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Category: 01-人物名鑑
Posted by: ryubun02
比嘉朝健(1899年11月22日~1945年)
1899年向氏亀山、比嘉カナの間に比嘉次良(次郎)妻はカマド。朝健は父次良、母は辻の女。

1900年7月『琉球新報』「広告ー1、唐茶類 1、銅鑼かね 其他種々ー小生儀此迄諸品買入の為福州へ渡航滞在候處這般帰県右品々廉価に差上げ申候間続々御購求被成下度偏に奉希候也  茶商 比嘉次郎 那覇警察署後通西詰」

1911年1月26日 『琉球新報』「亀山朝恆儀転地療養ノ為メ実父所国頭郡金武村字漢那ニ於テ静養中薬石効ナク去ル二十日死去致シ候此段生前巳知諸君ニ謹告ス  亀山朝奉/朝矩/朝摸/比嘉次郎/朝盛」

沖縄県立第一中学校中退
「女学校の三年生のころ、私はある裕福な家の息子(比嘉朝健)と縁談が進み、卒業までにウブクイ(結納)もとりすましていた。これは松山小学校の教師時代と思うが、解消した。当の婚約者も組合教会に来ていて、私とは話も交わしたりしたが、どうもピンとこない。とっかかりもひっかかりもない感じなのだ。もうこのころ私は、恋愛をへない結婚なんてあるものかとはっきり思っていたので、自分の気持ちが動かないのに困惑した。(略)私は意を決して、二人はどうも合わないと思うので、結婚はやめた方がいいのではと、自分で婚約者に申し出た。ところが相手は母親とは生さぬ仲だったので、自分の方からはどうしても言い出せないから、君の方から直接言い戻してくれという。」金城芳子『なはをんな一代記』(沖縄タイムス社1977年9月)

1920年    沖縄タイムス記者

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1924年12月16日『沖縄タイムス』比嘉朝健「末吉安恭君を悼む」

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1926年3月、那覇市役所庶務課
1927年6月20日、帝国大学文学部史料編纂掛雇(~1932年1月)  
             □同僚に森銑三.史料編纂官ー中山久四郎(東洋諸国史料調査)  

1937年3月『沖縄教育』第247号/仲吉朝宏「雲海空青録ー博物館たより」
□3月5日帰省中の比嘉朝健氏来訪、之で第2回目である。氏は多年東京に生活せられ、芸術方面の蘊蓄の深い人『陶器講座』第2巻に「琉球の陶器」を紹介せられ、嘗ては自己所有の殷元良の「墨山山水図」を帝室博物館に寄贈せられた特志の人である。今帝室博物館年報の殷元良の記事を録すると
  隼者、殷元良は琉球の代表的画人であって、清朝、乾隆帝時代に活躍し、その画風は宗元画風の影響に成り、墨   画彩絵ともに能くした。本図の如きは琉球画の山水図として逸品といふべく、その趣致また日本画と一脈相通ずるも  のあるは、日支間に位置する琉球の芸術として感興深きものである。  
殷元良の面目躍如たりである。又氏は今迄多数の人が疑問にしていた首里城正殿前の龍柱についても、その作者が謝敷宗相なること、石材が瀬長島海岸から採掘したものなることを、已に大正10年頃に発表せられたとのこと。日支琉の古代芸術の逸品などについて語らるる豊富な話題には只目をみはるのみである。『沖縄などには逸品はありませんよ』と捨台詞のやうな言葉を残して、佐敷方面へ殷元良の先生であった山口呉師虔の子孫を訪問すべく出かけられました。

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Posted by: ryubun02
1924年3月21日 『沖縄タイムス』末吉麦門冬「序に代へて」


○私達の要求する所の郷土文学は一体どうあらねばならぬのかと云ふことは、私も考へないではありませんでした。一口に云ふとそれは私達この郷土に生まれたのでなければ感じ得ない、把握し得ない、創造し得ない、表現し得ない内容でなければならぬと思ひます。本當の沖縄と本當の沖縄人が出て来なくてはなりません。(略)鏡に向かって多くの人々は不満を抱きます。憤ほろしくなります。美しいと見惚れることはありません。私達の創造しやうとする郷土文学もこの厭やな思ひのする鏡裏の映像ではありませんか。けれどこの厭であっても、自分達の姿には、私達はどうしても逃げもかくれも出来ぬものがあります。・・・・


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1924年12月17日『沖縄タイムス』寂泡生「末吉安恭君を悼む」

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Posted by: ryubun02
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1924年12月18日『沖縄タイムス』上間草秋「末吉安恭君を悼む」

1955年4月19日『琉球新報』上間朝久「琉球舞踊雑観」(1)

○琉球歴史は既に郷土研究の先哲 伊波普猷先生を初め、真境名笑古、末吉麦門冬、東恩納寛惇、島袋全発の諸家に依って解明されたが、中にも琉球古文化の研究という点に於いては、郷土史家の鬼才 末吉麦門冬に負うところ多大であった。


上間正雄(1890・6・29~1971・4・12)
別名ー草秋、朝久
実父上間正富は松山王子尚順の守役であった。後に那覇上之蔵の亀山朝奉の養子となる。沖縄県立中学校在学中から詩や歌を作り、1910年に同人誌『雑草園』を発行。同年上京。帰郷して樗花、夏鳥、梅泉、正敏のペンネームで新聞雑誌に文芸・美術・芸能の評論や創作を発表する。特に12年に『三田文学』に発表した「ペルリの船」は注目された。14年琉球新報歌壇選者、16年琉球新報記者、19年沖縄時事新報記者、20年沖縄タイムス編集長。→1991年1月 新沖縄文学別冊『沖縄近代文芸作品集』「上間正雄」
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Posted by: ryubun02
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江戸時代の測量家、伊能忠敬(1745~1818)の命日の17日、遺髪と爪が納められている香取市牧野の観福寺(田中量信住職)で墓前祭が行われた。約40人の参列者らは読経の中、焼香し、日本で初めて実測日本地図を作成した郷土の偉人をしのんだ。関係者らによると、墓前祭は1933(昭和8)年に当時の佐原町議会で5月17日に「忠敬祭」を行うことを決議したが、いつから実施されているかは不明で、48(同23)年に没130年祭を行った後は10年ごとに開催したという。98(平成10)年以降は毎年実施されるようになった。その後、2007年までは市の行事として行っていたが、憲法の政教分離原則もあり、08~10年は観福寺主催で実施。11、12年は東日本大震災の影響などで中止となっていた。今回の墓前祭は、有志による市民団体「(仮称)忠敬墓前祭斎行を考える会」(山村増代会長代行)の主催で、3年ぶりに開催された。「千葉日報5月18日」

1983年10月 伊佐三郎『回想』
第15章 万葉集歌の英訳と琉歌
日本民族の心の故郷とも賞賛される万葉集歌の外国語訳は、明治維新前にさかのぼってのことである。即ち1834年、独乙の有名な東洋学者ハインリッヒ・ユリアス・クラブロース(Heinrich Julius Klaproth)(1783~1835)がシベリヤ旅行中、難波船からシベリヤ放浪中の日本人漁夫にあい、彼等から聞いた万葉集歌を独乙語に訳したのが、外国語への訳の始めであった。明治維新(1868)後は次から次へと訳文が表れた。1872年にオーストラリアの学者フィズマイヤー(August Pfizmaier)(1808~1887)により万葉集歌の200首が英訳され、世界の注目をひいた。万葉集歌の英訳の満足すべきもの、完成されたものとも見られるものは、現代版である(The MANYOSHU)である。日本の英文学者、国文学者を網羅した日本学術振興会、特別万葉集委員会が、日本在住の英国詩人ラルフ・ホッヂソン(Ralph Hodgson)の協力によって、万葉集歌四千五百首中の壱千首を翻訳したものである。それは1940年に完成され、コロンビヤ大学版(Columbia University Press)として、ニューヨーク及びロンドンでされている。この英訳により万葉集の文学的価値が、いよいよ高く世界の文学界に宣揚されつつある。さて郷土沖縄の歌謡もまた、沖縄の人たちの心の故郷である。沖縄の歌謡にも万葉集歌のような秀歌が無数にあるといってよい。
    万葉集「わが背子は いづち行くらむまつち山越ゆらむ今日ぞ 雨な降りそね」
    琉歌  「なま降ゆる雨や雲に宿みそり 里が花の島着ちゅるえまや」
    万葉集「足音のとどとひびけば松下に 出でて見つる けだし君かと」
    琉歌  「夕まんぎとともに 立ちゅる面影や ゆすの足音も 里めとむて」

伊佐三郎は本書に「粟国の英傑、友利仁三郎」を紹介、「私の父の姉で、友利家に嫁いだ伯母があった。私の母や、私の兄弟姉妹、皆から親のように親しまれた伯母であった。(略)此の伯母さんの二男一女の中の、次男が、友利仁三郎である」と記している。私も元村長の友利仁三郎の名は知っていたので大阪で友利氏に出会って親しく会話してもらい感激した記憶がある。


写真ー友利仁三郎

伊佐三郎は、同郷(粟国)の先輩・新里朝彦の世話で1927年5月に東京教育界の名門 白金小学校に勤務する。校長は創価学会創設者の牧口常三郎であった。新里は1916年に沖縄県師範学校入学、1919年の大ストライキの首謀者10名と共に放校処分。上京し、人力車を引くなどの労役苦学で豊島師範を卒業し、竜野川小学校勤務のとき牧口常三郎を知る。新里は1925年に白金小学校に勤務した。伊佐の1932年の教え子の一人に中川順(テレビ東京社長)が居る。

関連事項


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写真ー新里朝彦
伊佐はまた、同僚で新里と同じ豊島師範出身の鈴木昶を知る。鈴木は熱心な大本信者で、伊佐は1933年暮れに亀岡大本本部に鈴木らと同行し出口王仁三郎にも会っている。1942年3月、白金小学校を去って、千葉県佐原中学校に転出。佐原中学校の校歌2番「関東平野の空高く 筑波の峰ぞほほえめる 朝に夕に打ち仰ぐ 忠敬翁の遺徳ぞ尊し 崇き御教心の技と 高嶺を攀じて勇まし我等」と伊能忠敬が歌いこまれている。1949年4月から千葉県立千葉工業高等学校教諭となった。ここで1958年まで勤務した。

新里朝彦は粟国小中学校校歌の作詞者である。2013年の東京での戸澤裕司写真展には、新里の子息が来られ、写真展の関係者に手紙で「過日は短い時間ながらお会いする機会を頂き有難うございました。同時に粟国の空気を感じ取ることが出来る楽しい会合でした」とある。



伊佐三郎(沖縄高校校長時代)


1979年6月 在阪有志による『黎明期の粟国』出版祝賀会


1982年 大淀沖縄県人会・大阪粟国村人会主催の激励会

1985年3月 米城律・伊藝滋『石川正通追想集』石川澄子□伊佐三郎「沖縄近代(二十世紀)の偉大なる学者 石川正通先生」

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Posted by: ryubun02

1913年5月7日『琉球新報』「大門前占春魁主人・高相杰の夫人(鄭)福州より来沖」
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大門前占春魁主人・高相杰

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Posted by: ryubun02
5月1日

小渡幸信氏と山田さん

戸澤裕司氏、山田勉氏、小渡幸信氏

5月23日
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写真前右から山田實さん、西牟田靖氏 後右から山田勉氏、新城栄徳
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写真左から國吉まこも氏、西牟田靖氏、山田實さん
西牟田氏が持参した写真資料に関連して
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○西牟田 靖(にしむた やすし、1970年3月5日 - )は、日本のライター、ノンフィクション作家。人物 大阪府東大阪市生まれ。1993年に神戸学院大学法学部卒業後、会社員などを経て1995年、ライターとしての活動を開始。貧乏旅行ライター/サブカル突撃ライターとし...(出典:fepedia)〇2006年2月『写真で読む 僕の見た「大日本帝国」』情報センター出版局

第29回写真の町東川賞 飛彈野数右衛門賞 
山田實 Minoru Yamada 沖縄県那覇市在住
1918年生まれ、那覇市出身。41年明治大学専門部商科卒業。大学新聞編集委員を務め、同年には同大学新聞高等研究科(二部)卒業。日産土木株式会社入社後、満州に赴任。現地で召集され、関東軍に入隊。北満州でソ連軍と交戦中に終戦、シベリアに抑留される。47年に舞鶴に復員し、日産土木に復職後、52年に沖縄へ帰還。那覇市内に山田写真機店を開業。二科会沖縄支部結成メンバー(58年)となるほか、沖縄ニッコールクラブを設立(59年)、沖展への会員参加(62年)、沖縄写真連盟設立メンバー(66年)になるなど、戦後の沖縄写真界の草分け的存在となる。土門拳のリアリズム運動や、62年に沖縄での取材に同行した濱谷浩から強い影響を受ける一方で、基地や闘争の写真からは距離をおき、子どもや庶民の日常生活を、抑制のきいた距離感と深い共感によって、丁寧に撮りおさめる。また、72年の本土復帰までは、岩宮武二、濱谷浩、林忠彦、木村伊兵衛、東松照明他、本土の多数の写真家の身元引受人となるほか、東松が主となり沖縄で開催された「ワークショップ写真学校」の窓口も引き受けるなど、本土と沖縄をつなぐネットワーカーとしての非常に重要な役割を担った。
 77年に沖縄タイムス芸術選大賞、2000年に沖縄県文化功労賞受賞。2012年には沖縄県立博物館・美術館にて「山田實展 人と時の往来」展が開催されるほか、『山田實写真集 故郷は戦場だった』(未来社、2012年)も出版された。
作家(山田實)の言葉
「北と南の出会い」
北海道は私にとって未知の世界です。学生時代の友人に具知安出身の小林君が居たこと。東北観光旅行の際、函館空港に降り船で青森に渡ったこと。私が写真を撮り始めた頃、北海道の沖縄開拓団を取材した写真が雑誌に発表され、撮影者は掛川源一郎氏でした。ニッコールクラブ札幌支部長の橋本博氏とは東京で三度程お会いしました。 十数年前、写真甲子園で地元高校生が準優勝の記事に注目、その後、真和志高校写真部の活躍が新聞に大きく報道される様になり北海道との距離がずいぶん近くなりました。米軍統治時代、沖縄取材の木村伊兵衛、林忠彦、東松照明各先生方の身元引受人は私でした。濱谷浩先生他、各先生方の案内役を務めながら私の写真勉強が続きました。当時、本土では基地闘争やデモ隊の写真ばかりを報道、沖縄の実情を撮るため農漁村を訪ね、山野を駆け廻りました。写真を撮り作品を発表することが私の長寿の元だと思います。

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Category: 01-人物名鑑
Posted by: ryubun02
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魚住惇吉

○大正13年(1924年)魚住惇吉校長の後を受けて建学当初から教鞭をとられた志喜屋孝信先生が第四代校長に就任した。

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『アサヒグラフ』1927年7月13日号□南島談話会のメンバー/前列右より柳田国男・金田一京助・伊波普猷・富名腰義珍・岡村千秋 後列右より魚住惇吉・南風原驍・金城金保・仲宗根源和・金城朝永・島袋源七

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1924年夏 小石川植物園で、向かって右から魚住惇吉、永田千代、


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1987年8月 関川夏央・谷口ジロー『「坊っちゃん」の時代』双葉社
1988年8月 日本エッセイスト・クラブ『思いがけない涙』文藝春秋□魚住速人(三菱鉱業セメント副社長)「漱石と隻腕の父ー(略)実をいうと、私の父が、その左手のない学生である。名前は惇吉という。(略)私の父は東大を卒業したあと、中学の英語教師になり、沖縄県立第二中学校の校長を最期に、台湾旅行のとき罹ったマラリアの持病もあって、42歳で早々と引退、自適の生活に入った。ふたたび東大に通い、英文学やラテン語の研究をしていたことを覚えている。(略)私の息子が東大野球部に入り、法政の江川投手を4打数3安打で打ち破ったことがあるのを父が知ったら、さぞかし喜んだことであろう。」

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