1987年2月 福地曠昭『少年護郷隊 スパイ遊撃隊による山中ゲリラ戦』沖縄時事出版
〇護郷隊(遊撃隊)の沿革・・・遊撃隊は護郷隊とも呼ばれ、大本営直轄の秘密部隊でゲリラ戦を任務としていた。実は、遊撃隊のはしりはニューギニアである。日本がそこで敗けたとき、現地のパプア族を基幹として第一遊撃隊をつくり、異例の武勲を立てた。住民の駆り出しに味をしめ、次にはフィリピンで敗退のとき、現地人をもって第二遊撃隊を編成した。スパイ教育で有名な陸軍中野学校では参謀本部軍事調査部という名でこういった特殊任務要員を養成していた。
 沖縄戦においても、大本営はこの遊撃隊を編成したのである。昭和19年9月9日、中野学校で特殊教育をうけていた陸軍大尉村上治夫ら幹部が、第三遊撃隊、第四遊撃隊を編成しに来島した。ニューギニア、フィリピンにつぐ編成順序である。軍司令部に着任申告が行われた。北部の山岳密林地帯で策動するため編成に着手した。遊撃隊は隠密部隊であるので、それをかくすためわざと「自分たちの郷里は自分たちで護れ。」といって「護郷隊」(郷里を護る)と名づけた。直ちに戦力化できる青年学校生を招集して部隊編成を行った。16歳から19歳までの青年たちが根こそぎ動員されることとなる。二段かいで編成された。

 〇 目取真俊ブログ「海鳴りの島から」2008-01-24 02:15:11 | 日本軍の住民虐殺 沖縄戦の歴史歪曲が右翼勢力によって進められている。「集団自決」(強制集団死)だけでなく、いずれ日本軍による住民虐殺に関しても、歪曲や隠蔽を行なってくるだろう(すでに一部では始められているが)。それを許さないためにも、改めて沖縄戦体験者の証言を読んでおきたい。具体的な事実を持って反論することが、何よりも大事だからである。
 私自身、生まれ育った村で起こった住民虐殺について、両親や祖父母から話を聞かされてきた。私の父や祖父も日本軍に命を狙われた体験を持っている。そういう地域で起こった事件に関しては、戦争体験者からの聞き取りを早急に進めなければ、と考えている。沖縄戦に関しては、膨大な資料を掲載したホームページやブログがいくつもある。今さらという感もあるが、まずは私自身が考えるための資料として整理し、まとめておきたい。
 最初に福地曠昭『少年護郷隊』(沖縄時事出版)より紹介したい。今帰仁村の宮城康二氏の証言を福地氏がまとめたものである。宮城氏は昭和二年十一月の生まれ。戦争中は沖縄島北部の山岳地帯でゲリラ戦を行った第一護郷隊に召集されていた。

1968年6月『護郷隊』護郷隊編纂委員会
〇上地一史「発刊に寄せて」/村上治夫「発刊のことば」/吉元栄真自由民主党副総裁「護郷隊を偲ぶー『陛下の為ならば』という合言葉で、花ならば蕾ともいうべき若人たちは、一途に国の人柱として立ち上がり、村上隊長と共に、秘密遊撃隊の戦士として、北部の山河を駆け廻ったのである」/松岡政保「世界恒久の平和を祈る」/村上治夫「護郷隊の沿革ー大東亜戦争の後半期において、陸軍中野学校は参謀本部の軍事調査部(別称東部第三十三部隊)といふ名で後方特殊勤務要員に当たっていた。昭和19年9月13日、長髪異様な将校が日航機で那覇空港に降り立つと軍司令部の薬丸参謀が迎えにきておられ早速、軍司令官牛島中将に着任の申告をした。司令官閣下は終始温顔に笑みをたたえられ『君たちはどういう任務で来たのかね?』と尋ねられたので、『ハッ敵が上陸して軍が玉砕した場合我々が最後まで頑張って敵の後方攪乱すると共に大本営といつも無線連絡を取って情報提供をします』と答えて傍らの軍参謀長長勇閣下に呵々大笑された事を想起します。その後、特務班(剣隊)の北大尉一行が到着した時も参謀長は『君たちも村上と同じように我々の骨を拾いに来たのかい』と冷やかされたとの事でした。早速直属の上官として主任の薬丸兼教(陸士48期示現流の達人)の指導を受けた。薬丸参謀は『君が陸軍中野学校で習得した事は大本営の戦争指導方針に基づくものであるから君の思う様に決戦場沖縄にて遊撃戦を展開し得る如く準備してくれ、軍は絶対の協力を惜しまない』と激励されて遊撃隊編成の構想に入った。」


1967年6月4日『潮流ジャーナル』小中陽太郎「<ルポ>沖縄の右翼たち」1967年3月29日、福地曠昭は路上で短刀を持った二人組に襲われた。短刀で刺され、全治2ヶ月の重傷。4月3日に犯人が逮捕された。犯人は「東亜友愛事業協同組合」沖縄支部(宜保俊夫支部長)のメンバー金城義雄(22)と野原林一(21)。「沖縄政治研究会」は東亜友愛事業協同組合のダミー組織.。

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前島にあった海勢頭豊氏の店で、左から新城栄徳、儀間比呂志氏、福地曠昭氏
〇儀間さんには『沖縄戦 朝鮮人軍夫と従軍慰安婦』1995年、福地さんには『哀号・朝鮮人の沖縄戦』月刊沖縄社1987年がある。



2006年6月 福地曠昭『つりと海ー今昔物語ー』那覇出版社

□福地曠昭 ふくち-ひろあき
1931- 昭和後期-平成時代の労働運動家。
昭和6年2月28日生まれ。昭和31年沖縄教職員会にはいり,祖国復帰運動に参加。43年屋良(やら)朝苗琉球主席の誕生につくす。平和・教育運動に活躍し,47年沖縄革新共闘会議事務局長,平成2年県教組委員長。沖縄県出身。青山学院大中退。著作に「村と戦争」「沖縄の混血児と母」など。→ウィキ

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福地曠昭の本

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国場幸太郎氏を囲んで
左から新城栄徳、国場幸太郎氏、後方左から鳥山淳氏、森宣雄氏、福地曠昭氏