2011年6月 新川明・儀間比呂志・知念ウシ/翻訳『りゅう子の白い旗ー沖縄いくさものがたり』 出版舎
Muɡen□新川明ーあとがき/(前略)あれから二十六年たって、さきの「集団自決」訴訟と文部科学省のあり方が象徴するように日本の国全体がますますおかしくなっていくのを見るとき、私たちはすでに絶版になっていたこの絵本を復刻再刊したい、と強く思ったのです。さいわい出版舎 Muɡenの上間常道さん(2018年8月死去)が私たちの思いを受けとめてくれて、ここに絵本「沖縄いくさものがたり」を正真の沖縄発の”非戦の思い〟をこめた絵本として再生させることができました。上間さんと英訳の知念ウシさんにあらためて感謝したいと思います。/儀間比呂志ーこの作品を描いてから二十六年の歳月が過ぎました。この間、戦争への危機はなくなるどころか、広大な米軍基地は沖縄に、相変わらず我がもの顔で居座り、戦争への構えをとり続けています。その事実を近隣諸国が黙認し、侵略者の暴挙を容認している国際事情には、何たることかと憤りはつきません。


写真左から儀間比呂志さん、新城征孝氏、新川明氏、新城栄徳、その前が舞台美術家・新城栄徳氏/チニンウシィさん、伊佐眞一氏


1999年1月 儀間比呂志『絵本 沖縄のわらべうた』沖縄タイムス社□儀間比呂志ーあとがき(前略)本書の出版にあたっては、島袋全発氏の『沖縄童謡集』ほか、数々の本を参考にさせていただいた。また、楽譜の提供をいただいた比嘉悦子さん、エッセーをよせてくださった船越義彰さん、翻訳者のR・トンプソンさん、出版元の沖縄タイムス社と編集の上間常道さんに、心から感謝の意を表したい。




1985年8月 新川明(沖縄タイムス東京支社長)・儀間比呂志『りゅう子の白い旗ー沖縄いくさものがたり』築地書館


1971年12月 『新沖縄文学』21号 「儀間比呂志版画集/詞章・新川明」
1974年10月 『新沖縄文学』26号  儀間比呂志「表紙のことばー私が最も好み、数多く描いてきたおなじみの沖縄伝統民俗芸能『七月エイサー』である。」
1975年2月 『新沖縄文学』27号 儀間比呂志「表紙のことばー沖縄民衆は、ワジワジーしている。”日本に復帰すれば、平和がよみがえり豊かな沖縄県が実現する〟ふりまかれた幻想ー。”海洋博は、沖縄経済の起爆剤〟ユクシムニーするな!原爆つきの基地はそのまま 山からは、みどりをうばい 海からは、 魚をおいはらい わったぁからは、生活をうばう。それは、だれなんだ!
1975年11月 『新沖縄文学』30号 儀間比呂志「<随筆>沖縄の女」

平良邦夫氏、不詳、山田親英氏/儀間比呂志氏、佐々木薫さん

海勢頭豊氏、徳田澰さん、/山田親英氏、儀間比呂志氏、佐々木薫さん


2003年2月 多和田真助『沖縄の海図 「復帰」30年のメッセージ』「上間常道」沖縄タイムス社□「上間常道 『沖縄大百科事典』によって、沖縄研究の沖縄研究”道しるべ”ができたことの意味は限りなく大きい。大阪生まれの『沖縄二世』である。在日朝鮮・韓国人、被差別部落出身者、沖縄人ー。複数の差別が重層する社会で誕生、出自の『沖縄人』には敏感すぎるほどの反応を強いられた。」

『沖縄大百科事典』の精神 出版舎Mugen代表 上間 常道
出版編集者とは、ある意味で、時代の組織者・工作者であるべきだ、それも黒子の、と考えていた当時の私にとって、『沖縄大百科事典』の仕事場は願ってもない闘いの場だった。編集事務局は出入りする多種多様の人たちでいつもわさわさとして、活気に満ちていたし、何か沖縄の新しい文化、新しい時代をみずからの手で創り出そうとする意欲にみなぎっていた。その熱気は間違いなく、1972年の「復帰」以降、ようしゃなく押し寄せてくる日本的なるものによって、長い時間をかけて先人たちが築き上げてきた沖縄的なるものがどんどん後景にやられ、あっという間に破壊され、浸食されていく現状への抵抗を反映していたと言える。
 日本的なるものに対抗できる新しい文化を創造するための中核として、『沖縄大百科事典』は位置づけられた。そのことは次のような事情に目をやれば明らかだろう。まず、事典の記述は徹底して沖縄的なまなざしで書くことを、日本にいる執筆者を含めたすべての執筆者に求めた。ほとんどの執筆者もそれを当然のように受け入れてくれた。大百科ができるまでは、沖縄に関する知識を得ようとすれば、おおむね日本の視点から見た沖縄に関する記述をいやおうなく受け入れざるを得なかったのである。第二に、主に21分野にわたる項目委員会の委員などを媒介にして、これまで疎遠であった分野どうしが対話したり、対抗軸を形成したりして、さまざまに刺激し合って、新たな横断線を築くことができたことである。交流が密でないことによって生じる、いわれのない排除や蔑視を克服するうえで、大百科は大きな役割を果したといえよう。
 第三に、「沖縄戦」を独立した一分野として設定することによって、日米両政府に対する対抗軸を設定しようとしたことである。沖縄戦を、日米とは完全に独立した沖縄的観点から記述することによって、今も続く軍事的不条理の根っこの部分を明らかにしようとした。第四に、沖縄(本)島中心主義、とくに首里・那覇中心主義を否定して、奄美―宮古―八重山を貫く「琉球弧の視点」でモノを見ることによって、日本が沖縄を見るときのやや威圧的な上目目線をも否定する方向を打ち出した。
 総じて、日本とは相対的に別箇な沖縄的まなざしを築くうえで、必要不可欠の資料としての役割を担ったといえよう。沖縄のアイデンティティ形成のうえで、沖縄大百科は必要不可欠の素材なのである。1983年以降、かりに『沖縄大百科事典』が存在しなかったら、どうなっていただろうか。日本―沖縄を隔てる境界線はあいまいになり、日本の辺地となり果て、独自の歴史と文化と社会を築き上げてきた、日本とは相対的に別箇な領域としての特性すら失っていただろう――なにか、そんな気がしてならない。



2010年10月 後田多敦『琉球救国運動ー抗日の思想と行動』出版舎Muɡen

2010年10月 後田多敦『琉球救国運動ー抗日の思想と行動』出版舎Muɡen



後田多敦氏が関わった雑誌、機関紙と著書


2005年1月『うるまネシア』第6号 新城栄徳「『脱清人』群像」


2017年6月 『「時の眼ー沖縄」批評誌N27』 No.8 後田多敦「植民地を持つ『民主主義』国・日本 奪われ、繋ぎ止められ、押し付けられる沖縄」

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写真ー左から来間泰男氏、儀間比呂志氏、知念ウシ氏

2010年10月22日ー沖縄青年会館『ウシがゆく』出版祝賀会
午後6時に青年会館で『ウシがゆく』の出版祝賀会があった。私も息子が同祝賀の呼びかけ人なので代理として参加した。会場に行くと大城立裕氏、来間泰男氏が早々と見えておられた。真喜志勉夫人、仲里効夫人がすぐ後ろに居て大城氏に挨拶をしていた。沖縄文化の杜から金城美奈子、謝花佐和子、國吉貴奈、仲里なぎさの諸氏が参加された。関西から新里健、諸見里太志、金城馨、野村浩也の諸氏、伊佐眞一、池宮城紀夫、与那覇晶子、大田昌秀、高山朝光、新川明、川満信一、佐喜真道夫、比屋根照夫、比屋根薫、上原誠勇、翁長直樹、我部政男、後田多敦、上間常道、高良勉の諸氏や出版元の沖縄タイムスやウシさんのグループの諸君、関係者が多数参加した。紅一点というか琉球新報の小那覇氏も参加。主役の知念ウシは夫君ダグラス・ラミス氏と二人(幸都・海)の子供さんに囲まれていた。金城馨氏が詩人の久貝清次、後田多氏からは未来社の西谷能英氏を紹介された。

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知念ウシと友人たち

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琉文資料室で左ー島袋まりあ、知念ウシ