グイド・ヘルマン・フリドリン・フェルベック(Guido Herman Fridolin Verbeck、あるいはVerbeek、1830年1月23日 - 1898年3月10日)は、オランダ出身で、アメリカ合衆国に移民し、日本に宣教師として派遣され活躍した法学者・神学者、宣教師。→ウィキ
1830年 オランダ生まれ。モラヴィア兄弟団の教会で洗礼を受ける。
1852年 渡米、ニューヨーク移住。コレラに罹ったが命を取りとめ、献身を決意する。
1855年 ニューヨーク州オーバン神学校入学。
1859年 上海からの海路、サミュエル・ブラウンと共に長崎に来日。
1864年 済美館教師。
1866年 村田政矩が尋ねて来て聖書の教えを請う。
1868年 致遠館(佐賀藩が長崎に建てた英学校)で教鞭をとる。
伊藤博文、大久保利通、大隈重信らが集まって英語や西洋の学問を学ぶ。

上京前のフルベッキと致遠館の学生
1869年 上京。大学南校(後年開成学校に改称)教師
フルベッキ、大隈重信に、これからの日本は西洋から学ばなければいけない、そのためには欧米へ使節団を派遣する必要があると説き、具体的な計画書も提出→岩倉使節団
1871年 語学・学術においての功績が喜賞され 明治天皇から勅語を賜る。
1873年 大学南校を辞職、政府左院翻訳顧問となる。
1878年 元老院に在職。旧約聖書翻訳委員。
1886年 明治学院理事。
1887年 明治学院神学部教授。
1898年 赤坂葵町で没。68歳。青山霊園に埋葬された。
高谷道男編訳『フルベッキ書簡集』新教出版社、1978年

フルベッキ資料(私設 文学資料室所蔵)



右ーヘボン資料
1998年5月 保険医療研究所『いつでも元気』№79「ぶらり探訪 横浜 宣教医ヘボン(上)」
1998年6月 保険医療研究所『いつでも元気』№80「ぶらり探訪 横浜 宣教医ヘボン(中)」
1998年7月 保険医療研究所『いつでも元気』№81「ぶらり探訪 横浜 宣教医ヘボン(下)」

ジェームス・カーティス・ヘボン(英語: James Curtis Hepburn、1815年3月13日 - 1911年9月21日)は、米国長老派教会の医療伝道宣教師であり、医師。聖書の日本語訳にたずさわり、また初の和英辞典である『和英語林集成』を編纂した。 ヘボン式ローマ字は『和英語林集成』中での日本語の表記法が元になっている。ペンシルベニア州ミルトン出身。姓の「ヘボン」は原語の発音を重視した仮名表記で、ヘボン自身もこれを用いたことで一般に定着したものだが、まれに綴りを重視してヘプバーン、ヘップバーンなどの表記が行われることもある。幕末に訪日し、横浜で医療活動を行った。宣教師デュアン・シモンズと共に、横浜の近代医学の基礎を築いたといわれる。その功績を称えて、横浜市立大学医学部にはヘボンの名を冠した講堂「ヘボンホール」がある。また、東京で明治学院(現在の明治学院高等学校・明治学院大学)を創設し、初代総理に就任。日本の教育にも貢献した。→ウィキ

 2016年7月20日昼 おもろまちの「私設 文学資料館」で新城良一さんの話を聞く。県民大会に参加はしたが足が少しフラフラして若い女性看護師から熱中症扱いされて辟易したという。良一さんの数奇極まる来し方は小説より面白い。文学散歩の言葉を定着させた野田宇太郎や夏目漱石の話などなど良一さんと文学談義。

 1938年8月から須藤利一は『沖縄教育』に「ベージル・ホール大琉球航海記」を1939年まで連載。1938年12月には台湾愛書会の『愛書』に須藤利一は「琉球の算法書」を発表。1940年1月、須藤利一は野田書房から『大琉球島探検航海記』を出した。発売所は東京は日本古書通信社代理部、那覇は沖縄書籍となっている。この本は天野文庫と比嘉文庫にあるが口絵に「バジル・ホール肖像」が付いていないが、戦後復刻本には付いている。また川平装幀も微妙に違う。














2005年5月 新城良一・編『ビジュアル版 日本・琉球の文明開化ー異国船来航の系譜』天久海洋文学散歩会