08/14: 観光文化/博物館の父・島袋源一郎(1885-1942/ 58歳 )
1892年4月 島袋源一郎、今帰仁尋常小学校入学
1896年4月 島袋源一郎、名護の国頭高等小学校に入学
1904年10月20日 『東京人類学会雑誌』第223号 鳥居龍蔵「沖縄人の皮膚の色に就てー余は本年夏期、沖縄諸島を巡回せしが、其那覇滞在中、首里なる同県師範学校、及び高等女学校に於て、男女学徒の皮膚の色を調査なしたり。(助手は伊波普猷で、師範学校の学徒に島袋源一郎・今帰仁間切20歳、仲原善忠・久米島18歳、比嘉春潮・首里21歳、徳元八一・玉城間切20歳、宮城栄昌・久志22歳、諸見里朝清・首里20歳山城篤男・高嶺間切17歳,
新垣信一などの名前がある。)
□当山正堅「時の図画の先生は日本画に堪能な山口瑞雨先生でありましたが、あの頃から洋画も課さねばならなかったので、先生は予め其の描写法を授けることなしに漫然と首里城を写生して来るようにとの日曜宿題を命ぜられたのであります。すると、島袋源一郎氏は唐破風の棟上に登って屋根の大きさから、両端の龍の胴体、髭の長さを測り更に瓦の数まで一々数えて来てから構想を練って描写に取りかかったと云う熱心さに先生も同級生一同も驚いたと云うことでありました。」
1907年3月 島袋源一郎、沖縄県師範学校卒業。 4月 名護訓導
1926年8月 那覇松山校に於いて西村真次「家族国家としての日本」講演
1927年1月 那覇尋高に於いて嘉納治五郎「柔道の原理と精力善用」講演
1927年4月 『沖縄教育』161号 「教育参考館の建設に就いて」「教育参考館記事」
1927年8月26日~4日間 松山小学校で小原國芳「教育道」講演
1928年3月
名護東江小学校卒業式ー前列右から5番目が仲原照子(源一郎の妹)、2列目左から7番目が島袋源一郎(当時校長)→1997年4月 仲原照子『想いの中からー随筆・短歌・俳句など』「戦前の郷土博物館ー首里城内の正殿に向かって、右側南殿があり、左側に博物館に使われた北殿がありました。北殿はかつて冊封使の歓待に利用されたところで中国風の造りになっていました。館内の柱は、円柱の大木が使われ左端に昇り龍、右端に降り龍が彫られ、朱色とややくすんだ赤色が塗られていました。館内には尚家の宝物をはじめ、紅型・陶器・漆器・三味線・書画・馬具・龕などが所狭しと展示されていました。」
1928年10月 城青年団同人雑誌『創造青年』創刊号 島袋源一郎「(略)余は只諸君個人個人が各自自己を完成し生まれた価値のある立派な人となり、更に社会的に何か貢献し死後も地球に足跡を印刻し得る偉大な人物になられんことを冀望して擱筆する次第である。」
1929年3月 『南島研究』島袋源一郎『名護城史考』
□(略)沖縄の祖霊崇拝教では之を信じて居るのである。此の宗教は多神教の程度迄発達しているが種々の障碍の為に停頓状態に陥っているのは寔に遺憾である。若し沖縄の宗教が、すべての祈りを吾等の祖神を通じて大宇宙の支配者たる宗教意識に導き得るならば、自然教の境地を脱却して立派な文明教の中に入ることが出来るのである。
1936年7月 『沖縄教育』第239号(表紙・琉球組踊「銘苅子」の天女) 島袋盛敏「琉球芸能感想記」/上間正敏「古典芸能帝都公演に就て」
1912年10月8日 『琉球新報』伊波普猷「明治聖代紀念事業(本県に於いて如何なる事業を実行す可きか)・博物館が一番よいー明治時代の紀念事業としては博物館が一番よいと思ひますそして其処には主に教育の参考品を集めついでに沖縄の古物も集めたい壁には明治時代に輩出した名高い政治家軍人実業家教育家文学者宗教家美術家俳優等の肖像を掲げついでに明治時代に輩出した沖縄の名士の肖像迄は掲げるやうにしたい」
1916年2月8日『琉球新報』「大典紀念事業ー首里区では旧城『西ノ殿』に大修理を施し以って公会堂を設置すべく其の経費1千円圓を計上して愈愈5年度より2ヵ年継続を以って起工する事になっている。」
1926年5月2日ーベッテルハイム記念碑(ベッテルハイム師が歴訪した10カ国の石をちりばめた記念碑)除幕式。右端上が島袋源一郎
□ベッテルハイム記念碑除幕式は午後3時より波上護国寺境内に於いて挙行。来賓は亀井知事、佐伯裁判所長、志賀重昴、羽田内務部長、岸本那覇市長、知花朝章、里見学務部長、金城那覇市会議長ら。司会者は伊東平次、聖書朗読は佐久原好伝、祈祷が芹澤浩、除幕が知花朝章、建碑之辞、決算報告がイー・アール・ブル、讃美歌は合唱隊、祝祷が神山本淳。記念写真は久志写真館。
島袋源一郎
1932年10月23日ー南山城址南側を歩く。写真左から島袋源一郎、宜保、山崎正董、山崎とね →『写真集 懐かしき沖縄』琉球新報社2000年11月
1937年11月 沖縄師範学校龍潭同窓会『會報』 □仲吉朝睦(県社沖縄神社社司)「惟神の大道」/袋源一郎(沖縄県教育会主事)「同窓の誇と悲」/知念亀千代(東京市月島第一小学校訓導)「手工教育より観たる吾が郷土」
1938年8月28日 午後ー昭和会館で沖縄生活更新協会発会式。式は沖縄県教育会主事島袋源一郎司会のもと進められた。理事長・大城兼義、/理事・當間那覇市助役、勝連首里市助役、上原、眞栄城、新垣各島尻町村会役員、玉井、宮平、伊佐各中頭町村長会役員、仲宗根、山城、池原各国頭町村長会役員、石原宮古町村長会長、大濱八重山町村会長、吉田県社会事業主事、諸見里県社会教育主事、川平女師一高女校長、志喜屋海南中学校長、宮城島尻教育部会長、渡嘉敷中頭教育部会長、比嘉国頭教育部会長、島袋図書館長、金城県農会技師、當眞朝日社長、又吉琉球主筆、親泊日報理事、大城兼義、島袋源一郎、当山正堅、湧上聾人、親泊康永/監事・島袋源一郎、親泊政博/主事・当山正堅/顧問・淵上知事、尚順男、伊江男、平尾貴族院議員、漢那、伊禮、仲井間、崎山、小田各代議士、金城那覇、伊豆見首里両市長、嵩原県会議長、照屋宏、宜保成晴、我如古楽一郎、仲田徳三、盛島明長、長野時之助
1939年3月 沖縄生活更新協会『新生活』(当山正堅)
島袋源一郎□須らく勇往邁進せよー今は我ら大和民族の同胞が八紘一宇の大理想の下に、世界的に飛躍すべき重大な時機に際会している国民の一人一人が最善を尽くして皇国に貢献すべき時である。我等は日本人たるの誇りを持って勇往邁進しなければならぬ。退嬰・卑屈・消極・卑下は禁物である。我等沖縄人は人種学、血清学、言語学、風俗、土俗其他有ゆる角度から考察しても立派な大和民族であり、其の一地方集団であることは各方面の学者が証明している。何を自ら卑下する必要があるか?。然も我等の祖先は激浪と戦って此の南島に渡って来た丈けに実に勇剛であり、驍健であった。四世紀ばかり前欧州人がマラッカ海峡以東に進出して来なかった時代迄日本本土から朝鮮、支那、安南、シャム、呂宋、ボルネオあたり迄の所謂東洋貿易の覇権を掌握していたのは実に我が琉球人であった。西暦1454年以来琉球王は其の港を東亜貿易の一大市場にしょうと努力していたという。
天文の頃葡萄牙人は琉球を「黄金の島大琉球」と称し日本を「銀の島ジャパン」と称していた。目下眞教寺に吊るされている大鐘「中山王殿前に懸くる鐘」の銘に、
琉球國は南海の勝地にして三韓の秀を鍾め、大明を以て輔車と為し、日域を以て唇歯と為し
1939年3月 沖縄生活更新協会(昭和会館内)『新生活』創刊号
1939年5月 沖縄生活更新協会(昭和会館内)『新生活』第2号
1939年10月 沖縄生活更新協会(昭和会館内)『眞生活』第3号
1939年5月 沖縄生活更新協会『新生活』第2号(当山正堅)
□最近改めたる県内名士の復姓
勝連盛常→山田盛常
嘉数詠俊→日高詠俊
饒平名紀腆→長田紀腆
玻名城長好→山田長好
勢理客宗正→町田宗正
我謝昌饒→重久昌饒
渡嘉敷唯秀→新川唯秀
仲兼久吉盛→宮里吉盛
□式場隆三郎 しきば-りゅうざぶろう
1898-1965 大正-昭和時代の精神医学者。
明治31年7月2日生まれ。静岡脳病院院長などをへて式場病院をひらく。昭和21年ロマンス社社長となり,「ロマンス」「映画スター」などを発行。ゴッホ研究家,放浪の画家山下清の後援者としても知られる。昭和40年11月21日死去。67歳。新潟県出身。新潟医専卒。著作に「ヴァン・ゴッホの生涯と精神病」など。(→コトバンク)
1960年6月5日ー島袋源一郎顕彰碑除幕式/墓前、池宮喜輝と村の琉球音楽家たち。
島袋源一郎は、1919年7月、沖縄県国頭郡教育部会発行の『沖縄県国頭郡志』をまとめている。島袋源一郎は同書編纂の際、伊波普猷と真境名安興の校閲と指導を受け、自序で「名所旧蹟、天然記念物、骨董品等の維持は国粋保存上必要なる事なり。然るに近時物質文明の推移に伴ひ此等史料の湮滅に帰しつつあるは遺憾なりといふべし。宜しく各村に於いて其の保存管理の方法を講ぜられん事を希ふ」と記している。伊波普猷も同書に「『汝の立つ所を深く掘れ。其処には泉あり』といふニィチエの警句を私は好んで引用しますが、今一度之を引用することを許してください。(略)誰でも活動しようとする人はまず其の足元に注意せなばなりませぬ。自己から出発せない活動は、ほんの空騒ぎに過ぎませぬ」と記している。
新城栄徳が新沖縄県立博物館・美術館オープンに合わせ『沖縄タイムス』に2007年11月14日から上下で「郷土博物館と島袋源一郎」を書いている。前書きで「昨今、沖縄学の先達たちの評価が賑やかである。先日、本紙文化面で、伊佐真一氏の伊波普猷に対する文章を読んだが、伊佐氏の今回の指摘は、伊波も時代の子で生身の人間だったと言う当たり前のことを私たちに思い出させてくれた。私もその顰(ひそみ)に倣って、戦前に博物館主事を務めた沖縄学の先達の一人、島袋源一郎をあらためて見直し、紹介したい」と書く。新城栄徳は2008年2月9日の『琉球新報』にも同様の趣旨で「沖縄研究の先駆者・東恩納寛惇の足跡をたどる」を書いている。曰く「昨今、琉球学の先達たちへの解釈が賑やかである。伊波普猷は命日を『物外忌』として追憶・顕彰されてきた。伊波の『沖縄学の父』の評価は揺るぎないものとなっている。伊佐真一氏の伊波批判と、同批判に対する反論などで伊波ばかりが話題になり東恩納寛惇が見えにくくなっている」とする。
沖縄の村落調査を熱心に行った島袋源一郎だが、多くの文章はいまだ未発表のものが多い。源一郎の死去後に発刊された1942年の『沖縄教育』5月号は「故島袋源一郎追悼号」で、元沖縄県立図書館長の島袋全発は「部落調査の仕事も七八分は進んだかと思うかと思う時に忽焉として君は逝かれた。君の仕事の多方面であった中にも、これは恐らく最も価値高きものの一つであったと思う。城址、祝殿内、根所からしてその部落を形成する門中を一々解剖してその由来、沿革、現状等を一目瞭然たらしむるもので、古い氏族制度調査の根本資料となるものであった。お嶽、拝所、アシャギ、殿などは悉く由来記等を参酌し、部落の人々に忘れられ果てた由緒ある古跡を的確に指摘して土地の人を驚倒せしむることも度々あった」と源一郎の業績を紹介している。
琉球学の巨人・東恩納寛惇は「郷土博物館として、恐らく日本一であろうと思われるこの事業が、殆ど源一郎君の独力の経営であったとは驚くほかはない。この博物館の特色は、歴史、地理、民族、産業殆ど文化の全部門に亙ってムラがなく、網羅整備されている点である。彼は郷土を知れる事、自分の家庭と同様で、何処に何があり、何人が何を持っていると云う事を袋の物を探る如く知っていた。そればかりでなく、それ等の物を鑑定し、またそれを手に入れるについて、驚く可き才能を有していた。(略)噫、島袋源一郎、彼は沖縄に生まれ、沖縄に育ち、沖縄に学び、しかして、沖縄を生み、沖縄を育て、沖縄を教えた。郷里より受けたるすべてを郷里に返した彼の名は、郷里と共に永久に残るであろう」と源一郎の功績を称えた。
2007年 美術館開館記念『沖縄文化の軌跡1872-2007』に豊見山和美さんが「『われわれ』を生み出す装置としての記録・記憶・歴史」と題して、「博物館は、1936年、『沖縄県教育会附属郷土博物館』が旧首里城北殿を修理・整備して開館した。この沖縄初の博物館の運営に尽力したのは『沖縄県国頭郡志』の著者として著名な島袋源一郎だった。収蔵資料は1939年11月現在で5404点を超えていたとされる。社会集団が存在した『証』としての文物を共有するという営みは始まっていたのである。」と書いて源一郎の仕事を評価している。
濱田耕作 沖繩の旅
1896年4月 島袋源一郎、名護の国頭高等小学校に入学
1904年10月20日 『東京人類学会雑誌』第223号 鳥居龍蔵「沖縄人の皮膚の色に就てー余は本年夏期、沖縄諸島を巡回せしが、其那覇滞在中、首里なる同県師範学校、及び高等女学校に於て、男女学徒の皮膚の色を調査なしたり。(助手は伊波普猷で、師範学校の学徒に島袋源一郎・今帰仁間切20歳、仲原善忠・久米島18歳、比嘉春潮・首里21歳、徳元八一・玉城間切20歳、宮城栄昌・久志22歳、諸見里朝清・首里20歳山城篤男・高嶺間切17歳,
新垣信一などの名前がある。)
□当山正堅「時の図画の先生は日本画に堪能な山口瑞雨先生でありましたが、あの頃から洋画も課さねばならなかったので、先生は予め其の描写法を授けることなしに漫然と首里城を写生して来るようにとの日曜宿題を命ぜられたのであります。すると、島袋源一郎氏は唐破風の棟上に登って屋根の大きさから、両端の龍の胴体、髭の長さを測り更に瓦の数まで一々数えて来てから構想を練って描写に取りかかったと云う熱心さに先生も同級生一同も驚いたと云うことでありました。」
1907年3月 島袋源一郎、沖縄県師範学校卒業。 4月 名護訓導
1926年8月 那覇松山校に於いて西村真次「家族国家としての日本」講演
1927年1月 那覇尋高に於いて嘉納治五郎「柔道の原理と精力善用」講演
1927年4月 『沖縄教育』161号 「教育参考館の建設に就いて」「教育参考館記事」
1927年8月26日~4日間 松山小学校で小原國芳「教育道」講演
1928年3月
名護東江小学校卒業式ー前列右から5番目が仲原照子(源一郎の妹)、2列目左から7番目が島袋源一郎(当時校長)→1997年4月 仲原照子『想いの中からー随筆・短歌・俳句など』「戦前の郷土博物館ー首里城内の正殿に向かって、右側南殿があり、左側に博物館に使われた北殿がありました。北殿はかつて冊封使の歓待に利用されたところで中国風の造りになっていました。館内の柱は、円柱の大木が使われ左端に昇り龍、右端に降り龍が彫られ、朱色とややくすんだ赤色が塗られていました。館内には尚家の宝物をはじめ、紅型・陶器・漆器・三味線・書画・馬具・龕などが所狭しと展示されていました。」
1928年10月 城青年団同人雑誌『創造青年』創刊号 島袋源一郎「(略)余は只諸君個人個人が各自自己を完成し生まれた価値のある立派な人となり、更に社会的に何か貢献し死後も地球に足跡を印刻し得る偉大な人物になられんことを冀望して擱筆する次第である。」
1929年3月 『南島研究』島袋源一郎『名護城史考』
□(略)沖縄の祖霊崇拝教では之を信じて居るのである。此の宗教は多神教の程度迄発達しているが種々の障碍の為に停頓状態に陥っているのは寔に遺憾である。若し沖縄の宗教が、すべての祈りを吾等の祖神を通じて大宇宙の支配者たる宗教意識に導き得るならば、自然教の境地を脱却して立派な文明教の中に入ることが出来るのである。
1936年7月 『沖縄教育』第239号(表紙・琉球組踊「銘苅子」の天女) 島袋盛敏「琉球芸能感想記」/上間正敏「古典芸能帝都公演に就て」
1912年10月8日 『琉球新報』伊波普猷「明治聖代紀念事業(本県に於いて如何なる事業を実行す可きか)・博物館が一番よいー明治時代の紀念事業としては博物館が一番よいと思ひますそして其処には主に教育の参考品を集めついでに沖縄の古物も集めたい壁には明治時代に輩出した名高い政治家軍人実業家教育家文学者宗教家美術家俳優等の肖像を掲げついでに明治時代に輩出した沖縄の名士の肖像迄は掲げるやうにしたい」
1916年2月8日『琉球新報』「大典紀念事業ー首里区では旧城『西ノ殿』に大修理を施し以って公会堂を設置すべく其の経費1千円圓を計上して愈愈5年度より2ヵ年継続を以って起工する事になっている。」
1926年5月2日ーベッテルハイム記念碑(ベッテルハイム師が歴訪した10カ国の石をちりばめた記念碑)除幕式。右端上が島袋源一郎
□ベッテルハイム記念碑除幕式は午後3時より波上護国寺境内に於いて挙行。来賓は亀井知事、佐伯裁判所長、志賀重昴、羽田内務部長、岸本那覇市長、知花朝章、里見学務部長、金城那覇市会議長ら。司会者は伊東平次、聖書朗読は佐久原好伝、祈祷が芹澤浩、除幕が知花朝章、建碑之辞、決算報告がイー・アール・ブル、讃美歌は合唱隊、祝祷が神山本淳。記念写真は久志写真館。
島袋源一郎
1932年10月23日ー南山城址南側を歩く。写真左から島袋源一郎、宜保、山崎正董、山崎とね →『写真集 懐かしき沖縄』琉球新報社2000年11月
1937年11月 沖縄師範学校龍潭同窓会『會報』 □仲吉朝睦(県社沖縄神社社司)「惟神の大道」/袋源一郎(沖縄県教育会主事)「同窓の誇と悲」/知念亀千代(東京市月島第一小学校訓導)「手工教育より観たる吾が郷土」
1938年8月28日 午後ー昭和会館で沖縄生活更新協会発会式。式は沖縄県教育会主事島袋源一郎司会のもと進められた。理事長・大城兼義、/理事・當間那覇市助役、勝連首里市助役、上原、眞栄城、新垣各島尻町村会役員、玉井、宮平、伊佐各中頭町村長会役員、仲宗根、山城、池原各国頭町村長会役員、石原宮古町村長会長、大濱八重山町村会長、吉田県社会事業主事、諸見里県社会教育主事、川平女師一高女校長、志喜屋海南中学校長、宮城島尻教育部会長、渡嘉敷中頭教育部会長、比嘉国頭教育部会長、島袋図書館長、金城県農会技師、當眞朝日社長、又吉琉球主筆、親泊日報理事、大城兼義、島袋源一郎、当山正堅、湧上聾人、親泊康永/監事・島袋源一郎、親泊政博/主事・当山正堅/顧問・淵上知事、尚順男、伊江男、平尾貴族院議員、漢那、伊禮、仲井間、崎山、小田各代議士、金城那覇、伊豆見首里両市長、嵩原県会議長、照屋宏、宜保成晴、我如古楽一郎、仲田徳三、盛島明長、長野時之助
1939年3月 沖縄生活更新協会『新生活』(当山正堅)
島袋源一郎□須らく勇往邁進せよー今は我ら大和民族の同胞が八紘一宇の大理想の下に、世界的に飛躍すべき重大な時機に際会している国民の一人一人が最善を尽くして皇国に貢献すべき時である。我等は日本人たるの誇りを持って勇往邁進しなければならぬ。退嬰・卑屈・消極・卑下は禁物である。我等沖縄人は人種学、血清学、言語学、風俗、土俗其他有ゆる角度から考察しても立派な大和民族であり、其の一地方集団であることは各方面の学者が証明している。何を自ら卑下する必要があるか?。然も我等の祖先は激浪と戦って此の南島に渡って来た丈けに実に勇剛であり、驍健であった。四世紀ばかり前欧州人がマラッカ海峡以東に進出して来なかった時代迄日本本土から朝鮮、支那、安南、シャム、呂宋、ボルネオあたり迄の所謂東洋貿易の覇権を掌握していたのは実に我が琉球人であった。西暦1454年以来琉球王は其の港を東亜貿易の一大市場にしょうと努力していたという。
天文の頃葡萄牙人は琉球を「黄金の島大琉球」と称し日本を「銀の島ジャパン」と称していた。目下眞教寺に吊るされている大鐘「中山王殿前に懸くる鐘」の銘に、
琉球國は南海の勝地にして三韓の秀を鍾め、大明を以て輔車と為し、日域を以て唇歯と為し
1939年3月 沖縄生活更新協会(昭和会館内)『新生活』創刊号
1939年5月 沖縄生活更新協会(昭和会館内)『新生活』第2号
1939年10月 沖縄生活更新協会(昭和会館内)『眞生活』第3号
1939年5月 沖縄生活更新協会『新生活』第2号(当山正堅)
□最近改めたる県内名士の復姓
勝連盛常→山田盛常
嘉数詠俊→日高詠俊
饒平名紀腆→長田紀腆
玻名城長好→山田長好
勢理客宗正→町田宗正
我謝昌饒→重久昌饒
渡嘉敷唯秀→新川唯秀
仲兼久吉盛→宮里吉盛
□式場隆三郎 しきば-りゅうざぶろう
1898-1965 大正-昭和時代の精神医学者。
明治31年7月2日生まれ。静岡脳病院院長などをへて式場病院をひらく。昭和21年ロマンス社社長となり,「ロマンス」「映画スター」などを発行。ゴッホ研究家,放浪の画家山下清の後援者としても知られる。昭和40年11月21日死去。67歳。新潟県出身。新潟医専卒。著作に「ヴァン・ゴッホの生涯と精神病」など。(→コトバンク)
1960年6月5日ー島袋源一郎顕彰碑除幕式/墓前、池宮喜輝と村の琉球音楽家たち。
島袋源一郎は、1919年7月、沖縄県国頭郡教育部会発行の『沖縄県国頭郡志』をまとめている。島袋源一郎は同書編纂の際、伊波普猷と真境名安興の校閲と指導を受け、自序で「名所旧蹟、天然記念物、骨董品等の維持は国粋保存上必要なる事なり。然るに近時物質文明の推移に伴ひ此等史料の湮滅に帰しつつあるは遺憾なりといふべし。宜しく各村に於いて其の保存管理の方法を講ぜられん事を希ふ」と記している。伊波普猷も同書に「『汝の立つ所を深く掘れ。其処には泉あり』といふニィチエの警句を私は好んで引用しますが、今一度之を引用することを許してください。(略)誰でも活動しようとする人はまず其の足元に注意せなばなりませぬ。自己から出発せない活動は、ほんの空騒ぎに過ぎませぬ」と記している。
新城栄徳が新沖縄県立博物館・美術館オープンに合わせ『沖縄タイムス』に2007年11月14日から上下で「郷土博物館と島袋源一郎」を書いている。前書きで「昨今、沖縄学の先達たちの評価が賑やかである。先日、本紙文化面で、伊佐真一氏の伊波普猷に対する文章を読んだが、伊佐氏の今回の指摘は、伊波も時代の子で生身の人間だったと言う当たり前のことを私たちに思い出させてくれた。私もその顰(ひそみ)に倣って、戦前に博物館主事を務めた沖縄学の先達の一人、島袋源一郎をあらためて見直し、紹介したい」と書く。新城栄徳は2008年2月9日の『琉球新報』にも同様の趣旨で「沖縄研究の先駆者・東恩納寛惇の足跡をたどる」を書いている。曰く「昨今、琉球学の先達たちへの解釈が賑やかである。伊波普猷は命日を『物外忌』として追憶・顕彰されてきた。伊波の『沖縄学の父』の評価は揺るぎないものとなっている。伊佐真一氏の伊波批判と、同批判に対する反論などで伊波ばかりが話題になり東恩納寛惇が見えにくくなっている」とする。
沖縄の村落調査を熱心に行った島袋源一郎だが、多くの文章はいまだ未発表のものが多い。源一郎の死去後に発刊された1942年の『沖縄教育』5月号は「故島袋源一郎追悼号」で、元沖縄県立図書館長の島袋全発は「部落調査の仕事も七八分は進んだかと思うかと思う時に忽焉として君は逝かれた。君の仕事の多方面であった中にも、これは恐らく最も価値高きものの一つであったと思う。城址、祝殿内、根所からしてその部落を形成する門中を一々解剖してその由来、沿革、現状等を一目瞭然たらしむるもので、古い氏族制度調査の根本資料となるものであった。お嶽、拝所、アシャギ、殿などは悉く由来記等を参酌し、部落の人々に忘れられ果てた由緒ある古跡を的確に指摘して土地の人を驚倒せしむることも度々あった」と源一郎の業績を紹介している。
琉球学の巨人・東恩納寛惇は「郷土博物館として、恐らく日本一であろうと思われるこの事業が、殆ど源一郎君の独力の経営であったとは驚くほかはない。この博物館の特色は、歴史、地理、民族、産業殆ど文化の全部門に亙ってムラがなく、網羅整備されている点である。彼は郷土を知れる事、自分の家庭と同様で、何処に何があり、何人が何を持っていると云う事を袋の物を探る如く知っていた。そればかりでなく、それ等の物を鑑定し、またそれを手に入れるについて、驚く可き才能を有していた。(略)噫、島袋源一郎、彼は沖縄に生まれ、沖縄に育ち、沖縄に学び、しかして、沖縄を生み、沖縄を育て、沖縄を教えた。郷里より受けたるすべてを郷里に返した彼の名は、郷里と共に永久に残るであろう」と源一郎の功績を称えた。
2007年 美術館開館記念『沖縄文化の軌跡1872-2007』に豊見山和美さんが「『われわれ』を生み出す装置としての記録・記憶・歴史」と題して、「博物館は、1936年、『沖縄県教育会附属郷土博物館』が旧首里城北殿を修理・整備して開館した。この沖縄初の博物館の運営に尽力したのは『沖縄県国頭郡志』の著者として著名な島袋源一郎だった。収蔵資料は1939年11月現在で5404点を超えていたとされる。社会集団が存在した『証』としての文物を共有するという営みは始まっていたのである。」と書いて源一郎の仕事を評価している。
濱田耕作 沖繩の旅