01/11: 新城栄徳「琉球文化史散歩」(豊川善曄)⑥
2000年8月21日『沖縄タイムス』「知られざる歴史上の写真ー軍医・渡辺重鋼、教育者・豊川善曄」(島袋和幸)/5月27日『沖縄タイムス』「明治の貴重な写真発掘ー山田実さん保管、新城栄徳さん調査」/10月2日『琉球新報』新城栄徳「近代沖縄観光文化史ノートー沖縄に来た画家たち」/12月3日『琉球新報』新城栄徳「書評ー野々村孝男『写真集・懐かしき沖縄』/2001年10月9日『おきなわ写真の歩み』新城栄徳「沖縄写真史散歩」
沖縄県立第三中学校 第一回卒業式/前列右から4人目が豊川善曄
1933年6月 『南燈』豊川善曄「日本文化に對する沖縄人の貢献」
1998年1月 島袋和幸『沖縄の軌跡』17号 「放浪の教育者 豊川善曄について」
1998年8月 城間有「勉強会レジュメー豊川善曄論」
2001年10月ー沖縄県写真協会『おきなわ写真の歩み』新城栄徳「沖縄写真史散歩」
1609年、フィリピン臨時総督ドン・ロドリゴを乗せたサン・フランシスコ号が千葉の御宿沖で座礁、上総国岩和田の村人によって317名が救助されたという。その千葉県御宿には鹿野政直氏が住んでおられる。氏の著『近代日本の民間学』(岩波新書1983年)、『近代日本思想案内』(岩波文庫1999年)がある。何れの本にも私が関心をもっている柳田国男、折口信夫、南方熊楠、柳宗悦、伊波普猷が登場する。2008年2月に岩波書店から『鹿野政直思想史論集』第4巻が刊行された。沖縄特集ということで私も著者から贈られた。中の追記に「末吉麦門冬については、のちに新城栄徳氏から、同氏編・刊『文人・末吉麦門冬』(『琉文手帖』2号、1984年12月)の出ていることを教えられた。小冊ながら、彼の写真・筆蹟・随筆選に、伊佐眞一編の「末吉麦門冬と新聞」「著作目録(抄)」などを収めており、麦門冬研究の基礎文献をなす」と書かれている。また沖縄学について私が提供した新聞にもふれている。
2001年10月ー沖縄県公文書館『写真にみる近代の沖縄』
2006年6月 『山田實クロニカルー沖縄と写真と私』□仲里効「はじめに」、東松照明「戦後写真史の幕開けに立ち会う」、洲鎌朝夫「写真機を操る人。操られる人」
2008年9月 朝日新聞社『アジアとヨーロッパの肖像』(9月11日~国立民族学博物館/国立国際美術館)
2009年1月 沖縄県立博物館・美術館『移動と表現ー変容する身体・言語・文化』
2010年3月 壷屋町民自治会『なつかしの壷屋』(山田實/森幸次郎)
今、『琉球新報』に「山田實が見た戦後沖縄」が連載されている。それを見て思うのは、10・10空襲を得て沖縄戦で灰燼と帰した那覇での写真を始め幼馴染の伊波國男(伊波普猷の次男)の写真と卒業証書や辞令書などが残っていることに驚く。これなどは肉親が県外に住んでいた結果であろう。山田さん本人もシベリア抑留から生還し健在だからこそ、これらの写真、資料が活きている。(2010-3-30)
同年に岩宮武二が『日本の工芸』別巻・琉球の取材で来沖。琉球新報の依頼で山田さんが案内をつとめた。別巻・琉球は外間正幸文で淡交社から刊行された。同著には岩宮のサインがある。69年2月に那覇栄町の栄亭でニッコールクラブの沖縄有志による東松照明歓迎の集合写真もある。74年11月の八汐荘での「沖縄写真学校」は山田さんの写真館が窓口であった。そのときのポースタが山田さんのところにあるが講師の荒木経惟、東松照明、森山大道、深瀬昌久、細江英公の全員のサインがある。
2010年11月 沖縄県立博物館・美術館『母たちの神ー比嘉康雄展』(1968年11月19日未明のB52爆撃機が嘉手納空軍基地で墜落炎上。この事件を転機に嘉手納警察署を退職し、東京写真専門学院報道写真科入学。)
2011年1月 沖縄県立博物館・美術館『安谷屋正義展ーモダニズムのゆくえ』山田實「エッセイ・沖縄美術界の逸材、早い別れ」
2001年3月ー那覇市歴史博物館『????宮城昇の写した世界ー埋もれていた昭和モダン』
2010年3月6日午後1時にパレットくもじ前で「豊前海一粒かき」の試食があった。リウボウ6階では「第12回青森県物産と観光展」が開かれていた。アップルジュースを飲み会場を見る。梅干しもある。梅干は和歌山県というイメージが覆された。和歌山県には秦の徐福の墓があるが、青森県の小泊には徐福の里公園があり徐福像もある。いま巷では坂本龍馬がブームである。その出生地の土佐は南国とも云われている。青森などは北国である。
午後2時、那覇市歴史博物館で「本土人が見た1950年代の沖縄」の撮影者・小野田正欣氏ご本人による当時の状況解説の講演を聞く。展示写真の中に、1953年完成したばかりのペルリ記念館(戦前の首里城北殿に似ている)や、沖縄民政府立首里博物館、東恩納博物館の写真もある。私は沖縄滞在のときの小野田氏の写真と、話をされている小野田氏を比べていた。その当時、私は5,6歳であった。
2011年11月 国立歴史民俗博物館「風景の記録ー写真資料を考えるー」(~2012年1月)
2012年1月 沖縄県立博物館・美術館『沖縄近代彫刻の礎 玉那覇正吉展ー彫刻と絵画の軌跡』
2012年3月 沖縄県公文書館『ARCHIVES』第42号 □米軍や米国政府が撮影した戦中、戦後の写
真、琉球政府が撮影した復帰前の写真はすでに6万枚以上がデジタル化され、館内やホームページで公開されています。琉球政府関係写真/米国政府撮影写真/ハワイ移民関係写真。
2011年10月5日ー10時半、近鉄永和駅から奈良に行く。新大宮駅で手前にイトーヨーカードーが見えてきた。このスパーの関西進出は1986年の堺店が始まりである。当時はイトーヨーカードーの関西進出予定の土地をダイエーが押さえていたという話もあった。堺店は2011年に閉店し阿倍野再開発地域に進出するようである。最近はイオンが目につく。沖縄でも1999年に沖縄ジャスコ(2011年にイオン琉球)として設立され現在は那覇、南風原、具志川に大規模店舗がある。イオンの岡田社長の弟が民主党の岡田克也である。ダイエーも沖縄から撤退し、那覇店の跡はジュンク堂が入っている。
近鉄奈良駅北口から地上にあがって行基広場に出ると雨が降ってきた。屋根があったら良いと思ったがアーケード商店街は間近にあって、しかも雨は偶にしか降らない。この浅はかな観光客の屋根の発想を、実現しようと奈良市の行政が企んでいる。行基広場の大屋根の問題である。広場は40年前、当時の鍵田忠三郎市長が「奈良に来るお客さんが暗い地下駅から出て、すぐアーケードの下の商店街に入るのでは大阪などの大都市となんら変わらない」とし「観光都市奈良である以上、まず、青空の見える広場に出て古都の空気と風情を味わってもらい、それからそれぞれの公園とか商店街とか、その目的地に行ってもらう、余裕のある観光都市の玄関にせねばならぬ」と考え、近鉄などに駅前広場の設置を求めた。要求は通り、市は広場の象徴として、奈良とかかわりの深い奈良時代の僧、行基の像の噴水を設置したものだ。奈良市は大屋根に投ずる税金があれば自然災害の防止に回したらどうか。
とにかくも、アーケード商店街「東向商店街」「もちいどのセンター街」(HPあり)の古本屋をのぞく。購入した『思想の科学』№113(1979-12)にダグラス・ラミス「オキナワ1960年」、安里英子「語り出したシマーグヮー」が載っている。また『私の書斎Ⅲ』(竹井出版1979-9)には三鬼陽之助、岡本太郎らが書斎について語っていた。
小雨になったので興福寺(HPあり)見物。途中、鹿が小雨の中のんびり歩いていた。興福寺は藤原鎌足夫人の鏡大王が夫の病気平癒を願い、鎌足発願の釈迦三尊像を本尊として、天智天皇8年(669年)山背国山階(現京都府京都市山科区)に創建した山階寺(やましなでら)が当寺の起源である。壬申の乱のあった天武天皇元年(672年)、山階寺は藤原京に移り、地名の高市郡厩坂をとって厩坂寺(うまやさかでら)と称した。和銅3年(710年)の平城遷都に際し、鎌足の子不比等は厩坂寺を平城京左京の現在地に移転し「興福寺」と名付けた。この710年が実質的な興福寺の創建年といえる。
興福寺五重塔は何十回となく見ているが、小雨の中で見るのは初めてである。国宝館で千手観音菩薩立像(国宝)、ブームになった阿修羅立像(国宝)、山城正忠が随筆の題にしたこともある乾闥婆(仏教の守護神。インド神話から仏教にはいってきた神で,八部衆のひとつ。帝釈天につかえ,香をたべて楽を奏する。胎児,小児を守護し,悪魔をはらう神とされるーコトバンク)の立像(国宝)などを見学した。奈良国立博物館を通ると正倉院展の予告ポスター、公園の角に「森鴎外の門」がある。明治、大正にかけての小説家・評論家で、軍医としても名高い森鴎外は、1917年12月帝室博物館の総長に任命され、1918年から1921年まで、秋になると正倉院の開封に立ち会うため奈良を訪れ、滞在中の宿舎が奈良国立博物館の北東隅にありが今は宿舎は取り壊され、ただひとつこの門だけが残り鴎外を偲ばせるものとなっている。
次に春日大社に寄った。大社は藤原氏の氏神・氏寺の関係から興福寺との関係が深く、813年(弘仁4年)、藤原冬嗣が興福寺南円堂を建立した際、その本尊の不空絹索観音が、当社の祭神・武甕槌命の本地仏とされた。神仏習合が進むにつれ、春日大社と興福寺は一体のものとなっていった。11世紀末から興福寺衆徒らによる強訴がたびたび行われるようになったが、その手段として、春日大社の神霊を移した榊の木(神木)を奉じて上洛する「神木動座」があった。1871年(明治4年)に春日神社に改称し、官幣大社に列した。1946年(昭和21年)12月に現在の春日大社に改称した。春日大社には 夫婦大国社 末社で、大国主命(おおくにぬしのみこと)と須勢理姫命(すせりひめのみこと)の夫婦神を祭神としていて日本で唯一夫婦の大国様を祀った神社である。
帰途、東大寺の南大門を見ると、屋根の一層目に「大華厳寺」と書かれている扁額があった。木造金剛力士立像(国宝)は高さ8.4メートルの巨大な木像。門の向かって右に吽形(うんぎょう、口を閉じた像)、左に阿形(あぎょう、口を開いた像)を安置する。これは一般的な仁王像の安置方法とは左右逆である。小雨だから暗くよく見えなかった。
奈良県文化会館では「第25回ー日本墨彩拓美術協会全国展」が開かれていた。伝統技法で採拓したものに与謝野晶子歌碑「柔肌の熱き血潮に触れもみで寂しからずや道を説く君」(吹田市)、青木月斗句碑「菊の花 茶話黄昏に 到りけり」(洲本市)、阿倍仲麻呂歌碑「天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に いでし月かも」(山梨県)、芭蕉句碑「庭はきて 雪を忘るる 箒かな」(三重県)、芭蕉句碑「おもしろうて やがてかなしき 鵜舟哉」(岐阜市)、山頭火句碑「ずんぶり湯の中の顔と顔笑う」(松山市)、一茶句碑「ちぐはぐの 芒の箸も 祝かな」(長野県)、正岡子規句碑「信濃路や 宿借る家の 蚕棚」(長野県)、新技法で採拓したものは立体的な仏像や、千手観音、道祖神などがあり、着色したりし芸術的センス抜群であった。