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1973年9月 『青い海』久志冨佐子「滅びゆく琉球女の手記」(昭和7年)
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1973年11月 『青い海』27号 

 NHK 目撃!にっぽん 筆を折った“幻の女性作家”~沈黙の人生をたどる旅~」8月2日 日曜日 午前6:10~6:44(全国放送)直木賞作家・大島真寿美さんの小説「ツタよ、ツタ」。モデルはデビュー作への激しいバッシングで筆を折り、沈黙を貫いた女性作家・久志芙沙子。孫がその人生をたどる旅へ。昭和初期、沖縄初の女性作家として注目を浴びながら、わずか1作品を発表しただけで筆を折った小説家がいた。久志芙沙子。沖縄の現実をありのままにつづり、同郷の人から激しいバッシングを浴び絶筆。いま、彼女をモデルとした小説が話題となり、再び脚光を浴びている。家族にも過去を語らなかった芙沙子。祖母はなぜ筆を折ったのか。孫が祖母の人生をたどる旅に出た。芙沙子のまっすぐな生き方は私たちに何を問いかけているのか。
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大濱聡
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左から仲村顕さん、宮城晴美さん、宮里(仲村)初枝さん

1971年4月 雑誌『青い海』創刊号 仲村初枝「私の力で生きてみたいー少女にとって本土とは無限の可能性なのだー」/2020年3月27日・沖縄県立博物館・美術館ー左から、朝隈芽生さん、宮里(仲村)初枝さん、豊見山(津野)愛さん


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1974年新年号『青い海』伊波南哲「久志芙沙子さんの思い出」〇さて、われわれは、久志芙沙子を慰め激励するために、明治神宮表参道の尚志会館で会合を持った。南島文化協会主催の金城朝永氏らの主催で、その晩集まった人々は、伊波普猷、東恩納寛惇、比嘉春潮、仲原善忠、仲吉良光、石川正通、八幡一郎、(芙沙子記ー比屋根安定、宮里良栄)、その他30人ほどであった。各人はそれぞれ、作者を激励したのであるが、石川正通氏は例のごとくユーモアで「この石川正通は石川啄木の身内であるが、作家は貧乏、苦悩、不遇はつきもので、それを克服するところに勝利がある。これは啄木が口癖のように言っていた。また真理である。久志芙沙子さんもこれにへこたれずに、チバイミソーリヨー」と駄洒落を飛ばして、会の空気を和らげていた。〇石川正通夫人・澄子(弟に渡嘉敷唯信)は久志(坂野)芙沙子の1年先輩。1987年6月発行の『ひめゆり一女師・一高女沿革誌』に澄子は「修学旅行の思い出」を書き、その傍には芙沙子の「追憶」が載っている。

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〇大部前の話です。これも再従兄の琉大にいた今は亡き翁長俊郎が、私宅へ寄ってSさんの話をされた。
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1974年6月 『青い海』№33 久志芙沙子「あの頃の事 その後のこと」


1915年2月11日『琉球新報』久志ツル(芙沙子)

1933年3月 沖縄郷土研究会「劇聖・玉城朝薫二百年祭」を首里城漏刻門前で開催。/3月12日南島倶楽部例会、久志芙沙子、大宜味ツル子参加
/4月 琉球新報連載小説「熱帯魚」山里永吉・作 金城安太郎・挿絵/4月 東京で第14回南島談話会、参加者・喜納緑村、森田永吉、久志芙沙子ら/6月 『大南洋評論』2号(編集人・仲原善徳、編集発行人・仲宗根源和)金城朝永「南洋関係図書目録」/7月 仲宗根源和『沖縄県人物風景写真帖』
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1933年8月5日『南島』第7号 久志芙沙子「若葉から拾った哲学」
1933年12月28日 眞境名安興死去。東恩納寛惇弔電「学界の為め哀惜に堪へず」


2019年8月22日『新三河タイムス』




『[月刊J-novel』2015年 実業之日本社 辺□大島真寿美①「或る女の生涯 ツタよ、ツタ」(久志芙紗子がモデル)仲村顕氏提供

①大島 真寿美(おおしま ますみ、1962年 - )は、日本の小説家。愛知県名古屋市出身。南山短期大学卒業。
1992年、「春の手品師」で第74回文學界新人賞受賞。2012年、「ピエタ」で第9回本屋大賞第3位。2014年、「あなたの本当の人生は」で第152回直木三十五賞候補。→ウィキペディア

2016年2月 森川満理子『歌集 若夏の風』不識書院(仲村顕氏提供)表紙のおびに○ 亡き父の故郷はけふ「慰霊の日」いまに
戦後のつづく沖縄 著者は、名古屋市生まれ、市立菊里高校音楽科(ヴァイオリン科)卒、旧姓(安良城)。

 
 渡久地 政司 2020-3-31■久志芙沙子再々発見の経緯■直木賞作家大島真寿美著『ツタよツタ』(小学館文庫)発刊までの経緯について、今年2月NHK名古屋が報道。つづいてこの話題について、3月27日・28日・29日に毎日新聞愛知版が3回シリーズで掲載しました(写真)。沖縄と愛知を結ぶ90年に及ぶ幻の女性作家をめぐるドラマが、わかりやすく文字化されて解説されました。不肖・私も2回目の一部に紹介させていただきました。

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2007年1月 新城俊昭『琉球・沖縄 歴史人物伝』沖縄時事出版
      
島袋百恵・画「久志芙沙子」2013年11月3日『新報小中学生新聞 りゅうPОN!』仲村顕「人ものがたり㉛久志芙沙子(1903~1986)幻の女流作家」

  斎藤陽子(Walnut, California)2019-11-28 久志芙沙子さんは親戚筋で、名古屋の開業医と結婚していました。父が「琉歌大全集」の編集で、1年間 東京大学に通っている時には、私も東京で学生でしたので1年間は父と同居しておりました時に、良く芙沙子さんが父を訪ねていらしゃいましたので、芙沙子さんは良く存じております。


  安良城盛雄、台湾銀行 1920年(大正9) ~1927年(台北、九江、嘉義) 
● 久志ツル(芙沙子)と結婚1922年(大正11)、長男・繁誕生1923年(大正12)、繁は2歳になるかならないうちに夭逝。台湾銀行は、安良城盛雄が退職してまもなく深刻化した世界金融恐慌(1929年~)では、日本で最初に倒産した。
  安良城盛雄、1928年(昭和3年)  名古屋市立貿易学校、中国語教師 1年


安良城盛雄

1919年11月22日『沖縄時事新報』安良城盛雄「田島先生」
1919年11月23日『沖縄時事新報』安良城盛雄「田島先生」
○(17)には組踊について書かれてある。組踊は久米舞とは関係がないと断言し琉球人自身は面白かったが支那人鹿児島人には有難迷惑だったらう。役を演ずる者は大名か侍の子弟であって御芝居といった手水の縁は平敷屋朝敏の作で中城若松といふ美少年のあつかましい(田島先生の老衰)が田舎道を歩いている時に水のほとりに立っている女を見出して水を呑まして呉れとたのみ終にづうづしくも手から汲んで貰いたいと出歯式を発揮するといふ淫靡なものだが琉球の様に婦人を檻の中へ監禁している所では現実をはなれている故反って喜ばれた伝信録の著者徐葆光の来た時にも見せたもので梗概が同書にあるだらう(18)もそれにつづいて更に歌の事が書かれてある。

◎琉球のをどりの手といっては極めて簡単である全く門外漢でもその手振を説明することは難事でない、ただ同じ様な手振りを上下縦横に振廻はすだけでシナヤカもハデヤカもないこの踊はオモロから出て来たオモロ主取といって専任にその僅に残ったオモロだけを失はぬ様になってからは遠い神代のものらしい感じも光もついたものらしいがその中に三ッのヲドリの手が記されてある。即ヲギミテ、オシテ、コネリデであるこの三様で現代の踊を作っていることは明らかである(19)には琉球について書かれてある。  波の聲も止れ風の聲も止れ 首里天加那志拝がですでら ◎これは恩納ナビ作で構想の雄大な点で幾万琉歌中の一頭地を抜いている又仝人作に  首里加那志公事夜昼も仕やびら あまんよのシノグ許ちたぼり  シノグは盆踊りである。思うにナベとヨシヤの歌を琉歌から取去ったらゼロになることを自分(田島先生)は確信している。

◎最後に照屋宏氏が一高で琉球語の演説をスペイン語とごまかしたことに対して琉球語が一寸聞いて外国語の様だと先生がいっているそれから名士を批評して護得久氏を物のわかった男で碁は独習で方圓社の初段以上だといひ腰弁から田舎の書記官まで成り上った岸本氏は焼芋で酒を呻るのが能で理屈屋の大田朝敷氏は大風呂敷が身上だけに演説が上手だ。兵学校入学試験に4番卒業試験に3番になった漢那大佐が芋の蔓でもあったら未来の海軍大将だらうが琉球おなじ芋畑でも蔓がちがふているからどうなるかしら 伊波普猷屋比久孟昌金城紀光照屋宏島袋松なども皆同時代の人で違った方面で前途を開拓している」以上抜粋してお紹介する訳である。(完)

1972年9月   『琉球の文化』第2号 安良城盛雄「気張りよう沖縄人」
1973年3月   『琉球の文化』第3号 安良城盛雄「琉球で造られた刀剣」
1973年10月  『琉球の文化』第4号 安良城盛雄「東恩納寛惇の誤解」
1974年8月   安良城盛雄「忠臣護佐丸正伝」
1974年10月  安良城盛雄「琉球の貢献」

 
安良城盛雄資料


2016年3月2日 中之橋から安里川

2016年3月4日 辺野古新基地に怒っている猫・与儀公園