11/10: 関西/新城栄徳「資料室運動」
2021年1月10日 昨日、パソコンに「内部サーバーエラー」が出て写真がアップできなくなったので、関西の息子(IT&メディア・コンサルティング)に連絡、情報が多く重たくなって遅いので気長に入力するように言われた。一時、写真がアップ出来なくなったら如何しようかと押入を漁ったら紙の「琉文21」、2,3のスクラップ袋が出て来た。ワープロは好きだったが今は生産もしてないそうだ。2008年6月の紙「琉文21」に、先日、『青い海』編集室があった新大阪駅前のチサンマンションに行った。かつては週に2回は通ったところであるがボケたのか3回ウロウロして辿り着いた。マンションのエレベーターでは津野創一さん兄弟、舞踊家の金城康子さん、知念政光氏などと居合わせたことがある。このころ私は『青い海』の一口株主で営業部の名刺を作ってもらい、県人会の宮城会長、民謡の大御所、普久原朝喜さんの所にお邪魔した。宮城さんのところでは丁度県人幹部が集まっていた。幹部のひとりが「こういことは都島の西平さんの所に行くといい」と言われた。普久原さんはエジソンの写真の前で「まず人から信用を得ることが大切」と助言してもらった。この新大阪の編集室で「今度入ってくる子」と永峰真名さんの履歴書を見せられた。
スクラップ袋の一つに「上里賢一・上里和美」があった。今、和美さんとはフェイスブック友になっている。このスクラップ時は出会うことはまず無いなと思った。
「青い海出版社新事務所ー新大阪駅正面前」
1972年5月 青い海出版社『はだか沖縄 ジャンプ・イン<沖縄>青春広場』六月社書房/1975年9月14日「第1回 沖縄青年の祭り」ポスター
1973年8月6日ー『沖縄タイムス』石原英夫「郷土史研究に没頭する新城栄徳さん」記事を書いてくれた沖縄タイムス関西支社の元記者・石原英夫さん(右)と新城栄徳。
「がじゅまるの会」「沖縄県大阪事務所」
「平山敏治郎」「井伊文子」「金城実」「儀間比呂志」
1974年5月ー『琉球の文化』第五号<沖縄戦と終戦直後の生活>
琉球文化社(編集発行人・大城精徳)本社〒那覇市牧志町1-944-6 編集局〒902那覇市安里425丸清ビル2階
関西連絡所ー大阪市東淀川区西中島町5-62青い海出版社内(新城栄徳)
1975年6月 『沖縄国際海洋博覧会公式ガイドブック』財団法人沖縄国際海洋博覧会協会(版画は『儀間比呂志の版画 沖縄』講談社刊より)
1975年9月14日ーパーランクーの音が大阪大正区に鳴り響く
1977年7月『青い海』65号 「大阪で二つの展覧会ー儀間比呂志版画自選展と大城一史・石田亮太郎二人展」「女人登場”世界の泡盛〟めざしてー照屋比呂子さん」
1977年9月『青い海』66号 「女人登場ー花織に想いを込めてー与那嶺貞さん」「沖縄女流美術家協会設立、会長・久場とよ、副会長」・山元文子、事務局長・宮良瑛子」
1977年10月『青い海』67号 「大阪の空にエイサーのリズムが響きわたるー第三回沖縄青年祭り。9月15日、尼埼市。18日、大正区千島グラウンドで山端立昌大阪沖縄連合会副会長挨拶、東京ゆうなの会、愛知沖縄青年会のあいさつ、彫刻家・金城実もあいさつ。見物の人も含めて約150人が参加」「儀間比呂志展、沖縄物産センターで開かる」
1978年6月『青い海』74号 永峰真名「苦悩を乗り越える沖縄青年たちーIさん問題とがじゅまるの会ー」/儀間比呂志、安谷屋長也、金城順亮、浦添正光、島袋純子「<座談会>地域に根ざした児童文化を」
1978年10月『青い海』77号 「那覇市八汐荘ホール 賑わった出版祝賀会”鳥類館〟儀間比呂志『七がつ」エイサー』『りゅうとにわとり』、新川明『新南島風土記』、川満信一『沖縄・根からの問い』3氏を展示して大騒ぎ。豊川善一、北島角子、高江洲義寛、幸喜良秀、海勢頭豊、南条喜久子、森田吉子、玉城秀子、嶋袋浩(福木詮)ら参加」「パーランク高らかにー第四回沖縄青少年の祭り」
1973年12月 福木詮『沖縄のあしあと 1968-72年』岩波書店□あとがきー(前略)表紙・函に掲げた版画は、儀間比呂志氏が版画風土記『沖縄』に発表された作品であるが、同氏は快く掲載を許されたばかりでなく、とくに本書のために原画に筆を加えられた。心からお礼を申し上げたい。
1978年10月1日ーエイサー会場で走りまわるフトシ君とコウ君
1978年11月『青い海』78号 儀間比呂志「沖縄の子・大和の子たちへー絵本で伝えたい沖縄のこころー」/永峰真名「メヒカーノスになった沖縄人」
1979年5月『青い海』83号 「帰郷中の版画家・儀間比呂志氏の呼びかけで、4月の末に宮城美能留氏の宮城舞踊研究所(那覇・松尾)で、琉舞を鑑賞し、懇談する集いが開かれました」
1979年11月『青い海』88号 儀間比呂志「戦がやってきた」(沖縄三越ー沖縄戦版画集出版記念展)
1980年4月『青い海』92号 「新鮮なイメージ再びー儀間比呂志版画小品展ー3月27日から沖縄物産センター」「文化アラカルト/沖縄物産センター開設十周年」
1980年6月『青い海』94号 「沖縄問題研究センター(上江洲久理事長)設立総会/宮本憲一大阪市大教授が記念特別公演『基地がある限り、自治はない』と語り、財政学の立場から、沖縄の現状を分析し
玉城利則は関西でのエイサーやウチナー芸能には欠かせない人物である。
1974年7月 沖縄の雑誌『青い海』35号 玉城利則「誇れる沖縄文化の明日に向けて」
1975年9月ー関西沖縄青少年の集いがじゅまるの会『がじゅまる』
創刊号□玉城利則「第1回沖縄青年の祭りにあたって」
1976年2月ー関西沖縄青少年の集いがじゅまるの会『がじゅまる』第2号□「玉城利則会長あいさつ」、3月『青い海』51号□玉城利則「沖縄の舟・サバニ考ーとくに語源とデザインをめぐって」
1977年9月ー関西沖縄青少年の集いガジュマルの会『ガジュマル』第4号□玉城利則「『祭り』は団結への確かな道」
1978年6月ー『青い海』74号□長峰眞名「苦悩を乗り越える沖縄青年たちーIさん問題とがじゅまるの会」
1980年2月ー関西沖縄青少年の集いガジュマルの会『ガジュマル』第5号□玉城利則「古きがじゅまるたちより若きがじゅまるたちへ」
1981年6月 雑誌『青い海』104号 玉城利則「沖縄姓、ヤマトゥでなぜ変わった」
『ハイサイおきなわ』創刊号(発行人・嘉手川重義、編集人・玉城利則)
1993年11月ー新城栄徳、帰省中の玉城利則から仲間恵子を紹介される。
2000年9月ー大阪人権博物館『ヤマトゥのなかの沖縄』□玉城利則「大阪の生活と泡盛」
2001年1月ー『大獅子』1□玉城利則「手技(ティガンマリ)から作品と表現へ」
2001年3月ー『けーし風』第30号□玉城利則「沖縄からの集団就職ー関西沖縄青少年の集い『がじゅまるの会』の結成」
かつて日外アソシエーツから『書誌索引展望』が発行されていた。同誌には琉大図書館の新城安善さんや、大宅壮一文庫の上江洲儀正さんも書かれていた。雑誌の総目次には人名索引が付いている。『新沖縄文学◎総目次』『「青い海」解題・総目次・執筆者索引』など。わたしは2015年、不二出版の『「おきなわ」解説・総目次』『「月刊文化沖縄」解説・総目次』にかかわった。雑誌は自分の部屋に、これらを備えて図書館に行って内容を確認しコピーすればいい。
索引ー書籍,雑誌,辞典などの著作物における主要な内容,事柄を単一な検索法によって簡便に引き出せるように,一定の方式にしたがい編集したもの。ただし中国語では,内容別に分類した目録を索引と呼び,indexの訳語には〈引得(イントウ)〉をあてている。大きく分ければ,一つの著作物に限ったものと,多数におよぶ同種の著作物を総合したものすなわち〈総合索引〉または〈総索引〉とになる。著作物の巻末に付けられるのが普通であるが,まれには巻頭にあり,また別冊の場合がある。出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版
スクラップ袋の一つに「上里賢一・上里和美」があった。今、和美さんとはフェイスブック友になっている。このスクラップ時は出会うことはまず無いなと思った。
「青い海出版社新事務所ー新大阪駅正面前」
1972年5月 青い海出版社『はだか沖縄 ジャンプ・イン<沖縄>青春広場』六月社書房/1975年9月14日「第1回 沖縄青年の祭り」ポスター
1973年8月6日ー『沖縄タイムス』石原英夫「郷土史研究に没頭する新城栄徳さん」記事を書いてくれた沖縄タイムス関西支社の元記者・石原英夫さん(右)と新城栄徳。
「がじゅまるの会」「沖縄県大阪事務所」
「平山敏治郎」「井伊文子」「金城実」「儀間比呂志」
1974年5月ー『琉球の文化』第五号<沖縄戦と終戦直後の生活>
琉球文化社(編集発行人・大城精徳)本社〒那覇市牧志町1-944-6 編集局〒902那覇市安里425丸清ビル2階
関西連絡所ー大阪市東淀川区西中島町5-62青い海出版社内(新城栄徳)
1975年6月 『沖縄国際海洋博覧会公式ガイドブック』財団法人沖縄国際海洋博覧会協会(版画は『儀間比呂志の版画 沖縄』講談社刊より)
1975年9月14日ーパーランクーの音が大阪大正区に鳴り響く
1977年7月『青い海』65号 「大阪で二つの展覧会ー儀間比呂志版画自選展と大城一史・石田亮太郎二人展」「女人登場”世界の泡盛〟めざしてー照屋比呂子さん」
1977年9月『青い海』66号 「女人登場ー花織に想いを込めてー与那嶺貞さん」「沖縄女流美術家協会設立、会長・久場とよ、副会長」・山元文子、事務局長・宮良瑛子」
1977年10月『青い海』67号 「大阪の空にエイサーのリズムが響きわたるー第三回沖縄青年祭り。9月15日、尼埼市。18日、大正区千島グラウンドで山端立昌大阪沖縄連合会副会長挨拶、東京ゆうなの会、愛知沖縄青年会のあいさつ、彫刻家・金城実もあいさつ。見物の人も含めて約150人が参加」「儀間比呂志展、沖縄物産センターで開かる」
1978年6月『青い海』74号 永峰真名「苦悩を乗り越える沖縄青年たちーIさん問題とがじゅまるの会ー」/儀間比呂志、安谷屋長也、金城順亮、浦添正光、島袋純子「<座談会>地域に根ざした児童文化を」
1978年10月『青い海』77号 「那覇市八汐荘ホール 賑わった出版祝賀会”鳥類館〟儀間比呂志『七がつ」エイサー』『りゅうとにわとり』、新川明『新南島風土記』、川満信一『沖縄・根からの問い』3氏を展示して大騒ぎ。豊川善一、北島角子、高江洲義寛、幸喜良秀、海勢頭豊、南条喜久子、森田吉子、玉城秀子、嶋袋浩(福木詮)ら参加」「パーランク高らかにー第四回沖縄青少年の祭り」
1973年12月 福木詮『沖縄のあしあと 1968-72年』岩波書店□あとがきー(前略)表紙・函に掲げた版画は、儀間比呂志氏が版画風土記『沖縄』に発表された作品であるが、同氏は快く掲載を許されたばかりでなく、とくに本書のために原画に筆を加えられた。心からお礼を申し上げたい。
1978年10月1日ーエイサー会場で走りまわるフトシ君とコウ君
1978年11月『青い海』78号 儀間比呂志「沖縄の子・大和の子たちへー絵本で伝えたい沖縄のこころー」/永峰真名「メヒカーノスになった沖縄人」
1979年5月『青い海』83号 「帰郷中の版画家・儀間比呂志氏の呼びかけで、4月の末に宮城美能留氏の宮城舞踊研究所(那覇・松尾)で、琉舞を鑑賞し、懇談する集いが開かれました」
1979年11月『青い海』88号 儀間比呂志「戦がやってきた」(沖縄三越ー沖縄戦版画集出版記念展)
1980年4月『青い海』92号 「新鮮なイメージ再びー儀間比呂志版画小品展ー3月27日から沖縄物産センター」「文化アラカルト/沖縄物産センター開設十周年」
1980年6月『青い海』94号 「沖縄問題研究センター(上江洲久理事長)設立総会/宮本憲一大阪市大教授が記念特別公演『基地がある限り、自治はない』と語り、財政学の立場から、沖縄の現状を分析し
玉城利則は関西でのエイサーやウチナー芸能には欠かせない人物である。
1974年7月 沖縄の雑誌『青い海』35号 玉城利則「誇れる沖縄文化の明日に向けて」
1975年9月ー関西沖縄青少年の集いがじゅまるの会『がじゅまる』
創刊号□玉城利則「第1回沖縄青年の祭りにあたって」
1976年2月ー関西沖縄青少年の集いがじゅまるの会『がじゅまる』第2号□「玉城利則会長あいさつ」、3月『青い海』51号□玉城利則「沖縄の舟・サバニ考ーとくに語源とデザインをめぐって」
1977年9月ー関西沖縄青少年の集いガジュマルの会『ガジュマル』第4号□玉城利則「『祭り』は団結への確かな道」
1978年6月ー『青い海』74号□長峰眞名「苦悩を乗り越える沖縄青年たちーIさん問題とがじゅまるの会」
1980年2月ー関西沖縄青少年の集いガジュマルの会『ガジュマル』第5号□玉城利則「古きがじゅまるたちより若きがじゅまるたちへ」
1981年6月 雑誌『青い海』104号 玉城利則「沖縄姓、ヤマトゥでなぜ変わった」
『ハイサイおきなわ』創刊号(発行人・嘉手川重義、編集人・玉城利則)
1993年11月ー新城栄徳、帰省中の玉城利則から仲間恵子を紹介される。
2000年9月ー大阪人権博物館『ヤマトゥのなかの沖縄』□玉城利則「大阪の生活と泡盛」
2001年1月ー『大獅子』1□玉城利則「手技(ティガンマリ)から作品と表現へ」
2001年3月ー『けーし風』第30号□玉城利則「沖縄からの集団就職ー関西沖縄青少年の集い『がじゅまるの会』の結成」
かつて日外アソシエーツから『書誌索引展望』が発行されていた。同誌には琉大図書館の新城安善さんや、大宅壮一文庫の上江洲儀正さんも書かれていた。雑誌の総目次には人名索引が付いている。『新沖縄文学◎総目次』『「青い海」解題・総目次・執筆者索引』など。わたしは2015年、不二出版の『「おきなわ」解説・総目次』『「月刊文化沖縄」解説・総目次』にかかわった。雑誌は自分の部屋に、これらを備えて図書館に行って内容を確認しコピーすればいい。
索引ー書籍,雑誌,辞典などの著作物における主要な内容,事柄を単一な検索法によって簡便に引き出せるように,一定の方式にしたがい編集したもの。ただし中国語では,内容別に分類した目録を索引と呼び,indexの訳語には〈引得(イントウ)〉をあてている。大きく分ければ,一つの著作物に限ったものと,多数におよぶ同種の著作物を総合したものすなわち〈総合索引〉または〈総索引〉とになる。著作物の巻末に付けられるのが普通であるが,まれには巻頭にあり,また別冊の場合がある。出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版