国際ジャーナリスト、ジョン万次郎研究家 北代 淳二
北代 淳二(きただい じゅんじ)高知市生まれ。コロンビア大学大学院卒。東京放送(TBS)記者、 ワシントン特派員、ニューヨーク支局長、在米 TBS インターナショナル 社長等を経て、現在ジョン万次郎研究に従事。土佐史談会会員。2003 年、河田小龍の『漂巽紀略』 を永国淳哉氏と英訳し米国で出版。東京在住。


山本 一力(やまもと いちりき、本名:健一、1948年2月18日 - )は、日本の小説家。高知県高知市生まれ。東京都立世田谷工業高等学校電子科卒業。生家は高知市の大地主であったが没落、14歳の時に上京。通信機輸出会社、大手旅行会社(近畿日本ツーリスト)、コピーライターなど十数回の転職を経て、1997年に『蒼龍』でオール讀物新人賞を受賞してデビュー。2002年には『あかね空』で直木賞を受賞。他に『大川わたり』などの時代小説がある。バブル時代、借金を億単位で抱え込み、その返済のために小説を発表した。自転車愛好家で、外出時は一家で自転車を用いる。テレビのコメンテーターの活動も行っている。→ウィキ


江本 孟紀(えもと たけのり、1947年7月22日 - )は、高知県香美郡土佐山田町(現:香美市)生まれ、同県高知市出身の元プロ野球選手(投手)。現役引退後は野球解説者、野球評論家、政治家、タレント、俳優、実業家として活動している。元民主党高知県連顧問、元スポーツ平和党副代表、元参議院議員(2期)(スポーツ平和党→自由の会→フロムファイブ→民政党→民主党)。株式会社江本エンタープライズ代表取締役、政治団体「エモヤンサポーターズクラブ」代表、タイ王国ナショナルベースボールチーム総監督。→ウィキ


中濱京[ナカハマキョウ]
中濱万次郎(ジョン万次郎)直系5代目。1982年金城学院短期大学部国文科卒業後、富士通(株)名古屋支店入社。米国留学し、1992年オレゴン州レインコミュニティーカレッジ卒業。現在(株)富士通システムズ・ウエスト勤務。(財)ジョン万次郎ホイットフィールド記念国際草の根交流センター評議員。「ホイットフィールド・万次郎友好記念館」協力の会評議員。「土佐ジョン万会」名誉顧問。2009年ニューヨーク日本商工会議所より日米特別功労賞受賞。

和田達雄氏 撮影「雲」



2912年8月 撮影「彩雲」

2017年1月10日 上記の写真撮影場所から新城栄徳が撮影


1970年12月 沖縄エジソン商会へ半年出向で、右端が和田達雄氏


下の資料は真喜志康徳氏に中濱武彦氏が贈ったもの。

中濱武彦(なかはまたけひこ)
1940(昭和15)年4月、ジョン万次郎こと中濱万次郎の三男・慶三郎の孫として兵庫県西宮市に生まれる。神奈川県立鎌倉高校卒業後、東京ガス株式会社に奉職。ジョン万次郎の曾孫として、曾祖父について精緻に史料にあたるとともに、多くの関係者に直接取材を重ね、世界40ヵ国以上を訪れて「旅のエッセイ」を発表している。
マサチューセッツ州は、日本とのゆかりも深い場所です。古くは、幕末に活躍したジョン万次郎がボストン南部のフェアヘブンで生活しました。情緒的な指揮でボストン市民に愛された小澤征爾も、30年近くをボストン交響楽団で過ごしています。マサチューセッツ州は、アメリカ建国の歴史を色濃く残しています。イギリス本国の植民地政策に反発した人々が反旗を翻し、レキシントン・コンコードの戦いで独立戦争が勃発。そして、アメリカ合衆国発足へと歴史が動いていきます。
フェアヘブン
ボストンから約1時間南下したニューベッドフォード湾沿いにあり、かつては捕鯨船が行き交っていた港町。ここは日本とアメリカの架け橋となったジョン万次郎(中浜万次郎)ゆかりの地です。万次郎トレイルでは、彼の足跡をたどることができます。スタート地点となるミリセント図書館には、万次郎に関する書物や日本刀などのコレクションが展示されています。そのほか、万次郎とホイットフィールド船長が通った旧ユニタリアン教会、船長の家、万次郎が一時ホームステイしたイーベン・エイキンの家、英語を習ったアレン姉妹の家、ホイットフィールド家の墓、通った公立学校オールド・ストーン・スクール、航海術などを学んだ私立高等学院ルイス・バートレット・スクールなどを巡ります。船長の家は、2009年5月にホイットフィールド・万次郎友好記念館としてリニューアルしました
ミリセント図書館
ミリセント図書館の一番奥の左側にあるThe Rogers Roomは、ジョン=万次郎の部屋としても知られています。入り口を入ったすぐ左横にあるガラスケースには万次郎の写真や日本刀など(写真左)が収められています。実はこの刀には隠されたストーリーがあります。1918年に万次郎の長男・東一郎氏がフェアヘブンに刀を寄贈しました。この贈呈に際して、当時のウィルソンアメリカ大統領がロードアイランド州ニューポート軍港の司令官を式典に出席を依頼し、さらにマサチューセッツ州副知事が演説をするほどりっぱな贈呈式が行われました。この刀は日本との戦争中にも展示されるほど大事にされていましたが、1977年に盗難にあってしまいます。現在展示されているのは、その後Seton Hall 大学の菊岡博士によって盗難にあった刀の代わりとして寄贈されたものです。ロジャースルームには他にも万次郎ゆかりのものとして、フェアヘブンの画家・Arthur=Monizが描いた万次郎と恩師・ホイットフィールド船長の絵(下の写真参照。この絵は絵葉書にもなっています)や万次郎を救出したジョン=ハウランド号の絵などがあります。またここを訪れた日本人から送られた焼き物や日本人形などがいっぱい飾られています。


ホイットフィールド船長の家
ウイリアム・ホイットフィールド船長が、万次郎を歓迎して住ませた家。万次郎が、アメリカに住んだ最初の日本人ということになる。また、この出会いが、今日に見られる日米間の友好関係の基盤になっていると言えよう。





2006年11月 『宜野座通男全集 4巻』「琉球におけるジョン万次郎」