07/06: 喜舎場永珣
1954年9月 喜舎場永珣(編集主任)『八重山歴史』
1968年2月 神田精輝『沖縄郷土歴史読本』琉球文教図書
○大浜信泉「序ー筆者は本書の著者と同じ石垣島の出身である上に、沖縄師範学校における同窓でもある。・・・」/喜舎場永珣「序ー神田君も童名のままの赤多那になっていたが師範学校入学を機会に私が「精輝」と名をつけてやったら喜び勇んで(略)広島高等師範では史学と英語を専攻し卒業と同時に母校沖縄師範の教諭という破天荒の椅子を勝ち取ることができた。(略)この珍本こそは、嘉永6年(1853)今から百十五年前に米国の水師提督ぺルリの「琉球訪問記」であった。この本が師範学校の図書室に蔵せられたのは、琉球の碩学伊波普猷氏から時の師範学校長西村光弥氏に嘆願し同校長の辣腕によって師範学校に備えつけられたものであった。神田君は其の本に吸いつくように読みふけって翻訳に筆を染め始めた。(略)君が琉球新報紙上に発表せる昭和7年6月約二百十枚に渉る切抜帖は大東亜戦争の戦火の中肌身離さず所持して歩いた。漸く今回、広田夫婦・古屋夫婦ならびに君の遺児全員の協力で父の形見として原稿に認められた上、斯界の権威者である宮城栄昌博士の御指導により上梓されるはこびとなった。」
1997年7月 神田精輝『ぺルリ提督 琉球訪問記』国書刊行会(1926年の復刻)1853年浦賀に来航したアメリカの東インド艦隊司令長官ペリー提督の「日本遠征記」より、琉球に関する記事、写真、図版を訳出したもの。当時の日米関係史や琉球を知る上で貴重な資料。
神田精輝
1924年4月23日~24日『沖縄タイムス』神田精輝「ペルリ提督 琉球訪問記 出版に就いて(上)(下)」
ペルリ提督琉球訪問記 / 神田 精輝 : 北新町(大分県) 神田精輝 大正15(1926) 図44枚
新見吉治・広島高等師範学校教授「序文ー米艦は琉球を根拠地として石炭貯蔵所を設け、日本近海の測量をやって居たのみならず、ぺルリは最初琉球を永久に占領する計画を立てて居たとの事であるが、大統領交送により侵略主義が棄てられたことは、我国のために誠に仕合せであったといわなければならぬ。若し仮に当時の米国が四五十年後の帝国主義旺盛時代の国情であったとしたら、琉球は今どうなって居るだろうなどと考えるとき、誠に膚に粟の生ずるような感を催さずに居られないではないか。(略)彼を知り己を知るの方便として神田君が本書を公刊せられた本旨は、単に郷土史の資料を提供し、開国の歴史の闡明に資したいというばかりでなく、今や国際連盟は成立したけれども、今後如何に太平洋問題が発展し紛糾するか予想のつかぬ折柄(略)史学は音便のせいでもあろうか、死学になり易い傾がある。私は神田君と共に、これを温故知新を眼目とする活きた学問としたいということを切に感ずる者である。」
新見吉治・経歴/東京帝大史料編纂掛編纂委員嘱託を経て、明治36年広島高等師範学校教授となり、41年ドイツに留学、ライプツィヒ大学のランプレヒト教授について日本武家政治史を研究。のち学制改革で昭和4年広島文理科大学教授、13年退官、名誉教授。15年東洋大学文学部教授(〜18年)、大倉精神文化研究所研究員(〜20年 27〜40年)。26年から徳川林政史研究所研究員(〜48年)となり、下級士族の戸籍などを研究。36〜44年愛知工業大学教授兼任。著書に「日本に於ける武家政治の歴史」「下級士族の研究」「壬申戸籍成立に関する研究」「旗本」などがある。コトバンク
伊波普猷「序文」
1934年3月30日ー『沖縄日報』「展けゆく歴史の曙・ペルリ艦隊来航記念号」
沖縄日報主催「ペルリ日本来航80年記念祭」講演/神田精輝・島袋源一郎
1934年12月26日『大阪朝日新聞』
1937年9月 『沖縄県人事録』沖縄朝日新聞社
広田宗三(1915年2月8日~1976年3月24日)
1943年 正月/1970年 初孫を囲んで
久志村大浦547で阿嘉宗進、ウメの4男として出生。
1938年ー叔母広田ウタの養子縁組で広田姓。
1939年ー神田芳と結婚→叔父に神田精輝。
1959年12月ー東京都立日比谷図書館奉仕課長。
1964年7月ー『オキナワグラフ』「東京都庁うるま会ー広田宗三」
1967年10月ー『オキナワグラフ』「東京体育館長の一日ー広田宗三さんを訪ねて」
□1977年3月 『船頭さんになってー広田宗三追悼集』同委員会
1998年3月 広田芳『私の星とともにー八十五年の歩み』南山舎/1977年3月 『船頭さんになって』