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Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02




諸見民芸館ー〒904-0031沖縄市諸見里3-11-10
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写真左ー諸見民芸館で、左が伊禮吉信館長、与儀達憲氏(沖縄コレクター友の会)。写真右ー沖縄コレクター友の会メンバーと伊禮吉信氏
書斎探訪ー諸見民芸館 電話090-9789-9289

『琉球新報』2012年6月22日
故名渡山氏の油絵発見 石澤さん、米国から入手
 【東京】戦前戦後を通し、沖縄の文化の復興に大きな功績を残した画家、故名渡山愛順氏の作品とみられる油絵1点がこのほど米国で見つかった。発見したのは沖縄郵便史研究家の石澤司さん(39)=豊島区、那覇市出身。戦後、生活を維持するため依頼を受けた肖像画などを多数描いていた当時の画家の状況を伝える一枚で、石澤さんは「戦後復興期の沖縄の画家の様子を伝える貴重な作品だ」と話した。作品はハンチング帽をかぶった米国人男性を描いた肖像画で、保存状態は良好。石澤さんがインターネットのオークションで6月までに入手した。石澤さんは「米国の実業家に依頼を受け、描いた絵ではないか」と推測。「当時、沖縄にいた米国人がどのような服装をしていたのか、雰囲気も分かる」と話した。
 名渡山氏は1906年、那覇市生まれ。東京美術学校(現東京芸大)で学び、32年に帰沖し、第二高等女学校で教職に就いた。戦後間もなく他の画家と共に那覇市首里儀保町にできた通称「ニシムイ美術村」を創立。琉装の女性や裸婦画を多く残した。絵には右下部に「A・NaToyama Okinawa 1950」という署名が残されている。「名渡山」の「渡」の部分を「To」としているのが特徴だ。美術評論家で、前県立博物館・美術館副館長の翁長直樹さんは「渡米する前年に沖縄で描かれたものだ。署名やタッチ、雰囲気が名渡山氏のものであることは間違いない」と評価した。

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Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
 1931年、瀬長亀次郎は神奈川で井之口政雄宅に下宿をしていた。井之口夫人は日本赤色救援神奈川地区の活動家で瀬長は大分お世話になった。飯場生活の瀬長は「全協日本土建神奈川支部」を朝鮮人の金一声らと結成、京浜地区の責任者になった。そして横須賀町久里浜の平作川改修工事に従事していた朝鮮人労働者350人と労働条件改善、全員に仕事をよこせの要求をかかげてストライキに突入、瀬長も、金一声も検挙され一ヶ月投獄された。
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墓の前の写真は城間得栄氏も大事に所蔵。1978年11月の『琉球新報』の「むかし沖縄」に掲載し解説も書いた。城間得栄□戦争前夜の沖縄県・オイル事件の犠牲者弔うー軍国主義時代の悪法「治安維持法」により、獄中生活を強制された池宮城秀意と瀬長亀次郎の両兄が昭和10年、相前後して久しぶりに娑婆へ帰ってきた。その2,3年前まで那覇署と首里署の留置場を引きずり回されていた私も、昭和9年にようやく琉球新報に拾われ記者の末席を汚していた。またこの写真を撮した国吉真哲さん(紙面に姿の見えないのは残念だが)は、すでに警察の追及からのがれ、琉球新報の編集室で孤塁を守りながら紙面作成に励んでいた。4人の志を同じくする仲間が期せずして顔を合わせたので、ある日、教員組合(オイル)事件で過酷な拷問を受け保釈中に狂死した真栄田之璞(通称一郎)の霊を弔うため、姪の上原美津子さん(沖縄の婦人記者第一号)の案内で那覇市外松尾の真栄田家の墓へ出かけた。まさに日中戦争から第二次大戦へ突入しようとする前夜のことである。

1944年2月  『沖縄県産業組合聯合會三十年史』編集人・瀬長亀次郎/発行人・平良辰雄/発行所・沖縄県産業組合聯合會


1973年7月21日『人民』 「対談・池宮城秀意×瀬長亀次郎ー人民党創立の頃から反共攻撃 池宮城ー共産党との合流予想した」。新里恵二「沖縄人民党創立の歴史的意義と今後の展望」/1964年の池宮城秀意一家
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1972年4月『青い海』14号 森口豁「廃屋の島からの報告」

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森口豁『ヤマト嫌いー沖縄言論人・池宮城秀意の反骨』講談社1995年9月/左から新城栄徳、又吉盛清氏、森口豁氏


2019年7月22日 大濱聡「森口豁」


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