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Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
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 「くろねこの短語」2020年5月31日 コロナ禍に苦しむ中小企業を支援するための持続化給付金の給付業務を請け負う一般社団法人「サービスデザイン推進協議会」が、ひょっとしたら給付金の中抜きを狙った“トンネル会社”じゃないのかということは28日のエントリーで紹介した。電通やパソナがその設立に関わっていることから、税金を食い物にする「電通案件」なんて言葉までネットでは流布されている。そんな疑惑は、どうやら当たらずといえども遠からずだったようで、サービスデザイン推進協議会は委託された業務のほぼすべてをそのまま電通に再委託していたことが発覚。何もしないで20億円の仲介料を手にするたというからこんなおいしい話はない。
 でも、そうなると電通の立ち位置ってのが大いに問題なんだね。ようするに、760億円という委託料でまずは自らが設立に関わった社団法人が請け負い、そこから下請けに回すようにして電通そのものに業務を740億円で再委託するという不可思議な構図になっているんだね。当然、740億円で再委託された電通はそこからも何らかの利益を受け取るわけで、なんでこんなトリッキーなことする必要があったのか。ここからは、妄想なんだけど、サービスデザイン推進協議会が手にする20億円ってのは、政治家へと還流されてるんじゃないのかねえ。公共事業で税金を中抜きする典型的な手口にしか見えないのだけれど・・・。そんな妄想してたら、なんとサービスデザイン推進協議会の代表理事が突然辞職しましたとさ。本人は「任期満了」としか説明してないんだけど、まるで沈む船から逃げるネズミみたいなんだよね。
 「KYODO」6-2 中小企業に最大200万円を支給する「持続化給付金」を巡り、事務業務を受託した団体から再委託を受けた電通が、パソナなどに業務をさらに外注していたことが2日、分かった。
〇南部 靖之は、日本の企業家。パソナ創業者で、株式会社パソナグループ代表取締役グループ代表兼社長並びに株式会社パソナ代表取締役会長CEOを務める。大阪大学大学院国際公共政策研究科客員教授。→ ウィキ
〇竹中平蔵は、2016年4月から2017年3月まで東洋大学国際地域学部国際地域学科教授、2017年4月から東洋大学国際学部グローバル・イノベーション学科教授 兼 グローバル・イノベーション学研究センター長、関西大学会計専門職大学院客員教授。パソナグループ取締役会長、オリックス社外取締役→ ウィキ


大濱聡 2020-5-31
〇「毎日新聞」6-1 河野太郎防衛相は1日付のブログで、航空自衛隊のアクロバット飛行隊「ブルーインパルス」を都心上空に飛行させたのは、自身の指示だったことを明らかにした。

 2020年5月29日『週刊フライデー(6月12日号)』来年7月に延期された東京五輪が、実はすでに中止とすることで決定済みであることを示す極秘情報を週刊フライデーが入手。(米政府との繋がりをバックに世界展開している大手旅行会社から「東京五輪は中止が決定している」との情報。)中止の理由は次の通り。①多くの国が代表選手を再選考するための大会を開催する余裕も時間もない②来年は各国ともに財政立て直しが最優先される③ワクチンができたとしても世界中に行き渡るだけの量を確保することは困難④アフリカや中南米などの医療後進国はまだ第一波の真っただ中でこれからが大変。


1968年7月『電通66年』チラシ「電通社史編集委員会委員長・坂本英男ー不備な社史配布に当たって」


2001年7月『電通100年史』

○株式会社電通は、東京都港区東新橋一丁目、「汐留シオサイト」に本社を置く、日本最大の売上高の広告代理店である。代表取締役社長は石井直。 ウィキペディア
『東京新聞』 2016年10月7日
 広告大手の電通に勤めていた高橋まつりさん=当時(24)=が昨年12月に自殺したのは、直前に残業時間が大幅に増えたのが原因だとして、三田労働基準監督署(東京)が労災認定していたことが7日、分かった。遺族代理人の弁護士が明らかにした。川人氏によると、高橋さんは東大卒業後の昨年4月、電通に入社し、インターネット広告などを担当した。本採用となった10月以降、業務が増加し、11月上旬にはうつ病を発症したとみられる。12月25日、東京都内の社宅から投身自殺した。労基署は発症前1カ月の残業時間は月約105時間に達したと認定。2カ月前の約40時間から倍増していた。
『毎日新聞 』9月24日<電通>業界トップでなぜ「不適切(不正)請求」は起きたのか
 国内広告代理店最大手の電通は23日、同社グループのデジタル広告サービスで、未掲載なのに広告主に料金を請求したり、広告主に送る実績リポートに事実と異なる虚偽の記載をしたりするなど、不正・不適切な取引があったと発表した。(略)
 同社が今回、不適切な請求を行った広告主にはトヨタ自動車なども含まれる。広告業界はデジタルシフトを急いでいるが、新しいデジタル広告は、広告主からみると、仕組みがわかりにくいところも多い。業界トップの電通でこうした問題事例が発覚したことで、企業のデジタル広告全体への不信感が広がる可能性もある。電通は同日、中本祥一副社長らが東京証券取引所で記者会見し、社内調査の詳細を明らかにした。それによると、今回、不適切な請求が行われたのは主に「運用型デジタル広告」と呼ばれる新しい分野。最新技術を使い、ポータルサイトや検索エンジン、SNS、アド(広告)ネットワーク向けに、性別、年齢、興味・関心を絞ったオーディエンス(読者)に配信できる。電通では2010年ごろから急増してきたという。(略)
 電通によると、成長分野のデジタル広告は目標設定が高い一方、社内に仕事の質的な変化への認識が足りず、担当する人員の「質・量が十分ではない」状況だった。また、専門性が高いため、担当外からの管理監督の目が届きにくいという面もあった。中本副社長は「(デジタル広告分野は)ミスが起こりやすい領域。管理体制の不十分さが問題を引き起こした一因」「現場へのプレッシャー含めて、十分な配慮をしなければならなかった」と述べた。今回の問題の責任については「人為的なミスを含めて特定個人というよりも業務を統括するマネジメント、経営の問題」と結論づけた。電通は今年7月、デジタル専門子会社「電通デジタル」を設立するなど積極的にデジタル化に乗り出している。だが、同子会社の母体となった「ネクステッジ電通」も今回の不適切な業務に関わっていた。


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Posted by: ryubun02
1937年9月『月刊琉球』山城正忠「麦門冬を語る」
○けふは旧の7月13日、所謂精霊を迎える日であり、初秋の風に、盆灯篭のもの淋しくゆれる孟蘭盆である。そのために、私の心には麦門冬が今に会いにくるような気持ちになるまでに、なつかしい彼の面影がよみがへって来ている。今。麦門冬。思いがけなくも、あまりに世を早く去った彼、年齢からいふと、わたしより弟分でありながら、生意気に本を読み過ぎいささか頭のよかったキヤツ、私は無理と知り乍らも、今一度奴を現実にひき戻したくて仕方がないのだ。麦門冬。即ち』末吉麦門冬である。親のつけた戸籍面では末吉安恭。元来、麦門冬は彼の俳号であった。私の知っている範囲内で、その頃の沖縄俳壇に、名実共に俳人らしい俳人といったら、末吉麦門冬ともうひとり、これも物故したが、壷屋出身の高江洲三念であった。三念に就いては、今頃知る人も少なかろうが目下、中京名古屋の舞踊界で活躍している、南条舞踊研究所高江洲康宏君の兄である。したがって、麦と三念の間にはわれわれにもうかがひ知れない緊密な俳交があった。それから麦門冬には莫夢山人といふ号があり、それもよく随筆なぞを物していたのは、未だ記憶している人も多かろう。

その代わり、落紅といふ歌号は十中八九知らないだろうと思ふそれを特に私が知っているのは少し理由がある。といふのは例の新詩社の「明星」が百号で廃刊し、それに代わる「昴」が森鴎外博士を主格に、与謝野夫妻を顧問として、北原、吉井、茅野、大田(木下杢太郎)、平野それから一代の才人石川啄木君なぞによって発刊された、当時彼が落紅の筆名で、しばしば短歌の一般投稿欄のトップを切っていた折あたかも在京当時の私がその雑誌の同人格で果敢ない命脈を繋いでいたからである。とにかく、麦門冬といふ男はある一時、新聞記者といふ立場に於いて反対党の或政敵からは「化け者(モン)とう」といい囃された程、得体のわからない豪ら物だった。そもそも、末吉安恭が書斎から街頭に出た当初は、何の変哲もない一文学青年に過ぎなかったが、天稟と努力による彼の行くとし可ならざるは無き学殖と端倪すべからざるその才能は、いつしか県ソウコ界の寵児たらしめたのであった。おそろしく筆まめの男で、編輯締切間際になって記事が不足し、他の記者が徒に騒いでいる時でも彼は悠然として神速に、何かを書き上げてその穴を埋めていた。しかもそれが良い加減のものではなかった。酒と来たらそれこそ眼がなかった。飲むと矢鱈に煙草を吸ひその吐き出す煙で相手を巻くように能弁になり、雄弁になる彼であった。ふだんは割合におとなしかったが、酔ふとトラになって、武を演ずることが往々有った。(以下略)



山城正忠「乾闥婆城ー一名、尋牛庵閑話ー」
○崖言ー黙っているのも能ではあるまい何か書いて見たらと、灰雨①にそそのかされて、久方ぶりに、筆を執り、研に親しんでみる気になった。それだけでも、私としてはよほどの発心である。もちろん、文をつづるわざに、関心を失ったわけではないこれでも絶えず、その方面に念がけているが、人に示す程のものがかけないからといふ心に、鞭うてない例の怠りである。そこで、案に向って見たものの、これといった腹案がないため、やはりいけない。よんどころなく、筆を投じ、数年来珍蔵している、寄書屏風に対座して見た。何かそれによって、暗示でもうけたいと思ったからである。
①灰雨ー國吉眞哲

夭々たる桃花と微吟したい陽春三月の光をうけて、銀の色がややすんでいるのもどことなく落付きがあって、いいものである。そこには一面に、先輩や友人たちの芳名が録されてあり、なほ、各自の心境と気魄の横溢した、書画がひしめき合っている。数にしざっと百名を越すであらふ。すべて、茅屋に駕を枉げていただいた方々の記念に残されたサインである。こうして見ていると、おのづから、いろいろの顔が浮かんで来るし、更らに、ことなった声がきこえるやうな気がして、何とはなしに、「閑忙至楽」といふ句が思ひ出される。試みに、その中から、特に異色のあるものを拾って見やふ。

「浄華雲」、敏とあるのは、暁烏敏②(以下敬称を省く。又他意なし)である。これを見ていると、あの極度の近眼鏡と、若い夫人の品やかな手が思ひ出される。「首里の青天、なはのへきれき」とつつましく書かれているのは、折口博士の事、釈ちやう空のである。薄墨の色にも、氏の人柄が窺はれて頭がさがる。「山原船」の絵は春陽会の山崎省三③。「笊を頭にのせた女」の絵は帝展の三宅凰白。これには句が賛してある。曰く。物売りの言葉わからず梯梧散る。踊を象徴したやうな「踊」の字は石井漠④。その署名をとりまいて、圓舞するけしきに見えるとりどりの署名。八重子、洋子、みどり、静香、恵美子。因云。八重子は石井夫人である。これだけは旅館でかいてもらった。佛文はアグノエル⑤、露文はセルゲーエワ嬢。

②暁烏 敏は、真宗大谷派の僧侶、宗教家である。院号は「香草院」。法名は「釈彰敏」。愛称は「念仏総長」。 真宗大学在学時から俳句を作り、号は「非無」。高浜虚子に師事し、詩や俳句も多く残した。 同じ加賀の藤原鉄乗、高光大船と暁烏敏を合わせて加賀の三羽烏という。 ウィキペディア

③山崎省三 やまざき-しょうぞう
1896-1945 大正-昭和時代前期の洋画家。
明治29年3月6日生まれ。日本美術院研究所にまなぶ。大正5年院展に初入選。村山槐多(かいた)とまじわる。11年春陽会創立会員。昭和12年より新文展に出品。山本鼎(かなえ)らと農民美術運動をすすめた。昭和20年6月7日ハノイで戦病死。50歳。神奈川県出身。作品に「午砲の火薬庫」など。→コトバンク

④石井漠いしいばく
[生]1886.12.25. 秋田,下岩川
[没]1962.1.7. 東京
舞踊家。本名石井忠純。日本の現代舞踊の父といわれる。文学を志して上京したが,のちに石井林郎の芸名で帝国劇場付属管弦楽部員,同歌劇部第1期生となり,ジョバンニ・V.ローシーにバレエを学ぶ。 →コトバンク

⑤シャルル・アグノエルは日本・朝鮮の言語・文化を担当したパリ大学教授。1924年から八年間日本に留学し30年に沖縄を調査。沖縄に関し「琉球における死の表象の特徴について」などの論文があり、著書「日本文明の起源」(56年)が久高島の風葬などを報告した。→森田琉大学長

短冊型に輪郭をとった中に柳につばめの模様を描き、「宵闇を明るくするや、小夜楽」と句をかいたのは田谷力三。「ほのぼのと明け行く白き朝霧につつまれて着く那覇の港や」は北村季美子。紙数に制限があるから、以下友人のをぬいてみやふ。「鶏啄木」の宮城長順。「銀椀裡盛雪」の島袋全発。「喜神招福」の謝花雲石。心如水一の谷本誠。「多情無為」の上間正敏。等々。何れも其性格があらはれてほほえましくなる。その他「月橘花白ろ」の故国吉寒路。「首里城明渡し」の山里永吉、これは俳句と戯曲の題書である。一寸変わり種では石川正通の英文ゲーテの句、イブラギムのトルコ文字。ネファ。ヴアンチュウルの吉野光枝といったところ、それに島袋光裕の書と、宮城能造の絵を追加したい。大書きされて眼につくのは、時君洞の蒼勁三武郎の典雅、反対に小書きされて眼につかないのは、川俣和と藤井春洋。両氏共、国学院の出身で、折口門下であるのも、此場合、偶然の対照で面白い。
書いているうちに、紙数が尽きたから、他は割愛することにして、次回から、此欄を藉りて、私なりの考証や観察といったやふな、随筆を連載させていただく事にする。

1936年4月 山城正忠「乾闥婆城ー一名、尋牛庵閑話ー」
○一茶と琉球人ー良寛と一茶とは、私にとって、もっとも嬉しい人生の旅人であり、又、遺された句や歌を通じて、知合になったいい途連れである。しかし、ここではその一茶に就いてのみ、かきとめておく。「一茶旅日記」ーこれはその名の示す如く自ら「革命の年」と呼んでいる。彼の42歳から46歳までの5年に亘る句集を兼ねた日乗である。島崎藤村先生は、江戸の仮住居の侘しい行灯のかげなぞでその日その日に書かれたらしい心覚えの手帳だと、いみじくも追想されている、越後入村家の襲蔵に係る稀こう本で、大正13年6月18日、斯道の権威、勝峰晋風氏の解説によって遍く世の同好者に頒れたもの、私は友人川俣和氏に借覧して思ひがけない眼福を得た次第。その中から事琉球に関するものだけを抜粋して、取り敢えず手控へにしたい。左記。
     文化三年十二月十三日の条に、晴。北風。品川岡本屋にて琉球人を見る。砂明と外三人一座なり。
     同二十三日。琉球人登城。同三十日琉球人上野に入。同十二月四日。晴。行徳川岸大阪屋に泊る。琉球の医師葬。
以上。これによって、江戸上り琉球使節一行の唐人行列が、如何に江戸市民に好奇心を以て迎へられたかといふことがよく窺はれる。(以下略)

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写真左から二人目の立っているのが山城正忠、その下が上間正雄、4人目の立っているのが末吉麦門冬、その下の真ん中が渡嘉敷唯選。庭で左端に立っているのが池宮城積宝

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1991年1月ー『沖縄近代文芸作品集』(新沖縄文学別冊)新城栄徳「沖縄近代文芸略年表」
 1991年1月発行の『沖縄近代文芸作品集』(新沖縄文学別冊)には「アルバム 麦門冬と正忠ー近代沖縄文壇の二大山脈ー」がある。また正忠の文芸四作品、麦門冬の文芸一作品が収録されている。1997年1月発行の『近代日本社会運動史人物大事典』の「山城正忠」は私が担当した。山城正忠の研究は、2000年7月発行の大西照雄『啄木と沖縄』、2008年6月発行の渡英子『詩歌の琉球』(砂子屋書房)などで進んでいる。前著には「『沖縄の啄木享受の歴史』の探究はここで終わりにしたいと思います。以後は沖縄の戦前の文学・芸術などあらゆる分野で愚直なまでの資料収集を行い、国吉家とも深い交流のある新城栄徳、また学生の頃から啄木の研究を続け、生前の国吉真哲と親しく、国吉の唯一の歌集『ゲリラ』の出版にかかわった宮城義弘などの研究が公にされることを期待したいと思います。」と記して私に宿題を残してくれている。最近では屋部公子さんや真栄里泰山氏が石川啄木と正忠関連で『岩手日報』の取材を受けている。

 2015年5月に沖縄タイムス1階ロビーで開かれた「琉球弧の雑誌展」を監修した。その図録に、その他の雑誌と題し次のように記した。
 本編に解説出来なかった雑誌にふれておく。山里永吉の『月刊琉球』(1937年5月創刊)に1938年、本山豊が入社した。『月刊琉球』第2巻第4号は「観光沖縄号」の特集である。その本山が1940年8月に石川文一、金城安太郎を同人にして『月刊文化沖縄』を創刊している。1944年の10・10空襲、1945年の沖縄戦で、多くの文化遺産と同様に、戦前に刊行された雑誌の多くも失われた。現在は確認できない現物も多いため、本展では雑誌にかかわる人物も柱の一つに位置づけた。戦前の人脈を見ると、雑誌と新聞は密接に結びついており、人間のつながりはまた、雑誌の性質を物語ってくれる。人脈の流れの一つにジャーナリストで俳人でもあった末吉麦門冬と、同じくジャーナリストで歌人の山城正忠を置いた。沖縄では『アソビ』や『五人』などの雑誌で文芸活動を行った山城正忠は、歌人の与謝野鉄幹、晶子の弟子であり、また石川啄木の友人でもあった。山城正忠を文学の師匠と仰いでいた国吉真哲は、山城の夢だった「啄木歌碑」建立を戦後に実現した。今回はその経緯も分かるように展示している。と、書いて戦時体制下の『月刊琉球』や『月刊文化沖縄』の解説は気が重くてふれなかった。

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Posted by: ryubun02
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末吉麦門冬/2002年2月27日『沖縄タイムス』

林修 の「ことば検定【テレビ朝日】」よく見ているが、26日は「愚公山を移す(ぐこうやまをうつす)」であった。これは昨日『毛主席語録』1966年北京・外文出版社を読んでいたからすぐ分かった。語録には「いま、中国人民の頭上には、やはり帝国主義と封建主義という二つの大きな山がのしかかっている。(略)この上帝とはほかならぬ全中国の人民大衆である」としている。


1911(明治44)年1月1日  『沖縄毎日新聞』獏夢道人(末吉安恭)「古手帖(1)」
○古手帖ー冬篭り独り凡に侍つかかつて渋茶に咽を濕し乍暮るる●の早きを惜しみフト垢擦れた古手帖の眼につくままに抽き出して彼処此処拾ひ読みをして見ると僕も随分物数奇であったと見えて能くもこんな色んな物を書き取ったもんだ。此等はいづれ雑書類を繙読してその当時は少なくとも興味を以てしたもんだから今から見ると余りドットしないけれど紙屑買に渡す気でこう原稿紙の四角い物に入れて見ようといふ気になる。右は蜀山人の仮名世説にある大平の逸民の状態はこんなものであった。この超波①は作家として左程●い物ではなかったろうが兎に角、蕪村七部集②にも出ている「五車反古」に載っているのは下の四句だ、早乙女や先づひいやりと庭の先/祇園会や胡瓜花さく所まで/我屋根をはつれてゆかし天川・・・

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①清水超波 しみず-ちょうは
1702-1740 江戸時代中期の俳人。
元禄(げんろく)15年生まれ。江戸の人。味噌(みそ)商だったが,家業をきらい,桑岡貞佐(ていさ)の門人となる。のち点者となり,独歩庵超波を名のった。元文5年7月27日死去。39歳。通称は長兵衛。初号は長巴。編著に「紙蚕(かみかいこ)」「落葉合(おちばあわせ)」など。→コトバンク
②蕪村七部集ぶそんしちぶしゅう
江戸時代後期の俳諧撰集。菊屋太兵衛らの編。文化5 (1808) 年刊。与謝蕪村関係の代表的俳書『其雪影』『明烏』『一夜四歌仙』『花鳥編』『続一夜四歌仙』『桃李 (ももすもも) 』『続明烏』『五車反古』の8部を収めたもの。

1月7日  『沖縄毎日新聞』安元碧海「沖縄の人物地理」 



1月10日 『沖縄毎日新聞』獏夢道人(末吉安恭)「古手帖ー緑雨の『おぼへ帳』に・・・」   

1939年8月 斎藤緑雨『あられ酒』岩波文庫/1991年7月 斎藤緑雨(編・中野三敏)『緑雨警語』冨山房百科文庫
 
三人冗語ー森鷗外主宰の雑誌《めさまし草》第3~7号(1896年3月~7月)において,鷗外,幸田露伴,斎藤緑雨の3人が行った作品合評。〈頭取(とうどり)〉(鷗外)による作品紹介に続いて,〈ひいき〉〈さし出〉などの変名の人物が批評する形式をとる,最初の匿名座談会形式の文芸時評。当時の批評界の権威として,多くの作品を辛辣に批判したなかで,樋口一葉の《たけくらべ》に対する批評(第4号)は,この小説を絶賛し,彼女の文名を一躍高めたことで有名である。 /1957年12月 昭和女子大学近代文学研究室『近代文学研究叢書7』「尾崎紅葉 落合直文 齋藤緑雨 原抱一庵 小泉八雲」昭和女子大学光葉会

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Posted by: ryubun02

1981年5月 沖縄史を記録する会『沖縄民衆史を歩くー記録と発掘ー』徳田たつ「沖縄の思い出ー美しき沖縄に来て亡き夫の育くまれし故郷の暖き人情」
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 1956年6月 矢野克子『詩集・梯梧』中央社

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2000年3月『記念誌・徳田球一 』徳田球一顕彰記念事業期成会(会長 東江康治)
 1974年ー奈良で日本各地の沖縄出身の団体が集まり一泊学習会をした。私(新城栄徳)は彫刻家の金城実氏と徳田球一の弟・正次氏と同じ部屋であった。真夜中まで寝ながら正次氏と語り明かした。そのとき正次氏から徳田球一写真集を企画しているとの話が出た。


写真ー矢野克子/1972年5月 矢野克子『詩集 鳴り止まず』木犀書房



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1972年10月『青い海』17号 崎原恒新「文学作品にみる沖縄(11)杉森久英著『徳田球一』から 日本共産党の創始者 徳田球一の生涯」

 1954年10月19日 『琉球新報』石川正通「ふりむん随筆 未完成公共学(一)」~12月27日①

徳田球一と神田の下宿で寝ころんで本を読んだのもその頃だ。球一はいつも丸太のように寝そべって、座ることなんかめったになかった。それから田端の或寺に引越して行った。当時の徳田球一の事を詳しく知っているのは山城正網画伯と文学薄士石川正通である。その1年前までの球一、つまり七高造士館時代の球一のことは伊礼肇に聞けば一番よくわかる。またその前、というと、沖縄一中時代の徳田球一の勉強振りや怠け振りに就ては伊礼亀(肇の当時の名)、比嘉良篤、瀬長良直あたりが生々しく語って呉れるであろう。当時の徳田球一行状記に関しては天才池宮城積宝が生き字引であったが、惜しい人を亡くしたものだ。しかし私が積宝から親しく聞いて大抵のことは覚えている。

奇行逸話に富む徳田球一のことだ。稿を改めて詳述するであろう。そのまま落語の種子になるような奇想天外的な彼の行動は驚天動地の彼の思想にもまして私の文学的好奇心をそそってやまないからである。

徳田球一の墓(多磨墓地)島袋和幸撮影

芥川龍之介は徳田球一の寄寓する寺の上手に、森田草平と「ばいえん」で有名な平塚雷鳥女史は下手に住んで居た。球一が霜氷る晩秋の暁方に雷鳥の門をたたいた秘話はシエイクスピアの四大悲劇の一つである「マクベス」の中の有名な「門たたきの場」とそっくりで、歴史は繰り返すと後輩の私などはつくづく感心したものだ。尼寺の美しい尼僧達が球一の天真爛漫な開放主義と男性美に面食らって感じてはならない春を感じてそそくさと列を乱し嬌声をあげて逃げたことも一度や二度ではない。私はもちろん共産党と何等関係はないが人間としての彼をこよなく愛する。

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 斎藤 陽子(Walnut, California)5-28日本時間 新型コロナウィルスで相変わらず外出禁止中の、自宅待機生活も71日目です。ロスアンゼルスは非常事態解除は段階的に行うとのことで、まず最初に1週間前には生産工場などの解除がされましたが、今日はほとんどの美容院と理髪店がカリフォルニアで再開できるようになったとの発表がありましたが、人々の生活は今しばらく静かに耐えていなければいけない生活です。ラスベガスのカジノは6月4日から再開の様ですが、外国観光客も今はアメリカに入国できす、アメリカ国内の人々も、まだ自宅待機中とあっては果たして、以前の様な賑わいの有るラスベガスに戻るのも、なかなか時間がかかることでしょう。
 果樹大国の南カリフォルニアの今日の気温は34℃と夏日ですが、夜は13℃ほどとは砂漠気候の夜は冷え込みます。日中は豊かな太陽の陽と、朝夕の急激な冷え込んだ気温で、一日の温度差が大きいお陰で、果物の糖度を生み出す作用となると言われ、南カリフォルニアは豊かな、果物生産地帯となっています。わが庭のイチジクFig(無花果)も豊かな太陽を浴びて、ワイルドに育って、今日は今年初めてのイチジクを収穫しました。これから10月までは小鳥が先か人間様が先かの、小鳥との収穫戦争が始まります。不老長寿の果物と言われているイチジクに、「無花果」という名がついたのは、花を咲かせないで実を付けるように見えることからの、由来の漢語と言われています。
 イチジクの原産国はアラビヤ南部といわれて、旧約聖書の中にはアダムとイヴが裸に気づき、イチジクの葉を覆いとして使用したことは誰でも知っている話いですが、イチジクは世界最古の果樹植物とのことです。メソポタミアでは6千年前から栽培され、古代ローマでは最もポピュラーな果物だったそうです。
ヨルダンでは新石器時代の遺跡から1万1千年前のイチジクの化石が出土したとの記録があるとのことです。アメリカではイチジクは腸整剤の役割をすると、高齢の人に乾燥イチジク愛好者は多いです。カリフォルニアの最も南の、メキシコとの国境の街サンディエゴでは、9月にイチジク・フェスタ(Fig Fest)が開催されます。

 「東洋経済オンライン」5-28 ジム・ロジャーズジム・ロ「日本は20年後、必ず没落する」「日本のみなさんは、オリンピックが2021年に開催されるかどうかが心配だろう。だがそれよりも、その後の債務のことをもっと心配すべきだと言いたい」


 全国ネットママの会@愛知 2020-5-27 暑い季節は特にマスクだけでもストレス。福岡や大阪一部使ってるフェイスシールドなんてもってのほか。しかも食べる以外外しちゃいけないなんて、、つけ外しの自由もない。危ないしストレスだし首輪つけられてる家畜とそう変わらない。ここまでしなくちゃヤバいなら、再開に無理があるレベルです。とにかくオンライン授業の整備が最優先ですね。

 斎藤 陽子(Walnut, California)5-26日本時間 5月最終の月曜日の今日はメモリアル・ デー(Memorial Day)戦没者追悼記念日の公休日で、アメリカの今週末は三連休です。近くの墓地の軍 人専用のセクションは第二次大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争などの、これまでの軍人戦死者の墓地は広大な敷地で、軍人墓碑には星条旗の小旗が祀られていす。
 このメモリアル・デーは古くは1865年南北戦争で亡くなった北軍兵を称えたのが始めと言われていますが、以来、アメリカは第一次世界大戦、第二次世界大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争、そして今に続く中東の紛争と、沢山のアメリカの兵士が戦場で亡くなっています。1865年に兵役中に亡くなった人を追悼することから始まったメモリアル・デーですが、1967年に国民の公休日として制定され、歴代大統領はこの日アーリントン国立墓(Arlington National Cemetery)に花束を捧げるのが恒例となっています。
 各地のアメリカ国旗の星条旗は、今日は半旗になっています。戦場で兵役中に亡くなった兵士の遺族は慰霊祭やお墓参りに行き、墓参りの後は肉親や親戚家族が集まって、自宅裏庭などでBBQなどをして故人を偲ぶ日です。敵国、友国にかかわらず、戦争というのは人が人を無意味に殺し合い、自国を誇示する行為は誠に愚か極まりないことです。沖縄戦の痕をなまなましく見て育った78歳としては、戦争の悲惨さ愚かさを身をもって知っております。この地球上に戦争の無い日が来ることを切に祈っております。

 目取真俊ブログ5-25 全国すべての都道府県で緊急事態宣言が解除された。沖縄防衛局からすれば、早めに工事を再開したいだろうが、沖縄は県議会議員選挙がまじかに迫っている。下手に工事を再開すれば、県内の自民党、公明党が猛反発するだろう。

 斎藤 陽子(Walnut, California)5-25日本時間 明日 月曜日はメモリアル・ デー(Memorial Day)戦没者追悼記念日の公休日で、アメリカの今週末は昨日から三連休です。すでに新型コロナウィルスで2か月以上もの間、外出禁止の自粛生活では、三連休のお休みの嬉しさも少なめです。アメリカで車を借りて観光をした人は、アメリカでも最大手のレンタカー会社 Hertzにお世話になった方も多いと思います。昨日土曜日このHertz社が破産したとの、大きなニュースが全米を掛け走りました。1925年日本で日本初の本格的な自動車、白楊社のオートモ号が最初に生産開始しされる以前に、Hertz社は1918年に米シカゴで創業し、「Hertz(ハーツ)」ブランドのレンタカー店を空港を中心に展開していた会社です。5月22日 連邦破産法11条(日本の民事再生法に相当)の適用で、破産申請し、負債総額は日本円でおよそ2兆円と見られていて、大型「コロナ倒産」となります。なお、ハーツによると欧州、オーストラリア、ニュージーランドを含む国際部門は破産申請の対象外とのことです。ハーツは1世紀以上の歴史を持つレンタカーの老舗で、2019年末時点の世界の従業員数数は約3万8000人の社員がいました。
 アメリカの失業率は4人に一人との深刻な事態です。州によってその失業率も異なり、最もひどい失業率の1位の州はラスベガスの有るネバダ州です。米国でも最もキラビヤカナな街、ラスベガスで4人に1人どころか、3人に1人の失業率と言ってもいいほどで、24時間、年中無休で稼働していたラスベガスですが、非常事態宣言以来、全てのカジノは閉鎖されて、現在人っ子一人として歩いてない街となり、カジノを支えていた裏方の人々の、失業率は相当数といいます。失業率2位が、自動車産業を抱えているミシガン州、3位が観光産業を生業としているハワイ州とのことです。1週間前から非常事態が段階的に緩和されてきたカリフォルニですが、まず最初に工場関係が稼働し始めて、高速道路には幾らか車が埋まってきましたが、まだ飲食店や学校などの、人々の暮らしは厳しい自粛対象にあります。
 さてアメリカは自粛中の明日 月曜日はメモリアルデー(戦没者追悼記念日)を迎えますが、思い出されるのが南カリフォルニアから10号線で車を南東へと走り、4時間ほど経つと見渡す限り何もない砂漠地帯となり、アリゾナ州に入る手前の砂漠の中の高速沿いに、ぽつんと「パットン将軍記念博物館」(General Patton Museum 入場料大人20ドル)があります。南北戦争から三代続いた軍人の家に生まれた、陸軍大将 ジェネラル・スミス・パットン(George Smith Patton Jr.1885年~1945年)が、この砂漠地帯で機甲師団の団長として、第二次世界戦に向けて、彼のモットーである「大胆不敵であれ!」の精神で、砂漠地帯での戦闘訓練を大々的に展開した将軍が、この地に砂漠戰訓練センターを開いていた処です。
 パットン将軍は砂漠での交戦を想定して、このカリフォニアの砂漠地帯で、機甲師団への過酷な訓練を行い、その後、彼はシチリア島上陸作戦からドイツ敗戦まで戦い抜き、機甲師団を指揮し歯向かう敵を粉砕しました将軍で、「ナポレオン以来の戦術家」とまで評せしめた、アフリカにおける知略に富んだ戦いぶりによって、第二次大戦中から「砂漠の狐」の異名で世界的に知られた北ロンメル将軍率いるドイツ軍の戦車部隊と、アフリカで戦ったことは有名で、アメリカとドイツとの闘いで決定的なアメリカ側の勝利を導いた将軍でもあります。パットン将軍は第二次大戦にアメリカ第一軍師団の指揮を執って、ノルマンディー上陸作戦で活躍した将軍でもあります。

 この博物館の裏庭には、ドイツ軍と戦った当時のアメリカの戦車が展示されて、軍隊に興味の有る人は寄って行く処です。パットン将軍の戦いの映画は戦後数本作られていますが、中でも1970年に制作された映画『パットン大戦車軍団』は、43回アカデミーで、作品賞、監督賞、主演男優賞、脚本賞、編集賞、美術賞、録音賞、と7部門も受賞しています。強引な独断的で強気な行動を取るパットン将軍に、トランプ大統領が似ていると、ときどき揶揄されることもあります。


維新流!吉村大阪府知事①が大阪モデルだと通天閣の信号が黄色になっちゃうので、こっそり基準を変えていた笑笑 山中教授「結果を見て基準を変える。大阪はもはや科学じゃなく政治が基準」
 ①1998年(平成10年)3月九州大学法学部卒業。 卒業後の1998年10月、司法試験に合格し、2000年に弁護士登録。熊谷信太郎弁護士の法律事務所に勤務。 この時期に弘中惇一郎とともに大手消費者金融武富士の訴訟代理人を務める。→ウィキ

  「くろねこの短語」2020年5月25日ー(前略)ところで、世界中の権力者がコロナ・パニックを利用して、強権体制の強化を図っている。トランプしかり、初老の小学生・ペテン総理しかりなんだが、なかでも中国の習近平の香港に対する抑圧・弾圧はどんどんエスカレートしているようだ。このままだと、デモ・集会が一切禁じられているマカオのような存在に香港はなっていくに違いない。
 翻って、日本はと言えば、検察庁法改悪はどうにか見送りとなり、種苗法が先送りとなったは言え、まだまだ火事場泥棒的に成立を画策している法案があるんだよね。年金改革法案もそのひとつなんだが、なかでもメディアが完全スルーしている法案がある。それが、「スーパーシティ法案」なるもので、「人工知能(AI)やビッグデータなど最先端の技術を活用し、未来の暮らしを先行実現する『まるごと未来都市』をつくる」というもので、ザックリ言って、「AIによる監視社会」を目的としたものなんだね。

 テンピン黒川の賭けマージャン騒動のすきをつくようにして、22日には、「スーパーシティ構想」を盛り込んだ国家戦略特区法の改正案(スーパーシティ法案)が、参院地方創生・消費者問題特別委員会ですでに可決されている。もはや、「スーパーシティ構想」は具体的に動き出しているってことだ。これには、あの口入れ屋のヘイゾーが深く関わっているようで、今週にも成立しそうな気配だから、ご用心なのだ。
 
〇政府・自治体、民間企業、そして個人とそれぞれが独立して所持している情報を「国家戦略特区データ連携基盤整備事業」と称して一元化することは民間企業や政府に、納税の状態や既往症、位置・移動情報や商品の購買歴といった個人情報が渡ることになります。こういった個人情報をデータとして政府や企業が共同で扱うことは、住民の権利侵害です。


 大濱 聡 5-24■5.17(24日再放送)放送のNHK「BS1スペシャル デジタルハンター~謎のネット調査集団を追う~」は見応えのある番組だった。PCを操りFBなどSNS上にUPされた動画や写真、データなどを解析し、世界的な疑惑の事件の真相に迫る調査集団を追ったドキュメンタリー。■アフリカでのカメルーン軍兵士らによる母子銃殺事件、ロシアの関与が疑われるウクライナ上空でのマレーシア航空機撃墜事件、新型コロナウイルスの震源となった武漢での惨状の実態など、政府当局が隠蔽しようとした「不都合な真実」の真相が次々と暴かれていく。その手法がスゴイ!■「ベリングキャット」(調査集団の名称)、「オープンソース・インベスティゲーション」(革命的といわれる調査報道手法)、新聞社の「ビジュアル・インベスティゲーションチーム」etc――聞き慣れない横文字に必死についていく。■BBCや「ニューヨーク・タイムズ」はゲームオタクだった彼らをスカウトし、その成果を放送や新聞のスクープ報道につなげているが、日本のメディアはどこまで進んでいるのだろうか。
 【関連】☆1924年5月10日、ジョン・エドガー・フーヴァー司法省内の捜査局(Bureau of Investigation:BOI)の長官に任命。○「2007年2月 マルク・デュガン 中平信也『FBIフーバー長官の呪い』文春文庫□貴族の出自を自慢していたジャクリーンの父親の祖先は、じつは無一文の入植者にすぎない。彼女の父親が金持ちになったことはたしかにあったが、財産は大恐慌の時に全て失われていた。人生に敗れた遊び人で、度重なる飲酒からアルコール中毒になり、その病状は結婚式で娘と腕を組むことができないほど深刻だった。ジャクリーンの母親はリー姓のフランス系アイルランド人だと公言していたが、実際はレヴィという姓のユダヤ人だった・・・

FBIフーバー長官の呪い (文春文庫) – 2007/2 /沖縄テレビ「奇跡体験!アンビリバボー:市民が窃盗団結成★FBIから極秘文書を盗み出せ」

 【関連】☆1956年11月 木村文平『米軍の諜報機関』東京ライフ社〇苦しい戦いが終わって、ほっとしたのも束の間、われわれは、更に恐怖の占領統治に喘いだ。日本の軍閥にとって代わった連合軍は、口に自由を唱えながらも、その実腹の底は搾取一途だった。占領下、苦難の七年間!彼らは政治を動かし財政を牛耳り、労組を弾圧し、言論出版の自由を認めながら、窃かに親書にさえも検閲を強化した。ある者の身辺には常に密偵の眼が光り、MPの拳銃が威嚇しつづけていた。本書は、かつて米軍の出先諜報機関の一員だった著者が、彼らの行動を衝いたものである。

 【関連】☆『沖縄タイムス』2018年5月29日 -【ジョン・ミッチェル特約通信員】在沖米軍の広報活動には、米中央情報局(CIA)が指南した沖縄世論操作の手法に沿った例が多くみられる。
 【関連】☆『東京新聞』2017年6月2日 ー 「監視システムを日米共有」 スノーデン氏との一問一答 米中央情報局(CIA)のエドワード・スノーデン元職員-エックスキースコアは何ができるのか。
 「私も使っていた。あらゆる人物の私生活の完璧な記録を作ることができる。通話でもメールでもクレジットカード情報でも、監視対象の過去の記録まで引き出すことができる『タイムマシン』のようなものだ」「エックスキースコアを国家安全保障局(NSA)と日本は共有した。(供与を示す)機密文書は本物だ。米政府も(漏えい文書は)本物と認めている。日本政府だけが認めないのは、ばかげている」-日本の共謀罪法案については。「(法案に)懸念を表明した国連特別報告者に同意する。法案がなぜ必要なのか、明確な根拠が示されていない。新たな監視方法を公認することになる」「大量監視の始まりであり、日本にこれまで存在していなかった監視文化が日常のものになる」

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『噂の真相』を糾弾する右翼結社

屋良朝博氏、 岡留安則氏、

 2011□岡留安則の「東京-沖縄-アジア」幻視行日記 今回の大震災と原発事故はさまざまな出来事を核爆発のように吹き飛ばした。東北3県の地デジ延期からTPP,子供手当、高速道路無料化、メビン・ケア差別発言事件・・・・。東北の被災でJTの工場やトヨタの工場などが被災し,たばこ不足、部品不足による車の生産台数の削減。大手製紙会社の被災による紙とインク不足による新聞や週刊誌などの減ページ措置などにより社会生活にも多大な影響を与えつつある。小沢擁護や記者クラブ批判もやったリベラル過激な「週刊朝日」の山口一臣編集長もとばされ、同誌じたいの休刊も囁かれている。何よりも、外国人からの102万円の献金を受け取って内閣総辞職に追い込まれる寸前だった菅総理退陣も吹っ飛んだ。これぞ、最大の不幸かもしれない。 
 また、朝のTBSワイドショー「はなまるマーケット」でおなじみの薬丸裕英・岡江久美子コンビも、原発PR推進組(中部電力)に出たことも知らんぷりでテレビに出ずっぱり。北村晴夫弁護士、勝間和代らもそうだ。調べればB・C級戦犯は他にもいっぱいいるはずだ。こうした連中は、この原発危機の中で反省も自粛もなし。視聴者はシラケるばかり。それでいいのかい,テレビ局よ!!  それはともかく「ウチナー・パワー」という新刊が出た。サブタイトルには「沖縄 回帰と再生」とある。天空企画編集でコモンズというという出版社から出た本だが、なぜか筆者が表紙の帯に100時程度の推薦文を書いているので、紹介だけしておこう。「多彩な書き手が琉球を論じる掘り出しものの逸品本だ!沖縄再生のヒントがあちこちで発見できる楽しさも満載。 岡留安則元「噂の真相」編集長(沖縄在住)」。たまたま出合った沖縄本を数多く編集している智内好文氏に頼まれたものだ。
 15人くらいのライターたちが寄稿しているが、保坂展人氏も沖縄との出会いから今日までを「ニライカナイ・クロニクル」という題で書いており、小林よしのり派の宮城能彦教授も「村落共同体としての共同売店」について書いている。個人的に面白かったのは永峰眞名氏の「郷土月刊誌『青い海』のころ」だ。<沖縄に来て知った雑誌だが、なかなかウワシン的要素もあり、スコブル面白い。東京ならともかく、沖縄で採算ベースに乗る本を作るのがいかに難しいかと言う意味でも大いに参考になった記事だった。
 沖縄関連の振興予算は2900億円で決まった。当初の一括交付金3000億円よりも減額されたものの、大幅アップとなった。だが、沖縄県民にすれば、予算増額を手放しで喜べる状況ではない。仲井真知事が東京で民主党幹部や閣僚クラスと極秘の会談を続けた結果がこれだったのか、と思わざるを得ない。辺野古移設のための環境アセスを防衛省が進めることに対してもあっさり容認した。アセスの権限は防衛省にあるのは間違いないが、「県民の意志はアセス提出に反対である」ことを強く明言すべきだったし、振興予算と基地問題はリンクさせないという強固な意志を示すべきだったが、それもふにゃふにゃ。沖縄予算に関しては前原政調会長の陰謀臭いが、そうだとすればタチが悪すぎる。仲井真知事が振興予算と引き換えに辺野古建設容認をやるのではないかと勘繰りたくなる。少なくとも東日本大震災の復興予算じたいが厳しい中で、沖縄だけ特別視することのひとつが基地対策である事は間違いないろう。北部振興予算も20億円削られたが、50億円は認められた。いまだに、前原が建前上否定するアメとムチの政策は強固に存在しているのは明らかである。ケビン・メアではないが、やはり、たかりの名人なのか。 
 米国が東芝の子会社を使って原発を30年ぶりに建設するという。福島第一原発は米国のGEである。脱原発は完全無視なのか。オバマ大統領も碌な人物でしかないことがバレバレだ。来年は、北朝鮮、中国、ロシアも政権交代を迎える。日本も未熟な政権の元で先の見えないまま、非常事態に突入するつもりなのか。それでいいのか、ニッポン、チャチャチャ!!

□< 2012年3月11日 日テレ21>
東日本大震災の発生から11日で1年がたった。死亡した人の数は1万6000人近くに上っている。
警察庁によると、11日現在、震災による死者は計1万5854人となった。最も多いのは宮城県の9512人、次いで岩手県の4671人、福島県の1605人などとなっている。 行方がわからない人は宮城県が1688人、岩手県で1249人、福島県で214人など、計3155人となっている。死者と行方不明者は、計1万9009人となった。この死者と行方不明者、オキナワ戦没者、最初のヒロシマ・ナガサキの被爆者の霊魂(あるとすれば)は自分らの死が後世どう扱われているか気にする筈だが・・・。少なくとも今のゴミ扱いされている状況に対しては、財界・政治屋に「祟り」がないとおかしいと思う。

 岡留氏が小沢無罪の判決に素早く対応し、氏のブログに□待ちに待った小沢一郎公判で無罪判決が下った。権力の横暴を批判してきた小沢氏の正義が認められたことは、東京地検特捜部と10年裁判を闘った筆者としてもうれしい限りだ。恣意的な国策捜査を仕掛けた検察の完敗であり、検察審査会の不透明なやり方も今後は大いに問題になるだろう。検察というこの国の正義の砦は、いまや腐りきっているというのが、筆者の見立てだ。検察の大改革を主張してきた小沢氏の無罪判決で大慌てなのは、反小沢で固めた民主党野田執行部、霞が関官僚、自民党以下の野党、財界、大手メディア、米国政府だろう。
(略)
 驚いたのは在日米軍再編の新たな共同発表が延期された時の野田政権の対応だ。米国上院議員の軍事委員長であるレビン軍事委員長らが、共同声明に待ったをかけたのは、環境問題や費用の問題がクリアーになっていないことがその理由だった。実に真っ当だ。ところが、日本政府は、予定通りの方針で行くと早々と明言。本来ならば、日本が米国政府にクレームをつけるのが筋だろう。29日の野田訪米のパフォーマンスが何よりも第一なのだ。オスプレイをどうするつもりだ!!やはりここは、メディアを含めて既得権益体制の総スカンを食うかも知れないが、日本の防衛は米国第七艦隊で十分という基本的姿勢をもっている小沢一郎の出番ではないか。筆者は自信をもってそう断言したい。とある。
 小沢氏に対してはアレルギーを持っているが、ま、裏事情に精通している岡留氏のことだから根拠があってのことだろう。ここで歴代政権の沖縄に対する考え方、とくに初期の吉田茂を見てみる。1952年8月発行の東京『沖縄新報』(永岡智太郎)第16号に「去る6月6日、本土視察のため上京中の那覇市長又吉康和氏と吉田首相との会見の際『日本はまだ受入れ態勢が出来ていないからすぐに復帰ということは困る。今まで通り米国に協力して辛抱して貰いたい、米国に見離されてソ連が入って来たらどうするのか』という全琉百万同胞の悲願をふみにじった吉田首相の暴言」とある。私も積年の反米感情でどうも批判の対象をアメリカに向けてきたが、どうやら時の日本政府の「沖縄差別」が大きな問題のようである。それを許した沖縄側にも当然問題がある。それに関連して『琉球新報』に連載されている伊佐真一氏の伊波普猷批判が参考になる。
 宜野湾市長選挙で話題になった真部沖縄防衛局長が沖縄の新聞でなにやら記事になっていた。米軍の兵隊には選挙権が当然ながら無いが、自衛隊員にはあるから相当罪深い。最近は与那国島にも自衛隊員が居る、創価学会票と同じく、自衛隊票は石垣パクリ市長などの票にもなっている。基地反対と言いながら安保には触れない首長が増える元となっている。基地問題に触れながらその元の安保に触れないのは大手メディアも同じだ。

2012年4月26日の所感
 本日はひよりの誕生日、1歳である。昼、沖縄大学により宮城先生紹介で大学図書館に『青い海』創刊号と、沖縄関係資料室が載っている10号を寄贈する。帰途、那覇市歴史博物館によって、5時から久茂地・抱瓶の高橋淳子さんのお別れ会に参加。壁には淳子さんの写真が所狭しと貼られていた。アルバムには喜屋武真栄氏や西平守良さん、喜納昌吉、大田昌秀、具志堅用高、新城亘、儀間比呂志、ひさみ夫妻の諸氏らが淳子さんと収まっているのもある。私は1973年頃、高円寺・球陽書房の西平守良さんに近くの「きよ香」に連れていかれそこで淳子さんを知る。知るといってもそれが最初で最後の出会いであった。会場の抱瓶にはひさみ夫妻らが居られた。1時間半ごろ経って大田昌秀氏、岡留安則氏や沖縄大学のO教授、S氏らが参加し故人が好きだった民謡で追悼した。しばし大田氏、岡留氏と懇談する。岡留氏に東郷健の消息を尋ねた。(4月26日の新報、タイムスに同性愛者の差別撤廃運動で知られた東郷健の死亡記事が顔写真入りで報じられていた。)→2012年4月19日

 岡留氏のブログに□東京高円寺で沖縄居酒屋「抱瓶」や「きよ香」など5店舗を経営して成功を収めた高橋淳子(本名=清)さんがなくなった。東京の自宅マンションの風呂場で発見されたという。死亡推定日は4月7日。高円寺の抱瓶グループは長男の貫太郎君に任せて、高橋さんは3年前から那覇市久茂地で、沖縄居酒屋「抱瓶」那覇店を経営していた。最近は元照明マンの仕事をしていた光太郎君が母親の片腕となり、親子で店を切り盛りしていた。死因は細かく聞いていないが、享年73歳だった。高橋さんの苦労人生からサクセスまでの人生は「ただ、誠を尽くして浮世を渡る」(日本社)という一冊の本にまとめられている。
 筆者は高円寺の「抱瓶」にも何回か顔を出したことはあるが、高橋さんが沖縄に来てから本格的な付き合いが始まった。筆者が新宿の「ロフトプラスワン」に出演した時には長男の貫太郎君ともどもよく見に来ていたというので、沖縄での初対面以来、意気投合しての付き合いが始まった。何回も呑む機会があったが、自分の人生に自信と誇りを持っていたためか、頑固なところもあった。石垣島出身の高橋さんの早すぎた突然の死に合掌しておきたい、通夜・告別式は東京で済ませて、沖縄では「送る会」が4月19日午後5時より沖縄抱瓶2階で開かれる予定になっている。

『噂の眞相』左、2004年4月ー休刊記念別冊「追悼!噂の眞相」


2006年10月 サイゾー別冊『噂の眞相 闘論外伝 岡留安則VS12人の論客』インフォバーン

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 徐台教 | ソウル在住ジャーナリスト 2020-4-9 韓国NGO「国防費を削減しコロナ支援に」...新型コロナで問われる'人間の安全保障'「私たちに重要なことは、すでに溢れかえる最先端の武器よりも、良い雇用、しっかりとした社会安全網、持続可能な環境といったものだ。しかしこれまで私たちの税金はそういった所に使われず、限定された資源は『国家安保』に優先的に配分されてきた」→これはジャパンにも当てはまる。

1983年8月31日ー『琉球新報』新城栄徳「落ち穂『未病を治す』」

 東洋医学を実践している病院で、調理師を8年やっていたので『素問』とか『傷寒論』という古典はある程度知っているつもりである。『素問』(もとのものを引き出すという意味)のなかに、黄帝が天師(岐伯)に「今時の人は50歳になると、よぼよぼしてくるのは何故か」と。これに対し岐伯は「昔の人で道(宇宙自然の法則)を知っている人は、陰陽(自然環境としての変化)によく対応し術数(次々に連なり、おこってくる変化の順序法則)によく調和するように自分の行動を規制している。ところが今時の人は酒はガブガブ飲むし、生活のリズムも失っている。色欲にかられて自制もなく欲望のままに精根を使いはたしている。健康に生きてゆくためには一定の緊張が必要であり、節度が大切であるのに、こうしたことを知らないまま、その時その時の欲望のままに生活しているために、人生の本当の楽しみ、生きてゆく喜びを求めようとしない。これでは50そこそこで衰えるのは当たり前である」と答える。

 病院の医師らが中心となって山紫水明の土地、名張市赤目に「赤目健康学園」を計画したのが1977年であった。しばらくして私も息子と「山の家」づくりに参加するようになった。東洋医学のなかに「身土不二」(その人の生活する土地でとれる食物を主に食べる)と、「一物全体」(生物である食物を丸ごと全部、不必要なアクぬき、皮むきをしない)という二つの原則があるが、赤目では農作業を通じて実践している。農業を行うことによって食物についての知識と考えを深めることができる。増大する一方の医療費の抑制は一部の連中の主張するように自個負担を増やすという安易なケチな方法は考えるべきではない。予防と軽症のうちに生活・習慣を見直して治療するという古くて新しい方法をとるべきだ。しかも根本的にはこれしかない。

○WHO憲章では、その前文の中で「健康」について、次のように定義しています。
Health is a state of complete physical, mental and social well-being and not merely the absence of disease or infirmity. 健康とは、病気でないとか、弱っていないということではなく、肉体的にも、精神的にも、そして社会的にも、すべてが 満たされた状態にあることをいいます。(日本WHO協会訳)



ロートシュー『医療の原理』より引用
1974年4月 丸山博『食品公害とたたかう』有害食品研究会、1981年7月 丸山博 編『資料 小島勝治と「浪華の鏡」』/1975年5月 中川米造『医療的認識の探求-増補改題-』医療図書出版社

1975年 『季刊 創造の世界』№20 立川昭二「病気からみた日本の歴史」、湯川秀樹・市川亀久彌・吉田光邦・中川米造・鯖田豊之・立川昭二「シンポジウム 文明としての病気」

三谷和合
 私が勤めていた病院の三谷和合院長は「漢方の正しい健康保険の適用をすすめる準備会」の丸山博会長、相沢秀一副会長らと親しく一緒に運動していた。丸山会長は桜沢如一を師と仰ぎ衛生学を専攻。相沢副会長は京大で河上肇に学んだ最後の学生で、大阪市大、立命館大、大阪経済法科大の教授を歴任。
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三谷和合の本 1997年5月ー三谷和合『続保険歳時記』木津川厚生会□念仏踊は、夏季、お盆を中心に災厄退散、また亡魂鎮送のため、太鼓、鉦を打ちならしながら、踊躍歓喜する踊りの総称です。念仏を口中に唱えながら踊ることから、この名があります。
平安時代、空也上人が念仏の功徳を庶民に知らせる方便として始められたのが起源といわれています。しかし、踊りの形態に仏教的な雰囲気は全くなく、基本的には在来からあった原始宗教的な行動を示したものといえます。つまり、古くから行われていた村々の祭の行動に、念仏信仰が加わったものです。


1977年11月 此花区四貫島・此花区民ホール「第三回おんど~れ祭り」。新城栄徳は安藤昌益①を演ずる。
 ①安藤昌益の思想は、42歳頃から約15年間を過ごした八戸で誕生したといわれ、主著『自然真営道』101巻93冊も八戸で書かれたことが分かっています。そのきっかけとして考えられるのが、飢饉の頻発です。この地方特有の冷たい東風(やませ)により、当時の八戸では凶作と飢饉が猛威をふるっていました。中でも大豆生産のため焼き畑を繰り返したことで猪の大発生を招き、多くの餓死者を出した通称「猪飢渇」いのししけがじ(「けがじ」=八戸弁で「飢饉」の意味)は、昌益に大きな衝撃を与えたと思われます。
 刊本『自然真営道』「大序」には、「非命にして死せる者のためにこれを記す」、つまり、不幸にして天寿をまっとうできなかった人たちのためにこの書物を書くのだ、と書かれています。食物を生産する農民たちの多くが命を落とし、支配階級である武士たちには大きな被害がないという現実。この社会の矛盾を目の当たりにしたとき、昌益は、町人の身体を診る町医者から、社会全体を診る思想家へと変貌を遂げたのではないでしょうか。八戸で書き上げたとされる主著『自然真営道』には、昌益の思想が体系的に記述され、「大序」巻、24巻「法世物語」、25巻「良演哲論」では、厳しい社会批判が展開されています。
 昌益は、武士が支配する封建社会を「法の世(ほうのよ)」として批判し、貧富の差も支配関係もない平等な社会を「自然の世(しぜんのよ)」と名付け、理想の社会として掲げています。自ら生産労働をせず搾取することを、「不耕貪食(ふこうどんしょく)」と称して批判し、その対極にある、自然の循環の中で自ら正しく農耕を行う生活を「直耕」と名付け、このような労働の中にこそ、人の人たるゆえんがあるという主張をこめました。江戸時代に幕藩体制や身分制度を明確に否定したのは唯一昌益思想のみであり、しかも、江戸から遠く離れた八戸でこの著作が誕生したことに、大きな意義があります。→「安藤昌益資料館」所在地: 〒031-0086 青森県八戸市八日町3 時間: 本日営業 · 11時00分~16時00分
電話: 0178-20-8109

2010年6月 吉田徳寿『安藤昌益 直耕思想いま再び』東奥日報社

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 「くろねこの短語」2020年5月20日ー(前略)トンデモ答弁を繰り返す検察逃げたの森君を、TBSの金平君が「法匪」(法律を詭弁的に解釈して、自分に都合のいい結果を得ようとする者)と呼ばわっていたが、いやあこりゃまた言いえて妙で、納得しちまった。それはともかく、検察庁法改悪がうまくいかなかったからなのか、今度は国民投票法改正案を成立させようという動きが出てきたってね。検察の次は憲法か。それにしても、次から次へと余計なこと考えるものだ。そんなんだから、マスクひとつ満足に配れない無能ぶりをさらけ出しちまうんだね。
 自民党国対委員長のおばさん顔の森山君は「憲法審査会でずっと継続審議になっているのは、立法府としていかがなものかと懸念する。結論を出してほしい」ってのたまってくれてるが、憲法審査会で何を議論してきたんだ。それこそ生煮えのままの状態で、これもまた火事場泥棒っとことだ。時の政権が世の中の空気をこれほどまでに読めなくなっているかと思うとちょっとゾッとする。これって、思考能力を失った大本営と同じで、このままだと悪夢の再現になりますよ。国民投票法改正案の他にも、日本の農業を壊滅的な状況に追い込みかねない種苗法改正案の成立もペテン政権は狙っているから、まだまだ気を引き締めて抗議の声を上げていかないと大変なことになりますよ。


大濱聡 5-21

大濱聡 5-20

 【サンパウロ時事】5-19 ブラジル保健省は18日、新型コロナウイルスの累計感染者数が25万4220人、死者が1万6792人になったと発表した。前日から感染は1万3140人、死亡は674人増えた。感染者数は英国を抜き、米国、ロシアに次ぐ世界3位となった。

 「ディリー」5-19 池田清彦氏は山口二郎法政大学教授のツイートを引用。山口教授は維新について、「維新のやり口」と投稿。「公務員を敵視し、保健所・衛生研究所をリストラして、コロナ危機で医療キャパシティが足りなくなると、雨がっぱの供出や寄付を呼び掛け美談を作り、あほなメディアを操りつつ市民に自己陶酔的感動を与え、結局実体的な仕事は何もしない。究極のマッチポンプ」としている。

 「神戸新聞」5-18 「ウイルス出現 温暖化も要因」長崎大熱帯医学研究所教授(国際保健学)山本太郎氏
 グローバル化の中、飛行機などによる移動が増え、世界同時多発的にパンデミックが起きている点は、過去の感染症とはかなり違う特徴だ。(略)
 新しい感染症が近年増えてきた背景には、開発でヒトが野生動物の生態系に入ったこと、地球温暖化で野生動物の生息域が狭くなったことがある。野生動物の中で生きてきたウイルスが、生き残りをかけたかのように人間社会に広がっている。生態系の多様性や野生動物の生存を確保することで、新たな感染症が発生する頻度は減らせる。そうしないと、われわれの社会の存続が危ういということが分かってきた。
 次にどんな社会をつくるか想定することが重要だ。社会は大きく変化する。例えば、10年や20年という単位で進んでいたであろう情報技術革命が1、2年で進む。グローバル化が進んだニューヨークなどの地域が今回、大きな影響を受けた。格差を広げないベーシックインカムのような考え方も含め、都市と地方のあり方やグローバル化をどうしていくか。ウイルスとの共生とは、パンデミックを社会でしなやかに受け止めていくことも含むのかもしれない。

 斎藤 陽子(Walnut, California)5-18日本時間 3月19日に外出禁止令が出て、2か月以上が過ぎますが、明日からロスアンゼルスも段階的に徐々に、外出禁止を解除するとのことで、明日18日から第一弾目の解除は工場関係から、弊社の原料工場も2か月ぶりの再開となります。コロナ禍でアメリカの中小企業も、甚大な被害を被っていますが、中でも大企業では1902年創業の、全米網で展開していました、庶民派の米百貨店大手JCペニー(JC Penney)が、15日に米連邦破産法11条(日本の民事再生法に相当)の適用を申請し、経営破綻しました。もともとネット通販の台頭により経営不振に陥っていた様ですが、新型コロナウイルスに伴う営業停止が追い打ちをかけたようです。5月に破綻した衣料品チェーンのJクルー(J,CREW)、また1907年創業の高級百貨店ニーマン・マーカス(Neiman Marcus)に続き、米主要小売業で3例目の破綻となります。
 日曜日の南カリフォルニアは気温は朝12度ほど日中は昨日よりいくらか暖かく24度ほどです。母の日に1輪咲いた庭のクジャクサボテンが、外出禁止解除を祝うがごとく、豪勢に咲いています。三日間ほど咲いて楽しませてくれていますが、まだまだツボミを沢山持っているので、次からつぎと開花してくれるでしょう。月下美人にも葉の形状や花の形は同じですが、クジャクサボテンは僅かに葉に小さな刺を持っています。月下美人の花は一夜の命ですが、このクジャクサボテンは昼に咲き、3日ほど咲きます。日曜日の午後をまったりとクジャクサボテンの花を愛でながら、コーヒーを飲んでおります。

 「リテラ」5-19  「橋下徹の時代から、裏で安倍政権に協力して自分たちの政策や権益を後押しもらうというのが維新の常套手段。今回は、国民の声が予想以上に大きかったため計算違いと結果になったが、維新としてはいつものように、条件をつけたふりして強行採決に協力し、与党に恩を売るというのが最初からのシナリオだったんだろう。そういう意味では通常営業ですよ」(全国紙政治部記者)。実際、これまでも、維新は、安倍政権の数々の無理筋法案に附帯決議や修正協議などエクスキューズをつけながら賛成してきた。特定秘密保護法、安保法制、共謀罪、TPP、働き方改革、入管法改正……安倍政権が出してきた数々のデタラメ法案をまともに議論せず、法案の欠陥や、立法の根拠となるデータに間違いや改ざんが判明しても、そのこと一切無視して、強行成立に全面協力してきた。そして、その見返りとして、安倍政権からカジノ法案制定、大阪万博誘致など、“金のなる木”利権拡大を後押ししてもらってきた。

 「くろねこの短語」2020年5月19日ー(前略)でも、これで終わったわけではないんだね。「先送り」はあくまでも「先送り」で、コロナ対策が一段落するような気配が見えた時点で、一気に強行採決ということは十分に考えられる。油断は禁物なのだ。なんてったって、ペテン総理は「忘れやすい国民」と舐めきってますからね。さらに言えば、官邸の代理人・黒川君の定年延長は続いているわけで、このままだと場合によっては8月には検事総長就任の目が残っている。法案が先送りになったからには、黒川君の定年延長の違法性を徹底的に追及する必要があるんだね。メディアの報道では、この視点がけっこう抜けている場合が多いから注意が必要だ。とにもかくにも、「先送り」で抗議の声を弱めることなく、さらにボリュームアップして廃案になるまで、そしてペテン総理が進退窮まるまで戦い抜くのだ・・・てなことを囁きながら我が家のドラ猫に空気を入れるしのつく雨の火曜の朝である。



〇橋下徹5-18 「特定秘密保護法、共謀罪、平和安全法制などこれまでも賛否が激しかったものがあったが、それらには『国家のため』という政治意思を感じた」とつづった上で「今回の検察庁法改正は賛否が激しい割にはそれを感じることができなかった」。

 「くろねこの短語」2020年5月17日ー(前略)これは、官邸の代理人・黒川君の定年延長について、「法務省の官房長が官邸に持ってきて頼んだということも、これは本当ですか?」というネトウヨの女帝の質問に答えたもので、つまり法務省のせいだって言ってるんだね。これは大問題で。森友学園疑獄の公文書改竄と同じ言い訳で、へたすると責任おっかぶせられた官僚の中から悲劇的な結末を選択せざるを得ないひとが出てくる可能性だってあるんじゃないのか。
 さらに、官邸の代理人・黒川君との関係については、こんなことのたまってます。「私自身、黒川さんと2人でお目にかかったこともない。個人的な話もしたことも全くない」この発言も見事に瞬殺されちゃいました、なんと、2018年12月11日の「首相動静」には、2人で会っている記録が残ってたってね。「息を吐くように嘘をつく」のはペテン総理の生まれながらの性格とはいえ、ほとんど口先だけのポンコツ詐欺師といった体ではあります。
 〇軍畑先輩 まだよく生きてる途中だけど、今夜安倍が櫻井よしこの言論テレビに出演して「黒川の定年延長は法務省が言い出した事。我々はそれを承認しただけ」と言い放って、まずいと思ったのか櫻井よしこがYouTubeのアーカイブ非公開にしたから、当該部分上げとくわ


2020年5月『月刊琉球』№76 琉球館〒903-0801 那覇市首里末吉町1-154-102 ☎098-943-6945/FAX098-943-6947  
下地ヒロユキ「表紙絵」/真喜志好一「普天間飛行場の危険性除去のために即時運用停止と返還を」/大城冝武「風刺画からみる アメリカ統治下の琉球の世相」/しもじけいこ「宮古IN 宮古バブルからコロナ禍へ」

平良勝保「戦前-戦後歌謡懐旧雑録⑥サンフランシスコのチャイナタウンと苦力と豬花」/河合民子「蒼き狼、琉球へ行く④」/与那嶺功「沖縄振興ー『明治維新150年』を問う 大東亜・植民政策・ナショナリズム⑯」/土岐直彦「権力私物化・コロナ対策迷走の『アベ政治』ー首相の存在自体、日本の『緊急事態』」


 斎藤 陽子(Walnut, California)5-15日本時間  【思い出のアルバム】我が青春時代どっぷりとハマったエレヴィス・プレスリー(Elvis Presly 1935年~1977年)を貴方はご存知ですか。プレスリーは史上100人のシンガーの中で第一人者といわれ、キングオブ・ロックンロールと言われていますが、今では彼を知らない若者も居るようで、時代の流れに驚いています。彼は42歳で亡くなったのですが、プレスリーが13歳から育ったメンフィス・テネシー州の自宅裏には両親のお墓に囲まれたプレスリーのお墓に2008年に行きました。
 
 ジョージア州アトランタからロスアンゼルスに向かう6000キロのドライブ途中に、テネシー州メンフィスに立ち寄った時の写真です。
 プレスリーは世界的にも超人気歌手の位置を確立しながら、アメリカ陸軍の志願徴兵制度で志願し、陸軍一等兵になりドイツに駐留したころ私は高校生でした。当時は休み時間になるとクラスの男性は教室のホウキをギターがわりに持って、今で言うエヤーギターでプレスリーのモノマネをするほど、当時の沖縄の若者やティーンは米軍に囲まれていた影響から、アメリカ音楽文化の影響が強く、みなプレスリーにイカレテいたものです。
 なんと皆がメロメロになっているプレスリーが、軍人として勤務していた赴任地のドイツから、沖縄嘉手納基地内の格納庫でコンサートをするとのクチコミ・ニュースは高校生を沸き上がらせ、クラス全体が授業をサボって行くという珍現象が起き、クラスのほとんどが欠席する事態となり、翌日私もお灸をすえられたのも、今では懐かしい思い出です。〇あの頃はいろいろな催しがあり、米空軍が持っている各国で演奏旅行している「シンフォニー・オブ・ザ・エヤ―」などの大交響楽団など、その都度一般人も入れました。
 長距離トラックの運転手からスーパースターにのぼり詰めた、アメリカン・ドリームの象徴のような人生を送ったプレスリーですが、一人娘のリサ・マリー・プレスリーはマイケル・ジャクソンと2年間結婚していたことでも有名です。このプレスリーの家は、プレスリー・ファンにとっては「聖地」といった所で、熟年夫婦の見学者でいっぱいです。プレスリーの家は1991年に国定歴史建造物となっています。プレスリーはよほど田舎のメンフィスが好きだったとみえて、有名になってもハリウッドには豪邸を作らずに、頑固に自家用機を使い田舎のメンフィス・テネシー通いをしていた様です。今ではメンフィスもプレスリーで有名な観光地となり、ここへ観光で来る世代も60,70代と高齢者が目立ちます。日本の小泉総理もプレスリー・ファンだった様で、このプレスリーの館を訪れています。ロックはもとよりスローバラード、カントリー・ソング、ゴスペルと全ての分野をそれぞれの雰囲気で歌い分け、今も彼の歌唱力を超える人はいないと信じている私は、相変わらずプレスリーにイカレて、車ではいつも彼の曲を流してます。



 京都のS学長 5-14 安倍首相が犬を抱いてお茶を飲む動画も、自国民が何百人と感染すれば眠れないほどの悩みになるはずで、国民への気持ちはその程度だと宣言したようなものに思われてしまった。本当に国民を思うなら、自分のクビが飛んでもいいくらいの覚悟で大胆な政策を発表してほしいと、国民は期待しているはずです。

 「くろねこの短語」2020年5月14日ー(前略)そしてまた、この行革担当大臣とやらがふざけた野郎で、「本来なら法務省からお答えすべきこと」「法務省の職員でないので具体的に言えない」とのたまい、しどろもどろの答弁したあげくに「法務省に聞いてもらった方が詳しい」だとさ。検察官定年延長の是非以前に、こんな国民を舐めきった答弁に終始する委員会のあり様そのものが問題だろう。法案審議以前に、ペテン政権は議論そのものを拒否しているわけで、再び青臭いこと言えば、議会制民主主義の崩壊を目の当たりにしていると言っても過言ではない。
 さすがにこんな委員会に疑問を投げかける声が自民党からも上がった。異議を唱えたのは元新潟知事の泉田君なんだが、あっと言う間に委員を外されちまいましたとさ。いやあ、あまりにもわかりやすい自民党の対応には笑うしかありません。初老の小学生・ペテン総理は、この法案が成立しても「恣意的な人事の懸念はない」って強弁してたけど、昨日の内閣区委員会で政府が特例で定年延長を認める際の運用基準を問われて、おふざけ行革担当大臣の武田君は「今はない」って明言しちゃいました。てことは、「恣意的人事」も可能ってことだろう。語るに落ちるとはこういうことを言います。

 2020年5月14日4時30分 息子夫婦。大阪・聖バルナバ病院で予定日より2週間早く、こうたろう(3000グラム)誕生。〇『沖縄県人録』(1937年)に「山田有登君は那覇市の出身。明治17年1月22日を以て生まれる。沖縄県立中学校を経て金沢医学専門学校に学び、明治42年同校を卒業するや、直ちに石川県立病院に勤務して研鑽を積み同44年6月に愛知県渥美郡田原病院に転じて更に其の蘊奥を極め、大正2年聘せられて大阪市聖バルナバ病院に勤務。同9年転じて久原鉱業経営の鉱山病院に勤務。同11年退職帰県して久米大道りに開業。昭和11年、那覇市に逓信診療所開設されると其の初代所長となり今日に至る。なお君は学生時代野球選手たりしだけに野球に趣味あり」とある。子息にバトラー歯科医院の山田有勝、写真家の山田實が居る→2011年9月23日、以前から気になっていた天王寺の聖バルナバ病院をのぞく。受付で病院の案内パンフレットをもらう。

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 「密約復帰の思い出」1972年5月13日ー大阪『日本経済新聞』「民芸品・図書を守ろうー都島の『沖縄資料室』」/1972年 沖縄関係資料室「暑中お見舞いハガキ」/1973年5月14日ー大阪『朝日新聞』「守れ!沖縄の心と自然ー埋もれた文化掘起す」

 ディリー 5-13 立教大学特任教授で慶応大学名誉教授の金子勝教授は「【アベ恐慌が来る】」とし、「アベと維新の唯一の成長戦略であるカジノも終わりだ」と投稿。「米ラスベガス・サンズは、日本で統合型リゾート(IR)にカジノを設立する計画を断念。すでにシーザーズ・エンターテインメントやウィン・リゾーツも計画を撤回。かくて成長戦略は何もなくなった」と指摘した。

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2003年9月29日『沖縄タイムス』新城栄徳「うちなー書の森 人の網ー沖縄の年表とその周辺」


1953年10月 有高巌『図説世界史年表』山海堂この本は前島小学校図書館で出会った。後に京都銀閣寺近くの千原書店で見て懐かしさもあって入手した。カラー図版は「タイ軍カンボジアの軍艦を攻撃」の1枚だけである。


1957年5月ー佐久本嗣康『沖縄郷土史年表』
この年表は小学4年のときに出会ったもので大分難しかったが島袋全発先生校閲というのが印象にある。当時は郷土史資料を持っているだけで満足しときおりザッと見るだけで内容は詳しくは知らなかった。その内容は古代史、吾が祖先の歩み、沖縄の孤立、南洋貿易を始める、両属政治、現実に即した明るい歴史を作れ、鳥井龍蔵氏の人類学的研究、年表、俚諺集、沖縄戦概略史となっている。この年表の最初のものは1949年12月に沖縄出版社(崎原久)から謄写版で出ている。1974年4月、石野三樹(朝季)と『沖縄歴史年表ー戦前、戦後ー復帰』を出した。この年表には山田真山が「推賞のことば」を寄せ、佐久本氏が40年前の真人園の同志であったことを記した。

1960年9月ー新城徳祐『干支入・琉球歴史年表』
この本は中学生のとき安里の琉映本館近くの土産品屋で入手した。表紙が黒色で金文字。内容は歴代王統、置県以来歴代長官、歴代摂政、冊封使渡来年表、年代表となっている。このときの本はボロボロになり紛失、今のものは2代目である。

 
1983年4月 宮城栄昌・高宮廣衞 編『沖縄歴史地図 歴史編』柏書房/1998年1月 小成隆俊『日本 欧米 比較情報文化年表(1400年~1970年)』雄山閣出版株式会社

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左ー写真、左が佐々木公子さん、名嘉幸照氏

名嘉幸照『 “福島原発” ある技術者の証言』(光文社,2014年3月)

2017年10月28日 『沖縄の軌跡』173号 編集発行人・島袋和幸(葛飾区四ツ木4-18-10 携帯090-4920-6952


2017年9月10日 『沖縄の軌跡』172号 編集発行人・島袋和幸(葛飾区四ツ木4-18-10 携帯090-4920-6952)


原爆の図丸木美術館「山本作兵衛の生きた時代」
〒355-0076 埼玉県東松山市下唐子1401
TEL:0493-22-3266 FAX:0493-24-8371

大濱聡2019-11-30「作兵衛さんと日本を掘る」



島袋和幸(葛飾区四ツ木4-18-10 携帯090-4920-6952)□関東大震災に因んだ特集
東京/2016年9月1日 『沖縄の軌跡』172号 編集発行人・島袋和幸
東京/1945(昭和20)年3月10日


1987年7月 早乙女勝元 編著『写真版 東京大空襲の記録』新潮文庫
早乙女勝元ー1970年に「東京空襲を記録する会」を結成。/2002年に東京都江東区にオープンした東京大空襲・戦災資料センター館長就任。東京大空襲・戦災資料センターとは、アメリカ軍B29爆撃機による東京大空襲の惨状を次世代に語り継ぎ、平和の研究と学習に役立つことを願って、4000名を超える方々の募金で設立された、民立・民営の資料センターです。2002年の3月9日、戦禍のもっとも大きかった江東区北砂の地に開館。さらに2007年3月には、いのちと平和のバトンを未来にきちんと受け渡すために、増築を実現しました。
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早乙女 愛 2022-5-22【ご報告】ふたたび、めったに使わないFBにて。父・作家の早乙女勝元の告別式(2022/5/20 上野・寛永寺)が無事に終わりました。

「超空の要塞 B29」
一般市民8万人以上が焼死、100万人以上が被災した東京大空襲や、1万人が焼死したとされる大阪大空襲は、B-29の重要な「戦果」とされる。さらに日本各地の港湾・航路に空中投下機雷を散布して海上封鎖を行い、国内航路に大打撃を与えた(飢餓作戦)。
東京大空襲
「知恵蔵2015の解説」太平洋戦争末期の1945(昭和20)年3月10日未明、東京の下町を中心に行われたアメリカ軍による大規模な空襲。東京への空襲は、44年11月24日から、サイパン島などのマリアナ諸島を基地とするB29爆撃機によって100回以上繰り返されていたが、いずれも日中に1万メートル以上の上空から軍需工場を目標とするものだった。しかし3月10日の大空襲は、深夜午前0時8分から2時間半にわたって、B29約300機(基地を出撃したのは325機、東京まで来襲したのは279機)が高度2千メートルという低空から侵入し、町工場と住宅地がひしめく市街地に爆撃を敢行。アメリカ側の公式見解では、「日本の中心部に集中している工業的および戦略的な目標を破壊すること」が目的とあるが、一般民衆への無差別爆撃で戦意を喪失させる意図は明らかだった。B29は、長時間燃焼するナパーム弾を江東区・墨田区・台東区にまたがる40平方キロメートルの周囲に投下し、火の壁で住民の逃げ道をふさいでから、その内側に1665トンの焼夷(しょうい)弾を投下。市街地は完全に炎の海と化し、26万8358戸が焼失。100万8005名が罹災し、死者は8万3793名、負傷者4万918名とされるが(警視庁調査)、実際の死者は10万名を超えると言われている。3月18日に焼け跡を視察した昭和天皇は、「これでとうとう東京も焦土となったね」と感想をもらしたという(加瀬英明『天皇家の戦い』)。
太平洋戦争中における日本側の死者数が東京大空襲に匹敵するのは、沖縄戦(45年4月1日の米軍上陸から6月23日の戦闘終了まで)の軍・義勇軍の死者10万人、県民の死者15万人(総人口の3分の1)、広島の原爆投下による12万人、長崎の原爆投下による7万人だけである。非戦闘員の一般市民を標的に大量殺傷を行う行為は戦争法規違反であるが、空襲から19年後の64年、日本政府は、爆撃計画を立案・指揮したカーチス・E・ルメイ司令官に航空自衛隊育成の功で勲一等旭日大綬章を授与している。毎年3月10日には東京都主催の追悼行事が東京都慰霊堂で行われているが、東京大空襲の記録を残すための施設は、国立にも都立にもなく、民間の「東京大空襲・戦災資料センター」があるだけである。
(秋津あらた ライター / 2009年)

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1974年 『月刊ペン』<特集 ”狂乱”時代をどう生き抜くか>5月号
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①松浦総三「虚構の時代に乗ずる法」

①松浦総三 まつうら-そうぞう
1914-2011 昭和後期-平成時代のジャーナリスト。
大正3年11月25日生まれ。改造社の編集者などをへて,昭和30年からフリー。45年早乙女勝元らと「東京空襲を記録する会」を組織し,事務局長。「東京大空襲・戦災誌」を刊行し,50年菊池寛賞。GHQによる言論弾圧史の研究,天皇制批判など,反権力の立場で社会批評を展開した。平成23年7月6日死去。96歳。山梨県出身。中央大中退。本名は総蔵。著作に「占領下の言論弾圧」など。→コトバンク

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 FB友の戸澤裕司さん(元週刊朝日グラビア班専属カメラマン 写真家作家藤原新也助手)の師匠・藤原新也氏の著『日々の一滴』を思い出して5月11日にジュンク堂那覇で買ってきた。私は文庫本愛好家であるから文庫になっている藤原氏のものは大概もっている。同著には石田 昌隆氏、戸澤裕司さんの写真も使われている。

 石田 昌隆 2020年3月24日 · 『日々の一滴』は、タイトルがエモすぎて大丈夫かなと危惧していたのだが、できあがったら『空から恥が降る』以来と思える傑作になっていた。まずぱらっと見た瞬間に、デジカメで撮影したものがほとんどであるにも関わらず、ひと目で藤原新也調とわかる写真になっていて、ファンなら感涙であろう。ところがこれが、懐古的なものではなく、写真を世に出す主流の媒体となっているインスタグラムに相対しつつ、今の時代をきっちり捉えた紙の本になっていた。
 ライカM(type240)サファリにノクチルックスをつけて大久保の路上で撮影した伊藤詩織さん、カルロス・ゴーンの制限住居、「忘却の10年。いまだ川は流れる セシウムの船を浮かべて」という文字が載った川が光っている写真、孤独死した知人の話、房総の里山の美しい風景、戸澤くんから借りたキャノンで撮影した小保方晴子、香港の路上でばったり会った黄之鋒くん、香港でホームヘルパーとして働いているインドネシアの女性たち、辺野古の大浦湾側の海、2015年に国会前で撮影したデモ、AKB48、熊本地震の跡、古き良き築地、1989年にカリフォルニアの白人ばかりが住む住宅地で撮影した写真を再利用して「風景がひとつの肌の色で独占されることの不気味さ」という文を載せたページ、房総で出会った軽ワゴン車で旅する老夫婦と老犬、去年パリのモンマルトルのアパートに数日滞在したときにライカSLで撮影した風景、安田純平さんと藤原さんが並んで笑っているツーショット(これだけ、ぼくが撮影した)、大久保のタピオカドリンクの行列、孫を抱いた玉城デニーさん、川崎通り魔殺人事件の現場、石牟礼道子さん、瀬戸内寂聴さん、などの写真と話で構成されている。

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1993年6月 藤原新也『南島街道 沖縄』スイッチ・コーポレイション書籍出版部
○藤原氏は本書で、28歳の頃八重山の島々を2カ月ほど渡り歩いたという。○藤原「外洋を旅している回遊魚がこのくちだな、やつらは一生のうち何十万マイルもの海を泳ぎ続ける。海が荒れれば底にひそみ、疲れれば流れ藻の下で休み、魚の群に当たればおそろしいスピードでその中に突進し、来る日も来る日も泳ぎ続けるんだ。やつらは旅の間にさまざまないい体験をするだろう。旅の途中でまるで楽園みたいなリーフや巨大な龍宮城みたいな隠れ磯のとりこになる。しかし、残念なことによい場所を見つけてもやつらの性格は一カ所にじっとしておれないたちでね。つまり旅するうちにものごとを較べたり計ったりする厄介な能力が身についてしまったんだな。だからその海の向こうにもうちょっとよい場所がないものかとすぐその場を離れてしまうんだ。そうこうしているうちに年月がたちゃあ、歳をとり体も弱ってくる。やつらはそれで、全身傷だらけ疲労困憊して自分の生まれた場所にいそいそともどって行く。そしてそこで死ぬ。」


藤原新也の本


2015年2月27日~3月12日 ブライトフォトサロン(〒104-0043 中央区湊1-8-11 ライジングビル4F ℡03-3523-0545)「島の記憶(ⅰ)戸澤裕司・写真展」

写真左から大城弘明氏、戸澤裕司氏、新城栄徳
2013年5月5日ー戸澤裕司写真展打ちあげ□海鮮亭ちひろ(店主・島袋憲広)

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1972年9月 沖縄の雑誌『青い海』16号 山城善三「暴風と沖縄の県民性」 

1937年6月『沖縄教育』米国三郎(顔写真)「ストライキ組を語る」

1953年3月 雑誌『おきなわ』与那国善三「1954年 沖縄の動き(上)」


山城善三
沖縄タイムス発行『沖縄年鑑1967』から「観光・戦跡」が掲載されている。それに「観光事業のはじまり」がある。沖縄の観光事業にはじまりについてくわしい記録はないが、修学旅行が最初だといわれている。□1893年(明治26)の9月、沖縄師範学校の生徒が本土の社会、文化、歴史などを勉強するため初めて九州旅行している。その翌年1894年(明治27)2月に那覇市の主催で那覇で「九州沖縄連合共進会」が開かれ、3月には「沖縄県教育品展覧会」も催され、九州各地や東京方面から多数の参加者が来島している。(以下略)『沖縄年鑑』1970年版には「観光ー観光協会の発足」が載っている。
1954年1月9日 社団法人「沖縄観光協会」設立(事務局・那覇市役所勧業課内)


1953年1月ー与那国善三『最新沖縄歴史年表』
1954年1月に社団法人「沖縄観光協会」が設立された。2月に那覇市役所勧業課内に事務局を置いた。57年4月、事務局を琉球政府工交局内に移転。59年は那覇市楚辺の与那国(山城)善三宅に事務局、会長は大田政作で副会長ー儀間光裕、親泊政博、専務兼事務局長ー山城善三、監事ー白石武八郎、大城嘉盛となっている。ほかに顧問6人、理事22人、評議員26人、参与が14人居る。

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1966年4月 田島清鄕『琉球料理』月刊沖縄□山城善三「田島氏のことー尚順男と昵懇の仲で常に尚順家に出入りしていた。(略)こういう関係から田島氏は琉球料理について、尚順男や、コックから見聞を広くし精通していた。戦後、那覇琉米文化会館長城間朝教氏は、文化会館を中心として琉球料理研究会を作り、希望者を集めて講習会を始めた。講師には田島清鄕氏を迎える事にした。田島氏の講習会でのメモ帖を何とか出版してほしいとの一般の要望ががあったので、氏は原稿整理中、病魔のため倒れた。その原稿を私が整理して、今回出版の運びとなった。」

1988年12月20日『那覇市史だより』第34号
□故山城善三氏資料の寄贈について/故山城善三氏資料寄贈目録(文化振興課受贈の分)
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2019年11月20日 『沖縄の軌跡』〔『琉球大観』著者・石野瑛の沖縄〕213号 編集発行人・島袋和幸(葛飾区四ツ木4-18-10 携帯090-4920-6952

石野瑛
1914年12月 石野瑛『琉球へ』三笑堂書店
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左1915年6月『琉球大観』(表紙・石野隆)三笑堂書店/1916年4月『南島の自然と人』(表紙・山田真山)三笑堂書店
『琉球大観』太田朝敷〇序ー琉球大観の発行大いに好し矣。歴史の概要、風土・気候・人口戸数より産業・交通・経済・娯楽等に至るまで、誠実に事実を集蒐せるは更に好し矣。元来外来者にして正しきレンズを以て琉球の正体を見たるもの至って稀なり。是畢竟弓張月、竜宮物語の如き極端なる浪漫的レンズを透して眺むる故、見るもの聞くもの殆ど奇談怪説に化せざるものなし。我輩之を遺憾とすること久し。今琉球大観の著あり。現在の事実を集蒐分類して来遊者の栞と為さんとす。今後本県に遊ぶもの、此の正しきレンズを透して見ば、自ら本県の正体を知るを得ん。/伊江朝助〇序/伊波普猷〇序

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1928年10月ー石野瑛『考古要覧』横浜文化協会

 武相中学校・高等学校ー1942年(昭和17年)、考古学者で歴史家でもあった石野瑛が、青少年教育の重要性を感じ、神奈川県横浜市港北区篠原町富士塚に旧制武相中学校創立。その後、生徒と共に原野であった松風台(現・武相台)を開拓し移転。当時この場所は見晴らしが良く、旧国名の武蔵国と相模国が一望できたことからその頭文字を一字ずつ取って校名にした。校名の由来ともなっている高台(武相台)は昭和17年当時非常に見晴らしが良く、横浜港はもちろん、遠く丹沢や富士山、房総半島も望むことができ、文字通り武・相両州が一望できたという。→ウィキ

1952年ー1961 石野瑛『神奈川県大観』(「自然と人文」、「横浜・川崎」、「鎌倉・三浦・湘南」、「湘東・湘中」、「湘西・湘北」)武相出版社

1960年1月 石野瑛『沖縄大観』武相学園

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2020-4-18昼 沖映通り/国際通り
 
2020-4-18昼 市場本通り/むつみ橋通り/平和通り/古美術なるみ堂

 メジロかごの名工/友寄英春・、宮城宏友
           
2012年1月7日『沖縄タイムス』堀川幸太郎「復帰40年 うちなぁ時の旅③メジロかご」
宮城宏友/連絡先・翁長良明 ☏090-3793-8179

 2011年4月12日ー普天間返還合意から15年

1973年4月 『米軍基地関係資料~基地と沖縄経済~』沖縄開発庁沖縄総合事務局 総務部
 地元紙は東北・関東大震災の対応で追いまくられているのか肝心要の自分の頭の蝿(アメリカ基地)の問題を普天間合意という些細な問題にすり替えた論調を展開している。要は沖縄・日本から異民族の基地を撤廃させるのが本来の目標でなかったか。今回の「原発事故」でも解るように来るべき「核戦争」に対し如何に米軍が無能であることがハッキリした。核攻撃や自爆はテロリストでもできるが、逆に攻撃されたらなす術が無いのが今のアメリカ軍の実態である。
今、アメリカ海軍の佐世保基地に横須賀基地配備の空母などが相次ぎ寄港している。原発事故に伴う横須賀入港の回避措置だが、原発事故は収束のめどが立たず、あろうことか、横須賀の在日アメリカ海軍司令部が放射能をさけるため佐世保に移転という笑えない情報もある。早くアメリカへ避難した方が良い。放射能が怖い軍隊は無用の長物だ。
 4月13日の地元紙は辺野古テント村での、世界の国が軍事費を直面する危機のために使うように求めたグローバル行動の一環として「思いやり予算を被災地支援に」の訴えを小さく扱っていた。また真に国防が必要なら「思いやり予算」でアメリカ青年の失業対策に使うでなしに、自国の青年や中年の失業対策の一環としても、国防に担ってもらいながら純粋に国防のための機器(兵器ではない)を開発しながら、防災に強い国土造成も重要な任務として膨大な予算をつぎ込まなければならない。その際、戦後の日米軍事利権に関わった自衛隊幹部の粛清はいうまでもない。
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2010年12月17日ー沖縄県庁前でのカン総理への抗議集会プラカード

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2019年3月 尖閣諸島文献資料編纂会『尖閣諸島盛衰記 なぜ突如、古賀村は消え失せた?』
〇尖閣諸島文献資料編纂会(E-mail:senkakudmcaa@gmail.com URL:http://senkakudmca.zouri.jp )
〒902-0066 那覇市大道40番地 ☎098-884-1958
 
2018年9月 尖閣諸島文献資料編纂会『尖閣研究ー尖閣諸島海域の漁業に関する調査報告-沖縄県の漁業関係者に対する聞き取り調査ー』
〇尖閣諸島古賀村の昔と今 
新納義馬「久場島古賀村跡の遺構・生活跡調査を」/編集部「魚釣島・南小島古賀村盛衰考-急ぐべし 南小島古賀村跡 遺跡調査もー最後に重ねてお願いする。国や県は、尖閣諸島古賀村跡の遺跡群を、急ぎ調査し、日本近代化産業遺跡群に認定するなどして、保全策を講じてほしい」


2013年9月 尖閣諸島文献資料編纂会(〒902-0068 那覇市大道40番地 TEL/FAⅩ098-884-1958)『尖閣研究ー尖閣諸島海域の漁業に関する調査報告』

尖閣諸島とは
Ⅰ尖閣諸島の漁業概要
Ⅱ聞取り編
1章 沖縄本島地区/2章 宮古島地区/3章 八重山地区/4章 漁場保全、領海警備

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原爆ー1969年11月ー沖青友の会機関誌『石の声』第1号□[もしも沖縄で爆発したらこのようになる]
□真栄田義秀「日本国憲法第九条」/「沖縄にあるB52は24メガトンの水爆を積むことができる(広島の1,200倍) もしも沖縄で爆発したらこのようになる。!▲150~570キロ以内の住民半分が即死し、生き残った人も4カ月以内にはほとんど死亡する。▲爆発にともなう地震津波がおしよせてくる。▲水や食物も多量の放射能を浴びて生き残っても奇型児や発育不能な人間が生まれてくる。▲北は奄美大島、鹿児島迄も被害は及ぶ。-沖縄の住民は今日も原爆をかかえて生活をしている。」

関連ー「核はこうして貯蔵されている<辺野古の核弾薬庫>」『週刊ポスト』1973年11月15日号「平野部の”70%„が米軍基地の沖縄」。アベ政治が辺野古に拘る一因か。

 関連ー2019年【5月16日 AFP】国連(UN)のアントニオ・グテレス(Antonio Guterres)事務総長は16日、核実験で生じた汚染物を投棄するため20世紀に建設されたコンクリートのドームから、放射性物質が太平洋へ漏出することへの懸念を表明した。太平洋の島国フィジーを訪れ、学生らを前に演説したグテレス氏は、マーシャル諸島のエニウェトク(Enewetak)環礁に建設されたこのドームについて、冷戦(Cold War)期の太平洋における核実験の遺物であり、「一種のひつぎ」だと表現した。さらにグテレス氏は、マーシャル諸島のヒルダ・ハイネ(Hilda Heine)大統領と同様に、このドームに封じ込められている放射性物質の漏出の恐れを非常に懸念していると述べた。
 同環礁の一部を成すルニット(Runit)島に1970年代後半に建設されたドームは、核実験で生じた放射性汚染物質の投棄場となっている。放射性物質を含んだ土や灰が、クレーターに運び込まれ、厚さ45センチのコンクリート板で覆われている。当時は一時投棄との位置付けで、クレーター底面には何らの加工もされていないことから、汚染物の海洋流出の危険性が指摘されている。何十年も経過したドームには複数のひびが入っており、サイクロンが直撃した場合には崩壊しかねないと危惧する声もある。グテレス氏はドームへの対応策には直接言及しなかったものの、太平洋の核の歴史は過去のものではないという見方を示した。(c)AFP

1971年4月 大阪市北区で あすの沖縄をつくる若い広場『青い海』創刊
青い海文芸/祖慶美佐江「母校のナンキンハゼ」、宮城清子「短歌」、平良寿美子「青春て何だ」、宮城敏夫「生きる、大城悦子「ささやかでも尊い想い出」」(何れも『石の声』転載)
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沖青友の会機関誌『石の声』

 『石の声』10号は、1972年11月に発行されていて、新城栄徳、嘉陽宗博と新里金福の往復書簡が載っている。新里「沖縄も日本に復帰したのだから、沖縄人も日本人になる努力をしなければならないという説もあります。が、それは戦前、すでに破産した発想にすぎません。沖縄の人々は日本人の同化の努力のはてに、より収奪を強化され(ソテツ地獄)、文化的にも破壊され(方言撲滅運動)、そしてついに沖縄戦を迎えました。そして沖縄戦では<それでもお前らは日本人か>といわれて、日本人のあかしをたてる為に死地に沖縄人はおもむきました。つきるところ、沖縄人にとって、日本人になろうという努力は、自滅しかもたらさなかったのです」、嘉陽「沖縄と本土を往来し沖縄を理解したかのような口振りで<悲劇の島>とか<基地の島>とか、エトセトラのレポートを書いた大和人の知識人ち呼ばれるインテリゲンチャのなんと多いことよ。沖縄を食いものにする、沖縄をテコにして“日本を見つめよう”“己を問い直そう”等とほざく利用主義者の厚顔無恥(知)、エセ文化人を徹底的に糾弾する」、新城「僕らはこういうヤマトーの人間達をふやさぬためにも最後にはテロも辞さぬつもりですが、論には論で行った方が正当かと思われますので新里先輩の手でひとつよろしくお願いします」とある。

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1963年6月30日『沖縄タイムス』「座談会・関西の住人 大いに語る」
 1971年9月のある日、私たち「沖青友の会」会員は女性3人、男性4人で機関誌『石の声』八号のガリを徹夜で切っていた。変色した1963年6月3.0日の『沖縄タイムス』3面にわたっての特集「関西の郷土地図」を転載し、主張に「沖縄の禁断の書『さまよへる琉球人』の封を自ら、はがしたように、われわれは自らの心のヤミを見据えよう」と記した。そして偶然のことだが、ガリ切り作業をやっていた嘉陽宗博(沖青友の会会長)の間借り先の、その小さな部屋の番地は、大阪市港区市岡元町で、戦前の関西沖縄県人会本部の近くの番地であった。
   『石の声』九号に「沖青年譜」があるので沖青友の会の歩みを紹介する。1969年4月20日に大阪城公園にて50名参加して発足、会長・宮城晃で11月には『石の声』一号を出している。「沖縄子供の国」資金カンパや、女子高生刺傷事件の署名カンパ、1970年6月は仲宗根正順(マンガ家)さん捜しに取り組む。兄弟団体の三和同郷青友会(尼崎)、南風サークル(大正区)との六甲山登山やソフトボール大会で交流。また、映画「水俣病」、「沖縄列島」上映会にも参加した。
 1971年12月11日、沖青友の会会員9名が初めてのテレビカメラのライトを浴び、あがってしまいながらの「関西テレビ土曜イブニングショウ」の沖縄討論に参加。司会は、栗原玲児、上原「最近よく沖縄について語られているけれども、安易な気持ちで語ってもらいたくないですね」、喜納「沖縄が返還されても我々は沖縄解放の闘いを続ける」、三郎「沖縄人としての自立を踏まえて沖縄人としての思想を構築していく」、新城栄徳「沖縄は経済的に自立できるかということを考えた上でなければ沖縄を語る資格はないですね」というと、司会者が「語る資格はあるかないか別として、自分の話で恐縮だけれども沖縄に関する司会をするのは十三回目です」、紀美枝「自らのことも出来へん状態で沖縄に連帯、連帯とそんな簡単に言えるべきもんではない」、比嘉「私達は皆さんが沖縄のことに口に出す場合、日本の歴史の中から、どうして現在の沖縄ができたんか考えてから」などと発言した。

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1973年3月 『琉球の文化』第三号<特集Ⅰ 琉球の伝統玩具> 琉球文化社

1974年5月ー『琉球の文化』第五号<沖縄戦と終戦直後の生活>
琉球文化社(編集発行人・大城精徳)本社〒那覇市牧志町1-944-6 編集局〒902那覇市安里425丸清ビル2階/関西連絡所ー大阪市東淀川区西中島町5-62青い海出版社内(新城栄徳)

西平守晴/阿氏南山の末裔。『青い海』津野創一編集長は同郷(八重山)。南西印刷の西平守栄は従兄弟。久子夫人の母と川平朝申の母は姉妹。

1972年
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上左・1972年11月ー『青い海』18号所載の『琉球の文化』広告/『琉球の文化』編集発行人の大城精徳は、首里高教師時代に『青い海』津野創一編集長を教えている。

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1973年12月 関東・関西沖縄解放同盟(準備会)『沖縄、差別を砕け』(10.25-30関西・関東謝花祭

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『朝日ジャーナル』1971年3月26日号<特集・ミニコミ71ー奔流する地下水>

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1977年2月ー田村紀雄『ミニコミ 地域情報に担い手たち』日経新書



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1971年9月 沖青友の会機関誌『石の声』8号
1971年ー万博も終わり静けさを取り戻した京都。大阪の沖青友の会機関誌『石の声』8号の装丁デザインを考えていた。河原町の書店で松岡正剛編集の『遊』創刊号(1971年9月)を見た。伏見桃山で会ったばかりの稲垣足穂の文章もあった。その表紙デザインを『石の声』の表紙に取り入れたのは言うまでもない。以来、松岡正剛の名前はついて回ることになるが、肝心の編集だけは身につかなかった。本ブログを見ても解るように元もと整理は苦手である。

戸澤裕司tozawa@za3.so-net.ne.jp 新城栄徳様松岡正剛さん取材した僕の写真、発見されましたか!松岡さん達、赤坂から引っ越されてからお会いしてないな〜。
2013-05-08@16:36
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『情報の歴史21』、監修者の松岡正剛氏の編集本とは1970年の稲垣足穂★中村宏『地を匍う飛行機と飛行する蒸氣機關車』松岡正剛「タルホ事典」仮面社、以来である。1975年の『タルホ事典』松岡正剛「タルホ=セイゴオ・マニュアル」まりの・るうにい「装幀・装画」潮出版社。〇右下は私がタルホから貰ったサイン、スタンプ。
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 押入れを整理したら1998年発行の朝日新聞社『scias』スクラップが出てきた。 渡辺保史の「デジタルメディアの生態史--コンピュ-タと人間の20世紀-1-モ-タリゼ-ションからデジタライゼ-ションへ」というものだ。著者を検索、渡辺保史(わたなべ やすし、1965年12月24日 - 2013年6月15日)北海道函館市出身。 弘前大学人文学部卒業。業界新聞社に記者として勤務(東京)し、1992年 フリーランスのメディア・ジャーナリストとなる。2002年 函館圏の「地域コミュニティの未来デザイン」を検討するオンライン・グループ「node:0138 ハコダテ」を立ち上げる。情報デザインを中心に、サイエンスから情報テクノロジー、現代思想、デザイン、ビジネス論、都市・コミュニティ論、情報教育などのフィールドで取材、調査、執筆、企画、講演などの活動が主。(株)ソシオエンジン・アソシエイツ・ジェネラルプロデューサーNPOヒューマン・センター・デザイン・イニシアティブ理事。7年前に故人になっている。

ジュンク堂那覇で渡辺保史『情報デザイン入門―インターネット時代の表現術』2001年(平凡社新書)を買った。


2001年4月 寺島実郎『「正義の経済学」ふたたび』日本経済新聞社〇この先50年経っても、この国に外国の軍隊が今のまま駐留していても平気だと考えているような国民が国際社会で一人前の存在として認知されることは期待できないのである。

手帖ー情報整理
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 斎藤 陽子(Walnut, California)5-10日本時間 ♫~♡~~♪ 母の日おめでとうございます ♪~~♡~♫昨夜の南カリフォルニアの満月のお月さまの見事なこと、その光は眩しい程でした。

写真は久しぶりに雨に濡れた、わが家の玄関口から見た駐車場です。今年も「母の日」がやって来ました。最近はスマホの時代ですが、固定電話の時代にはアメリカでは一年間を通して「母の日」が電話通話使用が最も多い日だと、アメリカの電話会社が報告していましたが、今は固定電話は余り使わなくなったご時世で、その辺の事情はどうなっているかは分かりません。
 ベトナム戦争の真っ盛りの70年代、「母の日」のフライトで当時運航していたロスアンゼル・沖縄直行便に乗って、沖縄の実家に帰国した日のことを思い出します。その頃のロスアンゼルスからの、沖縄直行便の乗客の90%は沖縄経由で、ベトナム前戦に向かう米兵で、機内は埋めつくされていました。現在のように携帯電話も無い固定電話の時代、空港ロビーには沢山の固定電話が並んでいて、全ての電話はベトナムの前戦に、出発する前の米兵が使用し、彼らは家族や恋人に戦場に向かう前の、最後の電話をかけているのか、大半の兵士が泣きながら電話に向かっている姿は今でも忘れることができませんあの兵士たちはベトナム前戦で戦ったあと、無事に故郷に帰還できたのか・・・と「母の日」が近づくと、今でもあの日のロスアンゼルス空港ロビーの光景が脳裏を横切ります。

 「くろねこの短語」2020年5月9日ー(前略)コロナ・パニックで忘れてしまっかもしれないけど、検察官定年延長が国会でスッタモンダしている時に、この法務大臣は頓珍漢な答弁を繰り返して、いたずらに国会を混乱させてたんだよね。法案が審議入りするなら、それを改めて質そうとするのは当たり前のことなんだね。法案の所管大臣への質疑を拒否するってのは、まともに議論をするつもりはないって言ってるようなもので、その理由を説明する責任が自公にはある。「野党審議拒否」なんてことより、「法務大臣の出席拒否」こそを報じるのが、ジャーナリズムってものだろう。って、イヌアッチイケーに何言ってもムダなのはわかってるんだが・・・。
 それは他のメディアも同じようなもので、そもそも検察官定年延長の審議入りをまともに報道してませんからね。コロナの裏で何が進んでいるか。それをしっかりとチェックしないと、国会放火事件のどさくさを利用して全権委任法を成立させたドイツの二の舞になりかねませんよ。おっと、そう言えば、「ナチスの手口に学べ」って言い放った口のひん曲がった野郎がいましたっけ・・・てなわけで、今日のところはお後がよろしいようで。

 「くろねこの短語」2020年5月8日ー(前略)こういう対立の構造を、政治家が作り出していることに何の違和感も持たなくなるどころか、それこそが強いリーダーシップであるかのように錯覚していくことがどれほど恐ろしいことか。そして、メディアがそれをまた煽る。パチンコ店がダメなら満員電車はどうなんだって議論なんかまったく出てきませんからね。新型コロナウイルス問題への対応で最も評価する政治家のアンケートで、ネズミ男・吉村君がトップなんだと。維新の支持率も上がっているってんだが、メディアが無批判にネズミ男の「やってる感」満載の映像を流し続けていることも一役買っているのは間違いない。
 それはともかく、パチンコ店に対する松戸市の高圧的態度は、ユダヤ人や朝鮮の人々への差別を育んだ邪魔者を排除するという思想に酷似しているってことをしっかりと認識しないと大変なことになりますよ。

 斎藤 陽子(Walnut, California)5-7日本時間 日本は大型連休がいよいよ最終日となりましたが、コロナ禍の中での自粛生活で、家庭中心のお休みが取れましたでしょうか。こちらカリフォルニアは罰則もある外出禁止が50日にもなりました。庭のアマリリスが太陽に向かって、真っ赤に咲いています。2017年マーガリンバターについての投稿を再投稿いたします。さて、日本ではバターが市場で不足したり、バターは米国に比べて日本では高価格な様ですが、ちなみに写真下段のバター1個(8㌢X3.5㌢ 113㌘)の米国のお値段は80円です。
 きょうは食卓のバターの代わりに使用しているマーガリンに関しての、大切なお話です。米食品医薬品局(以下FDA)はトランス脂肪酸について、2018年6月以降に、食品への添加を原則として禁止すると発表したニュースは米国の食品業界に大きな衝撃を与えています。私たちが問題にしているトランス脂肪酸は、工業的に植物油を脱臭のために高熱処理したり、水素を加えて「硬化油」に加工したりする過程で生成されています。代表的なものはマーガリン、ファットスプレッド、ショートニング、クリームなど極めて身近なもので、マーガリンは菓子パンやケーキなどに見られます。
 今回の発表に踏み切った最大の理由は心臓病の原因と指摘されていることにあり、FDAはトランス脂肪酸について科学的見地からの検討の結果、食品に使うことは「安全とは認められない」と結論づけ、「毎年数千件の致命的な心臓発作を防ぐことができる」と説明しています。トランス脂肪酸の規制は既に世界的に広がっています。FDAは、2013年11月にトランス脂肪酸を含む硬化油を食品添加物(グラス物質)から外す決定をしていました。デンマーク(2003年)、スイス(08年)、オーストリア(09年)では、100g当たり2g以上のトランス脂肪酸を含んだ油脂の国内流通を禁止しています米国、カナダ、アルゼンチン、ウルグアイ、パラグアイ、ブラジル、韓国、香港、台湾、中国では、食品含有量表示を義務付けており、いかにこの物質が健康に有害なものかがわかります。ちなみに日本はトランス脂肪酸についての厚生省などの規制はなく、事業者任せとなっているのが現状です。大丈夫でしょうか。
 
 写真上は113㌘のバターです、下方中央は今 日本で開花しているアマリリスと同時期に、申し合わせたようにカリフォルニアの庭でもアマリリスが今 大きく咲いています。
〇殺虫剤漬けで出来あがった規格品の様な綺麗な野菜が本物だとはき違えている日本人の多い事、その逆手を取って有機栽培ブームも出てきていますが、アメリカでは有機栽培を明記するには、いろいろなハードルを越えての有機栽培は認可制ですが、日本は自分勝手に有機栽培を銘打っていますが、その信憑性もあやふやなもので、完全な有機栽培は、自分で畑を耕して作るしか、有機栽培の信憑性はありませんね。
〇瀬名波  トランス脂肪酸の危険性、諸外国での規制については日本でもかなり知れ渡って来てると感じてます。しかしそれでも相変わらずスーパーには多くのマーガリンが並んでます。正直、国の規制を待っていても何も変わらないというのを今回のコロナで感じました。トランス脂肪酸の問題も消費者、メーカーから変えていかないといけないですね。

 「くろねこの短語」2020年5月6日ー夜中の電話・・・じゃなかった、地震にビックリ。コロナ・パニックの最中に災害に襲われたら、それこそお先真っ暗だもんね。避難所なんか3密の最たるもので、そんな最悪なシミュレーションを国はしているだろうか・・・してるわけないか。コロナ・パニックでさえ、精神論で乗り切ろうってんだから。そんな精神論を嘲笑うかのように、大阪府知事のネズミ男・吉村君が自粛解除の指針となる「大阪モデル」を公表した。本来なら、緊急事態宣言延長が決まった時に、初老の小学生・ペテン総理がすべきことだったんだよね。
 でも、「経済と医療の兼ね合いで作った指標。サイエンスとしてのエビデンスがあるわけではない」(大阪府専門家会議座長)という意見があることも忘れてはいけない。「人の命よりも経済」という視点は、ペテン総理もぼったくりバーのチーママ小池君も、さらには経団連などにも共通してますからね。だからこそ、『大阪モデル」なんて息巻いても、「休業補償」については一言も触れないんだよね。
 チーママ小池君なんて、昨日の会見でなんとかのひとつの覚えで、「誰かではなく、自分がやる。一人一人意識を持っていただきたい」と上から目線でのたまっている。いやいや、もう十分に一般大衆労働者諸君は危機意識持って自粛生活に耐えてますよ。まるで緊急事態延長が一般大衆労働者諸君のせいだって言ってるようなもんなんだね。んなことより、オリンピックにこだわり続けて、新型コロナウイルス対応をほったらかしにした責任を取ってみやがれ。人を小馬鹿にしたような馬鹿っ丁寧な物言いに触れるたび、殴りたくなる衝動に駆られる今日この頃なのだ。

  「くろねこの短語」2020年5月5日ー毎度のこととは言え、中身スッカラカンの「ポエム」なんてものじゃくてあれは単なる「たわ言」「うわ言」の類ですね。何がって、昨日の初老の小学生・ペテン総理の緊急事態宣言延長の記者会見だ。ダラダラと原稿読むだけだから、最も重要な給付の時期を読み間違えて、その後の質疑応答で訂正する醜態とあいなりました。でもって、結局のところ何が言いたいのかってなるんだが、ようするに「金は出さないけど自粛しろ」ってことなんだね。最後には、「絆があればウイルスの不安に打ち勝てる」「みんなで前を向いて頑張れば困難を乗り越えられる」って精神論でシャンシャン。いつの時代の話だよ。またしても竹槍でB29と戦うつもりか。
 そんな空疎な会見の中で、気になったのがこの発言だ。「コロナの時代の新たな日常を作り上げる」とさ。そのために「新しい生活様式」なんてのを専門家会議が提言したってんだが、何が「新しい生活様式だ」。そんなこと為政者に言われる筋合いはない。しかも、その提言ってのはこれまでの注意事項と何も変わっていないわけで、それをことさらに「新しい生活様式」とキャッチコピー化したとろに、何とも言えない「気持ち悪さ」がある。「治安維持法」や「国家総動員法」が頭の片隅をよぎっちまいましたよ。
・安倍首相の緊急事態宣言延長会見に愕然! 持続化給付金を「早くて8月」と間違え、追加補償も提示せず「絆があれば」のポエム「新たな日常」「新しい生活様式」・・・こんな言葉を何の疑問も抱かず、無批判に垂れ流すメディアもまた、そうとうに頭が腐っている。こうした不埒な文言は、今日からテレビのコメンテーターどもの口を通して、人口に膾炙されていくことになるのだろう。ひょっとこ麻生の「ナチスの手口に学べ」とはこういうことなのだと、我が家のドラ猫に言い聞かせるこどもの日の朝である。

 【悲報】安倍自民批判ツイートに対してTwitter社による凍結、削除報告が相次ぐ【言論弾圧】 - NAVER まとめ/自民党に投票してはいけません 2018 作戦変更しました(笑) でも覚悟はかわりません。自民党批判したらロックや凍結される可能性はありますから。(笑)ちなみに、凍結もロックも経験済みです(笑)暴れすぎは要注意です。/こるひど@cor_hydrae1999 @aiko 安倍批判をすれば凍結、しかし安倍に近けりゃ百田のように野党攻撃にヘイトやデマもお咎めなし。もうTwitterジャパンは自民党直営と思ってもいいかもしれないですよ。/おねえ@hero「自民党批判したら、twitterのアカ凍結された」「山本太郎を応援したらアカ凍結された」 twitterって、みんなが好き勝手に呟くところじゃないの?。

 斎藤 陽子(Walnut, California)5-4日本時間 コロナウィルス感染拡大予防から、外出禁止令が出て47日目の日曜日ですが、毎日が日曜日生活だと今さら日曜日も関係無い生活です。南カリフォルニアは気温が30℃にもなり乾燥がひどく、たっぷりと庭の花々に水をやり、ちょっと遅いブランチを小鳥のさえずりを聴きながら、庭のパティオで主人と二人きりで頂きました。庭いじりの大好きな人のことを英語でグリーンサム ( green thumb グリーンサムと言い、親指が緑色になるくらいに植物をいじっている人、園芸栽培の才能が有る人などの意味)と言います。コロナウィルスの脅威が迫ろうが、庭の花々は時が来ると正確に誠実に咲いてくれます。

 今年も裏庭の壁を覆うスタージャスミンの開花と同じくして、クジャクサボテンも豪勢に咲きました。初めてこの花の開花を見た時には、その情熱的なショッキングピンクに驚いたものです。三日間ほど咲いて楽しませてくれるクジャクサボテンですが、まだまだツボミを沢山持っているので、次からつぎと開花してくれるでしょう。月下美人にも葉の形状や花の形は同じで、見分けが付きにくいですが、クジャクサボテンはサボテンと名が付くだけあって、僅かに葉に小さなトゲを持っています。月下美人の花は一夜の命ですが、このクジャクサボテンは昼に咲き、3日ほど花を保ちますが、後ろの方にも沢山一斉に咲いています。
 漢字では「孔雀仙人掌」と書き、大輪の花が咲いたさまが羽を広げたクジャクの姿のように大輪の花を咲かせます。6年ほど前に友人の家の鉢植えから、5センチほどのサボテンの葉肉をちゃっかり爪でつまんで貰ってきて挿し木し、これをグリーンサムと言うのでしょう、今では堂々と1メートルほどに伸びました。月下美人と同じ仲間で、葉肉も月下美人に形は似ていますがサボテンと名がつき砂漠の植物のようですが、このサボテンは森林性サボテンで、メキシコやアルゼンチンが原産地の亜熱帯雨林が生育地とのこと、とても水の好きな植物です。多分、湿度の多い沖縄あたりでも繁殖していると思います。花の色は他に、白、オレンジなどがある様です。梅も収穫の時を迎えていますので、梅干し作りの体制を整えます。

  斎藤 陽子(Walnut, California)5-3日本時間 いつの間にか今年も5月を迎えていますが、カリフォルニアでは罰則も伴う外出禁止令が出て、自宅待機も46日となりました。忍耐強いと自負している私でも、いささか限界に来ていますが、今までは自宅待機に協力的で素直に従っていたアメリカ人も、最近は不満分子が限界を訴え、自己主張を言い出す騒ぎも、ちらほらと報道されています。本来人間の持つ忍耐心の時間的な限界量というのは心理学の専門家が分析して、人間の自宅待機時間の限界量をはじき出していると思いますが、時間的なものに付随して、生活している上でそれぞれの経済的事情から来る、精神的な不安度も加算されますから、杓子定規的に人間の限界粋は特定できないものでしょう。
 GWのお休み真っ只中、安倍政権は緊急事態宣言を延ばしたようですが、日本の皆さんもこれからも忍耐の日々が続くと思いますが、皆さんもこの緊急事態を耐えて頑張ってください。こちらカリフォルニアも、すっかり30℃を越す夏日になりましたが、日本ではテイクアウトお弁当がこの非常事態の時、流行っているようですが、そろそろ夏を迎え湿度の高い暑くなるこれからは食中毒の季節になりますが、テイクアウトの食中毒などには重々お気を付け下さい。
 【思い出のアルバム】米国ハワイ州のホノルル国際空港は2017年5月1日、2012年に死去したハワイ日系上院議員の名にちなみ「ダニエル・K・イノウエ国際空港」に改名されたと米メディアが報じています。2012年6月1日UCLAテラサキ・センターでの会合に、当時NHKに席を置きUCLAへ留学前に我が家に逗留中だった、NHKキャスターの堀 潤 Jun Hori さんと出席した会合で、お会いしたハワイ選出の上院議員ダニエル・イノウエ氏にお会いした時の写真です。イノウエ氏は第二次世界大戦にハワイから米国軍隊に志願し、日系二世部隊、第442連帯戦闘団に配属され、ヨーロッパ戦線のイタリーで戦い右腕を失い名誉除隊し、陸軍大尉となります。後に弁護士となり1963年ハワイより初のアメリカ日系議員となり、ワーターゲイト事件、イラン・コントラ事件などの上院特別調査委員長などを努め、50年にわたり上院議員に在任し、上院議員を9期務められ88歳の現役の上院議員の重鎮でした。

 写真はお亡くなりになる半年前の 2012年6月1日にUCLAでお会いした時、「ダニエル・イノウエ上院を尊敬して、次男の息子に同じお名前の Daniel ダニエル 名を頂きました」と話している私です。2012年12月17日にお亡くなりになり、今となっては貴重な写真となりました。この時 日系二世のイノウエ氏は日本語が出来るのかとの、確認をすれば良かったと、今になって後悔しております。日系社会のためには、戦時日系補償法の制定などに尽くして下さったことに感謝し、ご冥福をお祈りいたします。なお、葬儀の日には上院議院議長でもあったダニエル・イノウエ氏の遺体棺は、アジア系では初めてアメリカ合衆国議会議事堂中央広間に安置されましたが、これは過去に数名しかいない、連邦政府の名誉ある扱いだと言われています。

  「くろねこの短語」2020年5月3日ー(前略)およそ、この国の政治家ほど、自国の憲法を蔑ろにし、罵詈雑言を浴びせる政治家は世界のどこを探してもいないのではなかろうか。ペテン総理の「みっともない憲法」発言がその最たるものなんだが、コロナ対策で無能ぶりを発揮する厚労大臣、マルチ商法の広告塔・加藤君も「国家は、国民があれば成り立つ訳でない。国家を支え、守る国民がいて初めて成り立つ」てなことを改憲派の集会でのたまってるんだね。
 「憲法とは国民の権利・自由を守るため国を縛るもの」という立憲主義の原点を、こやつらはまったく理解できていない。そんな輩に、そもそも憲法を語る資格なんてありません。「時代に合った憲法に変えていく」ってのも改憲志向の政治屋がよく口にするんだが、「憲法くん」のコメディアン・松元ヒロの鋭いカウンターパンチを食らってみやがれ。「憲法に合わなかったら、政府を変える!」 改めて主権者としての自覚に思いをはせる、憲法記念日の朝である。



 〇日本でコロナを出来るだけ早く終息させた方がいい理由は「日本は災害の多い国だから」なんですよ もし夏に大型台風が来たら?南海トラフみたいな大地震がおきたら?避難所生活せざるを得なくなったらそれこそ地獄。だからこそ今こそお互いを守る行動をしましょうよ!
 〇スペイン風邪(1918年)は日本でも多大な被害をもたらしました そして1923年に関東大震災ですからね おまけに世界大恐慌(1930年)と

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