05/06: 1923年12月 『沖縄教育』末吉麦門冬「俳句ひかへ帳ー言葉の穿鑿」
1923年12月 『沖縄教育』末吉麦門冬「俳句ひかへ帳ー言葉の穿鑿」
○俳句に出づる故事、物名、人名や地名には随分読む人を困らすのがある。私もそれに困った一人なので、そういう句に出会す時は、必ず手ひかへに留めて置いた。而して読書の際偶その出所を発見したり、解釈を得たりする時は、又別のひかへ帳に立てて置いた。それが積もって漸く一つの物に纏ったので、我と同じからん人の為めにと本誌に投した次第である。・・・公達に狐化けたり宵の春 蕪村ー狐が化けると云うことは普通に誰も知っていることだが、これも支那から来た話ではなかろうか。西陽雑爼①に「野狐一名は紫夜、尾を撃って火を出す、将に怪を為さんとするや必ず髑髏を戴いて、堕せすんば則ち化して人となる」と。又、五雑爼②に「狐千歳にして始めて天と通ず、魅を為さす。其の人を魅する者は多く人の精気を取りて以て内丹を成せばなり。然らば則ち其の婦人を魅せざるは何ぞや。曰く狐は陰類也、陽を得れば乃ち成る故に牡狐と雖必ず之れを女に托して以て男子を惑はす也。然れども大害を為さす、故に北方の人は之れを習はす」と。
支那では男に化けぬことになっているが日本ではこの句にあるように美男に化けて女を惑はすやうなこともあると信じられているやうだ。蕪村には狐の句が多い。「春の夜や狐の誘ふ上童」「狐火やいづこ河内の麦畑」「狐火や五助畑の麦の雨」「石を打つ狐守る夜のきぬた哉」「小狐の何にむせけん小荻原」「蘭夕、狐のくれし奇楠を烓かむ」等がある。彼が狐に興味をもっていたことが其の句の多いので知られる。此の句は敦盛卿のやうな美しい公達に狐が化けたと云ふので、それがいかにも春の宵のあやしき心持に調和した美をなすのである。かうした美しい怪物のあらはれるのも春の宵でなければならぬやうな気がする。狐忠信の舞台も春であるからこそ榮えるのである。
①名の「酉陽」は、湖南省にある小酉山の麓に、書1,000巻を秘蔵した穴が存在するという伝承に則っている。内容は、神仙や仏菩薩、人鬼より、怪奇な事件や事物、風俗、さらには動植物に及ぶ諸事万般にわたって、異事を記しており、中国の小説あるいは随筆中においてその広範さは一、二を争う。魯迅の愛読書であり、南方熊楠が、プリニウスの『博物誌』と名を比した書としても知られる。→ウィキペディア
②中国,明の随筆。謝肇せい (しゃちょうせい) の著。 16巻。全体を天,地,人,物,事の5部に分け,広く自然現象,社会現象の全般にわたって,その見聞,意見を記したもの。その観点は合理的な傾向をもち,当時の社会の矛盾を鋭く描く部分もあり,貴重な資料となっている。テキストの伝世に関しては、不明な点が多く、後集10巻の中には、明代の遺文を蒐集した部分が少なからず含まれるとされる。→コトバンク
1997年1月 謝肇淛著、岩城秀夫訳注『五雑組2』平凡社 夷狄(いてき)の諸国/朝貢国/琉球国/琉球
1935年11月 『沖縄教育』島袋盛敏「ひかる君の上京」
島袋盛敏
○私の家は当蔵町のアダニガーお岳の下にあったが、仲宗根章山家も名護から引き上げてお岳の傍らに来た。私の隣人になっていたのである。そうして章山翁の長男真吉君と私は大の仲良しになり、毎日行ったり来たりして遊んだものだ。章山翁は初め沖縄県庁の役人や分遣隊の士官達の求めに応じて、絵を売り生活しておられたとのことであるがその需要がなくなったので、名護の教員になられたのであろう。しかし教員も長く続かず再びアダニガーお岳の傍らに落ちつかれたものと見える。その時は、すでに分遣隊の士官達はいなくなって、その代わりに金持ちのご隠居さんが、床の間の掛軸とか、あるいは観音さまの仏像などを求めて来るようであった。(略)ちょうどそのころ、真吉君、摩文仁賢和君、新垣良光君と唐手をやり出した。それで師範では屋部先生にほめられた。
〇島袋盛敏『琉歌大観』の東風平親方朝衛の歌「上下の綾門関の戸もささぬ治まとる御代のしるしさらめ」がある。歌意は「上下の綾門は、関の形はしていても、戸を閉じるということはない。いつでも明け放しである。これは御代が治まっているという何よりのしるしであろう。誠にめでたい」とする。また解説に「上下の綾門は、関所というよりは、首里に入る人々を歓迎する門であって、王城のアクセサリーであった。作者は尚穆王時代の三司官で当銘家の祖である。和歌もよくし名歌を残している」とする。
1998年3月11日『琉球新報』
沖縄語辞典、15年ぶりに再版ー沖縄方言の最初の本格的辞典で古典的名著といわれる「沖縄語辞典」(国立国語研究所編、大蔵省印刷局)が、15年ぶりに本屋の店頭に並ぶことになった。再版を望む各方面からの声に押される形で8刷の刊行が決まったもので、研究者を中心に早くも歓迎の声が上がっている。県内でも11日から発売される。沖縄語辞典の初版が発刊されたのは1963年。首里出身の島袋盛敏氏が首里方言辞典の出版を計画し、語彙を集めるなど稿本にまとめ保存していた。島袋氏の稿本を引き継いだのは、当時、国立国語研究所地方言語研究室に勤務していた上村幸雄氏(名桜大学教授)。上村氏は音声記号を付すなど言語学上の処理を施したほか、意味説明の精密化や用例の補充、解説、索引を付けるなどして、10年掛かりで出版にこぎつけた。収録語数は約1万5000語。
1951年7月 雑誌『おきなわ』<故人追憶特集>島袋盛敏「麦門冬を語る」
1951年7月 雑誌『おきなわ』<故人追憶特集>
大里康永「民族解放の戦士 謝花昇」/湧川清栄「先覚者 当山久三を偲ぶ」/上原仁太郎「ダバオ開拓の恩人 大城孝蔵氏を偲ぶ」/比嘉春潮「仲吉朝助氏」/仲吉良光「法曹界の恩人 麓純義氏」/平良徳助「宮城鉄夫氏の思い出」/東恩納寛惇「真境名笑古」/比嘉静観「伊波普猷先生と私」/伊波冬子「微風」/船越義英「漢那先生」/玉代勢法雲「田原法水師を語る」/比屋根安定「比嘉保彦と佐久原好傳」/島袋盛敏「麦門冬を語る」/仲原善忠「佐喜間興英の業績について」/親泊政博「新聞人、当眞嗣合」/当眞嗣弘「父、当眞嗣合」/山里将秀「八重山の生んだ音楽詩人 宮良長包先生」/新屋敷幸繁「世礼国男氏を想う」/島袋源七「故 島袋源一郎氏を懐う」/編集後記
○麦門冬を号とする末吉安恭氏は、沖縄奇人傳中の一人物たるを失わないであろう。氏は世間的な名士というのではなく、市井に隠れて読書を楽しむ風流人であった。首里、那覇の詩人墨客の間では、酒仙として親しまれていたが、一般には史家として重んぜられていた。「陋巷に在りて其の楽を改めず、賢なるかな回や」というべき類の人であった。文筆を通じて知己たることを許しあっていた東恩納文学士は、その著童景集の中に「野人麦門冬」なる一章を設けて「数年前の夏、自分が帰省した時に、物外、笑古、麦門冬を頭に描いて波止場に下りた」という追懐をのべていられる。もちろん物外と笑古は、麦門冬から見れば、はるかにシーザガタではあったが、物外、笑古の両大人は、麦門冬を決して後輩視せず、相当の敬意を払ってつきあいをしているようであった。麦門冬氏が図書館に姿を現すと、館長の伊波さんは「チャーガ、サイ」(ごきげん如何ですか)と、あいさつしておられた。山城正忠、比嘉賀秀氏等が見えると「チャーガ」といっておられた。仲吉良光氏の話によれば、伊波さんが「麦門冬は、沖縄史鑑賞家としては沖縄一である」といっていられたそうであるから、ある点では「末吉小恐るべし」という感想を持っておられたかも知れぬと、想像されるのである。
(略)
麦門冬氏の生家は、首里の由緒ある家柄で、末吉殿内といい、相当に裕福であったから、若い頃は随分トウイタカテーにされて育った身分である。父も祖父も学者で、家にはおびただしい蔵書があり、幼少の頃から色々の本に親しむことが出来、殊に歴史鑑賞の趣味は、家代々の所蔵本によって、養われたものと見ることが出来る。(略)麦門冬氏は弟安持氏と共に、兄弟詩人として有名であったが、殊に弟は兄まさりの麒麟児という名声が高く、詩華と号して、明星派(新詩社)に属し、平野万里氏等とともに明星をにぎわしていた。その頃萬朝報が、「靖国神社の桜」という題で都々逸を募集したことがあるが、この詩華氏の作が一等に選ばれて、沖縄の文学青年を、あっと驚かしたことがある。当時萬朝報の都々逸は有名なもので、これに選ばれるということは容易ならぬことであったから、詩華氏の作は、たちまちにして人口に膾炙したわけである。その都々逸というのは「心引かるる九段の桜、友の魂どの蕾」というのであった。私がこの句を忘れることが出来ないで、いつまでも覚えているのは、今から思えば何か因縁浅からぬものがあるような気がするのである。
(略)
一体に、首里の儀保の人は粋人が多く、「銭呉イヤーヤ亀川小、追ウテ喰エーヤ嘉数、暁戻ィヤ喜屋武ノ樽小」などというようなその道の代表的な人々も居り、また「儀保二才達ガ、三人揃リレバ尾類呼ビ話」というような俗謡もあるが、麦門冬氏はそういう所の人間とは思われぬ程の堅人で、絶対に女郎を買うということをせず、友人達は末吉寺ともじって「坊主」①とあだ名して言っている位であった。どことなく山寺の和尚といった風格があった。(略)上間正雄氏等と共に、タイムスの孤塁を守って、相変わらず息の長いいつまでも続く史的随筆で、紙面を飾っていたが、どこかで呑んで帰りに、ふらふらと通堂の桟橋あたりに出て、今度は海底の乙姫に招かれたらしく、遂に永遠に帰らなくなった。大正13年11月頃であった。弟は火に死し、兄は水に死ぬということは、何という不思議な運命であろう。弟が焼死したのは、東京の霜白き秋であったというが、兄が水死したのも、沖縄のミーニシ吹く冷い秋で、やはり何れも同じ秋であるのも奇しき因縁である。
①大正7年5月24日の熊楠宛書簡に莫門冬は「郷俗、男は145乃至る167才より娼妓を買ふて以て一人前の男子となりたりと誇る、而して初めて娼妓を買ふを初ズリ(娼妓をズリと称す)とし、其の先輩によりてこの洗礼を受くるを男子の職分でであるかのように如くす。小生などはツムヂ曲りにて、この洗礼を今に受くるの光栄を有せざるを以て、野暮視せられ、笑止に存じ候。」と記している。
1950年5月 雑誌『おきなわ』早野参造(奥武之島漁夫)「心の故郷」
1937年9月 『沖縄県人事録』沖縄朝日新聞社「早野参造」
1924年12月15日『沖縄タイムス』島袋盛敏「末吉安恭君を悼む」
2014年4月27日 黄金森公園
○俳句に出づる故事、物名、人名や地名には随分読む人を困らすのがある。私もそれに困った一人なので、そういう句に出会す時は、必ず手ひかへに留めて置いた。而して読書の際偶その出所を発見したり、解釈を得たりする時は、又別のひかへ帳に立てて置いた。それが積もって漸く一つの物に纏ったので、我と同じからん人の為めにと本誌に投した次第である。・・・公達に狐化けたり宵の春 蕪村ー狐が化けると云うことは普通に誰も知っていることだが、これも支那から来た話ではなかろうか。西陽雑爼①に「野狐一名は紫夜、尾を撃って火を出す、将に怪を為さんとするや必ず髑髏を戴いて、堕せすんば則ち化して人となる」と。又、五雑爼②に「狐千歳にして始めて天と通ず、魅を為さす。其の人を魅する者は多く人の精気を取りて以て内丹を成せばなり。然らば則ち其の婦人を魅せざるは何ぞや。曰く狐は陰類也、陽を得れば乃ち成る故に牡狐と雖必ず之れを女に托して以て男子を惑はす也。然れども大害を為さす、故に北方の人は之れを習はす」と。
支那では男に化けぬことになっているが日本ではこの句にあるように美男に化けて女を惑はすやうなこともあると信じられているやうだ。蕪村には狐の句が多い。「春の夜や狐の誘ふ上童」「狐火やいづこ河内の麦畑」「狐火や五助畑の麦の雨」「石を打つ狐守る夜のきぬた哉」「小狐の何にむせけん小荻原」「蘭夕、狐のくれし奇楠を烓かむ」等がある。彼が狐に興味をもっていたことが其の句の多いので知られる。此の句は敦盛卿のやうな美しい公達に狐が化けたと云ふので、それがいかにも春の宵のあやしき心持に調和した美をなすのである。かうした美しい怪物のあらはれるのも春の宵でなければならぬやうな気がする。狐忠信の舞台も春であるからこそ榮えるのである。
①名の「酉陽」は、湖南省にある小酉山の麓に、書1,000巻を秘蔵した穴が存在するという伝承に則っている。内容は、神仙や仏菩薩、人鬼より、怪奇な事件や事物、風俗、さらには動植物に及ぶ諸事万般にわたって、異事を記しており、中国の小説あるいは随筆中においてその広範さは一、二を争う。魯迅の愛読書であり、南方熊楠が、プリニウスの『博物誌』と名を比した書としても知られる。→ウィキペディア
②中国,明の随筆。謝肇せい (しゃちょうせい) の著。 16巻。全体を天,地,人,物,事の5部に分け,広く自然現象,社会現象の全般にわたって,その見聞,意見を記したもの。その観点は合理的な傾向をもち,当時の社会の矛盾を鋭く描く部分もあり,貴重な資料となっている。テキストの伝世に関しては、不明な点が多く、後集10巻の中には、明代の遺文を蒐集した部分が少なからず含まれるとされる。→コトバンク
1997年1月 謝肇淛著、岩城秀夫訳注『五雑組2』平凡社 夷狄(いてき)の諸国/朝貢国/琉球国/琉球
1935年11月 『沖縄教育』島袋盛敏「ひかる君の上京」
島袋盛敏
○私の家は当蔵町のアダニガーお岳の下にあったが、仲宗根章山家も名護から引き上げてお岳の傍らに来た。私の隣人になっていたのである。そうして章山翁の長男真吉君と私は大の仲良しになり、毎日行ったり来たりして遊んだものだ。章山翁は初め沖縄県庁の役人や分遣隊の士官達の求めに応じて、絵を売り生活しておられたとのことであるがその需要がなくなったので、名護の教員になられたのであろう。しかし教員も長く続かず再びアダニガーお岳の傍らに落ちつかれたものと見える。その時は、すでに分遣隊の士官達はいなくなって、その代わりに金持ちのご隠居さんが、床の間の掛軸とか、あるいは観音さまの仏像などを求めて来るようであった。(略)ちょうどそのころ、真吉君、摩文仁賢和君、新垣良光君と唐手をやり出した。それで師範では屋部先生にほめられた。
〇島袋盛敏『琉歌大観』の東風平親方朝衛の歌「上下の綾門関の戸もささぬ治まとる御代のしるしさらめ」がある。歌意は「上下の綾門は、関の形はしていても、戸を閉じるということはない。いつでも明け放しである。これは御代が治まっているという何よりのしるしであろう。誠にめでたい」とする。また解説に「上下の綾門は、関所というよりは、首里に入る人々を歓迎する門であって、王城のアクセサリーであった。作者は尚穆王時代の三司官で当銘家の祖である。和歌もよくし名歌を残している」とする。
1998年3月11日『琉球新報』
沖縄語辞典、15年ぶりに再版ー沖縄方言の最初の本格的辞典で古典的名著といわれる「沖縄語辞典」(国立国語研究所編、大蔵省印刷局)が、15年ぶりに本屋の店頭に並ぶことになった。再版を望む各方面からの声に押される形で8刷の刊行が決まったもので、研究者を中心に早くも歓迎の声が上がっている。県内でも11日から発売される。沖縄語辞典の初版が発刊されたのは1963年。首里出身の島袋盛敏氏が首里方言辞典の出版を計画し、語彙を集めるなど稿本にまとめ保存していた。島袋氏の稿本を引き継いだのは、当時、国立国語研究所地方言語研究室に勤務していた上村幸雄氏(名桜大学教授)。上村氏は音声記号を付すなど言語学上の処理を施したほか、意味説明の精密化や用例の補充、解説、索引を付けるなどして、10年掛かりで出版にこぎつけた。収録語数は約1万5000語。
1951年7月 雑誌『おきなわ』<故人追憶特集>島袋盛敏「麦門冬を語る」
1951年7月 雑誌『おきなわ』<故人追憶特集>
大里康永「民族解放の戦士 謝花昇」/湧川清栄「先覚者 当山久三を偲ぶ」/上原仁太郎「ダバオ開拓の恩人 大城孝蔵氏を偲ぶ」/比嘉春潮「仲吉朝助氏」/仲吉良光「法曹界の恩人 麓純義氏」/平良徳助「宮城鉄夫氏の思い出」/東恩納寛惇「真境名笑古」/比嘉静観「伊波普猷先生と私」/伊波冬子「微風」/船越義英「漢那先生」/玉代勢法雲「田原法水師を語る」/比屋根安定「比嘉保彦と佐久原好傳」/島袋盛敏「麦門冬を語る」/仲原善忠「佐喜間興英の業績について」/親泊政博「新聞人、当眞嗣合」/当眞嗣弘「父、当眞嗣合」/山里将秀「八重山の生んだ音楽詩人 宮良長包先生」/新屋敷幸繁「世礼国男氏を想う」/島袋源七「故 島袋源一郎氏を懐う」/編集後記
○麦門冬を号とする末吉安恭氏は、沖縄奇人傳中の一人物たるを失わないであろう。氏は世間的な名士というのではなく、市井に隠れて読書を楽しむ風流人であった。首里、那覇の詩人墨客の間では、酒仙として親しまれていたが、一般には史家として重んぜられていた。「陋巷に在りて其の楽を改めず、賢なるかな回や」というべき類の人であった。文筆を通じて知己たることを許しあっていた東恩納文学士は、その著童景集の中に「野人麦門冬」なる一章を設けて「数年前の夏、自分が帰省した時に、物外、笑古、麦門冬を頭に描いて波止場に下りた」という追懐をのべていられる。もちろん物外と笑古は、麦門冬から見れば、はるかにシーザガタではあったが、物外、笑古の両大人は、麦門冬を決して後輩視せず、相当の敬意を払ってつきあいをしているようであった。麦門冬氏が図書館に姿を現すと、館長の伊波さんは「チャーガ、サイ」(ごきげん如何ですか)と、あいさつしておられた。山城正忠、比嘉賀秀氏等が見えると「チャーガ」といっておられた。仲吉良光氏の話によれば、伊波さんが「麦門冬は、沖縄史鑑賞家としては沖縄一である」といっていられたそうであるから、ある点では「末吉小恐るべし」という感想を持っておられたかも知れぬと、想像されるのである。
(略)
麦門冬氏の生家は、首里の由緒ある家柄で、末吉殿内といい、相当に裕福であったから、若い頃は随分トウイタカテーにされて育った身分である。父も祖父も学者で、家にはおびただしい蔵書があり、幼少の頃から色々の本に親しむことが出来、殊に歴史鑑賞の趣味は、家代々の所蔵本によって、養われたものと見ることが出来る。(略)麦門冬氏は弟安持氏と共に、兄弟詩人として有名であったが、殊に弟は兄まさりの麒麟児という名声が高く、詩華と号して、明星派(新詩社)に属し、平野万里氏等とともに明星をにぎわしていた。その頃萬朝報が、「靖国神社の桜」という題で都々逸を募集したことがあるが、この詩華氏の作が一等に選ばれて、沖縄の文学青年を、あっと驚かしたことがある。当時萬朝報の都々逸は有名なもので、これに選ばれるということは容易ならぬことであったから、詩華氏の作は、たちまちにして人口に膾炙したわけである。その都々逸というのは「心引かるる九段の桜、友の魂どの蕾」というのであった。私がこの句を忘れることが出来ないで、いつまでも覚えているのは、今から思えば何か因縁浅からぬものがあるような気がするのである。
(略)
一体に、首里の儀保の人は粋人が多く、「銭呉イヤーヤ亀川小、追ウテ喰エーヤ嘉数、暁戻ィヤ喜屋武ノ樽小」などというようなその道の代表的な人々も居り、また「儀保二才達ガ、三人揃リレバ尾類呼ビ話」というような俗謡もあるが、麦門冬氏はそういう所の人間とは思われぬ程の堅人で、絶対に女郎を買うということをせず、友人達は末吉寺ともじって「坊主」①とあだ名して言っている位であった。どことなく山寺の和尚といった風格があった。(略)上間正雄氏等と共に、タイムスの孤塁を守って、相変わらず息の長いいつまでも続く史的随筆で、紙面を飾っていたが、どこかで呑んで帰りに、ふらふらと通堂の桟橋あたりに出て、今度は海底の乙姫に招かれたらしく、遂に永遠に帰らなくなった。大正13年11月頃であった。弟は火に死し、兄は水に死ぬということは、何という不思議な運命であろう。弟が焼死したのは、東京の霜白き秋であったというが、兄が水死したのも、沖縄のミーニシ吹く冷い秋で、やはり何れも同じ秋であるのも奇しき因縁である。
①大正7年5月24日の熊楠宛書簡に莫門冬は「郷俗、男は145乃至る167才より娼妓を買ふて以て一人前の男子となりたりと誇る、而して初めて娼妓を買ふを初ズリ(娼妓をズリと称す)とし、其の先輩によりてこの洗礼を受くるを男子の職分でであるかのように如くす。小生などはツムヂ曲りにて、この洗礼を今に受くるの光栄を有せざるを以て、野暮視せられ、笑止に存じ候。」と記している。
1950年5月 雑誌『おきなわ』早野参造(奥武之島漁夫)「心の故郷」
1937年9月 『沖縄県人事録』沖縄朝日新聞社「早野参造」
1924年12月15日『沖縄タイムス』島袋盛敏「末吉安恭君を悼む」
2014年4月27日 黄金森公園