11/28: 2017年11月3日~12月26日 那覇市歴史博物館「大真和志~戦後の発展と合併で消えた町~」
2017年は、1957年12月17日に真和志市と那覇市が合併してから60年目の節目にあたります。節目の年を記念して、真和志地域の成り立ち・変遷、歴史・文化等について紹介します。現在の那覇市域は、かつては、那覇市、首里市、小禄村、真和志市の3市1村の行政地域に分かれていました。これらの地域が、1954年9月に首里市・小禄村が那覇市に編入合併をして、「新那覇市」となりました。この時、真和志市は那覇市との合併を見送ったので、「真和志は後回し(まわし)」といわれたものでした。今回の企画展では、当時、沖縄県第二の都市であり、現在では数多くの那覇市民が暮らしているかつての真和志地域の歴史を紹介します。(那覇市歴史博物館)
1904年2月6日、南風原朝光、父朝佐(球陽丸船員) 母(屋我)オトの次男として真和志村字安里に生れる。兄に南風原朝保。南風原家は元は首里大中で、本籍は那覇市松山町2丁目3番地。
1911年4月、南風原朝光、安里尋常高等小学校入学
1915年、南風原朝光、那覇市高橋町2丁目の国吉の貸家に転居。この時の友人に儀保松男がいた。
1917年春、南風原朝光、、崇元寺町1丁目名渡山方に転居。冬、崇元寺町2丁目山里方に転居。
1918年 南風原朝光、嘉手納の沖縄県立第二中学校に入学(1919年4月 退学)台北の兄朝保のところに引取られる。
1919年4月、南風原朝光、県立第二中学校退学。台北で医院を開業せる兄朝保のところへ引き取らる
この頃、南風原一家は真和志村字天久の母オトの弟屋我良行所有の家に転居。
1920年 春、兄の知人で彫刻家の横江嘉純宅に寄寓
1922年 小石川の明正塾に有銘興昭、大嶺詮雄が居たのでよく訪問する。
1923年 5月、有銘興昭の紹介で、青山学院近くの桑田医院に薬局生として住み込む。9月、関東大震災に会う
1924年 夏、有銘興昭、阿波根朝松らと築地小劇場、歌舞伎座などを見てあるく
1926年 日本美術学校入学
1929年 日本美術学校卒業。夏帰省し東京美術学校在学の名度山愛順と、那覇の円山号で「二人展」。東中野の大城皓也の下宿を訪ね、宿泊す。
1940年 豊島区椎名町に居住。
新城栄徳宛の古波蔵さん書簡
1990年、私は沖縄県立図書館で新聞を見ていた。1921年6月の『沖縄日日新聞』でそこに池味幸一という教師が「最後に綴方の自由選題に付いて白楊君に与ふ」を書き児童の成績として尋常6年の古波蔵氏の綴方が取り上げられていた。早速その新聞コピーを古波蔵氏におくった。氏の来信に「ご厚意のおかげで、小生が安里尋常高等小学校(当時は女子師範学校附属小学校)の尋常6年だったころの綴方に出会うことができて、なんとも懐かしい気持ちになっております」と記され末尾で「めったに手紙を書かず、不義理をしてしまうこともよくあるような小生が手紙としては比較的長い文章をさしあげるのは小学校6年だったころの自分に合わせて下さった貴殿への感謝と受取って下さると、幸せです」とある。古波蔵氏の手紙は、他に国吉真哲翁の遺族にあてた手紙のコピーもあるが、これは古波蔵氏の青春時代をよく表している。
2017年11月 沖縄県立博物館・美術館『彷徨の海 旅する画家・南風原朝光と台湾、沖縄』豊見山愛「彷徨の海ー南風原朝光と台湾・沖縄・東京」
那覇市歴史博物館2017年11月18日ー左から前城菜美子さん、弘中智子さん、嘉数理紗さん
〇弘中さんに、仲宗根八重子と、貘、南風原朝光が写っている写真を見せてもらった。八重子は1914年生まれで那覇の西新町出身。沖縄県立二高女卒。1931年に上京。1948年、都内板橋区板橋町1丁目2500番地で八重園ホテルを経営、引き続きバーシュロの第一、第二を増設経営。
1963年7月 大宜味朝徳『目で見る琉球 琉球写真案内』「仲宗根プロダクション 板橋区板橋町1丁目2500番地」沖縄興信所
魅川憲一郎クン来館