07/27: 山田真山②
島袋百恵・画「山田真山」
私は一宮市図書館で戦前の写真集を見た。仏像三体の写真があるではないか、しかも阿弥陀仏は戦後バラバラにされ公園に放置されていたのを犬山成田山の裏山に安置したこと、脇仏は岐阜県の谷汲山華厳寺山門前に安置したことが記されていた。早速、現地に赴いたのはいうまでもない。犬山成田山では当時誰が寄贈したのかは教えられないと言う。そこを、芸術研究で是非とも知らないと困ると交渉するとしぶしぶ教えてくれた。しかも電話番号まで。(木村さんという人だが今はネットで姓名も明らかになっている)
山田真山の彫刻のあゆみは村田保像、帝国劇場の孔雀の彫刻、1919年の帝展出品の「審判の来る日」が入選したころ山田真山後援会が出来て彫刻作品などが頒布された。那覇市が購入したのはこのときのものであろう。1920年の第二回帝展に彫刻「自覚」が入選。1936年に愛知県一宮市公園の阿弥陀仏、勢至観音、観世音菩薩の原型を夫婦で赴いて製作したが、これを新たに原型から作り始めて鋳造完成させたのは木村鐵工所主の木村小佐衛門である。1938年には琉球新報社長の太田朝敷像も手がけた。
真山作品が那覇市民ギャラリーで公開されたとき、私は説明文「9メートルの幻の大仏」も書いた。日本画家の金城安太郎さんに師の山田真山について話をきいたことがある。『山田先生はよくチージへ行かれ酔えば安来節で踊り、空手の突きなどを連発して周囲を辟易させておられた。今回、那覇市が購入した作品は大変珍しいもので、私も当時の作品は目にしたことはありませんが、彫刻については那覇・開洋会館にあったダバオ開拓の父といわれた大城孝蔵像は先生の作品で私も手伝いました。また先生から教わって仏像を作ったこともあります』、ちなみに現在チージにある獅子頭とミルク面は安太郎さんの作品である。
山田真山「極楽」(部分)
山田真山
1958年3月 「沖縄戦跡 平和慰霊観音像建立趣意書」
沖縄の雑誌『青い海』1971年5月号 徳田安周「私の青春/あゝ女性たちよー毛遊びに失敗した若き日の想い出ー」
1973年10月 『琉球の文化』第四号 徳田安周「琉球古神道への旅」
1975年8月 徳田安周『沖縄てんやわんやー気楽に読める沖縄の世相風俗史ー』沖縄文教出版社(神山吉光)
川平朝申
1960年ごろ料亭松の下にて野町良夫牧師(1937年、那覇日基教会牧師)歓迎会。前列右から3人目・当山正堅夫人、野町夫妻、古賀善次。後列右・山田實、4人目・川平朝申、大嶺政寛、一人置いて天願俊貞、一人置いて当山堅一。徳田安周も居る。
1951年11月 第3回沖展(琉米文化会館) 川平朝申「西陽射す頃」「思い出の丘」
1955年3月 第7回沖展(壷屋小学校) 川平朝申「旧知事官舎」
1958年3月 第10回沖展(壷屋小学校) 川平朝申写真「みーにし」「影」
1959年3月 第11回沖展(壷屋小学校) 川平朝申写真「河童」「古都の石畳道」「ビルとドブ川」「晩秋」
1960年3月 第12回沖展(壷屋小学校) 川平朝申写真「或る踊り」「暮色の国際通り」
1963年3月 第15回沖展(壷屋小学校) 川平朝申写真「富士とチャンパ葵」
1963年5月 『沖縄芸能マガジン』川平朝申「沖縄演劇の将来を思う!-現役俳優へ希うこと!」
○私は若い頃から郷土史や郷土の民俗、土俗に就いて深い興味をもっていた。それは私が中学の頃、台湾に移住し、郷土に対する郷愁が、こうして私の心を郷土の総てに愛着をよせるようにしたのかもしれない。とりわけ郷土の演劇に対しては私の心をすっかり、とりこにしてしまった。それと云うのも私の父が非常に芝居好きで、よく父に連れられて辻町のはたみちの芝居に行ったものである。「球陽座」「中座」等、芝居がはねると父はきまったように楽屋まで足を運び、幹部俳優に挨拶をし、「今日の芝居は上出来だった!」等と激励をしていた。
1968年3月 第20回沖展(壷屋小学校) 川平朝申写真カラー「夕陽その1」 前原基男「旧家」
西村貞雄「S子の首」
1968年8月 沖縄タイムス社ホール「川平朝申作品展ー写真とスケッチ」
1986年8月 琉球新報社・編『世界のウチナーンチュ〔2〕』ひるぎ社/小橋川次郎/平良一三/神谷嘉栄/山川はな/中谷夏子
玉栄正一/金城磯吉/比嘉秀男/末吉栄/知念良子/玉那覇勇
山端太佐/山内昌安/上原民子/上江洲智秀/伊波マス/砂辺松敏・千代子(大城)
知花和子/新城友弘/真栄城朝敏/平恒次/比嘉照行/トシコ・タカエス
トシコ・タカエズ(Toshiko Takaezu、1922年7月17日 - 2011年3月9日)は、アメリカ合衆国の陶芸家。ハワイ州ペペーケオ出身。両親は沖縄県具志川市(現うるま市)出身の移民2世で、彼女が生まれる1922年にハワイへと移住している。ハワイ大学などで学んだ後、1951年よりミシガン州へと渡り、陶芸家マヤ・グローテルの元に師事した。→ウィキペディア
写真ータカエズ・トシコさんと新城栄徳/タカエズ・トシコさんと大城立裕氏
1966年5月『オキナワグラフ』
東京の島袋和幸氏から『日本エスペラント運動史』がおくられてきた。島袋氏は豊川善曄も調べていたから、同書の人名索引には豊川の名前も載っている。
ザメンホフ【Lazaro Ludoviko Zamenhof】
1859‐1917
今日もっとも広く使用されている人工語・国際語エスペラントの創始者。ユダヤ系ポーランド人でワルシャワの眼科医。ペンネームを〈ドクトーロ・エスペラントDro Esperanto〉といい,これより人工語の名前がエスペラントと呼ばれるようになった。ザメンホフは生涯をエスペラントの普及に尽くし,旧約聖書,アンデルセンの童話などをはじめ,多くの文学作品をエスペラントに翻訳した。また,国際的に中立な言語のほかに,すべての宗教に共通である道徳原理の総和ともいうべき中立的な宗教を人類が採用すれば,人間間の関係はよくなるに違いないとする〈ホマラニスモ〉という学説も提唱した。(→コトバンク)
1917年12月ー伊波普猷らが主催したエスペラント研究会の記念写真。中央のヒゲをたくわえているのが伊波、その右が比嘉春潮
1918年1月29日ー日本エスペラント協会は四ツ谷見附の三河屋で理事幹事会を開催し、年々の収入不足に対応するための会費値上げの提案をこの年は見送り、会費(年1円20銭)は前金で納入してもらうことに決めた。また、黒板幹事長の提案で理事を評議員と改称して地方からも選ぶこととし、さらに幹事を改選し、幹事長・黒板、幹事・小坂、浅井を選任した。評議員に、伊波普猷(那覇)、速水真曹(横浜)、千布利雄(神戸)、大石和三郎、高橋邦太郎(広島)、高楠順次郎、田川大吉郎、中村精男、黒板勝美、安孫子貞次郎、斯波貞吉、志村保一の12名が選ばれた。
地方支部は、東京(後藤敬三)、横浜(速水真曹)、横須賀(小林茂吉)、金沢(吉川友吉)、大阪(山口末次郎)、堺(坂上佐兵衛)、広島(高橋邦太郎)、沖縄(比嘉春潮)、台湾(蘇壁輝)が活動し、協会の会員数は8月で286名に回復した。広島の高橋邦太郎は10月に静岡に転居し、静岡支部を設立した。
ザメンホフ【Lazaro Ludoviko Zamenhof】
1859‐1917
今日もっとも広く使用されている人工語・国際語エスペラントの創始者。ユダヤ系ポーランド人でワルシャワの眼科医。ペンネームを〈ドクトーロ・エスペラントDro Esperanto〉といい,これより人工語の名前がエスペラントと呼ばれるようになった。ザメンホフは生涯をエスペラントの普及に尽くし,旧約聖書,アンデルセンの童話などをはじめ,多くの文学作品をエスペラントに翻訳した。また,国際的に中立な言語のほかに,すべての宗教に共通である道徳原理の総和ともいうべき中立的な宗教を人類が採用すれば,人間間の関係はよくなるに違いないとする〈ホマラニスモ〉という学説も提唱した。(→コトバンク)
1917年12月ー伊波普猷らが主催したエスペラント研究会の記念写真。中央のヒゲをたくわえているのが伊波、その右が比嘉春潮
1918年1月29日ー日本エスペラント協会は四ツ谷見附の三河屋で理事幹事会を開催し、年々の収入不足に対応するための会費値上げの提案をこの年は見送り、会費(年1円20銭)は前金で納入してもらうことに決めた。また、黒板幹事長の提案で理事を評議員と改称して地方からも選ぶこととし、さらに幹事を改選し、幹事長・黒板、幹事・小坂、浅井を選任した。評議員に、伊波普猷(那覇)、速水真曹(横浜)、千布利雄(神戸)、大石和三郎、高橋邦太郎(広島)、高楠順次郎、田川大吉郎、中村精男、黒板勝美、安孫子貞次郎、斯波貞吉、志村保一の12名が選ばれた。
地方支部は、東京(後藤敬三)、横浜(速水真曹)、横須賀(小林茂吉)、金沢(吉川友吉)、大阪(山口末次郎)、堺(坂上佐兵衛)、広島(高橋邦太郎)、沖縄(比嘉春潮)、台湾(蘇壁輝)が活動し、協会の会員数は8月で286名に回復した。広島の高橋邦太郎は10月に静岡に転居し、静岡支部を設立した。
07/10: 『週刊シルバーエイジ』
1996年5月8日 有限会社2020年『シルバーエイジ』編集室で右が糸数和雄氏
P.8・9に安里三叉路(1970年)に琉映本館や琉映パチンコが見える。20に海洋博のため合同墓地を移動(本部浜元部落1973)、21に石油基地建設のためこわされた墓の内部(平安座1970)、36に毒ガス撤去デモの集まり(具志川1971)には沖縄人民党の瀬長亀次郎、日本共産党の東中光雄(1924年7月23日(88歳) 出生地 奈良県奈良市 出身校 同志社大学 現職 弁護士)らが見える。57には共通語を使いましょう(伊平屋1972)が印象に残る。
07/08: 時事漫画家とかしき・ただお(渡嘉敷唯夫)
左は1963年発行の『芸能マガジン』/1957年4月『芸能タイムス』創刊号/編集発行人・渡嘉敷唯夫
写真左から渡嘉敷唯夫氏、新城栄徳、安里盛昭氏