまえて」

2001年2月 全国竹富島文化協会 西里喜行『西塘考』/与那国善三・上勢頭亨『西塘傳』

2018年2月23日 沖縄かりゆしアーバンリゾート・ナハ「第35回東恩納寛惇賞 西里喜行氏 贈呈式 祝賀会」

富田琉球新報社社長から賞を贈呈される西里喜行氏/西里喜行氏記念講演「歴代法案と向き合って五十年」

真栄里泰山氏(全国竹富島文化協会副理事長)乾杯の音頭/玉城流煌扇会 舞踊「加那よー天川」

富田詢一氏、伊佐眞一氏/左から外間政明氏、上原善氏、田里修氏

八重山舞踊勤王流あやねの会 舞踊「鷲ぬ鳥節」 / 左より山里純一氏、上里賢一氏、宮城修氏

池宮正治氏・勝子夫人 大城将保氏、大城学氏、真栄里泰山氏/池宮正治氏・勝子夫人 大城学氏、真栄里泰山氏、新城栄徳


新城栄徳、西里喜行氏/左から久部良和子さん、高良由加利さん、伊佐眞一氏、宮城修氏

右から西里喜行氏、小野まさ子さん、前田舟子さん/左から西里喜行氏、真栄里泰山氏


来間泰男氏、普久原均氏

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1965年5月 沖縄興信所(代表・大宜味朝徳)『琉球紳士録』「本土在住琉球紳士録」

写真左から宮島肇、新崎盛敏、大浜信泉/石川正通、宮城栄昌、一泉知永/外間寛、安良城盛昭、島茂彦


1982年10月 宮城栄昌『琉球使者の江戸上り』第一書房○琉球王国で江戸上りまたは江戸立ちというのは、将軍の襲職時(代替わり時)に慶賀使(賀慶使)を、国王の襲職時(即位時)に謝恩使(恩謝使)を江戸に派遣することであった。1609年(慶長14)薩摩の侵略を受けて敗北した結果強要されたもので、襲職・襲封時に「城下之盟」を新たにする儀礼であった。その点では中国への慶賀使・進貢使、薩摩への上国使とならんで、琉球王国の独立維持にかかわる重大な外交事項であった。


宮城栄昌の本


1987年2月 横山學『琉球国使節渡来の研究』吉川弘文館


1996年6月3日『沖縄タイムス』「江戸上り・史跡探索の旅」



2006年10月  福山市鞆の浦歴史民俗資料館『知られざる琉球使節~国際都市・鞆の浦~』

2009年10月 沖縄県立博物館・美術館『薩摩の琉球侵攻四〇〇年 琉球使節、江戸へ行く!~琉球慶賀使・謝恩使一行2、000キロの旅絵巻~』
●展示構成
 プロローグ 琉球使節のすがた~ガイドブックに描かれた使節たち
今回の展示の主役となる、琉球から江戸へ派遣された琉球使節のようすについて、大和で出版されたガイドブックに描かれた使節たちの絵を展示します。

第1章 琉球使節の旅
1609年の薩摩による琉球侵攻以降、薩摩の支配下に置かれた琉球は、薩摩藩主に伴われて徳川将軍への使節派遣を行いました。使節の目的は、徳川将軍や琉球国王の代替わりに対するあいさつを行うことでした。琉球から約2,000!)にわたる江戸への長旅では、宿や馬の提供や見物人など使節を迎える様々な人々がいました。一方、使節の中には長旅の途中で亡くなる者もいました。ここでは、琉球使節たちの旅をたどり、それに関わる各地のすがたを紹介します。

第2章 琉球使節、将軍と会う
江戸に到着した後、琉球使節たちは旅の最大の目的である徳川将軍への謁見に臨みました。江戸城には演奏隊による路次楽を奏でながら行列を組んで登城し、将軍へのあいさつを行います。また使節は江戸滞在中、当初は日光東照宮、のちには上野東照宮への参拝を行っていました。
    
第3章 「江戸上り」へのまなざし
約1年にわたる琉球使節たちの旅では、琉球から将軍や大和の各地に贈答品を贈り、文化的な交流や情報交換を行いながら、「異国」・「文化的に優れた」琉球の存在をアピールしていました。一方、大和の各地では琉球使節たちへの関心は高く、そのことは使節に関する様々な書物の出版や、知識人たちの琉球や中国に関する情報収集などに如実に現れています。ここでは、琉球使節の江戸参府をめぐって、琉球側と大和側の視点を紹介します。


第4章 小国家・琉球王国の戦略~自立を模索して~
江戸へ派遣した琉球使節を送り出した琉球王国は、薩摩や幕府および中国との関係を保ちつつ、自らの立場の維持を図る一方、大和や中国の文化情報を受容しながら、独自の琉球文化を形成していきました。ここでは、大国にとりまかれながらも、政治的・文化的な戦略から自国の生き残りを図った琉球のすがたを紹介します。


鄭元偉(鄭嘉訓次子/1842年の儀衛正・伊計親雲上)

向邦棟(真壁里之子朝賀/1842年の楽童子)

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板橋区立美術館「東京⇆沖縄 池袋モンパルナスとニシムイ美術村」を報じた新聞、『芸術新潮』(弘中智子さん提供)


撮影・屋良朝信氏

2018年2月24日(土)~4月15日(日) 20世紀検証シリーズ No.6 東京⇆沖縄 池袋


図録『東京⇆沖縄 池袋モンパルナスとニシムイ美術村』共同通信社

1931年  山元恵一、沖縄県立第二中学校卒業 同期生ー西村菊雄、八木明徳、山田有勝、又吉康哉、南風原英佳、与那原良規
 1986年8月7日『沖縄タイムス』〇本土通信/文化人のたまり場ー東京・いけぶくろの「みやらび」再開発でビル取り壊し。池袋西口・北口で知られる沖縄飲み屋は初代店主が文化人だったのが特徴。焼け跡から出発して最も古い「おもろ」の故南風原英佳さんは早稲田大学を出た日本経済新聞社記者上がり。つづく「さんご」は川端画学校出身の崎原当保さん。やや遅れて1953年開店の「みやらび」はやはり早稲田大学出身、戦前沖縄毎日新聞役員もした音楽家の故川田松夫さん。舞踊家で沖縄芝居に新劇を取り入れる試みもした人。三店とも初期は詩人山之口貘、伊波南哲、画家南風原朝光、末吉安久さんら今は故人の名物男を中心に、大正リベラリズムの申し子のような草野心平、金子光晴、喜多村知、内堀勉、小館善四郎ら、詩人、国画・春陽会など在野展の画家や知識人が米支配下の沖縄をしのぶたまり場だった。

池袋モンパルナスとニシムイ美術村
戦前の池袋と落合、戦後の沖縄・首里のニシムイに「アトリエ村」がありました。それら画家たちのコミュニティは、戦争や占領による抑圧の下にあった彼らの拠り所であり、世代や地域、思想を超えた交流によって多様な傾向の作品が生み出されます。
1930年代の池袋周辺には、アトリエ付き住宅が立ち並び、その様子はパリの芸術家街になぞらえ「池袋モンパルナス」と呼ばれました。そこには北海道から沖縄まで各地から上京した芸術家の卵が集い、切磋琢磨しながら新たな表現を模索します。隣接する落合にも佐伯祐三、松本竣介や沖縄出身の名渡山愛順らの画家、文学者、音楽家たちが居を構えており、戦前の池袋、落合一帯は様々な分野の芸術家が集う文化醸成の場となっていました。しかし、1941(昭和16)年に始まる太平洋戦争は、こうした営みを一変させ、自由な作品発表の場は失われます。
戦後「池袋モンパルナス」は再建され、次世代の画家が集まり、新たな美術運動の発信の場となりました。地上戦で壊滅状態にあった沖縄でも、学生時代を池袋や落合で過ごした名渡山らを中心に、1948(昭和23)年「ニシムイ美術村」が首里に建設されました。画家や彫刻家に加え、文化人もここに集い、戦後沖縄の美術と文化の展開に主導的な役割を果たすことになります。
本展では、池袋、落合、ニシムイに集った芸術家の作品約90点を初めて一堂に会し、3つのアトリエ村の概要と意義を明らかにすると共に、戦前から1971(昭和46)年の沖縄返還協定調印の頃までの東京と沖縄の文化交流の一断面を紹介。

 『沖縄タイムス』4月15日ー皇后さまは14日、東京都板橋区の区立美術館を訪れ、開催中の絵画展「東京・沖縄 池袋モンパルナスとニシムイ美術村」(主催・共同通信社、同美術館)を鑑賞し、沖縄県出身の画家の絵画に触れられた。 皇后さまは興味深そうに熱心に見て回り、戦後すぐの沖縄の画家たちが地元の石灰岩で絵の具を作り、沖縄らしさを追求していたとの説明を聞き、「きれいな白ね」と感心していた。

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1911年7月27日『沖縄毎日新聞』麦門冬「忘られぬ華國會」
「華國翁は本県が琉球王国であった時代に生んだ最後の丹青家の一人である。即ち琉球王国が生んだ画家の一番末の子である、そして日本帝国の一部たる沖縄県が旧琉球から引継に譲り渡された一の誇りたるべき美術家の一人である。これだけでも私は華國會に臨んで私に希望と自信とを感せしむるに充分であるが、その上に私は華國翁と同じ字に生まれ幼年時代から其顔を知っていて華國翁というえらい画家は私の頭に古い印象を留めていると云ふ関係もあるから今度の華國會の席上に於いて私の肩身に猶更に広くならざるを得ない。私は南香主筆から今日華國會が若狭町の山城(正忠)医院で開かれるそうだから君行って見ないかと云はれた時にも私は疾うに行くと云ふことを極めてる様な気分で社を出てた。(略)私は小さい時から絵が大好きであった、探幽とか雪舟とか趙子昂とか自了とか云ふ名は私の耳には音楽のような囁きとなりそれからこれ等の名家に対する憧憬の念は私の頭に生長して段々大きく拡がっていって私自身が遂に雪舟になりたい探幽になりたいと云ふような空想をなした時代」もあったと安恭は記しているが、この美術家の夢は弟の安久によって実現された。

また大正末期、沖縄県立沖縄図書館長の伊波普猷がスキャンダルの最中、麦門冬の友人たちは後継館長に麦門冬と運動していた。山里永吉の叔父・比嘉朝健は最も熱心で、父の友人で沖縄政財界に隠然たる影響を持つ尚順男爵邸宅に麦門冬を連れていった。かつて麦門冬が閥族と新聞で攻撃した当人である。しかし麦門冬の語る郷土研究の情熱を尚順も理解を示し料理で歓待し長男・尚謙に酌をさせるなど好意を示した。それらは麦門冬の不慮の死で無に帰した。これも弟・安久が戦後、沖縄県立図書館の歴代図書館長に名を連ねている。

麦門冬・末吉安恭の弟/末吉安久(1904年4月26日~1981年3月31日)


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1935年4月「第一回沖縄洋画協会展」①大嶺政寛 ②大嶺政敏 ③大城皓也 ④大城皓也夫人 ⑤末吉安久 ⑥具志堅以徳 ⑦桃原思石 ⑧山田有昂 ⑨西銘生一 ⑩國吉眞喜 ⑪宮平清一⑫許田重勲 ⑬渡嘉敷唯盛 ⑭安仁屋政栄

写真左から末吉安久、桃原思石、許田重勲

1944年ー夏  学童疎開の引率で宮崎に

1946年ー秋  首里高校美術科教官に就任するや沖縄民政府文教局にデザイン科の設置を要請し首里に伝わる紅型の復活を図りたい」と嘆願し実現に導いた。
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右端が末吉安久

1949年3月  『月刊タイムス』№2□末吉安久「表紙・カット」
1949年4月  『月刊タイムス』№2□末吉安久「表紙・カット」
1949年5月  『月刊タイムス』№4□末吉安久「表紙・カット」

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末吉安久「閑日月」
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末吉安久「子供達」


1950年8月  朝日新聞社『鉄の暴風』末吉安久「装幀」/牧港篤三「挿絵」
1950年9月  末吉安久、首里図書館長就任(1957-4)
1951年11月 琉米文化会館「第3回沖縄美術展覧会」末吉安久「子供達」/金城安太郎「楽屋裏」

1952年1月1日『沖縄タイムス』末吉安久「思うたまで」

1952年1月1日『琉球新報』末吉安久(Q)「漫画漫詩」

1953年1月1日『沖縄タイムス』「漫画アンデパンダン展」末吉安久「乾かすのか掲げるのか」



1954年12月に写真集『基地沖縄』が東京新宿市ヶ谷加賀町の大日本印刷で印刷され沖縄タイムス社から発行された。編集は豊平良顕、上間正諭、牧港篤三、金城久重で、装幀が南風原朝光、末吉安久であった。零よりの出発と題して農夫の写真が掲載されていて、説明文に「戦争の破壊は、とにかく地上の人間の営みを根こそぎ奪い去った。戦後の復興はすべて零よりの出発と云ってよい。この老農夫の姿そのままが、零のスタート・ラインに立った終戦直後のオキナワを象徴している」とある。

1955年3月  第7回沖展に末吉安久「花」「サバニ」「静物」「金魚」
1956年3月  第8回沖展に末吉安久「黄色の部屋」「魚」「静物」
1956年8月15日 『沖縄タイムス』末ひさし「居タ居タ鳩ダ」

1956年8月19日 『沖縄タイムス』末ひさし(Q)「静かなデモ」


左から真境名安興、伊波普猷、末吉麦門冬(末吉安久画)
1956年11月 『沖縄タイムス』島袋盛敏「新遺老説傳 沖縄むかしばなし」末吉安久(Q)・絵
1957年3月  第9回沖展に末吉安久「静物」

1958年3月  第10回沖展に末吉安久「黒い月」「漁師たち」
1959年3月  第11回沖展に末吉安久「魚」「月」「大学の丘」「死せる生物」
1960年3月  第12回沖展に末吉安久「石」「根」「花」「珊瑚礁」
1961年3月  第13回沖展に末吉安久「作品」「墓場」
1961年3月  『養秀』養秀同窓会□養秀「表紙装丁カット」「金城紀光氏に聞くー聞き手/末吉安久」

1962年3月  第14回沖展に末吉安久「墓地A」「墓地B」「墓地C」



末吉安久/表紙絵 1962年8月『今日の琉球』58号「琉球の玩具」

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写真ー末吉安久氏と大城皓也画伯

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沖縄県立図書館の左側には「安冨祖流楽祖之碑」がある。安冨祖流絃聲会が1964年1月18日に建立しものだが、設計は末吉安久である。ちなみに、揮毫は島袋光裕、刻字が安里清謙、施行が安里清福である。沖縄県立図書館の館長室には歴代図書館長の一人として末吉安久の写真も飾られている。

1969年2月 『新沖縄文学』第12号 末吉安久「貘さんに る幻想」
1975年1月28日 山之口貘詩碑建立期成会発足(宮里栄輝会長、末吉安久副会長)
1975年7月23日 与儀公園で山之口貘詩碑除幕式
1975年9月7日 那覇文化センターで山之口貘記念会発足
1976年12月 『沖縄風俗絵図』月刊沖縄社□末吉安久「ケンケンパー」「足相撲」「ビー玉」「イットゥガヨー」「ジュークーティ」「クールーミグラセー」「クールーオーラセー」□末吉安久紅型「醜童舞い」「浜千鳥」「馬」「桃売りアングヮー」「カンドーフ売り」 

1977年11月29日『沖縄タイムス』「佐渡山安健『名馬・仲田青毛』末吉安久宅に」

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1978年8月 『季刊 南風』№2 末吉安久・絵と文「続・無題」

2015年10月16日『沖縄タイムス』大城冝武「沖縄マンガ史34(末ひさし)末吉安久/大嶺信一」

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02/09: 伊波南哲

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Posted by: ryubun02


伊波南哲の著作
1936年9月ー伊波南哲『長編叙事詩オヤケ・アカハチ』東京図書株式会社
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1959年11月『オキナワグラフ』「ふるさとは・・・遠きにありてー東京で八重山を語る夕ー」
右から一人おいて宮良高夫、伊波南哲、宮良当壮、小浜高要、宮川寛雄
1932年12月ー『現代詩の新研究』東北書院□伊波南哲「詩人と『個性』の問題」
1933年11月ー『詩の國』伊波南哲「詩壇時評」
1936年9月ー『大法輪』伊波南哲「交番に映った世相」
1937年2月ー伊波南哲『長篇叙亊詩オヤケ・アカハチ』東京図書(初版1936年6月)
1937年11月ー『日本詩壇』伊波南哲「詩人的自覚に就て」
1937年12月ー『むらさき』伊波南哲「平家敗るるの日」
1937年12月ー『日本詩壇』伊波南哲「日本詩壇の動向」
1938年9月ー『日本詩壇』伊波南哲「詩人と環境の問題」
1938年11月ー『日本詩壇』伊波南哲「真の戦争詩に就て」
1939年7月ー『大法輪』伊波南哲「真夏の夜の海」
1939年8月ー『大法輪』伊波南哲「兵営の異変」
1939年9月ー『大法輪』伊波南哲「八重山風物詩集」
1939年10月ー『大法輪』伊波南哲「詩と生活の交流」
1939年11月ー『大法輪』伊波南哲「秋、旅する心」
1939年11月ー『旅』伊波南哲「孤島漂流記」
1939年12月ー『大法輪』伊波南哲「花ある風景」
1940年1月ー『詩人界』伊波南哲「詩のコンクールに就て」
1940年3月ー『大法輪』伊波南哲「詩魂の発見」
1940年8月ー『旅』伊波南哲「放浪の旅」
1940年10月ー『旅』伊波南哲「南進の先駆・琉球の糸満漁夫」
1941年5月ー『旅』伊波南哲「爬龍船物語」
1942年4月ー『旅』伊波南哲「琉球と八重山への旅」
1942年5月ー『旅』伊波南哲「南海の漁夫・鱶と格闘する糸満人」
1942年6月ー『旅』伊波南哲「敵艦見ゆ」
1942年8月ー『旅』伊波南哲「女護ヶ島物語」
1942年11月ー『日本詩壇』伊波南哲「時局と聯盟」
1943年1月ー『むらさき』伊波南哲「郷土行事への断想」
1943年2月ー『むらさき』伊波南哲「九年母」「琉球風土記・情熱の愛国詩人恩納ナビ女」
1943年3月ー『むらさき』伊波南哲「鷲を歌う女詩人」
1943年5月ー『むらさき』伊波南哲「人魚の話」
1943年6月ー『むらさき』伊波南哲「瓦焼く煙」
1943年8月ー『むらさき』伊波南哲「綱引」
1943年9月ー『むらさき』伊波南哲「颱風の眼、与那国島」
1943年10月ー『むらさき』伊波南哲「君南風ー海洋遠征の先駆者」
1943年12月ー『むらさき』伊波南哲「琉球と龍宮」
1944年1月ー『むらさき』伊波南哲「八重山郡島の民謡」
1944年11月ー伊波南哲『琉球風土記』泰光堂(装幀挿絵・竹谷富士雄)
1945年5月ー『週刊少国民』伊波南哲「伊舎堂大尉と通信筒のお話」


伊波南哲 いば-なんてつ
1902-1976 昭和時代の詩人,作家。
明治35年9月8日生まれ。東京の丸の内警察署に勤務しながら,佐藤惣之助に師事。昭和11年の長編叙事詩「オヤケ・アカハチ」が代表作で映画化もされた。晩年は詩誌「虹」を主宰。昭和51年12月28日死去。74歳。沖縄県出身。本名は興英。著作に「交番日記」,詩集に「銅鑼(どら)の憂鬱(ゆううつ)」など。(コトバンク)


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2008年7月 『五十周年記念誌ーおきなわの声を伝えて半世紀』東京沖縄県人会



東京/2016年11月13日『沖縄タイムス』「東京沖縄県人会60周年記念特集」/2016年11月13日『沖縄タイムス』「戦後初のアナウンサー 川平朝清さん」


2007年12月 川平朝清『わが家の子育て記録 犬はだれだ、ぼくはごみだ』岩崎書店


2013年3月30日 川平朝申の児童文学を研究している齋木喜美子さんと川平朝清氏(東京沖縄県人会7代会長)
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2011年3月ー『児童教育学を創るー福山市立大学開学記念論集』齋木喜美子「山之口貘の児童文学」児島書店/2004年1月ー齋木喜美子『近代沖縄における児童文化・児童文学の研究』風間書房



2016年10月26日 国際通り「世界のウチナーンチュ大会前夜祭パレード」/県外の県人会

1979年12月10日 東京沖縄県人会機関紙『東京沖縄の人』(『おきなわの声』)創刊
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11月10日東京沖縄県人会機関紙『東京・沖縄の人』「画家岡本太郎氏が空手のマネをしながら登場。独特の語り口で『沖縄には人間らしい本当の心や姿があるが、ヤマトの金本位の空気にやがて侵されるのではないか』と身ぶり入りで語った。」


『おきなわの声』と新城栄徳
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1979年12月10日 東京沖縄県人会機関紙『東京沖縄の人』(『おきなわの声』)創刊
1986年1月15日『月刊おきなわの声』第74号□此処に人あり 新城栄徳さんー行動力に富んだウチナンチュであり「沖縄と東京と大阪をせわしく立ち回る、イチムドウヤー人生に埋没する」風変わりな友人の一人であると津野創一氏は結んでいる。

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沖縄新聞・機関紙相関図


 
『関西沖縄県出身者名簿』沖縄県大阪事務所(1981年3月)

 『関西沖縄出身者名簿』の内容は、国会議員、沖縄県の機関職員、関西の沖縄県人会、在阪支社懇話会、琉球舞踊研究所、沖縄料理店、三味線レコード店、沖縄県物産振興会、がじゅまるの会、琉大機工同窓会、主要企業関係者、法律・会計・税務所関係、幼稚園・保育園関係、各県の沖縄県人会、関西養秀同窓会、北親睦会の名簿で構成されている。私の名前はその他のところ、下地玄信、大城一史、金城実の諸氏のところに並んでいる。この名簿は当然に東京の県事務所にもおくられた。東京のほうもこれにならい(財)沖縄協会に委託。82年に『関東沖縄県出身者名簿』が発行された。

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写真上ー1995年の第二回世界のウチナーンチュ大会会場で左から山口國雄氏、新城栄徳/写真下ー2001年の第三回世界のウチナーンチュ大会会場で左から山口國雄氏(東京沖縄県人会4代会長)、福地曠昭氏(撮影・新城栄徳)

1951年6月 雑誌『おきなわ』通巻12号 山城文盛「抑留生活の思い出」

1984年1月25日『琉球新報』「山城文盛さん(1978年 東京沖縄県人会2代会長代行) 東京の県人会機関紙 50号目を発行」

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1882年に第一回県費留学生の山口全述を調べる
過程で山口全則を知り、やがてその子息で東京沖縄県人会会長の山口國雄氏を知る。

2015年1月 雑誌『おきなわ』新城栄徳「総目次」不二出版


2015年1月 『雑誌『おきなわ』解説・総目次・索引」不二出版

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