写真左が山城善光氏、新城栄徳
1930年 県立二中『みどり』山城善光「思ひ出の帰省」「太郎」
1938年6月 山城善光『球陽ー百人百言集』大阪球陽新報社
1975年10月 山城善光『山原の火ー昭和初期農民闘争の記録』沖縄タイムス社
1978年12月 山城善光『火の葬送曲ー続・山原の火』

山城善光氏が死去/「山原の火」著す( 2000年4月1日 『琉球新報』 )

戦前の民主化や財政経費節減などを求めた大宜味村政革新農民運動でリーダーとして活躍し、同運動を記録した著書「山原の火」で知られる元立法院議員の山城善光(やましろ・ぜんこう)氏が31日午前3時20分、肺がんのため、浦添市の病院で死去、89歳。大宜味村出身。自宅は那覇市首里寒川町一ノ23。告別式は1日午後3時から4時、那覇市首里寒川町一ノ二、安国寺で。喪主は妻初枝(はつえ)さん。

大宜味村喜如嘉出身。県立第二中学校を卒業後、大阪球陽新報記者などを経て、沖縄協会職員、沖縄人連盟東京総本部事務局次長を務めて帰省した。政治運動に身を投じ、農民運動のリーダーの一人。その後、沖縄民主同盟・沖縄社会大衆党の創設に尽力した。1958年立法院議員に初当選、一期務めた。復帰後は出身の大宜味村の地域活性化に貢献。立法院議員を経て、レストラン経営に転じ、村に古くから伝わる精霊ブナガヤ(キジムナー)に熱中し、「ブナガヤ実在証言集」を82年に出版した。

null
沖縄民主同盟機関紙『自由沖縄』(編集発行人・山城善光)山城は東京の沖縄人聯盟の機関紙『自由沖縄』の元編集発行人。


2003年3月5日 『沖縄タイムス』「魚眼レンズー同名でも違った機関紙」
1945年、仲宗根源和は米国海軍及び政府諮詢会委員社会事業部長を経て47年6月、沖縄最初の政党「沖縄民主同盟」を石川市宮森小学校で旗揚げした。委員長に源和、総務部長が桑江朝幸、組織部長が山城善光、青年部長・上原信夫であった。ほかに同志として平良辰夫、桃原茂太、當間重剛などがいた。48年4月、東京から持ち帰った謄写版印刷で機関紙「自由沖縄」を発行。6月、「自由沖縄」が布令違反だとし編集発行人の山城善光や桑江朝幸が逮捕され23日間も知念署留置場に入れられた。沖縄民主同盟は弾圧され、野に下った源和は高良一の『琉球新聞』、仲宗根仙三郎の『沖縄日報』の相談役として政治評論を書いている。







 最近、友人、知人から真栄田一郎の墓について問い合わせがあった。早速泊の遺族宅を訪ねたら喪中であった。5月5日に再度訪ねると亡くなられたのは真栄田昇(2005年10月没)の夫人・幸子(2011年3月没)さんであった。墓は浦添の霊園にあるというから一郎もそこに入っていると思う。勝朗の子孫は大阪にも居る。



 1937年7月に真栄田勝朗が従兄弟の真栄田三益のアドバイスで準沖縄県人会機関紙『大阪球陽新報』を発行。8月には在京の親泊康永が東京支局長を引き受ける。真栄田勝朗と真栄田三益は共に久米村の林氏、北京で抗議の自決をした林世功の一族である。勝朗の妹は伊波普猷の冬子夫人である。だから伊波も『大阪球陽新報』に執筆している。



安里成忠(1912年~1933年)
\
1988年11月 国吉真哲・編『安里成忠のこと』嘉数能智・発行/写真ー安里成忠


『沖縄タイムス』 2017年6月14日 「こんな世に生まれたことが悪かった」 歌う自由、大伯父への思い 【心縛「共謀罪」と沖縄戦・1】
 5月下旬、那覇市安里のライブハウス。激しいビートに安里成文さん(39)=大阪市=が熱唱する。「ワッツーシゾンビ」のボーカル。「2000年代半ばから大阪で新しい音楽をやるバンドとして活動してきた」。本番前のもの静かな横顔。大伯父・安里成忠とどこか重なる。

ステージで熱唱する安里成文さん(左)=那覇市、G-Shelter(ジーシェルター)
安里成忠 「安里成忠のこと」サイト琉文21より 
 成忠は20歳で死亡した。1931年の沖縄教育労働者組合(OIL)事件で治安維持法違反に問われ、拷問を受けた末のことだ。奈良で生まれ育つ理由となった大伯父の存在。「僕は大伯父を尊敬しています」。まっすぐに受け止める。
  ■      ■
 OIL弾圧直前。世界恐慌による砂糖価格暴落で沖縄は「ソテツ地獄」と呼ばれた大不況に苦しんだ。子どもの身売り、出稼ぎ。学校は長欠児童が続出した。青年や教師は社会運動で社会を変えようと試みた。
 25年の治安維持法成立以降、社会運動の弾圧が激化。OILは31年1月に結成、その1カ月後には指導者真栄田一郎、成忠ら4人が逮捕された。警官が剣道の防具を着て何度も体当たりする凄惨(せいさん)な拷問。成忠も真栄田も精神に変調を来し家に戻され死亡した。
 いとこがまとめた冊子『安里成忠のこと』。生前の姿を伝える。旧真和志村壺川の2間の家。座敷牢で成忠は砂利と小石を並べていた。「クングトウル(こんな)世の中に生まれあわしたことが悪かったのでしょう」。父親は多くを語らなかった。「水ぶくれした白い顔、15、16歳の子ども」のような成忠。傍らに目の不自由な弟がいたと記録する。成文さんの祖父だ。
  ■      ■
 奈良で珍しい安里姓を名乗る祖父は鍼灸(しんきゅう)師だった。「不自由な体で家族に手紙も残さず、沖縄を出たと聞いた」。家族の間でそれ以上話題にすることはなかった。成文さんが祖父の来し方を知ったのは中学生のころ。押し入れの箱から成忠の冊子を見つけた。母を早く亡くし、弟の面倒を見る優しい兄。体が弱かったが情熱家で勉強熱心だった成忠の姿がつづられていた。
 事件当時、祖父は18歳。私立沖縄盲学校を卒業後、那覇市の旅館で鍼灸の仕事をしていた。「共産党員の弟だ」。指弾が相次いだ。「世間の眼はものすごく冷たかった」。祖父は1人沖縄を後にした。
 記憶の中の祖父は自由な人。「ええのん、聞いとるな」。孫の聴く音楽にも興味を示した。沖縄民謡を愛し、バイオリンを弾き、ビートルズを口ずさんだ。なにげない日常を大切にした。成文さんも心のままに歌い、自身の音楽を追求する。「大伯父は命懸けで信念をつらぬいた」。成忠が闘った自由を思う。(編集委員・謝花直美)
  ◇      ◇
 国会で審議中の「共謀罪」。戦前の治安維持法同様だとして警鐘がならされる。戦前の社会は、同法で心を縛られ、自由を失い戦争へ突き進んだ。連載「心縛(しんばく)」は沖縄戦と現在を結び、私たちの社会の危機を考える。