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1924年10月 坂口総一郎『沖縄植物総目録』石塚書店

1926年1月ー坂口総一郎『沖縄写真帖』/池野成一郎□序ー私は大正14年1月沖縄本島を旅行した。しかも此写真帖の著者坂口君の御親切な案内を受けて、その旅は実に愉快であった。その旅の事を考えると今でもその時の愉快さがありありと頭の中に浮み出でて胸のあたりがすつとする。私は旅が大好きだ。明治21年生まれて初めての旅をして以来私は毎年多少の旅行をしない事はない。外国の旅行は別として日本内地は勿論、台湾、朝鮮、樺太その外小笠原島や対馬、隠岐の様な離れ島でも私の足はその土を踏んでいる。その数百回に亘る旅行はいつでも多少面白かつたに相違ないが併し大正14年1月の沖縄旅行は私が尤も面白いと思つた旅行の中の一つである。沖縄にはフルギがある、ヘゴがある、アダンがある、ガジュマルがある、植物の平凡な東京に住む植物学者の私に取つて沖縄が面白いのは当然だが併し沖縄の面白いのはただ植物ばかりでは無い。動物も面白い、風俗、建物、言語、風景皆内地と違つているから面白い隋つて植物学者も行くべし、動物学者も行くべし、人類学者も、建築学者も、博言学者も誰れも彼れも、苟くも珍奇な事物を見て智識を得ようと思ふ人は皆行くべしだ。併し如何に沖縄へ旅行したくとも暇のない人もあり、又旅費が思ふ様にならない人もある。それ等の人は此写真帖を見て沖縄の動植物や、建物、風俗抔の一班を知るがよい。尚ほ沖縄も内地との交通が繁くなるにつれ、風俗等も段々内地のものに近くなり、古い建築物も追々朽ちはて、おまけにヘゴやヒルギの様な珍しい植物がやたらに切り倒される今日だから今の内に此写真帖が出版されるのは誠に時を得たものだと思ふ。此点に於て坂口君の御骨折を感謝すると同時に此写真帖が第三輯以下次々と出版される事を祈る。


1960年1月17日『琉球新報』坂口総一郎「順応する生活態度ー40年前クリ舟で体験した人生観」

坂口総一郎 さかぐち そういちろう 1887-1965
 和歌山県海草郡岡崎(現・和歌山市岡崎)生まれ。博物科教員。大正七(一九一八)年、海草中学校(現・向陽高校)教諭、同九年十一月より沖縄県立第一中学校に赴任、同十四年、和歌山県師範学校教授となり、昭和三年には県史蹟名勝天然記念物調査委員、同四年、行幸事務委員なども務めている。『紀州植物目録』等の著書がある。
 熊楠を尊敬し、大正九年八月、熊楠の高野山植物調査に、同じ海草中学の同僚、宇野確雄(一八九一~一九八四)を誘い随行、三日余の起居を共にした。この時、坂口は愛用のカメラを持参、熊楠の動静を数枚の写真に収め、後日「南方先生の高野登山随行記」を『大阪朝日新聞』(紀伊版)に投稿した。だが、この投稿とそれに添えた写真が「新聞に出さぬ約束にて大門辺でとりし写真を新聞に出せし」として熊楠の逆鱗(げきりん)に触れ、以後疎遠が続くことになる。この時宇野にも写真があったことが最近わかった。それは東京・高田屋での撮影として周知の浴衣を裏返して着た全身像で、宇野はこれに「一乗院裏庭でピントを合わせるいとまもなく自分が写した」といった意味の説明を付している。
 昭和四年、昭和天皇の紀伊行幸にあたり、坂口は行幸事務委員(文書係)を務め、その後、白浜に建設された行幸記念博物館長などにも就いた。 〔中瀬 喜陽〕
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1926年8月 久場長文『琉球植物帯』沖縄県教育会

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1、大正15年4月  世界社を創設し社主兼主幹として『世界』を経営した。『世界』は日本の「ネーション」誌を以て任じたが時代に先行しすぎて永続しなかった。→永丘智太郎 略歴 〇岩波書店の雑誌『世界』は1946年1月創刊、誌名は谷川徹三の発案。


□『世界』創刊号は新垣讓氏が熊本県立図書館に所蔵されていることを突き止めて書誌的なコピーを新城栄徳に贈られた。
大正15年11月1日 『世界』創刊号 編集発行・饒平名智太郎 発行・世界社/発刊の言葉ー『世界』が世の光を見るまでには1年かかりました。人は胎内にあること10ヶ月にして産声をあげますけれど、『世界』は、編者の頭の中で丸1年育くまれました。実に難産でありました。難産であっただけに、生れた『世界』は、雄々しく颯爽たる姿をしています。/評論雑誌界が、一般に行詰ったといふことをよく聞きます。それは今までの雑誌が、読者本位でなく、経営者たる資本家本位であるがため、無暗と厖大に編輯されるからであります。この評論雑誌界の行詰りを転向するのが、『世界』の使命であります。/『世界』は読者のインタレストにたいしては、どんな犠牲も拂ふことを辞しない、読者のための読者の雑誌であらしめたいと思っています。この點で『世界』は、十分に存在の理由をもちます。/『世界』は評論雑誌界の新しい方向を指す革命児で、読者以外に何等の背景がないといふことも断言出来ます。
目次
岡本一平「政治漫画」/安倍磯雄「公平なるべき選挙」/堀江帰一「社会問題の研究、運動と学生」/青野李吉「文芸・社会雑感」/長田新「現代の教育哲学に就て」/三輪寿壮「労農党成立後の活動」/三宅雪嶺「後藤子の最近政治運動」/馬場恒吾「普選市議選の教訓」/山川均「無産階級運動の左右両翼の対立」/長谷川如是閑「二三の断想」
創作ー佐藤春夫「白服の悲しみ」/藤森成吉「ゴッホの花」/尾崎士郎「ピストル」/片岡鉄兵「身を固める」/小川未明「生物動揺」/芥川龍之介「鴉片」
海外論断
澤田謙「『自動車王』フオード」/下田将美「堅実なる財界整理に禍する日銀の利下」/遊佐敏彦「婦人職業生活の諸相」/石川武美「経営一家言」/饒平名智太郎「英国炭鉱争議の大立物クック」/國富信一「秋の空」/三角頭巾「内務省の人事系統」/三宅大輔「六大学野球リーグ戦予想」/森光子「ある遊女の実話」 
六大学通信


永丘智太郎 略歴
本籍         東京都北多摩郡武蔵野市吉祥寺2733
住所         千葉県印旛郡遠山村三里塚沖縄農場
東京のアドレス   都下田無町2729 誠和寮内永丘私室
出生地        沖縄県那覇市若狭町
出生年月日     明治24年2月3日
旧姓         饒平名を廃し祖父永丘家を復興
 
写真ー饒平名智太郎/昭和13年2月19日『琉球新報』「改姓広告」

学業
1、明治41年3月   沖縄県立中学校を卒業した。
○1908年・第20回卒業ー新垣朝光(県属)、上原章、上間長八(今帰仁今泊)、奥島憲慶(読谷山小学校長)、大嶺眞和、大湾政順(那覇市役所)、大見謝恒英(百四十七銀行那覇支店)、大湾喜福、嘉手川重輪(大阪税務監督局)、垣花恵祥(県庁)、我部政仁(東京小学教員)、嘉手川重位(那覇松山小学訓導)、川津博(早稲田文科卒)、神里常吉、金城嘉輔、嘉手納順範(在東京)、金城蒲戸(安里小学校訓導)、我謝秀輝、金城至蒲、許田重発(那覇尋常高等小訓導)、岸本幸厚(沖縄タイムス理事)、宜名眞邑挙(真和志小学校訓導)、久高将吉(工学士 京都市上市区田中町字大溝6)、城間垣貴(東京小学教員)、國吉良實(明大卒 泉崎)、小波津保光 、小橋川照顕(那覇市議)、小湾喜長(私立農業大学卒 中頭郡 技手)、佐久川恵柔(台南製糖会社嘉手納工場)、佐多忠三(台南製糖宜野湾工場)、島袋賀麻、謝花寛廉(在東京)、鹽谷亥之助、垂野光久、玉城友善(早稲田卒 本校在勤)、大工廻盛敏(沖縄県物産検査所産業主事補)、高志武盛蔚(津波小学校訓導)、照屋寛純(首里男子校訓導)、渡久地政佑(台南製糖会社高嶺工場)、東郷實(鹿児島県)、長友一郎(東京高商卒 郵船会社孟買支店)、名城嗣敏(在東京)、仲尾次政潤、名城嗣頼(南米ペルー)、今帰仁朝興(中頭郡書記)、仲吉良光(早稲田文科卒 在米)、今帰仁朝規(早稲田文科卒 糖商組合)、長嶺精一(佐敷小学校)、饒平名智太郎(在東京 改造社)、西平守由(広島高等師範卒 本校教諭)、新名栄蔵(那覇区旭町)、樋口敏彦(東京高工教員養成所卒 東京市役所建築課都市計画部)、比嘉賀秀(牧師)、弘中一郎、外間善助(国頭郡屁辺野喜小学校長)、外間誠昌(師二卒)、真境名安行(熊本医専卒 中頭郡勝連村医)、眞玉橋朝信(南風原小学校訓導)、又吉康和(名護)、松村嘉實(師二卒)、宮城普本(熊本医専卒 在大阪)、森田孟睦(高工卒 東京警視庁)、飛岡太郎(基隆台湾倉庫株式会社)、屋我宗恭(沖縄朝日新聞社)、山口房良(首里女子小学校長)、屋部憲重(泊小學訓導)、山城次郎(在南米)、吉嶺伊津(神戸山中廻送店)→1923年2月 沖縄県立第一中学校同窓会『同窓会報 第一号』


1、それから東京高等商業学校(明治42年4月)と上海の東亜同文書院(大正3年4月)に県費で入学したが、前者は家事の都合、後者は病気のため、何れも中退に終わった。大体学校よりも独学で素養をつけた。

1911年7月 饒平名智太郎、物産陳列所雇(~1912年6月)


1912年10月28日『琉球新報』

職業
1、大正5年9月   北京の共同通信に英文記者として入社3年間勤務した。

1、大正8年9月   改造社に記者として採用され、6年間の在勤中印度及びロシア問題を研究した。此間に北支、満州、シベリア(浦塩)に遊んだ。孫文、ヨツフエ、カラハン、片山潜等に知遇を得たのも此時代。浦塩に行ったのは、関東震災羅災労働者救援委員会(松岡駒吉、布施辰治其他学者グループを以て構成)の代表としての資格であった。

1922年4月  『改造』饒平名智太郎「真理の把握とガンヂーの運動」
1922年5月  『改造』饒平名智太郎「サチャグラハ運動」
1922年5月  鹿子木員信②・饒平名智太郎『ガンヂと真理の把握』改造社
②鹿子木 員信(かのこぎ かずのぶ、1884年(明治17年)11月3日 - 1949年(昭和24年)12月23日)は、日本の哲学者、海軍軍人。最終階級は海軍機関中尉。大日本言論報国会の事務局長として国粋主義思想運動をリードし、戦後はA級戦犯容疑者として逮捕された。妻は教育者である鹿子木コルネリア、息子にベルリンオリンピックに出場したバスケットボール選手、鹿子木健日子がいる。「プラトン哲学の研究」で文学博士(東京帝大)。→ウィキペデイア

1922年8月  饒平名智太郎『ガンヂ審判の日』改造社
1922年10月 『改造』饒平名智太郎「松岡駒吉君」
1922年11月 『改造』饒平名智太郎「ケマール・パシャ」
1923年4月  『改造』饒平名智太郎「水平社大会特派記ー(略)水平運動は決して彼等のみの解放運動に止まってはいけない。彼等の解放運動であると同時に、全無産階級を解放するの運動でなければならない。幸ひ彼等はその方向を指して突進しつつあるのを私は見た。私は彼等の前途を祝福しながら筆を擱かう。」
1924年3月  『改造』饒平名智太郎「ルイコフの片鱗」



1961年1月11日『沖縄タイムス』永丘智太郎「遺稿・難民のころ」①~1月18日⑦
御料牧場の開放ー昭和20年10月ごろ、久米島出身の与世盛智郎①(本願寺の海外布教師)が中支方面から引き揚げて来ていた。引き揚げ者やら復員軍人やら彼を取り巻く一族郎党は多く皆が困っていたので、いわゆる集団入植を計画して沖縄協会に何べんか私を訪ねて来た。富士山の麓か浜名湖の近くにある御料地は如何だろうかという話であった。彼は農業をやった経験はなし、入植適地か如何か、だれも下検分に行ったわけではなかったから、私も容易に動こうとはしなかった。

私は戦前、与世盛君とは一度会ったことがあり、宮城聡が私の職場に連れて来て紹介されていたので、人間的に信頼をおいていた。そこへ行くと理事長の伊江さんは、初対面の素性のわからない人には警戒的であった。幸いなことに、沖縄協会に来てくれた那覇の人で城間君(恒加翁の長男)といって、慶応大の助手をしていて、毎年夏になると実習に千葉県の三里塚御料牧場に行ったことがあり牧草地帯だから地味肥沃で絶好な入植地だと太鼓判をおしてくれた。この城間君を与世盛君に紹介することによって、初めて与世盛君のアイディアも生かされた。現地へは、同君が率先して久米島の若い人々を連れて調査に乗り込むし、山城君や儀間君など血気盛んな青年たちも視察に行って、極めて入植適地であることがわかったので、私は初めて宮内庁は御料地百町歩の開放ー「郷土を失って帰ろうにも帰れない沖縄の難民を、沖縄協会においてあっせん入植させたいから、特別の詮議で許可を乞う」旨の陳情書をしたためた。伊江男や高嶺君も宮内庁の官僚に知人があって奔走してくれた。宮内庁への運動には、伊江さんは当時まだ顔がきいた。

そこで沖縄協会としては、神奈川逗子の沼間寮、横浜金沢八景の引揚寮、および埼玉県のわらび寮に収容されていた県人から入植希望者を募集し、与世盛君を団長として18人の先遣隊を現地に送り込んだのは、昭和21年3月6日であった。この中から現在に至るまで定着している者は、11人あり、唯一人の婦人として私の家内が初めから加わっていた。この先遣隊が、いわば三里塚開拓の中核隊であり、久米島一統が5家族あった。(それから二次三次の入植補欠募集で久米島は更に数家族増えた)その後、宮内庁はマッカーサー総司令部の強要によって、全国にある大部分の御料地を放擲せねばならなかった。三里塚においては、千四百町歩の内千町歩は大蔵省へ物納(税金)として収めることになり、大蔵省はその土地をそっくり開拓財産として農林省へ回付した。農林省は、千葉県の開拓課に処分を一任した。宮内庁からは、千葉県知事に対して沖縄協会へは、優先的に土地を分譲するよう特別の指示を出してくれ、その旨沖縄協会へも通達があった。


『久米島と私』/上江洲智泰

■2002年の10月、久しく山之口貘記念会を預かっていた若夏社の山川敏江さんの案内で上江洲智一氏に会い、父君・智泰の回想録『久米島と私』を頂いた。中に南満の公主嶺に航空兵として滞在した話、上海で布教していた義父・与世盛智郎(西本願寺僧侶)と千葉県三里塚の御料牧場を永丘智太郎名(沖縄人連盟)で宮内省、千葉県との交渉、「沖縄農場」として入植した話、そこで世話になったのが与世里盛春農業学校校長だったことが記されている。


与世盛智郎1981年ー与世盛智郎『50年計画ー理想の久米島建設』/1979年3月ー与世盛智郎『沖縄仏教読本ー本願寺派』久米島本願寺布教所/真喜志康徳氏宛の与世盛智郎ハガキ
    写真ー与世盛智郎①


1947年11月28日『自由沖縄』


1947年8月15日『自由沖縄』

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 ○昨今、アベ・アソウ政権は゛戦争法〟゛秘密法〟を成立させ、言論統制チームをつくり安倍外交の胡散臭さがいよいよ匂ってきます。NHKのニュースナインは政府広報番組か。国民の「核アレルギー」を洗脳するに忙しい。また国家機関(防衛局・警察・海保・沖縄総合事務局、裁判所など)を総動員し辺野古の「核弾薬庫」跡に、自然破壊を企てて核基地を造るに忙しい。今は北朝鮮を例にするまでもなく、ボタン戦争の時代である。アメリカにとって核基地は必要性がない。この辺野古新基地は日本の核保有の準備と思われるが、これも秘密法で真相は闇であるが、秘密である以上、想像を逞しくしないとジャメリカ軍事利権産業の思うつぼである。近い将来、作られる側の辺野古住民はいつも核事故の不安に悩まされるだろう。ま、その上空をオスプレイやハリアーなどは飛ばさないと思うが、常に権力(利権)に対し猜疑心が必要だと思う。

〇大成建設でネット検索すると色々面白いのが一杯出てくる。「五輪のスタジアムが菅官房長官の息子が入社したとされる大成建設が再び受注しました。辺野古も大成建設が受注するとされており、明らかな利権政治をやっていると批判」「東京五輪/大成建設、森喜朗、 都議会のドン内田茂の利権が凄い! 安倍晋三・麻生太郎・菅義偉が癒着! 大成と提携する 米戦争屋系企業ベクテル!」。

〇アベ総理がお嫌いな週刊誌に次の文句「森友学園疑惑がこれほどクローズアップされるのも、安倍首相はじめ政権中枢に綺羅星のように並ぶタカ派政治家人脈が次々に登場」。連動して森友学園疑惑の渦中の人・松井大阪府知事は、以前、日本の核兵器保有の是非について「(トランプ大統領が同盟見直しを提起したら)日本はどうするのか、政治家が真剣に議論しないといけない。完全な集団的自衛権という方向か、自国で軍隊を備えるか。そういう武力を持つなら、最終兵器が必要になる」と語った。さらに、日本の核保有について「被爆国だからやめた方がいいと思うが、米国の軍事力がなくなったら、夢物語で何とかなるでは済まない」とアベ政権でも触れない核保有を強調。そう夢物語ではないのだ。現実に核貯蔵庫はオオサカというと次の選挙でおおさか維新が全滅しかねないので此処は矢張り核貯蔵庫はオオサカから遠いオキナワかフクイ❔。(S)

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1936年6月18日ー昭和会館で「実業学校協会第二回研究発表会」
勝連盛英「開会の辞」/商業校・安座間永盛「資産評価と減価償却に就いて」/農林校・我謝栄彦「砂糖の常識」/水産校・西村憲五「魚糧に関する新見解」/工業校・貴島兼文「印刷の常識」/沖縄製糖株式会社・末廣幸次郎(特別講演)「県状の認識と振興の方途」


1936年9月『沖縄教育』第241号 我謝榮彦「砂糖の常識」(1)
〇目次ー1、砂糖の起源/1、本県に於ける甘蔗栽培及び製糖の起源/本県産業上に於ける砂糖の位置/1、本県農業上に於ける砂糖の位置/5、本県含蜜糖の移出先/6、黒糖の品位/7、世界に於ける日本糖業の位置/8、砂糖の消費量/9、砂糖の消費税

1936年10月『沖縄教育』第242号 我謝榮彦「砂糖の常識」(下)
10、砂糖の種別/11、砂糖の性状/12、砂糖の栄養価値/13、砂糖の物質代謝/14、砂糖品質の鑑識法/15、砂糖取扱上の及使用上の注意/16、其の他



我謝栄彦 がじゃ-えいげん
1894-1953 大正-昭和時代の農業技術者。
明治27年7月8日生まれ。昭和18年農事試験場普天間(ふてんま)試験地主任技師となる。戦後は与儀(よぎ)農事試験場長。サツマイモなどの品種改良にとりくみ,新種「比謝川(ひじゃがわ)」1号・2号を育成した。沖縄農業に関する著作もおおい。昭和28年3月15日死去。58歳。沖縄県出身。中頭(なかがみ)農学校卒。→コトバンク
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1936年9月『沖縄教育』第241号 真栄田義見「漢字は隠退すべきか」


写真左から具志堅宗精復旧期成会長、真栄田義見、川平朝申、不詳、山里永吉

1968年11月『今日の琉球』真栄田義見「弁財天堂の復元なるー474年前の宝形作りを再現」

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1925年 秋ー𤘩宮城昇、仲泊良夫(白金三光町の明治学院文科の寄宿舎)と伊波文雄(小石川の伊波普猷宅に寄宿)に連れられて中野の山里永吉下宿を訪ねる。仲泊の同級生に仲村渠、渡辺修三、平川泰三、矢島などがいた。またダダイストの辻潤、詩人サトウハチロー、後藤寿夫(林房雄)らと交遊していた。

沖縄/ 1933年7月 『詩誌 闘魚』第貮輯 カット・装・ジュン
 仲泊良夫「抽象の魔術ー(略)言語は残酷な死刑執行人である。私は自分の書きたいと思う事を書いていない。脳髄を全部露出することは醜悪なる猿である。創造を現実的に考えることは私には不可能である。凡ての現実は凡ての箴言に過ぎない。私は箴言を信じないように精神を信じない。抽象を精神的に考える人間は浪漫的な猫に過ぎない。抽象は異常なる砂漠の花に等しい。抽象は夢想ではない。私は私の創造に就ては極端に孤独なタングステン電球である。人間の馬鹿げた文學活動それはインク瓶をさげた犬の活動にすぎない。どうして諸兄は対象に向かって本能的批判をするのか。詩人のスタイルは本能の鎖をたちきった時に開くバラである。・・・」

闘魚消息ー 山之口貘氏・通信は東京市本所区東両国4ノ56吉川政雄気付/與儀二郎氏・6月10日出覇/仲泊良夫氏・島尻郡与那原2080/比嘉時君洞氏・6月初め久米島より出覇/泉國夕照氏・5月下旬退院/山里永吉氏・『戯曲集』新星堂書房より近く刊行さる、目下印刷中/國吉眞善氏・第参輯より闘魚同人加盟/イケイ雅氏・病気療養中。

沖縄/1933年9月 『詩誌 闘魚』第参輯 カット・装・ジュン
仲泊良夫「世界の創造ー或ひは観念への革命ー乾燥した時間に於て生誕する救世主/循環する世界それは革命する世界である/透明な詩人の純粋の夢/海底の少女と海底の美少年の戦争」 
  馬天居士『おらが唄』石敢當社(豊見城高良)ー著者馬天居士氏は、ゴミゴミした都会に住んでいる人ではない。そして世に謂う文藝人ではない。氏はあくまでも土に生きる人であり、野に遊ぶ人である。この”おらが唄〝の一巻を愛誦してみたまえ。俳句あり、川柳あり、短歌あり、そして軍歌あり、更に琵琶歌がある。だがそれらの作品はわれわれに何を考えさせるか。われわれは文藝意識に縛られている自分らのいぢけた存在をふりかえってにるにちがいない。それだけにおらが唄の一巻は、野性的な香りを放ち、自由な奔放さに流れ、また一面には辛辣すぎる皮肉さがある。社会のあらゆる階級的の上に端座したる馬天居士氏の八方睨みの静けさを愛する。

  闘魚消息ー 與儀二郎氏・7月御祖母死去謹んで哀悼を表す/ 外山陽彦氏・島尻郡久米島仲里村役場気付/新屋敷幸繁・8月10日帰省。8月28日上鹿/南青海氏・与那原216/宮里靜湖氏・島尻郡久米島仲里校/川野逸歩氏・島尻郡具志川村役場/伊波南哲氏・東京市淀橋区淀橋643/志良堂埋木氏・朝日新聞社主催の文芸懇談会を風月樓にて7月22日開催す/イケイ雅氏・休暇中は中頭郡与那城村字饒邊3へ滞在/山里永吉氏・『山里永吉集』出づ大衆小説「心中した琉球王」文芸春秋社オール読物号8月号へ所載。

沖縄/ 1933年11月 『詩誌 闘魚』第四輯 カット・装・ジュン
  闘魚消息ー與儀二郎氏・名護町字名護801山入端方へ転居/宮良高夫氏・現在沖縄日報社内/花城具志氏・闘魚社内気付/外山陽彦氏・土木工事多忙の為休稿/有馬潤氏・菓子店「ひなた屋」開業/原神青醉・歌誌「みちしほ」編輯せる氏は同誌一周年紀念号発刊に際し原神青醉歌集を近刊/山里永吉氏・「永吉集」好評。9月上旬 幸楽亭に於いて刊行祝賀会。出席者50名盛況


1936年5月『沖縄教育』第237号 仲泊良夫 訳「苦悩の首府」


写真1935年頃辻ー後列右からー山里永吉、仲泊良夫 前列中央が松田枕流(賀哲の弟)

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宮城護氏 作品「聖地カルスト杜御嶽」

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開館10周年を記念して、2012年3月に開催した収蔵品展に続き、2012年以降、那覇市歴史博物館にご寄贈いただいた資料を展示紹介します。



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1936年11月『沖縄教育』243号 源武雄「記紀の神名、思金及麻良に就て」
〇はしがきー此の一篇の論旨から述べてみたい。南島の命名の民俗及び人名の原義を研究する為めに私は各地方各島々の人名、童名を出来るだけ採集した。それを採集しているうちに古事記及日本書紀、萬葉集、風土記を始め我国の古典に出て来る神名や人名の「名の本義」を独自の立場から研究してみることにした。その結果はどうであるか。先づ私を最も驚かしたことは吾々南島人の珍妙な童名は嘗て吾が日本民族が広く愛用したもので決して琉球人独特の珍名ではないことを看破したことである。何れこれに就ては稿を改めて報告したい。次に名の本義を研究していると、之迄発表されている古典研究者国文学者などの説に疑問を持つに至ったのである。そうして、之はどうしても吾々民俗学を研究しているものの仕遂げねばならぬ研究だと思い、ここに民俗学徒の立場から記紀の神名人名を考察することにした。先づその手始めに記紀の天岩戸の所に出て来る思金神及天津麻羅の名の本義を明らかにし世上流布されている古典研究者国文研究者の見解に再吟味を煩わしたいと思う。
 
(略)
以上記紀の神名、思金神及天津麻羅の名の本義に就て在来の学者の説を批判し検討した結果その誤なるを指摘し、南島民俗の資料を以て之が再吟味をなし、自己の新しき説を提示したのであるが、振り返って何故に之迄の国文研究者が之等神名の本義をつかむことが出来なかったかに就てよく考えてみる必要がある。私は在来の学者が記紀の物語を批判する心構えが不足している結果ではないかと思う。即ち記紀にある民俗をもっとも古いものとして、それ以前の考察を怠っている結果ではないか。記紀が決して古いものでない証拠には神名に沢山の民間語源説がつきまとうて、それで物語を構成している民間語源説話の出来る時代には既にそのものの原義が不明になっていた時代になっていたことを意味している。記紀の物語はそんな時代に生まれたものであって、決して原始的な本然の姿を吾々には伝えていない。故にこれら神名の原義を突き止めるには先づ記紀の物語に脚色を打破し、民間語源説話を全然離れて独自の自由な立場からその真相をつかむようにすべきであろう。

1942年5月『沖縄教育』309号 源武雄〇棺を蓋ふてその人を知るー(略)いつ会っても盛沢山の計画を胸中に描いて居られたことである。その計画を聞くことだけでも愉快であった。部落調査の話をよく聞かされたが、実はあの仕事は大変なものであった。私も二三ぺん実地指導らしいものを受けたがいや実に骨の折れる、そのうえ頭を使う仕事であった。之を一二箇所の部落でなしに全県下に及ぼそうといふ遠大な計画で実は命が一つ二つでは足りないと心配していた。しかし、之が出来上がれば沖縄の癌であるユタ、三世相は徹底的に沈黙させることが出来るのだといふのが、源一郎さんの悲壮な決意であった。ユタ、三世相を根本的に駆逐するには部落調査によって各氏族の系図を正さねばならぬ。といふのがその意図する所であった。部落調査をやっているうちに、沖縄歴史の記録に対しても意見があったらしく新しい沖縄歴史を書いてみたいと洩らしてゐられた。鬱勃たる念が胸中を去来していたのであった。こんな忍耐を要する、しかも金にならぬ仕事は源一郎さんの外にはちょっと手が出ない(以下略)


1965年2月 源武雄『琉球歴史夜話』月刊沖縄社□上の挿絵は金城安太郎/末吉安久(麦門冬弟)「表紙画」


1972年3月 真栄田義見・三隅治雄・源武雄 編『沖縄文化史辞典』東京堂出版


1973年10月 『琉球の文化』第四号 源武雄「朝薫の人及び芸術についての覚書」


 1983-8-19『琉球新報』源武雄「鎌倉芳太郎先生と首里城復元」


1992年8月10日 『沖縄タイムス』湧上元雄「源武雄氏を悼む」