06/24: 1926年5月ー大冝味朝徳、埼玉で『沖縄及沖縄人』を創刊
1998年5月『沖縄の軌跡』第21号 編集発行人・島袋和幸(葛飾区四ツ木4-18-10 携帯090-4920-6952)
1926年5月ー『沖縄及沖縄人』<沖縄救済問題号>創刊号□埼玉公論社・埼玉県所沢町
□「沖縄及沖縄人の使命」・・・・・・・・・2-3
「より良き沖縄を建設せよ」・・伊波学人・13
○斯ふ云ふ見地からして、相互ひに同じ風俗習慣、生活を持っている人々が、それ自身の生活拡充のためにモンロー主義を主張すると共に各個人にあっては、自我の権威を飽迄認識すると共に、之が拡充せんことを乞ひ願ふのは自然である。人類がモンロー主義、自我への自覚のプロセスを辿り然してより自然な、より真実なる競争闘争する所謂生存競争が生ずることに依って不自然なものが倒れ、よりよい意味のものが創造され、成長するのである。人類の進歩向上は自覚するに 上の事実を要約したものを称するのである。
沖縄モンロー主義、沖縄スピリットの依って立つ処の基調なり概念は沖縄県人が、排他的、偏狭な立場を固執せんとするのでなくして、全日本をよりよくする前提として、先づ沖縄県に生まれたものは先づ、よりよき沖縄を作り、延て其気運を普遍化し他に及ぼさんとするに他ならぬのである。
「沖縄及沖縄人の発刊を祝す」・・渡口精鴻・・13-14
「貴族院議員・伊江男爵訪問記」、「京浜学生会近況」、「沖縄県の新聞界」、「郷土通信ー名護公園計画、警部合格者、海外発展の県人、矢作博士講演、阪神那覇直航、憲政支部活動、東宮記念碑、沖縄青年同盟」、「在京県人動静」、「発刊に至る迄」、「京浜沖縄県人名簿」、「読者の叫び」、「編集後記」
○同誌は沖縄朝日新聞東京支局長の小那覇三郎も事業部主任として参加。同年6月号には山田真山の弟子真帆による「山田真山画伯出世物語」、「東京美術骨董界の重鎮」として三槐堂上運天令儀が紹介されている。のちにハワイ・ホノルルに在住する幸地朝則は一時、母の妹の夫が経営する三槐堂につとめていて、この頃のことを崎原貢『がじまるの集いー沖縄系ハワイ移民先達の話集』で述べている。
1926年6月『沖縄及沖縄人』埼玉公論社(大宜味朝徳)
1926年『沖縄及沖縄人』7月号
『沖縄及沖縄人』9月号
沖縄救済より新郷土文化の建設へ・・・・・・・・3
十人十色・・・・・・・・・・・・渡口精鴻・・・・・・4-5
沖縄救済問題概論・・・・伊元富爾・・・・19-23
早老亡国論・・・・・・・・・・徳山浩一・・・・6-8
関西に於ける県人と事業へ・・・・・・・・・・12-13
琉球史概観・・・・・・・・東恩納寛惇・・・・・・・9-11
野島
郷土思慕と先輩に就て・・・宮里定顕・・・・・5-6
東京球陽倶楽部生る・・・・・・・・・・23-24
県内外事情・・・・・・・・・・・・・・・・・・・16-18
他府県事情・・・・・・・・・・・・・・・・・15-16
在京県人名簿(二)・・・・・・・・・・・・・28-29
『沖縄及沖縄人』12月号
1927年1月 『沖縄及沖縄人』埼玉公論社(大宜味朝徳)
1932年1月ー大宜味朝徳『最近の秘露事情』東京・海外研究所
1933年『南島』(第一号、2,3,4,6,7,8号)/1934年『南島』(第9号、10,11,13,14号)
1934年1月1日『南島』弟9号 石川正通「比嘉俊成を語る 琉友素描・その1」
(略)潤一郎対春夫の諸相は不思議にも俊成対正通のそれに似通って居る。幸田露伴の如き老大家はさておき、今の文壇の中堅大家のうちで最も漢学の素養の深いのは志賀直哉、谷崎潤一郎、佐藤春夫の3人である。死んだ芥川龍之介も死んだ末吉麦門冬のやうによく漢文が読めた。沖縄には真境名図書館長や京都の崎山先生のやうな漢学の大家が居られる。
1934年8月1日『南島』弟13号 石川正通「友の首途を祝して故郷を語る=武元朝朗・国吉休微 両君を叱咤する=」
朝朗君、休微君 御互に鉄砲丸の様に御無沙汰を続けて居たね、不精は吾々にとっては遺伝なんだからせいぜい筆不精の限りを尽して居る事が先祖に忠なる所以かも知れない。(略)最近出た某書店の百科辞典を引いて見たが、おもろ、蔡温、程順則、尚泰侯等も出て居ない。澤田正二郎、田健次郎等は写真まで出て居る。土田杏村が第二の萬葉集と言った『おもろ』も国語国文学校の士にすら全般的に知れ亘って居ない。沖縄はまだまだ紹介しなければならない、風物も文化も県人が思って居るほど知られていない、いい気になっては駄目だ、それにつけても人物の欲しさよ。君達は君達の方面で第一人者に成ってくれ、自愛自重せよ、頼む。
1933年8月ー大宜味朝徳『我が統治地南洋群島案内』東京・海外研究所
1937年ー大宜味朝徳『現代沖縄県人名鑑』東京・海外研究所
12月ー大宜味朝徳『海外人事録』東京・海外研究所
1938年
8月ー大宜味朝徳『沖縄振興と精神作興』南島社
左から 仲宗根源和、大宜味朝徳、兼次佐一、瀬長亀次郎
1954年
4月ー大宜味朝徳『琉球案内』沖縄興信所
1963年
7月ー大宜味朝徳『目で見る琉球写真案内』沖縄興信所
1993年11月30日『琉球新報』「幻の南洋朝日新聞見つかる」
2004年6月 比嘉康文『「沖縄独立」の系譜ー琉球国を夢見た6人』琉球新報社
○新聞広告で立候補者を募集した大宜味朝徳ー・・・大宜味朝徳は1897(明治30)年5月18日、美里村泡瀬(現・沖縄市泡瀬)に生まれた。県立農林学校を卒業したあと、応召して近衛師団に入隊。除隊後、『京浜日報』誌の記者をしたあと『埼玉公論』の社長となる。1929(昭和4)年に友人の妹である国吉つる子と結婚。つる子は那覇で生まれ、天妃尋常高等小学校を卒業したあと上京する。東京・深川にあった中村高等女学校の夜間部を中退するまで、働きながら勉学を続けている。在学中に詩や短歌などを通して多くの友人を得る。その友だちの一人に作家の壺井栄がおり、後につる子の商売を助けることになる。結婚後、大宜味は沖縄県出身者の移民問題に情熱を燃やして「海外研究所」を設立、ハワイやペルー、南洋諸島、フィリピンなどを訪ねて、海外移住者の実態を調査する。自らの調査をもとに海外事情について雑誌で発表したり、日本各地をまわって演説会を開くなどして移民を奨励した。当時、移民地を担当する拓務省からわずかばかりの補助金を得ていたようだが、海外に出て行ったあとの生活費は、つる子自ら稼ぎ出さなければならなかった。しかも幼い子どもを抱えては就職することもできない。那覇で反物商売をしていた母親から琉球絣などを送ってもらい、友人の壺井栄をはじめ壺井の文学仲間の佐多稲子や(宮本百合子)、宇野重吉ら芸能人に販売し、生活を支えてきた。この商売は戦後も続けられた。つる子は1978(昭和53)年9月16日、ガンで亡くなる。その日はちょうど78歳の誕生日でもあった。
みやもとゆりこ【宮本百合子】 1899‐1951(明治32‐昭和26)
小説家。東京生れ。大正期の著名な建築家中条精一郎の娘。本名ユリ。日本女子大予科のとき《白樺》派風の人道主義的な中編《貧しき人々の群》(1916)を発表,天才少女として知られた。1918年からのアメリカ留学中,日本人で中年の古代イラン語学者と結婚,以来4年にわたる不幸な結婚生活を描いた長編《伸子》(1928)は近代日本文学の第一級の作品である。自由な人間の手ごたえを求めて,めげずに現実に立ち向かってゆき,それを切りぬけた場所でその全体験を自己に即してつぶさに描く,というのが特色で,それは戦後の《播州平野》(1947),《道標》(1950)等の主要作にも一貫している。(→コトバンク)
下ー沖縄県庁の紀念版「起工 大正7年4月7日 定礎 大正7年8月5日」「沖縄県知事従四位勲四等 鈴木邦義/沖縄県内部部長正五位勲五等 和田潤/沖縄県技師 正六位 品川圭介/沖縄県庁舎建築工事顧問 中條精一郎/沖縄県庁舎建築工事技手 樋口敏彦/沖縄県舎建築工事技手 大西禎治」
1944年の宮本百合子の日記
10月19日(木曜) 大宜味(つる子)さんをよぶ。金、土、日、ひまがなさそう故。声は大して変わっていなかったが、玄関を入って来るのを見て、目が大きくなるようだった。7月にパラオを出て三ヶ月の間経た辛苦がまざまざと、その色の黒みにも、やせかたにもあらわれている。神戸の南洋庁でくれたというモンペの上下着ている。三ヶ月の間の苦労は言語に絶したものらしい。(略)10日にやっと東京に来て、早々沖縄のナハが焦土となったニュースを得たのだから気の毒・・・。
1965年5月 沖縄興信所(代表・大宜味朝徳)『琉球紳士録』「本土在住琉球紳士録」
写真ー比嘉良篤
写真左からー下地玄信、中田匤彦
写真左から崎山喜昌、下地玄信、高嶺明達/陳而松、津波実良、比嘉正子/山城得次、前里宗恭、森松長光
写真左から宮島肇、新崎盛敏、大浜信泉/石川正通、宮城栄昌、一泉知永①/外間寛、安良城盛昭、島茂彦
① 明治大学名誉教授の一泉知永(いちいずみ・ちえい)さんが15日午後5時34分、肺炎のため東京都内の病院で死去した。81歳。那覇市出身。自宅は東京都杉並区和泉2-27-8。通夜は19日午後6時から、告別式は20日午前11時から杉並区永福1-8-1の築地本願寺和田堀廟所で。喪主は妻知榮子(ちえこ)さん。
一泉さんは1923年、那覇市泉崎の生まれ。41年に県立二中、49年に明治大学を卒業し、証券会社勤務を経て、53年に同大助手となり、研究者の道を歩んできた。専門は金融論と文化史で、著書に「証券市場論」「金融論」などがある。近年は沖縄方言や日本語の語源にも関心を広げていた。→2005年1月17日『琉球新報』
写真左から沢村美司子、嘉手納清美、堀川真智子/伊東ゆかり、大空真弓、金井喜久子/島晴美、川田礼子、仲宗根美樹
写真左から外間盛安、仲嶺真助、安里貞雄/知念精吉、具志保男、天願保永/津嘉山朝吉、儀間真福、新里与旌
大空真弓と歌手の仲宗根美樹は父兄弟の娘であり、いとこの関係に当たる。また、同じ東洋音楽学校出身である。父の出生名は國場功三であったが、中田家に養子に入ったため、中田匡彦と改名した.→ウィキペディア
2015年9月『月刊琉球』新城栄徳「大宜味朝徳と『沖縄及沖縄人』」
2015年9月『月刊琉球』 <500円+消費税> Ryukyu企画〒901-2226 宜野湾市嘉数4-17-16 ☎098-943-6945 FAX098-943-6947□『月刊琉球』はジュンク堂那覇店でもバックナンバーで揃っています。