05/29: 世相ジャパン①/1960年
1961年7月 ジョン・ガンサー 三浦朱門 訳『頭の回転=マスコミ最大の成功者の物語=』新潮社
1964年12月7日、カーチス・エマーソン・ルメイ(Curtis Emerson LeMay,)勲一等旭日大綬章を入間基地で浦茂航空幕僚長から授与された。理由は日本の航空自衛隊育成に協力があったためである。12月4日の第1次佐藤内閣の閣議で決定された。叙勲は、浦茂幕僚長がルメイを航空自衛隊創立10周年式典に招待したことを発端とした防衛庁の調査、審査に基づく国際慣例による佐藤内閣の決定であることが明かされている。推薦は防衛庁長官小泉純也と外務大臣椎名悦三郎の連名で行われる。→ウィキ
1965年4月 『思想の科学』№37<特集・日本の黒幕>思想の科学社
丸山邦男〇占領期の黒幕ー「総指令部は、日本の国内政治の運営を実際に支配しているわけではない。わたしがきいた、あるアメリカ人の話によると、日本には、今日でもなお<日本地下政府>が存在しているということだった・・・・」。これは1951年に出版されたJ・ガンサーの『マッカーサーの謎』(木下・安保共訳)に出てくる一節である。占領下の日本の政治を直接間接にコントロールしたものはGHQだが、占領期間中の重要な時期あるいは事件に関連する政治にたいして、最高責任を負った代表的人物といえば、いうまでもなく吉田茂の名を挙げられる。
神島二郎〇日本の黒幕序論ー(前略)今後の黒幕は、ヒトや限られた党派を操る黒幕ではなくて、大衆だとか経済構造を操作できるブレーンという形が」、重要になるのではないか。操作というのは、権謀術数でだますというのとは違って、大衆のイメージに合わせて、政治をつくってゆくということだし、そういうことの専門家が政治に参画しだしているということは、新しい問題だね。
1965年8月 大野達三『アメリカから来たスパイたち』新日本出版社□図ー「連合軍総司令部機構」「G2・CIC関係図」「」
1965年6月11日 読谷村喜名小学校5年生の棚原隆子さんが自宅前で米軍演習トレーラーが空から落下し圧死した。
1965年12月 『守礼の光』「実現間近い家庭用原子力発電」
1966年5月25日、アメリカの作家ジョン・トーランド、とし子夫人と来沖□5月30日『沖縄タイムス』「作家トーランド氏の講演・生きた歴史を強調」
1966年5月ー『オキナワグラフ』「ハワイだよりー髙江洲敏子さん」
1966年10月 『守礼の光』坂本万七「写真・伊藤若冲」
1967年3月 『守礼の光』せそこ・ちずえ「琉球昔話 空を飛ぼうとした男(安里周当)」、比屋根忠彦「久高島のイザイホー」
1967年6月 カール・ヨネダ『在米日本人労働者の歴史』新日本出版社□塩田庄兵衛・中林賢二郎「序ーアメリカ合衆国は、もともといわば移民によってきずきあげられた国であるが、ヨーロッパの先進資本主義国から渡航して新しい国の主人公となった白人と、アジアを中心とする『後進地域』から渡航した移民との間には、人種差別という形をとった差別待遇がはっきりみられた。そのなかで日本人は、中国人、朝鮮人などとともに、低賃金労働者として下積みの扱いをうけた黄色人種であった。わが同胞は、アメリカ西部とハワイの農園・鉱山・鉄道・森林・漁場にその労働力をそそぎこみ、今日のアメリカ独占資本主義の富の少なからぬ部分をつくり出した。今日のアメリカの富について考えるばあい、中国人・朝鮮人などとともに、日本人が流した血と汗と涙を無視することはできないのである。・・・・」
1967年12月 『守礼の光』「5年後に110階建て 世界貿易センター出現」
1968年2月 『守礼の光』「現代にも呼びかけるエイブラハム・リンカーンのことば」「アジア地区米陸軍特殊活動隊 粟国・渡名喜両島で奉仕活動」「原子力科学者が語る未来の原子力『食品工場』」
1968年4月 『守礼の光』ジョン・A・バーンズ(ハワイ知事)「琉球の文化的姉妹島ハワイ」
1968年
沖縄100万の叫び―嬉野京子写真集 (1968年) →菅原恭正ブログ2016-4-27:【第1660回】
1969年 アメリカ国防省がコンピュータネットワークの実験(UCLA、ユタ大学などを「ARPANET」)で連結に成功
1969年5月 『守礼の光』宮国信栄」「放射能はどこまで人体に安全か」
1969年7月 朝日新聞西部本社企画部『原爆展』(主催・広島市・長崎市・朝日新聞社)
1969年8月 『守礼の光』「四か国で開発中の原子力商船」
1969年8月 E・ライオンズ/高橋達男 訳『世界の企業家=3 電子工業のパイオニア サーノフ』河出書房新社→デビッド サーノフ1891.2.271971.12.12 米国の無線技術者,実業家。元・RCA社長。ロシア生まれ。1900年にアメリカに移住し、’06年RCAの前進であるマルコニー社に入り、’12年電信技士、’18年検査主任、主任技師となる。同年RCAを設立し、’21年総支配人を経て、’25年副社長、’30年社長となる。アメリカテレビの先駆者として知られ、第二次大戦中は、通信隊顧問として活躍した事もある。→コトバンク
1969年9月 『守礼の光』「フィリピンの発展に役だつ原子力」「コンピューター しくみと働き」
1969年10月 『守礼の光』「宇宙にかける人類の冒険」「期待される放射線」「巨人ジェット機(ボーイング747)の登場」
1972年9月に沖縄キリスト教協議会(比嘉盛仁)から『沖縄キリスト教史料』が発行されている。中に植村正久先生来島記念(1923年)やベッテルハイム記念碑除幕式(1926年)の写真がある。前記には新垣信一、大城カメ、比嘉盛仁、比嘉盛久、久場政用、眞栄田義見ら、後記には島袋源一郎、岸本賀昌、知花朝章、志喜屋孝信、佐久原好伝、アール・ブールらが写っている。
1972年11月 『断悪ー原爆被爆者救援のための実体験の記録』沖縄県原爆被爆者協議会
1973年4月7日 『沖縄タイムス』「海洋博を点検する<21>肥大する三次産業 大阪万博倒産の教訓生かせ 陸は観光スラム 海は石油汚染」
1973年5月15日 『日本経済新聞』「第二部 沖縄特集ー珊瑚礁に夢結ぶ海洋博’75」
1974年1月『基地情報』第4号 基地対策全国連絡会議「国民主権を侵害するもの」/2月『基地情報』第5号「沖縄基地調査特集」
1974年1月 レイチェル・カーソン/青樹簗一 訳『沈黙の春ー生と死の妙薬ー』新潮文庫→レイチェル・カーソン日本協会ー組織運営をめぐり、発足から20年が経過するなかで、組織のリフレッシュをはかる必要性が指摘されることが増えてきた。総会、理事会で「日本協会の今後の在り方」をめぐり意見交換を深めた結果、2008年3月15日、特定非営利活動法人格を返上するための「解散総会」を持つと共に、当面、関東フォーラム、関西フォーラムを拠点にした「ゆるやかなネットワーク組織」としてレイチェル・カーソン日本協会が再発足した。
1975年4月4日 ビル・ゲイツ氏とポール・アレン氏らによってMicrosoft(現在の本社所在地ーワシントン州 レドモンド)が設立された。
1975年2月 『沖縄の米軍基地』沖縄県渉外部基地渉外課
1975年5月23日 『毎日グラフ』「緊急増刊 勝利した解放戦線」
1975年6月14日 『沖縄タイムス』「原子力と人間<1>核ジャックの恐怖 プルトニウム放射能半減期2万4千年」
1975年8月15日 『週刊読売』「臨時増刊 日本人の戦歴ーソ連側撮影 シベリアの日本兵捕虜」
1975年9月15日 『朝日ジャーナル』「あなたは核兵器を知っているかー1945年7月16日午前5時30分、人類初の原爆、プルトニウム爆弾が実験された実験の暗号名は「トリニティ」(三位一体) アラモゴルドの砂漠の中に記念碑が立っている/米ニューメキシコ州アルバカーキー市に、国立アトミック博物館がある。」
1976年、スティーブ・ウォズニアックがApple Iを製作。これを見たスティーブ・ジョブズは、新しいビジネスになると考え、1977年スティーブ・ウォズニアックと共にApple社(現在の本社所在地ーカリフォルニア州クパチーノ)を設立した。その後発売したApple IIは表計算ソフトVisiCalcと共に大ヒットとなり、これまで一部のマニアのおもちゃでしかなかった「パソコン」が仕事にも使える道具だということが分かり、パソコン市場が出来上がった。→はてなキーワード ????2012年7月『徹底解析!!アップルvsグーグル』洋泉社
1976年4月17日『週刊ピーナツ』「追跡 巣鴨プリズンからのCIAヒモつき出所全リスト 岸信介、児玉誉士夫、笹川良一、他」
1976年5月15日、沖縄ハワイ協会(仲村亀助会長)主催「アメリカ建国200年祭」が那覇市内パシフィックホテルで開催、ノールズ在沖米国総領事夫妻、平良那覇市長らが招かれる。与世盛智郎が挨拶。→与世盛智郎『沖縄仏教読本』(久米島本願寺1976年5月)「戦後、沖縄の世替わりに際し、進駐軍が、アメリカ建国の精神にのっとって宗教政策を重視して、沖縄の寺院に活を入れ、その活動に力をかしていたら民主主義も不消化とならず、従来の守礼の邦の美風を堅持し、一部にある反米思想も起きなかったと思われます」。
1976年6月 『三悪政治とCIA』日本共産党中央委員会出版局→三悪政治(戦犯・金権・売国)ー松川事件、下山事件をめぐるCIAへの疑惑といい、自民党をはじめとする反共政党とCIAの関係といい、今後白日のもとにさらさなければならないことが、あまりにもたくさんあります。
安倍晋三、1977年春に渡米し、カリフォルニア州ヘイワードの英語学校に通うが、日本人だらけで勉強に障害があると判断して通学を止め、その後イタリア系アメリカ人の家に下宿しながらロングビーチの語学学校に通った。秋に南カリフォルニア大学への入学許可が出され、1978年から1979年まで政治学を学んだ。
□横浜・米軍機墜落事故
1977年9月27日午後1時すぎ、厚木基地を飛び立った米軍のファントム偵察機が横浜市緑区(現・青葉区)の住宅地に墜落した。土志田勇さんの娘、和枝さん(当時26)の息子の裕一郎君(3)と康弘君(1)が翌日未明に相次いで死亡。和枝さんも重度のやけどを負い、闘病生活の末、4年4カ月後に亡くなった。勇さんは、和枝さんの遺志を継いで社会福祉法人を設立。「和枝園」と名付けたハーブ園も開くなど「社会への恩返し」を続けている。
1979年1月 ジェームズ・マッキンレー著/和田敏彦・訳『アメリカ暗殺の歴史』集英社
○アメリカにはじめて移民たちが着いたとき、彼らはここに将来を決する二つのものを持ち込んだ。一つは自分たちが祝福された民であるという神がかり的な夢であり、もう一つは銃である。彼らは艱難に耐えていくためにはこの夢が、またこの夢を新世界に押しつけるには銃が必要だと信じていた。彼らは聖者と銃弾、それに狡猾な取引でこの夢を広めていったから、彼らは間違ってはいなかった。そして彼らが正しかったことは、百六十九年後に独立宣言の署名によって証明された。あの日、市民は家に駆け込むなり、銃を取り、まず祝砲で、ついでアメリカ革命でアメリカの夢を永久的に確認した。・・・・・
1979年3月 『沖縄の米軍基地』(表紙写真・国吉和夫)沖縄県渉外部基地渉外課
1979年、祖父新一郎に代わって、孫である現店主天牛高志が、 まだほとんど商店がなかった大阪心斎橋西のアメリカ村に、90坪の天牛書店新店舗を開きました。元々は駐車場であった建物を改装し、むき出しの鉄骨の梁、本棚は赤く塗装し、自動販売機を置いた休憩スペースを設け、古くから敷地にあった稲荷祠はそのまま店内に残すなどといった、従来の古本屋のイメージを一新する店作りに挑戦したアメリカ村店は、新しい感覚が若いお客様にもご好評をいただき連日の盛況となります。 しかし、時代の流れとともにアメリカ村が賑やかなファッションの街へと変貌し、古書を売る
1995年4月『ニューヨーク : アメリカ』(地球・街角ガイド「タビト」 3) Dorling Kindersley, 同朋舎出版
心斎橋駅の南西、御堂筋と西横堀に挟まれた西心斎橋のうち、御津公園(通称、三角公園→グーグル画像「アメリカ村三角公園」)を中心にアメリカ村と言われる。近くの御津八幡宮(祭神・応神天皇、仲哀天皇、神功皇后)の左側狛犬の傍にソテツ、梅石筆「石敢當」(→画像グーグル・ヤフー)入り口付近に建っている。御津公園には相も変わらず若者がダベッていた。黒人も5、6人が立っている。あちこちに監視カメラが設置され如何にも治安が悪そうだ。かつての来客者は半減しているそうだ。私はアメリカ村で買い物はしたことは無い。
アメリカ村は、1969年に日限萬里子(→グーグル画像)が喫茶店「ループ」を開き評判を集めて以降、倉庫を改造してサーファーの若者などによりアメリカ西海岸やハワイなどから輸入した衣服類が販売されるようになり、アメリカ村と呼ばれ次第に活況を呈するようになった。1980年代には衣料、雑貨、レコードなどの店が並ぶようになり大学生などが集まる流行の発信地の一つとなった。このころから京阪神以外の地域でも有名となる。
1990年代中ごろ頃から来客数の過剰や低年齢化、各店舗の大音量の音楽、粗悪な商品を押し売りに近い形で売りつける悪質な店舗の増加、建物に目立ち始めた落書きなど街の荒廃が問題になり始めた。1998年には休日に7万人が訪れていたが、2005年現在は半減している状況である。そのため、治安の回復を目指し、東京の新宿・歌舞伎町の50台を上回る77台の監視カメラ(24時間稼動)が設置され、2006年2月13日から本格的に運用が始まった。(ウィキペディア参照)
1991年5月27日『沖縄タイムス』宮城悦二郎「ジョン・W・ダワ―教授のこと」
1991年9月 『新沖縄文学』「特集/アメリカ文化との遭遇」89号 ジョン・W・ダワ―「講演録 人種偏見と日米摩擦」
1991年10月16日、米テキサス(Texas)州キリーン(Killeen)のレストランで、男が銃を乱射。22人が死亡。容疑者は自殺。負傷者の1人が後に死亡している。。【翻訳編集】 AFPBB News
1992年2月 猿谷要『世界の都市の物語2』文芸春秋
カラー写真ー「朝焼けのブルックリン・ブリッジ」「セントラル・パークの春」「夏のセントラル・パーク」「雪のセントラル・パーク」「ロックフェラー・センターで」「セント・パトリックの日を祝うアイリッシュ」「ミッドタウンのホットドッグ屋」「ベビーシッターならぬドッグシッターと著者」「氷結するマンハッタン島」
1992年7月 フィリップ・ジャカン/富田虎雄『アメリカ・インディアンー奪われた大地』創元社
1993年7月 『ブルーワイド2アメリカ南部』実業之日本社
1994年7月 アマゾン(本拠 ワシントン州シアトル)設立→2009年8月『週刊東洋経済』「アマゾンの正体」
1995年4月 『地球・街角ガイド③ニューヨーク』同朋舎出版
1995年11月15日『琉球新報』「在日米軍基地の現状」
1996年2月1日『沖縄タイムス』「脱基地元年 127万人の実験」
1996年5月 日本共産党国会議員団編『調査報告/沖縄の米軍基地被害』新日本出版社
1996年5月にリウボウ6階でベッテルハイム来沖150年「聖書展」が開かれた。その図録に、古堅宗伸「琉球讃美歌考」がある。これに関して私の手元には1959年発行の新垣信一『琉球語賛美歌』があるが、これは最近、首里のみどり印刷が再版している。1908年、伊波普猷が琉球新報に「琉球語賛美歌」を発表。1915年、新垣信一が大城嘉活版所から『琉球語賛美歌』を発行されたのがはじめである。
『週刊新潮』1997年5月22日号「カジノの街から脱皮するーラスベガスの全貌」
1998年7月 「琉球王国時代の植物標本展」実行委員会『琉球王国時代の植物標本~ペリーが持ち帰った植物たち~』
1998年9月4日 Google(現在の本社所在地ーカリフォルニア州 マウンテンビューアンフィシアター パークウェイ 1600番)は非公開の会社として、スタンフォード大学の博士課程に在籍していたラリー・ペイジとセルゲイ・ブリンによって設立された。→2000年9月/Google日本版サービス開始。現在、サポートする日本語のWebページは5000万件以上。????2007年9月 NHKスペシャル取材班『グーグル革命の衝撃』新潮社/2012年7月『徹底解析!!アップルvsグーグル』洋泉社
1999年1月4日 キャロル・グラック「アメリカのなかからみた21世紀の日米関係ー日米安保体制は時代遅れ 『人民と人民との交流』を/アメリカ人としてアメリカの立場を見てみると、アメリカは従属関係に慣れてきています。(略)こういう状態に慣れてきていることが問題です。」
コロンビア大学教授キャロル・グラックさんを囲んでーキャロルさんの隣り大城立裕氏、比屋根照夫氏、大城氏の左に新城栄徳、伊佐真一氏
キャロル・グラック(Carol N. Gluck、1941年-)は、アメリカの歴史学者。日本近代史専攻。コロンビア大学ジョージ・サンソム講座教授。シカゴ生まれ。ウェルズリー大学卒業。1977年、コロンビア大学で博士号取得。(→Yahoo)
1999年4月20日、米コロラド(Colorado)州リトルトン(Littleton)のコロンバイン高校(Columbine High School)で、男子生徒2人が銃を乱射。生徒12人と教師1人が死亡。容疑者はともに自殺した。【翻訳編集】 AFPBB News
1999年9月『世界』ジョン・W・ダワー 訳・明田川融「天皇制民主主義の誕生ー『昭和天皇のメッセージ』を読み解く」