伊姓安冨祖家譜ー五世良顕奥川親雲上忠祐第三子・忠則ー長男・忠頼ー長男・忠邦ー長男・忠良ー長男・正方=正懿ー長男・正元ー三男・正憲ー忠恵ー豊川忠進→□1992年5月ー屋部憲次郎『伊姓安冨祖家譜訳注』(那覇市歴史博物館所蔵)


1937年9月 『沖縄県人事録』沖縄朝日新聞社

1939年1月15日ー『大阪球陽新報』豊川忠進「普通語の励行を」

1839年5月1日ー『大阪球陽新報』「新郎新婦ー沖縄県東風平小学校長・安冨祖忠亮氏長男、現広島県向島小学校訓導・安冨祖忠清(28)氏は今回国頭郡名護町生まれ第三高女学校出身の宮城靖子(21)嬢と婚約整い4月30日北区天満宮で華燭の典を挙げたが新夫婦は同日の夜行列車で相携えて廣島に出発した。なお安冨祖氏は豊川弁護士の甥である」

1945年1月14日ー『沖縄新報』死亡広告「靖子儀 永々病気中のところ昨日死去ー夫・安冨祖忠清 男・忠雄 父・忠亮」


1950年11月 仲井間宗裕・伊佐栄二『沖縄と人物』

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1965年ごろ/左から、名嘉正成(大都設備工業代表)、豊川忠進(1928年、関西沖縄県人会長。39年、沖縄生活更新協会大阪後援会会長。45年、関西沖縄人連盟会長)、奥間錫(大阪沖縄県人会連合会5代目会長)、翁長良孝(1946年、沖縄人連盟西淀川支部会長)。撮影・西平守晴

1968年1月『オキナワグラフ』「1967年10月ー豊川忠進、大阪沖縄県人有志から胸像を贈られる」

1989年8月23日ー『琉球新報』西平守晴「士(さむれー)の誇りー豊川忠進氏は明治21年10月3日、沖縄県首里市赤平の名門安冨祖家の二男として生まれたが、廃藩置県後の凋落する厳しい士族の中で育ち、幼少期は豊見城の美しい自然の中で成長した。生来の向学と進取の気質は豊川少年をして沖縄で安閑と過ごすことを許さず、1906年弱冠16歳で単身ハワイへ渡航。苦学力行の末、語学力を完全に修得し、1916年早稲田大学に進み、1922年司法試験の難関を突破し国際的司法人として活躍するのだが、この豊川少年をこうして育て上げた陰に母堂の薫育が大きな影響を与えたもので、常に『さむれーぬ、かどう、とうすな』と口喧しくしつけられたとのことだった。そして16歳の吾が子を未知の国ハワイへ送り出す時、琉歌を書いた紙片『いかに月むらす、あばらやに居てん、肝や十尋家ぬ金ぬ座敷』を手渡されたのが、豊川忠進氏の生涯の座右の銘となり、古風なまでに『士の誇り』を守り通した最後の人だった。」