1980年5月15日『朝日新聞』(大阪版)「西平守晴ー琉歌でつづる沖縄戦後史」

1997年6月 大阪沖縄県人会連合会50周年記念誌『雄飛ー大阪の沖縄』西平守晴「就学前教育関係」「沖縄関係資料室」



1999年3月 『沖縄人国記』琉球新報
□歴史を確認する目ー戦後の大阪で、沖縄関係資料を買い集めて私設の「沖縄関係資料室」を開設した西平守晴(77)。沖縄返還運動が高揚した時期に学生やマスコミ関係者がよく利用した。西平は師範学校を卒業して海軍に入隊し、シンガポールで2年の捕虜生活を送っている。敗戦2年後の1947年6月、東京復員局の依頼で、沖縄出身戦死者の遺骨を携えて泡瀬に上陸。そのとき、かつて学んだ師範学校や首里城周辺の文化財が壊滅しているのを目の当たりにした。「この惨状を本土の人は知らない」。大阪に帰って、梅田の古本屋で見つけた「琉球建築」( 田邉泰、 巌谷不二雄著)を手にして以来、古本あさりが始まった。500冊ほど集め、1955(昭和30)年、都島区の自宅に「沖縄関係資料室」の看板を掲げて一般公開した。作家・司馬遼太郎が「街道を行く」執筆の資料を求めて訪ねてきたこともあった。資料室は現在も続いており、当初からの新聞切り抜きも200冊になっている。

□料理人の気概もてー明治以来の沖縄関係資料を収集している新城栄徳(49)。やはり父が料理人だった。自らも調理師の仕事の傍ら資料探しにのめり込んで、個人誌「琉文手帖」を発行するまでに。きっかけは大阪で「沖縄関係資料室」を主宰する西平守晴との出合いから。大阪市内の図書館で明治以来の本土新聞のマイクロ・フィルムを一本一本回しながら「沖縄」に関連する記事、広告を抜き出している。その手間暇のかかる作業から明治26年に沖縄芝居が本土で初めて公演されたときの記事を探しあて、明治
36年に大阪で開かれた勧業博覧会の「人類館」を報じる記事を発掘し、沖縄で写真館を開業した第一号を特定するなど成果を上げている。






2000年4月『中央公論』加藤秀俊「昭和・平成世相史(6)日本語の敗北」
○昭和初期、日本語を簡略化する必要性が説かれていた。しかし、平成の現在 漢語だらけの専門用語やカタカナ用語が滝のごとく流入し、日本語はますますむずかしくなった/(略)柳田国男の『国語の将来』もまた昭和14年に発表されたものだった。この書物のなかで柳田は「この日本語を以て、言ひたいことは何でも言ひ、書きたいことは何でも書け、しかも我心をはっきりと、少しの曇りも無く且つ感動深く、相手に知らしめ得るやうにすること」が「日本語の愛護」である、とのべた。とくにこの論文のなかで柳田が批判したことがらの第1は、言語が「文章語」本位になってしまったことである。言語生活の基本はどんな時代であろうと「はなしことば」であるはずなのに、現代社会では文字ことばが生活をつよく規制するようになってしまった、とかれは指摘する。
(略)
 このローマ字運動をさらに徹底したのが田中館愛橘である。物理学者の田中館はかねてから日常の文書をローマ字でしるしていたが、60歳で東京帝国大学教授の職を辞して、ローマ字運動に専念しはじめた。余談になるが、東大に「定年」という観念がもちこまれたのは田中館のこの自発的退職が契機になったともいう。かれはのち貴族院議員になるが、議会ではかならずローマ字普及のための演説をおこなった。かれの著作は当然のことながら、ことごとくローマ字。そしてかれはタイプライターを常用していた。
(略)
 日本語の敗北状態はこんにちもかわっていない。軍事的敗北は経済復興によってどうにか現在のようなすがたに変貌をとげたが、日本語は正式の「敗戦」以後半世紀をへた現在、復興どころかますます敗色の濃いものになっている。(略)これまでおおくの先人たちがあれだけ真剣にかんがえ、実行してきた日本語改革の理念はどこかに雲散霧消してしまったのである。それを加速したのは1980年代にはじまる電子工学技術、はっきりいうと日本語ワープロ・ソフトの登場である。



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2000年4月大修館書店『カラーワイド新国語要覧』「志賀直哉」/2005年2月東京書籍『新総合図説国語』「志賀直哉」
 志賀 直哉(しが なおや、1883年〈明治16年〉2月20日 - 1971年〈昭和46年〉10月21日)は、日本の小説家。宮城県石巻生まれ、東京府育ち。明治から昭和にかけて活躍した白樺派を代表する小説家のひとり。「小説の神様」と称せられ多くの日本人作家に影響を与えた。1949年、文化勲章受章。代表作に「暗夜行路」「和解」「小僧の神様」「城の崎にて」など。
1897年(明治30年)頃、直哉は華族女学校の女学生への態度がけしからんという理由で、下級生の滋野清武を有島生馬、松方義輔と一緒に殴ったことがある。これは『人を殴つた話』に書かれた。滋野はのちに学習院を退学し、飛行士になった。〇→宇和川通喩1916年作「飛行家・滋野清武肖像画」
 1915年(大正4年)9月、柳宗悦の勧めで千葉県我孫子の手賀沼の畔に移り住むと、この後1923年(大正12年)まで我孫子に住み、同時期に同地に移住した武者小路実篤やバーナード・リーチと親交を結んだ。
 1914年(大正3年)9月に直哉は京都へ転居する。同年12月、武者小路実篤の従妹である勘解由小路康子と結婚。
 1952年(昭和27年)、古希を迎えた直哉は柳宗悦、濱田庄司と念願のヨーロッパ旅行に出発する。ヴェニスの国際美術祭に参加する梅原龍三郎も合流し、5月31日に羽田空港から出発しローマに到着。イタリア各地の史跡や美術館を巡り19日間滞在。その後、パリ、マドリッド、リスボンと美術鑑賞の旅を続けるが直哉は体調を崩し、ロンドンでは寝たり起きたりの状態になる。北欧とアメリカにも行く予定であったが、帰国する梅原に合わせて飛行機に乗り8月12日帰国した。→ウィキ
 〇1955年11月27日『沖縄タイムス』「芸能祭」
 〇1964年4月 那覇市沖縄配電ホールで「日本民藝協会第18回全国大会」。米軍占領下の沖縄での全国大会。/左から濱田庄司、リーチ、安部榮四郎、大城知善博物館長

『岩手日報』2016年10月26日
 今日は、日本の言語学と国語学の先駆者上田万年(かずとし)の命日。盛岡生まれの金田一京助をはじめ、優れた研究者を多く育てて1937(昭和12)年に世を去った。明治期に「標準語」の普及に尽力した人だ
▼その考え方は、国を挙げた方言廃絶運動につながったと言われる。沖縄の小学校では、方言で話した罰として児童の首に方言札を掛けた。外すためには、新たに違反者を差し出さなければならなかった
▼東北弁は障害の一種と見なされ、矯正を強いられたのもこの頃だ。極端の、さらに上を行く極端は初代文部相の森有礼(あれい)。近代国家を目指すに当たり、国語そのものを英語にしてはどうかと主張した
▼その意図は書き言葉の簡略化とされる。やり玉に挙がったのは漢字。廃止論は幕末に端を発し、長く世論をにぎわせた。二戸市出身の田中舘愛橘がローマ字の普及に努めたのも同じ流れにあるだろう
▼戦後になると「フランス語がいい」という人が現れた。誰あろう「小説の神様」とうたわれる志賀直哉だ。46年に「日本語を捨て世界で一番美しいフランス語を採用せよ」との趣旨を雑誌に寄せた
▼それから70年。「戦後レジームからの脱却」を唱える安倍晋三首相の下、自衛隊に新任務が加わる。「リスクは増えない」と首相。心に響かない物言いは、時として日本語を粗末に扱う政治の悪弊だ。