05/22: 世相ジャパン2026 新城喜一[沖縄風景への誘]

5-25いいねうるま市 山城 明 ·ソテツ



5月22日昼 小雨 古美術なるみ堂の翁長良明さん運転で、おもろまちの新城喜一さんと宜野湾市立博物館 春の企画展「島(シマ)の時間 ~新城征孝絵画展~」を見に行く。
新城喜一「長虹堤」

新城喜一「安里川を渡る嘉手納線」
2015年5月26日~31日 那覇市民ギャラリー「新城喜一絵画展 沖縄風景への誘」
岩陰(摩文仁の浜)
「摩文仁の浜の一日」と新城喜一氏
「摩文仁の浜の一日」(部分)
いにしえの門(中城城址の表門)
ヤマトゥーガーへの道(粟国島)
波照間三蔵氏と新城喜一氏
05/21: 沖縄ー博物館・資料館


5-20 沖縄県立博物館・美術館:園原謙館長/2019-1



沖縄ー博物館・資料館
1936年7月4日、首里城北殿内に郷土博物館が開館。沖縄県教育会と沖縄郷土協会のコンビにより往時の荘厳な姿を再現した由緒ある首里城内北殿は本県唯一の郷土博物館としてまた首里市の新名物として輝かしく誕生し午後5時から隣接の首里第一小学校に於いてその落成式・開館式は島袋源一郎の挨拶ではじまった。来賓として県より清水谷総務部長、平山裁判所長、古思司令官、金城那覇市長ら官民3百名が列席。祝電ー東恩納寛惇「新シキ力ハ古キ栄ヨリ生レン 遥ニ祝ス」/伊波普猷「開館ヲ祝ス」/下地玄信「県ノ為メ偉大ナル功績ヲタタエ御盛典ヲ祝ス」
1936年7月4日 沖縄県教育会附設博物館落成・開館式。1936年8月 『沖縄教育』第240号<博物館開館紀念> 仲吉朝宏「開館するまで」「雲海空青録」/「沖縄郷土博物館資料紹介(1)皇室御関係の御宝物 (2)古琉球の漆器」
沖縄県教育会附属「郷土博物館」が開館。所蔵目録□漆器之部ー螺鈿/硯屏(文房具衝立)琉球国王御愛用の品、食籠(方言クイチクン)聞得大君御使用品、食籠(台付)郷土協会出陳、料紙文庫、五段御重箱、御菓子皿(薔薇模様入大皿)、御菓子器(支那製厚貝象)、鏡台、茶盆、香箱、印籠(山水図案)、印籠(山水寿老人)、印籠(梅花)、三方(唐草模様)、煙草盆、御椀(冊封使歓待様、伊江男爵寄贈)、御酒盃台。堆錦/中央卓(郷土協会出陳)、料紙文庫、四段御重(流水に桜花模様)、四段御重(水に貝)、東道盆、印籠(山水朱塗)、印籠(獅子黒塗)、菓子器(海草に金魚の図案)。沈金/料紙文庫、御徳盆・御米盤(祭祀用、元侯爵家御蔵品)、御米盤(かつぎ御米盤、玉貫瓶一対外箱共)、御椀、菓子器(六角形)、サシクイー(小道具入)、朱塗(菜飯ゆつぎ用)、毛彫沈金(名工新垣の作)。蒔絵/印籠(山水)、木盃(金蒔絵)、硯蓋、四段御重(草花に轎車)、四段御重(唐子絵山水)、四段御米盆(唐草模様)、大型四段御重(琉球蒔絵)、東道盆(支那製箔絵)、香箱(唐子絵、唐草模様)、弁当(亀甲紋)、弁当(山水、唐子絵)、弁当(山水、外間カメ子寄贈)、小道具箱(女持、支那製唐子絵)、御盆(長方形、支那製唐子絵)、東道盆、野弁当、折盆(三方、支那製唐子絵、唐草金模様入)、御酒盃台
□図表之部
喜屋武村古地図、島尻郡村図、大日本全図、台湾地図、幕府時代学校図、薩摩琉球古地図、支那全図、北京城内図、鍼灸図解、日本城閣の図、旧藩生理巻物、旧藩庭作手本、旧藩弓術手本、琉球歴代対照表(歴代王統表)、治家捷経(蔡温著作表解)、那覇泉崎古地図、石鼓山全景、唐船設計図、接貢船設計図
05/20: 松山王子尚順/松山御殿



5月20日 一般社団法人沖縄美ら島財団那覇事務所芙蓉館
儀保ゆかりさん、鶴田大さん、久場まゆみさん、幸喜明子さん/
1969年8月 山里永吉『松山王子尚順遺稿』(㈱)第一法規出版
1994年4月号『太陽』№394 古波蔵保好「『松山御殿』の琉球式珍味佳肴」
2013年11月 金子豊・編『松山王子 尚順 全文集』榕樹書林

1936年8月『改造』阿倍金剛「琉球記」□私は尚男爵と一緒に此の城を飛行機の上から俯瞰した時は、つくづくさう思ったのである。首里城の一角に先ず大ホテルを建てる。城塞は全部ホテルの庭として手を入れる。諸所に散在する尚侯爵家初め各王族の城跡別荘等を開放してドライブ・ウエイを造り滞留客の散歩観光の目標にすること。既設の海水浴場を増大して設備を完全にし、適宜な場所に競馬場、競犬場、ゴルフ・リンクス等を造り辻近くにカジノを建設する。序に海洋博物館をこしらえるのも、まんざらモナコの真似とばかりは云えない。この太平洋に浮かぶ珊瑚礁には無数の珍魚奇貝も棲息しているのだから。飛行場は既に立派なのが出来ているし、航空路は既に開発されているのだから。・・・

写真ー尚順(1939年)
写真ー尚順と柳宗悦(1939年)
05/19: 麦門冬・末吉安恭
麦門冬・末吉安恭は1886年5月に首里儀保で生まれた。沖縄師範附属小学校を卒業後の1902年上京した。杉浦重剛の日本中学や、神田の英語学校に通いながら演説会に行ったり、図書館で好きな本を読んで抜書きしたりして新しい知識を貪欲に求めた。1904年に一時帰郷し、名護真松と結婚。1905年再上京、弟の安持と同居。1906年、長男・安慶が生まれると帰郷。
麦門冬(龍の鬚・ヤブラン藪蘭)とは俳号のことで、歌人として落紅、漢詩人として莫夢山人と色々と使い分けていた。麦門冬も身内(先祖)の毛鳳儀を1919年の『沖縄朝日新聞』に「王舅・池城毛公」として長期連載している。→1919年8月26日 『沖縄朝日新聞』末吉麦門冬「偉人 毛鳳儀ー王舅池城毛公」」(喜安日記) 末吉麦門冬家は毛氏池城一門で、その始祖は新城親方安基、俗に<大新城>といい、トーナーは毛龍唫である。一門は八重山でも繁盛していて1928年9月の『先島朝日新聞』には「八重山毛氏一門の美挙 当地毛姓には本年大祖大新城親方の三百五十年忌に相当するを以って門族相図り記念運動場南の墓地に大祖の記念碑を建設し去る2日盛大に其の三百五十年祭を挙行せり」として毛姓・池城安伸の祭文まで記されている。


鎌倉芳太郎は戦前は麦門冬の紹介で八重山の毛氏を訪ね、戦後は八重山で麦門冬の娘、初枝さんに会っている。写真ーそのとき詠んだ歌。
大濵永亘さんのサイト「新・先島文化研究所」に八重山の池城毛氏が載っていたのでシェアさせてもらった。『元祖大新城親方安基』家譜の「一世安基大新城親方」の項に「嘉靖二十六年丁未(1547年)奉使到宮古八重山両訪定之制次年帰国」と記載されている。1547年竹富島の浦皆治原の「八重山蔵元」を石垣島の本名村へ移転の際に、琉球王国から御使者の毛氏大新城親方安基(童名:小太郎金、唐名:毛龍金、生年不伝~1577年卒)が派遣され来島、小浜島の百姓満慶の娘、美呂真を妾・(現地妻)にして初代の宮良頭の毛裔姓大宗宮良親雲上安英(童名:二千代、1547~1619年卒)が生まれている。
毛氏 池城殿内(もううじ いけぐすくどぅんち)は、唐名・毛龍唫、新城親方安基を元祖とする琉球王国の士族(首里士族)。五大姓(五大名門)の一つ、毛氏池城の大宗家(本家)。私は首里山川の18世・池城安正さんを訪ねたことがある。門中の方々の訪問も多いようで豪壮なマンションの1階の壁には毛氏 池城全体の系図が貼ってあった。私はそれに末吉家の系統を書き込んだ。別棟には毛龍唫、新城親方安基の肖像画が安置されていた。
毛龍唫、新城親方安基の肖像画
〇1977年9月8日『琉球新報』「アシャギー『見直せ麦門冬』と鎌倉氏」




麦門冬(龍の鬚・ヤブラン藪蘭)とは俳号のことで、歌人として落紅、漢詩人として莫夢山人と色々と使い分けていた。麦門冬も身内(先祖)の毛鳳儀を1919年の『沖縄朝日新聞』に「王舅・池城毛公」として長期連載している。→1919年8月26日 『沖縄朝日新聞』末吉麦門冬「偉人 毛鳳儀ー王舅池城毛公」」(喜安日記) 末吉麦門冬家は毛氏池城一門で、その始祖は新城親方安基、俗に<大新城>といい、トーナーは毛龍唫である。一門は八重山でも繁盛していて1928年9月の『先島朝日新聞』には「八重山毛氏一門の美挙 当地毛姓には本年大祖大新城親方の三百五十年忌に相当するを以って門族相図り記念運動場南の墓地に大祖の記念碑を建設し去る2日盛大に其の三百五十年祭を挙行せり」として毛姓・池城安伸の祭文まで記されている。


鎌倉芳太郎は戦前は麦門冬の紹介で八重山の毛氏を訪ね、戦後は八重山で麦門冬の娘、初枝さんに会っている。写真ーそのとき詠んだ歌。
大濵永亘さんのサイト「新・先島文化研究所」に八重山の池城毛氏が載っていたのでシェアさせてもらった。『元祖大新城親方安基』家譜の「一世安基大新城親方」の項に「嘉靖二十六年丁未(1547年)奉使到宮古八重山両訪定之制次年帰国」と記載されている。1547年竹富島の浦皆治原の「八重山蔵元」を石垣島の本名村へ移転の際に、琉球王国から御使者の毛氏大新城親方安基(童名:小太郎金、唐名:毛龍金、生年不伝~1577年卒)が派遣され来島、小浜島の百姓満慶の娘、美呂真を妾・(現地妻)にして初代の宮良頭の毛裔姓大宗宮良親雲上安英(童名:二千代、1547~1619年卒)が生まれている。
毛氏 池城殿内(もううじ いけぐすくどぅんち)は、唐名・毛龍唫、新城親方安基を元祖とする琉球王国の士族(首里士族)。五大姓(五大名門)の一つ、毛氏池城の大宗家(本家)。私は首里山川の18世・池城安正さんを訪ねたことがある。門中の方々の訪問も多いようで豪壮なマンションの1階の壁には毛氏 池城全体の系図が貼ってあった。私はそれに末吉家の系統を書き込んだ。別棟には毛龍唫、新城親方安基の肖像画が安置されていた。
毛龍唫、新城親方安基の肖像画
〇1977年9月8日『琉球新報』「アシャギー『見直せ麦門冬』と鎌倉氏」


