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Category: 01-人物名鑑
Posted by: ryubun02





Category: 01-人物名鑑
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写真下ー金城真三良(1834年~1916年)首里桃原村に生まれる。武術家、通称・金城大筑










1925年8月」25日 『帝国大学新聞』伊波普猷「独逸に於ける唯一の南島研究者(エドムンド・シーモンの事)」これにはシーモンの伊波宛の手紙が紹介されている。「私が美しい琉球諸島に二度も幸福な数日を過ごしてから長い長い年月になりました。(略)歴史は独逸を消滅させるべく決定をして了ひました。 どうか琉球に関するあなたの新著をご恵与下さい。私はこの愛らしい島には、今だに興味を有っていますから、『名護や山原の』といふ歌は、今なほはっきりと私の耳に響いています。それから私は写真を沢山とったのを嬉しく思ひます。私は時たまそれを取りだして、家のランプの側で見ています・・・」



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Category: 01-人物名鑑
Posted by: ryubun02
1892年4月 島袋源一郎、今帰仁尋常小学校入学

1896年4月 島袋源一郎、名護の国頭高等小学校に入学


1904年10月20日 『東京人類学会雑誌』第223号 鳥居龍蔵「沖縄人の皮膚の色に就てー余は本年夏期、沖縄諸島を巡回せしが、其那覇滞在中、首里なる同県師範学校、及び高等女学校に於て、男女学徒の皮膚の色を調査なしたり。(助手は伊波普猷で、師範学校の学徒に島袋源一郎・今帰仁間切20歳、仲原善忠・久米島18歳、比嘉春潮・首里21歳、徳元八一・玉城間切20歳、宮城栄昌・久志22歳、諸見里朝清・首里20歳山城篤男・高嶺間切17歳,
新垣信一などの名前がある。)

□当山正堅「時の図画の先生は日本画に堪能な山口瑞雨先生でありましたが、あの頃から洋画も課さねばならなかったので、先生は予め其の描写法を授けることなしに漫然と首里城を写生して来るようにとの日曜宿題を命ぜられたのであります。すると、島袋源一郎氏は唐破風の棟上に登って屋根の大きさから、両端の龍の胴体、髭の長さを測り更に瓦の数まで一々数えて来てから構想を練って描写に取りかかったと云う熱心さに先生も同級生一同も驚いたと云うことでありました。」

1907年3月 島袋源一郎、沖縄県師範学校卒業。 4月 名護訓導
1926年8月 那覇松山校に於いて西村真次「家族国家としての日本」講演
1927年1月 那覇尋高に於いて嘉納治五郎「柔道の原理と精力善用」講演

1927年4月 『沖縄教育』161号 「教育参考館の建設に就いて」「教育参考館記事」
1927年8月26日~4日間 松山小学校で小原國芳「教育道」講演

1928年3月

名護東江小学校卒業式ー前列右から5番目が仲原照子(源一郎の妹)、2列目左から7番目が島袋源一郎(当時校長)→1997年4月 仲原照子『想いの中からー随筆・短歌・俳句など』「戦前の郷土博物館ー首里城内の正殿に向かって、右側南殿があり、左側に博物館に使われた北殿がありました。北殿はかつて冊封使の歓待に利用されたところで中国風の造りになっていました。館内の柱は、円柱の大木が使われ左端に昇り龍、右端に降り龍が彫られ、朱色とややくすんだ赤色が塗られていました。館内には尚家の宝物をはじめ、紅型・陶器・漆器・三味線・書画・馬具・龕などが所狭しと展示されていました。」

 
1928年10月 城青年団同人雑誌『創造青年』創刊号 島袋源一郎「(略)余は只諸君個人個人が各自自己を完成し生まれた価値のある立派な人となり、更に社会的に何か貢献し死後も地球に足跡を印刻し得る偉大な人物になられんことを冀望して擱筆する次第である。」

1929年3月 『南島研究』島袋源一郎『名護城史考』
□(略)沖縄の祖霊崇拝教では之を信じて居るのである。此の宗教は多神教の程度迄発達しているが種々の障碍の為に停頓状態に陥っているのは寔に遺憾である。若し沖縄の宗教が、すべての祈りを吾等の祖神を通じて大宇宙の支配者たる宗教意識に導き得るならば、自然教の境地を脱却して立派な文明教の中に入ることが出来るのである。

1936年7月 『沖縄教育』第239号(表紙・琉球組踊「銘苅子」の天女) 島袋盛敏「琉球芸能感想記」/上間正敏「古典芸能帝都公演に就て」

08/19: 志賀重昴

Category: 01-人物名鑑
Posted by: ryubun02
 

 

志賀重昂関係資料

1905年11月13日『琉球新報』「志賀重昂氏と本県」
1905年11月15日『琉球新報』「尚家の晩餐会」「講演会」
1905年11月19日『琉球新報』「松江丸乗込員の歓迎会」
1905年11月25日『琉球新報』笑古(眞境名安興)「久米島通信ー志賀矧川氏の來島」 
1905年11月29日『琉球新報』「志賀・中川氏講演会」
1906年2月11日『琉球新報』「県外名士の沖縄観(大阪毎日新聞「大東島」転載)」
1908年9月15日『琉球新報』「志賀重昂氏の書簡」
1909年4月13日『琉球新報』「沖縄青年会二十年記念会ー志賀講演「琉球の発達」」
1911年2月28日『沖縄毎日新聞』志賀 川「琉球建築及史料保存の必要」
1925年4月14日『琉球新報』「志賀重昂氏宅に『中山門』の扁額」
1926年5月20日『沖縄朝日新聞』「除幕式を終えて」

08/16: 徳川 宗賢

Category: 01-人物名鑑
Posted by: ryubun02
徳川 宗賢 (1930-1999)
"徳川 宗賢"(とくがわ むねまさ、1930年11月27日 - 1999年6月6日)は、東京府出身の言語学者・国語学者。学位は文学博士。日本語の方言研究の第一人者。 [人物] 田安徳川家10代当主徳川達成伯爵の次男として生まれる。学習院大学文学部文学科国文学専攻卒業(文学士)。学習院大学大学院人文科学研究科国文学修士課程修了(文学修士)。大阪大学文学部教授を経て学習院大学文学部日本語日本文学科教授。国語学会代表理事。第21期国語審議会委員。著書に『日本人の方言』『日本の方言地図』など。 妻の徳川陽子は物理学者で東京工芸大学名誉教授。娘の松方冬子は日本史学者、東京大学史料編纂所准教授。 「→Wikipedia」


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1955年7月13日 『琉球新報』徳川宗賢「沖縄のことば」(1)/徳川宗賢を国吉真哲に紹介する比嘉春潮の名刺と徳川宗賢名刺。国吉宗賢の国吉真哲宛ハガキ

08/14: 地図

Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02

2006年12月 新井田秀一『宇宙から見た日本~地球観測衛星の魅力』東海大学出版会

8月17日の岡留氏ブログ□かつてのウワシン編集長時代には、関係者たちとの酒席の場で、「竹島は爆破して海に沈め、漁業圏での話し合いを持てばいい」「北方四島は、日本が金銭で買い取るか、共同開発ゾーンにすればいい」「尖閣諸島も話し合いで共同開発するしかない」というような持論を展開していた。その後、ロシアは経済力を身に着けたため、まさか買い取るなどという話は通用しまい。やはり、領土問題は慎重にも慎重を重ね、粘り強く交渉を続けるしか術はない、というのが結論だ。話は変わるが、恒例の敗戦特集の特別番組で面白かったのはNHKスペシャルの「終戦 なぜ早く決められなかったのか」だった。ロシアの参戦を強く希望したのは米国であり、その際、国後、択捉の割譲も約束していたのだ。最終的に広島、長崎に原爆を投下し、米軍が最小限のリスクで日本の無条件降伏を勝ち取った。敗戦までの半年の間に、日本人の犠牲は50万人以上に上った。御前会議や最高戦争指導者会議でも、決められないトップたちがバラバラの意見や思惑を持っていたためだ。誰も責任を取らない無責任体制は、戦後67年経っても全く変わっていない。霞ヶ関、東電、政治家しかり、だ。

Category: 04-書の森
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08/14: 仲本幸智

Category: 01-人物名鑑
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仲本幸智ハガキ/1950年11月 仲井間宗裕・伊佐栄二『沖縄と人物』/2012年8月13日『琉球新報』


Category: 01-人物名鑑
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1910年 島袋源一郎
1912年10月8日 『琉球新報』伊波普猷「明治聖代紀念事業(本県に於いて如何なる事業を実行す可きか)・博物館が一番よいー明治時代の紀念事業としては博物館が一番よいと思ひますそして其処には主に教育の参考品を集めついでに沖縄の古物も集めたい壁には明治時代に輩出した名高い政治家軍人実業家教育家文学者宗教家美術家俳優等の肖像を掲げついでに明治時代に輩出した沖縄の名士の肖像迄は掲げるやうにしたい」

1916年2月8日『琉球新報』「大典紀念事業ー首里区では旧城『西ノ殿』に大修理を施し以って公会堂を設置すべく其の経費1千円圓を計上して愈愈5年度より2ヵ年継続を以って起工する事になっている。」

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1926年5月2日ーベッテルハイム記念碑(ベッテルハイム師が歴訪した10カ国の石をちりばめた記念碑)除幕式。右端上が島袋源一郎
□ベッテルハイム記念碑除幕式は午後3時より波上護国寺境内に於いて挙行。来賓は亀井知事、佐伯裁判所長、志賀重昴、羽田内務部長、岸本那覇市長、知花朝章、里見学務部長、金城那覇市会議長ら。司会者は伊東平次、聖書朗読は佐久原好伝、祈祷が芹澤浩、除幕が知花朝章、建碑之辞、決算報告がイー・アール・ブル、讃美歌は合唱隊、祝祷が神山本淳。記念写真は久志写真館。

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島袋源一郎


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1932年10月23日ー南山城址南側を歩く。写真左から島袋源一郎、宜保、山崎正董、とねく →『写真集 懐かしき沖縄』琉球新報社2000年11月 


1937年11月 沖縄師範学校龍潭同窓会『會報』 □仲吉朝睦(県社沖縄神社社司)「惟神の大道」/袋源一郎(沖縄県教育会主事)「同窓の誇と悲」/知念亀千代(東京市月島第一小学校訓導)「手工教育より観たる吾が郷土」

1938年8月28日 午後ー昭和会館で沖縄生活更新協会発会式。式は沖縄県教育会主事島袋源一郎司会のもと進められた。理事長・大城兼義、/理事・當間那覇市助役、勝連首里市助役、上原、眞栄城、新垣各島尻町村会役員、玉井、宮平、伊佐各中頭町村長会役員、仲宗根、山城、池原各国頭町村長会役員、石原宮古町村長会長、大濱八重山町村会長、吉田県社会事業主事、諸見里県社会教育主事、川平女師一高女校長、志喜屋海南中学校長、宮城島尻教育部会長、渡嘉敷中頭教育部会長、比嘉国頭教育部会長、島袋図書館長、金城県農会技師、當眞朝日社長、又吉琉球主筆、親泊日報理事、大城兼義、島袋源一郎、当山正堅、湧上聾人、親泊康永/監事・島袋源一郎、親泊政博/主事・当山正堅/顧問・淵上知事、尚順男、伊江男、平尾貴族院議員、漢那、伊禮、仲井間、崎山、小田各代議士、金城那覇、伊豆見首里両市長、嵩原県会議長、照屋宏、宜保成晴、我如古楽一郎、仲田徳三、盛島明長、長野時之助

1939年3月 沖縄生活更新協会『新生活』(当山正堅)
島袋源一郎□須らく勇往邁進せよー今は我ら大和民族の同胞が八紘一宇の大理想の下に、世界的に飛躍すべき重大な時機に際会している国民の一人一人が最善を尽くして皇国に貢献すべき時である。我等は日本人たるの誇りを持って勇往邁進しなければならぬ。退嬰・卑屈・消極・卑下は禁物である。我等沖縄人は人種学、血清学、言語学、風俗、土俗其他有ゆる角度から考察しても立派な大和民族であり、其の一地方集団であることは各方面の学者が証明している。何を自ら卑下する必要があるか?。然も我等の祖先は激浪と戦って此の南島に渡って来た丈けに実に勇剛であり、驍健であった。四世紀ばかり前欧州人がマラッカ海峡以東に進出して来なかった時代迄日本本土から朝鮮、支那、安南、シャム、呂宋、ボルネオあたり迄の所謂東洋貿易の覇権を掌握していたのは実に我が琉球人であった。西暦1454年以来琉球王は其の港を東亜貿易の一大市場にしょうと努力していたという。

天文の頃葡萄牙人は琉球を「黄金の島大琉球」と称し日本を「銀の島ジャパン」と称していた。目下眞教寺に吊るされている大鐘「中山王殿前に懸くる鐘」の銘に、
琉球國は南海の勝地にして三韓の秀を鍾め、大明を以て輔車と為し、日域を以て唇歯と為し

1939年3月 沖縄生活更新協会(昭和会館内)『新生活』創刊号

1939年5月 沖縄生活更新協会(昭和会館内)『新生活』第2号

1939年10月 沖縄生活更新協会(昭和会館内)『眞生活』第3号

1939年5月 沖縄生活更新協会『新生活』第2号(当山正堅)
□最近改めたる県内名士の復姓
勝連盛常→山田盛常
嘉数詠俊→日高詠俊
饒平名紀腆→長田紀腆
玻名城長好→山田長好
勢理客宗正→町田宗正
我謝昌饒→重久昌饒
渡嘉敷唯秀→新川唯秀
仲兼久吉盛→宮里吉盛


□式場隆三郎 しきば-りゅうざぶろう
1898-1965 大正-昭和時代の精神医学者。
明治31年7月2日生まれ。静岡脳病院院長などをへて式場病院をひらく。昭和21年ロマンス社社長となり,「ロマンス」「映画スター」などを発行。ゴッホ研究家,放浪の画家山下清の後援者としても知られる。昭和40年11月21日死去。67歳。新潟県出身。新潟医専卒。著作に「ヴァン・ゴッホの生涯と精神病」など。(→コトバンク)



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Posted by: ryubun02
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08/06: 池原清子

Category: 01-人物名鑑
Posted by: ryubun02


1987年3月 那覇市企画部文化振興課『明治・大正生まれの作家たち』


1985年4月4日『沖縄タイムス』「喫茶室」
□池原清子さん(83)は、県人には珍しい南画家。日本南画院会員で、現在、京都で開催中の第25回記念日本南画院に「私のすきな山水」=150号=を出品している。昨年は、石垣市川平で取材した「私の川平湾」=(150号)=を出品した。両作品とも秀作賞を受賞「この年で、好きな絵を描き、賞がもらえるのはうれしいですね」と笑顔で感想を述べた。独り暮らしだが、自宅のアトリエで絵も教えている「この道40年」のベテラン。雅号は池原胡捷(蝶)。

池原さんは、那覇市の生まれ。詩人の国吉真哲氏夫妻とは小学校時代からの友人で、今も交際を続けている。「私が短歌や絵に親しむようになったのも、国吉氏の感化です。沖縄に旅行すると、お訪ねして旧交を温めています」とうれしそうだ。

東京にあこがれ、19歳で上京、東京中央工業校製図科に学んだ。卒業後、国鉄の東京鉄道管理局に入る。仕事は、鉄道の線路、駅などの製図担当。課内では、文字通りの紅一点で、職業婦人の草分け。「自分で製図または設計した駅などをみるとやりがいを感じました」と、なつかしそうだ。結婚し子供もできたが、3歳で死亡。その後、一人になり独身を通している。

40歳過ぎから、南画と短歌を始め、定年後は本格的に取り組んだ。「絵と短歌は、私の生きがい。おかげでボケにもなりません」とくったくがない。目も耳も達者で、年齢より若くみえる。南画は心象画で、自分の美意識を素直に表現できるのが気に入っているとか。15年前から日本南画院展の常連。短歌歴も長く吾妹(わぎも)短歌会同人。同会40周年記念歌集(昭和38年発行)には、20数首収録されている。「やりたいのがたくさんある。がんばらなくちゃあ」と胸を張った。
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1957年7月 沖縄詩人グループ『環礁』創刊号 あらかわ・あきら「風と砲弾とブリキ看板と」「島は雨模様」/同人ー牧港篤三、松島弥須子、船越義彰、真栄城啓介、池田和、池宮治、大湾雅常、あらかわあきら
1958年4月 沖縄詩人グループ『環礁』第2号 あらかわ・あきら「颱風眼の中のボク」
1958年11月 沖縄詩人グループ『環礁』第3号 糸数正雄「おがむ」/あしみね・えいいち「Despair」 /松島弥須子「内なる狂想曲」「演出者の群」/大湾雅常「心象のオムニバス」/牧港篤三「コタン」/真栄城啓介「誕生日に」/池田和「詩人考」/船越義彰「ある会話」/新川明「基地の島を出る!」/池田和「長詩への移行」
1959年12月 沖縄詩人グループ『環礁』第4号 
□環礁だよりー沖縄人は歴史的に被圧迫民族として長い抑圧の時間を通って来たため、忍従がすでに第二の習性となり、精神的な萎縮という根深い病巣を形成している。大宅壮一氏はいみじくもこの症状を指摘した。彼の発言に対して沖縄の歴史的事実を無視しているとか、沖縄人を差別視しているとかいう非難も出たが、そんなことを気にする前に、われわれ自身でこの病根に対する処方箋をつくりあげてわれわれの体質改造にとりかからなくてはならないだろう。この問題に呼応するかのように一つの試練が降って湧いた。中部の石川市に於けるジェット機墜落による、家屋全半焼25棟、死傷136名の惨事である。これをたんなる事故とはせず、基地そのものの破壊性の現れとして徹底的に追求していきたい。(大湾雅常)
1960年2月 沖縄詩人グループ『環礁』第5号 

池田和「環礁」
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仲村渠致良の筆跡

□1951年12月9日『琉球新報』太田良博「木枯しー仲村渠氏の思い出」(1)~(4)12月19日
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1950年11月 仲井間宗裕『沖縄と人物』仝刊行会

山端立昌さんは、西平守晴沖縄関係資料室主宰の親友であった。ときおり資料室に見え、二人で『球陽新報』を配って歩いた話をしていた。また古書の高い沖縄本を資料室に寄贈してくれた。娘さんは琉舞の師匠であったが若くして亡くなった。
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ヤハタ・那覇市



琉球コスミレ・那覇市



トベラ・那覇市

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2012年10月5日~18日 エプソンイメージングギャラリーエプサイト(℡03-3345-9881 新宿三井ビル1F)「戸澤裕司写真展ーカジマヤー(風車祝い)~島人をめぐる断章~」入場無料・日曜日休館
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1970年8月 『太陽』「今月の人ー曽根家の人たち」左から3人目が曽根信一氏


「ニッコールクラブ写真展」(沖縄三越)ー石垣里公(書道教師)、森幸次郎(沖縄県庁広報)、平良正一郎(ソベ電器)、又吉(医師)、山田實、有銘盛紀(那覇市役所)、曽根信一、ビセ(那覇市役所)小橋川門副(写真館)、上江洲清徳(南映劇場) 、伊元源二(沖縄県庁)

金城安太郎展の情報の紙面展開がタイムスは新報に比べて少ないので、6月8日にタイムス出版部の後田多敦氏を訪ねた。氏は6月16日のタイムス文化欄に「琉球の美を求めてー金城安太郎と沖縄美術」を書いたという。そのうち四方山話になり球陽日本画会のことで謝花雲石の名前が出て、写真家の山田實さん保管の雲石の戦前の作品の話になった。後田多氏、学芸部の友利記者に連絡、3人で話をしているうちに取材に行こうということになった。この場合、取材する側、作品を解説する人と山田さんの都合が合わないと取材は成立しない。電話で都合を確認するとお互いに運悪く(?)都合は良いとのこと。新報との兼ね合いもあるというのに。

私が雲石と出会ったのは中学のころ、見聞きしたことがあるが本格的に興味を持ったのが、1972年2月10日、亀岡の大本本部に奉仕活動に来ていた金城ひろみさんに誘われて那覇での大本「琉球国魂鎮座祭」に参加し大本に関心を持ったときである。雲石は戦前から大本の信者であることが分かり親しみを持った。以来、雲石周辺に居た人たちとも出会った。曽根信一(名刺の字は雲石書)照屋栄一親泊元高山田實らの諸氏とも出会うことになる。それはともかく、タイムスには6月9日に「謝花雲石戦前の書見つかる」として1面に載った。新報は山田氏の明治大学の戦後の後輩、宮城記者が取材し、6月17日に「謝花雲石の戦前作発見」として23面に載った。(2009-6-19記)