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Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
 東京の島袋和幸氏から近著『沖縄の軌跡ー沖縄烽火のネッワーク』が贈られてきた。島袋氏が最初に書いた『青い海』(1983年6月)の「沖縄烽火考」も収録されている。私は『青い海』大阪本社で島袋氏を知り東京に会いにいった。1975年9月29日、東京で沖縄史を記録する会が発足した。81年5月、機関誌『沖縄民衆史を歩くー記録と発掘』が創刊された。82年1月発行『沖縄民衆史を歩く』第2号に島袋氏は「沖縄烽火考」を書き、書評『むらの輝ける日々』も書いている。82年9月発行の第3号に氏は「戦後沖縄史研究の手引書」を書いている。
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1977年3月12日『サンデーおきなわ』「高田普次夫ー民衆史の発掘に情熱」/名護で宮城与徳の事跡を訪ねて、左から新城、大峰林一氏、屋嘉比収氏
1983年11月、島袋和幸宅を事務局に沖縄民衆史の会機関誌『沖縄民衆史』第1号が発行された。島袋氏は「上里春生のこと」を書いている。島袋氏は85年1月から個人紙『沖縄の軌跡』を発行するようになる。『沖縄民衆史』第2号は85年3月発行で島袋氏は「南洋の足跡ー沖縄県人の生きた島」を書いている。同号に『琉文手帖』の広告がある。第3号の発行は86年3月、私が提供した人類館事件の写真が表紙に用いられ、島袋氏は「人類館事件と中国」を書いている。同号にも『琉文手帖』の広告が載っている。86年12月発行の『沖縄民衆史』第4号に島袋氏は「苦難の上京美酒『泡盛』」を書いている。

1986年、このころ島袋氏は故郷・伊江島と沖縄島との架橋運動も展開している。氏の故郷関連の著作でまとまったものに1985年発行の『浮亀山物語』がある。2009年11月には『伊江島人(チュ)ミーチリサンダーの一生』を発刊。1996年1月、氏は永年の宮里良保、安元実発、佐々木笑受郎の調査(聞き書き)をまとめ『沖縄・ある編集者の記録』を出している。これは沖縄の新聞書評で新川明、伊佐真一が取り上げた。2000年4月に弁護士・前島清三郎のことをまとめ『琉球の事件』を出版。これは鹿児島の山下欣一氏にも送った。01年には詩人・上里春生、国頭三奇人らをまとめ『沖縄・山原の二才達』を出版。

2007年1月、島袋氏は『沖縄タイムス』の唐獅子を担当、聞き書きボランティアについてj書いた。葛飾区の聞き書きボランティアの会の一員として3月には『ボランティアのための聞き書きの手引き』を出した。今回は新たに「沖縄・烽火ネットワーク連絡会」(〒124-0011東京都葛飾区四つ木4-18-10 電話03-3695-9276 携帯090-4920-6952)を立ち上げている。
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島袋さんは昨年6月に「沖縄の軌跡」を集大成した『沖縄の軌跡』を発行している。その中には人類館事件の写真も載っているが、人物も多く紹介され、「来沖した太平洋画会/吉田博・中川八郎・石川寅治」「大久保孝三郎」「加藤松男」「大城朝詮」「飛行家・奈良原三次」「小田栄・俊与兄弟」「豊川善曄」「中尾捨吉」「津曲兼綜・鴻巣盛雄」「木下寿徳」「大宜味朝徳」「漢詩人・渡辺重綱」「佐々木笑受郎」「上里参治」「内間静雄」「新城朝功」「江里口武次」「渡辺重綱」「佐々木笑受郎と一族」「伊江島三兄弟」「金城時男」「前島清三郎」「安元実発」「塙忠雄」「仲原善徳」「松下之基」「石野瑛」「浦添為宗」「宮里良保」「山田真山」「横山健堂」「上里春生」などが取りあげられた。本書刊行後も「沖縄の軌跡」は発行されているので、さらに2冊目も期待できる。→2010-4記

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2012年10月5日 島袋和幸『沖縄の軌跡』第90号「沖縄に来た写実主義画家・吉田博」
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2012年11月1日 島袋和幸『沖縄の軌跡』第91号「中村十作・宮古島の人頭税運動」


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Posted by: ryubun02
 「JIJI.COM」2020-1-23 沖縄では多くの養豚場で廃棄食品を餌として利用しており、調査に当たった津田知幸チーム長は「確実に加熱することが重要」と注意を促した。農水省は、都道府県に対し廃棄食品を利用する計約260戸の養豚場に立ち入り指導するよう通知した。沖縄で最初に感染が確認された養豚場では、昨年11月下旬以降に豚が死ぬ事例が増えており、遅くともこの時期にはウイルスが侵入していたとみられる。沖縄での感染拡大の要因として、養豚場に出入りする車両の消毒が徹底されていなかったことなどを挙げた。家畜伝染病「豚コレラ(CSF)」は2018年9月に26年ぶりに岐阜市で感染を確認し、今年1月に沖縄に飛び火した。関東・中部地方では感染した野生イノシシがウイルスを拡散していたとされる。沖縄ではCSFの陽性反応が出た野生イノシシは見つかっていない。

 FB友情報1-29「BUZZAP!」ドイツメディアの報道によると、国際オリンピック委員会(IOC)が世界保健機関(WHO)と連絡を取り合っていることをDPA通信が報じたそうです。これは新型コロナウイルスによる新型肺炎対策の一環で、あと半年に迫った東京オリンピックについて「感染症対策は、安全に大会を開催するための重要な要素」としています。なお、新型肺炎の発生を受け、サッカーやバスケットボールのオリンピック予選トーナメントが中国から移転済み。2002年11月に発生したSARSの終息が2003年7月までかかったこと、新型肺炎がSARSを上回る勢いで感染拡大していることを踏まえると、東京オリンピックに重大な影響が及ぶ可能性はあります。

 FB友情報1-29「JUNGLE CITY.COM」1-24アメリカでのインフルエンザ感染の1月18日付けの状況を疾病管理予防センター(CDC)が発表しています。それによると、2019-2020年シーズンのインフルエンザ感染者は1500万人以上、入院患者は140,000人、死者は8,200人以上と推定されています。これには子ども27人が含まれています。

 愛知ママの会1-29 知らなかった❗武漢から日本人を待避させるのにお金とるんですね❗片道一人8万円。正規の値段で値引きなし????。出せない人は乗れないのね。お友達には国有地を8億円引きしたり、肩入れした議員には1億5千万円ポンと出すのに、、?と何か腑に落ちない感。。
????政府は新型コロナウイルスによる肺炎が広がる中国湖北省から、政府のチャーター機で帰国する在留邦人に対し、片道分の正規のエコノミー料金を請求する方針だ。外務省によると、1人当たりの負担は約8万円(税別)になる見通し。

S・K1-29 中国では古くから野生動物への迷信(食べると長生きする、精力が付くなど)が有るようで、野生動物からの介入が人へ感染したと言われています。何しろ2週間の潜伏期間が罠ですよね。今月末の旧正月休み後には終息すると中国は予想しているようですが、かえって蔓延率が増えるのではないでしょうか。日本の観光地のダメージも有るようですが、それ以上にこの病気の後の中国経済は惨憺たるものになり、国が傾くような被害が有るのではと思います。とにかくこの肺炎が納まるまでは、海外旅行はしない事が賢明のようです。

 山本 太郎1-28 福山和人 #京都市長 誕生を願う皆様。「拡がり」が足りていません。今日まで何人の京都市在住の知人、友人にお願いできましたか?ネットでの効果は限定的です。リアルに動く、コツコツやる。相手の関心ごとにマッチした政策を伝えて投票へと繋げて行きましょう!

 「女性自身」1-28 首相「私はですね、幅広く募っているという認識でございました。募集しているという認識ではなかったものです」宮本議員は「募るというのは募集するっていうのと同じですよ」と返したが、安倍首相は「いわば募っているという認識で、新聞などに広告を出して“どうぞ”ということではない」などと答弁したという。宮本議員のいうように、“募る”と“募集”は同じ意味を持つ。Twitterでは安倍首相の発言に《唖然》《日本語ヤバイ》《コントかな?》といった声が上がっている。さらに安倍首相が同じ意味の言葉を繰り返したことから、昨年9月に「今のままではいけない、だから今のままではいけないと思っている」と発言した小泉進次郎環境大臣(38)を思い出す人も。Twitterでは安倍首相に対し「進次郎化」を疑うこんな声も上がっている。→隠してはいるが隠微ではない/変えてはいるが改ざんではない。

 FB友(教員)情報6-29 橘玲のデジタル生存戦略ーさまざまな世論調査で、「嫌韓・反中」の主体が中高年であることがわかっています。若者は逆に、韓流スターやアイドルなどの影響もあって、韓国に親しみを感じている。これは80年代の「圧倒的に豊かな日本」を体験した層が、「安いニッポン」という現実を突きつけられて、自尊心=日本人というアイデンティティを破壊されたと考えれば理解できます。中国人の富裕層は、普通の日本人ではとうてい行けないような高級店で豪遊しているわけですから。


上=京都新聞2020.1.30(福山陣営)/下=京都新聞2020.1.26(門川陣営)

2014年6月7日


龍の爪は4本!!

那覇の街には早速「翁長追い落とし」のビラが貼られている。ヤマトの「嫌中」を沖縄に持ち込んでいるところはヤマト系の広告屋が作成したものだろう。あんまり沖縄の事情も知らない輩が「久米村」を敵に回すと仲井真カジノチジにも迷惑が掛かる結果になる。


悪代官と異名がある御仁の顔も

FB友情報ー今回の京都市長選挙は、共通の利益をむさぼる旧勢力(自公・立憲・国民民主・社民)代表の門川候補と、庶民の生活の利益を実現しようとする新勢力(共産・れいわ)代表の福山和人候補の闘いだと思います。経済政策で言うと緊縮で国民の首を絞める与党&隠れ与党グループと反緊縮のれいわ新選組&共産党グループの闘いですね。


2012年9月 一ノ宮美成+グループ・K21『関西アンダーグラウンドー暴力とカネの地下水脈』宝島社/2012年10月一ノ宮美成+湯浅俊彦+グループ・K21『京都と闇社会―京都を支配する隠微黒幕たち』宝島社

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Posted by: ryubun02

 屋良とものぶ2020-2-3「雲のいろいろ。節分会に招福の雲のあり。」

 屋良とものぶ 「米軍が最も恐れた男 その名は、カメジロー」2020-1-17 シネマハウス大塚(山手線大塚駅から7分 折戸通り沿いの小さな小屋。さまざまな表現と出会う広場)戦後、占領下の沖縄で米軍の圧政と戦った政治家・瀬長亀次郎の生き様を描いたドキュメンタリーの第2弾。
 
第二次大戦後、米軍統治下の沖縄で唯一人"弾圧"を恐れず米軍にNOと叫んだ日本人がいた。沖縄のヒーロー、瀬長亀次郎(以下、瀬長)。語られる功績については前作及び今作品の中で詳しいのでここでは控える。瀬長が演説会を開けば常に万余の人々が集い、群衆を熱狂させたという。その魅力は党派、組織、宗教や思想の枠を超えて民衆を虜にしたというからよほど魅力ある人物だったことが窺える。戦後の瀬長の活躍ぶりは広く世に知られるところだが、瀬長が昭和初年に鶴見、川崎に住んでいたことは意外に知られていない。後の瀬長の反骨/不屈の魂がより強く形成されたであろうこの時期について少し触れてみたい。
 川崎沖縄県人会70周年史-序文の中で瀬長は“青年時代を精一杯生き抜いた川崎、鶴見は私にとって第二のふるさとであり、また労働運動に参加し、戦争に反対し、働く人びとの立場にたって活動する中で生涯にわたり平和運動、政治、社会運動の道を歩む決心をしたのも当時であった”と語っている。 瀬長は沖縄県立二中(現、沖縄県立那覇高等学校)、東京・順天中学(現、順天中学校・高等学校)を経て旧制第七高等学校(現、鹿児島大学)に進んだので、1920年前後、多感な青春期を内地で過ごしている。
 川崎では多摩川で砂利取り人夫をやりながら、全協日本土木建築労働組合神奈川支部にはいり、職場の朝鮮人労働者と一緒に労働争議に参加したとあるように当時、朝鮮人労働者と沖縄出身者は似たような労働環境に置かれていた。お互いに差別される側の者たちとして同朋意識があった。瀬長は1932年(昭和7年)に丹那トンネル労働争議を指導して治安維持法違反で検挙され、懲役3年の刑を受け、横浜刑務所に収監された。丹那トンネル完成までには20年を要し、その間67名もの死者を出した一大工事だったことから補償問題や労使間での紛争も多かったに相違ない。この神奈川時代に経験した懲役刑を初めとしてその後1954年沖縄から退去命令を受けた人民党員をかくまった容疑で逮捕/投獄されて以降、”不屈”の闘争家を貫いてゆく。前述の川崎沖縄県人会70周年史は1983年(昭和58年)2月の発行でこの時の県人会長(17代)は大川善清氏だが瀬長が序文を寄せていることから昭和初年〜戦後にかけて大川氏始め編集委員/近隣の沖縄出身者の方々とも交流があったことは疑いがない。我が幼年期に親の世代の会話の端々に瀬長亀次郎の名を聞いた記憶がある。

「カタブイ KATABUI 〜沖縄に生きる〜」2020-1-17 シネマハウス大塚「沖縄を想う 映画特集」
 「カタブイ」沖縄の方言-漢字にすれば"片降い”。沖縄方言では大和言葉ラ行リのrが脱落してイ音となることがある-ri⇒i 近年、本土でいうゲリラ豪雨を指す言葉しても使われるが、元々は短時間で一部の地域のみ降る通り雨のこと。自分のいる場所は陽が差して晴れているのに、道路を隔てた反対側は大雨が降っているという局地的な降り方をする気象現象だ。沖縄方言で好きな言葉はと訊かれたら私的にはカタブイと答えるが、沖縄の夏の気象を表す言葉として特徴的だからだと思う。「カタブイ」も好きだが大和言葉の片時雨(かたしぐれ)もいい響きだ。昨年、コザから那覇に戻るときに少し時間に余裕があったので散髪屋に寄った。店員さんと世間話に興じるうちに30-40分ほどで散髪が終わったが、店員さんが窓の外を見て”あい!カタブイしてるさぁ、兄さん、傘はあるの?”
 「カタブイ KATABUI 〜沖縄に生きる〜」はスペイン系スイス人の映像作家/写真家のダニエル・ロペス監督初の長編ドキュメンタリー作品だ。世界中を旅する中で訪れた沖縄に惹かれたロペス監督は、2003年に沖縄に移住した。カメラは時代のはざまで日々失われてゆく沖縄の伝統と文化を捉える。片や根強く継承される習俗-沖縄位牌継承文化(とーとーめー)や拝み(うーとーとぅ)にもカメラを向ける。嘉手苅林昌-時代の流れ “唐の世から大和の世 大和の世からアメリカ世 ひるまさ変わたるこの沖縄”ではあるが・・。“こっちは雨だけどあっちは晴れているわけさぁ・・”といったところか?旧盆や祖父の100歳の誕生日を祝う家族、空手や琉球舞踊を継承する人々、様々な人物が登場する。中でもラップをにぎやかな栄市場で歌う中年の女性グループ”おばぁラッパーズ”が何とも魅力的だ。ボーカルを務める“かめぇおばぁ”こと新城カメさん。サングラスをかけてラップを演じる、いいねぇ。存在感がハンパじゃない。歌えマチグァー!

 川崎-大島劇場 2020-1-27

 戦後の復興途上の頃、1950年(昭和25年)、川崎に大島劇場が創業した。当時、川崎近辺に18軒ほどの芝居小屋があったという。テレビもなかった時代、庶民にとっては唯一といってもいいほどの娯楽の場だった。街頭テレビが出現したのが日本テレビ放送開始後の1953年(昭和28年)だからその3年前のことだ。大島劇場は長屋住まいの我が自宅から歩いて15分ほどの距離にあり子供時代(昭和30年前後)に両親や近所の人たちに交じって何度か通った。生活に手一杯の時代だから庶民の娯楽とはいえ、そうそう毎度というわけではなかったろう。30年以上前、若き日の梅沢富美男がよく出ていた芝居小屋として知られる。渡辺美佐子は1982年に始まる一人芝居”化粧”で大衆演劇の女座長を演じるに当たり、梅沢富美男劇団で学び、大島劇場に出演する梅沢を訪ねたとある。2020年、創業70年を迎える。演芸場が淘汰されて残存者利益ということもあろうが今でも根強いファンが訪れる人気の芝居小屋だ。
 補遺;川崎駅前にはその頃、今のモアーズの辺りに寄席(川崎演芸場)があった。おぼろげな記憶だが階段で3階くらいまで上がったところに寄席があった。ここにも落語好きな父親の後について行った。昭和30年代は落語の黄金時代、演者で覚えているのは爆笑王-柳家金語楼、林家三平、名人・志ん生等々。調べてみると川崎演芸場は 1952年(昭和27年)川崎駅前の川崎第二ビル(5階建て)3階に開場した。同ビルにはダンスホールの川崎フロリダが入っていた。寄席の面積は70坪、全席畳敷き定員271名。1階のパチンコ店の店内を横切って奥のテケツ(切符売り場)で料金を支払いエレベータで3階まで上がるとある。当時、切符はテケツと呼んでいたのか? 父親の後について3階まで上がったという記憶は当たっているがエレベータに乗った記憶はない。テレビ全盛の時代と共に娯楽も増え、昭和30年代末に川崎演芸場はその幕を閉じた。2代目桂小文治が開場時のこけら落とし公演のトリ・最終公演のトリ共に務め、最後の演目は「たちきり」だったという。現在、首都圏の演芸場は、木馬館大衆劇場(浅草)、篠原演芸場(十条)、立川けやき座(立川)、三吉演芸場(横浜)そして大島劇場のわずか5軒という貴重な存在となっている。

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Posted by: ryubun02
 
2020年1月『月刊琉球』№72 琉球館〒903-0801 那覇市首里末吉町1-154-102 ☎098-943-6945/FAX098-943-6947
 後田多敦「資料紹介『国際法先例彙輯(1)国家併合』の「琉球併合」 「琉球併合」を国家併合として位置付けた資料」/しもじけいこ「宮古IN 2020に何思う」/北山睦子「狙われる本部の港」

  
 斎藤 陽子(Walnut, California)1-30 
 こちら今日の南カリフォルニアは風の強い春の嵐が訪れています。寒い寒いと思っていても、いつの間にか一足早く春の訪れを感じており、南カリフォルニアの春先はカヨーテの恋愛シーズンも始まり、カヨーテの雌雄が相手を求めて市街地にまで降りてきて、猫や犬などがカヨーテの餌食になり、小動物の犠牲も目立って増えるシーズンでもあります。家の周りの20本ほどの、和歌山果樹試験場から補木を得て増えた梅にも確実に春が訪れ、いま満開の花梅にミツバチも寄ってきています。
 なぜか梅の花を眺めていると、日本を思い出すのですが、梅の持つ雰囲気が東洋的なのでしょか。毎年梅干を作るのも大仕事で、梅酒を作るにも焼酎は日本からの関税がかかっていて価格が高く、もっぱらウォッカまたはジンがベースで作る梅酒ですが、最近はもっぱら梅ジャム造りに凝っています。咲き終わった梅の花が風に乗ってヒラヒラと舞い、「ロスアンゼルスの庭に、春の小雪が降った」と言ってもいいような景色で、地面を白く埋め尽くしています。

 斎藤 陽子(Walnut, California) 1-28 新型コロナウィルス肺炎 騒ぎの中、慌ただしい1月ももうじき終わります。
今年は暖冬だと言われていましたが、東京都内は夜半から久しぶりの雪のようですが、ロスアンゼルスは幾らか温かくなり月曜日の今日は23℃ほどになるとの予報ですが、夜間は相変わらず6℃ほどと寒いです。

  数年前の寒い夜に、最も身近に訪ねてきて欲しくないスカンクが、 裏のパティオに訪問出現しました。これらの野生動物は人間の住んでいる近くに来るような動物ではありませんが、冬場で餌が乏しいのか、余程お腹を空かしていたようで、人間の生活圏内に侵入してきます。スカンクは見た目はとても可愛い動物ですが、肛門の両脇にある「肛門傍洞腺(肛門嚢)」から、強烈な悪臭の分泌液を噴出し、外敵を撃退することで知られているので、アメリカでは最も人間から嫌われている動物です。その悪臭の匂いはどんな匂いか表現できませんが、しいて表現すると車のタイヤを燃やした時のような匂いと言ったらいいのかも知れません。悪臭の分泌液の主成分はブチルメルカプタン(C4H9SH)といい、その匂いは独特で、硫化水素臭やにんにく臭などと、文献によって異なりますが、これらをスカンク臭という表現が用いられることも多いです。
 北アメリカから中央アメリカ、南アメリカにかけてスカンクは生息して、誰もが知っている白黒まだらの体色をし、模様は種によってそれぞれ異なようですが、よく目立つ模様は外敵に対する警戒色の効果がある様で、見た目にはとても可愛く、日本では悪臭の源である肛門嚢を除去手術して、スカンクをペットにしている人も居ると聞きます。体長は40〜68cm、体重は0.5〜3kgほどで、ふさふさとした長い尾をもち、雑食性でネズミなどの小型哺乳類、鳥の卵、昆虫、果実などを食べています。地中に巣穴をつくり、冬などは巣穴にこもることが多のですが、真の冬眠をするわけではない様です。
 アメリカではスカンクは狂犬病の媒介獣として知られていて、テキサス州やカリフォルニア州などでは、人間が狂犬病にかかる感染源のトップに挙げられています。狂犬病に感染したスカンクはあらゆる動物に攻撃を仕掛けるため、これによって感染した家畜を介して、人間にも感染すると考えられています。
日本の人々はスカンクは見たことは無くとも、スカンクが悪臭を放つのはご存知と思います。分泌液を敵の動物の顔を目掛けて噴射させ、これは4〜5m離れていても命中させることができると言われ、分泌液が目に入った場合、一時的に目が見えなくなるようです。悪臭の範囲は風向きによっては2km近くにも及びます。運転をしていて間違ってスカンクを轢こうものなら、その悪臭がタイヤに付いて4,5日も悪臭が取れず、大変な事態になることもあります。

 斎藤 陽子(Walnut, California) 1-25 相撲取りでは身体が最も小さい炎鵬が阿炎に勝ち、今場所勝ち越しを決めました。大型の身体が当たり前の力士の中で、勝ち越しという偉業をつらぬいた、その努力にただ感激しています。
今日の写真はちょっと地味な画像ですが、裏庭に時々やって来るロードランナー(Roadrunner)、和名はオオミチバシリと言い、漢字では(大道走)と書きます。日本では決して見ることのできない鳥で、アメリカ大陸の南部(南カリフォルニア、アリゾナ、メキシコ)の半砂漠地帯に生息し、主に昆虫・トカゲ・ヘビ・サソリ・ネズミや鳥の卵などを食べています。地上で生活をし飛ぶのは下手、せいぜい低く滑空するぐらいで、走るのが得意で、時速30キロ近くの速さで走ることが出来る鳥です。英名では、ロードランナー(Roadrunner)といいますが、ロードランナーといえば、ワーナー映画のアニメのキャラクターで、青い鳥を思い浮かべる方も多いと思います。アニメではドジなコヨーテが毎回、この鳥を捕まえようとあれこれ工夫をするけど、コヨーテのあの手この手の罠をかいくぐり、ミッミッと鳴きながら、すごいスピードで 駆け抜けるロードランナーです。

 実際のロードランナーは、アニメのような青色でなく、地味な色をしてます。(上面は、褐色に黒白の縦斑があり、下面は淡褐色。)このロードランナーはニューメキシコ州の州鳥でもあります。砂漠地帯などに多く生息しているので、裏庭で写真に収さめられるのも貴重なチャンスですが、その動作も素早く炎鵬にも似ています。

 斎藤 陽子(Walnut, California)1-23 中国湖北省武漢で新型のコロナウイルスによるウイルス性肺炎が発症し、世界に感染が拡大している状況の中で、明日から中国語では「春節」英語では「チャイニーズニューイヤー Chinese New Year」が、中国人の最も重要な祝祭日として始まります。中華圏国では7日間を旧正月祝日と設定されていて、この間を国の休日としていると云います。

㊗全家平安(家族の幸せを願う) ㊗大吉大利(目出度いことが沢山有ります様に) ㊗恭喜發財(金運に恵まれます様に)
 アメリカの中国系の人々も旧正月を挟んで、一週間ほどこの時期に有給休暇を取る傾向が有り、銀行などでは随分の中国系行員がお休みをしています。
中国系のスーパーの混みようは尋常ではなく、旧正月の準備のための食材を求めて、人々でごった返しています。アメリカの中国系の人々は新暦の正月よりも、旧暦のお正月の方を盛大に祝い、ロスアンゼルスのチャイナタウン(中華街)も、バクチクを鳴らしたり獅子踊りが有ったりと、旧正月一色です。圧倒的に中国系移民の多いカリフォルニアではお正月よりも、旧正月の方がなんだか年の初めのような錯覚になるほど、街全体がお正月ムードです。
なにしろカリフォルニアの移民の比率は日系人が0,8%で、それに比べて中国系は3.2%と圧倒的に中国人の多いカリフォルニア州なのです。日曜日までは中国系の各家庭はパーティーで賑わい、赤い包(ホンパオまたはアンパオ)のお年玉袋に、偶数金額のお金を入れて、子どもはもとより大学生まで独り者には、お年玉を渡す習慣はとても重要な行事のようで、中国系の友人は一族郎党へのお年玉の予算も、高額になるとこぼしていますが、もしかすると日本のお年玉の風習は中国から来たのかもしれません。
 公立小学校でも中国の旧正月の習慣が、カリキュラムの中に組まれ教えています。いずれにしても、縁起のいいお正月を新旧と二度も楽しめることは善きかなです。日本国内でも中華街以外で旧暦のお正月を行う処が、今も幾らか有るようですが、何といっても日本国内で旧正月を最も盛大に祝うのが沖縄で、この習慣は今でも色濃く残っていて、四脚の動物を使わない和風オセチ料理と異なり、沖縄の旧正月は豚肉料理が主役です。

 斎藤 陽子(Walnut, California)1-20 アメリカでもNHKの相撲中継が観れますが、白鴎、鶴竜の横綱不在の今場所の相撲は余り興味も無かったのでが、このところ幕内力士で最も小さな98キロの炎鵬の活躍は痛快で、目が離せません。昨日は161キロの大関 豪栄道を軽く負かしたのには喝采を送らずにはおれませんでした。炎鵬のお陰でしばらく相撲が楽しめそうです。
 晴天に恵まれた昨日の日曜日はグレープフルーツを収穫しました。53年まえアメリカに来た時には日本ではそれまで見かけなかったグレープフルーツが珍しく、価格も安く当時学生時代には毎朝食べたものです。今年は雨の恵みが充分だったせいか、何の手入れもしないのに庭のひと隅で、いつの間にか鈴なりのソフトボール大のグレ―プフルーツが生っていました。このところの南カリフォルニアの明け方の気温は4℃程で、霜も降りないので、グレープフルーツも元気に育っています。もし寒さが厳しい日々が続いて霜が降りる環境だと、この南カリフォルニア一帯から中部カリフォルニアにかけては、オレンジ、レモンなどの、世界的に有名なカンキツ類の広大な生産地の南カリフォルニアでは、農業者は最も気温が下がる夜中の3、4時頃には気温を警戒し、暗い中を灌水(スプリンクラー)で散水を出したり、農場各所に設置されている大型プロペラを回し温度を拡散するなどし、農場管理者は夜を徹して、凍害対策(フロストコントロール)をするものです。

レモン、オレンジなどの収穫期だけに、凍害は最も恐ろしい災害なので、寒さがピークの時は農業者も徹夜で気が抜けません。わずか1、2日の凍害が原因で、世界のレモン、オレンジの価格に左右する、深刻な事態も発生します。
 太陽光線の豊かな夏のカリフォルニアは柑橘農業には最適ですが、寒さの厳しい冬が来たら警戒が必要で、自然相手のギャンブルともいえます。さてグレープフルーツを沢山収穫したのはいいのですが、成人病予防の血圧降下剤を服用している私ども夫婦には、グレープフルーツは薬との相性が悪く、食べてはいけない果物でもありますので、会社の社員に食べてもらうしかありません。

斎藤 陽子(Walnut, California)1-19
 1月も半分が過ぎましたが、まったりとした土曜日の今日のロスアンゼルスは16℃ほど夜間は8℃との予報です。1週間もすると旧正月になりますが、日本国内でも今も旧正月の盛んな沖縄ですが、沖縄の旧正月おせち料理は豚肉料理が主流で、「豚は鳴き声以外は全て食用に利用できる」と言われて、豚足はもちろん腸や顔面、耳、豚の血液までも利用する琉球料理です。そんな時期に人へは感染しないといわれている豚コレラ(CSF)ですが、豚コレラは豚とイノシシ以外の、人を含めて他の動物がかかることはありません。CSFウイルスは、実験的には、マウス、モルモット、うさぎ、山羊、めん羊などの動物が一時的に感染することは知られていますが、発病することはまずありません。

 すでに沖縄の6軒の養豚場に蔓延し、獣医師や県職員などが日夜殺処分と奮闘し、豚コレラの蔓延を食い止るべく、7000頭近くが殺処分となっています。
沖縄には沖縄固有の希少種「沖縄アグー豚」(黒色の豚)が居ますが、「アグーは琉球王朝から端を発し、先の大戦でほとんどいなくなってしまったものを戦後、県民の努力で復活した大切な固有種」と位置付け、政府は「沖縄アグー豚」の保護に向けて、豚コレラからのアグー保護の移動にかかる費用などを支援する方針とのことです。
 琉球料理には欠かせない豚肉ですが、いずれにして豚肉の消費量が多くなる旧正月まえ、豚肉市場にも影響することでしょう。より品質の高い豚肉をと、豚の育種に励んでいた養豚農家の気持ちを思うと、やりきれないものが有ります。(なお豚コレラが蔓延しているとはいえ、市場に流通している豚肉には何ら関係はありませんから、安心して豚肉を使用ください。)


斎藤 陽子(Walnut, California) 1月16日-今日のロスアンゼルスの気温は16℃ほどの曇り模様の肌寒い日で、夜間は5℃ほどになり、雨になるとの予報の水曜日です。意外に寒くなる南カリフォルニアの冬の寒さから逃れて、温室に避難している島唐辛子(沖縄語でコレーグス)沖縄の唐辛子、これまで収穫したのは2回目です。寒くなったこの季節も温室内で赤い可愛い実をたわわに付けています。海外で沖縄のものが収穫出来ると、尋常でないほど嬉しくなります。まるで難産の子が生まれたように嬉しくて、沖縄定番の泡盛に漬け込んでみました。泡盛漬けのコーレーグスは「沖縄そば」を頂く時に、薬味として欠かせなく、1.2滴使うのが定番です。

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Posted by: ryubun02

二千円札 「二千円札大使認定証」二千円札流通促進委員長・湖城英知/サンクス平尾(平尾本通商店街)。リトル沖縄として有名な大正区平尾の商店街

『あまから手帖』1993年6月号


大阪の沖縄関係資料室に守礼門の扁額「守禮之邦」の拓本がある。沖縄学の祖、伊波普猷は1932年10月『琉球新報』「『首里』の語源は結局わからないー東恩納学士の浦添旧都説を裏書きすべき一史料」の中で、尚眞王以前は瑞泉門が正門、守礼之邦の最初の意味は「首里親国」「しよりくに」とする。

改訂前のチラシ


2010年7月28日ーギャラリートーク 湖城英知「2、000円札発行について」写真・左から、新城栄徳、渡口彦邦氏、講師の湖城英知氏(沖縄海邦銀行元頭取、沖縄都市モノレール元社長)、大城宗憲氏(株式会社南都会長)、那覇市民文化部の島田さん。/2010年8月4日ーギャラリートーク 宮城篤正氏を囲んで。

1428(尚巴志7)年ー国門を創建す。傍に曰く、中山と(旧記に曰く、中山の2字は内官柴山進めて以って額と為すと)
1477年ー歓会門創建
1534年ー陳侃『使琉球録』「是の日黎明、世子、衆官をして館門の外に候たしめ、詔勅を導引して国に之く。国門は、館を距たる路三十里、山海の間に介在す。険側高卑斉しからず。砥の如く矢の如く能はず。将に国に至らんとす。五里の外に牌坊一座有り。扁して中山と曰ふ。此れより以往、路皆平坦にして九軌を容るべし。旁に石墻を壘ね、亦百雉の制の若し。世子、此に候つ。龍亭至りて、五拝三叩頭の礼を行い、之を国門に導く。門は歓会曰ふ」
1561年ー郭汝霖、李際春渡琉□『重編使琉球録』「国につくとき、その五里外に、一座あり、『中山』の額がかけられている。これから先は、道はすべて平坦で、九軌をいれることができる。道のかたわらは、石垣をつみあげて、百雉の制ににている。世子はそこ(中山坊の所)で待っていた」
1606年ー夏子陽『使琉球録』「吉日を卜して万暦三十四年七月二十一日に封王礼を挙行した。この日の明け方、世子は衆官をしてすべて吉服せしめ、天使館の外へ出迎えさせた。私は詔勅をささげて龍亭の中に安置したてまつり、国王と妃へ頒賜される服と物とを取って彩亭の中に置いた。儀注通りに国へ前導した。路の両側はすべて兵を並べて儀衛とし、隊伍を整えて立っていた。国は一里ばかりで、坊があり、その額に『中山』とある。ここから進むと首里坊である。現在は『守礼之邦』の額である。わが中国の声数の及んだことを記したのである。天使館から東へ行き、ここにつくと、地勢はやっと平坦となる。世子は守礼坊の下で出迎え、龍亭の到着を見るや五拝三拝叩頭の礼をおこない、国門へ案内した。門は『歓会』という」(原田
1719年ー徐葆光、海宝が冊封で渡琉→□『中山伝信録』「中山王府ー坊牓があって『中山』という。道の南に安国寺がある。その向い側の町並の、切石を積んで削いだような石垣があるのが世子邸である。道の両側は、すべて切石の低い石垣で、高さは三,四である。道の真ん中に、蘇鉄の一叢があり、まわりを石で囲っている。更に進むと半里ばかりで坊牓があり、『守礼之邦』とある。中山王は、平伏して、詔をこの坊の下の道のかたわらで迎えた」(原田訳)
1731年11月ー『琉球国旧記』「坊楼ー1392年、閩人三十六姓を賜り、文教は大いに明らかとなり、礼楽は日々に新たとなり、中国同様の世となり、礼楽制度は中華とちがわなくなった。太祖皇帝は、これをおほめになり、『守礼之邦』と申された。後に、改めてこの額をかけた《昔は、いつもは『首里』の額をかけており、勅使がお出でになった時だけ、改めて『守礼之邦』の額をかけていた。近頃から、常時『守礼之邦』の額をかけている》。」(原田訳)
1756年ー周煌『琉球国志略』「世子は、衆官を従えて、守礼坊の外で平伏して(勅使を)迎える。龍亭はしばらくとどまる。世子と衆官は立ち上がる。天使は、前へゆき、龍亭の左右に分かれて立つ。引礼官が『排班』と唱える。世子は衆官を従えて、三跪九叩頭の接詔礼を行う。世子は前導して国門(歓会)を入り、正殿の下に立つ」
1853年6月ーペルリ、首里城訪問□→1926年10月ー神田精輝『ペルリ提督琉球訪問記』/1935年3月ー土屋喬雄『ペルリ提督日本遠征記』弘文荘/1947年2月ー大羽綾子『ペルリ提督遠征記』酣燈社/1962年6月ー外間政章『対訳ペリー提督沖縄訪問記』研究社/1985年10月ー金井圓『ペリー日本遠征日記』雄松堂

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1879年2月ー渡邊重綱『琉球漫録』「首里ハ主府ニシテ中頭省南隅ニアリ其地高燥十丁方余十七ヶ村ニ分ツ王城中央ニアリ西ニ面ス墻壁橋梁石ヲ畳ンデ造ル第一門ヲ中山ト曰フ(毎門名号ノ扁額アリ)第二守禮(守禮之邦明帝ヨリ贈ル)第三歓会第四瑞泉ー」


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1896年6月ー『風俗画報臨時増刊/沖縄風俗図会』東陽堂

1905年4月22日ー『琉球新報』籠城夫「嗚呼中山門ー嗚呼首里の生命」
4月27日ー『琉球新報』放浪生「嗚呼中山門」
1907年
12月18日ー『琉球新報』東恩納寛惇「守礼門考ー坦々たる首里街道の正面に千古の翠色を堪えて立っている守礼門は、今尚暗黙の裏に中山の古い歴史を語って居るが、其のささやきに耳傾けたものはいない。曾つて其下をくぐった長袖寛帯の支那人も、碧眼黄髪の西洋人も、乃至は肩で風切った薩人も、甚だしきは沖縄の物識先生も、皆此の活きた歴史に就いて表面の解釈を下しているに過ぎない。それが物数奇な旅行者の日記に書きこまれて諸方に撒き散らされ、沖縄を誤り伝ふる一の材料となっているー」
1908年6月4日ー『琉球新報』「中山門の入札の結果ー仝門は一昨日正午十二時頃額面及び敷石を除くの外全部入札を挙行したるが入札者七名にて(略)首里区字寒川水旧三十七番地宮里加那が五十二圓二十七銭にて落札したる由」
1909年7月11日~12日『琉球新報』東恩納寛惇「歴史的遺物の保存に就いて識者に協るー(略)吾々は昔中山王国の正門で有った処の中山門を、僅かに三十弐円の薪として売り払った者の罪を、天下後世に鳴らす積もりである。諸君、吾々は上下幾千年に亙る郷土の歴史を調べて、吾々が誠に優秀な国民で有ると曰ふ自覚の上に立って、自ら琉球人たる事を天下に名乗るを矜りとする者であるー」
12月ー東恩納寛惇『大日本地名辞書』(第二 琉球)「中山門跡」「守礼門ー中山門は、当初板葺なりしを、康煕二十二年瓦を以て覆ひたり、守礼門も同様なるべきか。○山里親雲上系譜云、康煕二十二年辛酉三月八日、修補中山門、任惣奉行職、此時改版木蓋以工瓦。-」
1917年8月ー親泊朝擢『沖縄県写真帖』(守礼門)
1919年8月ー『琉球案内』沖縄實業時報社(守礼門)
1920年9月ー親泊朝擢『沖縄県案内』(写真・首里守礼門)
1923年6月ー眞境名安興・島倉龍治『沖縄1千年史』日本大学□「中山門ー球陽に云ふ宣宗使を遣はし、皮弁冠を賜ひ、並に生漆及び各色磨石を買はしむ。宣徳三年(尚巴志即位七年)創めて國門を建て、榜して中山と云ふと」「守禮之邦ー球陽天正七年の條に首里坊門の榜字を易へて守禮の邦といふとあり。蓋し本國支那に通じてより職を修め、貢を入れ、書を読み、禮を学ばしむ。仍って明の太祖称して禮義の邦と為す。嘉靖年間禮部奏して曰く、琉球は海中の諸國に在りて頗る守禮と称す。又尚永王封を受くるとき、制詔に云ふあり、世々職貢を修め、守禮の邦と称するに足ると。是に由り、王法司に命じ、始めて守禮之邦の四字を以て額と為す。然れども平常はただ首里の二字を用ひ、冊使賁臨に会する毎に守禮之邦の四字を以てするを例とすと。康煕二年(寛文三年皇紀二三二三)癸卯始めて榜字を定め守禮之邦と曰ふとあり」


1930年1月20日~28日ー東京三越4階西館で「琉球展覧会」、写真・ペルリ提督の首里城訪問のジオラマ

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1930年3月『日本地理風俗大系 弟12巻/九州地方<上>琉球列島』新光社

1932年6月 『婦人公論』久志冨佐子「滅びゆく琉球女の手記」(カット・守礼門)1940年
2月ー大阪戎座で「中山門建築史/ターバーゼーク」
10月ー日本民芸協会『工芸』百三号 柳宗悦□守禮門ー首里城の第2の坊門である。姉妹であった中山門が哀れにも破壊せられて了った今日、此の門が守護を受けて保存せらるるに至ったことは感謝の至りである。構造は支那に発するであろうが、よく咀嚼して独自の風格を示した。結構、均等甚だよく、特に4個の脚柱に用いられた石材の形は見事である。此の門、最初は「賢待門」と呼ばれ、後に「首里門」とも称へられ、又俗間「上の鳥居」とも「上綾門」とも云われた。前の大通りを此の門に因んで綾門大路と名づけた。美しく彩られた門のある大通りとの意であろう。尚清王時代の建立と云うから、今から四百年を越える。中山王国の幾多の歴史的場面は、此の門の前で行われた。一国の威厳を示した國門であって、幾度か冊封使は此の大門をくぐった。かのペルリー一行を接し迎えたのも茲である。「守禮之邦」と題した扁額は、琉球の心を語るように見える。此の門を通して遠く首里城の正門を臨む。繁栄な昔は去った。併し此の門が佇む限り日々新たなる遠来の客を集めるであろう。歴史は変わるとも文化の跡を慕る心は人間あら消えない。首里城が保護せられ、修理せられ、整備せられるなら、此の古都に新な繁栄が来ないと誰が云い得よう。


1935年9月 東洋文化協會『幕末・明治・大正回顧八十年史 』「五姓田芳柳 藩使東上の図」 




1934年8月ー大阪商船「沖縄航路案内」(大野麦風「守礼門」)


詳細不明だがネット上に次の書籍が見える。富安路葭, 岡茂政著『筑後本吉清水観世音東山名所図会』昭和堂書店, 1931.5



1941年10月ー加藤三吾著・早川孝太郎校訂『琉球の研究』文一路社□「中山門といふのは首里城の第一坊で、下のアエヂョウと呼び、明の宣徳三年に欽差正使柴山が尚巴志を冊封した時に、中山といふ扁額を携へて来て此門に掲げたのであったが、今は門と共に撤去された。守禮門は第二坊で、上のアエヂョウと呼び、明の嘉靖七年に尚清王が封を請うた時の創建で、初は扁額に『待賢』の二字を掲げてあったが、中頃に『首里』の二字に改め、冊封使の来る時のみは『守禮之邦』といふ金字の額を懸けて、左右の門柱には
    嘉慶丑年歳次庚申桂秋    廿有王承冊命    三十六島環中山    錦州李鼎元題
といふ聯床を垂れたのであった。しかし後には『守禮之邦』の大額を其儘に掲げて置くことになったので、今も観光者の最も嘱目するものの一になっている」
1947年11月ー日本民芸協会・沖縄人連盟主催「沖縄工芸展」日本民藝館

1951年1月 比嘉武信『布哇沖縄県人写真帳ー来布五十年記念』/1951年3月 雑誌『おきなわ』<ハワイ特集>

1951年11月12日ー『沖縄タイムス』石野径一郎「守禮の國」(金城安太郎の守礼門の挿絵)
 
1954年1月ー社団法人「沖縄観光協会」設立(事務所・那覇市勧業課内)。□→57年4月ー琉球政府工交局内。
1956年2月ー金城唯恭編『新沖縄文化史』仲座久雄「郷土の国宝建築・首里城守礼門ー1953年5月、ペルリ記念祭に際し仲座久
雄、知念朝英により5分の1の模型が造られ首里城正殿と共に首里博物館ペルリ記念館に陳列」
1958年10月6日ー『琉球新報』「総仕上げ急ぐ守礼門ー4百年前の姿を再現」 12月15日ー『琉球新報』伊波南哲「十字架の下に」(カット・守礼門)
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写真・守礼門と少女たち/山田實・撮影



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Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
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1974年5月ー『琉球の文化』第五号 星雅彦「安次嶺金正の芸術とその背景」
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1974年5月ー『琉球の文化』第五号<沖縄戦と終戦直後の生活>
琉球文化社(編集発行人・大城精徳)本社〒那覇市牧志町1-944-6 編集局〒902那覇市安里425丸清ビル2階
関西連絡所ー大阪市東淀川区西中島町5-62青い海出版社内(新城栄徳)

1975年6月 沖縄県立博物館『博物館あんない』琉球文化社


1975年6月1日『沖縄読書新聞』「琉球書院」/1981年6月『全国古本屋地図』「沖縄県の古本屋」


1976年3月 山口栄鉄『チェンバレン 日琉語比較文典』琉球文化社 1976年5月 山口栄鉄『王堂チェンバレンーその琉球研究の記録ー』琉球文化社/写真・1978年8月ー那覇市一銀通りの琉球書院(琉球文化社)と青い海出版社の看板が見える。


1976年7月9日『琉球新報』大城精徳「沖縄よ何處へ!」/1978年1月7日『サンデーおきなわ』大城精徳「沖縄の文化を守るー用途から見た琉球陶器①」



 佐久田繁ー沖縄戦の写真、あなたでも買えます/琉球文化社の大城精徳君によると、『金さえ出せば、ペンタゴンでは誰でも買えるんだ』というのである。そして大城君が注文した写真が二か月後に、ペンタゴンから郵送されてきた。その写真をもとに私は、1977年8月『日本最後の戦い・沖縄戦記録写真集』を出版、沖縄三越で写真展もやった。/佐久田繁さんにはアメリカ行きの資金がありません。そのとき、たまたま琉球文化社(出版社)の大城精徳氏が渡米するという話を小耳に挟み、佐久田さんが同氏の描いた絵を買い取ることを条件に旅費の一部を負担して、資料収集を依頼しました。大城氏なら沖縄戦の資料価値を適切に判断できると踏んだのです。→藤田修司(新日本教育図書社長)「異能の人、逝くー出版人佐久田繁氏との思い出」『沖縄県産本ニュース』2005年9月


ワシントンⅮ,Ⅽホワイトハウス/18世紀当時の歴史深い建物に囲まれた、ミシシッピ川沿いのジャクソンスクエアは、特に音楽、アート好きなら絶対立ち寄りたい、現代文化と歴史がうまく調合した、活気あふれた公園です。公園内に入ると、ここをアートスタジオとする、公園中に見られるアーティストたちの才能にも絶句ものです。ご自分へのお土産に、ポートレイトやカリカチュアを描いてもらうのもいいです。

1977年5月


1979年7月 『名渡山愛順画集』琉球新報社〇刊行委員会ー池宮城秀意、石野朝季、大城精徳、久場トヨ、高江洲盛一、田積友吉郎、名渡山愛擴、比嘉良勝、又吉真三、宮城篤正、山元文子」


1979年10月『沖縄アルマナック』大城精徳「沖縄の伝統工芸ー焼き物」社会経済研究所


1979年11月『新沖縄文学』43号 大城精徳「工芸のありかたを探るー沖縄工芸界のゆくえ」



1980年 琉球文化社の前でー大城修くん、澄子さん、藤子さん



1981年 「沖縄の12人の画家たち」(國場組創立50周年カレンダー)大城精徳「島の浜辺」F60号(金城竹治氏所蔵)





1981年9月 沖縄の雑誌『青い海』106号 大城精徳「中国現地にみる 琉球文化のルーツ」






1982年1月10日 「新生美術協会」発足(大嶺政寛会長)


1982年3月 『琉球刊本 御教条・太上感応大意・童子摭談』(沖縄県立図書館資料叢書 第三巻)発売元・琉球文化社
1982年3月 『大里村史』(通史編 資料編)編集委員・大城精徳


1982年9月『新生美術』創刊号 事務局・沖縄県那覇市牧志1-12-6 琉球文化社


1982年5月 『琉球の古陶』大城精徳「琉球の焼物について」諸見民芸館

1982年5月 新城栄徳、天久宮近くの関西沖縄県人会運動の先駆者・浦崎康華翁を訪ねる。同年9月の八汐荘の大里康永氏の出版祝賀会に同行。帰りも同行し、国吉真哲翁の家の前で「ここは親友の家」と紹介された。のちに国吉家にも出入りする。


1982年9月18日~21日 浦添市民会館中ホール『宮城篤正展』大城精徳「学術と武術と芸術の調和の上に築かれた宮城篤正の世界」/9月17日『沖縄タイムス』大城精徳「宮城篤正展に寄せて」




1982年11月 島袋捷子『沖縄現代画家78人』月刊沖縄社


1988年6月28日「われら同期会」沖縄県立農林学校旧校舎の一角/出版祝賀会


1989年6月15日『沖縄タイムス』「われら同期生ー琉球大学美術工芸科10期生/照屋恒宣、宮城篤正、宮良薫、高良憲義、安元賢治、宮城孝也、神山泰治、永山信春ー同期生大城一夫さんの遺作『幹』を前に」/1968年12月宮城篤正『沖縄の美術』

1982年12月『新沖縄文学』54号 「座談会・食文化の交流ー大城精徳・高良倉吉、比嘉政夫、又吉盛清、宮城篤正」


1983年4月26日~5月1日 県民アートギャラリー(電波堂ビル2階)「第7回 大城精徳個展」/2019年12月25日「古美術なるみ堂」にてー「房指輪」「ジーファー」を見る店主の翁長良明氏、哲楽家・紀々さん→紀々の公式サイト「首里城が出来た時の龍のモチーフを見て生まれた『龍神伝説』という曲」。→ 電波堂☆沖縄ソニー坊や博物館


1983年8月21日『琉球新報』


1984年3月『新沖縄文学』59号 大城精徳「沖縄工芸産業における問題点と将来の展望」


1984年4月 新城栄徳『琉文手帖』1号「琉球風俗画六十年 日本画家 金城安太郎」津野創一/大城精徳「序」、宮城篤正「沖縄における日本画家の系譜抄」


1984年4月 大塚清吾『写真集 沖縄の屋根獅子』「座談ー琉球文化と屋根獅子/大城精徳・大城立裕・西村貞雄・大塚清吾」葦書房(福岡市)


1984年6月『琉球新報』大城精徳「中国のシーサー探訪記」/大城精徳「大交易時代の遺産と現代ー獅子像」「中国文化と沖縄―シーサー様式」




1985年11月『琉文手帖』3号「歌人 山城正忠」「歌人・山城正忠」の題字は彦根の井伊文子さん。


1986年5月『写真集 沖縄戦後史』那覇出版社 大城精徳「焦土の中から甦った画家たち」


1988年4月 『沖縄文化財百科』「監修者・又吉真三、富島壮英、宮城篤正、大城精徳、名嘉真宜勝、大城志津子、糸数兼治、嵩元政秀、当間一郎、宜保栄治郎、池原貞雄、多和田真淳」那覇出版社


1989年2月 『わたしのシーサー あなたのシーサー 沖縄獅子の魅力集』週刊レキオ社
大城精徳□獅子が中国伝来のことばであることはいうまでもないが、先に述べた日本語のシシとは違い、中国語ではライオンを意味することばなのである、しかし中国には元来ライオンは棲息していないので、この中国語も外来語だった。中国人がライオンに接したのは西域との交易を通してであった。時代は漢代であよそ2千年前である。西暦76年には今のアフガニスタンとイラン東部に興った「安息」(パルティア帝国)という国から獅子が献上品としてもちこまれたこともあった。この地方の当時のことばではライオンのことを「シ」(SHI)といった。この「シ」という音に中国では、はじめ「師」という漢字を当て、のちに犭偏をつけて「獅」になったとのことである。獅子の「子」については中国語によくみうけられる接尾語で特別な意味はない。

1989年11月 『沖縄美術全集』沖縄タイムス社 宮城篤正「琉球の陶器」/大城精徳「近・現代沖縄の焼物」


左から新城栄徳、宮城篤正氏、大城精徳氏

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