上里朝秀(明星大学教授/1965年9月17日死去、75歳)
首里出身/沖縄師範をへて広島高等師範、京都大学卒業。/成城学園大学教授、同大学総長代理を歴任。

1937年9月 『沖縄県人事録』沖縄朝日新聞社

1912年3月ー沖縄師範学校卒業生に仲原善忠、上里朝秀、島袋盛敏、與世里盛春、山内盛彬
1915年1月16日『琉球新報』「亡父朝徹葬儀ー男上里朝秀、朝宜」
1920年9月15日『沖縄朝日新聞』「弟朝宜、兵庫県三田に於いて病没ー兄上里朝秀、朝徹、朝義」

上里朝秀の著作



1924年6月『祖先の生活』イデア書院〇はしがきーこれまでの歴史は多く政治と戦争の歴史であった。ところが近年歴史の見方が進んで来て、文化史風俗史経済史社会史といったようなものが、だんだんと研究され、しかもこれらのものは前のものにもまし」て重んぜられられるようになって来た。まことに喜ばしいことである。/内が学校であり、川が学校であるという具合に、行くところすべてが学校であった。ずいぶん大きな学校ではないか。私たちもいつも小さな学校にばかり閉じこもらないで、時にはかような大きな学校で大きな先生から、おけいこをしてもらうことも必要である。西洋のあるえらい学者が、「社会は大学校なり」といっているが、もっと大きくして「宇宙は大学校なり」と言うことが出来る。

関連〇1927年10月『沖縄教育』165号 小原国芳「教育道に就て(1)昭和2年度夏季講習概要筆記」ー那覇の港に船が入ると前面に石垣の壁が見える。あれを見た時自分は直覚的に龍宮だと思った。浦島太郎の作者はきっと琉球に来たことのある人ではないかと思われる。私も遂に琉球まで来てしまいました。私の郷里は大隅半島の尖端である。学生時代にはよく琉球の婦人が琉装して反物を売って歩いているのを見たから琉球に来ても意外の処とは感じない。それに私の学園で五主任の中二人までが琉球の人である。仲原(善忠)君と上里君で、仲原君は30何万円という学園の予算を一人で切盛りしている。両君からも宜しくということでありました。」 

関連〇1931年4月『沖縄教育』188号 神田精輝「歴史教材の価値観ー上里朝秀氏著『国史教材の価値及取扱』を読みて」

関連〇1965年10月10日 石川正通□上里朝秀先生鎮魂歌ー七つの海を越え越えて/十万億土隔つとも/五倫五常の化身たる/翁の永生疑はず/見て進む人の世の/にも野にも山々に/告げ鳥の囀りは/づる人を称ふなり/先の世今の世後の世を/行き抜く信仰揺ぎなく/のこし給ひし功績に/遺賢の教へ仰ぐかな/徳は孤ならず我等皆/ををしく起ちてこの人を/偲びて生涯を/ぶじ平穏に送りなん



〇1913年4月ー鎌倉芳太郎、香川県師範学校本科第1部入学。この頃 江村晴三郎(東京美術学校日本画卒業・白山高等女学校教諭)の知遇を得て日本画の技法を学ぶ。在学中は同郷出身で竹内梄鳳門下の穴吹香村に運筆や写生法を学ぶ。また中央美術社発行の日本画講義録により、結城素明、松岡映丘、鏑木清芳、安田靫彦の写生、臨模、色彩技法等を学ぶ。
○英語教師の小原國芳①の影響を受ける。
①1887‐1977(明治20‐昭和52)
玉川学園の創設者。鹿児島県出身。京都大学哲学科卒業。1919年に成城小学校長沢柳政太郎に請われて同校の主事に就任,以後,研究誌《教育問題研究》等を通して,また講演等によって教育改造運動を推進,新教育運動の発展に指導的な役割を果たした。その学校経営事業の手腕も抜群で,大正末期には成城小学校を都心の牛込から郊外の砧村に移し,そこに成城学園を中心とした学園都市をつくった。29年には,東京町田に玉川学園を創設,33年以後は成城を離れてもっぱら玉川学園での教育経営に力を注ぎ,ここを国際的にも注目をあびるすぐれた総合学園とした。 (コトバンク)