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写真ー左、吉田東吾『大日本地名辞書』「北海道、樺太、琉球、臺灣」冨山房/右、『冨山房五十年』
吉田東伍【よしだ・とうご】
生年: 元治1.4.10 (1864.5.15)
没年: 大正7.1.22 (1918)
明治大正期の先駆的な歴史学・歴史地理学者。4月14日誕生説もある。越後(新潟県)蒲原郡の旗野家の3男に生まれ,小学校卒業後,小学校教員になり,大鹿新田(新津市)の吉田家の養子となった。この間北海道に渡り,読書に励んだ成果などを新聞・雑誌に「落後生」などの筆名で投稿,特に『史海』への投書論考は,主筆田口卯吉の注目をひき,学界への登竜門となった。また親戚の市島謙吉に紹介され「徳川政教考」を『読売新聞』に連載し,日清戦争に記者として従軍。また『日韓古史断』を書いて,学界での地位を固めた。その研究は日本歴史の全分野にわたり,歴史地理学の分野で『大日本地名辞書』(全11冊),『日本読史地図』などが先鞭をつけている。社会経済史の分野では『庄園制度之大要』が,近代史の分野では『維新史八講』があり,現代より過去にさかのぼるという歴史的視野の問題を含む通史『倒叙日本史』(全12巻)もある。また『世阿弥十六部集』の発見は学界を刺激した。『海の歴史』『利根川治水論考』や,論文集『日本歴史地理之研究』の問題提起は今日でも注目される。<参考文献>高橋源一郎編『吉田東伍博士追懐録』 (松島榮一)
(→コトバンク)

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「琵琶湖周航の歌」の基礎知識 小口太郎の出身地、長野県岡谷市の諏訪湖畔の釜口水門河川公園に小口太郎像と歌碑(江崎玲於奈の筆による)がある。昭和63年 太郎生誕90年を記念し岡谷市が建造した。地元では小口太郎顕彰碑等保存会を結成して顕彰に努力されている。/吉田千秋の出身地、新潟市秋葉区(合併前の新津市)では「ちあきの会」を結成して活動している。千秋の父・吉田東伍の記念博物館(阿賀野市保田)でも千秋コーナーを設け資料を展示している。→滋賀県高島市

2016年2月 『月刊琉球』比嘉克博「神々の後裔たちー元祖志向の精神史ー」
2016年2月 『月刊琉球』№32 比嘉克博「神々の後裔たちー元祖志向の精神史ー」(1)
2016年3月 『月刊琉球』№33 比嘉克博「神々の後裔たちー元祖志向の精神史ー」(2)
2016年4月 『月刊琉球』№34 比嘉克博「神々の後裔たちー元祖志向の精神史ー」(3)

 大宜味朝徳の『南島』第4号(1933年)に上原美津子(沖縄日日新聞元記者)が清明祭と題して「琉球人は祖先崇拝の民族です」と書いている。琉球学の巨人・東恩納寛惇は祖先崇拝を「現在の殺風景な世態に寛容の情味を注ぎ込み、世界平和の基盤をつくるものとも云える」と書き、系図については「男系を本旨とし、女系には及んでいない。その欠点を補う」ものに内系図(編集本)があると記している。

先日、写真家の山田實氏から山田一門の山田有銘編集『霊前備忘録』(1930年)を借りた。前記の内系図の一種である。平姓家譜から説きおこし、新聞の死亡広告を貼り付けた系図補遺、拝所の読谷残波岬、屋敷や庭園、位牌、墓所などを図示、着色されビジュアルだ。實氏の父有登は医者で、兄の有勝は詩人。洋画家の有邦、社会福祉の有昴、社会運動家の有幹、教育者の有功などが山田一門から出ている。

漢那憲和の家系については那覇市歴史資料室が出している『那覇市史』「家譜資料(4)那覇・泊系」の人名索引で、憲和の父や祖父の経歴、昴氏であることが分かる。憲和の婿兄弟の神山政良の東氏では、昴氏が同門だという伝えもある。先日、中野利子さんと松居州子さん(憲和の孫)が見えられ同門の憲一郎作成「昴姓世系図」と「戸籍謄本」を恵まれた。これで憲和の母親の旧姓が玉那覇と分かる。





東恩納家系図

東恩納寛惇自筆履歴書


公的機関が作成した東恩納寛惇の経歴書

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写真上右ー1901年1月4日東京神田小川町・写真館美影堂(中村董)で沖縄中学校の同級生たち前の右から東恩納寛惇、崎浜秀主、国吉真徳、伊波興旺、後列右から赤嶺武太、小嶺幸慶、与那覇政敷。

写真中ー福州において東恩納寛惇が発見した5代目祖先の墓碑。その右ー1901年5月13日熊本市下通町上村嘉久次郎・写真裏に「地上の友なる国吉真徳大兄へー寛惇」

写真下ー1933年12月に東恩納寛惇が安南および福建より持ち帰った三味線、昭和会館に寄贈した。(1)ヤマト、(2)琉球、(3)安南、(4)安南


1933年12月ー東恩納寛惇は一中時代の同級生の比嘉盛珍(元内務省土木技師)、島袋慶福(陸軍少尉)、漢那憲英(海外協会)、崎浜秀主(商校長)、糸数青盛(那覇市税務課)、及び旧友の照屋那覇市長、島袋二高女校長、志喜屋二中校長、胡屋一中校長、當間那覇市助役、城間恒淳、千原成悟、山田有登、古波倉博士、新嘉喜倫篤らの諸氏と、久米蔡氏堂に立ち寄り仲良くカメラに収まって後、波の上医院のよ平名さんの案内で那覇でも1,2位を争うという自慢のよ平名家の庭で談話に耽った。


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寛惇が『童景集』を瀬長佳奈と甥の鈴木亨に贈ったもの。



2013年1月11日『琉球新報』仲村顕「眠れる先人たちー東恩納寛惇」

『東恩納寛惇全集』第9巻(1981年8月刊) / 図版(昭和10年頃の肖像) / 凡例 / 医学論考 / 〔医方漫談-附沖縄名医列伝 / 東恩納寛惇先生の沖縄医学講演 / 高嶺徳明-琉球における全身麻酔外科手術の創始者 / 魏士哲の外科手術 / 医生教習所記念碑 / 医生教習所七十周年に寄す / 質問本草とその著者〕 / 評伝 / 〔伊江君を失う / 伊江君の事ども / 伊江朝助を偲ぶ / 池宮君の研究と三味線宝鑑の編著 / 三味線供養と池宮君-瑞泉楽宗の盛名も愈々不朽 / 伊波普猷君と「おもろ」 / 「おもろ」の父伊波君の研究態度を讃仰して「おもろ」新人諸君に一言す / 本居宜長に比す伊波氏の研究 / 伊波君の想出 / 伊波君の遺骨を故山に迎へよ / “甘蔗生さん” / 漢那さん / 金武良仁楽宗を憶う / 金婚式を迎えた金城清松 / 志喜屋孝信君を憶ふ / 島袋源七君を衷しむ / 教養の高い一市民-島袋全発君とその業績 / 高嶺明達君 / 故仲本政世君 / 昇 / 曙夢の想出 / 比嘉盛章君を憶ふ / 外間現篤 / 又吉康和君を那覇市長に推薦す / 噫、又吉康和君 / 揚守敬の書と永吉の壺 / 山里永吉君と博物館〕 / 書評 / 〔沖縄一千年史の覆刻にあたりて / 鳥居博士の“ある老学徒の手記”を読む / 琉球地理誌略を紹介す / 「琉球」を読む / 紙上曝書〕 / 序文 / 〔序(富名腰義珍「琉球拳法唐手」) / 序文(Bull,E.R「ペルリ提督前の文明指導者 伯徳令伝」) / インガンチャウ(Bull,E.R「ペルリ提督前の文明指導者伯徳令伝」) / 跋(三木 栄「日暹交通史」) / 序(冨原守清「琉球音楽考」) / 世礼氏工工四序・伊差川世瑞 / 世礼国男「声楽譜附工工四」 / 序・三木 / 栄「山田長政」 / 序(鳥羽正雄「城郭と文化」) / 序(真栄田勝男「琉球芝居物語」) / 序(池宮喜輝「琉球三味線宝鑑」) / 序にかえて(「島袋全発著作集」) / いづみの発刊に寄す(「拓殖大学図書館後援会「いづみ」) / 周藺両姓記事(糸嶺家伝)に題す / 序(中村孟順「声楽譜附湛水流工工四 全」) / 序(山内盛彬「琉球の音楽芸能史」) / 随筆 / 〔想出す人・物・事 / 故山点描 / わが目で見た沖縄 / 成長した沖縄 / この目で見た沖縄〕 / 解題 / 書誌 / 〔東恩納寛惇全集 付報9〕 / 南島文化史研究と家譜資料 / 古武士の情熱 / 東恩納先生と「思出草」 / 資料・・柳田國男書簡五通 / 中山詩文集(東恩納文庫所蔵文献紹介9)

1942年 鳥羽正雄『城郭と文化』(序文・東恩納寛惇)大東出版社 
沖縄の城 鳥羽正雄 城郭と文化 1942 名著出版
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1954年1月 雑誌『おきなわ』長谷健「沖縄の友達」

写真左からー川平朝申、山之口貘、火野葦平、平良リヱ子、三ツ木幹人、長谷健
長谷健 はせ-けん
1904-1957 昭和時代の小説家,児童文学者。
明治37年10月17日生まれ。小学校教員をつとめながら小説をかき,昭和14年「あさくさの子供」で芥川賞受賞。また児童文学「春の童謡」などをかく。戦後,北原白秋をモデルにした「からたちの花」を発表。交通事故によるけががもとで昭和32年12月21日死去。53歳。福岡県出身。福岡師範卒。本名は藤田正俊。旧姓は堤。(コトバンク)


東恩納寛惇賞パーティで/写真左から、高良倉吉氏、新城栄徳、孫薇さん、大城立裕・美枝子御夫妻、三木健氏



2013年1月11日『琉球新報』仲村顕「眠れる先人たちー東恩納寛惇」