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Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
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右下に井筒屋の開業広告
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1994年2月21日、新聞で井筒屋の開業広告を見つけたので、井筒屋の話を聞きに浦添市のオキジム本社を訪ねた。新里有四郎会長、新里盛吉社長、新里有造氏が同席された。有造氏はライフル射撃で国場武三(こくば駐車場)氏とも知り合いだった。現社長はこの人の子息である。写真/オキジム会長室で、左から新里有四郎会長、新城栄徳

1995年6月ー『私の好きなすばやー物語』(資料提供・新城栄徳)ボーダーインク


2002年10月30日ーオキジム本社で左から、新里有四郎会長、玉寄貞夫氏(世界のそてつを守る会℡098-862-0906)、新城栄徳

1992年5月 『食足世平ー日清食品社史』「めんの系譜図」
『日清食品社史』「めんの系譜図」
台湾出身の安藤百福(あんどう・ももふく、1910-2007)は繊維業に携わり大阪へ進出。第二次大戦後の復興にはまず食事が大事と考え、食品加工・製塩などの事業を経て1948年(昭23)加工食品の輸出入・販売業の中交総社を設立。翌年サンシー殖産に改称、1958年(昭33)瞬間油熱乾燥法の即席袋めん(チキンラーメン)を開発し、「日々清らかに豊かな味をつくる」との願いから日清食品に商号変更する。1971年(昭46)カップめんを発売開始、事業を多角化し海外へも発展する。当該社史は7章の本文と資料からなり、創業前史で安藤の生い立ちと即席めん開発を記述。口絵にめん食の文化史や製品・工場写真を多数掲載。[2008年(平20)持株会社日清食品ホールディングス設立、新たに即席めん事業の日清食品(株)が誕生]


〔大濱聡〕2019-3-30

1994年2月22日『琉球新報』「沖縄そば 明治40年ごろ独自の味定着 新城栄徳さん(44)が調査」


沖縄県立博物館・美術館Facebook2013 
明日10月17日は沖縄そばの日!
沖縄そばはいつごろ誕生したのか。この疑問を解明した人物がいる。「琉文21」を主宰する新城栄徳さんである。今から19年前(平成6年)の新聞紙上で沖縄そばのルーツを見事に解き明かしている。新城さんは、明治31年から大正11年までの新聞・雑誌の広告を丹念に調べあげ、明治35年4月9日付けの琉球新報に「支那そばや」の開店広告を発見する。但し、同そば屋は清国より料理人を招いて「支那そば」を売り出しているので、まだ沖縄そばと呼べる代物ではない。
では、支那そばから沖縄そばに進化するのはいつごろか。新城さんは、明治40年に那覇の前之毛で福州の料理人を雇う「観海楼」と地元の「比嘉店」が客の争奪戦をして、比嘉店が勝利をおさめたという記事に着目する。つまり、この頃には沖縄そばとしての味が一般に定着していたのではないかというのである。さらに、「不勉強屋」の広告でも分かるように、和田那覇署長が「琉球そば」と呼ぶように指示。かくて明治末から大正期にかけて、我が愛すべき県民食は誕生したのだ。
同記事は「(沖縄そばの)由緒を正確にする必要がある」という新城さんの言葉で結んでいる。嗚呼、沖縄そばよ! 汝はかくもナゾ多き食い物であったか・・・。まーさいびたん!(M.K:M.K)

5月8日『琉球新報』「戦後50年きょうから明日へ 沖縄そば」


あぐに/沖縄そば
1879年5月4日         『西京新聞』「那覇に料理店、茶店の向は一ヶ所もなし」
1889年              那覇の料理屋ー海月、東家、吉武、小徳、京亀、常盤など。
1890年              料理屋・飲食店ー那覇39軒、首里6軒
1891年              料理屋・飲食店ー那覇63軒、首里9軒、名護2軒、渡久地1軒
1892年              沖縄県の料理屋・飲食店ー開業48軒、廃業15軒
1893年              寺内某が来県、料理屋「東家」の協力をえて琉球芝居の俳優、囃子方らを雇い関西興行をなす。
1894年3月9日         『国民新聞』「沖縄農民は4食にして唐芋と云う甘藷、豆腐、味噌汁および豚肉らはその常食にして魚                     類、米、粟、豚脂に揚げ たる麦粉らこれに次ぐ。そのほか蘇鉄、椰子あり。料理には大概豚脂を用ゆ」
                   料理屋・飲食店ー那覇144軒、首里47軒、宮古10軒、八重山6軒
1895年              料理屋・飲食店ー那覇171軒、首里62軒、宮古14軒、八重山8軒。
1896年              台湾領有で那覇の主な料理屋、台湾に移る(いろは亭、玉川屋などは残る)
1899年              名護に料理屋5軒、仕出屋2軒。那覇南洋堂「食パン」販売。宮里松、大門前通りで蕎麦屋を開業(日本そば)
1900年              那覇「りん寿司」改良すしを始める。楢原鶴吉「東家」を譲り受け、大阪より料理人を雇いいれる。那覇                     「鶴屋」練羊羹・カステラ・メリケン粉販売。
                   那覇「住吉屋」牛すき焼き8銭、鳥すき焼き12銭、すし7銭。那覇「紅屋」茶碗蒸し、すし、かまぼこ、牛肉、鳥肉販売。
1901年12月          高等女学校及師範学校女子講習科が料理科を新設し和洋の料理法を実習、費用は自弁。
1902年4月9日      福永義一が大阪から清国人を雇いれ那覇警察暑下りに「支那そばや」開業。 
1915年6月           「不勉強屋」支那そばを琉球そばと表示(和田那覇暑長が指示)

1920年10月16日-新里有一郎「井筒屋」(琉球そば)開業
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1922年2月11日ー新城三郎、那覇市三重城近くの借家で生まれる。父・蒲は山原船の船頭。従兄弟の安里蒲の商売(薪)も手伝っていた。出生時は奄美近海に流されていた。母カマと姉(ウト)が世話をした。
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1924年3月-伊佐三郎、粟国尋常高等小学校訓導
1927年4月-新城三郎、粟国尋常高等小学校入学/5月ー伊佐三郎、白金小学校(牧口常三郎校長)に新里朝彦の斡旋で同校訓導
1929年4月ー仲里誠順「万人屋」開業



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1959年11月 『オキナワグラフ』


1984年1月 沖縄の雑誌『青い海』129号 「特集・沖縄そばと生活文化史」
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「沖縄そば」資料

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1975年2月 雑誌『青い海』40号 「沖縄の食べもの文化考/豚の泣く日」

 1898年、那覇区泉崎の豊盛書林と、西の三笑書店には沖縄県尋常小学校読本も販売しているが、一般書も扱っている。世界年鑑、中等東洋史、中等日本歴史、算術新教科書、新撰算術、新式速記術、新撰日本外史、通俗世界歴史、世界文明史、詠歌自在、詠歌辞典などがある。
同時期の『琉球新報』には一般書や印刷物の広告が載っている。今でいう通信販売である。大阪の芳文館写真部「奇形嬌態裸体美人写真」、大阪の明文社の「画入男女たのしみ草紙」などである。学生向けの通信教育に東京学館の「自宅独習生徒募集」や帝国中学協会「諸学講義録」があるが、どちらも英学、国語学、心理学、論理学、教育学、算術、詩文学、幾何学、三角法、簿記学、代数学、化学、速記学などで内容は共通している。相前後して「ライオンはみがき」、「鳥井合名会社」の広告も目立つ。

1900年、村田弥三郎が、那覇警察署前で東京各新聞の取次ぎを始めている。博愛堂(小沢朝蔵)も新聞広告に近事画報社の「戦時画報臨時増刊号・日本海大海戦紀念帖」を載せ売り出しを図っている。近事画報社は1901年の『琉球新報』に広告「通俗小説文庫ー毎月1冊刊行」を載せている。並んで、東京日本橋の三越呉服店や「中将湯」の広告もある。
1902年の『琉球新報』の広告に京都の島津製作所の「博物地理歴史標本」がある。04年の広告には太田胃散、浅田飴、今治水なども出てくる。07年には十合呉服店(大阪・神戸・京都)、アサヒ、サッポロ、エビスビールの広告も目立つようになる。08年の広告に「実業之日本」、1911年の広告には博文館の常用日記や、「女学世界」、冨山房の「新日本」がある。那覇の円山勉強店の「キリンビール」売り出し広告もある。
1905年11月23日ー志賀重昴、粟国島来着→著1909年『大役小志』
1906年3月5日ー菊池幽芳、粟国島に来着/10月ー『地学雑誌』第18年第214号□脇水鉄五郎「沖縄視察談・粟国」
粟国に来島した志賀重昂
1905年11月23日ー午前3時、運輸丸、久米島発▼6時、珊瑚礁の激浪を琉球形小船にて乗り切り、渡名喜島上陸(略)10時半、粟国島著、上陸、粟国は渡名喜島を距る15浬、面積半方里、磽确たる一珊瑚島、而かも戸数8百余、人口5千余、食糧に欠乏するを以て蘇鉄を食ひ、婦女は那覇、首里に下女奉公をなし、男子は琉球本島及び布哇等に移住する者多く、鱶ノ鰭、烏賊、鰹を輸出す▼夕、那覇港着、上陸。→近代デジタルライブラリー - 大役小志
1922年2月11日ー新城三郎、那覇市三重城近くの借家で生まれる。父・蒲は山原船の船頭。従兄弟の安里蒲の商売(薪)も手伝っていた。出生時は奄美近海に流されていた。母カマと姉(ウト)が世話をした。
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写真ー新城三郎の父・蒲と母カマ(抱いているのは新城栄徳、二人にとって初孫である。)

〇向宣恭・伊是名朝信(朝宜三男、生没年不詳)は明治大正時代に郵便局に勤務し、糸満郵便局で定年退職し、那覇上之屋に居を構え、その夫人が作る首里仕込みの豆腐餻が近くの辻町で評判となり、この豆腐餻作りで晩年の生計が助けられた。朝信の一人息子の向得遠・伊是名朝義がロシア革命の影響を受けて沖縄の左翼活動の嚆矢となった為、勘当されて壷屋地区に移り住み政治活動を行った。 →ウイキ
1924年3月-伊佐三郎、粟国尋常高等小学校訓導
1927年4月-新城三郎、粟国尋常高等小学校入学/5月ー伊佐三郎、白金小学校(牧口常三郎校長)に新里朝彦の斡旋で同校訓導
1929年4月ー仲里誠順「万人屋」開業
1934年1月ー新城三郎、那覇市辻町(御願の坂)國吉料理店で板場修行。同年の粟国出身の調理士は、四つ竹の新里。みはらしの玉寄松。玉川の仲間、一味亭の新城、仲里、山城、新城。京ヤの又吉。國吉料理店は与那  風月ロの糸洲、仲里、新里。三杉ロの福本。幸楽の安里、新川幸栄。美崎の玉寄米吉、赤嶺、玉寄三郎。花咲の上原保一、新里次郎、上原健夫。木村屋の安里善徳。ならはら館の上原。宝来館の新城。山本は浦崎。川津館の新城。モリタ館の与那城。
業者ー万人ヤの仲里。朝日ヤの神里。三角ヤの吉元。みかさヤの与儀。井筒ヤの新里。一味ヤの新城。福力ヤの神里。公園入口の金城。朝日橋前の新城。松田橋前の新城。安里松竹の糸洲。
1935年8月『関西沖縄興信名鑑』ー東淀川区之部 安里善盛(大戦前に那覇に引き揚げ食堂経営、戦争で一家全滅)、仁祥、善太郎(のち安村書店主)、勇祥(のちレストランアサヒ経営)
1936年10月2日ー沖縄県知事正五位勲四等・蔵重久「粟国村字東9490番地の新城蒲(50)、8月1日午後9時に那覇市北明治橋右海岸に於いて那覇市垣花町1の88平良カメ(31)が溺死せんとするを救助したるは殊勝なりよって金1封を贈りこれを賞す」
1939年4月5日ー安里幸一郎、粟国村字東で生まれる。父・宗幸、母チヨ(イザニサ大ヤー)
1946年から47年まで戦地や他府県からシマンチュが引き揚げてきて粟国島の我が家の周囲は賑やかになった。しかし生活は貧しく心を癒すものを求めた。その一つが村芝居であった。やがて我が家の隣に茅葺のクラブが建てられ伊江島ハンドーグァーや大新城親方などの芝居が旧正月に演じられた。伯父・玉寄貞夫は初期のころからの中心的に芝居活動をやってきた。1956年、玉寄貞夫の従兄弟・安村善太郎、勇祥兄弟の多額の寄付でクラブを鉄筋コンクリート建てにする(写真・左)。
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1948年ーガーブ橋前に「大洋食堂」(勢理客(町田)定正)
1949年
安里大通りに「丸屋食堂」そば・すし・めし(久場景善)。7月ーホテル新風荘(崎原マサ)民政府構内に開業。8月ー料亭「喜仙」(仲本盛智)。9月ー料亭「幸楽」、安里に「丸久食堂」(久高将金)。11月ー真和志に食堂「ゆたかや」(西銘政弘)、那覇市場前に「木村屋食堂」
1950年
国際劇場前に「みなと屋」(豊見山義康)、2月ー元国際食堂跡に「井筒屋」、7月ー那覇料理屋組合が毎月第二日曜を公休とする、「一富士」みつ豆・冷し西瓜(当真嗣正)、9月ー那覇区に井筒屋新装開店、神里原に大衆食堂「三角屋」そば・すし(渡口トミ)
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写真・沖縄調理師会ー前列右から安里信祐(現・伊勢海老料理「味の店三郎」店主)、新城三郎、左端に玉寄米吉
1950年ー沖縄と奄美出身者で調理師会「沖美会」結成。中村喜代治、新城三郎、玉寄博昭、福永平四郎、赤崎一成、又吉太郎らが参加□奄美が日本復帰する1953年に「沖縄調理師会」と改称。
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【関連】1975年 伊勢海老料理「味の店三郎」で食事会ー新城栄徳、息子、あけみ、新城敏子
1951年
1月ー那覇料理組合・花咲、喜仙、花園、南海、清風荘、清風、松屋、美園、那覇、香那恵、皆美亭、若梅、幸楽、田鶴、三原、新栄亭、新風荘、オール倶楽部、ほがらか亭、やよい、よつ竹、若杉、玉家、八千代、有楽、松竹、だるま亭、よかろう、左馬、若藤、春芳、一心亭、一廣、ときわ、松の家、美杉、一楽、やすらか、栄亭、よし乃、新月亭、大楽。糸満町にみなとや飲食店(新城野枝)。安村勇祥(新城三郎従兄弟)、平和通りで「かき氷屋」開店。□→「レストランアサヒ」/1986年2月ー安村勇祥『想いでの記』。
7月ー那覇市10区に琉球料理「玉川屋」うなぎ蒲焼。10月ー料亭那覇がうなぎ料理、12月ー神里原に食堂「美松」手打そば。
1951年             『球陽新報』「沖縄そばの味自慢ー宮里政栄(大阪西成区鶴見橋)」
1952年
5月ー神里原に「龍凰閣」「台北楼」、「レストランアサヒ」
1955年5月ー安里幸一郎、オジ玉寄松のいる料亭松乃下に見習いとして住み込む。
1956年2月ー粟国島で「親子ラジオ」譲渡式/4月ー末吉保朝(粟国中学校教諭)、文部省派遣で大阪市文の里中学校へ/1959年2月ー『オキナワグラフ』「発足した沖縄唯一の事務機のデーパト合資会社・沖縄事務機社(新里有四郎社長)」/5月ー宜野湾市大山で雑貨商「ジミーグロセリー」開業□→2006年8月『Jimmy’s 50th Anniversary 1956~2006』株式会社ジミー/6月8日ー『琉球新報』「粟国村のソテツは村の守り神」。

1957年3月 与那国善三『新沖縄案内』沖縄観光協会/印刷・おきなわ社
○広告「沖縄唯一の百貨店 観光お土産にもっとも喜ばれる品々」「サービスのオアシス 料亭小川荘(小橋川和子)」「沖縄観光協会指定旅館 鶴よし」「ホテル琉球」「沖縄観光協会指定 沖縄ホテル」「コザホテル(国吉鶴子)」「大津旅館(津波幸盛)」「ホテル森乃(名嘉真キヨ)」「沖縄観光協会指定旅館 初音館」「沖縄観光協会指定 観光ホテル厚養館(岸本金光)」「料亭・山手(長峯春良)」「料亭・登美の家(金城利江)」「料亭・新鶴(我那覇文子/佐久本嗣子)」「料亭・那覇/東京支店・琉球亭なは(上江洲文子)」「レストラン松屋(前田義善)」
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〇1957年3月17日『沖縄タイムス』「会長大いに語る グループめぐり(16)琉球料理研究会 城間朝教会長」
1959年2月ー新城三郎、[食堂]経営。
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1959年5月27日『琉球新報』「オリンピック東京に決まる」
1960年              川崎お大師様の近所で伊礼松子が「沖縄ソバ」「三月菓子」を自家製造販売
1960年1月8日『琉球新報』島袋盛敏「仲宗根章山翁の思い出ー首里城懐古」(写真/)仲宗根真吉、摩文仁憲和、新垣良光、島袋盛敏。明治42,3年)
1960年1月10日『琉球新報』「新春インタビュー石野記者/朝倉文夫×浜田庄司」
1960年1月17日『琉球新報』坂口総一郎「順応する生活態度ー40年前クリ舟で体験した人生観」
1960年10月8日『琉球新報』「観光沖縄にひとこと①島本豊氏(日航沖縄支店長)独自の風土活かせ」
1960年10月9日『琉球新報』「座談会/本土経済人の見た沖縄ー観光地として有望」今里広記/湯浅佑一/五島昇/鹿内信隆
            「観光沖縄にひとこと②松川久仁男氏ー海の特色売り物に
1960年10月10日『琉球新報』「観光沖縄にひとこと③太田守徳氏(国際中央通りほしい立派な歩道」
1960年10月11日『琉球新報』「観光沖縄にひとこと④儀間光裕氏ーきたないガーブ川」
1960年10月12日『琉球新報』「観光沖縄にひとこと⑤東盛良恒氏ー”南国沖縄„打ち出せ」
1960年10月13日『琉球新報』「観光沖縄にひとこと⓺島袋清氏(ハワイ球陽観光団長)全住民も関心持て」
1960年10月14日『琉球新報』「観光沖縄にひとこと⑦宮里辰彦(リウボウ専務)政府、住民も協力を」/糸満盛信「沖縄の古武術」①
1960年10月15日『琉球新報』「観光沖縄にひとこと⑧荻堂盛進氏ー島ぐるみで協力を」/「あれから15年ー本土の沖縄開拓村を行く 千葉県三里塚の沖縄農場」
1960年10月16日『琉球新報』「観光沖縄にひとこと⑨宮里定三氏ーホテル施設の充実」→2016年6月ー那覇空港見学者デッキに「沖縄観光の父・宮里定三」(ブロンズ像)設置
1960年10月17日『琉球新報』「観光沖縄にひとこと⑩宮城仁四郎氏ー花いっぱい運動を」
1960年10月18日『琉球新報』「あれから15年ー本土の沖縄開拓村を行く 東京新生会」                
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1970年10月 『沖縄食都ガイドブック いい店うまい店』日経通信


1972年10月 『米の味』グラフ社

1975年5月 江原恵『まな板文化論』河出書房新社

1976年7月 『月刊食堂別冊「天ぷら」柴田書店〇天丼の店(中西吉太郎)は大阪ミナミにある小さな店で、、私もかれこれ10回は食べている。熱々で美味しい。

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1991年7月 周達生『東アジアの食文化探検』三省堂〇沖縄の「肉」/沖縄の特徴/イトウリ・ニガゴイー沖縄では、中国南方諸省の人びとが好むヘチマを「ナーベーラー」といい、苦瓜を「ゴーヤー」といい、種々の野菜料理を作っている。

1991年12月 イヴ・コア/宮崎信之『クジラの世界』創元社

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1974年5月『琉球の文化』第五号 《沖縄戦と終戦直後の生活》
琉球文化社(編集発行人・大城精徳)本社〒那覇市牧志町1-944-6 編集局〒902那覇市安里425丸清ビル2階
関西連絡所ー大阪市東淀川区西中島町5-62青い海出版社内(新城栄徳)







大城精徳1957年「墓と家」/大城精徳1983年「貝がらとヤシの実」

大城精徳1983年「御願所幻想」


2020年2月28日 沖縄県立博物館・美術館「大城精徳の仕事」

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1990年6月 浜松昭『沖縄戦こぼれ話』月刊沖縄社○朝鮮から徴用されて来た女性たちの『花代』ー十・十空襲の前、三二軍は各部隊に慰安所をつくる手配をした。そこに連れられて来たのは、当時『朝鮮ピー』と呼ばれた独身の60名であった。/佐久田繁ー沖縄戦の写真、あなたでも買えます-琉球文化社の大城精徳君によると、『金さえ出せば、ペンタゴンでは誰でも買えるんだ』というのである。そして大城君が注文した写真が二か月後に、ペンタゴンから郵送されてきた。その写真をもとに私は、1977年8月『日本最後の戦い・沖縄戦記録写真集』を出版、沖縄三越で写真展もやった。


1997年4月30日 パレット久茂地9F「石垣博孝個展レセプション」




2020年2月15日 ~ 2020年6月28日 沖縄県立博物館・美術館「大城精徳の仕事」/2018年6月 日本民藝協会機関誌『民藝』第786号 大城精徳「琉球の屋根獅子」、西村貞雄「沖縄における獅子の歴史」


1984年4月 大塚清吾『写真集 沖縄の屋根獅子』「座談ー琉球文化と屋根獅子/大城精徳・大城立裕・西村貞雄・大塚清吾」葦書房(福岡市)


1977年2月『日本古書通信』復刊394号「全国古本屋地図ー鹿児島市・センバ書房、糸書店、文耕堂書店/那覇市・琉球書院、根元書房、上原書店、竹書院、龍潭図書、南島書院、遊古堂書店」


1969年6月 『琉球政府立博物館館報』第2号 大城精徳「琉球の唐獅子雌雄考」

1970年3月 『琉球政府立博物館館報』第3号 大城精徳「琉球の屋根獅子」→1972年 増補版「琉球の屋根獅子」発行・琉球文化社

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 写真ー1983年4月 『師父 志喜屋孝信』志喜屋孝信先生遺徳顕彰事業期成会 志喜屋孝信(1884年4月19日~1955年1月26日)〇1904年3月、沖縄県立中学校卒業、志喜屋孝信、川平朝令、山川文信、久高将旺、山田有登。4月ー志喜屋孝信、広島高等師範学校(数物化学科)入学。このころ内村鑑三を愛読。玉川学園の創始者小原国芳と親交。1908年3月卒業。4月、岡山県金光中学校に奉職。岡山出身の山室軍平の思想に親近感を抱く。12月、熊本県立鹿本中学校に転任。1911年12月、沖縄県立第二中学校に赴任。1924年3月、校長に就任。1936年3月、二中校長辞し、私立開南中学校を創設、理事長兼校長となる。

 写真ー1945年8月、石川で沖縄諮詢会発足、志喜屋孝信委員長。
写真ー1948年2月1日の戦後初の選挙で選ばれた市町村長と沖縄民政府首脳
写真ー1951年2月12日 琉球大学開学式、初代学長に志喜屋孝信


 本展は、大城精徳(おおしろ・せいとく 1928年9月14日~2007年12月17日)の絵画と資料群が一堂に会する展覧会。大城は、名渡山愛順に師事し琉球美術展をはじめ、戦後草創期のグループ展に名を重ね、琉球政府立博物館を辞してからは琉球文化社を設立し、雑誌『琉球の文化』を刊行、美術工芸論の発展に寄与した。

 昨年は「琉球文化」のシンボル首里城の大火。YouTubeでは大量に首里城に関する動画が展開されている。私(新城栄徳)は首里城は何時でも見られると思って5回しか見てなかったので、有難く拝見し琉球文化を再認識した。今のようにネットなどが手軽でない時に、「琉球文化」普及に尽力した琉球文化史研究家・大城精徳の足跡を私事を交えて見る。
1928年9月14日 沖縄県島尻郡大里村字目取真に父・大城蒲戸(屋号・大屋3男)の長男として生まれる。
1932年1月5日 星山吉雄、那覇市久米町で生まれる。
1945年4月3日、観音寺(金武)本殿広場に集合、指揮班の安里源秀教頭から鉄血勤皇隊農林隊の解散の伝達。3か月間にわたる沖縄戦逃避行の末、捕虜になり屋嘉のP・Wキャンプに収容された(3か月)。→1996年6月『比謝の流れは とこしえにー県立農林四十二期回想録ー』大城精徳「沖縄戦逃避行ーメモランダム」〇1943年 沖縄県立農林学校40期ー新城安善1945年3月/沖縄県立農林学校41期―1渡口彦信/1945 沖縄県立農林学校42期―大城精徳、諸喜田達雄『比謝の流れは とこしえにー県立農林四十二期回想録ー』「わが半世の記」
1945年11月 大城精徳、久志村瀬嵩の難民収容所で家族と合流。一つ屋敷の隣人に山田真山が居た。

1988年5月『新生美術』大城精徳「40年前のことどもー大嶺政寛先生との出逢い」7号
〇1948年8月『沖縄毎日新聞』創刊。
1948年12月  新城栄徳、粟国島に生まれる。

写真中央が宮城邦貞社長、その右が与儀清三編集局長、左が松川久仁男業務局長、後列右端が大城精徳→1979年3月『沖縄戦後写真史ーアメリカ世ーの10年』月刊沖縄社/知念軍政府に於ける定例の新聞記者会見ー左よりタール、比嘉(沖縄タイムス)、大城精徳(沖縄毎日)、平良(民政府情報部)

1949年 名護にて /1949年10月25日那覇写真館にて

1949年11月19日『沖縄毎日新聞』第66号
1949年 大城精徳、記者兼通訳として沖縄毎日新聞に入社。新聞は週刊で、印刷は普天間の米軍のオフセット印刷工場を利用させてもらった。その工場の南側に隣接して、戦災を免れた大きな瓦ぶきの家屋に山田真山一家が住んでおられた。その住宅の一部を新聞の臨時編集室として使わしてもらったこともある。

大城精徳が書いてくれた『沖縄毎日新聞』メモ
1949年7月、沖縄タイムス社は創刊1周年を記念して「沖縄美術展覧会」(第4回から「沖展」と改称)を開催した。→沖展オフィシャルサイト 沖縄県内最大の総合美術展
1950年  大城精徳、米国留学ニューメキシコ大学に学ぶ。

写真左から大城精徳、澄子さん/1950年6月 出発前ー前列左から二人目が大城精徳


1950年11月23日 感謝祭 右から二人目が大城精徳

1950年9月 ハリウッドの野外音楽堂/ホッドジン・ホールの裏山

1950年12月 ニューメキシコ大学寄宿舎にて/1952年 ニューメキシコ大学訪問 左端-大嶺政寛、そのつぎ大城精徳、右端・名渡山愛順 
ニューメキシコ大学〇1889年2月28日に設立され、2019年に130周年を迎えた。ニューメキシコ州最大の研究・教育機関でセメスター制の総合大学。略称は「UNM」。教職員数は約6,900人。学生数は約26,000人。ネイティブ・アメリカンやヒスパニック系の教職員と学生が多い。 アルバカーキ校は、約800エーカーの広大なキャンパス。周辺にはサンディア国立研究所、ロスアラモス国立研究所、そして空軍研究所(カートランドエアフォース)がある。近年は産学連携活動と技術移転活動に力を入れている。地域医療、看護学、原子力工学、写真、多言語・多文化教育、異文化コミュニケーション研究で世界的に知られている。 留学生数は約1,500人。日本の早稲田大学、立教大学、立命館大学、立命館アジア太平洋大学、関西学院大学、京都光華女子大学等と交換留学プログラムがある。 →ウィキ

1952年 大城精徳、崇元寺・琉米文化会館職員→1969年9月『琉球新報』大嶺信一「大城精徳個展によせて」
1952年~57年 大城精徳、名渡山愛順に師事。
1952年4月 大城精徳、首里高等学校社会科教師就任
1954年    翁長良明、首里城跡周辺で古銭を拾って以来、古銭収集に取りつかれる。
1955年3月 大城精徳、第7回沖展に「静物」出品
1956年 津野創一、首里高等学校卒
1956年3月 大城精徳、第8回沖展に「首里風景」出品

1956年9月1日『琉球新報』

首里高等学校同僚(左から/森田永吉、岡本恵徳、仲吉朝祐、津留健二、饒平名健爾)/2014年11月 津留健二『教職の道に生きて 出会いに学ぶ』ボーダーインク

1957年4月 大城精徳、首里高等学校社会科教師退任
1957年7月 『今日の琉球』(表紙 金城安太郎「旗頭」)川平朝申「郷土の歩みー若き人々のための琉球歴史」
1958年   宮城篤正、首里高等学校卒
1958年 新城栄徳、祖父が亡くなったので、粟国島から家族で父の居る那覇に出る。父の勤める料亭「新風荘」近くの寄宮、楚辺と変わり、崇元寺に落ち着く。私は最初、琉映本館後ろの伯母宅に居候。なので、紫煙けぶる映写室で何故かゴロゴロしフィルムのひとコマを貰って遊んでいた。東映の総天然色映画は殆ど見た。崇元寺に移ってから、前島小学校4年在学中に首里の龍潭傍の博物館、図書館(今の県立図書館の前身)はよく歩いて行った。図書館で嘉手納宗徳氏と出会う。/首里の琉潭池側の琉球政府立博物館は「首里那覇港図」「首里城正殿模型」(縮尺10分の1。1953年知念朝栄制作)などよく見た。博物館の入口付近に「三ツ星印刷所」(1926年に辻町で昭和石版として開業)がある。その売店に『毛姓系図家譜』『組踊全集』などが並んでいた。中を覗き「筑登之」「○王」など読めない字に悩んでいると、主人の當間清弘氏が買いもしない子供に読み方を教えてくれた。氏は1968年に80歳で亡くなった。

1958年12月16日 二科会員・井上賢三を迎えて壺屋の料亭「幸楽」で「二科会沖縄支部」発会式。支部責任者・大城皓也。写真会員ー水島源光、山田實、親泊康哲、名渡山愛誠、島耕爾、備瀬和夫、豊島貞夫、永井博明、八幡政光、当真嗣祥、鹿島義雄。絵画会員ー大城皓也、大城精徳、山里昌弘、塩田春雄、大城栄誠、金城俊、榎本正治、友利寛、下地寛清、水田虎雄、安仁屋政栄、松川剛、浦添健、具志堅誓雄
1959年、大城精徳、琉球政府博物館に学芸員として勤務(主事補・1959年~1968年/学芸課(美術)1969年~1971年)

左端が大城精徳/左から2人目が大城精徳 1996年 『沖縄県立博物館50年史』

1957年9月 「招待美術展」タイムスホール /1958年10月 第2回 「招待美術展」タイムスホール

1959年5月『今日の琉球』大城精徳「琉米親善」/10月 名渡山愛順「風景」


1960年5月25日スミソニアンへ送る文化財選定委員会-政府会議室/1969年 首里博物館にて 


1960年夏 新城栄徳、上の蔵の「琉球史料研究会」を訪ね、『琉球事始舊記』製本中の比嘉寿助氏と雑談。
1961年 大城精徳、第1回琉球国際美術展出品(~第8回展まで出品)

1961年11月『今日の琉球』大城精徳「ワトソンさんとバブ君のこと―ある日曜日の午後の出来事」
1962年 新城栄徳、近所の島袋慶福翁に郷土史を学ぶ。郷土史の古書は開南の「みやぎ書店」「琉球史料研究会」が扱っていた。

1962年11月24日~27日「第1回 美緑会展」 那覇琉米文化会館/1962年12月 「琉球美術展」那覇琉米文化会館
1962年12月17日 建築家・仲座久雄(58)死去。

【資料】2020-2 仲座巌『仲座久雄 その文化財保護活動1936~1962年』

【関連】高松塚古墳/首里城正殿模型/大龍柱/琉球文化社・琉球書院

1963年6月『家庭公論』第2号 大城精徳「馬と沼」




大城精徳・表紙絵 1964年2月『今日の琉球』76号「赤えんどうの花」/1961年10月『今日の琉球』48号「真昼の屋良ムルチー」

1964年4月12日 沖配ホールで「第18回日本民芸協会宣告大会」 

1964年4月 新城栄徳、集団就職で白雲丸に乗船、那覇港から上京、晴海桟橋に着く。後に知るが芥川賞作家・東峰夫も乗船していた。途中、暴風で船は和歌山の串本に避難したのが熊野との出会いである。錦糸町駅から御茶ノ水駅で降りてニコライ堂の傍を通りながら神田古書街にも近い神田錦町三丁目の錦城商業高校夜間部に通う。神保町には新刊書店もあるが何故か古書店や古書展が面白い。古書店に積まれている雑誌は安く、主に週刊誌を買って切り抜いて手帳に貼っていた。この頃の週刊誌を切り抜かず、そのまま保存出来たらミニ大宅壮一文庫となっていた。しかし手帳は残っていない。
1965年10月~12月『今日の琉球』大城精徳「アメリカの博物館と美術館」

スミソニアン博物館のフランクA・テーラー館長に琉球絣を贈る琉球政府立博物館の大城精徳(右)、左が八重山琉米文化会館の長田信一、中央が文化人類学課のユージン・ネズ博士
○去る5月16日から8月14日の3か月間、米民政府派遣の技術研修員として、アメリカ各地の博物館や美術館などを八重山琉米文化会館館長の長田信一氏とともに視察してきた。(略)アメリカの博物館は1930年代から急速な発展を遂げ、現在では大小合わせて、全米で4千館近くもあるといわれている。これは、現在のアメリカの人口約2億人とみて、約5万人に一つの博物館という割り合いになる。この中には美術館はもちろん児童博物館や大学付属博物館、それに記念館などが含まれている。というのはアメリカでは資料を所蔵し、その調査、展示および普及教育を行っている施設は、その固有の名称がどうであれ”Ⅿuseum〟と考えられているからである。



 1966年 兼高かおる来沖、紅型衣装すがた→1985年5月 兼高かおる『旅のアルバム』講談社

1991年2月 JNN全国27局ネットワーク誌『LOVELÝ』100号記念特別号

1967年2月『守礼の光』第97号 仲泊良夫「新装の琉球政府立博物館」/星雅彦、画廊喫茶「詩織」開業。こけら落としに「グループ耕・三人展(大浜用光・大嶺実清・城間喜宏)」開催。→2003年7月『星雅彦 詩集』土曜美術社出版販売

1967年10月4日『琉球新報』大城精徳「名渡山愛順氏個展によせて」
1969年2月  新城栄徳、南紀白浜の 南方熊楠記念館を訪ねる。東京に行くつもりが京都駅で所持金が無くなり、京都駅近鉄名店街でコック募集の貼り紙を見て「紅屋」に就職。オーナーは京都国立博物館の国宝修理所に勤めていた。

1969年3月14日 りゅたん三味線会1周年発表会
1969年4月  大阪城公園で「沖青友の会」発足
 
1969年9月4日~9日 リウボウ4階ホール「沖縄現代作家展」

1969年9月18日~23日 デパートリウボウ4階「第一回 大城精徳個展」

1969年6月 『琉球政府立博物館館報』第2号 大城精徳「琉球の唐獅子雌雄考」

1970年3月 『琉球政府立博物館館報』第3号 大城精徳「琉球の屋根獅子」→1972年 増補版「琉球の屋根獅子」発行・琉球文化社

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屋良朝信・監修

 山川 夏子 2020年7月23日 本日、銀座わしたショップの壁面に「首里城正殿」が登場しました。銀座の柳に首里城の朱が映えて、とっても綺麗!!わったーの首里城、おしゃれな銀座の街で、ひときわ美しく輝いていましたよ。「銀座に首里城登場」を記念して、銀座わしたショップさんで、「首里城の破損瓦」展示と「首里城写真」展示が始まっています。この写真展、実は昨年の冬、那覇で開催され好評を博した「『月刊オキナワグラフ増刊号・首里城再録』にみる首里城の60年を振り返る写真展」のパネルなんです。今回は前田店長をはじめ、藤原副店長、スタッフの皆様に色々教えていただきながら、ドキドキで展示に参加させていただきました。
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 廃藩置県後の王国最後の国王尚泰久と当時の首里城の写真から、沖縄戦で焼失後に建った琉球大学時代の激化した学生運動の大学封鎖事件、復元が決まって、戦後初めて実施された「木挽式」(国頭サバクイの本物の行事)、神事の「クエーナ」、落成式典、2000沖縄サミット、世界遺産に登録するまでの過程が、写真パネルと記事でご覧いただけます。2000年の沖縄サミットが決まって、サミットに合わせて県民の「かりゆしウエアを着用」が始まりました。沖縄の県庁職員や会社員のおじさま方が、本当に恥ずかしそうに「こんな派手な服を僕が着るのか?」とカラフルなかりゆしウエアを着用してモジモジされていたのも、懐かしい思い出です。三密をさけて「静かに」ご覧いただけるようになっています。※増刊号(首里城特集)や、「山川夏子の顔写真入り!」通常号もお買い求めいただけます。
【首里城がない時代の写真】
◆沖縄戦で焼野原になった首里城跡地に建った琉球大学で1960年に発生した、学生運動で琉球大学が9日間封鎖されたときの「暁の首里城攻防戦」◆今年開局60周年おめでとう!ラジオ沖縄の開局記念沖縄劇「首里城明け渡し」(1960年)の写真。丘の一本松の大宜見小太郎さんや、島袋光裕さん、眞境名由康さん、仲井真元階さんが一同に舞台に立っている奇跡の一枚。
【首里城復元が始まる】
◆1989年の「首里城正殿起工式」山中貞則初代沖縄開発庁長官、植木光教元開発庁長官、西銘知事、大城真順議員等々、錚々たるメンバーが並ぶ式典の様子が見られます。◆同年の「首里城木挽式」ではヤンバルの森から木を運ぶ、本物の「国頭サバクイ」再現と神事「クエーナ」の再現等々。


1940年6月 那覇の大正劇場で「首里城明渡し」上演/7月「那覇四町昔気質」上演
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1960年8月『オキナワグラフ』


 屋良 朝信 2020-6-24 うりずん豆の旬はだいぶ過ぎているのだろうが銀座わしたショップの野菜売り場を覗いたらラッキーまだ陳列棚にありました。迷わずゲット。その他へちま、島豆腐。これでおきなわ三種の神器ならぬ神食材が揃った。四角豆:沖縄や小笠原で人気の野菜。ゴーヤーや糸瓜(ナーベーラー)同様、遮光用途のグリーンカーテンとしても人気が出ているとか。ゴーヤーも嘗ては誰も注目しなかったけど今や夏野菜の代表格になりました。四角豆も癖のない野菜なので人気が出ると思います。

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 仲松 健雄 2020年5月29日 · 神田『琉の介』 外出自粛が続いて、2ヶ月振りの投稿です。「緊急事態宣言」が発令されて、臨時休業が続いた神田「琉の介」は、1ヶ月半振りに営業再開しました✨スタートは、沖縄音楽界のレジェンド喜納昌吉さんと関係者の方々との会食✨お陰様で「琉の介」は、満席でした❗️


2017年11月 屋良朝信×新井克英『[川崎・鶴見・東京]ウチナーンチュ100年 沖縄・思い遥か』AWAWA「仲松健雄さん」

1982年ー『川崎の沖縄県人70年の歩みー川崎沖縄県人住住者所録』財団法人・神奈川沖縄協会/川崎沖縄県人会



川崎沖縄芸能研究会1950年ー写真上左から金城時男(顧問)、池宮喜輝(野村流音楽師範)、米須清仁(初代会長)。下左から亀川盛要(総務)、渡嘉敷守良、渡嘉敷亮(副会長)□→米須清仁は欽氏で自了の父城間親雲上清信は3代目、清仁はその12代目にあたる。

米須清徳□川崎における沖縄舞踊の始まりー川崎の沖縄芸能については、阿波連本啓(明美さんは同氏の4女で直弟子)と米須清仁翁を以って嚆矢とするー。


古江亮仁「川崎の沖縄芸能と私」□→古江 亮仁(ふるえ りょうにん)/大正四年七月三日生れ。/大正大学文学部史学課卒業。/昭和17年大正大学講師、以後大正大学助教授・教授を歴任、/昭和26年川崎市教育委員会社会教育課嘱託。同42年初代日本民家園(川崎市立)園長。/昭和51年「川崎今昔会」を結成。/平成5年度川崎市文化賞受賞。/平成13年逝去(川崎ロータリークラブ温故知新)


2016年5月 『横浜・鶴見沖縄県人会史ー鶴見沖縄県人百年の歩みー』

1976年12月『横浜市 鶴見沖縄県人会会員名簿』

1980年9月『オキナワグラフ』「鶴見沖縄県人会会館 おきつる青少年育成会館 落成」

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1974年1月 岡田青慶『画集 琉球』琉球文化社〇1959年5月15日、佐藤惣之助詩碑除幕式に参列

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 新城栄徳 2020-4-15 私の敬愛する編集者に上間常道氏が居た。氏は大阪生まれの今帰仁2世。東京大学文学部卒。『現代の理論』編集部、その発売元の河出書房新社に無試験で入社。『ドストエーフスキー全集』『トルストイ全集』などを編集する。復帰を機に沖縄に移住。出版社などを経て沖縄タイムスに入る。沖縄タイムス発刊35周年記念で『沖縄大百科事典』(上中下の3巻別刊1巻、約17000項目を収録)の編集を担当、同社より83年5月刊行。06年より出版舎Mugenを主宰。私は河出書房の話は聞いたかもしれないが記憶にない。

新城栄徳と上間常道氏の共同作業『沖縄美術全集』「年表」/『沖縄近代文芸作品集』/『琉球弧の雑誌展』

 森政三ー北海道札幌市に生まれる。東京の中学を終え、蔵前高専工業図案科入学。療養のため中退。1925年、東京美術学校建築学科卒業。歌舞伎座、都美術館、明治生命ビルの設計者・岡田信一郎①早稲田大学教授に師事して和洋建築の実技を習得。和風建築に興味をもち1929年「国宝保存法」の制定にともない文部省技官となる。国宝、重要文化財の調査、記録、修復を担当。1936年に国宝首里城正殿の解体修理工事を担当、1937年、初めて来沖し仲座久雄らと工事に従事。以後、毎年来沖して国宝、重要美術品の指定申請を提出、約20件が指定される。1945年から18年間ー日光東照宮修復の技師長になったほか、二荒山神社、神王寺や長崎の大浦天主堂、出羽三山の建造物などの修復を手掛けた。1955年、戦災沖縄文化財の実情調査と復興計画案を立てる。1956年、園比屋武御嶽石門設計監督、翌年竣工。1957年、守礼門復元工事の設計工事の設計監督委嘱、翌年竣工。泰子夫人との間に1男1女。
①岡田信一郎 おかだ-しんいちろう
1883-1932 明治-昭和時代前期の建築家。
明治16年11月20日生まれ。大正元年大阪市中之島中央公会堂の設計競技で1等当選。ニコライ堂修復のほか,歌舞伎座,東京府美術館,明治生命ビルなど,おおくの洋式建築を設計した。東京美術学校(現東京芸大)教授。昭和7年4月4日死去。50歳。東京出身。東京帝大卒。→コトバンク
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2004年2月 沖縄県立博物館・美術館[企画展] 図録『戦前・戦後の文化財保護 ~仲座久雄の活動をとおして~ |』
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写真右から国吉真哲、亀川正東、森政三、名渡山愛順、仲座久雄

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宮﨑義敬『繚乱の人』展望社よりーサントリー美術館で中央に平良リヱ子、左に森政三①、右に岡本太郎、鎌倉芳太郎,金井喜久子、矢野克子が並ぶ
□①森氏の娘・美和子さん来信「父は結婚が遅く 私は孫といっていい程 年の離れた子ですから中年の頃の父も知りませんが ご指摘下さった人物は父のようでございます。人間国宝の鎌倉芳太郎先生のお話を母にしていました。」

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日光東照宮でー中央に森政三、その右へ仲座久雄、一人置いて又吉眞三

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1980年9月15日『琉球新報』

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2010年7月28日那覇市歴史博物館「沖縄のシンボル 守礼門」展〇ギャラリートーク 湖城英知「2、000円札発行について」写真・左から、新城栄徳、渡口彦邦氏、講師の湖城英知氏(沖縄海邦銀行元頭取、沖縄都市モノレール元社長)、大城宗憲氏(株式会社南都会長)、那覇市民文化部の島田さん。会場には湖城氏の幼馴染の渡口万年筆の渡口彦邦氏や、南都社長の大城宗憲氏も居られコメントも出た。
 講演終了後、大城氏はかつて松尾書店を経営して居られたのと『沖縄春秋』の話をするとパレット地下の日本料理店・彦に誘われた。何を注文するかと聞かれたので、大城さんと同じものでいいですよ、大城さんは年配だしそう食べないだろうと思ったら2段重ねの膳で出てきた。松尾書店から1965年4月に真境名安興『沖縄1千年史』を新城安善作成の索引をつけて発行している。同年11月には雑誌『沖縄春秋』も創刊。
 創刊号には「特別座談会・転機を迎えた沖縄問題」が組まれ小渕恵三、宇野宗祐、中村晄兆、翁長助裕が参加、司会が比嘉幹郎であった。『沖縄春秋』第2号にはカメラマンの岡村昭彦氏が来社した記事がある。日本料理屋には湖城英知氏と夫人も居られた。2000円札は沖縄観光のシンボルでもある。これを活かさない手はない。大城宗憲氏も沖縄観光を産業化にして居られる。

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2014年7月 東京都写真美術館(金子隆一、藤村里美 他)『岡村昭彦の写真 生きること死ぬことのすべて』美術出版社

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 1965年11月『沖縄春秋』第1号 編集人・宮城宏光、発行人・大城宗憲
 1965年12月『沖縄春秋』第2号「戦争報道写真家の岡村昭彦氏 本社を訪問」 編集人・宮城宏光、発行人・大城宗憲5丁目
 1966年4月『沖縄春秋』第2巻第2号 徳田安周「小説・写真記者物語<2>(宝くじ50万円当たって)悪いけれども亡き親友の弟、山川岩美君に行ってもらうことにした。彼は沖縄から上京したばかりであったが、この話を聞くとフントーナーサイ(ほんとですか)とはじめは信用しなかった。(略)」 編集人・宮城宏光、発行人・大城宗憲

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山田真萬

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2020年7月20日 京一郎氏(右)、店主の翁長良明氏


古美術なるみ堂 ☏098-987-5530
1階

首里西森焼のシーサー



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「古美術 なるみ堂」ここをクリック

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2008年12月 なるみ堂「沖縄のメディア展 新聞・ラジオ・テレビ」

沖縄の新聞
<2008年11月9日「新聞資料研究会」琉球新報新聞博物館
琉球新報本社には新聞博物館(http://ryukyushimpo.jp/info/page-129.html ) (2005年4月開館)がある。その機関紙『あめく通信』9号(2008年)に新聞収集家として著名な羽島知之氏の琉球新報での講演「新聞と私ー新聞収集研究60年」と、羽島氏が新聞博物館に寄贈した新聞原紙の目録が載っている。2008年11月9日に新聞博物館で「新聞資料研究会第19回大会」があった。会長の羽島氏以下15人が県外から参加した。沖縄側から岡田館長、新聞研究家の下地智子さん、沖縄コレクター友の会から会長の上原実、副会長の翁長良明、新城栄徳が参加した。新城は羽島会長から『スタンプマガジン』(2008年10月)を恵まれた。同誌には羽島会長の「号外コレクションが語る近現代史」が連載されている。なお横浜にある日本新聞博物館には羽島コレクションが10万点収蔵されている。

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左から、上原実(沖縄コレクター友の会会長)、羽島知之(新聞資料研究会会長)、新城栄徳(沖縄コレクター友の会)、翁長良明(沖縄コレクター友の会副会長)。□→琉文手帖通信①

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 2018年1月、宗教学者の島田裕巳が「富岡八幡・宮司殺人事件の背景」として□富岡八幡宮は、大相撲の起源とされる「江戸勧進(かんじん)相撲」の発祥地で、江戸三大祭、「深川祭」でも有名な“江戸”を代表する神社の一つ。18代宮司の故・富岡盛彦氏はかつて、本庁事務総長(現在の総長)だった人物だ。それだけに、ある本庁関係者は「明治神宮が2004年に本庁から離脱(10年に復帰)したとき以来の衝撃。誰も得をせず、神社界全体への余波も大きい」と嘆く。神社は法人である以上、一つの家の人間が世襲するようなものではない。ただ、現在ではその家に生まれた人間以外なり手がないということで、神社仏閣では事実上の世襲が進んでいる。富岡八幡宮において宮司にそれだけの権限が集中したのは、被害者と容疑者の姉弟の祖父である故富岡盛彦氏の存在があるからではないだろうか。境内には氏の銅像が立っている。(略)盛彦氏は神社界ではやり手で、赴任した各神社ではその振興に力を尽くし、富岡八幡宮でも、戦災で焼失した社殿を再建する事業に携わった。そうした功績によって、神社本庁の総長(事務総長)ともなり、神職を養成する國學院大學の同窓会の会長もつとめている。さらに盛彦氏は、最近話題になることが多い日本会議を発足させる際に斡旋を行ったことでも知られる。これによって、神社本庁をはじめとする神社界が日本会議の重要なメンバーとなった。その縁だろう、宮司時代の容疑者は、日本会議最初の支部である江東支部の支部長をつとめていた。
 2018年年10月、 靖国神社のトップを務める小堀邦夫宮司(68)が神社の運営などを話し合う委員会の中で、天皇陛下について不適切な発言をし、混乱を招いたとして、退任した。ことし6月に行われた神社の運営などを話し合う委員会の中で、「陛下が一生懸命、慰霊の旅をすればするほど靖国神社は遠ざかっていく」などと天皇陛下を批判する発言。神社界の批判めいた紹介になってしまったが、仏教界でも、2018年5月、奈良市の法相宗(ほっそうしゅう)大本山・薬師寺は15日、住職の村上太胤(たいいん)管主(かんす、71)が「不適切な女性関係」で14日付で辞任したと発表している。精神界でもスキャンダルは枚挙にいとまがない。まして・・・。
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  最近、金刀比羅宮(琴陵容世宮司)の神社本庁離脱がニュースになっていたが、金毘羅宮は敗戦前まで沖縄にもあった。1935年2月に沖縄糖商同業組合が建立したもので今では知る人も少ない。沖縄神社は有志が那覇市首里鳥堀町弁ケ嶽小嶽の市有地を貸借し境内地とし、小祠を設け祭祀を続けている。

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1877年5月 レベルテガット航海記/1879年  首里城、第六師団熊本分遣隊の兵舎が置かれ、陸軍省所轄地となる。
1882年3月 首里城、今度 陸軍省所轄永世保存城と定められ、同城内に熊本鎮台分営を置かるる→「朝日新聞」 
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1893年2月 バジル・ホール・チェンバレン/1896年6月ー『風俗画報臨時増刊/沖縄風俗図會』東陽堂
1901年5月 侍従子爵北条氏恭来沖、本島、宮古、八重山の民情、教育、軍事を視察..
1904年4月 首里区立工業学校、当蔵の民家から首里城書院に移転
1905年2月 侍従子爵北条氏恭来沖
1908年   首里市立女子工芸学校、赤平義村家跡校舎より首里城内に移転
1909年、首里市に壹千五拾四圓五拾五銭にて払下(南風殿、正殿、西殿、鎖の間書院、王子居室、王王妃室、世誇殿、銭蔵、寝廟殿、廣福殿、用物奉行所料理座、門番所、二階殿、厩係詰所、アヤメ居室、奉神門、金蔵,竃家、下役料理座、鐘撞堂、右掖門、淑順門、漏刻門、瑞泉門、久慶門、歓会門、美福門、継世門、衛兵所、洗面洗濯所、銃工室、浴室、伝染病室、敷石、哨兵舎、体操器械、物干)
    
1931年10月 『首里市制十周年記念誌』首里市役所

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1910年3月7日 ドイツ人エドモンド・シーモン馬山丸で来沖

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1914年1月 黒頭巾・横山健堂『薩摩と琉球』中央書院

佐渡島/島倉龍治(1870年5月2日~1929年2月10日)
島倉伊平次、千代の二男として佐渡郡真野町新町で生まれる。小学校を卒業するとすぐ上京。あらゆる職業を転々としたのち働きながら東京法学院(中央大学の前身)に通う。1893年に卒業。94年、神奈川県人石渡かよと結婚。このころ島倉は東京向島言間付近に住んでいた。妻かよは東京女子職業学校を卒業していて毛糸の編み物、針仕事で生計を助けていた。島倉が勉学に必要な書物を上野図書館から借りだし人通りの少ない夜道を往復した。1900年、島倉は判検事試験に合格。司法官試補として若松、徳島などの裁判所勤務。05年、司法省嘱託となってアメリカの訴訟、執行、監獄の制度を視察するため渡米。
1908年、検事として宇都宮、東京控訴院、千葉、浜松勤務。1921年、那覇裁判所検事正。29年、大審院判事。

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1922年1月 島倉龍治ら沖縄史蹟保存会を設立し東宮行啓記念碑など史蹟20余建碑
1923年3月 島倉龍治ら内務省より沖縄神社創立許可を得る
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1923年6月 写真ー左は真境名安興に協力して日本大学に出版させた『沖縄一千年史』/右は島倉龍治
1925年4月 首里城正殿、特別保護建造物に指定され沖縄神社拝殿として保存(復旧費が補助されるに伴い本山荘市沖縄県技師が担当)

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出口王仁三郎聖師『歌日記』
 1928年 出口王仁三郎が来沖。1月2日ー雨は止みたれど風強く本日出帆すべき基隆丸朝の内入港せず。午前10時、自動車二台にて首里に行く。簡単んる塩田を左右に見ながら盆景式の纏まりたる小丘を廻り、首里城跡を見る。(略)棟の大龍神は台湾式よりも偉大にて、正面、左右にも奇形なる龍神の石柱を建てたり。→聖師様琉球大島御旅行記 出口王仁三郎「龍神の顎の玉の初日の出 球の島根に拝みけるかな」

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1928年2月 首里城正殿修理工事着手(主任・本山荘市沖縄県建築技師)

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沖縄神社神殿/沖縄神社拝殿、賽銭箱、両脇に灯籠、しめ縄が飾られている。

1937年5月 仲吉朝睦『観光沖縄案内』向春商会印刷部

目次
第1 概要ー1、位地区域 2、面積、区画、人口 3、地勢 4、地質と土壌 5、気候と生物
第2 交通・通信・其他ー1、水上交通 2、陸上交通 3、航空交通 4、郵便電信 5、電話及ラヂオ 6、衛生 7、飲料水 8、電力
第3 自然物」と産業其他ー1、植物 2、動物 3、産業ーイ農業及畜産養蚕、ロ林業、ハ水産業 ニ鉱業 ホ工業 4、商業  5、移植民と開洋会館 6、沖縄畧史 7、沖縄古来の名人 8、県下の言論機関 9、軍隊及軍衛 10、官公衛 11、会社 12、教育及図書館 
第4 名勝・旧蹟ー1、那覇市 2、首里市 3、中頭郡 4、島尻郡 5、国頭郡 6、宮古郡 7、八重山郡第5 慣習・其他ー1、独特の綱引 2、空手 3、美術工芸 4、民謡及古典劇並土俗
第6 旅館・料理屋・演劇場・歓楽場ー1、旅館(那覇市) 2、料理屋(那覇市) 3、演劇場 4、歓楽場


1937年9月 『沖縄県人事録』沖縄朝日新聞社
沖縄神社社司(もと府県社および郷社の神職の長。祠官の後身。1946年(昭和21)宮司となった。)・仲吉朝睦

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Posted by: ryubun02
 2020年7月『琉球』№77  琉球館〒903-0801 那覇市首里末吉町1-154-102 ☎098-943-6945/FAX098-943-6947
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高良沙哉「沖縄を舞台に進む日本の軍事化ー宮古島市・石垣市の自衛隊配備・強化を中心に」/しもじけいこ「宮古IN 戦後75年も経つのに・・・・・・」/与那嶺功「沖縄振興ー『明治維新150年』を問う 大東亜・植民政策・ナショナリズム⑰
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河合民子「蒼き狼、琉球へ行く⑤」

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『現代の理論2021秋号』54号 認定NPO現代の理論・社会フォーラム 〒101-0051千代田区神田神保町3-11望月ビル3F 河合民子「レキオからの便り⑲スンカン」

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 大濱 聡 7-14 ■森口 豁氏(ジャーナリスト)の今日のfacebookに「過去の思い出をシェアしました」として、2年前の今日の私の投稿がシェアされていました。西表島を旅した懐かしい記録でした。当初、4泊5日の予定で石垣島~鳩間島~西表島をのんびり旅をするつもりが、台風の接近で鳩間島を1日早く切り上げ、慌ただしく西表島に渡り、氏が会いたがっておられたお二人の方を訪ねたのでした(結果的に3泊4日)。■森口氏は千葉に戻られてから血液がんが判明。治療に専念された結果「完全奏功」、何度か来沖されて関係者で祝盃をあげたものです。■今日の投稿で〈「完全奏功」の喜びから9ヶ月。今また、病に伏す。病窓から見えるのは「去年と同じ風景」……。〉との報告に驚きましたが、きっとまた不屈の力で治癒されるものと信じております。また元気になられて、沖縄で皆で宴席を囲むことができることを祈念しています。

 「くろねこの短語」2020年7月14日ー(前略)感染者が日々増加する中で、なぜ観光キャンペーンなのか。そもそもの疑問はそこにある。おそらく利権だよな、って思ってたら、やっぱりです。なんと、「全国旅行業協会」の会長は、土建政治の二階君なんだってね。そっか、「Go To キャンペーン」は自民党幹事長の利権で、濡れ手で粟の1.7兆円ってことか。そりゃあどんなに批判されても、「Go To キャンペーン」延期しない、ていうかできないわけだ。分かりやすいって言えばそれまでだが、どいつもこいつも見かけだけでなく心根もとことん薄汚い野郎どもだ、クソッ!!/海鳴りの島から7-14 沖縄・ヤンバルより…目取真俊 在沖米軍基地での新型コロナウイルスの感染者が100人に達している。若い米兵の中には、症状が出ないまま基地の外に出ている者もいるだろう。米軍が感染情報を隠すのは、軍事上の問題だけでなく、地域住民に感染を広げたときの責任追及を免れるためでもあるのではないか。こんな米軍のために新しい基地を造ってやる必要などない。全基地封鎖、撤去の運動を進め、実際にその運動が米軍にとって脅威とならなければ、彼らは対応を変えはしない。

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大濱 聡 7-13■沖縄の米軍関係者の新型コロナウイルス感染のその後を知りたいと思ったものの、本日は新聞休刊日。■昨日の投稿に対して皆さんから思わぬ反響をいただいたので、フォローの意味で第二弾としてご紹介します。TVではTBS「あさチャン!」が約5分30秒、フジ「とくダネ!」が約5分40秒の時間を割いて伝えていました。きのうから32人増えて98人になったという最新の数を伝えたNHK「ニュース7」はわずか22秒。 ※私が確認できた範囲内です。■「とくダネ!」にコメンテーターとして出演している立岩陽一郎氏(ジャーナリスト)は沖縄勤務時代の後輩。新人の頃から今日を予感させる優秀な記者でした。その後の活躍ぶりに元同僚諸氏とともに喜んでいます。

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大濱 聡 7-12■沖縄の米軍関係者、新型コロナ感染者66人に(NHK「ニュース7」)。11日の第一報では米軍の方針が非公表のため、玉城知事の発表は「数十人」という表現だった。米軍関係者は民間空港を通らず米本国と直接往来でき、地位協定により検疫も不要。7.4の米独立記念日に基地外の公園で無許可のイベントを開催、数百人が密集参加。情報開示も米軍の胸三寸。感染者の隔離は基地内ではなく基地外のホテル利用。■沖縄で今、大きな問題になっているのに全国的には扱いが小さい。今朝のテレ朝「サンデーLIVE!!」TBS「サンデーモーニング」とも第一報の「数十人」のまま。最新の取材もしないとは「LIVE」のタイトル、生放送の看板が泣く。さすがに後者はコメンテーターの松原氏が「空港の検疫なしで直接来ちゃう」「情報公開も十分でない」「沖縄だけの問題ではない」と問題点を指摘していたが。■NHKは「働き方改革」の影響で土日のローカルニュースがなくなったので地元局の続報はなし。福岡発のニュース(九州沖縄)は朝、昼とも扱わず、645ニュースで66人という最新の数を報じたが、わずか20秒。「ニュース7」は同じ原稿で17秒。やはりコロナ問題は、菅官房長官が言っていた「圧倒的に東京問題」なのか。/M・H 7-13 7月4日の独立記念日に、国際通りを歩いたのですが、マスク無しの外人があふれていました。95人は明らかにクラスターです。

 高山義浩 7-11 (前略)上記に該当しない方々は、感染予防を心掛けつつも、これまで通りに生活していただければと思います。いまは地域的流行にまでは発展していないので、外出を自粛したり、お店を閉めたりする必要はありません。県民全体への外出自粛を求める必要が出てくるとすれば・・・、おそらく来週あたりだと思います。それまでに封じ込められるか、行政と臨床が協調して頑張っています。その協調に米軍当局が加わってくれることを、心から期待しています。

tenki.jp7-9 午前6時5分頃、茨城県南部を震源とするマグニチュード4.7の地震が発生し、茨城県、栃木県、群馬県、埼玉県で最大震度4を観測しました。この地震による津波の心配はありません。

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 大濱 聡 7-8■今回の集中豪雨によって被害にあわれた皆様に心よりお見舞いを申し上げます。■40年余の勤務のなかで2度、水害現場に急行して取材したことを思い出した。1度目は名古屋時代の1976(昭和51)年の「長良川9.12豪雨災害(安八豪雨)」。台風の接近に伴う集中豪雨で長良川が決壊、安八町や墨俣町(藤吉郎の「墨俣一夜城」で知られる。現大垣市)などが水没。「岐阜県史上最悪の水害」といわれた。急遽、名古屋から現場に向かい、生中継や水没した町内をボートで移動しながら取材に当たった。■2度目は東京時代の1981(昭和56)年。8月22日から台風の影響で強い雨が降り続け、24日に利根川水系の小貝川(茨城県龍ケ崎市)が決壊、多くの浸水被害が発生した。■当時に比べて、このところの集中豪雨は気候変動の影響もあるのか、想像を絶する甚大な被害をもたらしているように思われる。

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 Osprey Fuan Club 7-11 コロナ感染者が続出しても、基地外活動 → マスクなしの老人ホームボランティアや英会話クラスに暴力事件、はては BBQ 乱痴気騒ぎ。それで北谷「豪華リゾートホテル隔離措置」で、情報は非公開 ~ 在沖米軍のクズ過ぎる現実

 【琉球新報】7-11 沖縄県内の米軍基地で11日までに60人超が新型コロナウイルスに感染したことが確認された。複数の関係者が明らかにした。うち38人は普天間飛行場で確認されているという。基地内で「クラスター(集団感染)」が発生しているとみられる。6月と7月に県内中部で大規模なバーべーキューパーティーが開かれ、米軍関係者や日本人も参加していた。イベントに参加していた米軍関係者らは隔離されているとの情報もある。

 海鳴りの島から7-10 沖縄・ヤンバルより…目取真俊 午後6時半過ぎまで、埋め立て土砂の投入が行われるー新型コロナウイルスの全国的な感染拡大が止まらない。安倍政権の無為無策ぶりが際立つ。経済活動を優先するため、都合のいい解釈を並べ立て、現実から目をそむけている。沖縄では米軍関係者の感染が続出しているが、基本的な情報すら公開しない。日本政府、沖縄県はどこまで馬鹿にされているのだろうか。しょせん、悪しき隣人でしかない米軍のために、莫大な予算を使って新しい基地を造ってやろうとする。ほんとにバカバカしい。米軍関係者から県民に感染が広がった場合、誰がどう責任を取るのか。

 S·A7-10 2兆4800億円 凄まじい金額である。国防はいわば保険だが、それには怒涛のごとく税金投入。実際に起きている新型コロナ対策には及び腰。災害被災者は段ボールで暮している。アメリカ 日本へ戦闘機105機の売却決定 2兆4800億円 | NHKニュース/安倍政権は今正気だろうか。東京は感染判明者数がこれまでの最高を記録し首都圏3県も軒並み増加。全国の感染者数は400人を超え緊急事態宣言時よりも酷い。なのに対策なし。その上「サー旅行に行き遊びましょう」という安倍政権。狂ってるとしか言いようがない! 早急にやめさせぬと我々の命が危ない。
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 Sumiyo Heianna 7月10日 【基地の外にコロナを出すな】在沖米海兵隊は9日、複数のコロナ感染者が出たことを明らかにしました。今後はこうした情報は報道向けには公表せず、情報の非公表を前提に沖縄県には伝えるそうです。県は情報がもらえなくなる可能性を考慮してこれを了承したとのこと。これって、おかしくないですか?また米軍は、米兵の隔離措置用に、基地の外にある北谷町の民間ホテルを借り上げています。なぜ基地の外に必要なのか?という理由を米軍側は明らかにしていません。米国内の7月8日のコロナ新規感染者数は5万9453人。死者数は948人。これって1日の数字です。データは米国のコロナ対策の失敗を明示しています。県民の生活の場は、米軍の安全を守るためのものではありません。県は米軍と歩調をあわせるのではなく、毅然とした態度で「基地の外にコロナを出すな」と言っていただきたいと思います。

 T・M7-10豪雨災害のお見舞いを申し上げます。沖縄の米軍基地内での コロナ感染が確認されています。そのうえ、米軍は民間ホテルを乖離上げて対応するとのことですが地元の県市町村には何の情報も公表もしないでいます。これが軍事優先というもの、日本外務省は米軍の言いなりのまま一体の名のために外務省沖縄大使なのでしょうか

 「琉球新報」7-9 沖縄県金武町、宜野座村、恩納村、名護市にまたがる米軍キャンプ・ハンセンのゲート(門)が8日夜から9日午前9時半ごろまで閉鎖されていたことが分かった。基地関係者が新型コロナウイルスに感染したという情報もある。感染が判明した場合には、施設別では米軍普天閒飛行場、うるま市のキャンプ・マクトリアス、嘉手納基地に次いで4施設目となる。全駐労によると、8日夜に米軍からゲートを閉めるという知らせがあったが理由は知らされていない。9日朝に出勤しようとした従業員たちは基地内に入れず、自宅に戻って待機していたという。7日に普天間飛行場で軍属ら5人の感染が確認された際にも同飛行場で基地従業員らの出入りが制限された。在沖米軍施設ではこれまでに計9人の感染が確認されている。/「沖縄タイムス」7-9 県が北谷町に情報提供したことで明らかになった。北谷町は民間施設で隔離していることを問題視。野国昌春町長は8日、外務省沖縄事務所を訪れ、米軍施設内での隔離を求めて抗議した。米国はこれまで新型コロナ感染者が累計300万人以上おり、死者も13万人超でいずれも世界最多。日本法務省は「出入国管理および難民認定法」で米国からの入国を「特段の事情が無い限り、上陸を拒否する」としている。
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 U・M7-8????普天間基地✈️従業員もクラスター感染している可能性もあるそうです????7月4日の独立記念日????????軍属に混ざって従業員&家族????️もパーティーが行われていたそうです????


 大濱 聡 7-7■コロナ禍、イージス・アショア問題、豪雨災害、その他諸々――問題山積、この大事な時期にいろいろ追及されるのが嫌で早々と国会を閉じてしまった、というのが専らの噂のようです。■著名なジャーナリストの田崎史郎氏のコメントは確認できていませんが、TVのコメンテーターの皆さんは「今すぐにでも国会を開いて、大事な問題を審議すべきだ」という声が大半のようです。それが当然でしょう。緊急事態にいかに素早く対処すべきか。それこそが国会の「先生」方の最優先の仕事でしょうに。■国会を閉じて仕事を休んでも夏のボーナスはきちんと支給され、しかも逮捕された夫妻にも満額支給!
コロナ禍や豪雨の被害にあって立ち行かなくなった人々からの怨嗟の声が聞こえるようです。



 「くろねこの短語」2020年7月7日 九州の大豪雨が心配な火曜の朝である。
 それはさておき、東京のコロナ感染者数が連日の100人超えの中、これまでの専門家会議に代わるコロナウイルス感染症対策分科会の初会合が開かれた。さぞや厳しい意見が飛び交うものと思ってたら、なんとイベント参加人数の上限を一段階緩和することで意見がまとまりましたとさ。具体的には、「コンサートやプロスポーツなどの屋内の催し物は、定員の50%の範囲内であれば10日から5千人までの入場を認める」ってんだが、本当に大丈夫なのかねえ。経済活動最優先というペテン政権の意向を十分に忖度したうえでのことなんじゃないのか。
 この分科会には、医療の専門家以外にも、弁護士や民間のシンクタンク主幹だとかが参加しているんだね。なかには、読売新聞の取締役の名前もあったりして、コロナとどう関わりがあるのか見当もつかない。ようするに、コロナ対策とは名ばかりで、経済活動を再開するための理由づけのための分科会ってことなんだね。

 (CNN)7-5  トランプ米大統領は米独立記念日の4日を前に、歴代大統領の顔が刻まれたサウスダコタ州のラシュモア山で演説し、黒人差別への抗議運動を米国の文化や伝統に対する脅威だと非難した。トランプ氏は3日夜の演説で、抗議デモは左翼勢力が「わが国の歴史を消滅させ、英雄の名誉を傷付け、我々の価値観を打ち消し、子どもたちを洗脳しようとする情け容赦のない運動」だと非難した。


 大濱 聡 7-5■熊本豪雨――TVが伝える被災地の様子を家人と見ながら我が身に置きかえてみましたが、とても想像できませんでした。あまりにも絶望的で悲しすぎます。■毎年のように繰り返される豪雨災害。「平成29年九州北部豪雨」「西日本豪雨(平成30年7月豪雨)」もちょうど同じ時期のことでした。来年、オリンピックの前に同じような災害に見舞われないとも限りません。しかも、日本全国どこでも発生する可能性があります。オリンピックどころではありません。■豪雨、地震災害の発生が予測されているのに、どうして防災政策は進まないのでしょうか。国の防衛も大事でしょうが、まずは国土、国民の生命の防衛(防災)が優先されるべきでは?国全体のムダな経費を見直し、優先されるべきことにまわすべし!■熊本、鹿児島では再び大雨のおそれもあるようです。これ以上被害が広がらないように、そしてくれぐれもご安全に、と祈っております。

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Posted by: ryubun02
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沖縄新聞・機関紙相関図

 2011年2月7日昼前、沖縄県立図書館で垣花稔さんに出会った。那覇と題する映画フィルムを見せてもらった。映像資料は沖縄県公文書館が熱心に収集しているので垣花さんと同行した。公文書館では小野さん、久部良さんがいた。フィルムは垣花さんが公文書館に寄贈した。そして小野さんから『沖縄毎夕新聞』を見せてもらった。
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 1937年11月ー大宜味朝徳『現代沖縄県人名鑑』海外研究所に宮城清が紹介されている。□泡盛商 神田区淡路町2ノ5(電話神田2357番)、島尻眞和志村與儀の産、明治28年2月14日生、大正3年県立一中を卒業、大正8年沖縄朝日新聞社に入社、主として経済方面を担任5年間勤務す、大正12年同志故瑞慶村智慧氏と計り沖縄経済新聞を創刊す、之れは沖縄県に於いて最も必要なことは沖縄と他府県との経済的関係を明らかにし商取引其他経済上の利害得失を究明し母県の政治上経済上将た社会上あらゆる方面に新生気を注入せんとする信条のもとに企画されたのであったが1年にして廃刊となる。これ沖縄に於ける純経済紙の最初のものであった。後大城彦五郎、伊仲晧の3氏共同にて沖縄毎夕新聞を創刊し社務に従事傍ら県会書記を嘱託さる。大正13年沖縄タイムス社に転す、当時村治刷新自治振興運動にも奔走す、大正14年沖縄救済運動のスタートとして沖縄経済振興会が組織されるや氏は幹事に推され庶務一切を担任して沖縄産業助成運動に参画す、同年末沖縄物産東京斡旋所が設立されるや羽田内務部長の推薦に依り同所最初の東京勤務となり、沖縄物産の東都進出、販路開拓に尽力す、昭和6年9月官を辞し独立して泡盛卸業を開始して今日に至る。(以下略)

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2021年11月 大城辰彦氏、新城栄徳/2019年10月 安仁屋政昭著・大城辰彦監修『反戦平和の源流 近代沖縄の民衆運動』あけぼの出版


1959年3月 『沖縄・小笠原関係団体名簿(抄)』南方同胞援護会



1965年9月 『東京沖縄県人会名簿』東京沖縄県人会(神山政良)

在日沖縄学生会機関紙・誌



1972年5月 堺沖縄県人会『会員名簿録』歴代会長・高良善吉(1914年、本部備瀬)1968年就任/並里良助(1913年大宜味上原)1970年就任/久米武善(1912年那覇高橋)1972年就任
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1972年12月28日 『堺沖縄県人会報』第5号 編集責任者・嘉陽勤/1974年9月8日『堺沖縄県人会報』第9号 編集責任者・嘉陽勤
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1992年7月 嘉陽勤『地獄極楽わかれ道』

1979年12月10日 東京沖縄県人会機関紙『東京沖縄の人』(『おきなわの声』)創刊
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11月10日東京沖縄県人会機関紙『東京・沖縄の人』「画家岡本太郎氏が空手のマネをしながら登場。独特の語り口で『沖縄には人間らしい本当の心や姿があるが、ヤマトの金本位の空気にやがて侵されるのではないか』と身ぶり入りで語った。」



1980年5月『那覇会会員名簿』真栄田三郎(東京都中央区勝どき5ノ4ノ18ノ108)

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1984年ー国会図書館に寄って帰り沖縄協会に行き、吉田嗣延氏に挨拶すると河野忍さんを紹介された。河野さんは部下の隆氏に私を紹介した。隆氏は私の話を聞き機関紙『沖縄』で紹介してくれた。
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1986年1月15日『月刊おきなわの声』第74号□此処に人あり 新城栄徳さんー行動力に富んだウチナンチュであり「沖縄と東京と大阪をせわしく立ち回る、イチムドウヤー人生に埋没する」風変わりな友人の一人であると津野創一氏は結んでいる。

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1987年8月 東京沖縄県人会『三十周年記念誌』由井晶子編、新崎盛敏編集委員長、大城辰彦委員、委員17人「座談会ー三十年を顧みて今後の課題を語るー歴代事務局長」大城辰彦7代目事務局長 



1988年3月 大城辰彦(編集責任者)『創立十周年記念誌(1978年~1988年)』板橋区沖縄県人会(会長 阿波根朝計)

1988年3月 大城辰彦編『写真でつづる松本三益のあゆみ 年譜・著書・論文目録、資料ー』
 
2008年4月『オキナワグラフ』新城栄徳「『オキナワグラフ』50周年に寄せて/創刊者(崎山喜昌)の横顔など」


「沖縄の雑誌略年表」(作成協力・新城栄徳、上原実)
表紙「Cocco」〇本誌『オキナワグラフ』(以下グラフ)は、1958年4月に創刊された。発行人は崎山喜昌、編集人が神村朝堅。創刊者の人物像は余り知られてないが、崎山は名護に生まれ11歳のときに父を亡くしている。15歳で上京し、神田の中学に入学、チンドン屋、新聞配達のアルバイトをしながら苦労して日大夜間部に入るが、胸膜炎にかかり帰郷する。1928年に沖縄物産販売の目的で再び上京し、鶴見に泡盛卸商を開業する。31年、東京深川に進出。一時、佐久田昌章と沖縄物産商会を経営したこともある。 
 崎山は泡盛で得た資金で37年、那覇西新町に高級旅館「那覇ホテル」を経営する。戦時中、軍命で南洋パラオに渡り、戦後、引揚げ南洋群島引揚沖縄人援護会を組織し理事長となり南洋庁沖縄人関係残務整理事務所の嘱託、南洋群島共助義会理事を経てドイツ製のカマでパン製造の朝日製菓株式会社を創立した。その朝日製菓の住所と電話番号は後に沖縄映画配給株式会社(国場幸太郎会長、宮城嗣吉社長)の東京支社となる。グラフが初期のころ映画や沖縄物産の宣伝に力を入れていた背景には崎山の経歴によるものがある。後に生地跡に「崎山図書館」を寄贈し、名護市立図書館の母体となった。(以下略)
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崎山喜昌


2008年7月 『五十周年記念誌ーおきなわの声を伝えて半世紀』東京沖縄県人会

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2009年10月 「鄕友会・県人会関係資料展展示目録」沖縄県立図書館



東京/2016年11月13日『沖縄タイムス』「東京沖縄県人会60周年記念特集」/2016年11月13日『沖縄タイムス』「戦後初のアナウンサー 川平朝清さん」

在京沖縄県人会機関紙





1987年6月 大阪沖縄県人会連合会40周年記念誌『雄飛 大阪の沖縄』

1997年6月 大阪沖縄県人会連合会50周年記念誌『雄飛 大阪の沖縄』


辺野古新基地NO

2015年4月10日『琉球新報』新崎盛暉「菅氏の欺瞞性を指摘ー(略)沖縄の平和な未来を、『運用年数40年、耐用年数200年』(米国国防総省報告書)の辺野古新基地建設によって閉ざしてはならない。」



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Posted by: ryubun02
 斎藤 陽子(Walnut, California)7-10 日本時間 南カリフォルニアの、木曜日の今日の気温は37℃、湿度は3%ほどとカラカラで、木陰に入ると涼しく感じられるので救われます。また夜間は砂漠特有の気温となり、13℃ほどと凌ぎ良く、寒暖の差が激しいのがロスアンゼルスの一日です。南カリフォルニアに本格的な夏の季節がやって来て、大抵の持ち家では、裏庭にプールを持っている 家が殆どで、我が家の三人の子どもも小中学生までは、夏休みは朝起きると即刻水着を着て、一日中裏庭のプールで過ごすという生活をしていましたした。年寄りふたりっきりの現在では近所隣りのプールサイドから聞こえる子どもの遊び声を聴くと、今では懐かしい過去の思い出になってしまいました。最近の南カリフォルニアの深刻な水不足で、新規の建売家屋はプールを造るのを控えるように、市が奨励している傾向もあります。
 写真はカリフォルニア州立大学農学部に勤めていた頃の30年前に、イスラエル産のリンゴの木を大学の実習場に植えた時に、2本ほど分けて頂いたものです。このイスラエル産のリンゴは気温の暑い、乾燥地の中東地帯で生育し、真夏に収穫できるという南カリフォルニアの気温に適合している極めて特殊な品種で、あと三週間もすると収穫できる夏のリンゴです。秋になるとアメリカでは新鮮なリンゴが出回りますが、アメリカのリンゴ生産量は4,61万トンと、日本の5倍以上を生産し、その生産高は世界第2位です。(1位は中国)アメリカで最もリンゴ生産量の多いのがワシントン州で、この州だけでリンゴ生産量は日本の倍以上だと言われています。
 アメリカでも全米の半分の以上のリンゴをワシントン州で生産しているというリンゴの巨大産地です。30年前から青森産の「ふじリンゴ」を接ぎ木して、今ではふじリンゴも沢山出回っています。ワシントン州のリンゴの生育期は、太平洋からくる雨雲がカスケード山脈に阻まれ雨はすべて山に降ってしまうため、リンゴの生産地となっている内陸地帯にはほとんど雨が降らない状況のワシントン州の全てのりんご園は、コロンビア川の水を潅水にしています。緯度は北海道より高いワシントン州は乾燥と多日照の気象条件が、リンゴの品質にも良い影響があるようです。ほかにニューヨーク州、ミシガン州、カリフォルニア州などもリンゴを生産をしていますが、ワシントン州はその規模で群を抜くアメリカのリンゴの生産本場です。日本ではリンゴその物を果物として皮をむいて食べるか、最近ではりんごジュースもわずかに見かけますが、アメリカ人はリンゴの加工が上手で、代表的なものがアメリカの「おふくろの味の」のアップルパイ、そのほか焼きリンゴ、アップル・ジュースや焼豚肉の添え物用のアップル・ソースやドライ・フルーツとしてアップル・チップスなどが有ります。
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写真は今わが家の裏庭になっている夏に収穫できるイスラエル産のリンゴと、いま庭のハイビスカスが盛んに開花期を迎えています。右の写真はワシントン州のリンゴ生産畑です。


  那覇市歴史博物館 7-7 国宝尚家資料7月の特別展示のお知らせ 特別展示室では、毎月「国宝 琉球国王尚家関係資料」の美術工芸資料および文書資料とともに、王国時代の美術工芸品をご紹介しています。7月は尚家資料と福地家資料の染織品から、涼やかな水色地の紅型衣裳をご紹介します。また「琉球漆器の様々な技法」と題して、尚家資料や伊江家資料他の王国時代の琉球漆器から堆錦(ついきん)、螺鈿(らでん)、沈金(ちんきん)、箔絵(はくえ)の技法をご紹介します。文書資料は6月に引き続き、尚家関係資料から尚育王(しょういくおう)の元服・即位・冊封(さくほう)に関する文書6点をご紹介します。王国時代の精緻な工芸技術と、貴重な記録類をぜひご覧ください。


 大濱 聡7-6■7.4付地元二紙に掲載された記事――昨年11/2-3に首里城正殿前で行われる予定だった組踊上演300周年記念事業『首里城公演・式典「琉球舞踊と組踊」』は、本番2日前の10/31に起きた首里城火災によって中止になったが、舞台設営に関わった業者7社が焼失した機材3500万円の補償を元請けの広告代理店に求めたが応じてもらえず、窮状を訴えているというもの。■音響、照明機器などが焼失、どこからの補償もないというのは大変深刻な問題だが、私にはもうひとつの関心事があった。中止になった公演は今年2/15に実施された。それを収録したNHK「沖縄の歌と踊り」(4.24放送)を見たが、貧相な舞台設営に唖然とした。通常なら鮮やかな背景幕を使うが(国立劇場おきなわ公演参照)、TVの画面合成で使うクロマキーを思わせる青一色の背景のみ。経費の関係か、元請けや発注元の実行委員会(事務局・沖縄県文化観光スポーツ部)もそれでよしとしたのか、ノーチェックだったのか。経費は適切に使われたのか。■公演には組踊の第一人者の皆さんが出演、熱演していただけに、見ていて気の毒だった。当事者の見解を聞いてみたいものだ。

 斎藤 陽子 (Walnut, California)7-5 日本時間 (略)最近は日本の家屋の屋根にも太陽光発電のパネルを乗せた家を見かけるようになりましたが、太陽光線が1年の内9ヵ月は保証されている南カリフォルニアでは20年前頃から、個人住宅の屋根の太陽光パネルが敷設するようになり、現在はその売込みも多くの業者が盛んに行っています。カリフォルニアは真冬でも太陽光線の強い州で、そのお陰で四季を通して、野外撮影ができる地として、ハリウットの映画産業が栄えた処です。太陽光線の豊かなカリフォルニアでは、2020年からの新築家屋には、太陽光パネル設置が義務付けられています。すでに40年前から風力発電に着手しているカリフォルニア州ですが、このところ風力発電や太陽光発電などの自然エネルギーの開発に力が入った結果が伺えるのが、ロスアンゼルスから東に190キロの保養避寒地のパームスプリング(Palm Springs)の風力利用の発電です。
 パームスプリングの街中に入る手前の砂漠地帯には、見渡す限りの沢山の風力発電機の発電群ウィンド・ファーム(Wind Farm)を見ることができます。高さ60m~100mの風車ウィンド・ミル(Wind Mill)の一基あたりの設備容量は、約160KWの電気を作ると言われています。この風力発電がこの地帯に敷設され始めたのは既に40年ほど前からで、最初はポツリポツと建っていたのが、最近では3万基近くなり、その風車の林立風景はカメラに収まりきれない広さで壮観です。最近ではドイツ製、デンマーク製や日本の三菱重工製など競い合っているといいます。この写真はほんの一部ですが、プロペラの林が地平線の彼方まで埋め尽くされていて、全体の写真が撮れないのが残念です。なぜこの地に風力発電が盛んになったかというと、この地帯は広大な砂漠地帯で、年中砂漠の気温が上がり上昇気流が発生し、この上昇する気流が太平洋側からの風を引き込み風洞を作るため、風力発電に好条件を満たすと言われています。

 加えて、原子力発電離れもある昨今、オバマ前大統領は大統領時代に太陽光発電や風力発電を奨励しています。この風力発電の周りは砂漠地帯で、敷地的にはまだまだプロペラ建設用地に余裕がりますので、今後もここが拡大されるように思われます。またロスアンゼルスからラスベガスへ向ってドライブした人なら見たことが有ると思いますが、カリフォルニア州とネバダ州の州境前のカリフォルニア側のモハべ砂漠に、写真のような1982年から作られたタワー式太陽熱発電( Solar Power Tower)の大きな施設があります。この発電所が作られた初期の頃は、規模も小さいものでしたが、1995年頃から自然エネルギーが見直されて以来、年々この発電所は拡張され、最近の力の入れようは目覚しいものがあり、その規模は年々大きくなっています。このタワー式太陽光発電は、数メートル四方の鏡を数百枚から数千枚敷き詰めて、集められた太陽光を一箇所の集光器タワーに集めることで、1000度ほどの熱を確保することが可能とのことです。
 一年中無料の太陽が燦々と豊かにある砂漠地帯では、ぴったりのプロジェクトですが、ただ、このシステムが優秀と喜んでおれない問題も派生していると、昨日のカー・ラジオからの放送です。問題は周りを飛ぶ鳥が、この集光器タワー目がけて飛んできて、一日に相当数の野鳥の犠牲が見られ、自然保護団体が騒いでいるようです。発電所側も何らかの対策を立てなければとの課題を抱え、お役所もこれから太陽光発電の許可には慎重に立ち向かうと言っています。太陽光パネルや太陽光発電などは有り余る太陽光線と、台風や竜巻なども無いカリフォルニアには、最適な再生エネルギーかと思います。アメリカ全土の中でも、南カリフォルニアは有り余る太陽光線とハリケーンなども無く、再生可能エネルギー(太陽光線 風力など)政策は一応成功しているとと言えます。

  「くろねこの短語」2020年7月4日ーコロナ感染者が日々増加する中、GPIF(年金積立金管理運用独立行政法人)が、1~3月期だけで17.7兆円もの年金を株ですっちまったてね。2019年度の1年間でも8兆円の年金が水の泡となりましたとさ。休業補償するのが嫌で営業自粛を躊躇しているのが、いかにマンガかってことなんだね。(略)
 連日100人超の感染者が出ている東京なんか、これで「夜の街」に休業要請なんかしてみてごらんなさい。ただでさえ多くの飲食店は土俵際に立っているんだから、いま語るのは「増税」より「補償」「支援」だろう。そんな折も折、国会閉じたままで他人事のように平然としている初老の小学生・ペテン総理なんだが、昨夜はJR東海名誉会長の葛西敬之と赤坂の料亭で会食。官邸のアイヒマン・北村国家安全保障局長が同席したそうだ。おそらく、静岡県の反抗にあって開業延期せざるを得なくなったリニアについて、何らかの悪巧みしたんだろうね。こいつらにとっては、コロナなんかどうでもいいってことなのだろう。コロナ禍をほったらかして、お友達と赤坂の料亭で酒池肉林するような虚けがトップに居座っていることを許しているようじゃ、この国はもうダメかもわからんね。

   
 Y・A 7-4 あきさみよ〜コロナ大丈夫かな〜外人さん達がバーベキューしてますよ、40〜50人ぐらいで賑わってますが。州崎公園駐車場も満席ですが。独立記念日かなー。
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Y・A 7-6 外人さんバーベキューセット放置かな~


 斎藤 陽子 (Walnut, California) 明日7月4日(土)はアメリカの独立記念日で、三日間の連休です。独立記念日(Independence Day)は1776年にアメリカ独立宣言が公布されたことを記念して、毎年7月4日に定められているアメリカ合衆国の祝日公休日です。アメリカでは独立記念日を(インディペンデンス・デイ)と呼ばれるのが一般的ですが、単に「7月4日」("Fourth of July")という呼び名で言うことも多いです。
 アメリカの建国は1776年に独立宣言し、 今年で建国244年になりますが、数字を見るとほんとに若い国で、日本ではアメリカ建国の頃は江戸時代で、老中 田沼意次や松定忠信が政権争いをしたり、間宮林蔵が樺太を調査していた時代です。アメリカは多くの国からの移民の集まりで「人種のルツボ」とはこういう国を言うのでしょう。この国に53年住んで思うことは、肌の色も文化も宗教も言語も違う人々を、この国はよくも束ねていると感心することがあります。
日本でよく感じる曖昧(アイマイ)さや玉虫色が無く、このアメリカはきっちりと規則や法律で線引きされていていることが顕著で、この辺が多様な人種のこの国を統括している、鍵のような気がします。
 日本でも最近は外国からの就労者が多くなりましたが、日本人に通じる、今まで通りの曖昧さや玉虫色の政策から、きっちりとした規則の見直しも必要な時期に来ているように思います。またアメリカの外国人への語学教育には歴史が有り、外国人のための語学教育方法、そのシステムやテクニック方法など、日本のこれからの外国人のための日本語教育方法の一助として、学ぶところも大きいかと思います。各人種が融合しあい「人種のルツボ」の割には、民主的にうまくまとめた社会を作り上げていると、遂い最近までは少々感心しておりましたが、トランプが大統領になって、アメリカ社会の雰囲気が、なんやらギスギスして心地よいものではなくなりました。特に今年はネソタ州ミネアポリスで、白人の警官に拘束された黒人が死亡した事件をめぐり、黒人への人種差別の抗議デモが、全米主要都市に広がるという状況下での、独立記念日は微妙なものが有ります。
 独立記念日の連休は、通常ですと各地でパレード、カーニバル、バーベキュー、ピクニック、野球などのイベントが開かれ、夏休み中とあって遠出をする車で、高速道路の混み方は尋常ではありませんが、カリフォルニアの今年の7月4日は新型コロナウィルスのため、10人以上の集会禁止やビーチ、公園は閉鎖されており、例年と違う独立記念日です。また独立記念日の名物が各地で恒例の「打ち上げ花火」が行われ、1777年以来のアメリカの伝統行事のようですが、わが街で催される恒例の花火大会も、今年は中止の様です。
 日本の夏は夏中どこでも花火を売っていますが、アメリカでは日頃は全州どこでも花火の販売は一切禁止されていて、花火を売っているのは7月4日のみで、これを違反すると州によって異なりますが、カリフォルニアでは6ヶ月の禁固刑、1000ドルの罰金と厳しい刑が科せられています。普段花火で遊ぶことも厳しく禁止されていている、アメリアの子どもたちには、唯一花火を楽しむことができるのが、7月4日の独立記念日のみなのです。写真のように7月4日だけの即席店で、このような販売店はボーイスカウトや婦人団体など公共団体が市に許可を受けて、団体運営の資金捻出のために花火発売店を出しますが、これもコロナ禍でどこも出店が無い様いです。

写真は7月4日独立記念日1日限りの、例年の暫定的な花火売り場です。わが街ウォールナッツ市は花火禁止の警告文もあります。

 「沖縄タイムス」7-2 沖縄の米海兵隊員の家族1人が新型コロナ感染 米国旅行から戻った後に 基地外との接触なし〇海鳴りの島からー東京で新型コロナウイルスの感染者が107人出たとニュースになっているが、沖縄では米海兵隊の家族から1人の感染者が出ている。海外からの旅行者が制限されているといっても、米軍関係者は別だ。世界最大の感染国から米兵やその家族が出入りしても、日本政府は管理できない。


 大濱 聡7-1■瀬長亀次郎の資料館「不屈館」(那覇市)がクラウドファンディング――NHK沖縄が本日の18:10-「おきなわHOTeye 」20:45-「ニュース845沖縄」で二度放送していました。新型コロナの影響で来館者が激減、厳しい運営状況にあるため、先月クラウドファンディング(朝日新聞社サイトA-port)を起ち上げたということです。10月19日23:59まで、目標金額500万円。■私は「不屈館」友の会会員ですが、それと関係なく、「瀬長亀次郎と民衆資料」と銘打っているように、カメジローの時代の沖縄戦後史が学べる貴重な資料がつまった資料館です。ご協力をお願いいたします。※( )内は投稿者補足

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